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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2024年
10月18日
09:11

よみめも95 メタモルフォーゼの練習1

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 多木浩二・中平卓馬・高梨豊・岡田隆 『PROVOKE』 1 プロヴォーク社

映像はそれ自体としては思想ではない.観念のような全体性をもちえず,言葉のように可換的な記号でもない.しかし,その非可逆的な物質性―カメラによって切りとられた現実―は言葉にとっては裏側の世界にあり,それ故に時に言葉や観念の世界を触発する.その時,言葉は,固定され概念となったみずからをのり超え,新しい言葉, つまりは新しい思想に変身する.
言葉がその物質的基盤,要するにリアリティを失い, 宙に舞う他ならぬ今,ぼくたち写真家にできることは,既にある言葉ではとうてい把えることのできない現実の断片を自 らの眼で捕獲してゆくこと, そして言葉に対して, 思想に対していくつかの資料を積極的に提出してゆくことでなければならない. PROVOKEが,そしてわれわれが〈思想のため の挑発的資料〉というサブタイトルを多少の恥かしさを忍んで付けたのはこのような意味からである.
高梨豊・中平卓馬・多木浩二・岡田隆


1968・夏・1
多木浩二


アメリカでも大きな黒人暴動はなかった。山谷でも6月に起ったきり、夏は静かに流れていった。しかし、いたるところに不穏があった。ほとんど季節もなく、時間も流れていないような炭坑では、存在がその充実と欠落をさらけていた。大学では、夏休み中バリケードのなかで学生たちはもちこたえた。そこに暗い血のような実存があった。街のなかでも、だれにも気づかないような露路のなかでストライキが行われ、労働者と暴力団とが乱闘をくりかえしていた。風が吹きはじめた。われらの魂をゆさぶり、苦痛な目ざめを強いている。


1968・夏・2
高梨 豊


天然色フイルムをまわし、ストロボの太陽を輝かせて2ヵ月間にわたるカレンダーの撮影はおわる。いわば季節の先取りである。電線をさけ、コカ・コーラの空きビンをフレイムアウトする作業時間のうちに浮遊する自分の意識を定着した。文明の四季である。


1968・夏・3
中平卓馬


どんちょうのようにゆっくりと垂れてきたくせに、そのまま地平にへばりつき、動かなくなってしまった夏。圧搾され、圧延されたメガロポリス。人間の人形
人がうっ血した葉鶏頭の意識を超えるには、たぶん何世紀もまたなければならないだろう。あせっても仕方がない。今はそれをわが身に巣くった胎児のように抱きかかえ、じっと耐えている他はない。


研究や芸術が、それ自体、自立することは認めても、個々の系の論理も人間がつくりだしたものであり、人間以前にあったものではない。かれらの知が全体性を欠き、人間の文化の全構造とそのなかを生きていく人間存在とを全体としてとらえようとするものでないなら、それだけは完結していると思われた個別科学の構造自体も疑わしくなってくるのである。
実はもし個別に立てこもるなら異質の系の関係が露呈してくるスキマがあったのであり、このスキマに気づいたときから、個別から出発した研究者、表現者は、さまざまな知や理論のあいだには全体化すべきなにかがあり、あらゆるものに対する価値の基準をひきだすべき彼岸があることを発見する契機に出あっていた筈である。矛盾があらかじめ偽りの知によって現実に縫合されていることに問題がある。「知」が現実にあると思いこんでいるのかもしれない。だが「全体知」はまだこちらにはない。彼岸であり、われわれはそれに向っての全体化を求めるだけである。 一見意外なことに不可知論がこのような誤りだけは避けられているのも、現実的な縫合を最初から放棄しているからである。
私は「政治性」の欠落などをさしているのではない。 63


私が肉体をもつのと同じくらい、私は、はじめから空しいのだ。私にはその無を発見する意識、われわれ自身を分解しつくして何ものものこさぬ意識が、実はわれわれの外に、われわれの否定性として、超越として存在している世界の構造とはかかわりないかもしれないと思ったときに、さきのべたような人間の存在の「理論化」の意味が理解されはじめた。世界は歴史と状況をその不可視的な構造の表象としてもち、同時に絶対とよぶよりほかはない人間が存在する。人間の側からいえば、それは可視的な諸関係を追い、自己の同型を世界に転位させることからは何もえられないことの自覚、つまりわれわれ自身の無意識としてあるおそろしくやり切れない矛盾と断絶としてあらわれる。この意識された自己と意識されない世界、という二元性ののりこえのなかにしか、人間は存在しない。われわれに世界が「見えてこない」のはわれわれのせいでなくて世界というものの本質なのだ、われわれは絶望しかえられない。しかも人間は決して終りがないのりこえの連続としてありうるだけである。こののりこえを投企というが、実はこの投企は、ただ……故に」といいうる連続性のない構造をもつだけで、決して無目的な賭ではないのだ。「……に向って」とのみ規定されうる行為であり、世界のなかにある人間を、「ひとりの具体的な人間」として回復させうる契機なのである。具体的な人間とは肉体と情念の真実性をもつもののことである。 64


エットーレ・ソトサスというイタリアのデザイナーが、ベトナムの重い沼の上を渡って逃げていくゲリラの姿をうつした写真をみて、世界のどこかにひとりのこういう人間がある限り、美とはいったいなにものなのだというような痛切な言葉を記している。この深刻な言葉から、かれのいいようなく純粋な実在に達する美のソフィスティケーションがはじまっている。彼のデザインは、実は知の全体化作用ともよべるものを背景にしていたのだ。 65





2. 町屋良平 『私の小説』 河出書房新社

  拙稿「アジアのそと ――町屋良平『私の小説』がかかれるからだ――」
  https://tokinoma.pne.jp/diary/5429


  ※↑批評誌『第三批評』掲載原稿(12/1文学フリマ東京にて発刊予定)
  https://x.com/critic3rd/status/1835204258603712724


こうした甘露たる身体感覚を、推敲はそこなう。つまり、簡単に文章のリズムをととのえたり、重複する助詞副詞を抜いたり、それらしい意味や一貫性を得んとすると、作文的という以上に規範の強い小説的定型に引き寄せられていき、いかにも「小説らしい」文になるが、小説を小説らしくすることは規範の肯定になり、極論をいえば全体的なものへの服従へ向かえる。もし推敲をするならそうした全体主義的なものへの妥協、或いはそれを利用する野心や哲学、つまるところの小説的経験が要り、そこを耐え初めて小説家の推敲になる。
 この文章も(だがこの本は私がタカハシクンに向けペラペラ話したことを彼が文字に起こしたものなので、正確には文章ではない)、文法や語の運用として、正直いってだいぶおかしい。小説家の性としては、正直、直したい。だが、これは確実にそうなのだが、直しに直され熟慮された 文章より絶対に初めに書いた文章のほうが、意味や熱量において伝わりやすい。それがニュアンスだとか、人によっては神秘主義的に重宝されもする「行間」、さらにそこから進めて活字となってしまった」文章とのあいだにある思考こそが文体なのであって、だから小説を書く人は一般 に考えられているのと逆に推敲について「なぜわざわざ伝わりにくくするか?」ということを考えなければいけない。直したい気持ちを堪えて推敲を負う。そのような推敲を抱えて小説を生きる。ここまで考えてようやく、小説という母を扶養する息子がごとき、推敲が始まる。
 ――『私という小説家の極意』(「私の推敲」『文藝』2022年秋季号掲載 河出書房新社 74)





3. エマヌエーレ・コッチャ 『メタモルフォーゼの哲学』 松葉類 宇佐美達朗 訳 勁草書房
  Emanuele Coccia “Métamorphoses” Paris, Bibliothèque Rivages, 2020


 家

家とは、わたしたちが忘却していた、世界のメタモルフォーゼの傷跡にほかならない。ある場との、そしてそこに滞在する存在たちと長く付き合うというあらゆる関係は、その本性を根底的に変化させることである。あらゆる居住は二重の意味で侵入である。わたしたちは自分が住まう空間へ侵入し、そしてこの同じ空間はわたしたちに侵入する。 155

わたしたちにとっての空間は、たんに歩き回ったり、見たり、触れたりするための空間であるのではない。居住可能な空間はすべて呼吸可能な空間でなければならない。それゆえ空間はなによりまず呼吸の対象、わたしたちの肺の糧なのだ。こうした理由で、端緒となる建築的行為は壁を建造することではなく、空気を調節することである。 166-7



 繭

自己とのあらゆる関係は卵を、つまり生まれたあとの繭を生み出す。この繭は世界を、自己を再生し作り直す空間にするのだ。わたしたちはこうした変貌を可能にする繭を各技術的対象のうちに見る術を学ぶ必要があるだろう。一台のコンピュータ、一台の電話、一本のハンマー、一本の瓶は、たんに人間の身体が拡張されたものではない――それらはそれどころか、個人の同一性の変化を、あるいは解剖学的な次元でないにしても、すくなくとも動物行動学的な同一性の変化を可能にするような、世界の操作なのである。一冊の本でさえ、みずからの精神の描き直しを可能にしてくれる繭なのだ。
 技術――繭を構築するわざによって自己は、変様作用の主体になると同時に、その対象や手段にもなる。技術は、生と対立したり生を外部へと延長したりするような力ではない。技術とは、生の最も内的な表現、その本来的なダイナミズムでしかない。 80-1



 繭から死へ

 この観点からすれば、これまでわたしたちはそれぞれ、繭である限りで、あらゆるものを貫いてきた。わたしたちはそれぞれ、これからあらゆるものを通過するだろう。わたしたちは同じ一つの世界にして同じ一つの実体である。わたしたちの自己意識や記憶にあいた穴は、こうしたものでしかない。すなわち、わたしたちの精神における他の「自我」の出現である。
 メタモルフォーゼとは、ただ一つの実体だけが存在するという証拠であると同時に、わたしたちをその実体や、そのすべての部分と結びつけている傷跡(つまり、わたしたちを他のものの身体――わたしたちがそのメタモルフォーゼである母や父の身体に結びつける誕生や、性交、食事等々)でもあり、そしてこの共通の実体を織り成し、作り上げ、分泌するというプロセスでもある。〔共通の実体といっても〕それは土壌や基体、地ではない。それはなによりもまず未来であり、偏在する可能性であり、潜在的な実在性なのである。そしてあらゆるものがそこに至る。とりわけ、死が。問題はつねに、わずかばかりのあいだ、ほんのわずかばかりのあいだ、自分自身であり続けるにはどうしたらよいのか、そこで自壊しないにはどうしたらよいのかを知るということである。
 世界とは、さまざまな繭から作られた一つの繭である。
 ()
わたしはその一部となるような夢をよく見た。わたしの周りには、白く、なめらかな糸だけがある。
 ()
 こんな夢をよく見た。異なる世界を理解する必要はない。世界を変革させる必要はない。わたしたちが知っていることとは無縁の世界のうちで目覚め、生きる。
 この夢はわたしたちの惑星の生である。この夢は生の歴史である。 92-3


 
 死から食へ

 この観点から言えば、わたしたちが死と呼んでいるものはメタモルフォーゼの閾でしかない。どの生きものも、生が異なる何かを作り上げるための繭である。どの生者にとっても死は別の個体が栄養を補給する過程の一瞬間、一側面にすぎないという事実は、自然において何ものも死なず、すべては変様を被るということを示している。共通の同じ生は変様を被り、個体から個体へと循環していく。わたしたちが生きものを摂取するたびに、それが植物であれ動物であれ、わたしたちはまさしくメタモルフォーゼの場であると同時に主体であり対象でもある。わたしたちは食べるたびにみずからを繭へと、つまりその中心で別の形態の生(ニワトリ、シチメンチョウ、ブタ、リンゴ、アスパラガス、イカ)が人間の形態となるような繭へと変様させる。わたしたちは食べるたび、その中心で人間がウシ、モモ、タラ、ケッパー、アーモンドの肉と生を食べるような繭へとみずからを変様させるのだ。
 ()食べることは世界内で最も普遍的で多種的な出会いである。さまざまな種は(その種の系譜学的な紐帯によってではなくむしろ)相互に食べあうことで、同じ肉からなる一つの世界、統一的で相互依存的なものを生み出す。100


 この千年来の遺産から解放されるのは簡単ではない。しかしそうするためにはおそらくキリスト教の教義の中心的な直観を反転させること、あるいはむしろ、そこから離れるというよりも想像可能な極限までラディカル化することが必要であろう。武力に武力で闘うこと、神学の最低の形式に最高の形式で闘うことが必要なのだ。だとすれば次のように想像しなければならないであろう。もし神が生誕に参与するならば、どんな自然的存在――ウシ、コナラ、アリ、バクテリア、ウイルスにも受肉するはずである。もし誕生が救いをもたらすなら、どんな誕生に際しても、どんな瞬間にも、どんな場所にも、救いをもたらすはずだ。あらゆる誕生は神格化の一形態、神的実体の伝達の一形態であるが、同時にとりわけ神々のメタモルフォーゼの一形態でもあると想像するべきであろう。だとすれば、神はその単一性においてあらゆる生きものを包括するが、反対に、いかなる生きものも神性の多数化の経験である。それを前にしたならどんな歴史的宗教も青ざめるような、神学的な謝肉祭における経験なのだ。
 こうした見方は、『エレホン』を著したイギリスの著名な作家であるとともにダーウィンの熱心な読み手でもあるサミュエル・バトラーによって予想されていた。バトラーはその『既知の神と未知の神』のなかで次のように書いている。「神は人間になれないが、それは他のいかなる形態の生きものとも特段変わらない。それは、わたしたちは目になれないが、それは自分のあらゆる臓器についてもそう言えるのと同じである」。()「したがって確かなのは、あらゆる形態の生は、動物であれ植物であれ、じつのところただ一つの動物である。わたしたちとコケがただ一つの同じ人格の一部をなしているということは比喩的な意味ではなく指の爪と人間の目が同じ人間の一部であると述べる場合と同程度、字義通りで本来的真理を伴っている。わたしたちが神の〈身体〉を見ることができるのは、この〈位格〉においてである。 37-8


かつてグローバリゼーションは人類史上かつてない流動性を約束していたが、それは世界規模となったすごろくであることが明らかになった。移動は加熱したが、参加者たちはみな元のままである。金持ちは金持ちのまま、貧乏人はゴール地点に着いても貧乏なままで、スタート地点よりも多くのチャンスを得られるわけではない。西洋人たちはどこにいても西洋人のままであり、アフリカ人は西洋において排除され処罰され続ける。こうした運動が世界的に社会や地理を変質させることができるとすれば、それは社会や地理が同じルービックキューブの二つの面だからだ。色の本性と数は同じままであり、たんに互いの位置を入れ替えるだけである。 51


デカルトのわれ思うゆえにわれありという有名な格言を口にするたびに、わたしたちはデカルトの精神を一瞬わたしたちのなかに再受肉させ、わたしたちの声、身体、経験を彼に貸し与えている。デカルトこそが、わたしたちのなかで「わたし」と言い、そしてある意味で、自分が正しいと考えたことに逐一反駁するのである。自己は実体ではないし、人格的構造を持 たない。自己とは、ほかならぬこの身体において決定的に採用されうることはけっしてないが、不断に精神に侵入し身体を植民地化する小さな音楽にほかならない。それぞれの観念はまさしくレオポルドの原子のように巡回する自己である。あらゆる自己は他者の精神を乗り物とする。その観念、息吹、 過去を。共同性のようなものが可能となるのは、この物理的な転生あるいは古い神学の専門用語でいえば輪廻の能力によってでしかない。 115



 旅と身体

 じつのところ、遺伝的な著述――受肉の著述――によってわたしたちは、話すことの意味をよりよく理解することができる。遺伝学には言語的メタファーに従って接近すべきではなく、むしろその逆である。言語は、遺伝子が身体になすことを精神になすのである。語は精神を分割するが、そのように分割された部分は、それらに伴っている、あるいは精神に伴っていたあらゆるものから離れて、どこでも再受肉することができる。あらゆる会話、あらゆる思考の行為は、精神的な同一性の交換であり、人格のモザイク画であり、他所から来てまたどこかへ旅する小さな自己たちである。 118

身体とは、空間や場からの脱出、あるいはもっとうまく言えば、それらが絶えず変異するための原理の可能性の条件である。わたしたちが身体を持っているのは、〈いまここ〉によりいっそう付着するためにではなく、場を変え、時間を変え、空間を変え、形態を変え、物質を変えることができるためである。乗り物としての身体はメタモルフォーゼの可能性の条件である。()あらゆる身体は旅の途中だ。たとえばプラトン的伝統においても、霊魂はその死後でさえ旅するのをやめないのであり、乗り物と荷車を変えるのだ。
 重要なのは、実体と場所性の論理を反転させることである。実体は存在せず、したがって他者に支えられていることは旅をしていることを意味する。他の生に帰るということが意味するのは他所へ運ばれているということだ。あらゆるものは、何かになるために他のものの惑星にならなければならない。あらゆるものは他者に対する乗り物となるという関係を受け入れる。一方で、世界との関係はつねに他の身体によって媒介されている。単純で直接的な実存は存在せず、それゆえリアリティとの直接的な関係はけっして存在しない。他方で、身体の一部をなすということはただ一つの身体に融合していることのみならず、その身体によって他の身体と他の場所の無限性に運び込まれていることをも意味している。あらゆる身体は秘密の通路である。あらゆる身体は他の世界の無限性への入口なのだ。 134-5


未来は惑星の皮膚であり、そしてこの皮膚は惑星を絶えず変態させる。未来とは、惑星がメタモルフォーゼする繭なのである。
 ()
 未来とはメタモルフォーゼの純然たる力である。この力は一つの個別的身体がもつ傾向としてだけでなく、空中を舞う花粉のような自立した身体としても存在することができる。それは限りなく我が物とされた資源なのだ。将来というのは、生とその力がいたるところにあり、個体としても個体群としても種としても、わたしたちのうちのいずれにも属しえないということである。将来とは、変態することを個体や生物群に強いる病である。つまり、わたしたちが自分たちの同一性を何か安定したもの、決定的なもの、リアルなものとして考えることを妨げる病なのだ。
 要するに、将来とは永遠の病である。単独で存在する腫瘍である。どちらかといえば良性のものであるが、それはわたしたちを幸福にするような唯一の腫瘍なのだ。
 わたしたちがこのから身を守る必要はない。時間というウイルスに対するワクチンを接種する必要はないのだ。それは無駄である。わたしたちの肉は変化することをけっしてやめないだろう。病まねばならない、よく病まねばならないのだ。それも死の恐怖を抱くことなく。わたしたちとは将来である。わたしたちは短い生を果たす。わたしたちは次々と死んでいかなければならない。 189-190





4. 村上春樹 『スプートニクの恋人』 講談社 [再読]

「君がこれまでに書いた文章の中にはすばらしく印象的な部分がたくさんある。たとえば君が五月の海辺を描写すると、耳もとで風の音が聞こえて、そこに潮の匂いがする。太陽のかすかな暖かさを両腕に感じることができる。たとえば君が煙草の煙に包まれた狭い部屋について書くと、読んでいてほんとうに息苦しくなってくる。目が痛くなってくる。そういう生命のある文章は誰にでも書けるわけじゃないんだ。君の文章には、それ自体が呼吸して動いているような自然な流れと勢いがある。今のところそれがまだぴったりとひとつにつながっていかないだけなんだ。ピアノの蓋を閉めることはない」
 すみれは10秒か15秒のあいだ黙っていた。
「それは慰めとか、ただの励ましとか、そういうんじゃなくて?」
「慰めとか励ましとかじゃなくて、まっすぐで力強い事実だ」
「モルダウ河みたいに?」
「モルダウ河みたいに」 76


 ぼくは文書を開く前に、部屋の中をゆっくりと見まわしてみた。クローゼットにはすみれの上着がかかっている。彼女のゴーグルがあり、彼女のイタリア語の辞書があり、パスポートがある。引き出しの中には彼女のボールペンとシャープペンシルが入っている。机の前の窓の外には、岩だらけのゆるやかな斜面が広がっている。隣家の塀の上をまっ黒な猫が歩いている。そしてその飾り気のないま四角な部屋は昼下がりの静寂に包まれている。目を閉じると、ぼくの耳には朝の無人の砂浜に寄せて引いていく波の音がまだ残っている。もう一度目を開け、今度は現実の世界に耳を澄ませる。なにも聞こえない。

 アイコンをダブルクリックすると、文書が開いた。 188-9


 理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない
 それが(ここだけの話だけれど) わたしのささやかな世界認識の方法である。

 わたしたちの世界にあっては、「知っていること」と「知らないこと」は、実はシャム双子のように宿命的にわかちがたく、混沌として存在している。混沌 混沌。
 いったい誰に、海と、海が反映させるものを見分けることができるだろう? あるいは雨降りと淋しさを見分けることができるだろう?
 そのようにしてわたしは、知と非知とをよりわけることをいさぎよく放棄する。それがわたしの出発点だ。考えようによってはひどい出発点かもしれない。でも人は、うむ、とりあえずどこかから出発しなくてはならない。そうだよね? というようなわけで、テーマと文体、主体と客体、原因と結果、わたしとわたしの手の関節、すべてはよりわけ不可能なるものとして認識されることになる。すべての粉は台所の床にちらばって、塩も胡椒も小麦粉も片栗粉もひとつに混じってしまう――言うなれば。 195


 昔、サム・ペキンパーの監督した『ワイルドバンチ』が公開されたときに、一人の女性ジャ ーナリストが記者会見の席で手を挙げて質問した。「いったいどのような理由で、あれほどの大 量の流血の描写が必要なのですか?」、彼女は厳しい声でそう尋ねた。出演俳優の一人であるア ーネスト・ボーグナインが困惑した顔でそれに答えた。「いいですか、レディー、人が撃たれたら血は流れるものなんです」。この映画が製作されたのはヴェトナム戦争がまっさかりの時代だった。
 わたしはこの台詞が好きだ。おそらくはそれが現実の根本にあるものだ。分かちがたくあるものを分かちがたいこととして受け入れ、そして出血すること。銃撃と流血。

     いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです。

 だからこそ、わたしは文章を書いてきた。わたしは日常的に思考し、思考し続けることの延長にある名もなき領域で夢を受胎する非理解という宇宙的な圧倒的な羊水の中に浮かぶ、理解という名の眼のない胎児。わたしの書く小説が途方もなく長くなって、最後には(今のところ) 収拾がつかなくなるのは、たぶんそのせいだろう。わたしにはまだその規模に見合った補給線を支えきることができないのだ。技術的に、あるいはまた道義的に。 198-9



 ねじまき、カフカ、騎士団長。血の系譜。


 青白い月の光を受けたぼくの身体は、まるで壁土でこしらえられた土偶のように、生命のぬくもりを欠いていた。西インド諸島の魔術師がやるように、誰かがまじないをもちいて、その土くれのかたまりにぼくの仮そめの命を吹きこんだのだ。真実の生命の炎はそこにはない。ぼくの本物の生命はどこかで眠りこんでしまっていて、顔のない誰かがそれをかばんにつめて、今まさに 持ち去ろうとしているのだ。
 ぼくはうまく呼吸ができなくなるほどの、激しい悪寒に襲われた。よくわからないところで、誰かがぼくの細胞を並べ替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。考えている余裕はなかった。ぼくにできるのは、いつもの避難場所に急いで逃げこむことだった。ぼくは息を思いきり吸いこみ、そのまま意識の海の底に沈んだ。両手で重い水をかいて一気に下降し、そこにある大きな石に両腕でしがみついた。侵入者をおどすように水が鼓膜を重く押した。ぼくはしっかりと目を閉じ、息をつめ、それに耐えた。一度心を決めてしまえばむずかしいことではない。水圧にも、空気のないことにも、寒々しい薄闇にも、混沌の繰りだす信号にも、すぐに馴れてしまう。それはぼくが子供の頃から何度となく繰り返し、習熟している行為だった。
 ()
 頂上から空を見上げると、月は驚くほど間近に、そして荒々しく見えた。それは激しい歳月に肌を蝕まれた粗暴な岩球だった。その表面に浮かんだ様々なかたちの不吉な影は、生命の営みの温もりにむけて触手をのばす癌の盲目の細胞だった。月の光はそこにあるあらゆる音をゆがめ、意味を洗い流し、心のゆくえを惑わせていた。 251-2



 失踪、探索失敗、喪失。喪失から、再探索へ(クロニクル、壁?)。


 人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその 貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。

 ぼくは「あちら側」の世界のことを思った。たぶんそこにはすみれがいて、失われた側のミュウがいる。髪の黒い、潤沢な性欲を持ったあと半分のミュウが。彼女たちはそこで巡り会い、お互いを埋めあい、愛を交わすようになっているかもしれない。「わたしたちはとても言葉にはできないようなことをするのよ」とすみれはおそらくぼくに語るだろう(でも結局のところ彼女は ぼくに向かってそれを「言葉にする」ことになる)。
 ()
 でもその世界への行き方がわからなかった。ぼくはアクロポリスのつるつるとした硬い岩肌を手で撫で、そこに染み込み、封じ込められた長い歴史のことを思った。ぼくという人間は否応なく、その時間性の継続の中に閉じこめられている。そこから出ていくことができない。いや、違うそうじゃない。結局のところ、そこから出ていくことをぼくはほんとうには求めなかったのだ。
 ()しかしまわりの誰も、ぼくが前とは違う人間になって日本に戻ってきたことには気づかないはずだ。外から見れば何ひとつ変わってはいないのだから。それにもかかわらず、ぼくの中では何かが焼き尽くされ、消滅してしまっている。どこかで血が流されている。誰かが、何かが、ぼくの中から立ち去っていく。顔を伏せ、言葉もなく。ドアが開けられ、ドアが閉められる。明かりが消される。今日がこのぼくにとっての最後の日なのだ。これが最後の夕暮れなのだ。夜が明けたら、今のぼくはもうここにはいない。この身体にはべつの人間が入っている。

 どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。どう してそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞ れに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために? この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
 ぼくはその平らな岩の上に仰向けになって空を見上げ、今も地球の軌道をまわりつづけているはずの多くの人工衛星のことを考えた。地平線はまだ薄光に縁どられてはいたが、葡萄酒のような深い色に染まった空には星がいくつか姿を見せていた。その中にぼくは人工衛星の光を探し求めた。でも彼らの姿を肉眼でとらえるには、まだ空は明るすぎた。目に見える星たちはどれもで打ちつけられたみたいに、同じひとつの場所にじっと留まっていた。ぼくは眼を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過しつづけているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属の塊として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく。 262-5





5. 『OUT OF SIGHT!!! Vol2 アジアの映画と、その湿度』 ANTENNA

 某企画SNSで紹介されてたのを試しに購入してみると、大当たり。自費出版~同人誌販売の括りで売られているけど、水準としては普通に書店流通できるムックレベルの充実ぶりで、価格的にもむしろ安い。てか往年のSTUDIO VOICEに匹敵する試みだし、もっと言えばポップな体裁ながら「香港映画における抗日表現」(by 銭俊華)とかガチシリアスな論考がいくつも手軽に読めるハード側面がまた良い。
 
 あと、東~東南アジアの戦後~現代映画国別年表、たいへん素晴らしいのだけど、中国返還後の香港映画だけ数が顕著に少なくなってるの。ちょっとどうなんだろうという気はする。むしろ浸透圧のように中国資本化した映画も扱うことでそこは面白味が出せたのでは、とか。
 
 で。うちが数年前に書いた香港人監督へのインタビュー記事に言及されてて驚いた。笑 (冒頭画像2枚目)
 その記事を読んだ某日未明にしたSNS書き込み。↓
 
 こういうのは嬉しいですね。日本の大手メディアがすべきだけどしないことを代わりにやってる感あるけど、読み手にそれが通じる実感は稀なので。ネットのおかげだな。香港に住んでる人だし、紙だとこの書き手には届いてない。
 っていうかめっちゃ嬉しい。じわじわ来た。泣きそう。

 石井大智さんありがとうです~! とひっそり感謝の弁。
 そのうちTwitterにも書き込まなきゃな~。




6. エイモス・チュツオーラ 『やし酒飲み』 土屋哲 訳 晶文社
  Amos Tutuola “The Palm-Wine Drinkard” Faber, 1952


 しこたま酔いたくて異界へと旅立つ男の冒険譚。死んでしまった好みのやし酒職人を連れ戻す挿話に始まる、ナイジェリア人作家によるこの奇怪版オイディプス物語は、既知の“おはなし”領域に楽しげな衝撃を与えてくれる。絶対予想不能の読書体験に酔いしれる。

 そんなわけで、「混血の町」の住民たちはみな、ひたすらわたしに戻ってきて、両案件の判決を下してくれることを切実に願っている次第ですので、もしも、この物語をお読みの方の中でどなたかこの二件とはいわず、一件でも結構ですから、可急的にしかるべき判決を下され、その内容をわたし宛にお送り頂ければ、これにまさる幸いはございません。
 わたしたちは「混血の町」を出立してから十五日以上も旅行していると、やがてわたしたちの前に、山が姿を見せてきたので、その山にのぼってみたところ、そこで百万を越える「山の生物」に出くわした。彼らについては、これから説明することにする。 131





7. ジョン・アップダイク 『クーデタ』 池澤夏樹訳 新潮文庫/河出書房新社[世界文学全集II-05]
  John Hoyer Updike “The Coup” Knopf, US, 1978

 
 白人の恋人を伴い独裁者となった男は、アメリカからの支援物資を“神なき抑圧社会からのおこぼれ”と拒絶する一方、信仰を統治の道具と化し冒涜する。

 舞台となるサハラ砂漠の架空国クシュの物語全体が、第三世界へ投影された冷戦期米国の写像となる。


「あなたを愛している、あなたを愛している」という思いがミカエリス・エザナの心の中をめまぐるしく駆けめぐり、白人女の疲れた嘔吐感を抑えた顔と、プラム色のトルコ帽とクトゥンダの脱色した髪のあいだに生じている陽気で楽しげな雰囲気、すべて手を打っておくからというアメリカ人の何もかも包みこむ灰色の自信――これら全部がこの抱擁的で旋回的でパノラマ的な感情の中に併合された。クシュで、愛の政治学が生れつつある。

 イッピ地溝帯というのは、まず北ヨーロッパの渓谷に隠れ、エトナ山とボーヴェ渓谷でその圧力を放出し、地中海の下へもぐりこみ、ずっと南の方ヨハネスブルクの近郊まで続いている地球的規模の驚異である。軌道に乗った宇宙飛行士の目から見れば、これは中国の万里の長城ほどの起伏にも見えないだろう。その中に住んでいる者の目にはまったく見えない。大陸漂動説の理論によれば、地溝帯は最終的にアフリカが二つに分裂するその線を示しているという――それも人間の視点から 見て当然と思われる東西の軸に沿っての分割、つまりイスラム/コーカソイド系の三分の一と北緯一五度以南のネグロイドが優勢な部分とを分けるのではなく、経度方向に、今あるところの緯度に沿った人種と気候の多様性を温存するばかりか二倍に増すような、分割なのである。エーレスンド海峡、東西ドイツの政治的分界、タンガニーカ湖、それにキンバリーのダイアモンド鉱などでの紛争を含む、この長い断層は地理的な特異性をいくつも喚起しており、クシュ中央部のそれ以外の点ではまったく無性格な荒野でもこの線の近くでは昔から異常オアシス、地鳴り、オーロラについての噂が絶えなかった。
 それにもかかわらず、不機嫌なオプクと逃げ腰のムテサと共に、単調な悲嘆の旅を続けたこの国の大統領は、二日目になって地溝帯東側の桃灰色の急な下り坂をセコンド・ギヤで降りている途中、曲り角を一つ曲ったとたんに、エメラルド色の起伏がいきなりフロント・グラスにとびこんできたのに驚いた。
 世界のほかの部分でなら、この緑色は単なる郊外の家の芝生の色と認識されただろうが、ここでは邪悪なほどの強烈さ、突然の悪鬼の顔のように思われた。 274-5



 世界に偏在する「貧しさ」は冷戦下、どこを眼差してもアメリカの「豊かさ」の写像になり得た。誰もが知りつつ、突きつけられれば言葉を失うしかない真実、の果てに進行するアメリカの内破と陥没、そして。

 大量に登場する実在の商標や企業名をアルファベット表記した訳者・池澤夏樹の選択には共感できる。Coca-ColaやMcDonald'sがカタカナになることで取りこぼされかねない微妙なニュアンスこそが、この小説では大事な要素になっている。




8. 乗代雄介 『旅する練習』 講談社

 小6サッカー少女の姪っ子と、ゆえあって都心から鹿島へ練習の旅へ。姪っ子はリフティングやドリブルしながら、語り手は文章を書き継ぎながら。途上心優しい女性の旅伴侶が現れるあたり、都合良すぎる気もするけれど面白いから全然良い。ただある朝いなくなったこの女性の足取りを読んで先回りするくだりは、いや本当そうして読めちゃう「いいひと」がいるのも事実なんだけど、そこまで他者性剥奪せんでもと思わなくはない。
  
 より複雑なことをしているけど同じ関東が舞台の『それは誠』を先に読んだので、シンプルに作者自身の練習感がメタ表出しているのも味になっている。というか、そういう手癖みたいのを残すのが純文学の流儀とは言えるのか、とか。残さないと評価されない、くらいの勢いで。
 にしても末尾、こんな切ない締め方にする必要ってあったのか。なんか無理やり崖つくって落としてる感も拭えずちょっとモヤる。爽快さだけで終わらせたくなかったのか。それじゃ純文学にならないのか、とかとか。




9. 円城塔 『道化師の蝶』 講談社

「これは架空の蝶ですな」
 グラスの縁にとまる蝶に目を止めた鱗翅目研究者は一目でそう断言し、そのつもりのエイブラムス氏にも異存はなかった。
「新種の、架空の新種の蝶です。雄ですな」
 興奮を隠そうとするらしく口の中でぶつぶつと言う鱗翅目研究者がつと手を伸ばし、蝶を指で掴むのを見てもエイブラムス氏は驚かなかった。 22


 着想を捕まえる虫取り網がメインギミックの表題作と、翻訳の不可能性を裏返したような“身体的”翻訳家と出逢う「松ノ枝の記」。衝撃的なのは前者だけど、斬新さではどちらも変わらず鮮烈で、ずしんときたのは後者かもしれない。いずれ再読したい感じは後者のほうが強い。難解さとっつきにくさの先にのみ生じる艶やかさ。
 あと、石牟礼道子の『椿の海の記』がチラついたのは、必ずしもタイトルの語呂だけではないような気もする。まったく異なるにもかかわらず近似を感じさせる、進行の醸す圧というか、濃度というか。




10. 今村翔吾 『塞王の楯』 集英社

 石垣造りの穴太衆を主人公とする戦国歴史小説。攻めではなく守り、しかも震災後さらに熊本城崩落以降の時流下にあって目の付け所がいいし、ものすごいリーダビリティで飽きさせない。ライバルの鉄砲造り国友衆や敵将・立花宗茂のキャラ立ちも明瞭だし、混乱下にも恋愛要素を配する巧さが、過去読んできた類似物より爽やかで際立つ。
 
 なるほどこれが直木賞受賞作の威力なのね。と今後他の受賞作も読んでいきたい所存。文体も大事だけど自家中毒になるよりは、ストーリーテリングの良さに精力傾けてくれたほうが読めるし読みたい気にさせる。単なる好みの話として。




▽コミック・絵本

α. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 15-17 小学館

 新九郎、初陣。そして甥っ子国主の座実力奪還の過程描写が相変わらず凄い。ここまで戦術級の描写ができるのはもちろんパトレイバーその他を経てきた作者ゆえだけど、とすれば道灌の戦いもみてみたかったなぁと。ゆうきまさみスピンオフ期待。
 
 というかこれ、NHK大河ある気がもう確定的にしてきた。人物配置もバランス取れまくりだもん。姉上の守護代行ぶりとか小池栄子の北条政子そのままいけるし、配下の凸凹ぶりとか見栄えもいいし笑いとれるし。何より敵キャラが実存もってて生き様ドラマティックなの、いいわ。SHOGUN凌ぐ意気込みでここはひとつNHKドラマ部総力挙げてほしい。ご当地も3つ以上あるしね。
 しかもまだ、ようやく伊豆に三百貫の領地得ただけっていう。つづきが楽しみすぎて笑う。

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β. 松本大洋 『日本の兄弟』新装版 マガジンハウス

 しみじみと青い。
 
 終盤の二編がのち鉄コンのシロとクロへと昇華する滑走路に思えて素敵。1994年からの初期作短編集ながら、最新作東京ヒゴロまでのエッセンス濃縮還元100%。

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 幸村誠 『ヴィンランド・サガ』 25-7 講談社

 とうとう始まったよ新天地入植。しかも早々にネイティヴアメリカンとの交渉始まるし、戦闘ないと進行早いなもう。下調べが密で細部まで飽きさせない感じはしかし『乙嫁』感もあって、このモードがしばらく続くのもいいな。隠し剣の存在は悲しい予感しかなくて、それを見つけるのが地力で誰にも勝る心優しきトールズの娘っていう展開がまたニクい。
 と思ってたら27巻でやうやう不穏に。ここ数年で伝染病描写がいやでも纏ってしまったコロナ要素などおもう。



 
δ. 九井諒子 『ダンジョン飯』 14 KADOKAWA

 堂々完結。魔物料理を軸とするコミカル地底大冒険が、建国神話になっていくあたりもう溜まらない。

 


ε. 山口つばさ 『ブルーピリオド』 8-9 講談社

 江戸東京博リサーチ実習から藝祭神輿、壁画実習まで。てか上野校地や絵画棟の端々の再現がほんと精確で見入ってしまうし、油画科の日常描写も時間感覚含めて凄まじい。取材だけで本人経験なしにこれできるんだから、プロの漫画家偉大よね。(KONAMI





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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