pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2024年
06月05日
19:31

よみめも90 犬釘を持たないジャマイカ人と貝の歌

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 中平卓馬 『ADIEU A X』 新装新版 河出書房新社 2006 (1989)

 妙に接写気味の、近所の自然。動物。路地。
 
 やや風変わりなきっかけから、20年くらい前に(今ならまず払えないだろう)大枚をはたいて買ったPROVOKE復刻版セット中の森山大道『写真よさようなら』巻末対談で中平卓馬の言葉を読む。そこからの、中平卓馬再見小旅行数冊の一。降り積もった学生時代の思考の残滓に咳き込むような体験。ざらざらして、ごつき視覚の砂嵐。

 1977年に急性アルコール中毒で倒れたあとの1989年刊行写真集。の2006年新版。「撮影行為の自己変革に関して」というあとがきでWilliam Kleinに言及しており、画像検索でみる。『写真よさようなら』の森山大道との対談ではWeegeeに言及してたけど、似てる。といって両者みたいのを中平が目指しているようにもみえないところは面白い。
 
 
 

2. 中平卓馬 『来たるべき言葉のために』 2010 (1970)

 意図せぬ(を意図した)ブレやボケ、現像時の汚れなどの“雑味”が眼球から近しい被写体との間に挟まり込むその総体がやはりこのひとの持ち味だと、相対的に整えられ“きちんと”している上述『ADIEU A X』に比べるとよくわかる。とはいえ本人が書いているほどWilliam Kleinを模倣しているようには思えないし、それが本気だとしてもそうでないにしても、その雑な手触りこそが魅力の本体で、案外それで回っていたこと自体へ時代性など読み取れるほうが冷静というものかもしれない。
 
 2010年の再刊で文章部が削られたとの由。けれど図書館で借りた本書には英語訳だけ別冊子で添付されていて、出版センスとしてちょっと謎。権利関係っぽいかな。そう書いて、そういえばそんなことを大昔にどこかで読んだか、飯沢耕太郎さんか誰かから聞いたような気もしてくる。

 
 

3. ルドルフ・ヘス 『アウシュヴィッツ収容所』 片岡啓治訳 講談社学術文庫

 また、一人の若い女性の姿が、私の目をひいた。彼女は、あちこち走りまわっては、幼な児や年輩の婦人が服を脱ぐのをせっせと助けていた。彼女は、その前、選別される時に、二人の幼な児を自分のそばにつれていた。その時すでに、彼女の上気した様子や容姿のため、私の目を惹いていた。彼女は、どうみても、ユダヤ女のようには見えなかった。
 今見ると彼女はもう子供をつれていない。彼女は、最後の瞬間まで、たくさんの子供をかかえてまだ脱衣の終らない母親たちを助けてまわり、やさしい言葉をかけ、子供たちをあやしていた。そして、最後の女たちと、倉庫の中に向っていった。だが、戸口までくると、立ち止って、彼女はこういった。
「私は、私たちがガスで殺されるためにアウシュヴィッツへ送られることを、初めから知っていました。働ける人びとが選び分けられるときに、私は、よその子を抱いてごまかしたのです。私は、全部を譲り、はっきりとこの身に刻みたかったからです。願わくは、すべての早く終らんことを。さよなら!」 301



 すでにナチスは滅び、死刑台へ向かう結末を彼自身が受け入れたあと詳細に書かれた、アウシュヴィッツ収容所所長による手記。

  拙稿「【映画評】 『関心領域』 “The Zone of Interest”と呼ばれた場所」
   https://www.kirishin.com/2024/05/26/66737/

  『関心領域』https://x.com/pherim/status/1791069859855626657


 
 すべてが事後なので、事実関係については主観的な偏りはあれ誠実さも驚くほど感じられる一方、“内面の真実”を巡っては虚しさを感じざるを得ない。その明晰な筆致にしてこの昏さはと、人間個人そのものの限界に溜め息さえ。ただナチス勃興前段にある、18世紀に端緒をもつドイツ義勇軍の精神的伝統からの影響等を思わせる記述はとても読ませる。あの妙に肉体の健康美を結びつけるホモソーシャルな強い共属意識由来の自己正当化を特徴とするSSの行動規範が、鉤十字の由来ともなったベルリンのロスバッハ義勇軍へのヘス自身の所属体験を通して描かれており説得的。のちナチスが露わにした弑逆性の底に、ヘスはその手記で義勇軍を突き抜け遠く近世以前のチュートン騎士団に連なる、ファナティックな宗教的熱情のほとばしりをみる。


 さらに、特殊部隊のユダヤ人が、屍体の中に自分の身近な者を発見したり、それどころか、ガス室へ向う人間の中に見つけることさえもよくおこった。たしかに、彼らにそれとわかるほど近くにいても、彼らは決してゴタゴタを起こしたりしなかった。
 私自身も、一度、その例を経験した。
 施設の部屋から屍体を引き出している最中、特殊部隊の一人が、突然ぎょっとしたようにとびさがって、一瞬身じろぎもせず立ちすくんだが、また仲間たちと屍体を引っぱりはじめた。私はキャップに、どうしたのか、と訊ねてみた。彼は、あのとびさがったユダヤ人は、屍体の中に自分の妻の姿を発見したのだ、といった。
 私はなおしばらく、彼を観察していたが、別に変ったようすも見られなかった。彼は、前と同じようにして、屍体を引っぱっていった。それから少しして、またその部隊の所にもどってみると、彼は、他の連中の間にまじって、何事もなかったように、食事をしていた。彼は、自分の興奮をかくしていたのだろうか、それとも、もうそうした体験に鈍磨してしまったのだろうか。
 特殊部隊のユダヤ人に、この身の毛もよだつ仕事を夜に日についで行なわせるだけの力をあたえたのは、そもそも何であろうか。 305

 
 
 宗教的熱情について付記すれば、ヘスの実父は自ら東アフリカで布教も行った熱烈なカトリック信者であり、ヘスを聖職者にする願望を抱いていたというくだりも興味深い。そしてこの熱情、信念信仰に基づくこの昂揚こそが、アイヒマンの示した怜悧さと一見真逆なようでいながらその実『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でマックス・ヴェーバーが明かしたように、残酷無比な計算高さを貫徹させる。ドイツと日本の敗戦により帝国主義時代が終わりを告げ、ソ連の崩壊により全世界がグローバル市場に単元化された今日世界は、かつてマルクスが批判した際限なき搾取の蔓延る、形を変えた奴隷制社会とも言い換え可能なほどに貧富の格差をなお維持し、「戦後社会」という言葉が虚しく響くほど「どこかで起きている戦争」に現代社会全体が依存するようにも映る。


 こうして、いつも私は、運命によって死を免れてきたが、それも今、こうして惨めに絞り殺されるためだったのだろうか。軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが、私はうらやましい。私は、それと識らずして、第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にさせられてしまっていた。その機械も打ち砕かれ、エンジンがとまった今、私はその運命を共にしなければならない。世界がそれを要求するから。 375


 ルドルフ・ヘスは、彼自身が記しているように「巨大な虐殺機械の一つの歯車とさせられ」、「その機械も打ち砕かれ、エンジンがとまった」世界においては、もはや生き場を失くしていた。手記を書くことはおそらく、太陽を失い軌道を失くした惑星がなおその慣性によって続ける自転のようなものだったのかもしれない。本来あるべき世界をすでに見失った魂が、かろうじてそこに拠って立つことのできる一本の軸としての執筆行為。それは彼の最期に何をもたらしたろう。

 悪とは何だろう。ヘスもアイヒマンも、悪を体現した人物として裁かれ死んだ。しかし「巨大な虐殺機械」の外にいた人間が彼らの内にみた悪は、ほんとうは誰のものだったのか。「彼ら」の悪であると誰かが断じたとき、そこに生まれてはいないだろうか。本人も知る由のない、別のあらたな悪が息づきだしてはいないだろうか。

 
この人間的理解にたいしては、不明な事情を私の及ぶかぎり明らかにすべく、力添えして応えねばならぬ負い目がある。
 だが、私はこの手記を取りあげるに当って、妻や子供たちにかかわる事柄、また、私の心の動き、内奥の疑惑などはすべて、公けの目にさらされぬようにと願っている。
 世人は冷然として、私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見よ うとするだろう。――けだし、大衆にとって、アウシュヴィッツ司令官は、そのようなものとしてしか想像しえないからである。そして彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心をもつ一人の人間だったこと、彼もまた、悪人ではなかったことを。
 この手記は、全文一一四頁(原文)からなる。このすべてを、私は、すすんで誰に強いられもせず書いた。

 一九四七年二月 クラカウにて
 ルドルフ・ヘス 376

 

 

4. ロイド・ブラッドリー 『ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック』 高橋瑞穂訳 シンコーミュージック 2007

 驚くかもしれないが、この時期のボブ・マーリーは、ジャマイカ音楽の中で最も知られたアーティストだったにもかかわらず、ジャマイカ音楽そのものからは除外された存在だった。プレゼンテーション方法や曲の内容についても、彼の周囲で起きていたことがレゲエに影響を与えることはほとんどなく、またレゲエの世界が彼に影響を与えることもほとんどなかった。これは私の意見ではない。ありのままの事実だ。途方もない皮肉だが、レゲエの 王座に君臨し、レゲエの象徴的存在であるボブ・マーリーが、グラスルーツ・レヴェル(つまりキングストンのスタジオ・レヴェル)ではレゲエの発展に何の影響も及ぼさなかった。ジャマイカの人々、あるいは世界中にいるレゲエのコアな愛好者にとっては、彼の力が及んだのは精神世界、インスピレーション、知性、そして社会政治の分野だけだった。彼は、70年代末に急速にジャマイカ以外の世界ではレゲエを象徴する存在となった。カリブ海域諸国や黒人全般的にどうだったかは別にして、彼自身の音楽の地盤であるジャマイカでは、尊敬はされつつもその存在は無視されていた。純粋に音楽的な観点からみれば、ボブ・マーリーはレゲエが発展していく過程に並んで歩いていたわけではなく、流行の最先端のずっと手前で足踏みをしている状態だったのである。
 それは彼が自分自身をレゲエのメインストリームから離れたところに置いたからに他ならない。しかし同時に、レゲエという大きな枠組みの中では彼のユニークさと重要性は際立っている。ボブ・マーリー単独で歴史物語の中で独立した章を構成できるほどだ。また、ボブ・マーリーの自伝を書いた多くのライターが、自分の書いているストーリーを損なうことなく、そのテーマの周囲にあるレゲエの事情を無視してしまうことにしたのはそこに理由がある。というのも、キャリアの後半に顕著になるのだが、ボブ・マーリーがレゲエのメイン・ストーリーの中のある一面から離れていたからである。 417

 
 
 1950年代以降、とくに1962年の独立以降のジャマイカ音楽シーンを、社会状況と絡め莫大な文章量と熱量で年代ごとに語り切る。その量じつにほぼ図版写真なしで2段組560ページ。訳者が専業翻訳家ではなく、ジャマイカに5年暮らしながらラスタ信者や風土そのものに対し色々屈託を抱えた人物である点もおそらく読み味に影響してるのだろう、みょうにうねりのある読書体験となった印象。
 
 レゲエの流通を考えるうえで欠くことのできないレーベルのひとつ〈R&B〉を立ち上げた白人で農園主子息のクリス・ブラックウェルが20歳の頃、海水浴中の事故で意識不明になったところをラスタ漁師に助けられ、ラスタゲットーでしばらく介抱を受けたことが偏見の解除とサファラー文化への関心につながった(53)という言及面白い。

 以下は、晩年までボブ・マーリーのマネージャーを努めたダニー・シムズ(Danny Simms)の言葉。
 
 
 どのようにしてボブ・マーリーがあの高みに到達したのかを理解するのは簡単だ。この章を締めくくる言葉は、ダニー・シムズから頂戴しよう。彼は若き日のボブのために多くのことをした。そして、病気が末期に差し掛かり、セントラル・パークで倒れた後にボブが滞在したのは、シムズの家だったのだから。
「ボブ・マーリーはメッセンジャーだった。彼は預言者だ。彼が私の家に住んでいた頃、彼を見ては思ったものだよ。母親とデラウェアに住んだ以外にはジャマイカの外に出たこともない若者が、どうしてこんなリリックを書けるのだろう? いったいどこからこんなリリックが浮かんでくるのだろう? そのヴィジョンはどこから来るのだろう? どうして愛のことも、政治のことも、世界のことも、命のことも、全部、全部、あんなふうに話すことができるのだろう? それは、ボブ・マーリーが預言者だったからだ。ボブを見て、ボブが何をしてきたのか、彼のメッセージがどこまで伝わっているのかを見る限り、ボブ・マーリーという男はこれから先の1000年も地上の人々に語り継がれ、ますます大きな、大きな存在になっていくように思う。限りなく、彼は大きくなっていくよ」
「マーカス・ガーヴィー、マルコム・X、マーティン・ルーサーキングといった偉大な指導者のように、ボブ・マーリーは世界に伝えたいことがあると悟った瞬間に、ジッとしていられなくなったんだ。彼にはヴィジョンがあった。彼は我々に彼をレコーディングさせた。そして、それを足がかりにして自分の歌を何度も何度もたくさんレコーディングし続けた。彼は自分が持っているヴィジョンが受け入れられることを望んでいた。それに、彼は自分の歌をあらゆるスタイルでレコーディングすることを厭わなかった。R&Bでもカントリー&ウェスタンでもロックンロールでも、自分の音楽とメッセージを人々に届けられるなら、どんなスタイルでも構わなかった。特にアフリカ系アメリカ人に届けたいと願っていた。そこに自分の音楽が届かないことは彼にとって大きな不満だったろう。けれども彼は、アフリカ系アメリカ人のイコン(崇拝の対象)となった。たとえ彼らが誰もボブのレコードを買わなくても、ボブの音楽が黒人系ラジオ局でオンエアされなくても、我々はボブを愛している。我々は彼が戦ってきたものや表現してきたものを愛しているし、これからもそうだ」 439


 


5. 朝吹真理子 『TIMELESS』 新潮社

 永井荷風がいとしいひとをたずねたという坂をくだっているのかのぼっているのかわからないまま、歩いている。私たちはいとしい間柄ではないまま、歩いている。江戸時代は与力の住む地域だったから、犯罪者をこの谷に追い込んで捕まえたのだと、また急にアミがものを知ったように話す。アミのからだを通して誰かが話している。私たちはさっきから体になにかを通して話 している。道に埋れていた声が、私たちの器官を通ってなにかしゃべっている。誰の声、というものでもないのだろう。アミはずっと空ばかりみている。廃屋からトタンの樋を流れる水音がする。それは絶え間なくつづく。いつまでも流れつづける音がしていてかえって流れていることが わからなくなる。時間が横たわったまま堰き止められている。もうずいぶん歩いている。それで も足は疲れていない。 Gianvito Rossi のハイヒールだからかもしれない。私たちはずっと歩いて いると思っているだけなのかもしれない。月は雲の影に消えたままいっこうあらわれない。わた したちはますますくらいものになって歩いている。
 薄、萩、桔梗、なでしこ。空き地が薄野原になっている。アミが草を踏みしだいて歩く。四百年前の麻布が原を踏みしだいてゆく。みてみて、鶉がいるね、とアミが嬉しそうに言う。よかったね。の羽が薄とおなじ色をしていて、私にはどれが鶉かわからなかった。鶉といえば八宝菜 に入っているか、山かけそばのとろろのうえにのっている黄みしかしらない。うみはつくづく陸の生きものに関心がない、とアミが思うように思ってみる。 26-7


 芽衣子さんからのメールには、音声データが添付されていた。朝の時間をおくります、とあった。鳥のさえずりとともに、男の声がきこえはじめる。少しひび割れた音が、ゆらゆらきこえてくる。アザーンというモスク礼拝を呼びかけるアナウンスだった。歌のような呼びかけだった。
 礼拝は睡眠にまさる、とのびやかに繰りかえす。早朝五時前にそれはいかなる日にも流れる。それを時報にして起きているのだと芽衣子さんは書いていた。
 私はいつのことを思い出しているのかときどきわからなくなる。ものの焼けるにおいとともに、湯気がのぼるのをみている。 34


 地震、ありましたよね
 
 たしかに明け方に地震があったはずだけれど、それが夢の中のことだったような気もしていた。地面が揺れることも不思議だけれど、どうしてときどきしか地面が揺れないのかがふしぎであると小さいころに思った。同じようにいつも地面が揺れていないことをふしぎに思ったのは三浦梅園だったか。地動くを怪しみて、地の動かざる故を求めず。地震をあやしむこそあやしけれ。天地の条理を追究した三浦梅園の思考から何百年経っても、いまだに天地のことは解明されていない。地面がどうしてふだんは揺れていないのかぼくはわからない。

 揺れたかもね。熟睡してたからなあ。 152-3


こよみは看護師にすすめられて、「エヴァンゲリオン」を観たり、伊丹十三の「問いつめられたパパとママの本」を読んでいた。こよみはオリンピックをみていない。当然三歳だったぼくもなにもおぼえていない。
 
 花火の打ちあがる音がつづいている。今年はやけに長いね、と言いながら、こよみが、ソファ に横たわったまま、ブラジャーのホックを外しながら、言う。
 
 アオちゃんさ、最近むかしの映画をみて知ったんだけどね、と言いながら、はなしはじめる。
 
 夢のなかで、それを夢だと気づくにはどうしたらいいか、知ってる?こよもアオちゃんも、ママも、みんな、よく夢をみるでしょ。夢からでられないときね、いまじぶんのいるここが夢かどうかわからなくなったらね、みっつ、夢かどうかたしかめる方法があるんだって。まずは、室内の調光のスイッチをたしかめる。スイッチをきりかえても光量がかわらなければ、それは、夢。もうひとつ、デジタル時計を探して、その文字盤がゆがんでいたら、それも、夢。みっつめはね

 その、みっつめを、思い出そうとして、思い出せない。なんだったか思い出せない。こよみがふざけて家の電灯のスイッチをカチャカチャ押そうとしたんだったか。人けのないサービスエリアでバスが停まる。トイレ休憩の時刻がきても誰もおりない。 124-5


妊娠の可能性を不安に思うメールが悲愴な顔文字とともに送られていた。マイコに彼氏ができたとき、クラスメイト数人で明治通り沿いのコンドーム専門ショップに立ち寄った。イチゴかマンゴーフレーバーにしようよ、といって、味つきのゴムを渡した。どっちにしたのかはおぼえていない。なにこれうける。マイコは笑いながらうけとっていた。それはたしかゴールデンウィーク前だった。だからあれを使えっていったじゃん。いっしょにコンドームショップで商品を選んでいた、初体験を中学生のときに済ませた子が、損するのは女の方なんだから、ときわめて正しい言葉をふりかざすようにいった。修旅で緊張しているだけかもしんないし、落ちつきなよ。そうだよ七〇パーセントの人は妊娠しないんだよ。どの言葉も、それなりに正しいばかりで、誰の心にも届かない。
 猿猴川、京橋川、元安川、太田川、天満川、水路に囲まれた三角州、広島が水の都市だといわれるのは、バスでめぐっているだけでわかった。午前中は宮島にいた。カスタード、こしあん、チョコレート。とりあえず歩き食べをするためのもみじまんじゅうを買って、シカを撫でて、シカの前で並んで写真を撮って、厳島神社の廻廊でも写真を撮った。まだ六月だというのに平らな道に照る光は強く、眩しくて目をしばたたきながら制服の袖をまくって歩いた。 31

 

《音楽》

窓があいているとすこし肌寒い。アミがフローリングに横たわる。音楽聴いていい? アミがiPhoneを操作する。
 ざわざわした鳥のさえずりから、その音楽ははじまる。それが本当の鳥なのか、鳥を模したシンセサイザーの音なのかはわからない。広島できいたアザーンも、鳥類のさえずりからはじまっていた。 The Durutti Column の Sketch For Summer を、初夏になると、アミは繰りかえしかけるのだと言った。マンチェスターの夏。 Sketch For Summer の入ったレコードの初回盤はジャケットがサンドペーパーでできていて、それをひきぬくたびにほかのジャケットに傷がつくようにできていたこと、プロデューサーのマーティン・ハネットのリズムマシーン、ヴィニ・ライリーのつま弾くギター音とディレイのことを、アミは話す。会話にこまらないように、固有名詞がつぎつぎにでてくる。水面に反射する夏の光が音になって流れている。懶いのか、眠いのか、よくわからなかった。私たちはまだベッドを買っていなかった。たがいの家から持ちこみもしなかった。ベッド買わないとね。かたいとかやわらかいとか、うみ好みある? サイズ、どうしようか。私たちはひとつのベッドで眠るんだろうか。どう眠ったらいいのか二人ともわからなかった。
 リズムマシーンの奥で、蝉も鳴いている。それが重なってきこえると、アミに私は言った。輝? アミは目を閉じる。アミは黙っていた。 36


 芽衣子さんの病室では音楽がかかっていた。あらゆるひとがうたう Águas de Março がかかっていた。Waters of March 三月の水。南半球のブラジルの三月は夏の終わり。雨がよく降るから大水になる。芽衣子さんは夏のブラジルを知らない。芽衣子さんが一度だけブラジルに行ったときは紫雲木が咲いていた。紫の雲。美しい漢字だった。十一月の春、一度だけ行ったことがあると言っていた。恋人と行ったのよね。それが誰のことかはわからない。芽衣子さんはいつもちがう恋人がいた。芽衣子さんも誰と行ったのか忘れてしまっているようなくちぶりだった。ジャカランダの花の形はノウゼンカズラに似ている。ノウゼンカズラがぼくにはわからなかった。うみさんもたぶんわかっていない。花の咲くころに雨が降ると、地面が紫のちいさな花で埋まる。ジャカランダの青みの強い鮮やかな色。藤に似た甘い香りがする。
 リオデジャネイロは一月の川という意味だとこよみの友人だったイレーネが言っていた。River of January. 一五〇二年の一月、ポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちが土地を 発見した。グアナバラ湾の細長い入り江を川と見誤って名付けられた。一月のまぶしい水。いまは川で泳いだら皮膚病になるけれどね、と水質汚染を自虐してイレーネは笑っていた。大気汚染でイレーネの父親は亡くなっていたんだった。イレーネももうこの世にいない。
 芽衣子さんが繰り返しきいていた、三月の水。芽衣子さんが入院したのも二〇二四年の三月だった。ぼくが七歳になる年だった。かつて起きた大震災の風化を防ぐためのドキュメンタリー番 組がテレビから流れていたけれど、消音になっていた。日本では春なのに、南半球では夏の盛りが終わる季節だと思うと地球は楽しいね。芽衣子さんはそう言っていた。危機のときにきく音楽だと言っていた。Antônio Carlos Jobim の 「JOBIM」、Elis Regina と Jobim のデュエット、くずしてうたう低音が心地いい Cassandra Wilson、日本語でうたう Kyohei Sakaguchi Holly Cole、ポルトガル語はまるでわからないけれどこよみは耳が良かったから病室できいてすぐにおぼえて歌っていた。うみさんもときどきくちずさんでいた。É pau, é pedra, éo fim do caminho、 枝、石ころ、道のおわり、この世を構成することばをうたう。ぼくもうっすらとおぼえている。こよみは芽衣子さんと仲が良かった。こよみの耳がいいからと英語を習わせたり留学するようすすめたの も芽衣子さんだった。 150-2



《映画》

吉田喜重の「秋津温泉」
相米慎二の「ラブホテル」 60





6. 石沢麻依 『貝に続く場所にて』 講談社

 あの日から二年ほど経った後、私も寺田寅彦の作品を読み始めた。水の面が落ち着くのを待って手を差し伸べ、水鏡の断片をすくい取る。その静かな手つきを思わせる文章だった。自然災害、特に地震考に見られる観察と分析に基づく透徹した眼差しや、専門知識で汲み上げようとする問題の取り組み方に触れる度に、あの日の記憶は小さく揺さぶられ続ける。同時にそれは、災害に相対する人間を見据える眼差しでもあった。時間を貫くその声は、信頼できる遠近法に則って、遠くまで道標を作り上げていた。私の持つ本もまた、野宮が持っていたような具合に口を開けたまま、何かを告げようとしている。その本は、いつの間にか誰かの手を真似た幽霊のような姿をとるようになっていた。

 記憶の中に埋もれていた透明な声を、身体の方が思い出そうとしていた。
 ある朝、目が覚めると、背中に歯が生えていることに気づいた。 105

 

 遠くで書かれた鎮魂の蒼、差し出される掌のひんやりと滑る薄闇。

 雑なことを書くと、ドイツ的なものを否応なく感覚する。ふしぎだとまず感じる。多和田葉子や、フェルディナンド・フォン・シーラッハや、W・G・ゼーバルトや、何なら大昔に観た『ラン・ローラ・ラン』まで遡れてしまうような。もちろんドイツ人の手になる必要はなく、だからシャンタル・アケルマン『アンナの出会い』に映り込むケルンの駅通路に占める夜の空気とかにも通底する、地名や人名だけではないと確信できても言語化不能の、なにか肌に触れる硬い色彩と撫でるように過ぎていく風の温度のような。
 
  『アンナの出会い』“Les rendez-vous d'Anna”
   https://x.com/pherim/status/1526909307526467584



 記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感。その輪郭を指でなぞって確かめて、野宮の時間と向かい合う。その時、私は初めて心から彼の死を、還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた。九年前の時間が音を立てて押し寄せる。私はその感覚に振り回されないよう、遠くに目を向けたまま、彼の土地を訪れたことを短く語った。遠くから眺めた海。青を潜ませ灰に光をまぶし瞬きを繰り返すもの。海を見ましたが〈アレクサンダー大王の戦い〉の情景の青は見ることは叶いませんでした。そう言うと、それは残念、と野宮は声を上げて笑い出す。その声は、静まり返った夏の空気に静かにひびを入れた。
 午後二時四十六分、と野宮は呟く。静かな透明な声。遠近法の消失点が置かれた時間。引き裂かれた時と場所を想う。私は塔の上から街を眺め、そこにアルトドルファーの絵を重ねる。私の眼差しは鳥の形となって、上と下に広がる二つの青の面に向けられる。飛ばずに見続けて、固定した視点で私はなだれ込む色彩の動きと深まる青を見て、同時に離れて繋がる遠い海の情景をも重ねる。野宮の静かな気配は、空と海の青の中に溶け込むように薄れてゆく。私には振り返り、確認することはできない。幾重にも幾重にも時間を結びつけたつぎはぎの記憶の襞に、その気配もまぎれて遠ざかっていった。そこに還ることを願うという祈りは、見えない糸となって記憶を固定した。野宮は、もうそこにいないのかもしれない。手の中の歯はちりちりと小さくぶつかり合う。その音は、嘆きに似たものとして皮膚を通して耳にも響いてくる。耳元を吹き抜ける風は、遠く紙の騒めきをはらんでいた。透明に覆い被さった光景は、私の見ることの叶わなかった遠く呼応する青の世界。隔たった場所からこちらに向かって、青が通り抜けてゆく。私は鳥の視線を固定したまま、二つの青を重ねて重ね続け、そしてそれが消えるのを待つ。 150-1



 震災と寺田寅彦、バルバラ、月沈原。
 



7. 石橋純 編 『中南米の音楽 歌・踊り・祝宴を生きる人々』 東京堂出版 2010

 各地域の音楽にハマった書き手たちが各々にスパークしており、題名のダサさとは反比例する良書。編者の石橋純本人には他にベネズエラ音楽&文化の大著があり、この本のベネズエラ章も読み応えある。ほか、レゲエよりもダブに焦点化したジャマイカ章、先住民音楽にも紙幅を割くボリビア章から南米版カントリーとも言い得るムジカ・セルタネージャ扱うブラジル南部章への連なり、タンゴを前景としながらも、ヒスパニックロックの世界潮流の母体となった1950年代アルゼンチンロックを軸とした章など各々新鮮。
 
 冒頭の概論部、サルサと北米ラティーノ音楽の括りでメキシコ伝統歌をとり入れたリンダ・ロンシュタットが登場(p.41)するなど、既知単語とのリンク拡張も。

   『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス』
    https://x.com/pherim/status/1515911077262868481



 中南米音楽の「浮きたつリズム」には、ヨーロッパ起源の要素の影響も見られる。次頁に掲げる図4 (a)はスペイン民謡に現在もよく見られる八分の六拍子(二ビート)と四分の三拍子(三ビート)の交互進行である。こうしたリズムは、征服後の中南米に伝播した。キューバの農民音楽【第四章】をはじめ中南米各地の民謡に見られる。ペルーのマリネラ【第七章】、ボリビアのクエカ【第八章】の基本リズムも、二と三のビートの交互進行の変種といえる。
 二と三の組み合わせに、さらにひとひねり加えたリズムもある。ベネズエラのホローポでは、二と三かぴったり重なり同時並行して進行する(図4(b))。同じくベネズエラのメレンゲでは、三と二が等間隔で並び、五拍子になる(図4(C))。キューバのソンならびにサルサでは、四分の二拍子の二小節にまたがって三と二のビートが循環する(図4(d))。これらは、イベリア半島起源の二と三のビートというリズム感が、アフリカ的創意とも融合し、無限の遊びの可能性として開かれた例といえるだろう。 17


  拙稿「【映画評】信念の親指、ある信仰者の雄叫び。『ボブ・マーリー:ONE LOVE』」
  https://www.kirishin.com/2024/05/15/66514/





8. ことばの学校2期生有志 『群島語 0号 言葉の共同制作』 自主制作

 自身が参加しており内情にも詳しすぎるため、半年置いてみた。

 パラパラとめくると、まず編集が弱い制作物とわかる。意図不明の空白や、読み手へのガイド不足、流れを生まない掲載順など。一方で、多発している空白部を除けば、ページレイアウトでこれだけ健闘できていたのは、かけた時間の短さを知る身としては驚くほどよく仕上がっている。つまり、時間をかければ様変わりし得る。(この点は、先月刊行の1号で試みられ、一定の成果につながった。※後日1号メモにて詳述)

 特集《言葉の共同制作》は、17人が4班に分かれ、各々共同で一編の作品を仕上げるという試み。明らかな失敗として、配置が不親切すぎた。特集内目次のあといきなり76ページにわたる各班作品が羅列されるため、他の小特集に比して圧倒的に心がついていかない。何であれ「何が書かれているか」は読まねばわからないから、「何を読むか」の選択と決定を読み手は形式や既知の信頼に依存する。「どう書くか」を「何を書くか」に優先させる試みであった以上、せめてこれから始まる文章が「どのように書かれたものか」を班別に開示するp.80の説明を、初め(具体的にはp.4ないしp.5)に置くべきだったろう。それだけで最低限の誘導にはなったので。逆に言うと、p.80に置く有効性はほとんどない。

 つづく中小特集群では、下記4作が出色。

 中特集《信仰》 板野明 「曲がり角のアミ」
 中特集《また腹がへるだけ》 草村多摩 「郊外・四人家族のご飯 特別な予定のない週末編」
 小特集《海境異聞》 龍道幽/水原由紀 「地図にない町と、なみのれない海」
 小特集《群島思索》 川 「無題」

 特集テーマに沿った良作はむしろ他に幾つかあるが、板野、草村、龍道の各作は課されたテーマを内破する表現の鋭角性において、各特集全体の到達深度へ大きく貢献している。曲がり角の向こう、特別な予定のない食卓、設定されていない場所でいまこの瞬間にも起こり得ること、現に起きていることの凡庸さとありえなさ、偶有性とその煌めき。

 また、「帰り道のために映画を見ている。」から始まる 川「無題」は、映画を通して“表現と傷”の関係性に触れながら、内省的にうつむき加減で歩む書き手がゆっくりと顔を上げ、遠くを見やるかのような筆致の旋回が心地よい。

 想像的なものの効用は、そのままの生では得ることのない傷を得られることにある。そして必要なときに、変容した私で相手の想像すら及ばない魂の場所に巨大な穴を開けてやればいい。
 (川「無題」) 102

 
 0号刊行後、このグループでは運営上のミスにより一人をコミュニケーション的に窒息させ脱退へ追い込む失態を侵すことになったが、「自らに刃をたて、自らを刃に晒していきたい」と書いたそのひとこそ、真に書く仲間として望まれている。現に必要とされているのですよ。




9. 村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 文藝春秋 [再読]

 信頼していた友人グループから、思いもよらないタイミングで疎外され、排除される経験は、その衝撃の大きさから無意識に身を守ろうとするあまり、受けた傷からまず全力で目を背ける。直視できないがゆえそのダメージは、二次三次のダメージを生む悪循環を呼び、その全体を意識の外へ放逐したがる生存本能が、事態への適切な対処を刻々と遅らせる。

 しかしいかに正当な理由があろうと、いったん排除により守られたかのようにみえる共同性は、身につけたその機制それ自体によってまもなく瓦解する。だからもしあなたがなおその場や彼らと育んだ時間の豊かさを守ろうと望むなら、向き合うしかないし、問うしかない。前を向ききょうできる一歩を進むしかない。この意味から再読した本作は、初読時にくらべ驚くほど「成長したカフカ少年」や、「書くことで生き抜こうとする天吾」との近しさが鮮やかに感覚された。


「彼らはどのような人々か? いや、そこまでは俺にもわからん。わかるのは、彼らはある種の色あいを持ち、ある種の濃さの光を身体の輪郭に浮かべているというだけだ。それはただの外見的な特質に過ぎない。しかしあえて言うなら、これはあくまで私見に過ぎないが、跳躍することを恐れない人々ということになるかもしれないな。なぜ恐れないか、そこにはそれぞれいろんな理由があるのだろうが」
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緑川は言った。「死を引き受けることに合意した時点で、君は普通ではない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。人々の発するそれぞれの色を読みとれるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるということだ。君はオルダス・ハクスレーがいうところの『知覚の扉』を押し開くことになる。そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる」
「緑川さんのこのあいだの演奏もその成果のひとつなのですか?」
 緑川は短く首を振った。「いや、あの演奏は俺のもともとの力だと思う。あれくらいのことはずっとやってきた。知覚というのはそれ自体で完結するものであり、それが何か具体的な成果となって外に現れるわけじゃない。御利益みたいなものもない。それがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。ただひとつ俺に言えるのは、いったんそういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある 意味絶望的な感覚でもある。自分のこれまでの人生がいかに薄っぺらで深みを欠いたものだっ たか、ほとんど最後の最後になって君は悟るわけだからな。どうしてこんな人生にそもそも我慢できたのだろうと思い、慄然とする」 89-90


「申し訳ありませんが、しばらくこちらでお待ちいただけますでしょうか?」と最小限の微笑みを浮かべて彼女は言った。そしてつくるに椅子を勧め、また同じドアから姿を消した。クロ ームと白い革で作られた、スカンジナビア・デザインのシンプルな椅子だった。美しく清潔で静かで、温かみを欠いていた。細かい雨の降りしきる白夜のように。 179

 前に立って廊下を歩いていく彼女の歩幅は広く、靴音は誠実な鍛冶屋が早朝から立てる音のように硬く、的確だった。廊下には不透明な厚いガラスでつくられたドアがいくつか並んでいたが、その奥からは、話し声や物音はまったく聞こえなかった。電話のベルが休みなく鳴り響き、ドアがしょっちゅう開け閉めされ、いつも誰かが大声で怒鳴っているつくるの仕事場に比べればまるで別世界だ。 180

 
 灰皿の上で煙草が煙を上げていた。彼は話を続けた。
「そのときシロはまだ三十になったばかりだ。言うまでもなくまだ老け込む年じゃない。おれと会ったとき彼女はとても地味な服を着ていた。髪は後ろでひっつめて、化粧気もほとんどなかった。でもそんなのは別にどうでもいい。些細な、表面的なことだ。大事なのは、シロはそのとき既に、生命力がもたらす自然な輝きを失っていたということだ。あの子は性格的には内気だったが、その中心には、本人の意思とは関係なく活発に動く何かがあった。その光と熱があちこちの隙間から勝手に外に洩れ出ていた。言ってることはわかるだろう? でもおれが最後に会ったとき、そういうものは既に消えてなくなっていた。まるで誰かが裏にまわってプラグを抜いたみたいに。かつては彼女を瑞々しく、輝かしくしていた外見的特徴が、今では逆に痛々しいものに見えた。年齢の問題じゃない。年を取ったからそうなったというんじゃないんだ。シロが誰かに絞殺されたと聞いたとき、おれは本当に切なかったし、心から気の毒に思った。どんな事情があるにせよ、そんな死に方をしてほしくはなかった。でもそれと同時にこう感じないわけにもいかなかった。あいつは肉体的に殺害される前から、ある意味では生命を奪われていたんだと」
 アカは灰皿の煙草を手に取り、煙を深く吸い込み、目を閉じた。
「彼女はおれの心にとても深い穴をひとつ開けていったし、その穴はまだ埋められていない」とアカは言った。
 沈黙が降りた。堅く密度の高い沈黙だった。 201





10. BRUTUS編集部 『BRUTUS 2023年12月01日号 No.997』 マガジンハウス

 副題 [GAME STYLEBOOK 2023 ゲーム、どう楽しんでる?]なゲーム特集号。天野喜孝表紙絵でさやわか巻頭言、という中庸感。

 なぜかハマれなくなってしまった今があり、しかし興味はあるし、なんか焦燥感さえ時折覚える。ので。
 やりたくてもできてない現状打破のため、というとそれはそれで違うのだけど、情報だけでも更新しようかと。
 
 ホラゲーなんか、全感覚没入に近づけば近づくほどヤバくなるのは自明なので、何年かに一度ずつはハマっておきたい。とか。
 その意味ではChilla's Art x 三浦大知のホラゲ対談とか面白そう、というかガイドとして役立ちそう。
 
 いろんなひとがお勧めゲーを挙げてるんだけど、各々の人生というか歳月が関わってくるから、そのお勧めを最新ゲーに翻案するとどれなの、を尋ねたくなったりも。
 
 実質的にいまの毎日で無駄時間を過ごしてないわけがないので、時間がないというのも少し違うんだよね。ただ最終的にやらない方向性に傾き続けることのフラストレーションはあって、興味喚起により突破を図ってみる試みとか。
 むしろ日課みたいに設定するとできるのかも、ね。




▽コミック・絵本

α. 伊図透 『犬釘を撃て』 双葉社

 “化外の地”で鉄道敷設に明け暮れる訳ありの男たち。モデルは明らかにシベリア鉄道で、鉄道局と中央との政治的な権力関係や諜報的な暗躍など背景描写でも魅せる。というか画の質実さと柔らかさは絶品で、表情の描きわけは初期浦沢直樹のように卓越していて、この温度ある描線から浮かび上がる戦闘アクションなど宮崎駿さえ想起させる。
 
  『光と影のバラード』https://x.com/pherim/status/1138383219655495682

 おまけに、あきらかにロシア東部のステップ草原や東欧的街並みを登場させながら、デザイン的にも優れたレトロSF的機関車が物語を引っ張ることでおとぎ話感も担保するその全体が巧いし、かといって少年漫画的媚へつらいは一切ない。これはすごい。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. 岩本ナオ 『金の国 水の国』 小学館

 中央アジア~黒海沿岸的架空世界における、風光明媚な小国と砂漠主体の商業国の対立を背景とするロミジュリ物。アヤ・ソフィアをメインに据えた商業国首都王宮で繰り広げられるフィレンツェ的策謀劇と、秘密渡り廊下の攻防佳き。一巻完結らしいが、広げた風呂敷を閉じきってない感じがとっても惜しく、スピンアウト作を心から期待しちゃう。

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 山田鐘人 アベツカサ 『葬送のフリーレン』 8-10 小学館

 北部平原魔境の旅。なんかパーティ(PT)が安定しちゃってダル気味かも。という流れとも無縁の和みディティールはいぜん大好きなんだけど。 9巻、すべてを黄金へ変える七崩賢最強のマハト、造形が複雑かつ人間から乖離している設定素敵。ヘテロギニアっぽい知的興奮さえ。
 
 10巻、終わり方が予想外でとてもいい。主人公PT壊滅どころではない追い詰められかたするとは思ってなかったな。これは続きが楽しみでせう。


 
 
δ. 小山宙哉 『宇宙兄弟』 7,8 講談社

 7巻、日々人の月着陸が案外あっさりというか、感動なかったのは意外。兄メインだから“溜め”なのだと言えばそれまでだけど。
 8巻、月面クレーターの峡谷へバギーごと落ちてしまう孤立サバイバル展開は予想外で引き込まれる。極私的に7 Days to Dieの砂漠峡谷体験思い出されたな。

 


ε. 遠藤達哉 『SPY×FAMILY』 1 集英社

 面白かったアニメの原作を読んでみるテスト。さすがに面白いのだけど、この世界観に浸るならどうしたってアーニャの喋りが聴きたくなってまう病。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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