pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
08月08日
05:48

ゾンビを止めるな!

 

 1938年3月、ある若者がパレルモ発ナポリ行きの郵便船に乗船したあと、忽然と姿を消した。

 当時31歳だった彼の名はエットレ・マヨラナ。ハイゼンベルクから認められ、フェルミから「ガリレイやニュートンのような天才」と讃えられた若き理論物理学者の失踪を巡っては当時、ムッソリーニすら捜索の動向を注視したほど社会的事件となったが、やがて未解決のまま忘れ去られた。
 
 マヨラナが「放射性核の量子論的理論」に関する論文によりローマ大学から学位を得た際の主査は、26歳で同大学理論物理学講座の正教授職についたばかりのエンリコ・フェルミだった。フェルミがこの数年後オッペンハイマーと組んだ研究は、最初の原子爆弾製造を導くことになる。したがって互いに矛盾する不可解な手紙を複数投函して消えたマヨラナの失踪理由を、物理学と社会の未来への不安とみる向きはなお根強い。
 だがアガンベンはむしろ、ハイゼンベルクの不確定性原理に代表される、量子論物理学における現象の確率論的性格に着目し、


 もし量子論力学を支配している約束事が、実在は姿を消して確率に場を譲らなければならないということだとするなら、そのときには、失踪は実在が断固としてみずからを実在であると主張し、計算の餌食になることから逃れる唯一のやり方である (ジョルジョ・アガンベン『実在とは何か マヨラナの失踪』上村忠男訳 p.45)


 と仮説をたてる。そのぶっ飛んだ展開には《このミス》も真っ青だろうが、そこへと至る過程で為される言及は逐一説得的かつ刺激的だ。


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 すなわち、確率の計算を統御している原則は何かといえば、実在の領域に確率の領域を置き換えるということ、あるいは重ね合わせることなのだ。確率を考慮しながら行動する者は、この重ね合わせにひれ伏して行動していることになるだろう。
 (略)ウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら、世界とは《それがその場合であるところのもの》でしかなく、したがって確率はけっして存在しえない。というのも、確率とは当の世界そのものにほかならないからである。そして世界を統御し、世界にかんして決断を下すことをなしうるために、世界の実在は宙づりにされるからである。わたしたちが「偶然」と呼んでいるものは、蓋然的なものおよび可能的なものが実在のなかで「起きる」という擬制である。逆が真であるにもかかわらず、である。すなわち、ある仕方で考察されたなら、その実在性を宙づりにし、そのようにして、たんに蓋然的なものであるかぎりにおいて、みずからのなかで起こりうる実在的なものなのである。 (同p.35-6)



 さて世は8月。祖霊の帰り来たる時季がきた。
 
 ここ最近、思想とか批評界隈の若い人々が使う「幽霊」の語が耳につくことがたびたびあって、なぜ耳についたかと言えばおそらく、その語の使われ方にとても安直さというか奥行きのなさを感じる点で通底するからだ。べつに「幽霊」の語の使用に含蓄があることと書き手なり論壇人なりの内実とは無関係だろうから、そこに違和を感じる自分のほうにどこかズレがあるとまずは考えるべきなのだろう。そこには何かが潜んでいる。

 わかりやすく例を挙げれば、きのうぼくは午前に新宿の雑踏を歩き、午後には渋谷で電車を乗り換えたけれど、新宿や渋谷ですれ違う数千人のうち、いったい何人が本物の人間だろうかと考える。大半が人間である場合と、大半が幽霊である場合とで何が変わるか。というときの「幽霊」とは、今風に映像化するならVRとかARが採用されそうなところのいわば、“書き割り”である。「群衆」とか「大衆」の語が敢えて伐り出され概念思考の俎上にあがる過程には少なからずこうしたヒトのモノ化が図られているはずだけれど、「ところでこの自分は?」という懐疑がそこへ含まれないとすれば、その措定にはいったいどれほどの意味があるのか。恐らくこれも「耳についた」理由の一。

 目を合わせ、相手が話すのを聴いている。相手の言葉が決まり文句でしかないことに気づくのと、相手の目が泳ぎだすのとはいつも同時だ。だから一時帰国中は、あまり目を合わさずに人と話す。現代日本、という文脈。日本人、という作法。
 渋谷ハチ公前の交差点で、目に入る群衆のすべてを無意識に同じ人間とみなす思い込みは、彼らと彼ら以外とを無前提に切り分ける作法と思考停止の一点で共通する。






 「ヨーロッパに幽霊が徘徊している、共産主義という名の幽霊が。」

 妖怪でも亡霊でも、この文脈でなら意味は同じだ。ゆえにゾンビでもよい。映画『カメラを止めるな!』が、なにやら一部でカルト的沸騰を呼んでいるという話はけっこう前から耳にしていたけれど、この8月から本格的な全国展開を始めている。実際かなり熱のこもった作品なのは事実で、個人的には初めて『ロッキー・ホラー・ショー』を観たとき感受したような莫大な謎熱量を、本作から受けとる若い観客はきっといるだろうなとすら思わせる。この熱量とは社会的文脈込みのそれを言っていて、この方向性において実はつねに潜在する需要に応えた点で『この世界の片隅に』にも通じている。ワンカット37分という試みがきちんと売りになっている点も、デジタル編集時代に若干の昭和感を醸してまことにアツい。そしてゾンビである。やはりゾンビでなければならないのだ。ゾンビがそこにいるかぎり。


 確率をアリストテレスの用語で定義してみるなら、それは現実態への位階的従属から解き放たれた可能態である、ということができる。実際の実現とは無関係な存在を保証されているかぎりで、そのような可能態は現実態に取って代わり、そうして可能態をそれ自体において、実在するものの認識道具としてではなく、実在するもののなかに介入してそれを統御するための様態として考察する、(略)確率は、まさに人間的な技術と知識が本来宿る次元である。(略)そして、認識が認識するのは、いまや認識そのものでしかないのである。中世の哲学者のすばらしいイメージによれば、知性のタブラ・ラーサ(tabula rasa〔磨いた板〕)の上に不断に書き込まれているのは現実態ではなく、思想の可能態そのものであって、そこでは《まるで文字がひとりでに書板の上に書き込まれているかのよう》なのだ。 (同p.43-4)


 マヨラナの論文「物理学と社会科学における統計的法則の価値」を手がかりに導かれる、“科学は、もはや実在界を認識しようとはしておらず――社会科学における統計学と同様――実在界に介入してそれを統治することだけをめざしている”とするアガンベンの指摘は、「科学」を実証主義的世界観と読み換えれば、そのまま彼の主著『アウシュヴィッツの残りもの』における《アルシーヴと証人》をめぐる問題圏と重なってくる。
 
 パレルモから最後に乗った郵便船に、マヨラナの下船記録はない。しかしその後のナポリ市中においては、彼に近しい人間による目撃証言が残っているという。
 実証主義的世界観とは何やら堅苦しいけれど、日本社会にかぎって換言すれば、それはオウム真理教事件以降の宗教フォビアで極限まで研ぎ澄まされた、経済原理に支配された個人主義感覚の最も劣化したバージョンだと言えるだろう。先月なされた麻原彰晃ら13人の大量死刑執行を、幸徳秋水らの大逆事件になぞらえる高橋源一郎の言及は、その一面性を踏まえてもなお興味深い。明治の終わりと平成の終わり、そこでは統治機構により本当のところ何が殺されたのか。そこに彼はまだ立っている。人々が日々歩む道の暗がりに。あなたを見つめている。
 「実在界の統治」をめぐる上村忠男の訳者解説が大変興味深いので、該当箇所を引用して本項を閉じる。


 アガンベンは『身体の使用』のエピローグで、「剥き出しの生(la nuda vita)」という、それ自体としては非政治的なものをエクス-ケプティオー(ex-ceptio)すること、すなわち、政治の空間から排除すると同時にそのなかに包摂することこそが西洋における政治の基本構造をなしてきたとするとともに、とりわけ「オイコノミアと統治の神学的系譜学のために」と副題された二〇〇七年の著作『王国と栄光』(高桑和巳訳、青土社、二〇一〇年)において、栄光は人間的および神的な生が「働かないでいる」状態、無為の状態にあることをオイコノミア的な統治機械のうちに捕縛することをめざした装置として機能していたことの立証に努力がなされたことに読者の注意をうながしていた。そして、《今日、存在論的-政治的に基本的な問題となるのは、働きではなくて、働かないでいることである》としたうえで、もしそうであるとするなら、そのときには、来たるべき政治像は、これまで思い描かれてきたような「構成的権力(potere constituente)」という形態ではなく、アリストテレスの存在論において基礎概念中の基礎概念をなしているデュナミスとエネルゲイア、能力ないし可能態とその現勢化ないし現実態という概念を借用するなら、「脱構成的可能態(potenza destituente)」とでも呼ぶことができるような形態、すなわち、包摂的排除のメカニズムをつうじて「構成的権力」へと現勢化されるのではなく、そうした現勢化とはいっさい関係をもたないかたちでみずからを露顕させるような純粋可能態の形態をとることになるだろう、と述べていた。 (同p.161-2)


 覚え書きとして、この「純粋可能態」を読んだ瞬間、東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』におけるニコ生コメントをめぐる一連の描写が想起された、と記しておく。あれは要するに、群としての観光客的まなざしを可視化する装置だとみれば、“昨今耳につく「幽霊」の語”ですらもまた、古びた見世物小屋に幕後ただようすえた臭いにも似た、種としてのナニカからの呼び声にも聴こえてくる。ゾンビ、とは言わないけれど。

 



耳 出国日未明、実家にて。

コメント

2018年
08月08日
06:08

※アガンベンによる「剥き出しの生(la nuda vita)」については、前回日記「ホロコーストの此岸」でも扱った。

「ホロコーストの此岸」: http://tokinoma.pne.jp/diary/2964

※※冒頭画像二枚目は冨樫義博『HUNTER×HUNTER』よりナニカ画像。彼の描くヤバめキャラはガチの精神崩壊力がありとても良い。現代の河鍋暁斎。

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