・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※コミックは別腹にて。書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. D. ボンヘッファー E. ベートゲ 『ボンヘッファー獄中書簡集』 増補新版 村上伸訳 新教出版社
良き力あるものに変わりなく静かにとりまかれ
不思議に守られて心安らかに
私は、この日々をあなたがたと共に生き
あなたがたと共に新しい年へ入っていきます
Von guten Mächten treu und still umgeben,
behütet und getröstet wunderbar,
so will ich diese Tage mit euch leben
und mit euch gehen in ein neues Jahr.
良き力あるものに不思議に守られて
何が来ようとも、私たちは、心安らかにそれを待ちます
朝に夕に神は私たちの傍らに居てくださいます、
そして新たないずれの日にも、まったく変わることなしに
Von guten Mächten wunderbar geborgen,
erwarten wir getrost, was kommen mag.
gott ist bei uns am Abend und am Morgen
und ganz gewiss an jedem neuen Tag. 0-470-1 4-134-150
ボンヘッファーをめぐっては、関連書籍によみめも一回を費やして言及した。
「よみめも58 クロノスとモロク」https://tokinoma.pne.jp/diary/3784
最大の著書のひとつにもかかわらず、このとき読み切れなかった本書を、映画公開にかこつけようやく読み通せた。良かった。どこかで読まないと心の隅に引っかかり続けたろう一冊だったので、ほんとうに良かった。
そしてわれわれは――「タトエ神ガイナクトモ」――この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そしてまさにこのことを、われわれは神の前で認識する! 神ご自身がわれわれを強いてこの認識に至らせ給う。このように、われわれが成人することが神の前における自分たちの状態の真実な認識へとわれわれを導くのだ。神は、われわれが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、われわれに知らせる。われわれと共にいる神とは、われわれを見すてる神なのだ(マルコ一五・三四)。神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである。キリストの助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による。このことは、マタイ八・一七に全く明らかだ。
ここに、あらゆる宗教に対する決定的な相違がある。人間の宗教性は、困窮に陥った時に彼をこの世における神の力に向かわせる。神は機械仕掛ケノ神だ。聖書は、人間を神の無力と苦難に向かわせる。苦しむ神だけが助けを与えることができる。その限りにおいてわれわれは、誤った神観念がそれによって一掃されたところの発展、つまり、前に述べたこの世の成人性に向かう発展は、聖書の神への視線を解放してくれたということができる。それは、その無力さによってこの世における力と場所とを獲得する神だ。「この世的解釈」はここで始まらなければならないだろう。 417-8
こうした理神論的認識は、時局と聖書の文面と論理思考の三律を鼎立させるため必然的に編み出されるものだろうけれど、これを言語化し切る熱量を当時のすこし理の冴えた牧師なら比較的容易に持ち得たのか、そこは彼が突出していたのかよくわからない。だからここをボンヘッファーの真骨頂、と書いてしまえば「いやそこってあまり重要じゃないんだけどな」と本人が、というか自分の中のボンヘッファーがぼやくのだけれど、獄中で研ぎ澄ませた文言の一端であることを思えばやはり、感銘は受けざるを得ない。
聖書は、われわれがしているような外的なもの・内的なものという区別を知らない。そもそもこの区別とは何だろうか?聖書にとって重大なことは、常にἄνθρωπος τέλειος つまり全体的な人間なのだ。それは、山上の説教におけるように、十成が「最も内面的なもの」にまで徹底して解釈されているところでもそうだ。善き「心情」が全体的な善に取って代わることができるなどと言うのは、全く非聖書的だ。いわゆる内面性の発見はルネッサンス(多分ペトラルカ)において初めてなされた。聖書の言う「心」(Herz)とは、内面的なものではなく、神の前にある全体的な人間のことなのだ。しかし人間は「内」から「外」へと同じように、「外」から「内」に向かっても生きているのだから、その秘やかな魂の内奥において初めて人間の本質が理解されるという考えは、全く間違っている。だから僕が目指したいのは、どこか一番奥にある内密な場所で神を密輸入することではなくて、この世界と人間との成人性を端的に認めることであり、その世俗性の中にいる人間を「ケナす」ことなく、その最も強い所において神と直面させ、坊主臭い策略を弄することをすべて断念し、精神療法や実存哲学の中に神への道備えを見たりしないことだ。これらすべての方法の厚かましさは、あまりにも非貴族的であるために、神の言葉の方ではそれにくみすることができない。神の言葉は、不信頼の反抗、下からの反抗にはくみしない。 401
正直な話、こうして一定時期を共にするに値する名著とともに、自分の思考の森へ分け入る時間だけで生活を埋められたらと今この瞬間は願ってしまうのだけれど、そうは許されないのがこの世界という理屈もこの観点からは不条理に感じられ、しかしこの「観点」そのものが次の瞬間にはたやすく消滅するのだから人生ガチにままならない。いまだままならない。
『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』 抵抗と信仰 トッド・コマーニキ監督インタビュー
https://www.kirishin.com/2025/11/01/80286/
監督インタビューではたまにそうなるように、他メディアではあり得ないような話を聞き出せているのだけれど、そりゃぁそうなるよなとしか思えない。映画ライターというのはこんな準備ができる人種ではそもそもない。豊かな時代には、自分のような偏屈スタンスがもっとあり得たのだろうが、AIと競わねばならない今日もうみなさん忙しいので。それはそうと、上掲記事は紙版の短縮まとめで、より深く潜る話を諸々聞いているのだけれど、末尾に予告された完全版作成のタスクをすっかり失念していた。編集長もきっと忘れてるのだろうな。あるいは諦めているのかもしれない。申し訳ないことです。
獄中「書簡集」なので、本書の主体は両親や妹夫婦やベートゲ他の友人らとの消息通信が大幅を締めており、そこにボロっと上記引用のような鋭い内省が顕れる。この振り幅もまた読ませてしまう。クリスマス前後の慈愛と温もりに満ちた交信など情景が浮かぶようで、つまり獄中で家族らのクリスマス準備を想い、あるいは幼少時の記憶を蘇らせ自らを慰めるボンヘッファーの姿影など想像され、感慨深くまた切ない。
やや若書きというか(そりゃ若いんだけど)、言い切りすぎな感もあるけど固有名言及が気になりメモしときたく下記引用を最後に。
歴史的状況について少し書いておこう。問題は、キリストと成人した世界ということだ。自由主義神学の弱点は、キリストにこの世界の中で彼の場所をあてがう権利を、この世界に譲り渡したということであった。それは、教会と世界との戦いにおいて、この世界から言われるままに――相対的には寛大な――和睦を受け入れた。その長所は、それが歴史を後に向け直そうとはせず、たとえ敗北に終わったとはいえ、本気でそれと対決しようとしたこと(トレルチ!)であった。その敗北に続いて降伏が起こり、そして、聖書と宗教改革の中にある自らの根底を想起することに基づいて全く新しい出発をしようという試みがなされた。ハイムは、各人は「絶望かそれともイエスか」という二者択一の前に立っていることを個々人に言じさせようという敬虔主義的・メソディズム的な試みを行なった。彼は「心」を捕えた。アルトハウスは(近代的 - 積極主義の線を強く教派的に調整しながら受け継いで)、世界からルター的教説(職務)とルター的祭儀の領域を勝ち取ろうと試みたが、その他の点では世界のなすがままにまかせた。ティリッヒは世界自身の発展を――世界の意志に反して――宗教的に解釈し、宗教によって世界に世界自身の姿を示そうと企てた。これはなかなか大なことだったが、世界は彼を戦から放り出して、一人で走り続けた。ティリッヒはまた、世界が自己自身を理解するよりも、彼の方がもっと正しくそれを理解していると主張したが、世界は自分が完全に誤解されていると感じ、そのような不当な要求は拒絶したのである。(たしかに世界はそれが自己自身を理解しているよりも、もっと良く理解されなければならないが、しかしそれは、宗教的社会主義者たちが意図したような「宗教的」な理解であってはならない!)
バルトは、このようなあらゆる試み(それらはすべて、そのつもりはないとしても、根本的には、依然自由主義神学の水路を航海していた)の犯した誤りは、それらがすべて、この世の中に、あるいはこの世に対抗して、宗教のための領域を確保することを目指している点にあるということを認識した最初の人であった。彼は、イエス・キリストの神を宗教に対立させて、「肉(σάρξ)に敵対する霊(πνεῦμα)」の戦場に引き出した。このことが彼の最も大きな功績であることにかわりはない。(『ローマ書』第二版がその一切の新カント主義的殻を持っているにもかかわらず!) 彼はその後の教義学によって、この区別を全線にわたって原理的に貫徹するために、教会を考え直した。よく言われるように、彼がその後、倫理学において失敗したということはない。(彼の倫理学的論述は――今あるものに関する限り――教義学的論述と同様に重要な意味を持つものだ。) しかし、神学的諸概念の非宗教的解釈(nichtreligiöse Interpretation)において、彼は、教義学においても倫理学においても、具体的な道案内は何一つ与えていない。ここに彼の限界がある。そしてそれ故に彼の啓示神学は、積極主義的になる。僕の表現で言えば、「啓示積極主義」なのだ。
ところで、告白教会は、バルトの切ったこの口火をおよそ忘れてしまい、積極主義からさらに保守主義的復古に陥ってしまった。告白教会の意味は、それがキリスト教神学の偉大な諸概念を保持し続けていることだが、その点でも告白教会は次第に疲れ果てているように思われる。それらの諸概念の中には、真正の祭儀と同様に真正の預言(君の言う真理性要求も憐れみも共にその中に含まれている)の要素が含まれており、その限りにおいて、告白教会の語る言葉は一般の注意を引き、傾聴されたり拒否されたりするのだ。しかし、その二つの要素も、展開されないままだし、相かわらず疎遠なままだ。その理由は、それらには解釈が欠けているからなのだ。P・シュッツ、オックスフォード・グループ、ベルンオイへンの人々のように、「運動」と「生活」が欠けていると言って嘆く人たちは、危険な反動家であり、退歩的だ。なぜなら、彼らは、啓示神学の手がかり一般の背後に後戻りし、「宗教的」更新を求めているからだ。彼らは問題をまだ全然理解しておらず、その語るところは全く中心問題に触れていない。彼らには全く将来がない(――もし聖書的にそれほど空疎でなければ、オックスフォード運動の人々がその中ではまだ一番ましだ)。
ところで、ブルトマンは、バルトの限界を何らかの仕方で感じ取っていたように思われるが、しかし彼は、それを自由主義神学の意味で誤解し、その結果、典型的に自由主義神学的な還元法に陥っている(つまり、キリスト教の「神話論的」諸要素が除去され、キリスト教はその本質に還元される)。さて、僕の考えは、「神話論的」諸概念を含めて、全内容がそのまま存続しなければならないということであり、――新約聖書は、ある一般的真理が神話論的衣裳をまとったものではない! むしろ、この神話論(復活など)が事柄それ自体なのだ!――しかし、これらの諸概念は今や、信仰の条件として宗教を(パウロにおける「礼」参照!)前提としないようなやりかたで解釈されなければならないということだ。僕の考えでは、そのようにして初めて、自由主義神学(バルトも、たとえ否定的であるにせよ、まだそれによって規定されている)は克服され、しかし同時に、それの問題が本当に取り上げられ、答えられる(そういうことは、告白教会の啓示積極主義においては起こっていない)。実際この世界の成人性は今や、もはや論争や弁証を挑むための機会ではない。むしろ、世界はそれが自己自身を理解するよりもさらに良く理解される。すなわち、福音から、キリストから理解されるのだ。
ところで、教会の「場所」はどこにあるのか、その場所は全く失われるのではないだろうかという君の問い、さらにはイエスは人間の「困窮」にご自身を結びつけられたのではなかったか、したがって先に批判された「メソディズム」はやはり正しいのではないか、というもう一つの問いが残っている。 379-382
告白教会の四文字で、映画を観たあとではやはりニーメラー牧師を演じたアウグスト・ディールの相貌が脳裡へ散らつく。演じる彼の心境とはどのようなものなのか、ナチス高官の表情演技でさえ、ほんとうに深く編み込まれたものを感じてしまう彼の演じる、家族を残し死出へ立つ牧師の心地とは。
いずれまた、本書を読んで沈潜できる時間があればと思うけれど、なんか人生ってそんな思う通りにならないみたいだし、あるいは不意に自身こそが獄中書簡とか書き出しちゃう日が来ないとも限らない。そのとき受け取ってくださる相手がいらっしゃればですけれど。
2. 柄谷行人 『力と交換様式』 岩波書店
物々交換と贈与形式に基づく交換様式Aから、支配/保護と服従の交換様式B、貨幣経済の交換様式C、Xの到来による交換様式D、というシンプルな図式へ、既存社会の枠組みを換骨奪胎してみせる面白さと、どこか表層的にも感じられる雑駁さ。しかしマルクスの言う「物神」も、ホッブスが言う「怪獣」もこれらすべてを覆うつまりは人間の世界認識そのものにあらかじめ組み込まれ、日常意識の不可視領域へと匿われている、その奥向こうからやってくるX、顕現するDはすなわち神的だけれども、神ではない。
神ではないことがとても重要で、ここにこそ柄谷というか日本人がこれを書いたことの真価が宿っているようにも思うのだけど、こういう整理はさすがに安直な気もする。ただロジカルタイプというかどうしてもそこにハマりがちな思考形式の傾向性、癖みたいなものとして、論理づけられるところまでは言訳する、そこからさきは神的領域、聞かれたって曖昧にしか答えられない、というスタンスは知的にむしろ誠実で、レトリックに任せりゃ何でも言えるのがことばでしょ、っていうところをだから何でも言い切ってイキっちゃうんじゃなくて、ここから先は言わないをきちんとやる。のほうが何だろうね、まぁ成熟とかなんだろうか。煮え切らない、って思われてるんだろうなくらいは察しながら、でも言わない。
3. 村上春樹 『街とその不確かな壁(下)』 新潮文庫
その違和感を、いったいどう表現すればいいのだろう? あえて言うなら心が、自分の意思とはまったく異なった方向に勝手に進もうとしているような気がしてならないのだ。私の心は私の意思に反して、若い兎が初めて春の野原に出たときのように、説明のつかない、予測のできない野放図な躍動を欲しているようだった。そして私にはその気ままな本能的な動きを制御することができなかった。でもなぜそんな見知らぬ兎が自分の内部に突然登場してきたのか、それがいったい何を意味するのか、私には理解できなかった。そしてなぜ私の意思と私の心が、それほど相反する動きを取っているのかも。
その一方で私が送っている日々は、表面的にはどこまでも平穏で乱れのないものだった。
図書館に出向く前の午後の自由なひととき、私はイエロー・サブマリンの少年が外の世界で蓄積した膨大な量の書物を読んでいった。それは私ひとりのために提供された個人的な図書館だった。少年が私のために、彼の内なる図書館をそっくり開放してくれたのだ。
その高く長大な書棚には、古今東西のあらゆる種類の書物が見渡す限りに並べられていた。傷つけられた私の両限はまだ完全には回復していなかったが、意識の内部に蓄積された書物を読み取るのに不自由を感じることはない。私は目ではなく、心を使ってそれらの本を読むことができたからだ。農業年鑑からホメロス、谷崎からイアン・フレミングに至るまで。書物というものが一冊も存在しないこの街にあって、形を持たない、したがって目には見えない本を、誰に咎められることもなく自由に読み続けられること、それは私にとって尽きせぬ喜びだった。
彼が自らの内なる図書館を私に開放し、私がそれらの本を読んでいるあいだ、どうやら少年自身は深い眠りに就いているらしかった。あるいは一時的に意識のスイッチを切っているみたいだった。いずれにせよ、そこにいるのは私ひとりだけであり、そこにあるのは私ひとりだけの時間だった。その午後の読書のひととき、「私たち」は「私」となった。 641-2
2023年春の単行本発刊時に買ったまでは、それまでの春樹新刊同様だったけれど、数年に及ぶ中断放置に入ったのは初めてのことで、何が変わったんだろうなと思う。いや、どこかしらすべて変わりゆくものでしょうけれど。とはいえ文庫版下巻部については、前半の既視感というか自己模倣感からかなり持ち返したというか、良かった。自己模倣だから悪いとはそもまったく思わない質だけれど、同じループを描くからこそ異なる高みを見せてほしい、みたいな期待はやはりある。押井守はその期待だけで観られるのだし、失墜してもトライしているからたとえば他の攻殻後続作などよりこの意味では価値がある。というような水準での深度が、つまりは本作には感覚されたから良い。
あと終わりかたが、すこしいつもと肌合いが異なるのも余韻を引く。肌温度が高めというか。闇だけど温かな。
4. 辻邦生 『廻廊にて』 新潮文庫
以前ダッテ、城館ノ中ハ、冷ヤヤカデ、空虚デ、静カダッタノデハ、ナカロウカ。夏ノ朝ノ霧ニ濡れた森ノ奥ハ、小鳥ノ囀リデ満チテイタケレド、ソノ澄ンダ空気ハ、静マリ返ッテイタノデハ、ナカロウカ。確カニ、ソウダッタ。前ニモ、静寂ハ、私ノマワリニ、立チコメティタ。アノ修道院ノ図書室ノ静ケサ、廻廊ノ影ノ濃サ、灰色ノ時ノ流レースベテ出ノ世ナラヌ静寂ダッタ。ニモ拘ラズ、今ノコノ静ケサトハ、違ッテイル。以前ニハ、静寂ハ、言ワバ、休憩デアリ、安ラカナ充足デアリ、澄ミキッタ停止デアッタ。シカシ今ノ異様ナ静ケサハ、静止デハナク、音ヲ吸収シヅツケル不気味ナ空虚ナノダ。ソレハ、マルデ否定ノ霊ノヨウニ、ソレニ触レタモノカラ、音トイウ音ヲ、奪イ取ッテシマウ暴力ナノダ。ソレニ触レルト、ドンナ悦ビモ、ドンナ叫ビモ、ソノ内実ヲ吸イ取ラレテ、タダ無音ノ形該、空シイ身振リ――突然音ヲ失ッタ灰色ノ世界――ナッテシマウノダ。コノ不気味ナ静謐ハ〈アノ時〉以来、私ノマワリニ拡ガッティル。ドンナ陽気ナ集マリデモ、一度コノ静寂ガ通過スルト、ソコニハ、恐シィ沈黙ガ重イ液体力何カノヨウニ、
残サレル。人々ハ陽気二騒ゴウトスルガ、ソノ声ハ音ニナラズ、陽気ナ身振りハ、誇張スレパスル程、空虚サヲサラケ出ス。其処ニハ、氷ノヨウナ冷タサト、虚シイ暗サガアルダケダ。明ルイクセニ暗イノダ。一体、コノヨウナ静ケサトハ何ナノダロウ。 173
ゆえあって初めての辻邦生。正直厳しかった。時代性を括弧に入れる読みかたを措いても、あまりわくわくしないというか、ある外国人女性画家の創作をめぐる深刻な葛藤を描く試みとして、これは成功しているのだろうか。もちろんそんな仕方で裁くのは無作法というのも承知のうえで、やっぱちょ~っっと、狭すぎる気がするんだよね。狭さのなかで深く抉る試みというのもある程度は共感できるのだけれど、それならそれで掘り進む方向性というものが微妙にズレてる感じ、ノレない感じ。そも西洋人の日記だからって、漢字 カタカナ文をずっと読ませる体裁もけっこう微妙で、こんなん機能してるかね。まぁ上記引用は最後の登場部で、こうして読ませはするんですけどね。
池澤夏樹が辻邦生全集の中で、初めて辻邦生を読んだ時の興奮を語ってたけど、そうなんだぁ、としか今は思えず。ちょっと羨ましいとこはあるのか。いや、あるのかなぁ。
私は、ときおり、こういう空虚な自由に耐えられなくなりました。私は、むしょうに、ただのものではなく、私のものが欲しくなります。私のもの1ほかの何によっても取りかえられない、私の運命になっている私のものが……。
いま私は、この村にいて、家畜たちの動く音をきき、家音や乾草のにおいを嗅ぎ、村の静夜をおおう星空を見ているうちに、不思議と、心がなごみ、みたされ、不安や焦燥が消えるのを感じます。ここではすべてが素材です。すべては思い出であり、意味なのです。耕地に鋭く刺さる第は、生活の拡がる場であり、親密な嘘一のものなのです。早く寒くなる秋の乾いた大地をすきかえしたのも、春の湿気を帯びた、土の香りを切りひらいたのも、この鍋であり、生の刻々の記憶は、まさに、この鋤のうえにきざみこまれているのです。
今になって、はじめて、私が、なぜドーヴェルニュ館の大サロンを飾る四季の農耕詩を織りだしたタピスリに、あのように感動したのか、わかるような気がします。季節の循環のなかで自然と一つになり、自然の担う時間の持続を自らの時間とした生ー自然に抱かれ、自然をじた素朴な、敬虔な生ーのなかにこそ、あのタピスリをうみだした落着いた、清朗な、快活な気分が漂っているのだと思います。それはおそらく、人間が、自分たちの手につくりあげた時間を放棄するとき、無機質な、尺度でしかない時間を放棄するとき、そのとき人間の新しい時間がよみがえってくるのかも知れません。あなたはそれをわらうべきこととおっしゃるでしょうか。私にはただそれだけが私たちの今の悲惨な(こういってもいいと思いますが)現実をこえうる手段のように思われます。
おそらくそのときにのみ、すべてが物語となり、時間が、日々の祭典によって飾られるようになるのではないでしょうか。
こういう静かな土地で、乾草の匂いを嗅ぎながら、鵞鳥の群をみていたり、湿った地面から立ちのぼる蒸気や、あまねくそそいでいる日のひかりを、深々と、胸に吸う瞬間以上に〈生〉がみたされることがあるでしょうか。
ここではあの〈黒い重い現実〉は私たちと和解します。敵対もせず、無視もされず、あるべきままに、受けいれられるのです。ここでのみ、それは恵みぶかい私たちの大地となって、私たちを永遠に保ってくれるのです。私たちが大地を、動かぬ黒い重い抵抗物と感じるあいだは、私たちが故郷を失っていることになるのでしょう。でも、大地が私たちをいつくしむものであるのを感じるとき、私たちは故郷にめぐりあったといえないでしょうか。大地ほどに女性的なものはなく、それゆえにこそ、大地はすべてを担いつづけるのでしょうか。
それはともあれ、私がいまいるこの半ばヨーロッパ的、半ばロシア的な土地で感じるのはこうしたやすらぎ、単純なよろこびだということを、あなたにわかっていただきたいと思うのです……。」 193-4
5. 新川帆立 『先祖探偵』
谷中銀座の端を通る“へび道”にささやかな事務所を構える探偵事務所。という冒頭設定からして好ましう。探偵といっても依頼を受け特定者の先祖調査を専門とするもので、法律上の「探偵」定義には入らないとか、戸籍謄本取り寄せに始まる実際の調査手順の詳細と法的な枠組みなどを驚くほど読みやすさを維持したまま説明し切るのがまず凄い。
単行本で300ページ近い厚みながら、6本の中篇を連ねる構成込みでボリュームが重さとして感覚されない巧みさも、読みやすさへの徹底したこだわりあってのことだろう。結果として、軽快さというのかな、なんとなくアニメ版の『時をかける少女』を観ているようなスピード感が保たれたまま、依頼人の祖先から主人公の自分ごとへと陥入しゆく最終篇へ突入する展開もスムーズにクライマックスをキメてくれ感心しきり。いやほんと、アニメ化行けるのでは。
谷中銀座もへび道も大学~大学院の十年間馴染み深いエリアだったし、なにかと親和性を覚えてしまうあたりはつづけて次項目にて述べる。
6. 新川帆立 『帆立の詫び状 てんやわんや編』 幻冬舎文庫
美術評論家の青山二郎さんの言葉(正子さんが紹介している)を借りると、「ほら、コップでもピンと音がするだろう。叩けば音が出るものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん」というわけだ。 143-4
編集者に謝りながらも原稿以外の行動に積極的ゆえの「詫び状」ってタイトルからしておもろいエッセイ集。アメリカ出身で夫の仕事都合でアメリカ在住という流れから構成された前半のアメリカ滞在編がまず面白い。というか、グランドキャニオンやラスベガスからディズニーワールドのくだりなどは、極私的にも幼少期に母がアメリカで仕事してた流れで行った夏休みルートそのもので思い出される記憶も多く楽しめた。
父方の祖父の家は、わざわざ武士の身分を買い、島津家に仕えた武士であることを誇りに思っていた。言ってしまえばプライドがかなり高い。祖母は農家の出だったし、若い頃に結核を患ったせいで嫁ぎ先がなかなか見つからない。祖父と結婚したときも、祖父の親戚一同は反対した。だが祖父は周囲の反対を押し切って祖母と結婚した。祖父からのプロポーズの言葉は「ご縁があれば、お結びください」だったらしい(この話は祖母から繰り返し聞かされた)。祖母は相当に気が強く、負けず嫌いだったこともあり、嫁ぎ先からの冷たい視線を跳ね返すように、「いい嫁」を演じた。だからこそ、嫁ぎ先に対しては常に良い顔をしていた。他方で、自分は苦労したという自負があるからこそ、息子の嫁にはつらく当たる。幼い頃の私にとっては、祖母の嫁いびりがすごく嫌だったし、なんでそんなことをするのかと疑問に思っていた。
だが、先祖をたどることで、幼少期から不思議に思っていた家族の謎に少しだけ迫れたように思う。興味深い経験だった。 136-7
7. 名倉編 『異セカイ系』 講談社
異世界転生モノと、東浩紀らの「セカイ系」概念が小説を書くという創作行為により架橋される、2018年メフィスト賞受賞作。自らの書く小説内世界へ自らが貫入する術を得た主人公が、小説内の登場人物らを愛し救うため小説という枠組みそのものを成立させる外部世界の“設定”をハックしようと試みる。
たまたましばらく前から読み出していた左藤真通の漫画『この世界は不完全すぎる』が、ゲーム内世界をデバッグするためINした主人公がゲームから出られなくなってNPCの村娘を救うところから始まる作品で、こちらは2020年から始まっているのだけれどなんというか、とても近い。この比較からいえば、『異セカイ系』は小説でしかできない表現を突き詰めるトライアルがきちんと為されており、著者本人は舞城王太郎を意識してきたというが至極納得の。そのぶんだけ、この系統にしてはマルチメディア化の声はかかりにくいだろうけれど。
アニメ『全修。』は、スランプに陥った天才アニメーターが自作の中へ転生し、行き詰まると自力で“全面修正”しまくる奇特作だけれど、物語進行の鍵が「登場人物=作者による世界修正」である点で『異セカイ系』が先行するよね。こういうの影響関係の系譜とかあるんだろうか、それとも転生モノの下位ジャンルとしてすでに定番化してるのかな。よくわからない。
『全修。』全12話: https://x.com/twitter/status/1907262613635166290
そう、小説作品を読むより著者本人と知り合うのが先だったので、書き口の意図された軽薄さには初め驚きやや違和感も拭えず、しかし地の文が主人公視点のモノローグという体裁もまた中盤から相対化されてきて文体も落ち着くあたり、なるほどなと感覚される。
あとはあれだな、石黒正数『天国大魔境』とか岩宗治生『ウスズミの果て』のような終末世界サバイバル旅の良趣も宿るあたり、好物ではある。
8. 小野不由美 『月の影 影の海 (下) 十二国記1』 新潮文庫
ヤバい世界への転生(転送)に対しひたすら当惑と混乱に陥る上巻から、事態を受け入れもがきだす下巻へ。とはいえ元の学生生活がある「現実」への帰還目標が最前提になるあたりが、目下の異なる「現実」にまみれるうち次第に遠のいたりもするのだろうか、など想像する。そこからたとえば、このSNS時代には海外移住でさえ、日本での人間関係も100%引きずったまま行ってしまえる窮屈さなど想う。
天野喜孝をマンガ調によりくっきりさせた美麗系の表紙画および挿画数点が文庫には付く(山田章博)のだけど、これをみるだにアニメ化作品での各キャラのデフォルメは思い切っていたし、大成功していたんだなとぞ思われ。と書いてから検索すると、アニメ化作でのキャラを山田章博が描いたイラストも上がってきて、あれアニメのキャラデザも同一人物なのかと思ったら、そうではなく相互交流が起きてたっぽい。そりゃ起きるのがふつうか。
9. 中村仁聴監修 『マンガキャラ顔・髪型・表情入門 360°どんな角度もカンペキマスター!』 西東社
大判220ページ超をかけて、ひたすらマンガ顔の描きかただけを実画ベースで教えてくれる。そこが見たいんだという“360°”っていうかちょいアオリやちょい俯瞰のちょい斜めで端っこの毛先はどっち向けると自然になるんじゃ、みたいなところを図示してくれる、初め手にとった時の印象以上に役に立つ良書でしたね。
図書館借りだけど、これは買って良いやつだなぁ。お金ないのに他にも所用に溢れてあれですけんど。
10. 『宮崎駿イメージボード全集 4 ナウシカ前史』 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/hayaomiyazaki_imageboard/
1982年マンガ版ナウシカ連載開始までの、1970年代半ば以降に描き溜められたイメージボード集。B3という大判サイズで税込み6600円という強気も、宮崎駿 岩波書店ならば為せるし為すべしと納得もされる座組と質にて、せつなくも図書館借りながら堪能。
人の手の気配をあまり大きくは遠ざからないデザインと柔らかな筆跡。仕草と流れるムーヴメントのしっくりと心に嵌る描線。そして見たこともないのにどこか懐かしく、哀切さえ感覚されてしまう風景。幼少期、たしかにここに暮らしていた、いやそれ以前記憶のさらに前のどこかで。水彩のにじみがまた、この現実とのあわいを精確にとらえてるんだよね。
鈴木 20世紀は絵の世界において、音楽でもそうですが、アレンジが最も行われてきた、という気はします。“アレンジャー”として優れている人たちがもてはやされる時代というのは、ひとつの大きな特徴です。“アレンジの時代”と言い切るしかありません。では、新たなオリジナルを作ることはできるのかと言ったら、できません。これは断言できます。
アレンジと宮さんということで考えると、もうひとつあるのが、東映が中村錦之助(当時)主演で1954年から連続映画として製作した「新諸国物話」です。子ども向けに北村寿夫が書いた時代劇(原作)で、当初は日本が舞台で、そのうちに東南アジア、中東の砂選へと舞台を移すのですが、当時営さんも僕も手に汗握って観ていました。なぜこの話をするかというと「新作歌舞伎の谷のナウシカ」(2019)です。あれを見た時、「新諸国物語」が、そのまま舞台に再現されていることに驚きました。宮さんの中には、中央アジアへのこだわりというのが、強烈にあります。チベット民話『犬になった王子』(岩波書店)も舞台はアジアで、それをヒントにして宮さんは『シュナの旅』(徳間書店)も描きましたし。
ここだけにこだわってはいけませんが、これは“宮さんが語らない営崎駿のルーツ”なんです。
巻末の鈴木敏夫インタビューも、「シャガールの青」や堀田善衛『聖者の行進』の十字軍描写、英国ドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』1985-1995やポール・グリモー監督作『やぶにらみの暴君』など気になる固有名が連発され、良い。
▽コミック・絵本
α. 坂口尚 『あっかんべェ一休』 下 講談社
とうに突き抜けている。がゆえに、じゅうぶんには広く知られることのない作品は世に少なくないけれど、本作は紛れもなくその一書。という確信が、後半より強化された一作で、遺作とはいえ完結されて本当に良かったと素朴に思える。
あばら家で病に斃れる娼婦もみじ、自力他力がぶつかる蓮如とのなだらかな対峙、世阿弥の底深い探求描く断章群など、大河織りなす挿話のひとつひとつが珠玉すぎて、これから幾度も読み返す《必要》しか感じない。それも全体の物語ではなく、一つ一つを。漫画でそういう読後感は珍しい。そう、聖書にも近い。
《坂口尚と一休展》後期 米沢嘉博記念図書館
https://x.com/pherim/status/2017612913167716427
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 都留泰作 『ナチュン』 1-4 講談社
脳を半分失った天才数学者がイルカと泳いで掴んだ真理を、自分だけが理解したと確信する大学院生の冒険。
という本筋とは相容れないほどに生々しい沖縄の離島生活描写がマジでヤバい。なんらかの実体験に基づくのは明らかだけれど、そこから深海での国際的裏取引やら臓器売買経由の人工知能科学を含み込み、かつユタや御嶽の霊的世界へも陥入しゆく仕立てがまた良い。ゾーンとかトリップ体験ないと触れ得ず描写し得ない世界のような気もして、元文化人類学者らしい作者の非公開履歴もとても気になる。続きも気になる。
γ. 藤本タツキ 『藤本タツキ短編集 17-21』 集英社
初期短編集。17歳時の漫画賞初投稿作「庭には二羽ニワトリがいた」はまだ絵柄が安定してないというか、誰かのマネをしている感じが抜けてないけれど、次の「佐々木くんが銃弾止めた」ではもうのちの画風がほぼ完成されていて、最終話「シカク」に至っては物語展開までもほぼほぼチェンソーマン的殺伐世界しており、つまり十代で漫画家としての形成は済んでたんだなぁ、って。
『藤本タツキ 17-26 Part-1』https://x.com/pherim/status/2023588511777947897
(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
δ. 石塚真一 『BLUE GIANT』 1-10 小学館 [完結]
スポーツ漫画が苦手というか、面白いんだろうなと知ってはいても読み始められないのは、スポーツの面白さは散々BSやらネットやらで観てきた人生だったからで、音楽漫画などは苦手度でそのさらに上をいく。なにも漫画で味わおうとしなくても、みたいな心理が働く。まがりなりにも音楽家の卵たちが無数にいる場にかつて在学したせいもあるかもしれず、のだめカンタービレを四半世紀前に読んだのが最後という気さえする。というわけで漫画というジャンルそのものへの興味が増してようやく『BLUE GIANT』を読み出せた。読み出せばやっぱ、すげぇなと思うしかない。
おそらく音描写へ無意識のうち敏感になっているゆえに、演奏ではない場面で最も音楽を感じた見開き、↑本稿冒頭画像。
2巻、主人公の才能が各方面からトントン拍子に発見されすぎてなんだかな感ほんのり。
5巻、好きと才能。四畳半ドラマー覚醒。
7巻、ジャズクラブ・ソーブルー平さんとの対峙△。締めにブルーノートまんまのファサードを仰角で描くそう来るしかないよねっていうステロタイプなキマりかたがいや、キマってるから全てイイ、みたいになってズルイイ。
10巻、なるほどこういうどんでん返しをキメてくるのねっていう。
ε. 佐藤健太郎 『不死と罰』 4-8 秋田書店 [完結]
ウシジマ版アイアムアヒーロー、みたいな。なんにせよゾンビ物はいいよね。画力前提になる時点で質も一定度確保される、みたいな下支え構造はちょっとありそう。
歌舞伎町のラブホ街特有のサイズ感がよく描けてるのも、ちょいちょい感心する。円山町とかとも微妙に違う感じ。
3巻で縦方向のアクションが出てくるの、これ大事!などおもう。
5巻、クズ男2人が性欲により結託しヒロイン2人の強姦を企てる筋に象徴されるのだけど、主人公が少年Aモデルで身バレする流れとか、ラブホオーナーが戯画化された醒め切ったホスト体質だったりするあたり、むしろ「漫画」のリアリティそのものを突いているのかもと感心され。その一方もし読むのが1年前までとかなら、それこそリアリティラインを理由にここらへんで飽きちゃったかもしれない。
6巻、少年Aモデルの主人公を心底憎む被害者遺族男女が結託して顔と名を変え計画的復讐へ出る回想シークエンス、筋立ての巧緻が先行しすぎて「悪くはないけどありきたり」感を不用意に醸してしまってるの、惜しい。KITTEパートはこんな回想にボリューム割かなくても、アイアムアヒーロー並みに対ゾンビ閉鎖空間アクション構成で魅せられた気がするのだけれど。
7巻、ラブホ室内劇から脱出劇を経て屋外編へ、ウォーキングデッド味だしてきてこれはこれで悪くないから少し続けたら良いのにもうすぐ終わってしまうことだけは陳列棚によって先に知っちゃってるはかなみとか。
8巻、締めは既視感いっぱいというか、打ち切りなのかなと思わせるほどまくってる感しかなくナゾい。主人公の選択もヒーロ完成演出の意図はわかるが乗れず、罪とともに生きるとかイキられても単に飽きる。関係者の悪意や劣情が軒並み善意へ昇華される流れとか、そんな面白いかね。担当編集者がクソつまらない善人とかかね。
ζ. 野田サトル 『ゴールデンカムイ』 16-25 集英社
16巻。樺太編で少数民族ウィルタ登場、すばらしいね。このままシベリアへ渡ってくれたりするのだろうか。(ガチ期待
からの17巻ニヴフ族。太い輪郭線でガシっと描く説得力が利いてくるなぁ。狙撃手&燈台ネタも良い。
18巻ラスト亜港脱獄回の想像超える壁向こう展開すき。
19-22巻、樺太からシベリア大地編とはならず、北海道へ徐々に戻りゆくグラデ進行。陸海軍と五稜郭が絡む鯉登父子エピおもろ。
ロシアン・スナイパー、尾形の好敵手台頭、からの良キャラ展開悪くない。
23巻「日清戦争を経て答えを見つけた気がすんですて。兵士の攻撃性を引き出す原動力となんもんは、敵兵への憎しみではねく恐怖でもねく、政治思想の違いでもねえ……」「それは何ら?」「愛です」
24巻、イケメン強キャラ海賊房太郎、アクアマンみたいね。
25巻、ロンドン地図を札幌市街に重ね自らの連続殺人をトレースするジャック・ザ・リッパー、よく考えつくなぁっていう、アイデア出し会議をがんばった感。
η. 市川春子 『宝石の国』 1-6 講談社
以前はいまいちハマらなかった宝石の国。3巻まで来て世界観に馴染みだし、どうなるんだこれって面白くなりだした。作者の奇想タイプに九井諒子との類縁性を感覚するけれど、ダンジョン飯に比べるとこの意味でスロースターターっていうか、序盤で脱落者大量だろうこの作品がきちんと評価されてるのは流石分厚い読者層いるマンガ界ならではよな。
“先生”に疑いを抱きだす4巻の展開は先を期待させますね。それに比べると3巻からの落第主人公の超越化が、試練克服より偶然要素濃いめなのが弱く感じる。6巻、予想外の月渡航、面白くなってきたし先生のすっとぼけ好き。
θ. 南勝久 『ザ・ファブル The third secret』 2-3 講談社
2巻。主人公の妻になったにも関わらず、他キャラに比べ数段ペラッペラだったみさきさんの過去に厚みを付ける流れ。AV出演強制は地味に数年前の潮流汲んでるうえ、何より描写が絶妙にエロい。主人公をリスペクトする“あまり”、ミサキさんの映像をそれ対象としてみることがない男たちの描写とかこそが、余計にエロさを際立たせる構図には、画力以上の巧さが要されさすがとしか。
3巻。とか書いてたら、ミサキさんAV出演時のエロ描写に故人の過去登場人物らが絡まり展開の中軸へ。シリアス場面でも細かく挟んでくる笑い要素が大きく退いた印象あるのは若干残念。
ι. 新久千映 『ワカコ酒』 3 徳間書店
ひとり呑みが好きなOLさんの肴処探訪。
主人公のデフォルメ眼が初めどぎつくやり過ぎではと感じたけれど、結局これが目を引くし、瞳に手数をとられる描画はそれだけ視線も集中させるから、小粋な一皿へ主眼したいエッセイ漫画としては正解なのだとわかる。なるほどなー。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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