元気かな。
いつのまにか、手書きの言葉は考えるきっかけくらいの立場に身をひいて、いまではただ楽をして、十指をたたき打ち出される流れにまかせているけれど。あなたといた頃のほうがもしかしたら、言葉はもっと自由に体のまわりを浮遊していたようにも感じられます。
あらかじめ、言葉そのものにより設えられた言葉たち。あれからのぼくはずっと、そのようにして整えられた地面のうえを、なすがまま気のおもむくままに歩いてきただけのようにも思います。
にもかかわらず、じかに身を浸しもしたその大河をゆく水の冷たさをこの両掌に呼び覚ますこともなく、ありがちにメディアの偏向性を想起した時点で考えるのをやめてしまう。ありていに追憶へひたるなどして、湧き起こる思念の嵐が心地良さだけを残して過ぎゆくのをただ眺める。そうやって口当たりの悪い記憶は封じて、上滑りのようにしてこの日常を維持することにこそ無意識のうち危機感を覚えていたとするなら、そもあれらの時間はいったい何だったのか。あるいはこの時のうちに本当に、ぼくはどこかへ行けるのか。
それでも歩くことさえやめないなら、その途上ではいつも見たことのない光や温度に次々と出会えるから、きっと飽きることはないのでしょう。けれどもそれでいいのかという疑いも、きっと抱えつづけることになる。地平線を目指すこと、どこかへたどり着くということ。
風の音。風が草はらをなでる音。風が砂を転がす音。転がり込むかすかな砂の渇いた味。草はらのささやく言葉たち。遠くにだれか、獣の声。ほんとうに、それでいいのでしょうか。ただ気配だけがそこにある。息をひそめて、こちらを見つめ返している。
いつもそうなのだ。そしてふと気がついたとき、ぼくは起き上がっている。掛け布団をめくることもなく。それから暗闇のなか部屋を抜け出す。ドアを開けることもなく。廊下を抜け、居間に入る。誰もいない。音もない。ふだんは足元にすり寄ってくる猫も来ない。圧倒的な無音のなかで、闇だけがあたりに横溢している。ただ、気配だけがある。何かが確かに、こちらをじっと見据えている。その瞳の、黒目の黒が肥大してこの視界のすべてを埋め尽くす闇に溶け込んで、背後までをも覆ってぼくはもう、元には戻れないのだと悟る。こうべを垂れ、もう何も考えない。
8月17日エラワン廟での爆発、18日サパンタクシンでの爆発につづき、きのう19日の日中にもバンコク都心では不審物騒ぎがあり、この街随一の目抜き通りが一時封鎖になりました。幸いきのうについては爆発もなく、けれどこうして街なかの緊張はしばらく続きそうな雰囲気です。
エラワン廟はぼく自身、伊勢丹バンコク店に入る紀伊國屋書店やセントラルワールドのシネコンへ行く際などによく通りかかり、人々の祈る姿や舞殿のなかで舞う踊り子の姿などを、高架の歩道上からぼんやりと眺める場所でした。ネット上で確認できる爆風の規模や爆発物の設置位置からみると、エラワン廟を見おろすためにぼくが上半身を柵へもたせかけるあたりにいたひとたちはみな、爆風の直撃を受け吹き飛ばされたことが確信されます。
あの時もしそこにいたらという、この想像の生々しさ。そこからは、20年前の霞ヶ関駅で起きた地下鉄サリン事件がただちに想い起こされました。市井の一個人には警戒などしようがない。日比谷線も千代田線も丸ノ内線も日常的によく使う路線でした。ぼくも、両親も、友人たちも。そしてあなたも。あのあともそういえば、バンコク都心が今そうであるように、東京都下でもしばらくは不審物騒ぎや異臭騒ぎが相次いでいましたね。白煙があがり一時騒然となった昼下がりの靖国通りや、黄色いバリケードテープによる規制線が張られた丸ノ内線新宿駅の地下トイレ周辺の光景が、いまでも脳裡に灼きついています。
20年という時間の軽さ。前世紀の記憶の枯色。この両の眼がたしかに映し返したもの。極東の。あの島国の。
“わたし”が生きているのは家庭や仕事場においてであり、通路としての雑踏に降りる行為は日常世界を円滑につなぐ手続きでしかない。ただの手続きであればこそ、己の名などそこでは不要だし、表情など放棄してしまったほうがいい。
今世紀に至ってはそうして人々の奏でる雑踏を、無数のカメラが監視している。寡黙な指揮者が壇上から睥睨するように、新たに生成されつつある社会システムは群衆の織りなす調べを統御する。しかしそこでコントロールされているものは、すでにこの“わたし”からは隔離された何かである。隔てられてはいるが、かけがえのない何かである。その何かを、この身に取り戻す可能性を心に描く。
その試みは、祈りにも近い。
ある閉じられた、ひとつの円環。このサーキットの内側で。おそらくあなたもそうであるようにぼくもまた、これまでに多くの光を浴びてきました。多くの驚異に触れてきました。あまたの街の生み出す雷音、無量の視線、視界をさえぎる無数の事象。ただ忘れてしまおうという、これも弱さのあらわれなのですか。
中空にさらした半身のさきの、手のひらの。
また書きます。ひさしぶりすぎて慣れないけれど、きっと大切なことなので。けれどもしこれらをあなたが読む日が来るとして、そこにぼくはいないのでしょう。それはすこし寂しいことですね。
これからそう遠くはない未来、この眼にうつるすべての光が闇となり、耳にたゆたうあらゆる響きの黙するときが来るだろう。その瞬間、ぼくは何をおもうのだろう。この生について。あなたについて。
眼に映る壁や地面の黄土や砂礫が、深く藍に染まりだしている。渇いた風がつめたく頬をさらってゆく。からだを起こそうと試みる。視界の端で風に吹かれて瓦礫の下の砂や枯葉が浮きあがり、小さく渦を巻いている。
#海嶺