“ 時間というものを、歌うという媒体で考えてみなさい ”
― Eberhard Bethge, 1944
・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心
今回は、ボンヘッファーの思想を中心に。ほぼ『名もなき生涯』映画評↓の作成メモとなりまする。
抵抗と信従 『名もなき生涯』映画評: http://www.kirishin.com/2020/04/01/42217/
※バンコク移住後に始めた読書メモです。よろしければご支援をお願いします。
Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV
お前がもし自由を求めて出で立つなら、
何よりもまず、お前の感能と魂とを律することを学べ、
欲望と肢体とがお前をあちこちへと走らせることがないために。
お前の精神と肉体とは純潔であれ。お前は自分をよく服従させて、
定められた目標をひたすら追い求めよ。
紀律によることなしには、だれも自由の秘義を経験する者はない。
Zucht
好きなことをでなく、正しいことを敢えて行なう。
さまざまの可能性の中に揺れるのではなく、勇ましく現実性をつかみとれ。
思考の逃避の中にではなく、ただ行為の中に自由はある。
不安に満ちたためらいから、出来事の嵐の中に踏み出せ、
ただ神の戒めとお前の信仰に支えられて。
そうすれば、自由は、お前の精神を歓呼しつつ受け入れるであろう。
Tat
驚くべき変化。力強く行為する手がお前に結ばれる。
無力さと孤独のうちに、お前は自らの行為の終わりを見る。
しかし、お前は深く息を吸い、静かに、そして心安らかに、
より強い御手に正しさを委ね、満足する。
ただ一瞬でも、幸せにも自由に触れたならば、お前はそれを神にゆだねよ。
彼が自由を美事に完成するために。
Leiden
いざ来たれ、永遠の自由にいたる途上にある最高の祝祭、
死よ、われらの過ぎゆく肉体と目くらまされた魂との
重苦しい鎖と壁とを打ち破れ。
この世では、われらが見ることを拒まれたものを、ついに見いだしうるために。
自由よ、われらはお前を、紀律と行為と苦難の中に探し求めた。
死に臨んだ今、神の御顔を仰ぎながら、われらはお前自身を定かに見る。
Tod 0-425-6 3-30-1 5-120-150
良き力あるものに変わりなく静かにとりまかれ
不思議に守られて心安らかに
私は、この日々をあなたがたと共に生き
あなたがたと共に新しい年へ入っていきます
Von guten Mächten treu und still umgeben,
behütet und getröstet wunderbar,
so will ich diese Tage mit euch leben
und mit euch gehen in ein neues Jahr.
良き力あるものに不思議に守られて
何が来ようとも、私たちは、心安らかにそれを待ちます
朝に夕に神は私たちの傍らに居てくださいます、
そして新たないずれの日にも、まったく変わることなしに
Von guten Mächten wunderbar geborgen,
erwarten wir getrost, was kommen mag.
gott ist bei uns am Abend und am Morgen
und ganz gewiss an jedem neuen Tag. 0-470-1 4-134-150
神よ、あなたの永遠の中に沈み込みながら
私は、私の民が自由の中へと歩み進めるのをみます。
罪を罰し、しかも喜んで赦される神よ、
私は、この民を愛しました。私は、この民の恥辱と重荷とを負い、
また、その救いをみました――これで十分です。
私を支え、私をつかんでください。杖が私の手から離れます。
真実な神よ、私の墓を備えて下さい。 4-395
0. D. ボンヘッファー E. ベートゲ 『ボンヘッファー獄中書簡集』 増補新版 村上伸訳 新教出版社
未読ゆえ項目番号“0”。なお
本稿に限り、項目番号0~6は引用部付記数字冒頭に対応する。Amazon古書最安1万円、仮に銀座教文館ほかに在庫あっても定価6000円のため、沼田牧師実家蔵書をいずれ借りようと考えていた。が、“日本の古本屋”にて4500円出品発見、只今郵送中。(後日注:届いた。かつAmazonにて3000円台出品目視……届いたの美麗品だったのでいいんだ門)
ヒトラー自死と同月まで生きながらナチスにより処刑された神学者の獄中記に心囚われたのは、要は半ばライフワーク化しつつあるアウシュヴィッツ関連読書の系譜へ、《映画大好き》と(芸術の次は)《宗教について考える》のゆるふわラインがこの一点で不意に収束、同一の位相へ着床したから。驚天動地というしかない。
ホロコースト関連最新メモ「よみめも45 魂消る」: https://tokinoma.pne.jp/diary/2972
1. D. ボンヘッファー 『現代キリスト教倫理 (ボンヘッファー選集)』 森野善右衛門訳 新教出版社
原題は“Ethik”《倫理》で、新教出版社から出るボンヘッファーの著作に「現代キリスト教」と付加する意味は薄いばかりか、原題のもつ含蓄と振り幅が損なわれ映画の冗長邦題並みにがっかりなのだが、これについては次項続ける。
キリスト教的生活は、究極以前のものの破壊でも認可でもない
キリストにおいて神の現実が世界の現実に出会っている 1-122 5-190
だから、究極のことをいよいよ強く宣べ伝えることによって究極以前のことを強め、また究極以前のことを維持することによって究極的なことを守る、ということが大切なのである 1-133 5-191
責任を負う生活の構造は、次のような二重の要素によって、すなわち、神と人間とに生活を束縛されることによって、また自分自身の生活の自由によって、規定されている。自分自身の生活を自由にするのは、この神と人間とに生活が束縛されることによってである。この束縛と、この自由なしには、責任ある生活は存在しない。ただこの束縛の中で自分を空しくする生活だけが、自分自身の生活と行為の自由を生み出す。この束縛は、代理(Stellvertretung)と現実に対する即応性(Wirklichkeitsgemäßheit)という形を取り、この自由は、生活と行為の自己吟味(selbstprüfung)と具体的な決断の冒険(Wagnis)において明らかにされる。 1-253-4
一見逆説的な概念の転倒にも見えかねないこの「自由」をめぐる言及から、下記のような指摘が導き出される流れはなかなか。
すべてのイデオロギー的行動は、その正当化をいつもすでにその原則のなかに所有しているのに対して、責任を負う行動は自らの最終的な正当性について知ることを断念する。 1-265 3-182
当然と言えばもちろん当然なのだけれど、一方でこれは拙速に自明視できてしまう人間こそ犯しがちな誤謬かもしれない。
服従が自由を制限し、そして自由が服従を高貴なものにする。()
服従というものを独立のものとして考えると、カント的な義務の倫理に導かれ、自由だけを切り離して独立させると、天才の倫理に導かれるであろう。義務的な人間も、天才と同様に、その義認〔の根拠〕を自分自身の中に持っている。責任ある人間は、束縛と自由との間に立ち、束縛された者として、あえて自由に行動しなければならない。しかしその彼は、自分の義認〔の根拠〕を、その束縛の中にも見出さず、ただ彼をこの――人間的には不可能――状況に置き、彼にその行為を要求し給う方の中にのみ見出す。責任ある人間は、彼自身と彼の行為を、神の御手にゆだねる。 1-286-7 3-224-5
独裁的な人間軽蔑者にとっては、人気があるということが最高の人間愛のしるしであり、彼は、その心の中に持っている、すべての人間に対する根強い不信の感情を、真実の交わりから盗用した言葉の背後に隠している。彼は、群衆の前では、その一員であると言いながら、その嫌味たっぷりの虚栄のなかで自分自身を誇り、個々人の権利を軽蔑するのである。彼は、人間を愚かな者と考え、そして人間は実際愚かなものになる。彼は人間を弱い者であると思い、そして人間は弱い者となる。彼は人間を犯罪を犯しやすい者であると考え、そして人間はそのような者になる。彼のどのような真面目さも、くだらない遊びに過ぎず、彼の正直で真実らしく見える配慮も、実はあつかましい恥知らずの行為なのである。()人間軽蔑と人間神格化とは、深く関連している。 1-26 3-168
Michael Winterbottom "Wonderland", 1999 https://twitter.com/pherim/status/1072464388794318850/pho...
むしろ、キリストとこの世界とを、少なくとも一つの原則的概念によって同一標準で計量し、そのようにして、この世界における一つのキリスト教的行動を原則的に可能ならしめようとする試みは、一方では世俗主義、あるいは「固有法則性」の教説という形において、他方では熱狂主義という形において、キリストによって神との和解を受けた世界が崩壊するという事実を招来する。またこの試みは、すべて悲劇的なものの素材を造り出し、かくしてまさにキリスト教的な生と行動との全く悲劇的ならざる一致を破壊する、永遠の対立抗争へと導くのである。この世的原則とキリスト教的原則とが、互いに対立しているところでは、究極的現実として律法が支配する。人間が、互いに調和し難い律法の対立衝突の中で破滅するというところに、ギリシア悲劇の本質がある。クレオンとアンティゴーネ、ヤソンとメディア、アガメムノンとクリムネストゥラは、同じ一つの生において和解されえない、かの永遠の律法の要求の下に立っている。 1-261-2
このキリストの恵みに注目することによって、われわれは、他人の罪を気にすることから解放され、キリストの前に身をかがめて、「ワガ罪、ワガ最大ノ罪」(mea culpa, mea maxima culpa)と告白せしめられる。
この告白によって、この世界全体の罪責が、教会の上に、キリスト者の上にふりかかる。そして教会がここでこの罪を否認せず、告白することによって、罪の赦しの可能性が開かれる。道徳家には全く理解できないことであるが、そこでは本来的に罪ある者たちが求められているのではなく、また当然のつぐない、すなわち悪人に対する罰と善人に対する報酬が要求されているのでもない。そこでは悪人はその悪の責任を身に負う――「不義な者はさらに不義を行う」(黙示録22・11)という意味において――のではない。 1-69 3-168
pherim過去日記「祈り (ii)」:
https://tokinoma.pne.jp/diary/2003
恵みの御言葉である神の究極的な御言葉は、ここでは、すべての抵抗を粉砕し軽蔑する、氷のように冷酷な律法に変る(例えば、イプセンにおけるブラントの姿を見よ)。
もう一つの解決は、妥協(Kompromiß)という道である。ここでは、究極の御言葉は、すべての究極以前のものから、原則的に分離される。究極以前のものは、自分自身のうちに存在の権利を持ち、究極のものによっておびやかされたり、危うくされたりすることはない。依然として世界は存在しており、終りは未だ来ない。しかも、究極以前のことは、神が造り給うたこの世界に対する責任においてなされなければならない。しかも人間は、そのあるがままの姿において評価されなければならない(ドストエフスキーにおける大審問官)。 1-116 3-198
イプセンについてはベートゲ著↓、項目3末尾にて。
2. D. ボンヘッファー 『キリストに従う(ボンヘッファー選集3)』 森平太訳 新教出版社
“Nachfolge”《服従》が原題。原著は1937年出版でボンヘッファー生前の出版物としては最大のものとの由。1963年初邦訳時のタイトルは『主に従う』で、「キリストに」とか「主に」と加えてしまうことの蛇足感は、今日の国内出版界の近視眼的な蒙昧さを想起させる。(熟慮のうえ合意された最適解であったろう日本語思考の枠組みこそが問題なので、訳者や編集者個人に罪はない。しかし上述の『倫理』でも後述の宮田光雄著でも本書は『服従』となっていて、もし機会があるなら改題したほうがいいんだぜ)
さて本書は、第二次大戦への機運高まる戦間期ドイツにおいてボンヘッファーら若き神学者らが取り組んだ“ドイツ教会闘争”のもと、聖書の言明に立ち返り精神を深く掘り下げることで己の行動原理を確定させるべく為された、ボンヘッファー個人の内面における格闘の軌跡とも言える。非キリスト者にも、キリスト者と同等に読む価値を抱かせるとすればまさにこの点ゆえで、たとえば紀元前の欧州なりコロンブス到来以前のアメリカなりといった聖書の存在しない世界においてさえ、ボンヘッファーが本書で試みた思考の道筋自体は遡行され得る。
というSF的仮定をわざわざ経由させるのは、キリスト教にかぎらず宗教者なり信徒なりの語る信仰対象をめぐる言葉にまとわりつきがちな過度に「ありがたがる」言及志向に気味の悪さを覚える自分もまた、同じテクストに当たり同じ言語で思考する以上、無自覚に同形的志向を内在させるだろうからだ。「ほめたたえる」みたいな語用に、信者でもない人間が心服する姿は単にキモいし要は嘘っこさんである。
偽者だらけの世の中、にしても。ね。
ボンヘッファー生前の主著であるとはつまり、ナチス捕捉による獄死への意識を内容が伴っていないということでもある。この面で今回通読した数冊のなかでは唯一の性格を本書がもったために、非常に抑制された印象を受けた。あえて言えばそれゆでに内容がストレートに入って来ない。本書の中核は「山上の説教」とか「山上の垂訓」などと呼ばれる、「こころの貧しいひとは幸いである。天国は彼らのものである。」から始まるあの有名なくだりへの注釈で、そこへ至るために信仰がもたらす「安価な恵み」と「高価な恵み」が序盤において対置され、「地の塩」や「狭き門より入れ」といったキリスト教における核心的教義が後半で順次扱われる。
しかしこれらについて“わかる”ことが本書を読む目的とはならないので、その逐一をめぐりここでは述べない。
3. E.ベートゲ 『ボンヘッファーの世界 その本質と展開』 日本ボンヘッファー研究会訳 新教出版社
盟友ベートゲによる渾身のボンヘッファー解説書。という文脈から手にとった一冊ながら、神学者ベートゲの独立した思考もまた出色で実り多き一著だった。この意味でとりわけ印象深いのは、中盤の「時の主への讃美」と題された一章。それは詩篇104章の引用から始まる。
わがたましいよ、主をほめよ。……
あなたは月を造って季節を定められた。
日はその入る時を知っている。……
彼らは皆あなたが時にしたがって
食物をお与えになるのを期待している。……
あなたは地のおもてを新たにされる。……
わがたましいよ、主をほめよ。ハレルヤ! 3-68
実際の詩篇104章には、このような連なりは存在しない。この表記は、同章の第1, 19, 27, 30, 35節をベートゲがつなげたものだからだ。そしてこの編集自体が、つづく本論部において著者が繰り広げる時間論の掌約となっている。ここが見事。
ひとは日常、24分割された時計盤に隷属する生を無自覚に受け入れるし、受け入れない他者を社会は受け入れない。そのような秩序を律しつつも超越するのは宗教の主要な役割のひとつである以上、言うまでもなくこれに無自覚的な宗教者など超越をダシに現下の関係性のみへ依存し切った偽者で、この点で本日本語訳書全350頁中17頁に過ぎない「時の主への讃美」の一章があることで、極私的にベートゲという初見の神学者に対する信頼はいや増した。pherimはガチリスペクトのまなざしでみつめている状態へ完堕ちした。
しかし、神の讃美は現在のことであります。神をほめるということは、観察しながら分析するという行為から祈りの行為へという、あの注目すべき飛躍なのです。論証の交換から、歌いかけることの実施へ、です。それは、他の宛名人の臨在へ向けたあの献身です。それは、歌いつつ彼を共に受け入れてくれる人々、――あるいは、彼が共に受け入れるところの人々との交わりの中へ入ってゆくことであります。
もし今日、歌われることが非常に少ないとするならば、それは、私たちが神を忘れたということの徴候の一つです。 3-71
歌われること。歌われなければならない、ということ。これを「
時間というものを、歌うという媒体で考えてみなさい、というわけです」と考えるベートゲ、のように考えてみる。コロナ時代の愛、みたいな文脈でこれは昨今よく言われることへ直に通じる。
Terrence Malick "Song to Song", 2017 https://twitter.com/pherim/status/1250911651487858688
ここではしたがって、時間という現象はさし当たり、そしてまず第一に、ハレルヤの、つまり歌(Kantilieren)の領域に属しています。 3-70
「個人的・教会的・社会的な時の干満(Gezeiten)というものを分析」するのではなく、「全く目的をもたない音楽的な遊び、合唱であれソロであれ会衆の歌であれ、とにかくそういった見方から考える。」「このことによって今朝私たちは、昨日、また明日なされるのとは全く違ったことを何かしているのです。」 3-70-1
いったい私たちが時の主人や彼の賜物を讃めたたえることによって、誰を、そして何を歌っているのか。私たちのテキストはこのことを内容的には二つの仕方で叙述しています。
(1) 神が時を区分される。
(2) 神が空虚な時から満たされた時を作られる。 3-72
ここから話はバルトへ飛び、「アメリカの7月4日、フランスの7月14日、ソヴィエトの11月8日に対応するようなものが欠けている」ドイツへ及び、シュライエルマッハーの永遠モデルを「悲観的できびしい」ものとみなして、テーゲル獄中のボンヘッファーへと至る。熱い。クロノスとモロク。熱いぜ。
なおベートゲは、上述『ボンヘッファー獄中書簡集』の編者でもあることから、書簡集を含むボンヘッファー他著書群との往還が明晰で、同群を理解する大きな助けともなる。たまたま地元図書館にあっただけだが、ボンヘッファー理解の必読書と言える内容。かつアウシュヴィッツ後を生きる者として、そうは生きられなかったボンヘッファーの可能的生をも担おうという意思の感じられる後半がまた強い。が本稿で扱うには手に余る。そこはあくまで、メモですので。
ブラント お前は、なんでも与えると言っているが、お前の生命は与えていないじゃないか。それだったら結局何も与えていないことになるのだ。(32頁)
ブラント お前が出来なかったというのであれば許されるのだろうが、しかしお前がやろうとしなかったことについては、決して許されないだろう。(51頁)
ブラント 困難な道を歩む者だけが、実を結ぶものなのだ。
神の意志を行う者は誰でも、この唯一の道を喜んで歩いていく。
アグネス 恵みの道のことでしょうか。
ブラント (首をふりながら)捨て石の上に気づかれる道のことだ。
アグネス (こわばって、身ぶるいしながら話す)今やっと、喉の奥深くから、これまでずうっと理解できなかった聖書の言葉が浮かんできました。
ブラント 何という言葉だ?
アグネス 「神を見たものはすべて死ぬ!」という言葉です。(99頁以下) 3-199 1-116
4. 宮田光雄 『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想』 岩波現代文庫
彼は「時として駆られる詩作の衝動」があると記し、「不思議なことに韻はおのずからととのい」「全体は数時間のうちに一気にできてしまう」と伝えています。ボンヘッファーにとっては、それは「過去と対決し、さらにそれを獲得する試み」を意味するものであり、「人はすべてをやってみなければならない。しかし、それは、ただ何が神の道であるかということをいっそう明確に知るためである」 4-107
《究極以前のもの》は、まさに《究極以前のもの》としてふさわしい真剣さで真剣に受けとめなければならない ()《究極以前のもの》にたいしては、それをあたかも《究極的なもの》であるかのように絶対視することのない、非陶酔的な=醒めた関わり方を教えるものである 4-212
「自殺は、人間的に無意味となった生命に、最後の人間的な意味を与える人間の試みである」。そこでは、自分の人格を恥辱と疑惑から救い出すという動機が優先しているでしょう。こうした「自己義認は、神の前では端的に罪となり、それゆえに自殺もまた罪となる」とボンヘッファーは名言しています。それは、神が挫折した生にも、ふたたび意味を権利とをあたえうる方であり、まさに生の挫折という出来事を通してはじめて生はその本来の充実に到達しうるものだ、ということが信じられていないからだ、というのです。ここでボンヘッファーは、自殺にたいする純粋に道徳的な批判は不可能であり、ただ神の御前でのみ自殺の権利が否定される、としているのも注目されます。 4-227
「イエスは自己のうちに、すべての人間の《私》(das Ich)を受け入れ、担われる方として生活された。彼の生涯、行動、苦難の全体は、代理である。人間が生き、行動し、苦しむはずのことは、彼において成就している。彼の人間的実存を形づくっているこの真実の代理的行為において、彼は、端的に責任を負う方であられる」。
したがって、イエスにならい「代理する」ということ、それゆえ「責任を負う」ということは、ただ自分自身の生活を「他の人びとのために捧げつくす」ところにのみ存在し、ただ「無私のものとして生きる」者のみが、責任的に生きるのである、と結論するのです。代理は、特定の状況において具体的な隣人にたいして行われます。たとえばボンヘッファーにとって、迫害されるユダヤ人のために代理する者となることこそ、ナチス・ドイツの反ユダヤ主義に反対する闘いを神学的に根拠づけるものだったのです。 4-242
ここでは、十字架の神学が問題なのである。()自分の苦難を見つめることを止めて、共に苦しむという積極的な連帯感に目を向けるなら、そのとき苦難は、大いなる《私》の強さを証明するように変えられるのである。
()してみれば《この世的》解釈を取り上げようとする場合、その背後にある逆説的な神信仰を見失ってはならないでしょう。《この世的解釈》は、つねに、十字架の神学に立つ成人性の認識を前提するものなのですから。 4-297
《此岸性》あるいは《この世性》と言われているものは、ボンヘッファーにおいて、()いわば終末論的な次元をもっており、信仰を通してはじめて、その深い尊厳性が認められるのです。逆に《平板な此岸性》は、既成事実の前に身を屈するだけで、「所与のものを越えて考える」自由(D・ゼレ)をもちえないものなのです。
《真のこの世性》は、第二に、此岸的生の《豊かさ》ということ、彼自身の言葉でいえば、《生の多声性》という形であらわれます。()神を全心から愛することは、けっして人間に宗教的隷属性をもたらすものとは考えないのです。むしろ、神への関わりが人間を自立性へと解放するのであり、ここで人間の演ずるパートはたんに受動的な《反響》としてではなく、可能なかぎり強力に響く能動的な《対旋律》を形づくるものとされていることも注目に値するところです。
別の連関では、彼は、同じ事態を生の《多次元性》とも呼んで取り上げています。 4-314
「人間は、すべてを解決した。ただ自分自身だけは解決できずにいる。あらゆることにたいして自分を安全に確保することができるのに、ただ人間にたいしてはそれができなかった。最後は、やはり人間が問題になる」。 「教会は、()逆にみれば、苦難の主にたいする信仰のないところでは、この世は、《作業仮説》としての神へ、疑似《宗教》へ逃げこもうとする誘惑へさらされています。この世は、みずからの《まったきこの世性》に踏みとどまることに耐えられないのです。なぜなら()自分の存在を支えるために、特定の地上的な価値を絶対視する幻想や偶像をつくり出すことになりがちなのです。 4-316-7
ボンヘッファーにとって、《真のこの世性》に生きる信仰とは()、イエス・キリストとの出会いにおいて「人間の全存在の転換」が生ずる経験です。「しかも、それは、イエスがただ《他者のために存在する》ということにおいてのみあたえられる」経験だというのです。 4-321
しかも、ここでは、権力によって身体的に弾圧・追放されている人びとではなく、一連のデマゴギーによって自立性を奪われ、人権や権力分立などについての判断力を奪われ、いわば《未成人化》されて体制の同調者・協力者となっていった民衆の姿に目が向けられています。 4-334
《祈る》こととは、日常的現実を越え出て、神の世界の現実に固く立つことにほかならない。それは、自己自身にたいするとらわれから解放されて、この世において《正義を行なう》責任と結びつく。ボンヘッファーにおいて、この二つのものは、けっして切り離されることがなかった。信仰は、他者のために生きる行動において具体化され、けっして内面への自己逃避に終わることはない。逆に、祈りは、正義を行なうことを現実追随的な機会主義やイデオロギー的な自己絶対化の誘惑から守ってくれるであろう。
()
ナチズムにたいする妥協を知らないボンヘッファーの闘いは、同じく妥協を知らない彼の神学的思考の徹底性に通じていた。彼は、神について《非宗教的》に信じ、《この世的》に語るというプログラムを考え抜く。神を信ずることは、生のまったき《此岸性》においてのみ可能である。なぜなら、神は星の彼方にいるのではなく、まさにこの世の只中において、その根拠であり中心であるのだから。「神は、われわれの生の只中において彼岸的なのである」。
()神が生の《限界》においてではなく《只中》で、生の《弱さ》においてではなく《強さ》において経験されるということ、神を人間の《後見者》としてではなく《解放者》として経験するということ、そこには、キリスト者であることを《成人性》に生きる人間としてとられるモデルネのすぐれた遺産がこだましている。 4-390-1
終盤、ボンヘッファー文脈から天皇とキリスト論へ離陸するのだけれど、この宮田光雄というひとの気骨が現れていて良い。初読のひとだけど、これは興味わいてまう。
5. 村上伸 『ボンヘッファー 人と思想92』 清水書院
責任を負う生の構造は、次のような二重の生き方によって規定される。すなわち、神と人間とに生を結びつけること(Bildung)と、自己の生の自由(Freiheit)とによって 5-83
「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」
「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」
このように、拘束と自由とは、責任ある生の切っても切れない両面なのだ。
そして拘束は、ボンヘッファーによれば、「代理」(Stellveretung)と「現実に即すること」(Wirklichkeitsgemäßheit)というかたちを取り、自由は、生活と行動の「自己吟味」(Selbstprüfung)と具体的決断という「冒険」(Wagnis)のかたちを取る、と言う(254)。 5-83
私は何者か? ただひとりでこう問う時、その問いは私を嘲る
私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ 0-404 3-112 5-135
近代神学というものは、啓蒙主義以後の新しい思想、ことにカントの批判哲学や急速に発達した自然科学などと折衝し、いわば人間主体に強調点を置いて考えた神学である。シュライアーマッハーの、宗教は形而上学でも道徳でもなく「感情」である、という考え方はその意味でまことに象徴的だ。それは一応宗教改革から出発してはいるけれども、ルターの一種悲観的な人間論や一七世紀のルター派正統主義には同調せず、理性を重んじ、進歩を信じ、人間に内在する可能性を認める神学であった。
そのような神学が、あの第一次大戦の問題性を見抜けないというのはどうしたことか。 5-156
ボンヘッファーは世界と人間の現実をイエス=キリストの受肉と十字架と復活において見た。われわれの生活においては、その現実、つまりキリストのかたちが形成されることが大切である。それに逆らうのが「自分自身の創造者・審判者・革新者となる人間」(『倫理』1-67)であり、このような人は「自分の本来の在り方から外れており、それ故に遅かれ早かれ自分自身を破壊してしまう」(同)。これが、イエス=キリストに対する背反、つまり罪である。
注意深い読者なら、「自分自身の創造者・審判者・革新者」という表現の中に、ヒトラーの生き方を見出すに違いない。 5-183-4
さらに宗教のもう一つの特長は、「個人主義的」(『獄中書簡集』0-329)、あるいは「内面的」ということだが、これも聖書の神とそぐわない。ボンヘッファーが聖書に見出した神は、個人の内面にだけ関わる神ではなく、世界の歴史に介入し、歴史を動かし、そこに「神の支配」を打ち立てる神であった。
従って、神はもとより、聖書の重要な概念はすべて「非宗教的に」解釈されなければならない。それは「彼岸的・個人的」にではなく、「此岸的に」、「この世的に」ということである。「宗教的に」信じられた神はもう死んだのだ。
「神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。上の前で、神と共に、われわれは神なしで生きる」(同0-417)という言葉は、こうして理解されるのである。 5-201-2
エリー=ヴィーゼルは一五歳の少年の時、アウシュヴィッツに収容されて、無数の人々が、とくに子供たちが殺され、焼かれるのを見た。彼にはもう、神が信じられなくなる。「いったい神はどこにおられるのか」というのは彼の実存的な問いであった。()
しかし、ボンヘッファーは、まさに十字架につけられ絶望の叫びを洩らして死んでゆくキリストの中に神を見たのであった。「神は、ご自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである」(同0-417)
聖書の神は、「オリエントの諸宗教の場合のように怪奇なもの・混沌としたもの・遠いもの・恐ろしいものとしての獣の形をとるのでもなく」(0-438)、人間のかたちをとった。つまり、「他者のために」(0-438)生き、苦しみ、無力になったイエスである・まさにここに、ボンヘッファーは神を、「超越」を見た。だから、「神の助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による」(0-418)、と書くのである。
()そしてまさにここから、彼はキリスト者の生のかたちを導き出す。 5-202-3
6. ザビーネ・ライプホルツ=ボンヘッファー 『ボンヘッファー家のクリスマス』 ロコバント・靖子訳 新教出版社
双子の妹ザビーネによる来し方&兄ディートリヒ回想録。彼女にはボンヘッファー家をめぐる主著が他にあり、本書は読み物的に幼少時のクリスマス回想へ焦点が当てられる。
ディートリヒ当人の思想言動をめぐる1~5の胸熱感とは異なる質の迫り来る情感に予想外の厚みあり。とりわけ幼少時のクリスマス行事をめぐる、家族や親戚たちの振る舞い、飾りや料理の細部描写、子供視点の感覚描写は個人史文脈とは切り離しても価値ある記述で読ませる。『花嫁と角砂糖』のプロイセン版だなと。
『花嫁と角砂糖』:https://twitter.com/pherim/status/976265014465110016
母は詩篇をすべて暗記していたとか、そういう教養世界もあるのかとしみじみ感じ入る。妹視点での、ナチスに囚われて以降のディートリヒをめぐる記述はガチに切ない。なんだその語彙。
7. 土井隆義 『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』 岩波書店
多様な生き方が認められるようになった社会では、()いわば内在化された「抽象的な他者」という普遍的な物差しが作用しなくなっているために、その代替として、身近にいる「具体的な他者」からの評価に依存するようになっているのです。 16
そこで最後まで共有されうるのは、対立をはらまない限りにおいて互いの差異を認めあうという基本的な態度だけです。なにか具体的な目標を共有することでつながっているわけではありませんから、表面上はいくら同質的な関係に見えても、一皮むけば簡単に傷つきやすく、じつは非常に危うい関係になっているともいえます。 22
絶対的な拠り所は、Aの側面も正しいがBの側面も正しいといった多義性をはらんではなりません。()
今日の若い人たちが内キャラにこだわるのは、()人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱えているからです。だから、どんな視点からも相対化されることのない不変不動の準拠点として、持ち前のキャラに依存することになるのです。内キャラが、多面的な要素から成り立つアイデンティティとは異なり、外キャラと同様に一面的で、輪郭もくっきりとして単純なのはこのような理由によるのでしょう。 33
SNS上では以前にも一度白状したことがあるけれど、十代の終わりにかなり執拗な仕方でキャラ(ここでいう内キャラ)設定を試みたことがある。恐らく特異なのは、最終的にこの内キャラは9人格へ構成されることで安定をみたことだろう。統一をむしろ拒んだため、「外キャラ」への連絡などあらかじめ望むべくもなく、20代30代を通じてひたすら内に篭る時期と超外向時期が繰り返されたのも、振り返れば当然のこととわかる。
ちなみにこの9人格はのち4人格へ収斂し、少なくとも内面における思考軸・行動律の参照項として、今も日常的に起動している。たとえばいまこれを打つのがうち誰であるのかについて、わからないということはない。(わざわざ意識する習慣はないにしても)
この点は一度ニコ生だかUstreamだかで喋ったこともあるけれど、その場では単に面白ネタとして消費された感あった。いやべつに、まったくいいんですけどね。
九七年には、その関係が逆転し、自己能力感の高い生徒ほど高い学歴を求めず、学習時間も短い傾向が見られます。このデータが示唆するのは、生まれもった素質として自己能力を捉える傾向が強まった結果、知識でそれを補強する必要などないと考える人びとが増えているという事実ではないでしょうか。
()逆に言えば、いくらがんばって良い結果を出しても、それは本物ではないと思えてしまう 34-5
もうね、心当たりありすぎて死ぬ。
いくら完璧なセキュリティの壁を周囲に張りめぐらしても、真に不気味で異質なものはその内部から紡ぎ出されてきます。 53
「張りめぐらせて」だろうけど、この一文は良い。今年還暦になる学者の隠しきれない厨ニ感が露出しており、良い。以降「異質な自分」との出会いに論旨が焦点化されていき、結びでは押井守『スカイ・クロラ』へ言及される。え、そういう本だったの。良い。
間接自殺の亜種ともいうべき一連の無差別殺傷事件が私たちに突きつけているのは、この排除型社会の仕組みとそれを支える心性を克服できなければ、いずれ最後には、自分自身を自分から排除せざるをえない結末が待っているという「宿命」なのです。 63
8. 伊藤亜紗 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 光文社新書
拙SNSオフ会常連のお一人に全盲のかたがいらっしゃり、視覚障害者の美術鑑賞などにも取り組んでおられるかたで以前から諸々懇意にさせてもらっているのだけれど、彼女に出会う当日のあさ話のネタになればと本書を読みだし、試写通勤の電車内ほかで読み継ぎ夜のオフ会までに読了。しかし酔いも手伝い、あとで聞こうと読みながら思ったことの大半を聞きそびれた。
視覚障害の共感覚的理解とでも言おうか。鬱陶しさを免れない「共感」などよりだいぶ即物的で渇いた手つきが肌に合うし、ベタにストレートな嚥下を自ら阻むような全編に一貫する“読み換え”のスタンスが興味深い。“読み換え”とはたとえば「見えること」を「欠如」と捉えるような試みで、考えるとはこうした試みのことを本来いうので、「よく考えてからものを言え」的な世間は単なる思考停止の集合なのだが、本書が巧いのはそうした世間に標準を合わせたダウングレードぶりであり、つまりは思いのほか浅い。
そう感じたままに常連の彼女に尋ねてみると、やはり界隈でも本書の評判は「浅い」のだそうで、これはネガというよりおそらく成功の証なのだろう。光文社新書的には。
9. 安野モヨコ 『美人画報ワンダー』 講談社文庫
バンコクでなんとなく手にとり、街なかを持ち歩きつつ読み通してしまった。美容雑誌連載企画の、容姿スタイルにコンプレックスありありの漫画家による美容修行、といった態なのだけど、載っている写真をみるかぎりふつうに美人なのではとも。
ともあれ基本は活字エッセイながら文章付きのカラーイラストが多く、色遣いがハッキリしており目に喜ばしい。以前に漫画もけっこう読んだけれど、ファッションイラスト側からの需要がとてもある人だろうなと納得の。なんにせよ美容ですからね、実用的に得るところがあるわけでもなく、強いて言えば当人の気合かな、が読んでいて楽しかったのでござろう。
ところでAmazonの商品情報が間違ってどこぞのリーマン小説系おやじ作家のもの(たぶん)になっておりちょっと面白い。↓
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バンコク会社在庫の一。
10. アンドレ・ケルテス 『読む時間』 創元社
André Kertész "On Reading" 日本版は谷川俊太郎の巻頭詩あり。テーマを意識せずめくり出し、途中で気づき、ほぅと感銘。これをアハ体験と言ってしまうと何かが抜け落ちるのだけれど、受容フェイズの移行のようなその瞬間を体験できた驚きこそ吉。
東京都写真美術館ミュージアムショップにて。→
https://twitter.com/pherim/status/1231545439410778113
ケルテスの写真へのアンサー詩として良質で、ほのぼの良い詩とも感じながら具体的なフレーズが想起できない。
▽コミック・絵本
α. 柳本光晴 『女の子が死ぬ話』
つよがる夭折の薄幸少女、を愛するイケメン男子、の二人を崇めるスポーツ女子。という黄金鉄板なトライアングル語り自体は読み終えてみると意外なほどありきたりなのだけど、つまり読んでいるあいだはその幹がどうでも良いほどの充実を他の側面が支えていて、そこは少女漫画ちっくでもなく独特な読み味あり。
それはさておき『響』の作者だってことに、読み終えてだいぶ経つまで気づかなかったし、とりわけ描く自家用車が下手すぎる。絵心が先走るタイプではない漫画家の定形的筆致が昔から苦手なのだけど、『響』を読んでいたときにはそういう感じをあまり持たなかった。上達したのか、何かを克服したのか。不思議。
あと、特定のキャラをひたすら愛でるために他のキャラを配置するテクに磨きをかけてる語り手なのかも、など。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 石川雅之 『惑わない星』 4 講談社
大変感銘を受けましたまる。こういう方向への展開は想像していなかったけど、これちょっとした『進撃の巨人』輻輳曲にも聴こえてくる。いやそんな言葉ないんですけどね。
「水圏」(露骨に影響を受け書かれた日記): https://note.com/pherim/n/nd5de39ee0d83
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γ. 二瓶勉 『人形の国』 5 講談社
5巻にして人形の国ようやく到来。この薄白く柔らかい点描線主体のページをめくっていく体験に独特の淡い快楽が良い。真地底教会とか、予想してなかった方向への展開も好ましう。この点『BLAME!』『シドニアの騎士』より先へ進んでる感。
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δ. 山本直樹 『レッド』 5 講談社
山岳ベースの悲喜こもごも。前巻の壮絶さはなく、厳しいながらも性欲が諸処で問題となる若さと長閑さにあふれた中だるみ感さえ。巻末に生き残り登場人物モデルと山本直樹との写真付き対談があり読ませるのだけれど、電子版で読んだひとは各巻巻末付録の存在を知らないらしく。でもこれ読みながら次の巻へ進むのとそうでないのとでは、作品鑑賞の質がまったく異なってくる。差異化が表現的な不均衡をもたらすこうした仕草はそれなりに、現行出版社の課題かもなど。
あと前巻よみめも(「よみめも56 香港/電影/大陆」)にて、「赤城(永田洋子)の、予想外の事態が起きた際の凍りついた表情連発が、以後どのように(画的に)狂っていくのかも楽しみ」と書いたけれど、本巻では別の女性・薬師の表情描写として顕現してた。(↑冒頭画像)次巻以降において、彼女は次に死ぬ人物と確定されている点こそ意味深い。
ε. 松本大洋 『竹光侍』 4 永福一成 作 小学館
主人公出生の秘密などへの物語展開、こちらの期待値の問題だろうが松本大洋の筆致にあまり合わない印象。末章で新敵キャラ登場かと思いきや登場話中で死んでまうビイドロの鉄なぞす。どうしたらのち活きる伏線になるのかいまいち読めない楽しみ、といえば楽しみ。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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