pherim

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pherimさんの日記

(Web全体に公開)

2024年
04月09日
06:37

よみめも88 呪術の深奥に顕れたごはん

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV





1. 大崎清夏 『新しい住みか』 青土社



台所まで潮の満ちてきた夜明けに
あなたは画面の前に座って
画面のなかにも潮が満ちていたから
あなたはそれを見てコップの水を飲んで
重い頭を何度かぐらぐら回して
回転の問題を解こうとした

いま飲んだ水が喉もとでしばらく回って
あなたはもうちょっとで溺れるところだった
水泳選手がプールからあがり
表彰台へ向かうのを眺めながら

(どうやったら景色は変わるんだろうな)
難しく考えるのが昔からあなたのわるい癖
直線上を進むものは何もないと知っているのに
回転していたことはいつも後からわかる

地球の裏側へ向かう船が
画面の奥をゆっくり横切ってゆく
ホシゴイやどくへびや猫や火蟻を乗せて
また別の夢に登場するための航路に乗って

裸足のふちまで潮の満ちてきた夜明けに
あなたはあなたが画面の前から立ち去るのを
すこし 待つだけ

ひどく疲れる作業の予感が
あなたをまだ波打ち際に留めている
どこかの港で船を下りた猫が
あなたの様子を見に来ている

30-2


水場

彼女が川になったことは
しばらく経ってから聞いた
教えてくれたのは新聞記者だった
よく知っている川だった
そうか、彼女が、と思った
最近その川で水を汲んでいた私は
なぜ水道が止まったのかやっと理解した

いつものように2リットルのペットボトルをもって川へ行った
川だとばかり思っていたがよく見ると彼女だった
彼女は運動家だったのだから
考えてみれば自然ななりゆきだった
やっとわかったの、と川が笑った
私も川になりたくなった
まだ何も言いださないうちに
なれるなれる、と川が流れた

はじめに深く息を吸った
裸足の裏でせせらぎを整え
それから徐々に川になった
緑の苔がすこしずつ爪を覆い
岩石のまるみが背骨を運んだ

舞うというよりは確かめるような仕草で
彼女のからだは急流を造形していった
その水しぶきを浴びるためには
一筋しかない道を通って

言葉は彼女の岸辺で動かなかった
ときどき彼女は言葉をじっと見た
できるだけ左や右に偏らないように
からだの軸を意識しながら

42-4



以下、部分抜粋。

次の星

地球がもうこんなに貧しくなって
画面に映るのは青ざめた道ばかりで
街角にも火花すら散らないというので
みな、次の星へ行くと言っています
なつかしい埃や煙や泥の匂い
幸運に恵まれれば樹液の匂いも
嗅ぐことができるかもしれないと
そんなふうに荷物をまとめる気持ちを
昔の人は希望と呼んだそうです

26-7


あなたの骨ばった身体のかたちと
わたしの猫背の身体のかたちが
同じ街並みにまるく収まり
汗ばんだ胸に風がとおって
まだ文法にはないことを
私たちは教えあう

私が私の守護言語で悲しみの歌を歌ったとき
あなたもあなたの守護言語で悲しみの歌を歌った
わかるということはときどき
さっぱりわからないまま私たちに降る
月夜の散歩から帰る道の途中で
たぶんあなたも同じことを思った

48-9


冷えた手がつかむと海は意味になる
魚の背骨がつかめば海は速度になる
ぶらんくとんがつかんだら、海は宇宙になる

87


彼女はいい友達だしいい女ですよ、子どもを産んでますま すいい女になったといっていいくらいなんです(やれやれ、男ってものは、と 私は頷きながらおもいました)、妊娠中に彼女はぼくに言いましたよ、「お腹の なかに知らないネズミがたくさん生きてるなんて興奮する、ほんとうに身の毛 がよだつくらいに」と。ぼくもいちどそんな興奮を味わってみたいものだと思 いましたよ! その晩のぼくはひどく拗ねたものでした。
 子どもというものは、ちょっと話しかければ私をじろじろ見るし後をついて きさえするが、いったい彼らの目に私は、どんなものとして映っているのでしょ うね?バへでも、通用するものなのです。 76





2. モアメド・ムブガル・サール 『人類の深奥に秘められた記憶』 野崎歓訳 集英社

 幻の文学作品を書き消息を断ったあるセネガル人作家を追う小説『人類の深奥に秘められた記憶』をめぐり、今さら何が言えるだろう。新聞書評はすでに出尽くし、ネットを探れば評者の有名無名を問わず賛辞ばかりが並んでいる。たとえば薫りたつフランス―パリの絢爛と、アフリカ大陸の深淵なる雄大さ。そうした対極構図で語られる傑作文学はすでに数知れない。しかしそのような近代史文脈から外れる自律性を具えた作家の台頭、たとえば『やし酒飲み』のチュツオーラ、大西洋に浮かぶ島嶼部出身の視点から“アフリカ”イメージを客体化するファトゥ・ディオム、あるいは土着性を踏まえ汎現代的主題へ挑む女性作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの登場も記憶に新しい中でなお、本作から受けた衝撃波はこれらすべてを正面から突き抜け、脳漿を貫いてきた。 
 物語は幻の奇書『人でなしの迷宮』と、セネガル出身でパリに暮らす駆け出し作家の主人公との出逢いから幕を開ける。奇書の作者T・C・エリマンは、かつてその筆力で人々を驚かせ「黒いランボー」の異名を纏いながら剽窃スキャンダルにより失墜、一切反駁することなく姿を消していたが、主人公は『人でなしの迷宮』の由来を知る女性作家シガ・Dと知り合う。エリマンの縁故者であり性的に奔放なシガ・Dの語る逸話は、第一次大戦中のセネガルの片田舎でのエリマン出生に始まりパリへの留学を経て伝説化しゆくまでを網羅する。それだけであたかも千夜一夜物語を繙くような興奮を覚えるが、加えて『人でなしの迷宮』の回収騒ぎから倒産へ至った出版人の回想や、エリマンの足跡を調査したライターの報告、実父の告白などを交え物語は極限まで多視点化、複雑化を遂げていく。
 
 そして中盤以降、さらに異様な展開を本書はみせる。エリマンが消息を絶つ原因となったスキャンダルに関わる批評家、文学研究者やその近親者らが、相次いで自殺を遂げたことが明らかになるのだ。エリマンの足跡を追う書き手により突きとめられた六人の自死をめぐる記述は詳細にわたり、個別にみれば一見関連性が薄く、仕事と結婚の失敗から猟銃自殺に及んだ者、戦争で受けた心の傷から精神錯乱へ至り手首を切った者、深い失恋の痛手により地下鉄へ飛び込んだ者など様々ながら、各々の人生が暗転する起点に「黒いランボー」への言及がある点で確かに共通する。
 エリマンからあたかも呪いをかけられたかのような不気味さに慄くのも束の間、語り部シガ・Dによりこの不穏な展開に続いて、失踪して数十年が経った後の“エリマンらしき人物”とのパリでの遭遇が語られる。その男は唐突に現れる。病床にある踊り子を見舞うためシガ・Dが夜中に病院を訪れると、踊り子のいる病室の昏がりで椅子に座っていた男はおもむろに、カルロス・ガルデルのタンゴ曲を歌い始める。日本での知名度はあまり高くもないが、その名を知らないアルゼンチン人はいない。人気絶頂へ至った戦間期に飛行機事故で逝ったその不世出の歌声は、今日のミロンガ(タンゴのダンスパーティー)でも当時の録音によりしばしば聴かれる。そうしてこの夜の底、本作後半の展開も底を着くまで深まったパリの病室での遭遇を描くこのパートから、物語の主舞台は突如ブエノスアイレスへと転じる。 
 そこから先の展開は、もはや目眩いを通り越して息を忘れる。なんと表舞台から姿を消したエリマンがその後、ナチスの台頭によりアルゼンチンへ亡命したポーランド出身の劇作家ゴンブローヴィッチや、アルバニア移民家庭の生まれでセルバンテス賞作家のエルネスト・サバトら実在の人物たちと関わる様が描かれゆくのだ。本書に近い書き口として『通話』『野生の探偵たち』のロベルト・ボラーニョを挙げる書評も散見していたが、この終盤部を読むに至って、「アフリカ文学の超克」とか「南米マジックリアリズムの適用」というような色眼鏡をかけて本書を読む進んできた自身の蒙昧さに気づかされる思いがした。しかしまさにそのような仕方で半ば無自覚に、欧州と現代アメリカとを上位へ頂く文学的ヒエラルキーの“現実”こそが本書の全編において刺し貫かれきたのであり、そこでは“幻”の傑作『人でなしの迷宮』と眼前する“現実”とが互いを鏡像として映し合う。問われているのは“アフリカ性”をとうに突き抜け汎大西洋性も超え、グローバルに日々更新され単元化されゆく現代人の、読み手自身の魂の行方であった。




3. 高瀬隼子 『おいしいごはんが食べられますように』 講談社
     
 おなかすいたら、ごはんたべよう。ひとはそうして生きてきた。ずっと命をつないできた。アフリカのサバンナで、ユーフラテスの河辺で、シベリアの凍土で、埼玉の事業所で。二谷はどこにでもいる少し有能なサラリーマンで、少し有能な人間の多くがそうであるようにいつも少し斜に構え、醒めた現実主義的な見地から他人の払う無駄な努力を少し嗤う。埼玉の事業所勤めの二谷に言わせれば、料理は無駄な努力の最たるものである。なぜならコンビニで買えばよいからである。なぜなら二谷は忙しく、栄養摂取が食事の主機能だと思っているからである。ゆえ料理に手間と時間を注ぐ意味がわからない。

 ところが二谷の恋人・芦川さんは、料理が上手い。ほんとうに旨い。芦川さんがつくるお菓子などは職場でも大評判で、おまけに美人でかよわいところもある彼女の人気はうず高い。独身男性社員も派遣マダムらも芦川さんにはメロメロで、からだの弱い芦川さんが残業しないのは無論のこと、定時より前にあがろうと研修を休もうと、文句を言う人間などひとりもいない。いた。押尾さんという、仕事のできる入社5年目の女性社員がいた。入社6年目の芦川さんがオフィスで光り華やぐたびに大きくため息をつき、うわぁと小声で気持ち悪がりさえする押尾さんを二谷は好ましく思う。可憐な恋人の職場でのパフォーマンスが鬱陶しく、家でつくる手の込んだ料理も実は好きでなく、正直うざい。だから二谷は呑みに誘った押尾さんと反芦川秘密同盟を組むに至って意気投合、自宅へ招き入れ下着姿へ脱がせいたそうとするが、いたさない。わずかに体を離す仕草をみせた押尾さんに「止めとく?」と尋ねて、やめてしまう。

 ちょっとまて。なんの話だ。パスタを茹でない村上春樹のようなこの読み心地はなんなのだ、と不安に心震わせながら読み進める。すると事件が起きる。配られた芦川さんお手製のお菓子を誰かが恒常的にゴミ箱へ捨て、捨てられたそれを押尾さんがひっそり拾い袋で包み芦川さんの卓上にそっと置くという昏き所業が発覚する。捨てた誰かとはまず二谷であり、そして二谷でない誰かでもあるのだが、ここまで読んで生まれも育ちも埼玉のわたしには、この生ゴミ化したお菓子こそ檸檬なのだと確信された。押尾さんの心に宿るむかつきこそ作者・高瀬隼子の真に描きたいものなのだと理解された。おなかがすいても深谷ねぎと草加せんべいしか誇るものなく、きょうも埼京線で痴漢が多発するこの煉獄では、森羅万象ことごとくが矮小化しゆく。埼玉では檸檬など爆発しない。二谷や押尾さんの拠って立つ合理主義は、ただ黙々と回りつづける。しかし今は物語の話をしている。現実の埼玉ではないこの埼玉では、きょうも芦川さんが象徴的に光り輝き、斜に構える二谷は少しうろたえ、無意識に追い詰められた押尾さんが驚きの一歩を踏みだす。そして生き様はどうあれそこがどこであれ生物体を生きゆく皆がたぶん、切実にこう祈っている。おいしいごはんが食べられますように。




4. 吉村典子 『子どもを産む』 岩波新書

 病院で仰向けになって産む、というスタイルが一般化したのはそう遠い過去ではなく、むしろ座位や四つん這い状態で産んだ記憶をもつ島嶼部などのお婆ちゃんたちは、本音を言えば仰向けよりもラクだった、となお語るこの世界この日本社会の奥行きにまず感心する。

 少年期から青年期への通過儀礼として、世界的には割礼が有名だが、日本でもかつては若者宿への人が一四歳を規準に行なわれていた。そして、そこでの生活を通して婚姻可 能な若者や娘にと心身ともに成長したのである。つまり、簡単にいえば、人の一生は一続きで 境や区切りがない。だから、その節目にあたる時、次の段階に入るための特別な儀礼を行なう ことにより、きちんと区切りを印象づけ、心の底からそれまでの自分を捨て(死)、新しくその 状態になった(再生した)気にさせる儀礼といったらいいだろう。
 出産に参加した時のこの山村の夫たちの言葉を聞いた時、私はまずこの通過儀礼という言葉を思い出した。彼らは、予想をはるかに越えた妻の産みの苦しみに遭遇し、わが子の厳粛な生まれ出する闘いにも出会った。そしてそこで、苦しみをともにわかち合い、何としてでも母子ともに無事お産を完了させてやりたいと祈りながら、汗まみれになって一緒に闘ううち、彼らは子どもの生物学的な父親から、心底までの父親へと変身できたのではないだろうか。真剣勝負のあの出産を一緒に死にものぐるいで乗り越えること、それが通過儀礼となったと私には思える。 40

 
 イクメンなどともてはやされ、いかにも新しい夫像に含まれる「夫婦が助け合って出産する」スタイルも、太平洋戦争で男がいなくなった結果廃れただけで戦間期までにも存在したというイラスト付きの学びにもハッとさせられる。かかあ天下みたいな南方性を抱えながらも、ジェンダー指数最下層へこの国を貶めた要因のひとつにあの戦争があったというのはすんと頷ける。男にとっても、出産を共にすることが通過儀礼となっていた事例などは、夜這いだとか元服よりも生理レベルで納得される。独身子なしのこの身にとって、その想像はどこか遠く、けれどふしぎと希望を感じる。
 
 岩波新書のなかでもベストセラーで、お産関連では知られた一書らしく、陣痛関連の描写などは詳細にわたり分析的で、読むだに痛さを幻覚するほど鮮明だ(56, 63他)。西欧近世のコルセットによる女性身体の管理と拘束がもつ“近代性”を、「お産の歴史」の一環として語る目配りの良さ、男が適当すぎて中絶経験10回ふつうですみたいな精神文化とか、「サンヤ」という大家族内産休のごとき慣習など、具体言及の数々が興味深い。


 身体観とか生命観、つまり自分の生命や存在のあり方を各々の文化の中で人々が、どのように認識するかということは、大変重大な問題である。例えば近頃でも厄年だと言えば、日頃信心など持ち合わせていないように思える人でも、「厄年だから、御利益のある○○さんへおまいりして来た」とか「○○さんにおまいりしておいたら気分がしゃんとするから」などと言うことがある。
 ()
 もし、おまいりして御利益があったのに、お礼まいりに出かけられないとか、次の厄年にもし、都合が悪くて行けなかったりした時、何か予期せぬことが発生するのではないかと そのことが気になって出かけられない。これらはいずれも表面的には「神なんているはずがない」と否定しながら、心の奥深くで神の存在を肯定し、自分たちの生命の管理が目に見えない神の力によってなされているのだということを、相当強く肯定していることになる。
 つい最近まで北部オーストラリアに住むアボリジニの間で恐れられた「ヴードー・デス(呪いによる死)」という願いは、波平恵美子氏(『病気と治療の文化人類学』 海鳴社)によれば、長老や祖先の霊のいかりにふれ、「指導者の呪詛や邪術にかけられたと知った時、その恐怖のあまり、それまで頑健であったものが短期間に衰弱し、死亡して行く現象」である。また周囲の人々も、その本人をもう死をまぬかれ得ない重病人として遇し、一路、死に向かっての準備を 始めるという文化的弱いとして、大変有名なものである。
 これなどは、人間の心(思考様式)が、いかに簡単にWHO(世界保健機関)の決めた病気の規準などを飛び越して、その身体を殺してしまうのかをよくわからせてくれる。 130-1


 


5. 山極寿一 鈴木俊貴 『動物たちは何をしゃべっているのか?』 集英社

 蜂蜜を採るためヒトと協働する鳥ノドグロミツオシエとか、シジュウカラは混群でうごくけど違う小鳥をときに騙したり、ゴリラたちがつるんで新参の動物行動学者をからかうとか、諸々面白い。山極さんの話はよそで幾度か見聞きしたものも多かったけれど、鳥類学者・鈴木俊貴さんがそうした話でも逐一違う局面を伐りだしてる感じで新鮮だった。
 
 オラウータンの群れで、ボスの顔面にだけ現れるフランジ(頬のでっぱり)が、別のオスがボスになるとそのオスの顔に新たに現れるという話も印象的。「立場がひとを作る」を顔面でやってる感が、とくに科学的根拠など感じたことのない慣用句「いい面構えになってきた」を地で行ってるようで興味深い。マントヒヒのカラフル顔も同じ仕組みをもつらしい。
 集団の中での関係性により身体変容が起こるという水準では、オスの顔がでかくなったりカラフルになることで集団の統率者が定まることと、メスの腹がでかくなることで集団の拡張/継承が準備されることを同列にみる軸はアリかもしれない。




6. 宇佐見りん 『推し燃ゆ』 河出書房新社
 
 想像していたより筆致が地道、放っておけば現実遊離しがち、虚無へ霧散しがちな“推し”表象を力ずくで地上30cm以内に抑え込み肉感を保つ地走りのようであることがむしろ作品の核になっている点、新鮮だったしなるほど満足。
 
 なぜ推しが人を殴ったのか、大切なものを自分の手で壊そうとしたのか、真相はわ からない。未来永劫、わからない。でももっとずっと深いところで、そのこととあた しが繋がっている気もする。彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台の ことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの 体にみなぎっていると思う。あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った。影を犬に噛みちぎられて泣いていた十二歳の少年が浮かんだ。ずっと、生まれたときから今までずっと、自分の肉が重たくてうっとうしかった。いま、肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶滅茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶滅茶にし しまいたかった。テーブルに目を走らせる。綿棒のケースが目に留まる。わしづかみ、 振り上げる。腹に入れた力が背骨をかけ上り、息を吸う。視界がぐっとひろがり肉の色一色に染まる。振り下ろす。思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、叩きつけるように振り下ろす。
 プラスチックケースが音を立てて転がり、綿棒が散らばった。

 からすが鳴いていた。しばらく、部屋全体を眺めていた。縁側から、窓から、差し込む光は部屋全体を明るく晒し出す。中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った。骨も肉も、すべてがあたしだった。あたしはそれを投げつける直前のことを思う。出しっぱなしのコップ、汁が入ったままのどんぶり、リモコン。視線をざっと動かして結局、後始末が楽な、綿棒のケースを選んだ。気泡のようにわらいが込み上げてきて、ぷつんと消えた。
 綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。
這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。

123-5


 
 
 
7. アンディ・ウィアー 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 下 小野田和子訳 早川書房

 宇宙人“ロッキー”が可愛すぎて、確実に映画化されるだろうけどどんなフォルムを纏うのか今から楽しみ。上巻につづく『火星の人』“The Martian”の上をゆくリアリスティック技術描写がいよいよ極まり、そのまま『三体』的異星文明描写へ突入する力技がまた見事で、かつて日本アニメなどでよく言われた“セカイ系”もこの面では単に想像力の解像度不足に由来したのではとさえ思われる。というあたりをしかし真に問われるのはやはり映像化の局面だろうから(なにしろアニメとの対比ならそれがフェアというものだし)、まぁハリウッドがどう調理するのか楽しみですね。
 
 放射線にやたら弱かったり、科学力が大して高度でもなかったりっていう“相方”文明の設定も面白いよね。とても新鮮。
  
 『オデッセイ』“The Martian”ツイ:https://twitter.com/pherim/status/1609892864682778624
 



8. 村上春樹 『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』 新潮社  [再読]


「それとは違う」とユズは言った。「鏡で見る自分は、ただの物理的な反射に過ぎないから」
 私は電話を切ってから洗面所に行って、鏡を眺めてみた。そこには私の顔が映っていた。自分の顔を正面からまともに見るのは久しぶりのことだった。鏡に見える自分はただの物理的な反射に過ぎないと彼女は言った。でもそこに映っている私の顔は、どこかで二つに枝分かれしてしまった自分の、仮想的な片割れに過ぎないように見えた。そこにいるのは、私が選択しなかった方の自分だった。それは物理的な反射ですらなかった。 56


 免色は笑って静かに首を振った。彼が首を振ると、真っ白な髪が風に吹かれる冬の草原のように柔らかく揺れた。
「どうやらあなたは、私のことを買いかぶりすぎておられるようだ。私にはとくに謎なんてありませんよ。自分についてあまり語らないのは、そんなことをいちいち人に話してもただ退屈なだけだからです」
 彼が微笑むと、目尻の皺がまた深まった。いかにも清潔で裏のない笑顔だった。しかしそれだけではあるまいと私は思った。免色という人物の中には、何かしらひっそり隠されているものがある。その秘密は鍵の掛かった小箱に入れられ、地中深く埋められている。それが埋められたのは昔のことで、今ではその上に柔らかな緑の草が茂っている。その小箱が埋められている場所を知っているのは、この世界で免色ひとりだけだ。私はそのような種類の秘密の持つ孤独さを、彼の微笑みの奥に感じとらないわけにはいかなかった。 131


「人は時として大きく化けるものです」と免色は言った。「自分のスタイルを思い切って打ち壊し、その瓦礫の中から力強く再生することもあります。雨田具彦さんだってそうだった。若い頃の彼は洋画を描いていました。それはあなたもご存じですね?」
「知っています。戦前の彼は若手の洋画家の有望株だった。でもウィーン留学から帰国してからなぜか日本画家に変身し、戦後になって目覚ましい成功を収めました」
 免色は言った。「私は思うのですが、大胆な転換が必要とされる時期が、おそらく誰の人生にもあります。そういうポイントがやってきたら、素速くその尻尾を掴まなくてはなりません。しっかりと堅く握って、二度と離してはならない。世の中にはそのポイントを掴める人と、摑めない人がいます。雨田具彦さんにはそれができた」
 大胆な転換。そう言われて、『騎士団長殺し』の画面がふと頭に浮かんだ。 158


そしてその両目は僅かに私の方に向けられていなくてはならない。彼は私の姿を視野に収めている。それ以外に正しく彼を描く構図はあり得ない。
 私は少し離れたところから、自分がキャンバスにほとんど一筆書きのように描いたシンプルな構図をしばらく眺めた。それはまだただのかりそめの線画に過ぎなかったけれど、私はその輪郭にひとつの生命体の萌芽のようなものを感じ取ることができた。それを源として自然に膨らんでいくはずのものが、おそらくそこにはある。 何かが手を伸ばして――それはいったい何だろう? 私の中にある隠されたスイッチをオンにしたようだった。私の内部、奥深いところで長く眠り込んでいた動物がようやく正しい季節の到来を認め、覚醒に向かいつつあるような、そんな漠然とした感覚があった。
 私は洗い場で絵筆から絵の具を落とし、オイルと石鹸で手を洗った。急ぐことはない。今日のところはこれだけで十分だ。これ以上は急いで作業を進めない方がいい。 191


あのとき彼のオフィスのソファの上でもたれた激しい抱擁はたぶん、これが最後と決めた別れの愛の行為だったのだ、と免色は悟った。免色はそのときのことを、あとになって何度も繰り返し思い返した。その記憶は長い歳月が経過したあとでも、驚くほど鮮明であり、克明だった。ソファの軋みや、彼女の髪の揺れ方や、耳元にかかる彼女の熱い息をそのまま再現することができた。
 それでは免色は、彼女を失ってしまったことを悔やんでいるだろうか? もちろん悔やんではいない。あとになって何かを後悔するようなタイプの人ではないのだ。自分は家庭生活に適した人間ではない――そのことは免色にもよくわかっていた。どれほど愛する相手であれ、他人と日常生活を共にできるわけがない。彼は日々孤独な集中力を必要としたし、その集中力が誰かの存在によって乱されることが我慢できなかった。誰かと生活を共にしたら、いつかその相手のことを憎むようになるかもしれない。それが親であれ、妻であれ、子供であれ。彼はそのことを何より恐れた。彼は誰かを愛することを恐れたのではない。むしろ誰かを憎むことを恐れたのだ。
それでも彼が彼女を深く愛していたことに変わりはなかった。これまで彼女以上に愛した女性はいなかったし、たぶんこれから先も出てこないだろう。「私の中には今でも、彼女のためだけの特別な場所があります。とても具体的な場所です。神殿と呼んでもいいかもしれません」と免色は言った。
 神殿? それは私にはいささか奇妙な言葉の選択のように思えた。しかしそれがたぶん免色にとっての正しい言葉なのだろう。
 免色はそこで話をやめた。細部までとても詳しく具体的に、彼はその個人的な出来事を私に語ったわけだが、そこにはセクシュアルな響きはほとんど聴き取れなかった。まるで純粋に医学的 な報告書を、目の前で朗読されているような印象を私は持った。というか、実際にそのようなも のだったのだろう。
「結婚式の七ヶ月後に、彼女は東京の病院で無事に女の子を出産しました」と免色は続けた。214-5



秋の太陽は既に西の山の端に姿を消していたが、それでも私は灯りをつけ るのも忘れて仕事に没頭していたのだ。キャンバスに目をやると、そこには既に五種類の色が加えられていた。色の上に色が重ねられ、その上にまた色が重ねられていた。ある部分では色と色 が微妙に混じり合い、ある部分では色が色を圧倒し、凌駕していた。
 私は天井の灯りをつけ、再びスツールに腰を下ろし、絵を正面からあらためて眺めた。その絵がまだ完成に至っていないことが私にはわかった。そこには荒々しいほとばしりのようなものがあり、そのある種の暴力性が何より私の心を刺激した。それは私が長いあいだ見失っていた荒々しさだった。しかしそれだけではまだ足りない。その荒々しいものの群れを統御し鎮め導く、何かしらの中心的要素がそこには必要とされていた。情念を統合するイデアのようなものが。しかしそれをみつけるためには、あとしばらく時間を置かなくてはならない。ほとばしる色をひとまず寝かさなくてはならない。それはまた明日以降の、新しい明るい光の下での仕事になるだろう。 しかるべき時間の経過がおそらく私に、それが何であるかを教えてくれるはずだ。それを待たなくてはならない。電話のベルが鳴るのを辛抱強く待つように。そして辛抱強く待つためには、私は時間というものを信用しなくてはならない。時間が私の側についていてくれることを信じなくてはならない。
 私はスツールに腰掛けたまま目を閉じ、深く胸に息を吸い込んだ。秋の夕暮れの中で、自分の中で何かが変わりつつあるという確かな気配があった。身体の組織がいったんばらばらにほどかれて、それがまた新しく組み直されていくときの感触だ。 263-4



20 存在と非存在が混じり合っていく瞬間
 ()
 朝の早い時刻に、まだ何も描かれていない真っ白なキャンバスをただじっと眺めるのが昔から好きだった。私はそれを個人的に「キャンバス禅」と名付けていた。まだ何も描かれていないけれど、そこにあるのは決して空白ではない。その真っ白な画面には、来たるべきものがひっそり姿を隠している。目を凝らすといくつもの可能性がそこにあり、それらがやがてひとつの有効な手がかりへと集約されていく。そのような瞬間が好きだった。存在と非存在が混じり合っていく瞬間だ。 329-330


 私はその基本線のまわりに、木炭を使って何本かの補助的な線を加えていった。そこに男の顔の輪郭が起ち上がってくるように。自分の描いた線を数歩下がったところから眺め、訂正を加え、新たな線を描き加えた。大事なのは自分を信じることだ。線の力を信じ、線によって区切られたスペースの力を信じることだ。私が語るのではなく、線とスペースに語らせるのだ。線とスペースが会話を始めれば、やがては色が語り始める。そして平面が立体へと徐々に姿を変えていく。私がやらなくてはならないのは、彼らを励ますことであり、手を貸すことだ。そして何より彼ら の邪魔をしないことだ。
 その作業が十時半まで続いた。太陽が中空にじわじわと這い上がり、灰色の雲は細かくちぎれて、次々に山の向こうに追い払われていった。樹木の枝はもうその先端から水滴を垂らすのをやめていた。その時点までに仕上がった下絵を、私は少し離れた場所から、あちこちの角度から眺めてみた。そこには私の記憶している男の顔があった。というか、その顔が宿るべき骨格ができあがっていた。しかし少しばかり線が多すぎるような気がした。うまく刈り込む必要がある。そこには明らかに引き算が必要とされていた。でもそれは明日の話だ。今日の作業はここらで止め ておいた方がいい。
 私は短くなった木炭を置き、流し台で黒くなった手を洗った。 331



 その二年後に妹は死んでしまった。そして小さな棺に入れられて、焼かれた。そのとき私は十五歳で、妹は十二歳になっていた。彼女が焼かれているあいだ、私は他のみんなから離れて一人で火葬場の中庭のベンチに座り、その風穴での出来事を思い出していた。小さな横穴の前で妹が出てくるのをじっと待っていた時間の重さと、そのとき私を包んでいた暗闇の濃さと、身体の芯に感じていた寒気を。穴の口からまず彼女の黒髪の頭が現れ、それからゆっくりと肩が出てきたことを。彼女の白いTシャツについていたいろんなわけのわからないもののことを。
 妹は二年後に病院の医師によって正式に死亡を宣告される前に、あの風穴の奥で既に命を奪われてしまっていたのではないだろうかそのとき私はそう思った。というか、ほとんどそう確信した。穴の奥で失われ、既にこの世を離れてしまった彼女を、私は生きているものと勘違いし たまま電車に乗せ、東京に連れて帰ってきたのだ。しっかりと手を繋いで。そしてそれからの二年間を兄と妹として共に過ごした。しかしそれは結局のところ、儚い猶予期間のようなものに過ぎなかった。その二年後に、死はおそらくあの横穴から這い出して、妹の魂を引き取りにきたのだ。貸したままになっていたものを、定められた返済期限がやって来て、持ち主が取り返しに来るみたいに。
 いずれにせよ、あの風穴の中で、妹が小さな声でまるで打ち明けるように私に言ったことは真実だったんだ、と私は――こうして三十六歳になった私は今あらためて思った。この世界に は本当にアリスは存在するのだ。三月うさぎも、せいうちも、チェシャ猫も実際に実在する。そしてもちろん騎士団長だって。 377


「マルセル・プルーストは、その犬にも劣る嗅覚を有効に用いて長大な小説をひとつ書き上げました」
 免色は笑った。「おっしゃるとおりです。ただ私が言っているのは、あくまで一般論として、という話です」
「つまりイデアを自律的なものとして取り扱えるかどうかということですね?」
 そのとおりだ、と騎士団長が私の耳元でこっそり囁いた。でも騎士団長のさきほどの忠告に従って、私はあたりを見回したりはしなかった。 389



 免色は続けた。「暗くて狭いところに一人きりで閉じこめられていて、いちばん怖いのは、死ぬことではありません。何より怖いのは、永遠にここで生きていなくてはならないのではないかと考え始めることです。そんな風に考えだすと、恐怖のために息が詰まってしまいそうになります。まわりの壁が迫ってきて、そのまま押しつぶされてしまいそうな錯覚に襲われます。そこで生き延びていくためには、人はなんとしてもその恐怖を乗り越えなくてはならない。自己を克服するということです。そしてそのためには死に限りなく近接することが必要なのです」
「しかしそれは危険を伴う」
「太陽に近づくイカロスと同じことです。近接の限界がどこにあるのか、そのぎりぎりのラインを見分けるのは簡単ではない。命をかけた危険な作業になります」
「しかしその近接を避けていては、恐怖を乗り越え自己を克服することはできない」
「そのとおりです。それができなければ、人はひとつ上の段階に進むことができません」と免色は言った。そしてしばらくのあいだ何かを考えているようだった。それから唐突に――私から見ればそれは突然の動作に思えた席から立ち上がり、窓のところに行って、外に目をやった。
「まだ少しばかり雨が降っているようですが、たいした雨じゃない。少しテラスに出ませんか? お見せしたいものがあるんです」 405


 私はそれからカードのシロクマの写真をじっくり眺めた。しかしそこにもまた何の意図も読み取れなかった。どうして北極のシロクマなのだろう? おそらくたまたま手元にシロクマのカードがあったから、それを使ったのだろう。たぶんそんなところだろうと私は推測した。それとも小さな氷山の上に立ったシロクマは、行く先もしれず、海流の赴くままどこかに流されていく私の身の上を暗示しているのだろうか? いや、たぶんそれは私のうがちすぎだろう。
 私は封筒に入れたそのカードを机のいちばん上の抽斗に放り込んだ。抽斗を閉めてしまうと、ものごとが一段階前に進められたという微かな感触があった。かちんという音がして、目盛りがひとつ上がったみたいだった。私が自分でそれを進めたわけではない。誰かが、何かが、私のかわりに新しい段階を用意してくれて、私はただそのプログラムに従って動いているだけだ。
 日曜日に自分が秋川まりえに、離婚後の生活について口にしたことを思いだした。今までこれが自分の道だと思って普通に歩いてきたのに、急にその道が足元からすとんと消え 何ない空間を方角もわからないないまま、手応えもないまま、ただてくてく進んでいるみたいな、そんな感じだよ。
 行方の知れない海流だろうが、道なき道だろうが、どちらだってかまわない。同じようなものだ。いずれにしてもただの比喩に過ぎない。私はなにしろこうして実物を手にしているのだ。その実物の中に現実に呑み込まれてしまっているのだ。その上どうして比喩なんてものが必要とされるだろう?
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 だから私はユズには手紙の返事を書かないことにした。いったん手紙を書くなら、起こったことをすべてそっくりそのまま(論理も整合性も無視して)書き連ねるか、まったく何も書かないか、どちらかしかない。そして私は何も書かないことの方を選んだ。たしかにある意味では、私は流されゆく氷山に取り残された孤独なシロクマなのだ。郵便ポストなんて見渡す限りどこにも ない。シロクマには手紙の出しようもないではないか。 498-9


 


9. ガブリエル・ブレア 『射精責任』 村井理子訳 太田出版

 過半まで読み進めた段階で、これはかなり酷い内容だなと正直ガッカリした。「男が射精を管理せよ」という正論は揺るぎようもないのだから、論旨に合うデータだけを大量動員する一辺倒の主張で全体を飽和させることなく、読み物として惹きつける工夫もすれば支持者は増えるだろうにと思わせるあたり、米国内向けビジネス/自己啓発ベストセラーなどにありがちな残念感が漂う。結果、はじめから結論を共有する賛同者の確信ばかりをブーストする扇動本の性格を帯びてしまい、トータルでいえば単にポリコレに威を借るだけの味薄本へ堕している観。
 
 しかし終わりまで読み、元はツイート63個がバズったことから書籍化されたのだと知るに及び、なるほどーってなる。さらに、議会の男性議員らによる中絶議論に怒り心頭に達した挙げ句の噴飯ツイートと書かれており、怒気に支配された前頭葉の生み出す一辺倒と、ツイッターが構造的に具えるブースト機能こそ上記感想の由来だったとわかる。そういうまとめ本とみれば、それがよく売れるのは嫌韓本や日本スゴイ本と同じ流れとも把握され、こういうのを久々に手にとったなという感触。

 あとこの種の平積み本のデータ攻勢ってしばしば確率の呈示で読み手を脅迫してくるのだけど、本気で確率の中に自己の道行きを読み込める価値観って要は損得計算へ収束する人生を前提するから、それ全体に思考停止感を覚えてしまう。でもマスを生きる自覚さえなくマスを生きられる人々にとって考えるとは損得計算を言うのかな、だったら考えても考えなくても幸福度に大差はなくなるし、そりゃトランプが説得力をもつ世界になるわ。
 そんなこんなで知的好奇心の不完全燃焼感は色濃く、読後の満足感は浅い。
 
 一方、齊藤圭介解説は良い。リプロダクション・ライツをめぐるプロライフ派とプロチョイス派の攻防とかの経緯解説など、界隈のひとには基本事項なのだろうけど、とても勉強になりました。




10. 森沢明夫 『プロだけが知っている小説の書き方 あなたの才能も一気に開花』

 どこかで強力に推薦されていたのを目にして、どんなものかと図書館で予約してみる(けっこう待った)と凄まじいリーダビリティでまずそこに感心し、次にページ構成は字数も少なくスカスカながら内容は練られているのが感じられ、しかも各章の見出しというか冒頭まとめが秀逸(下記のごとく)だったので、本のAmazonまとめ買いキャンペーンの罠に自ら身を投じポチるなど。売れてるらしい。
 
・物語の説明ではなく、シーンを積み重ねていく

 完成したプロットの出だしの部分から、表現をしっかり磨いた文章を丁寧に肉付けしていき、それを本番の原稿とする。 84

・短い文章に複数の意味を持たせよう

 冗長にならず、しかし、読者に伝えるべきことをしっかり伝えるには、「短いひとつの文章のなかに複数の必要な情報を詰め込むこと」が効果的なのです。 164

・たくさん読み、書き、詩人でいよう

 小説の執筆とは、シーンを書くことでキャラクターの心の揺れを描くことでもあるので、ふだんから自分の心の揺れが「身体」にどう出るかをじっくり観察しておくことが有用になってきます。 189 なるべく感情を書かない。 190




▽非通読本

0. Corryn Wetzel 「哺乳類は少数派 メスだけで命つなぐ単為生殖の不思議」 牧野建志訳 Natinal Geographic 日本語版 2020年9月18日記事 (「2006年、英国チェスター動物園~子サメが誕生した。」の箇所)

 記事の一部を下記のように要約のうえ、紙面原稿へ引用した。
 
 2006年、英国チェスター動物園でコモドオオトカゲの“フローラ”が、オス不在のまま子どもを産んだ。2012年米国ルイビル動物園で、オスを知らないままアミメニシキヘビ“セルマ”の産んだ6つの卵が無事孵った。2016年には豪州リーフHQ水族館で、数年間オスとの接触をもたなかったトラフザメのレオニーが産んだ卵から、3匹の子サメが誕生した。




▽コミック・絵本

α. 石川雅之 『惑わない星』 6-8 講談社

 終末SF化したもやしもん味がぐんぐん増して良い。ちょっと風呂敷を広げすぎた感もあるけれど、統失的セカイ系とでも言うべき太陽系レベルでの人類自分探しを若い女とおっさんがやり抜いていくスタイルの独創性と、くっきりしすぎキレありすぎの線描が醸す劣情を削ぐようなハイレグ描写とか、きちんとは言語化不能の魅力があって飽きさせない。というかこれがあるからこそできる冒険で、なければ単に意味不明な失敗作として編集段階で切られてたようにも思える。こういう才能の発露こそ味わい深い。
 
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β. 瀬野反人 『ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~』 5 KADOKAWA

 チョムスキーもびっくりの原理異なる異生物言語冒険譚、分析の解像度がぐんぐん上がるごと多様性の幅も広がり、とうとう水泡の言語くり出す魚群との交信へ突入する始末。これって本作自体の広がりとは別に、きっと全然違う他分野に意外な影響色濃く与える作品になってる気がする。
 『悲しき熱帯』を先行例に置くようなその流れの、幽かだけれど広汎な。
 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]
 
 


(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. ヤマシタトモコ 『違国日記』 2, 3 祥伝社

 違国が徐々に開国されていく展開。かなり突出したADHD持ちで独身生活を成り立たせている作家伯母、という強キャラと一つ屋根の下ですくすく育ちゆく少女の瑞々しい感性、みたいな構図の水槽観察日誌感が良い。これはこの流れで成長の端景をみたいとおもうし、育ちゆく感性に映り込む作家伯母の道行きも気になってまう。
 


 
δ. 原泰久 『キングダム』 50-1 集英社

 趙国内奥まで攻め込んで兵糧との闘いと化す秦軍それ自体が冷静に考えるとバカっぽくて好き。楚とかふつう動くのに動かないあたりのご都合主義はともかくとして、『キングダム』序盤が醸していた戦場のゲーム盤はかなり減って、少なくともよくできたRTSくらいには軍略のうねりみたいなものが喚起されていて、これはけっこう凄いこと。蒼天航路までの中国史もの秀作群も概して、天地を喰らうにしろ墨攻にしろ、シーンの迫力でしか魅せられなかったからね。

 にしても尭雲みたいに非史実で趙雲レベルの武将が次々に出てくるの、やむを得ないとはいえ飽和風味も免れず。そこは無名の史実武将のうちに滋味深くも架空の真実を描こうとする蒼天航路のほうが優ってるかな。キングダムはなんだかんだいって少年成長譚なので、物語類型の根本が異なるとはいえ。
 



ε. 芥見下々 『呪術廻戦』 0-1 集英社

 アニメ2期があまりにも面白いので原作に手を出すの儀。術式など細かい設定の理解が進み重畳。
 0巻の画の硬さもこれはこれで新鮮。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2024年
04月11日
01:24

>高瀬隼子 『おいしいごはんが食べられますように』
これと、同じく高瀬氏の「犬のかたちをしているもの」読みました。「犬の〜」の方が女性ウケする題材なぶんスリリングで面白く感じましたが彼氏のキャラが描かれ方ちょっと弱くて物足りず(読者のイマジネーションで楽しんでもらう仕様だったのかもですが)、その点「おいしい〜」はバランス良かったと感じました。
両方の作品で食べ物を自然に捨てる描写があり、作者の食べ物観が興味深かったです。

> 吉村典子 『子どもを産む』
「玄牝」という2010年のドキュメンタリー映画に出てきた、医療措置なしでお産させる病院の院長が吉村氏だったので、ご縁者かなと思ったらそんなことなさそうでした。

> ヤマシタトモコ 『違国日記』
以前オススメいただいてすごく面白かったです。もうすぐ実写映画が公開と聞いたのですが、原作の雰囲気はヤマシタ氏の筆致特有のものだと思うので、どうなるのかどきどきです。

2024年
04月18日
09:55

2: pherim

玄牝みてるのか、すごいな。薪割り出産。てか妊婦さん界隈には知られてる作品なのかな。

関連で。

河瀨直美『垂乳女 Tarachime』(2006)には、河瀨監督本人の出産場面が登場します。


排出された胎盤を近接で撮りつづけたり、自身の生い立ちをめぐり祖母との熾烈な口論がくり広げられたり、まぁ凄い。


河瀨直美作品が到達している映像のテイストがとても好きで、なかでも出産をテーマにした宇多田ヒカル『桜流し』のPVは当時かなり胸に来るものがあった。



誕生とともに喪失を謳い、東日本大震災への鎮魂歌でもあったこの歌は、2012年11月17日公開の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』テーマソングとして街じゅうに流れていた。だからアニメPVのほうが知名度は高いのだろうけれど、やはりこの河瀨映像はいま観ても凄いとおもう。

2024年
04月21日
01:04

玄牝、めっちゃたまたまで、そのころ会員になっていた市民映画館で上映があったので割引で観たのでした。たぶん公開翌年とかだと思うので、出産も結婚もする前ですね。
返信いただいて検索したらインタビュー記事を見つけて、https://www.cinematoday.jp/news/N0027166 監督が「この映画は自然分娩を推薦しているだけの映画じゃない。女性の一つの選択肢としてこういうものもあるんだと言うことを提示したいと説明しました」と答えたというの、私はこの映画が自然分娩を推薦していると感じることが全くできていなかったので、このきっかけで検索して良かったです。今ならまた違う視点で観られるかも。

>桜流し
まんが描きが描線を制御・操作するほどには映像作家は被写体を制御・操作しないと思うので、その意味でも「到達」ってなるほどなあと感じます。

>垂乳女
観るのにエネルギーがいっぱい要りそう〜
ちゃんと観たら感想聞いてください!

2024年
04月21日
08:14

4: pherim

> 私はこの映画が自然分娩を推薦していると感じることが全くできていなかった

おもろ。この感想が聞けたのはなんか良かったw

たしかに、批判してるとみれば、すっごいアイロニー利いてますよね@w@


垂乳女はやばい時みたらガチ鬱るひといそう笑
ご感想楽しみにしてます~(/・ω・)/

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