↑ヤヌス仮面(イボ/イガラ族, ナイジェリア), キフェべ仮面(ソンゲ族,コンゴ), 仮面(コディアック,アラスカ)
・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。
※詳細は「よみめも 1」にて→ 後日掲載&URL追記予定
※※今回から十段階評価をやめる。《筆記順≒読了に費やした時間or心的熱量》は継続
1. カント 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 中山元訳 光文社古典新訳文庫
本丸はもちろん
理性批判三部作だけれども、まずは掌編から。「永遠平和のために」で面白かったのは、現在の国連の不完全性こそある意味では完成形だと納得させられたこと。国家が行動主体として存するかぎり、国連的な協働機関が致命的な不合理を抱えることはむしろ健全だ、みたいな。
「神の命令に反すること」から導き出された人間の抱える本質的な《悪》性が、人間社会の発展には不可欠の要素という言明はすこし意外だった。悪徳への渇いた肯定。それにしても、神なのか。
最後の日の後に起こる出来事というのは、人間が理論的には認識することのできない事柄の全体を、道徳的な帰結として目にみえるように示したものと考えるべきなのである。 p.113 「万物の終焉」
2. 高村薫 『新リア王』 上 新潮社
叢林の生活には杉と土の臭いを除けば香炉や蝋燭など、ごく限られた種類の臭いしかないもので、食い物ではせいぜい飯の臭い、葉菜や根菜の臭い、干し大根の臭い、大豆の臭い、醤油や味噌や沢庵などの発酵した臭い、あとは昆布や胡麻の臭いぐらいでしょうか。そんなところへふだん嗅ぐことのない臭いがやって来ますと、まずは刺激をうまく処理できない大脳が暴走して、何かを思う前に手足の先まで冷や汗が噴き出すか、呼吸が早くなるかです。しかしそうして臭い一つで正身を保つどころでなくなると言っても、嗅覚は自律神経ですから意思でどうかなるものでもない。しかも臭いは、光や音と違って持続する性質を持っておりますから、知覚のなかでも人のこころや生理に一番強く作用すると言われております。出来るならばこの身心や神経を静かに保っていたいとは思うが、そうして鼻腔に入ってくる臭いの有機化合物は有機化合物。同じ化合物なら杉も焼き芋も一緒。それを嗅ぐ鼻も一緒。何を悩むことがありましょうか。 p.86-7
〈夢中説夢〉は仏の実相について論じられているくだりですが、(略)夢が意欲せずして見るものであること。少なくとも夢を見ている間はその世界に疑いがないこと。夢に見ても何も変わらないこと。時空がないこと。どこから現れてどこへ消えていくのかも分からない無辺であること。大小も優劣もないこと。それでもこの私は確かにそれを見たこと。ゆえに在るか否かを越えていること。そして、そこに仏が現れることもあるということ。私はそれらを疑うすべがないし、逆に事実だと言うすべもない。これが夢であり、仏の実相とはこのようなものだと説かれているだけのことであります。 p.255
万法が開示される現成公案というものは、いうなれば松も時なり、竹も時なり。自己とともにある一瞬一瞬の時がすべての時であるとする有時の考え方に立ってみれば、参来参去、参到参不到というわけです。来るときは来るし、来ないときは来ないし、AになるときもあればBになるときもある。生生世世在在処処のこの時節因縁だけがある。それが分かるのみであり、それが分かるということは、言い換えれば永遠の一点などは分からないということであり、従って諸仏といえども仏性は覚知覚了にあらざるなり、というのです。 p.218
すでにあるを離れ、というその〈ある〉がそもそも薄かった私であります。何にも縛られないといえば聞こえはよいが、抛下すべき諸縁に薄く、従って抛下したという実感にも乏しい私に孤独という表現は当たりません。あるのはただ私のこの背中から、尻の下から、足から噴き出してくる熱であり、それは何かが足らない、身をくるむものが足りない、腹を満たすものが足りないという身体の咆哮というに過ぎない。生死の無常もくそもない、ただどこからか噴き出してくる身体のそれを、私はいまもこうして聞いているのですが、ほら――――いま風向きが西から北へ変わりましたよ。聞こえましたか? p.470
3. 塚本善隆 梅原猛 『仏教の思想8 不安と欣求<中国浄土>』 角川文庫ソフィア
「佛という字を人にあらずと書いた感覚」(p.236)という視点はこれまでなかったので、中国における仏教受容の説明としてこのフレーズが出てきたのは新鮮だった。全12巻のこのシリーズもインド編4冊、中国編4冊を終えて次から日本編へ入るのだけれど、どの著作でも着地点は日本仏教に置かれているせいか、初期仏教から中国大乗へと内容が東漸するごと細部の表現も注釈なしに生々しくなっていく。
阿弥陀仏への一神教的な崇拝は、仏教思想への素人的な理解の筋から言えばとても異色に思えるし、事実西洋の研究者などにもそう見る筋が強いという話を聴いたこともあるけれど、その経緯と展開を属人的に見ていくと納得せざるを得ないというか、
『仏教思想のゼロポイント』風にどのようにも発展し得る素地があると言う筋でなら、経路依存の文脈こそが個別宗派における信仰の本質かとも思えてくる。曇鸞、道綽、善導という連なりと交接などこれまでまったく知らなかったし、鳩摩羅什の破戒履歴に浄土への希求をみるとか極私的に新しかった。
《もしそう信じたなら、この世界の見えかたはどう変わるのか》が伝統宗教なりカルトなりに対する個人的興味の核心であり続けてきたけれども、そもそも「信じる」って事態そのものを素朴に捉えすぎてきた感もさいきんは否めなくなってきた。主観的自覚的な動作を意味する動詞と、無自覚な動作を外部視点から観察した客観性が前提となる動詞とがあるとして、実は「信じる」って一方的に後者なんでないのとか。
砂漠に浄土をみるとかさ、つらくなったら誰だってやってるし。てゆうか東京砂漠だし。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
4. 森本あんり 『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』 新潮選書
「アメリカ」の手前勝手なイメージを言い表わせば、広大な荒野に点在する小さな町々と、それらを結ぶ鉄道の果て地平線上にそびえる大都会、となるのだけれど、この点在する小さな町々の住人を構成する一典型として、やたらに熱狂的な牧師というモデルがある。これは実際に自分が目にしたり出会ってきた経験に依拠するモデルというよりは、大量に観てきたアメリカ製ドラマや文芸作品由来なのだろう。それら創作物の登場人物のなかで、この牧師がつねに目立つ存在として描かれてきたことそのものが、現代アメリカの精神構造をさぐる上ではひとつの鍵になるなという感触はずっと持ってきたけれど、本書によってこの感触が初めて肉付けされた感。
アメリカがキリスト教国であるとかないとかの議論は、(略)いろいろな政治制度のうちどれがよいか、という話ではなく、そもそもそういう政治制度が正しく機能するための基本設計の話である。箱の中に何が入っているかではなく、それらを入れる箱そのものの議論である。その箱が、権力の終末論的な理解を前提とした特定の政治神学の産物なのである。 p.124
どうみても過剰な自己陶酔と、自己肯定の道のみを爆進する合理化心性。それらが新天地へと集った人々の陥る根無し草的な不安の裏返しであり、ヴェーバーが描いたのとはまた少し違った意味での宗教的熱情の世俗化であり、既存秩序の権威化を呼びがちな知性への批判力として機能してきた流れのもつ表情のひとつであったことが納得されたとき、たとえばブッシュJr.が再選すら果たしてしまうアメリカ社会の不可解さをめぐる理解が一段進んだ気はちょっとする。
「政教分離」というと、日本では政治から宗教を追い出して非宗教的な社会を作ることであるかのように解釈される。
しかしアメリカではまさにその反対で、政教分離は世俗化の一過程ではなく、むしろ宗教的な熱心さの表明なのである。 p.118-9
御意。
※ この本についてというか、アメリカの福音主義とか熱病の正体などについては、その中核の米神学校で数年を過ごしていたさむさんに、近いうちツイキャスなりニコ生なりでお話聴いてみようかなとも思います。せっかくだから戦後アメリカにおける抽象表現主義の崇高性とかにも掛けて。いまきまた、10/3(土)21:00JST~
5. 石川文康 『カント入門』 ちくま新書
下手に入門書にあたるよりも、最初から古典そのものにあたれ、それも原書から始めよ、みたいな物言いはよくあるし、時間が膨大にある当該の専攻学生に対してとかなら妥当な勧めだと自身の経験からも思わないではない、というか確実にそうなのだけれど、当方すでにおっさんなので無理はせず、友人の勧めにしたがってまずは本書にあたることにする。
いきなりの
『純粋理性批判』通読に、過去二度失敗しているのは内緒である。てか
ニー仏(魚川祐司)さんリコメンドなんだけど。
魚川祐司 @じんぶんや紀伊国屋書店: https://www.kinokuniya.co.jp/c/20150801095841.html
6. 石川文康 『カントはこう考えた』 ちくま学芸文庫
石川カント本の二冊目。カントの生涯に絡めてカント哲学の概観を試みた上記
『カント入門』から三年後に出版された本作では、《なぜ「なぜ」なのか》、《「なにか?」とはなにか》といった問いの根源から思索が広げられていく。
自由とは、先立つ原因によらずに、出来事を自ら開始する能力を意味する。それではまるで、たったいま排除されたばかりの魔術ではないかと思われるかもしれない。(略)しかし魔術を連想するのは、時間の流れを前提するからにすぎない。そこで、もし時間軸に関係なくある原因が考えられ、そのような原因が時間の中に作用してくるとすれば、それは自ら出来事を開始する原因であり、その意味で先立つ原因を必要としない第一原因である、と言うことができるであろう。 p.218-9
このように時間を超えたもう一つの因果性として自由を位置づけ、自発性の能力という形で受容性の能力である感性に対置して理性を語る文脈は新鮮といえば新鮮、だけれどもいまのところは何というか、玉ねぎの皮を剥くような話にも感じられ、いまひとつ腑に落ちない。「理性教」ならば納得できるのだけれど、そういう話でもないのだろう? きっと。
実はこちらから先に読んだのも内緒。こっちのが面白そうだったので。実際面白かった。
7. 西澤卓美 『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス』 サンガ
「日本人出家比丘が見た、ミャンマーの日常と信仰」が副題。ミャンマーにて修行、長老
(出家期間十年以上の僧のこと)となって帰国した著者が、当地での出家生活をめぐる諸々をまとめた好著。
同じくミャンマー在住のニー仏さんによれば、著者西澤さんは「ミャンマー人一般の心性を深く内面化した稀有な日本人」とのこと。実際、現軍事政権やロヒンギャ問題に対する言及が、他のミャンマー紹介本にはない傾斜を示していて興味深い。またミャンマーの世間に息づく仏教説話や周縁の伝説についても、基本的にすべて本当にあったこととして語る姿勢が、はじめはネタ感覚も込みかと思ったらどうもガチらしく。
具体名が多く登場するので、今後もたびたび参照することになりそう。
ちなみに以前よみめもで紹介した
天野和公 『ミャンマーで尼になりました』(よみめも4 http://goo.gl/7bxPft)のなかで、天野さんの「師匠」として登場するウ・コーサッラ比丘は本著者。
8. 宮元啓一 『わかる仏教史』 春秋社
同世代の仏教関係者幾人かが揃って本書を勧めていたので、ならばと読んでしたり。複雑多岐にわたりがちな仏教諸派の展開を、大胆な省略によって簡素化、芸術的とすら言える省き方には幾度も感心させられた。四聖諦は詳説するけど八正道は解説しないとか。
仏教通史を概観するために読むのであれば、著者がインド専門家ゆえインドパート、そして日本人向けゆえ日本パートの紙幅が多い点は留意して良いかもしれない。
9. フェルディナント・フォン・シーラッハ 『罪悪』 酒寄進一訳 東京創元社
ヤーナが帰宅すると、ハッサンは寝ていた。彼女は服を脱いで隣に横たわった。彼の寝息がうなじにかかった。彼女は自分でも説明できないのだが、ハッサンを愛していた。彼はヤーナが生まれ育ったポーランドの村にいた若者たちと違っていた。ハッサンは大人で、肌がビロードのようだった。 p.116
同著者の前作
『犯罪』を読み終えたとき、数年間《つんどく》放置していたのを悔やんだほどに面白かったしその文体の新鮮さに驚いたのだけれど、今回『罪悪』でその新鮮さの輪郭がはっきりした。比喩や直喩に基本頼らないにも関わらず、直截で端的な文章に詩的な旋律が具わっている。名詞の厳密な選択のみにより、文章の流れではなくイメージ喚起によって情景を連ねていく巧さ。現代ドイツの低層を生きる人々への焦点化とこの文体選択こそが本作の粋で、ダラダラと形容文の続かない展開の小気味よさは、よくできた海外ドラマを思わせる。同時にお贈りいただいた
シーラッハ『禁忌』も手元にある。読むのが楽しみ。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
10. 『フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展』 東京都庭園美術館
パリのケ・ブランリ美術館って日本ではまだまだ知名度が低いけれど、ルーブルを別格にすれば実はオルセーやポンピドゥー等と並ぶ必見の美術館だったりする。とか言いつつぼく自身まだ行ったことがないのは2006年初夏の開館だからで、ぼくが最後にパリを訪れたのはたしか同じ年の春だった。惜しい。収蔵・展示品はパリ人類博物館の民族学部門と国立アフリカ・オセアニア美術館の民族美術コレクションの統合で、つまりはフランス共和国の旧植民地からの膨大な収奪物群。
ゆえにPC的な論議をつねに呼ぶわけだが、そんなもん美術館とか動物園とか見世物小屋の時点で彼我の視線格差をはじめから含み込んでいるわけで、などと現状追認の挙に出れば面白い《モノ》はどうしたってやはり《モノ》が面白いのであるからして、実物を揃えて見せてくれる機縁としては感謝もせざるを得ない。てこういう話、つまらないけどしないと素朴かとか思われるのもつらいとか、なんかすべてが面倒臭いよな。
グリーンランド・タシーラク先住民仮面の切り出された抽象性、
パプアニューギニア・アベラム族ヤムイモ儀礼仮面群の凶暴なまでの原初性、
ジャワ・仮面劇ワヤン・トペンで使用される仮面の、能面にも通じる体系化された様式美。ナイジェリアやネパールの木製仮面に横溢する朴訥な生命力。良かったぜ。
庭園美術館って学生の頃は企画の方向性がいつも「あっ、察し」な感じだったけれど、奴が入ってから明らかに変わったんだなとかひっそりヨイショしておこう。
そんなことより美術展プログラムなんて中身のわりに重たいものを、わざわざタイ自宅まで持ってくるケースってまずないわけで、そこを敢えてしてしまったあたりにこう、呪術的ナニカへの嗜好なり執着なりを嗅ぎとるべきかとも思ったり。あと巻末関係者欄に旧友の名を見つけ和むなど。
▽コミック・絵本
α. 石川雅之 『純潔のマリア』 3巻 講談社
傑作。百年戦争中のフランスに棲む魔女が主人公の物語だが、
『もやしもん』の菌たちがもろもろ《かもす》イマジナリーな側面に、ルーペを当ててヨーロッパ舞台の歴史物にスピンアウトさせるとこうなる感。つまり主人公マリアや使い魔たちは、地肌に巣食うオリゼー菌やトリコイデスらの発展形で、ともに常人の目には見えないが実在し、人間社会に深く関わっているという。
そういえば、
『もやしもん』のなかにフランス編あったよね。この取材も兼ねてたんだなん。
にしても石川雅之の人物を描く描線のシャープさって本当に何なのだろう。これぞマジックというか。幼女やそこらへんの大学生を描いてすらも、いちいち屹立感があるんだよね。実存の輪郭があまりに明瞭でページをめくる手が時折止まり、切なくなる。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 手塚治虫 『ブッダ』 4-12巻 潮ビジュアル文庫 〔再読〕
子供のころに読んだ印象は、
『火の鳥』や
『アドルフに告ぐ』その他にくらべてなんだかとてもぼんやりしたものだったので、とくに後半部はほとんど初見の心地で楽しめた。にしてもこの腕力は凄いなと唸らざるを得ず。キリストだとか神話上の人物とか歴史上の偉人などが漫画化された作品は世に数多いけれど、手塚
『ブッダ』ほど大胆な改変が作品トータルの力を昇華させた例を他に知らない。
それに手塚の独創による、動物の心に侵入できてのちにブッダの高弟となるタッタや、犯した罪から四肢の獣と化して数十年を生きたナラダッタの鮮烈さ。周縁を彩る実在の高弟たちの、抑制が効きながらも際立つ個性、たとえばサーリプッタとモッガラーナのコミカルな好タッグ感。
『火の鳥』ほど派手ではないけれど、幼かったころには受け取れきれなかった濃密で静かな格闘が、ページの奥でずっと繰り広げられていたんだなと。この歳になり再度通読する機会が得られて、とても良かった。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
#よみめも一覧: http://goo.gl/7bxPft
コメント
10月03日
20:49
1: pherim㌠
上記今夜ツイキャス、PC環境不良によりニコ生@22時からに変更しました。おひまならおいでませ~→
http://com.nicovideo.jp/community/co1914979