pherim㌠

<< 2016年6月 >>

1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930

pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2016年
06月02日
21:04

よみめも31 花園瀆神肉骨茶

↑先日新宿路地裏のとある文壇バーへお誘いいただくなど。店内には常連さんのご著書ずらり。じんわりカルチャーショック度の高い夜でした。[5/25,26→https://twitter.com/pherim/status/735772374973325312]



 ・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。


 ※詳細は「よみめも 1」にて→ [ 後日掲載&URL追記予定 ]



1. 藤田一照 『現代坐禅講義 只管打坐への道』 佼成出版社

 われわれがなすべきことは、そのまま手をつけずに、浮かんでくる思いを追いかけもせず、また払おうともせず、自然に起こるままに消えるままにしておくことなのです。「不思」を「不思」のままにしておくということです。

 今年2月末のタイ東北部スカトー寺滞在前に読んだ。この間に藤田一照師本人に会いに行ったことも含め、ある種この3ヶ月の基底音をつくってくれた一冊。今後も都度都度参照することになりそう。本そのものはバンコク自宅に置いたままなので、上記引用は過去ツイートから。




2. ジョルジョ・アガンベン 『瀆神』 月曜社

 事物、場所、動物または人を共通の使用から除外して、分離した領域に移すものが宗教であると定義できる。 p.106
 
 じっさいにも、神聖なものから神聖でないものへの移行は、神聖なもののまったく不整合な使用(というかむしろ再使用)をとおしても起こりうる。遊びにかんするものがそれである。 p.108

 この意味においては、世俗化と瀆神を区別する必要がある。世俗化はひとつの排除の形式であり、もろもろの力に手を触れることはせず、ある場所から別の場所へと移し換えるにとどまる。こうして、神学的概念(主権のパラダイムとしての神の超越)の世俗化は、天上の君主制を地上の君主制に転位することしかせず、その権力は手つかずのまま残す。
 逆に、瀆神は、神聖を汚すものの中和を含意している。使用できずに分離されていたものは、ひとたび神聖を汚されれば、そのアウラを失い、使用へと返還される。どちら も政治的な操作である。しかし、世俗化は、それを神聖なモデルに関係させることによって保証する権力の行使とかかわっている。瀆神は、権力の諸装置を無力化し、権力が剥奪していた空間を共通の使用へと返還するのである。 p.111-2


 「個の欲望」は属す環境によるマインドセットの産物に他ならず、産物により母体たる生の在り処が十全と満たされることなど原理的にもあり得ない。そこで内面から「個」を突き崩すようなマグマ溜まりの存在があらためて気づかれることになる。
 
 このマグマ溜まりに発するデモーニッシュなエネルギーを欺く力こそはたぶん圧倒的な表現力の源で、長いことその力をお気に入りのアーティストとか作家とか、こいつは十年後が楽しみだなと思わせる周囲の友人とかにみてきたのだけれど、実はまったく別のやり方によりこの現実世界でこの「欺く力」を行使しているのがお坊さまとか司祭さまとか、いわゆる聖職者たちなのかとか昨今興味津々なのである。吉村ニキとか與賀田ニキとか、すげぇ他者感あるんだよな、屹立してる。

 解体され、遠ざかるこの音楽は何ものなのか。いとまごいだけが真実であり、今はじめて自ら学んできたことの長い長い忘却が始まる。あのゆったりとした少年が彼の赤面をひとつひとつ、彼のためらいをひとつひとつ、有無をいわさぬ態度で取り返しに戻ってくる前に。 p.23

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日掲載&URL追記予定 ]




3. W.G.ゼーバルト 『移民たち』 白水社

 ――この肖像は、先祖たちの長い長い列、焼かれて灰になって、それでも痛めつけられた紙のなかでなお亡霊として彷徨いつづけている、灰色の顔をした先祖たちの長い列から浮かびあがってきたのだと。 p.175 
 記憶とは鈍磨の一種だろうかとたびたび思う。記憶をたどれば、頭は重く、目は眩むのだ――時の無限のつらなりをふり返るというより、あたかも、天を衝いてそびえている摩天楼のはるかな高みから、地の底を見下ろしているかのように。 p.157

 やがて夕闇がしのびよってくると、目覚まし時計の針が蛍光を発しはじめ、それが私の子ども時分から慣れ親しんできたおだやかな黄緑色で、夜中にこの光を見ると、いわれもなく護られているような心地になった。(略)便利でおかしなあの装置こそが、夜闇に光り、朝はひくくコポコポと音を立て、そして昼はただそこにある、それだけで私を生きのびさせてくれたような気がする。 p.166


 もちろんのこと、幸せの形は様々にあるのだろう。けれど一日のうちにこうした本を読む時間をもてずに暮らす日々はすこし、不幸であるという気がする。 
 だからいまは、すこし不幸だ。まぁ仕方ないずらね。

 光よりも空気よりも水よりも、埃はわが身にはずっと親しい。(略)ひと息ごとに物質が解きほぐれ消え失せてできる灰色のなめらかな粉末におおわれて、物たちがそっとくぐもって横たわっていられる場所ほど、自分にとって安堵できるところはない、と。そして実際、アウラッハが何週間となくおなじ肖像画のデッサンにかかりきりになっているのを眺めながら、この人の関心はなによりも塵を積もらせることにあるのだと一再ならずに思ったものだった。 p.174




4. 内藤正典 『トルコ 中東情勢のカギをにぎる国』 集英社

 オスマン帝国崩壊以降のトルコがもっぱら政教分離を旗印に近代化を遂げてきたことや、政治へのイスラム色混入に対する強いアレルギー体質にケマル・アタテュルク以来の根深さがあることはよく知られるところだけれども、この体質と昨今のエルドアン政権の強弁が本書を読んで初めてきちんと結びついた感。

 2010年代に入ってからの民主議会政治におけるイスラム傾斜は、トルコに限らずエジプトからマレーシアまで事例の枚挙に事欠かない状態だけれど、国ごとに内情は千差万別であるにも関わらず俯瞰すれば同じ方角へ多くの国が向かっているあたりには、抗いがたい世の流れを感じてやまない。トルコに個別特殊的な因子としてはヒズメト運動やクルド人問題があり、EUからの圧力とイスラム圏からの期待がある。これらを腑分けする手つきが本書はとても鮮やか。良参考書。(栞p.17/43/107/122/193)




5. 倉田徹 張彧暋 『香港 中国と向き合う自由都市』 岩波新書

 15年12月発行の新著で、3月の香港滞在に先立ち絶対に読もうと思っていた一冊。著者は今回の香港滞在で大変世話になった知人の現地在住研究者とも親交があり、説得的な各種データ分析や事象解説だけでなく、今日の香港人の心情や雨傘運動をめぐる生の描写がとても興味深かった。

 中国政府が約束した「一国二制度」の期限は50年。と聞けば果てしなく長いようにも感じられるが、すでに3分の1が過ぎている。現地に住む者の耳には、その近づく足音がすでに日々聴こえていることも、本著を読んでよくわかった。と同時に香港や台湾に住まう今日の若者が抱える危機感は、日本に住まう明日の若者が抱えるだろうそれの先駆けであることも。

 香港関連本については、雨傘運動見学時の下記よみめもにて集中して扱った。

  よみめも20 香港編: 後日掲載&URL追記予定
 



6. 松谷信司 『キリスト教のリアル』 ポプラ社

 われらがマツターニ初の単著(たぶん)。とはいえ中身の過半はマツターニ司会による牧師・神父さんらの座談会で、あれやこれやと今日現在の日本でキリスト者、キリスト教聖職者であることの困難や課題が示される。

 なかでもひときわ目立つのが晴佐久神父で、彼の発言だけはどこを切り取っても彼とわかる、言葉が発する独特の光みたいなものがあり、なんか凄い。

 晴佐久 それこそ翻訳の福音のようなものを必死に学んで、形式的に語って、これが正しいって言い張って。誰も目の前で救いの喜びを感じていないのに、理解力のないお前が悪いみたいな感じの、一方通行の語りだけだから。果たしてそれがキリスト教と呼んでいいのかどうか疑問があります。 p.159




7. 津村一史 『中東特派員はシリアで何を見たか』 dZERO

 共同通信社記者によるカイロ支局駐在期の手記。主観に基づく私見を率直に書き出す点が良い。シリア情勢をめぐる情報をまとめて摂取した時期に読んだため、正直事実情報としては飽和気味で新鮮味はあまりなかった。いや間違いなく良書なんですけどね。

 蕨のトルコ人コミュニティ通称「ワラビスタン」の公演清掃ボランティアとか、カイロの邦人コミュニティによるソフトボール大会とか、この手のローカルネタは楽しかった。




8. 和田竜 『村上海賊の娘 上』 新潮社

 ずっと積ん読状態で、読みだすタイミングを待っていた本。3月の瀬戸大橋初渡り[過去日記:http://goo.gl/ViJxcK]を機に読みだした。とにかく面白い。実際直近で目にした瀬戸内海の島々も登場するゆえのイメージ喚起も手伝って、エンタメ小説ならではの没入感を久々に味わえた。

 それとはべつに、これは『のぼうの城』でも感じたことだけれど、和田竜作品のフォーマリスム感は、とくに近年新作が出るたびに深まっている気がする。長篇になるほどこの方向性が深まるというのは考えてみれば歴史小説作家の王道かもしれなくて、しかも同世代で欧州世界を舞台とする佐藤賢一ともども、今後もつかの間の耽溺への期待に応えてくれる大事な作家であり続けてくれそうだと予感を濃くする読後感。下巻も期待。




9. 高尾長良 『肉骨茶』 新潮社

 バンコク紀伊國屋で見かけ、タイトルに惹かれ買った一冊。肉骨茶は、2年前のボルネオ滞在中に最も気に入った料理で、マレーシアの華僑系食堂ではよく見かけるひと品。

 主人公は拒食症の少女で、母親に倦んでマレーシア旅行中に脱走、富裕な親をもつ友人の別荘へ逃げ込む。小品にもかかわらず各所で露出する凸凹感が気になったが、なんと著者は「受験勉強の合間に息抜きを兼ねて執筆」、京大医学部生の20歳時に本作で新潮新人賞史上最年少受賞とのこと。
 読む前にこういう付帯情報を知らなくて良かった。というのも本作の白眉は、ありがちで平凡な情景描写が突如、意味不明なくらい詳細な生理描写へと陥入していく文体の面白さにあったからだ。今後この粗削り感がさらに活きるか巧くなって消えるのか、ちょっと気になる。




10. 吉田正 『imadination chuya』

 タイ会社在庫物でなぜか著者サイン入り。中原中也の詩に自身の写真を付したもの。プロカメラマンの経歴が長い著者による写真単体の水準は当然プロ級ながら、詩との連環が平板かつありきたりで、トータルの表現性においては自己満足の域をまったく出ていない。

 ただ中也詩を意識的に読んだことはあまりなかったので、触れる良い機会にはなった。香港からバンコク宅への帰還翌日に読んだため、下記引用作などなかなかに。(香港界隈ではよく「港」の一字で香港を表す。港珠澳大橋とか。)
 
  港の市の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。




▽コミック・絵本

α. 高浜寛 『四谷区花園町』 竹書房

 奇跡のような一作。単純に漫画として高水準なのはもちろん、実在する作者の親族を描いて「四谷区花園町」というタイトルに結晶するあたりに堪らない疼きを覚える。大正モダンから戦前までのハイカラ文化源泉地帯を生きる市井の視線も味わえる。

 ちなみに四谷区は新宿区に合併されたが、現在の新宿花園神社の裏手にある新宿花園町は四谷区花園町から徒歩5分ほど移動している。御苑裏に花園小学校がぽつんと離れて建つ意味を、この作品との出会いで初めて知った。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日掲載&URL追記予定 ]




β. 松本大洋 『Sunny』1,2 小学館

 松本大洋は好きすぎて、初読は一度しかできない貴重な体験だから大事にしすぎて、結果としてなかなか読み出せないという意味不明な病に襲われて幾星霜。このうえさらなる言葉を重ねるのは3巻以降読了時に回すとして、マスコミ試写で『さとにきたらええやん』という映画を観て「おお、『Sunny』やん!」と嬉しかったのでご紹介。





 今月(2016年6月)公開、良い作品でしたお奨め。 
 それはそうと『Sunny』、松本大洋の自伝的要素があるんだってね。素朴に感動。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日掲載&URL追記予定 ]






 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
#よみめも一覧: http://goo.gl/7bxPft
: