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- 2018年
07月03日
19:52
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詩について言うならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。現実に対する関係の、特別な方法なのだ。
その場合詩は、生涯人を導く哲学になる。アレクサンドル・グリーンのような芸術家たちの運命や性格のことを思い出してほしい。グリーンは飢えで死にかけていたとき、自家製の弓を手にして山にはいり、野獣を射ようとした。この場合を、この人間が生きていた時代のことを考えてみれば、こうした態度は夢想家の悲劇的相貌をあきらかにするだろう。
ヴァン・ゴッホの運命はどうだろうか。
プリーシュヴィンのことを思い出してほしい。彼の相貌は、深い愛とともに彼が描いたロシアの自然の姿のなかに現れている。
マンデリシュタームのことを思い出してほしい。パステルナークを、チャップリンを、ドヴジェンコを、溝口のことを思い出してほしい。()
このような芸術家は、存在の詩的構造を理解することができる。彼は、人生の微妙な連関と人生の深いところで起こっていることの本質的意味を伝えるために、あるいは、その深みの複雑な様と真理を伝えるために、直線的論理から逸脱することができる。 30-1
アンドレイ・タルコフスキーの時間はとんでもない。テオ・アンゲロプロスのそれが水平に延び拡がるのに対し、タルコフスキーの時間は垂直的に突貫する。この両者がつくる画域の内側に、残る全映画の時間は包摂される。それが二十歳の頃までに描かれた内なる映画史の見取り図で、それから数年のち映画からぼくは遠ざかる。
だからこの見取り図は、その後ふたたび集中的に映画を観るようになったこの数年にも変わらず残っているし、おおむね見当違いではなかったと今でも思える。それゆえ期せずして5年前に始まり、徐々に深まった今の映画鑑賞集中期にもそろそろ一区切りが必要かなと予感しだしたこのタイミングで本書を読み通せたことは、とても幸運というしかない。アンドレイ・タルコフスキー著、『映像のポエジア―刻印された時間』(鴻英良訳,キネマ旬報社,1988)。本稿はその読書メモであり、同書からの引用文を主体とする。
映画における作家の作業の本質は、いったいどこにあるのだろうか。その作業の本質は、時間の彫刻と定義することができるだろう。彫刻家が大理石の塊を取上げ、未来の作品の輪郭を内部に感じながら、余分なものをすべて削り落していくように、映画人は、まだ分割されていない巨大な生きた事実の集積を包括する<時間の塊>から、余計なものをすべて削り取り、捨て去ることで、未来の映画の要素となるはずのもの、映画的イメージの構成体として現れてくるはずのものだけを残すのである。 91
"Андрей Рублёв""Andrei Rublev"[1966]
『アンドレイ・ルブリョフ』で扱ったのは、この問題だった。一見すると、ルブリョフの観察した人生の残酷な真実と、彼の作品の調和のとれた理想は、激しい矛盾をきたしているように思われる。しかし問題の本質は、もっとも激しく血を流しているその時代の潰瘍に触れ、自分自身のなかにある潰瘍を除去することなくして、芸術家は時代の精神的理想を表現することはできないということだ。高次の精神的活動のために、冷酷な<低次>の真実を完全に自覚して、それを克服することにこそ、芸術の使命がある。芸術は、本質的にほとんど宗教的であり、高い精神的な義務にたいする神聖な自覚を求めるものだ。
精神性の欠如した芸術は、それ固有の悲劇を抱え込んでいる。芸術家の生きている時代に精神性が欠如しているということを確認するためにも、ある精神的高みに立つことが芸術家には要求される。真の芸術家は、つねに不死に仕えている。そして世界とその世界に住む人間を不朽のものにしようとするのである。特殊な目的のために普遍的な目的を軽視し、絶対的真理を追求しようとしない芸術家は、せいぜい一時的な寵児になれるだけだ。 250-1
ドストエフスキーは語っている。「創作は人生やその他を反映しなければならないと言われている。これはまったくばかげたことだ。作家(詩人)自身が、彼以前には完全な姿で存在することがなかった人生を創造するのである。」……芸術家の構想は、芸術家の<自我>のどこかもっとも秘められた奥底で生まれる。芸術家の構想は、外的、<実務的>考えなどによって示唆されたりはしない。()映画や文学を職業としながら、芸術家にはなれず、他人の着想の実現者のようなものにとどまることは十分にありうるのだ。
真に芸術的な構想は、芸術家にとってつねに苦悩に満ちたものであり、ほとんど生命にかかわるほど危険である。そしてこのような構想を実現することは、人生上の決断とのみ比肩しうる。芸術にたずさわる者すべてにとって、事態はつねにこうなのだ。 280
本書はタルコフスキーの主に後半生における雑文集成の体裁をとり、社会批判を含む総合的な芸術論から個別具体的な創作論や映画論まで言及は多岐にわたる。とくに実例や固有名を豊富に挙げつつ語られる映画論は各々に興味深かったが、ここでは数箇所のみの引用に留める。イオセリアーニやアントニオーニへの言及が幾度も為されるのが印象的だった。イオセリアーニについては、映画監督へのインタビュー仕事を始めたごく初期に、ほとんど過去作も踏まえず準備も不十分な状態で取材に臨んで逆に突っ込まれるという個人的な黒歴史にも紐付くだけに、読んでいてグサグサ刺さった。ぼくのインタビューは彼の言及の深さに何ひとつ、かすりもしていない。
イオセリアーニにとって詩的なものは、似非ロマン主義的人生観をひけらかすために考えだしたもののなかにではなく、彼が愛するもののなかに具体化されているということなのである。 223
それはともかく、本書の引用メモ制作に時間をかけようと思ったのは、そうした映画論のパートではなく、より広範な芸術論、文明論のほうに感銘を受けたからだった。となれば宗教が主題化するのは当然の流れと言えるし、時代は異なれどドストエフスキーこそ最良の伴侶だったとしても不思議はない。
音楽は、映画の視覚的なながれのなかで使われている素材が、観客の知覚のなかで、必要な程度、デフォルメされなければならないような場合に使われるかもしれない。()もし音楽が正確に利用されているならば、フィルムに撮られた断片の色彩全体を情緒的に変え、映画の構想のなかで、映像との統一を獲得することができる。そしてもし音楽をあるエピソードから完全に取り去ったとしても、エピソードはその理念自体においては、その印象が薄まることはないが、質的には違ったものになるのである。 ()
アルテミエフはきわめて複雑な方法で必要な響きを手に入れた。電子音楽は、世界の有機的響きとして知覚される可能性を手に入れるために、その<化学的な>素性から純化されなければならない。 233-4
モンタージュしなければならないのは、時間の継続性、つまりカメラが記録したその存在の強度だけなのであって、思弁的な象徴でも、具象的絵画の持つ現実性でも、多かれ少なかれ優雅に配置された舞台上の有機的コンポジションでもない。そしてまたモンタージュしなければならないのは、それを接合することにより、映画理論のなかでよく知られているかの<第三の意味>が生まれてくるという、ふたつの一義的な概念ではなく、ショットのなかに記録されている、知覚された人生の多様性のほうなのである。 179
観察は正確で具体的であるほど、それだけユニークなものになる、反復不可能なものであればあるほど、それだけイメージに近づく。人生はどんな虚構よりも幻想的だということについて、ドストエフスキーはかつて実に正確に語った!
観察は映画的映像の最も重要な基礎である。()映画的映像を創造するためには、自然主義的な事実の固定だけではまったく不十分なのである。映画における映画的映像は、<観察>のかなたに、対象にたいする独特の感覚を提示する。 161
雰囲気は、作家が解決しようとしている課題から生まれ、主要なテーマに随伴して生じるものである。この中心課題がより正確に表現されていれば、出来事の意味はそれだけはっきりするし、出来事のまわりに生ずる雰囲気も、意味のあるものとなる。この主調音にたいして、物や風景や俳優の音調が共鳴しはじめるのである。すべてが相互に結びつき、必要不可欠なものとなる。()最も重要なものに集中しようとした『ストーカー』の場合、結果として現れてきた雰囲気は、私が以前に撮った他のどの映画よりも、はるかに能動的で、情緒的に感染力のあるもののように思われた。 288
真に創造的な共同作業において、単なる技術的な問題はいわばおのずと存在することをやめる。カメラマンも美術担当も、彼らのできることや要求されたことを遂行するだけでなく、自分たちの職業的能力の上限をそのたびに少しずつ持ち上げていき、できること、つまりどうすべきか知っていることだけではなく、必要と思われることをしたのである。()ただこのような状態においてのみ、このセットの壁には人間の魂が息づいているということを観客に疑わせないような真実性、信憑性を獲得することができる。 205-6
"Сталкер""Stalker"[1979] https://twitter.com/pherim/status/1249807714122747904
『ストーカー』において、おそらくはじめて私は、人間がそれによって生き、彼の魂がそれ故に乾かないでいられると言われる、そうした重要でポイジティヴな価値を、両義的でなく明確に示したいという欲求を感じた。
……『惑星ソラリス』は、<宇宙>のなかに取り残され、望むと望まざるとにかかわらず、さらに次の段階の知識の断片を手に入れ、理解することを余儀なくされている人々についての話である。()実際、究極の真理は到達することが不可能なのだ。そればかりか、人間にはさらに良心というものが与えられていて、彼の行動が道徳律に従わないとき、彼を苦しめる。つまりある意味で良心の存在も悲劇的なのである。()それは夢想のなかに、人間を生みだした地球と人間を、永遠に結びつけている根を自覚できるかどうかということのなかにあった。しかしこの結びつきすらも、実際は彼らにとってすでに非現実的なものになっていたのだ。
移ろいゆくことのない、深い、永遠の人間の感情を問題にした『鏡』においてさえも、こうした感情は、なぜこうした感情のために自分が永遠に苦しまねばならないのか、なぜ愛情や愛着のために苦しまねばならないのか、ということを理解できない主人公にとって、不可解な、当惑させるものとなっていた。『ストーカー』で私は、人間の愛こそが世界に希望はないとする無味乾燥な理論家に対抗できる奇跡であるということを、はっきり、率直に語っているのだ。この感情は、われわれにとって普遍的な、そして疑いもなく肯定的な価値なのである。愛することをわれわれは忘れてしまったけれども。
『ストーカー』の作家は、必然性の世界のなかで生きていくのはなんと退屈なことかと語っている。()しかし彼を本当に驚かせたのは、ただの女性だった。彼女の誠実さと尊厳の力に驚かされるのだ。だとすれば、すべてが論理に従属しているということはできなくなるのではないか。すべてを構成要素に分割し、計算することができると考えることはできなくなるのではないか。
この映画において私に重要だったのは、それぞれの人の魂のなかに結晶化されていて、その価値を構成している、溶かすことも、分解することもできない人間独自のものを取り出して示すことだった。()もっとも重要なものが、自分のなかにあるという感覚。そしてこの重要なものは、ひとりひとりの人間のなかに息づいている。
それゆえ、『ストーカー』においても『惑星ソラリス』においても、私をひきつけたのは空想的な状況ではない。()ロケットや宇宙ステーションはレムの小説が要求していたものであり、それらを作るのは確かに面白かった。しかしいまではこうしたものをすべて避けることができたならば、映画の思想は、より明確にされただろうと考えている。芸術家が自分の世界観を表現するために使う現実は、トートロジーを許してもらうならば、現実的でなければならない。()
()ゾーンは私の映画のあらゆるものと同じように、なにも象徴していない。ゾーンはゾーンだ。ゾーンは人生だ。そこを通る途中で、挫折するものもいれば、なんとか持ちこたえる者もいる。人間が持ちこたえられるかどうかは、重要なものと過渡的なものを区別する能力と人間としての尊厳に依存している。
私の義務は、ひとりひとりの人間の魂のなかに生きている独得の人間的で永遠なるものについて考えさせることだと私は考えている。しかし、人間の運命は人間の手のなかにあるにもかかわらず、この永遠なるもの、重要なものは、たいていの場合、人間にとって無視されている。()この要素はここの人間の魂のなかで成長し、人間の生活に価値を与えることができる、人生の至高の立場に至るのである。私の義務は、映画を見るものに、自分のなかにある、愛する欲求、愛をささげる欲求を感じさせ、美の呼び声を感じさせることだと考えている。 290-3
『惑星ソラリス』(1972年)、『鏡』(1975年)、『ストーカー』(1979年)とタルコフスキー中期のフィルモグラフィーを形成する三作品を、新文芸坐のオールナイト企画でもう十年以上前、たしかこのままの順番で観たことがある。『鏡』はそのときが初見で、タルコフスキーの作としてもあまりにも多くの謎に満ちていて驚いた。だがこうして振り返ると、『惑星ソラリス』から『ストーカー』を経て後期傑作『サクリファイス』(1986年)へと至る深化の過程で、『鏡』が決定的に重要な結節点をなすことが理解できる。おそらく十年前はそのように観る視点が自分になかった。
ちなみに『惑星ソラリス』までタルコフスキーのすべての作品を撮ったワジーム・ユーソフは、つづく『鏡』の撮影を、そのあまりに自伝的な内容を「倫理的に不快」と感じ断ったが、完成後「とても残念だがアンドレイ、これはきみのもっともいい映画だよ」(202)と語ったという。
私は外的な動きや、陰謀、事件の構成には興味をそそられたことはなかった。()人間の心理、その心理を育む哲学、人間の精神的な基盤の支えになっている文学的、文化的な伝統の内部への旅を行うことのほうが、私には遙かに自然なことであった。()外的効果はただ私が実現しようとしている目的を遠ざけ、曖昧にする。私の関心を引きつけるのは、<宇宙>を内包している人間である。理念、人間の生活の意味を表現するために、この理念にある事件のカンバスを備る必要はまったくない。 303
精神性の欠如した芸術は、それ固有の悲劇を抱え込んでいる。芸術家の生きている時代に精神性が欠如しているということを確認するためにも、ある精神的高みに立つことが芸術家には要求される。真の芸術家は不死に仕えている。そして世界とその世界に住む人間を不朽のものにしようとするのである。特殊な目的のために普遍的な目的を軽視し、絶対的真理を追究しようとしない芸術家は、せいぜい一時的な寵児になれるだけだ。 250-1
私はゴルチャコーフと同じように、<最高の意思>に従ったのである。()詩的な光景は、具体化されることで、また獲得された真理は物質化されることで、理解できるものになるのだということを疑うことはできない。()もちろん、このような真理を身につけてしまった人間は、受身のままでいることはできない。()人間はある意味でふたつに分けられ、もう一方にたいする責任を感じているのである。彼は、別の者たちのために生き、別の者たちに影響を与えなければならない道具であり、媒体である。この意味で、詩人は自分の意思とかかわりなく、予言者であると考えていたプーシキンは正しかった(私も自分のことをつねに、映画人であるよりも、むしろ詩人であると考えてきた)。時間を覗きこみ、未来を予言する能力を、プーシキンは恐ろしい贈物と考え、彼に与えられた役割のために、信じがたいほど苦しんでいた。 327-8
"Солярис""Solaris"[1972]
場所――クリミヤ、浜辺、玉石。
私「あなたの考えはどうです。神は存在しますか、しませんか。」
(三分ほどの間)
ランダウ(たよりなげに私を見ながら)
「存在する、と思う。」
私がランダウを見たのは、これが最初で最後だった。偶然の出会い。これが、ソヴィエトのノーベル賞受賞者(※pherim注:1962年ノーベル物理学賞)の率直な告白の唯一の理由であろう。
あからさまな事実が、迫りくる黙示録的静寂について語っている。こうしたあらゆる徴候にもかかわらず、人間が生き長らえると期待することができるだろうか。この問いに、おそらく生命の水を失い涸渇した木の苦悩についての古代の伝説が答えるだろう。私は私の創造活動のなかで、私にとってもっとも重要な映画の基礎に、この伝説を置いた。修行僧が、一歩一歩バケツで山に水を運び、そして枯れた木に水を注いだ。自分の行動の必要性を疑うことも、創造者への自分の信仰が奇跡を起こすであろうという信仰を手離すこともなかった。それゆえに彼は奇跡を体験したのだ。ある朝、木の枝が蘇り、若葉でおおわれていた。だが、はたしてこれは奇跡だろうか。これは真理である。 339-340
イメージの連鎖が生む系統樹の豊穣、その枝葉の一振りとしての、
木を蘇らせる修行僧→『サクリファイス』冒頭部→士郎正宗→押井守:
https://twitter.com/pherim/status/850216862243635200
すでにドストエフスキーは、他人の幸福のためにみずから責任を身に引き受けようとする<大審問官>には注意しなければならないと、人々に警告していた。()<少数者>は、たえず自分自身の思想を放棄しなければならなかった()<進歩>のためのダイナミックで外的な動きという諸条件のなかで、人間は未来と人類を救おうとはするが、自分の具体的なもの、個人的なもの、本質的なものを忘れてしまった。全体的努力のなかに溶け込むことで、人間は自分の具体的で精神的な属性の重要性を誤解するようになってしまったのである。この進歩の結果、個人と社会の葛藤はいよいよ絶望的なものとなっていった。万人の利益については懸念するが、自分自身の利益について、「汝の隣人を自分自身のように愛せよ」とキリストが説いたような意味では、だれも考えてみようとはしなくなった。このキリストのことばは、みずからのなかの超個人的な神性の原理を敬うようにして、自らを愛せということを言っているのである。この原理が、自分の個人的で貪欲で利己的な利益に逃げ込むことを許さないのであり、小才をふりまわしたり、理屈を言ったりせず、他人を愛し、自らを他人に委ねるように命ずるのだ。このために必要不可欠なのは、真の尊厳の感情である。つまり私の<自我>は地上の中心となることで、客観的な意義と価値を所有するのだが、そのことで、ある精神的水準に到達しようとし、なによりも自己中心的な意図をもたない精神的な完全さへ至ろうとするのだという真理を自覚することが必要不可欠なのである。自分自身への関心、自分個人の魂を求める戦いは、人間に大きな決断力と多くの努力を要求する。道徳的、精神的意味で、人間は下降することのほうが、自分自身の実用的で自己中心的な関心より、ほんのちょっとでも上をいくことより、はるかに容易である。真に精神的に誕生するためには、巨大な内的努力が要求される。それに、人間は容易に<人間の魂の釣り人>の竿にかかってしまう――自分の個人的な道を、たとえばより普遍的で、高貴な課題のために拒絶し、なにかある目的のために彼にあたえられた自分と自分の命を、実際には、裏切っているのだということを自覚することもない。
人々の相互関係は、自分自身にはなにも要求せず、道徳的努力からも解放されようとしているくせに、自分の要求のすべてを他の人々、人類そのものに押しつけるという形で形成された。()この根源的な前提ゆえに、個人と社会のあいだの葛藤は、いよいよ絶望的なものとなり、個人と人類とを隔絶する壁が成長していくのだ。 345-7
"Зеркало""The Mirror"[1975]
マルクスとエンゲルスは、あるところで、歴史が自分の発展のために選択したのはその最悪のバリエーションであった、と指摘している。()はじめは人間が、歴史を精神の存在しない孤立したシステムのようなものに変えたのだけれども、やがて歴史の機械は、動き続けるために、人間の命を歯車として必要とするようになったのだ。
この結果、人間はなによりも社会的に有用な動物と見なされるようになる。問題はただ、どこに社会的有用性を見るかということなのだ。ある人の活動の社会的有用性に固執するあまり、その人個人の利益のことを忘れているとするならば、人間の悲劇のためのあらゆる前提を作るという、許しがたい誤りを犯していることになる。
自由の問題とならんで、体験と教育の問題が起こってくる。なぜなら、現代の人類は、自由をもとめて戦うとき、個人の解放、つまり、したいと思うことすべてができるようになることを要求するからだ。しかしこれは解放の幻想である。そしてこの道で人類を待ちうけているのは、新たなる幻滅だけだ。人間の精神的エネルギーを解放するためには巨大な内的作業が必要であり、それも、本人自身が決断してその作業に取りかからなければならない。人間の教育は、自己教育に取って替わられる。自己教育なくして、見出だされた自由を手にしてなにをすべきか、自由に関する純粋に消費的で卑俗な解釈をいかにして避けるか、理解することは不可能である。
西欧の経験は、この意味で、そうしたことを考察するためのきわめて豊かな素材を提供している。()
真に自由な人間は、ことばの利己的な意味では、自由ではありえない。個人の自由が社会の努力によってもたらされることはありえない。われわれの未来は、われわれ自身以外のだれにも依存していない。われわれはすべてにたいして、他人の労働や他人の苦悩で支払うことになれてしまった。 351-2
一読して脳裡で自動的に構成される図式ほど、ここでタルコフスキーが描く構図は単純ではない。タルコフスキーの「ロシア」とは、ここで言われる西欧でも東洋でもなく、ドストエフスキーが体現したロシア的大地にも連なる世界の一様態だ。そこで見いだされる「動物」は、社会的であるからこそ「社会的に有用」なのであり、よって人間の真の自由は社会環境に依存せず、社会環境に関係があるのでもなく、またないのでもなく次元が異なる。幸福とは無縁に、芸術はその模倣によってただ確信させる。行為の意味が伐り出される。
ゾーンがのちチェルノブイリ事故によりこの地表へ顕現し、福島にその鏡像を頽落させたこと。社会主義の実験を経て、より抜きがたく歯車としての人間の活用が主題化される時代にいま生きること。いずれ機械が詩的交感すら行うとき「われわれ」は、という夢想。
ロシアでは、「鳥が空を飛ぶために生まれたように、人間は幸せのために生まれた」という作家コロレンコのことばが好んで繰りかえされる。この確信ほど、人間の存在の問題から遠くかけ離れているものはないように思われる。<幸せ>それ自体などという概念が人間にとってなにを意味するのか、私にはまったく理解できない。それは満足のことを言っているのだろうか。調和のことだろうか。しかし、人間がつねに不満を覚えているのは、めざしているものがなにか具体的で有限な課題ではなく、無限それ自体だからだ……。教会でさえも、人間の絶対に対するこの渇望を満たすことはできない。というのは、教会は、悲しいことに、実際、生活を組織している社会的機関のコピー、カリカチュアになっているからだ。いずれにせよ、今日、教会には、精神的覚醒を呼びかけることで、物質的、技術的方向への傾斜に歯止めをかける力はないのである。
このような状況から考えると、芸術の機能は、人間の精神的可能性の絶対的自由の理念を表現することのなかにあると、私には思える。芸術はつねに、人間の霊を飲み尽くそうとする物質的なものにたいする人間の戦いの道具であった。キリスト教が成立して以来ほとんど二千年になるが、その間、非常に長い期間にわたって、芸術が宗教的理念と宗教的課題の水路のなかで発展してきたのというのは、偶然ではない。芸術はその存在によって、調和のとれていない人間の内部で、調和の理念を支えてきた。
芸術は理想を具現化してきた。芸術は精神的原理と物質的原理の完全な均衡を示す具体例であり、その存在によって、このような均衡が神話やイデオロギーではなく、われわれの次元のなかに存在することのできる、ある種の現実であるということを証明してきた。
()「人間は、苦しみのために生まれてくる。火花のように上に飛び散るために。」(ヨブ)()ところで苦悩とはなんだろうか。苦悩とは満たされぬことから、理想とわれわれがいる水準の葛藤から、生まれるのである。自分を<幸せ>であると感じるよりも、自分の魂が真に神聖な自由を獲得するために戦っていると確信することのほうが、はるかに重要なのである。
芸術は人間にできる最良のこと、つまり、期待、信仰、愛、美、祈りが実在しているということを確信させる。あるいは、人間が夢みているもの、期待しているものの存在を確信させる。泳ぐことのできないものが、水のなかに投げこまれるとき、彼自身ではなく彼のからだが、直感的に動きを始め、そして彼は助かる。同じように芸術も、水のなかに投げこまれた人間の体のように存在している。()詩人自身はしばしば罪深いにもかかわらず、創造のなかには永遠なるもの、崇高なるもの、至高のものにたいする人間の志向が表明されている。
()告白。無意識だが生活の真の意味を照らしだす行為――<愛>と<犠牲>。 353-5
"Offret""The Sacrifice"[1986] https://twitter.com/pherim/status/1257492335648100353
現代人は分れ道に立っている。かれらのまえにはジレンマが立ちはだかっている。新しいテクノロジーの揺るぎない歩みと、物質的価値のさらなる蓄積に頼って、盲目的な消費者の存在を続けるべきなのか、あるいは、結局は個人だけでなく、社会のためにも、救いの現実になりうるかもしれない精神的責任への道を探求し、見出すべきなのか。つまり<神>へ戻るべきなのか。人間自身がこの問題を解かなくてはならない。人間だけが正常な精神的生活を見いだすことができるのだ。この解決こそが社会にたいする責任への第一歩となるのである。この一歩は犠牲、つまり自己犠牲にかんするキリスト教的観念なのである。けれども、しばしば人は自分に係わりのない解決すべてを、彼に代って決めてしまうなにか客観的な法則のようなもののせいにしてしまう。現代人はだいたいにおいて、他人のために、あるいは<偉大なるもの>、<もっとも重要なるもの>の名において、自分や自分の価値を放棄しようとしないということができよう。むしろ現代人はロボットになろうとする。もちろん、犠牲の理念、福音書的な隣人愛は、今日では広く普及してはいないということを私は自覚している。それどころかだれも自己犠牲を要求したりはしない。自己犠牲というのは<理想的>であるか、非実際的であるかのどちらかなのだ。だが過去の経験の結果、われわれはまざまざと見る――われわれが個性を失い、人間のつながりを無意味な個人やグループの関係に変え、そしてなによりも恐ろしいことに、価値ある精神生活に戻るという最後の救いともいうべき可能性を失ったのは、あからさまな自己中心主義のためだということを。()
今日われわれは、精神的病いから逃れようとして、<貨幣>と<商品>のアナロジカルで卑俗なマルクス主義的メカニズムを利用している。理由なき不安、精神的抑圧、あるいは絶望の徴候を予感すると、われわれはすぐに精神科医にかかろうとする。あるものは驚いたことにセックス・カウンセラーにかかる。こうした人々は、思うに懺悔聴聞僧のかわりなのであり、われわれの魂にやすらぎを与え、われわれのたましいを普通の状態にしてくれる――とわれわれには思える―のである。気分をやすらかにしてもらったわれわれは相場に応じて彼に支払いをする。また愛の欲望を満たすため淫売宿へでかけ、ここでも現金で勘定をすます。かならずしも淫売宿である必要はないけれども。それでもわれわれはみな、どんな愛も、どんなやすらぎも金で得ることはできないということをよく知っている。
『サクリファイス』は、いくとおりにも解釈できる出来事がおこる寓意的映画である。映画の最初の版は、『魔女』というタイトルだった。すでに話したように、掛かりつけの医者から、死は免がれえない、命はもう残り少ないという恐ろしい真実を知らされた癌患者が、奇跡的に治癒する物語である。 324-5
問題は物質的欠乏だけにあったという前提は突飛すぎないだろうか? 歴史過程の精神的側面をまったく考慮しなかったために、われわれはふたたび新しい文明の消滅の縁に立っている、と私は確信している。人類をとらえた多くの不幸の原因はわれわれが容赦しがたいぐらい、罪深いほどに、絶望的に物質的になったからなのだということをわれわれは認めようとしない。
芸術は、この意味で、終点に辿りついた完成したプロセスのイメージなのである。それは、長い、おそらく無限に続く歴史の道程を通らずに、(ただイメージの意味において)絶対的な真理を把握した状態を模倣することなのである。
東洋は自分自身について一言も言わない! 神のなかに、自然のなかに、時間のなかに完全に溶けこんでいる。()かれらはおそらく、かれらを取巻く物質的な世界と出会った。個人が社会と出会ったように、この文明は他者と出会った。物質的世界、<進歩>、テクノロジーとの戦いだけでなく、それらのものとの対比がかれらを破滅させたのだ。この文明は真の知識の最終到達点、地の塩の塩〔エリート中のエリート〕であった。東洋の論理からすれば、戦いはその本性上、罪深いものであったのだ。
問題のすべてはわれわれが想像上の世界に生きており、われわれ自身がこの世界を創造しているということなのだ。それゆえに、われわれ自身、世界の欠陥にかかわっているが、その利点にかかわることもできたはずなのである。 356
日本滞在時にマスコミ試写へ通うようになってから、映画をベースとする現役の書き手として個人的に最も畏敬してきたある人物を、時おり間近に見かけるようになった。一年以上前、内輪で投稿を量産しているらしい彼のFBへ、ダメ元で友達登録申請してみた。きょう未明、サッカー・ワールドカップのネット中継を脇目に本稿を打ち続けていると、突如スマホが震えロック画面に彼の名が表示された。それは申請許諾の通知で、驚いて彼のFBページを開くと至近の投稿はかつて戦艦ポチョムキンの游弋した水平線、オデッサを対岸に臨み黒海を見渡す写真だった。
自覚無自覚を問わず、こうしたことが同時並行的に多発しつづけるのが結局人生というもので、己がそのまったき主体だなどという驕りは本質的に無価値だとあらためて。
最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう、実際人類は芸術的イメージ以外にはなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである。 358
※引用部出典: アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア―刻印された時間』鴻英良訳 キネマ旬報社
引用部含め、太字強調はpherimによる。本稿は「よみめも43 落ちよるときの夢」の補遺として書いた。 →http://tokinoma.pne.jp/diary/2889
コメント
07月17日
17:31
1: pherim㌠
ウクライナの戦争を機に始めたキリスト新聞でのウクライナ・ロシア映画連載は、要するにまずここへ至りたかったのだと第3回掲載から半月たったいま気づいた。
ルーシの呼び声3:http://www.kirishin.com/2022/07/06/55065/
びっくりするくらい読まれないし反響ないけど、今年一番に気合入った記事なのです。いやもう、いつになく読まれない。ハハッ。
07月17日
17:48
2: pherim㌠
人生最長の写経本ってツイートしちゃったけど、20代にはふつうにもっと長いのしてたかも。しかもハタチくらいには手書きでしてたかも。
ま、いいか。ツイッターだし。
ちな、さいきんのよみめもではこれより長い引用もたぶんしてるし、これからもしそうだけど、それはAmazonの力を借りた画像変換なので、ここでいう写経の精神には欠けますね。正直、血肉になるか否かを考えると、そのとき時間と労力がかかったとしても一文字ずつ写すほうが身になる気はしないでもなく。どうでしょう。