・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※コミックは別腹にて。書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 田中克彦 『草原と革命』 恒文社
日本も一方の当事者であった戦乱と鉄のカーテンに阻まれ、モンゴル語を学べる日本語文献が辞書一冊しかなかった1960年代にどうにか渡りをつけ、ロシアの出版人を偽装してモンゴルへ入国した著者によるモンゴル近現代史総覧&探訪記で、もう純度1000%魂の名著というほかない。
一九二〇年代後半には、数十名のモンゴル青年がドイツに留学し、フランスにも若干名が学んだ。とくにライプツィヒには、地図を書くために派遣された二名があった。今日、ウランバートルの国立美術館に入ると、最初の部屋に興味深い絵がかかっている。作者はシヤラブという、現代モンゴル絵画の祖である。この絵の中央には、なじみの禿頭のレーニンが描かれ、頭の周りには仏画に見られるのと同様に光背があるが、この光背は世界地図になっている。手法は伝統的なモンゴル仏画の方法に、西欧的なニュアンスを加えたものだ。モンゴルの革命期に生まれた絵で、これほど象徴的なものはない。仏はレーニンになり、仏のおしえのかがやきは世界地図となったのだ。つまりこれがモンゴルの革命であった。 48
ノモンハン事件への日本の無知無関心性を嘆くくだりも、そもノモンハンという《地名の概念》が草原の民特有のもので、日本人や欧米人文書の感覚とはまったく違うあたりから入る具体性が超絶面白い。それで思い出されたけれど、チベット文化圏西端部にあたるザンスカールを旅した際に印象的だったことのひとつに、標高5000メートル台の山々が基本的に名を持たないと知った時の驚きがあり、しかしそれはアマゾン深奥で巨樹のひとつひとつに名など付けないのと同じで必要がなければ名なんか付かない。無惨な戦闘が起きたポイントがどこかというのも、だいたいあの河のあっちのほう、という程度以上に特定される必要など数百km同じ光景の続く草原地帯で生じようもないと考えれば理解も容易い。東京と同じ感覚で地名があるものと前提してしまうのは、単にものを考えてない証でしかなかったのじゃった完。
この大会(1924年夏の第三回党大会)が歴史的な意味をもつのは、この時より「人民党」が「人民革命党」と改称されたことからもうかがえるように、党が断平として社会主義をめざす軌道の上に身をすえたことである。その契機を作ったのは、五月における活仏、第八代ジェプツンダンバ・ホトクトの死であり、党は、この第八代をもって活仏は転生せずと決議して、翌六月には、立憲君主制から人民共和制への移行を確認した。このような情勢のもとに開かれた第三回党大会は、大会議長ダンザンの演説をもってはじまり、ほかならぬダンザンの罪状査問・処刑というセンセーショナルなできごとをあとに残して終結した。ダンザンは、最初に革命組織を作り、モスクワに援助の要請に行った、スへバートル、チョイバルサンらのグループに属する最古参のメンバーで、第三回党大会当時、大蔵大臣、全軍総司令官、首相代理などの要職にあっただけに、この結末はいっそう唐突の印象をうける。 185
ロシア革命以降の余波で白軍と赤軍が争う流れになっても、レーニンは仏化されるし両陣営で僧兵が主力となるのもラマ教圏ならではってか、軍閥でさえ率いるのが賊とか地主っていうよりグルになるのも、考えてみればそりゃそうだけれど、ガチアツい。ここらへんは同著者から列伝みたいな新書も書かれてるようなので、読めばより解像度は上がるし未知の面白エピソードもきっと多いだろう。いずれ読みたし。
2. ヘルマン・ヘッセ 『デーミアン』 光文社文庫
見ると、デーミアンはちゃんとそこにすわっていた。いつものように背筋を伸ばし、きちんとした姿勢をとっているけれど、いつもと様子がちがう。なにかが彼からあふれだしている。ぼくの知らないなにかが彼を包んでいる。目をつむっていると思ったけれど、デーミアンはしっかり目を開けていた。だけど、なにも見ていなかった。なにも目に捉えていない。見入っているのは自分の内面か、はるか彼方のようだ。
デーミアンはすわったまま身じろぎひとつせず、息をしているように見えない。木や石に彫刻したような口。青白い顔。血の気がなく、石のようだ。一番生き生きしていたのは色の髪だ。両手は目の前の机に置き、石や果物のようにじっとしていて静かだ。血の気が引いて、ぴくりともしない。でもくたっとなっているわけでもなく、秘められた力強い生命を包む硬くしっかりした外皮のようだった。
その光景にほくは体が震えた。デーミアンが死んでいる、と思った。あやうく声にだしてしまうところだった。でも死んでいないことはわかっていた。ぼくは彼の顔、青白い、石のようなその仮面に目が釘付けになった。そして、これこそがデーミアンだと気づいた。ぼくといっしょに歩いたり、しゃべったりしているいつもの彼は、デーミアンの半面でしかないんだ。一時的にある役を演じてまわりに調子を合わせ、好意からいっしょの行動をとっているにすぎない。いま、そこにすわっているのが本当のデーミアンだ。化石と化した古くて、野性的で、頑なで、美しく冷たく、死んでいながら、ひそかにすばらしい命に満たされている。そしてそのまわりを包むのは、あの静かな虚空、エーテルと星の領域、孤独な死なのだ。
「自分のなかに没入している」ぼくは戦慄を覚えた。こんなに孤独を感じたことはいままでにない。ぼくはデーミアンとの接点を失った。彼は遠く届かない存在になっていた。この世のもっとも遠くに浮かぶ島にでもいるかのように。
ぼく以外のだれもそのことに気づかないなんてじられなかった。こぞってそっちを見て、身ぶるいしなければおかしい。ところが、だれひとり、デーミアンを気にしていなかった。彼は彫刻のようにそこにすわっている。まるで周像だ。蠅が彼の額に止まり、ゆっくり皇と唇を這いまわっても、ぴくりともしなかった。
デーミアンはいま、どこにいるんだろう。なにを考え、なにを感じているんだろう。天国、それとも地獄にいるのだろうか。
デーミアンに訊くことはできなかった。授業が終わって、彼に生気がもどり、呼吸を始めたのがわかった。目が合ってみると、いままでどおりのデーミアンだ。いったいどこから来たんだろう。どこに行っていたんだろう。疲れているように見える。顔色がよくなって、両手が動き、逆に褐色の髪は輝きを失い、くたっとして見えた。
それからの数日、ぼくは寝る前に何度も新たな練習に耽った。椅子にきちんと腰かけて一点をしっかり見つめ、一切身じろぎしない。それがどのくらいつづけられるか試し、そのうちなにを感じるかじっと待ちつづけた。ぼくは疲れはて、まぶたがやたらかゆくなっただけだった。
その後まもなく堅信礼がおこなわれた。特記すべき記憶はない。
けれども、あれからなにもかも変わってしまった。子ども時代がぼくのまわりでがらがらと崩れ落ちた。両親はぼくを見て戸惑い、ふたりの姉も距離を感じさせた。気持ちが冷めると、慣れ親しんだ感情や喜びはインチキに思え、色褪せて感じられる。
庭は匂いを失い、森にも引かれなくなった。まわりの世界は投げ売りされた古物のように味も素っ気もなく、書物はただの紙の蠣と化し、音楽は雑音でしかなくなった。
秋になって葉が散っても、それを感じない木とおなじだ。雨が幹を伝って滴り落ちようが、さんさんと日差しを浴びようが、霜が降りようが、木の生命は徐々に奥深く狭いところにもぐりこんでしまう。でも木は死なない。時を待っているのだ。
休暇が終わると、ぼくは別の学校に進学し、家を離れることになっていた。母はいつになくやさしく接してくれた。別れが近かったからだろう。愛情と郷愁と後ろ髪を引かれる気持ちをぼくの心に植えつけようとしたのだ。デーミアンはすでに旅立っていた。ぼくはひとりぼっちだった。 102-5
十一月初めのこと。どんな天気でも、ささやかな思素の散歩をした。散歩中、憂いに浸り、世の中や自分をさげすむ。それが心地よかった。霧が立ち、湿っぽい夕暮れに、ぼくは町の周辺をぶらついた。公園の広い並木道にはまったく人気がなく、誘われるようにしてそこを歩いた。道には落ち葉が降り積もっていて、ぼくはわけのわからない快感を覚えながら落ち葉を蹴散らした。つんと鼻をつく湿った匂いが立ちのほる。遠くの木立の大きなシルエットが霧の奥から幽霊のように浮かび上がっていた。
並木道のはずれでふと立ち止まり、ぼくは黒々とした落ち葉を見つめ、じめっとした腐臭をむさぼるように吸い込んだ。ぼくのなかにあるなにかがその匂いに応え、それを歓迎した。生命はなんて味気ないんだろう。 108
Es gab Tage, da traf ich lauter Gestalten, die an sie erinnerten, an sie anklangen, die ihr glichen, die mich durch Gassen fremder Städte, durch Bahnhöfe, in Eisenbahnzüge lockten, wie in verwickelten Träumen.
本書ではこう訳してみた。
彼女を思い起こさせる女性や、雰囲気が近い女性や、面影が似ている女性にばかり出会い、誘われるように知らない町の路地を歩き、駅を抜け、汽車に乗る日々がつづいた。いくつもの夢が複雑に絡み合っているかのようだった。(本文二百五頁)
原文は構造的に以下のように細分化できる。該当する個所の訳文を括弧内に示す。
1. Esgab Tage,(日々がつづいた)
2. datraf ich lauter Gestalten,(女性にばかり出会い)
3. die an sie erinnerten,(彼女を思い起こさせる女性や)
4. an sie anklangen (雰囲気が近い女性や)
5. die ihr gichen(面影が似ている女性)
6. die mich durch Gassen fremder Stadte, durch Bahnhofe, in Eisenbahnzige lockten.(誘われるように知らない町の路地を歩き、駅を抜け、汽車に乗る)
7. wie in verwickelten Traumen.(いくつもの夢が複雑に絡み合っているかのようだった) 292-3
3. 古泉迦十 『火蛾』 講談社
こいつぁ、やべぇ。中東の僻地、風砂舞う穹盧に座す行者への語りかけに始まる本作、12世紀のイスラーム神秘主義を背景とするミステリー進行の、一貫された低音トーンに読み終えて震撼する。決して深入りはしない、つまり浅薄との誹りも恐れず覚悟を具えた一定の通奏低音そのものに巧緻をいやでも痛感する、夜更けの街へ響くアザーンにも近い微震を表皮へ感覚させる。
2000年にメフィスト賞を獲得、各所で絶賛されながら公から姿を消したため文庫化されることもなく、2024年末に24年ぶりの新作『崑崙奴』を出して一部を騒がせた(なんてことは今知った)という1975年生まれの作家。つまりは本業をべつにもつ恐らく日本人という程度しか公表情報からは推測さえできない人物の、この身振り。いやでも、これを書いてしまったら、そんな簡単に顔を出して東京を歩けたりはしなくなるのも自明だろうとも思わせる。決してスーフィズムを冒涜はしていないが、むろん称揚はしておらず道具立てに使うだけで信仰的な深みへは立ち入らない“配慮”こそを冒涜と名指されるリスクは否めない。どうだろう。
小川哲の本格ミステリ版みたいのがすでにいた、とでもいうような。
底本として井筒コーランやセネカのほか5冊が挙げられてるうち冒頭に挙げられたファリード・アッタール『イスラーム神秘主義聖者列伝』تذکرة الاولیا が未読なのもあり興味をもった流れで、主著『鳥の言葉』منطق الطير に添えられた17世紀サファヴィー朝のミニアチュールを知る。眼福。細密画といえば世界史脳的にはローマ→ビサンティン→ケルト→中世フランスの流れが想起されてしまうけれど、ビサンティンから東へ分岐した中世ペルシャ~インドの果てに若冲の鳥獣画が浮きあがる仮想マッピングの走るひととき。
某処にて知り合ったあるメフィスト賞受賞作家よりオススメいただいた一書、感謝。
4. 伊藤剛 『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 講談社
この機会に読めて良かった。読まずにいることがどこかで気になり続けたろうから。(そういう未読本だけでも生涯読み切れないほどありそうにも思えるが、深く考えないでおこう)
マンガ以外を語る場所でもしばしば俎上にあがる《キャラ》と《キャラクター》の分離仕草に初めて納得できただけでも意義深い。正直、「そういうキャラじゃない」のキャラとの区別を考えたことさえなかった。の、うえで言えば、伊藤剛文脈以外で汎用性がある概念とも言いがたいネーミングの困難をすこし覚える。本人からすればこの論旨で使えれば良いのだから、外野であれこれ持ち出されることに責任はないのだけど。すこし長めに下記引用しておく。
たとえば、マンガを構成する三要素に「絵」を採用せず、「キャラ」「コマ構造」「言葉」としていることに対し、違和感を覚えた読者もいると思う。一般に「キャラクター」とは「登場人物」とほぼ等しい存在と考えられているからだ。それを「コマ構造」や「言葉」と並列に「目に見える」要素として抽出するのは、論理的におかしくないか?という疑問である。
これは、とても自然な疑問であろう。結論から先にいえば、私は「キャラ」という概念を「キャラクター」から分離することで、先の三要素のひとつに置くことがかろうじて可能になったと考えている。いいかえれば、「コマ構造」「言葉」と、まがりなりにも並列に置きうるものとして「キャラ」という概念があるということだ。「コマ構造」「言葉」はともに、時間的な連続を記述する。そして、実は「キャラ」も同様である。マンガ家がよく、自分の創作の過程を説明するのにいたずら描きをして「キャラが動き出したら」ということは知られている。キャラとは「絵画」とは違い、「動き」すなわち時間的継起性を孕んでいる。よって、この三者は並列に並べることができる。 89
概説的な本よりも、こういう個別特殊へガチッと分け入るもののほうが、かえって俯瞰に資するマッピングが進むのは不思議な気もする。けどまぁ、単純に面白さが生む吸収率といえばそれまでかもしれ図。
5. 柴崎友香 『続きと始まり』 集英社
橋を渡りはじめて、優子は、かかっている曲に合わせて歌ってみた。まだ数回聴いただけで歌詞を覚えてもいないし、声を出して歌ってみるのは初めての歌だから、ところどころしか歌えなかったし、そもそも宇多田ヒカルの歌は声の高さが合わないのもあっていつも優子には難しかった。
次の曲になって、もっと大きい声を出してみた。わからないところは適当に、ほとんどただ叫んでいるみたいに歌った。その次の曲も、その次も。
アルバムが終わって、自動的に次のなにかが流れる前に止めた。
急に静かになった小さな空間に、かちかち、とウインカーの音だけが聞こえた。
慣れてもうほとんど自動的になった動作で左折すると、まっすぐな道路の先、湖の向こうに消えかけている夕日が見えた。 286-7
神戸、東日本、コロナ、ウクライナ。村上春樹『神々の子どもたちは~』を彷彿とさせる構図で、より半径を小さく閉じた3人の日常視点から描かれる今日社会。
締めで主人公のひとりが、咳の対策に舐めた飴の原料はちみつがウクライナとベトナムから来ているのに気づき、舌先にいま転がるものが数年前にはウクライナで咲いた花の奥にあったことを想像し、カレンダーに目をやってロシアのウクライナ侵攻初日からちょうど一年がたったことを知る。これに象徴されるように、小さな半径から描出される社会はより直に時事的でふだんの柴崎調よりも硬質で、明らかに意図されたそれはしかし何だか軋みをたてぎこちなく感じられ、居心地がどうにも良くない。いあ、こちらの勝手な欲望が充たされないだけでしょうけど。
こうして、何かが起きて、画面を見続けるのは自分がこれまで生きてきた中で何度目だろう。
地震があり、事件があり、テロがあり、戦争が始まり、そのたびにこうしてひたすら画面を見る。
二〇一一年の震災のときからは、流れてくる報道の映像だけでなく、インターネットで情報を探すことも増えた。
しかし、それで何かが変わったことはない。
自分はいつも見ているだけだ。画面越しに、遠く離れた安全な部屋の中で、「情報」を見ているだけ、時間が過ぎていくだけだ。
誰かと話したいが、誰にメッセージを送ればいいだろう。直接の被害の心配がある人はいないし、ロシアやウクライナのことに詳しい人や深い関心を持っている人もすぐには思い当たらない。
れいは落ち着かないまま、明日の撮影の準備をしつつ、ちらちらと画面を見ていた。
スタジオのキャスターが概況を伝える声が続く中、キーウ市内の公園が映し出された。
カメラはどこかの建物に取り付けられた固定カメラだろうか。それともどこかの部屋にいる報道カメラマンが窓越しに撮影しているのだろうか。
望遠レンズが、公園の真ん中にズームしていった。
突然戦争が始まった街には、人影はほとんどなかった。
入けのない公園の真ん中に、十数人ほどの人が肩を寄せ合うように立っていた。
彼らは、祈っていた。
目を閉じ、頭を下げ、手を合わせ、何人かは祈りの言葉をひたすらにつぶやいていた。
二月のウクライナはどれくらい寒いだろう。
氷点下なのは間違いなかった。
二〇二二年二月二十四日の午後、柳本れいは、一人の部屋で戦争の始まりを見ていた。 330-1
風景の余韻というかな、しみじみと尾を引くこれ。柴友タッチ。
6. 柄谷行人ほか 『『力と交換様式』を読む』 文春新書
企画力の勝利。國分功一郎と斎藤幸平を迎え手とする鼎談に始まり、柄谷自身による解題と自己開示、大澤真幸や佐藤優、鹿島茂らによる読み解きエッセイまで。駒場寮とかの回想やら、東畑開人の「転移D」エッセイなど変化球もキマってる。基本的に『力と交換様式』の参考書だけれど、本編より面白いのでは。これでオードリー・タンの寄稿とかあれば神懸かり的だけど、それは流石にやるなら一冊になっちゃうのかなー。
『力と交換様式』本編については次回よみめもにて扱う。
7. 夏目房之介 竹内オサム 編著 『マンガ学入門』 ミネルヴァ書房
2009年発刊の時代性も随所に感じさせるが、そこを前提にすれば網羅的な良書といえる。ただなんというか、記述が内容だけでなく形式もやけに古く感性の鋭さより鈍さが目立つ。それこそが「学」の未成立時に「学」へ落とし込む身振りの顕れと言われたらそうかもしれない。
『別冊宝島EX マンガの読み方』(1995年、宝島社)は、この「マンガ表現論」のひとつの集大成と言えるが、同書のタイトルがマンガの「描き方」ではなく「読み方」となっていることに留意しておきたい。マンガの「文法」は描き手のみが知悉しているものではなく、読者もまた(意識的にせよ無意識的にせよ)身につけているのだ (からこそ、同人誌のように作者と読者との往還も容易に行われる)。ある特定のマンガ表現は、必ずしも一つだけの意味を持つわけではない。しかし、緩やかではあってもそれなりの枠組みをもった共同体に参加して初めて、われわれは「マンガ読者」になるのである。
もちろん、その「解釈共同体」の枠組みは、文化や時代によって変化し得る(というか、現在にいたる「変化」をこそ、「マンガ表現論」は明らかにしてきた)。「マンガ読者」のありようも.だから決して一様ではあり得ない。たとえば紙媒体において養成/共有されてきた。自分なりの時間感覚で左から右へ紙をめくり、物語世界に浸るという現在の日本マンガでは主流の「読み方」は、マウスや携帯電話機のボタンを操作し、モニタ上でマンガに向き合うときには通用しないことがあるかもしれない。現在のわれわれの「マンガ読者」としてのあり方はその程度に不安定なものであり、それゆえにこそ「表現論」が示唆する「解釈共同体」のありようは、「マンガ読者」について考える上で「媒体論」同様、無視することはできないのである。
◆われわれ自身のなかの「マンガ読者」◆
ブログやネット掲示板に書き込まれた「感想/意見」,あるいは雑誌・単行本に掲載された「投稿」を分析したり、特定の人にインタビューやアンケートをしたりすれば「マンガ読者」のありようもたちどころに見えてくる……ことはない。もちろんそうした手法で「マンガ読者」の実態の一端をつかむことはできる。だが、そこで書かれ/話されるマンガについての言葉は、ではどのような装置が、身体技法が、解釈枠組みが可能にしているのかを併せて考えなければ、「マンガ読者とは何か?」という問いに答えたことにはならないだろう。
本項で築いてきたのは、われわれ自身が「マンガ読者であること」の(不安定な)あり方を捉え返すという。実は相当に厄介な作業のための小さな土台である。マンガ読者に「生まれた」のではなくなった」ことのく有り難さ>を確認することからしか、「マンガ読者」論は始まらない。
参考文献
前田愛「近代読者の成立」1973年、有精堂。
永賞重敏「雑誌と読者の近代』1997年,日本エディタースクール出版部。
四方田犬彦「漫画原論』1994年,筑摩書房。
(瓜生吉則) 120-1
8. gozz 『無人島漂着100日日記』 KADOKAWA
無人島に漂着した主人公の100日を描くイラスト&文章のTwitter連載をまとめた画集。→
https://x.com/gozz_sss
漫画でも細部に見入ってしまう自分の性向にはドンピシャの巧緻と機智にあふれた描き込みがすばらしう。
本編では謎の多い月の三人衆を巻末で描くスピンアウトもスケール感がまた変わって深趣。
LOSTをよりコンパクトにしたような、隔絶した箱庭感ほんと好き。
9. 今井悠介 『体験格差』 講談社現代新書
「習い事や家族旅行は贅沢? 連鎖するもうひとつの貧困」という帯通りの内容。というか、ピアノ稽古などにありがちな「興味ないのに習わされる」体験には具体言及が一切なく(そういうカテゴライズもあり得ることはp72で言及あり)、予想外に貧困家庭問題へ一面的に特化した内容でやや残念。あとがきで望月優太への謝辞などあり、新書だしなとまぁ納得。院生の修論そのままみたいな生煮え感はでも、もったいない。
ここから掘り進もうよ、という起点に立って終わる感じ。
ともあれハンブルガーSVの“SV”が独語 Sport-Verein 由来で「スポーツクラブ/協会」の意で、政府の支援対象となる(習い事の)事業所を指すニュアンスをもつという指摘は意外性あって面白い。逆に言うとこの一点を取り上げるほどに、他が雑駁すぎ主観記述も混濁しすぎの若書き感がかなり目立った。
張曜元『東北短編集:「ハーフタイム」』:ツイURL近日追記
※今回にかぎり、下記第10項目を短篇5篇へ換える。まとめて一箇所に留め置きたいからとか。
10. 横溝正史 「ある女装冒険者の話」 (『恐ろしき四月馬鹿 横溝正史ミステリ短篇コレクション①』所収) 柏書房
戦間期の作。道楽者の叔父から聞いた、ある教え子が社会へ出たあと女装趣味に嵌っているのを叔父は確信するが、その秘密を暴こうとするも意外な顛末が。
ミステリーというほどの仕掛けではなく、しかしミステリアスな語り行きが戦間期の文芸短篇にはしばしばある感じですんなり読める。にしても終盤がすんなりすぎて、もう少し艶やかさを出しても良かったのでは、とも。
10. 松本侑子 「女装夢変化」 (『性遍歴』所収) 幻冬舎
しかし私たちは、心の性別が変わったような気がしても、その変化に抵抗します。倒錯者と呼ばれるのを恐れて、かたくなに体の性にこだわるのです。
「あんたくらい女っぽかったら、体がどうだって俺から見たらあんたは女だから」
初めて逢った晩にそう言ったKさんが、心底、気持ちの開けたひとだと思えるのは、こういうことからです。
わたしにとって、女装とは、趣味であり、ストレスの多い仕事の息抜きでした。清瀬マミは、抑圧の多いつらい世をしのぶための仮の姿で、本当のわたしはあくまでも男のつもりでした。
でも、今では、編集者・父・夫という姿のほうが、世間体や常識に縛られた窮屈な社会を生きていくための方便、世をしのぶ仮の姿ではないかという気がするのです。
女装したマミこそが、人目もはばからず意のままに泣き笑い、快楽の声をあげ、美しいものをまとい、人生の果実を味わっている……、その自由な姿こそが本当のわたしではないか、そう感じ始めているのです。 118
10. 蒲松齢 「人皮女装」 (『聊斎志異』所収) 中野美代子訳 国書刊行会
清代17世紀の成立。なるほどこれもたしかに、女装。鬼が人間の男を騙すため人皮を纏い美女に化ける話。と書けば「鶴の恩返し」もこの変奏曲とさえ思えてくる。それとはべつに、そうして夫を鬼に奪われた妻・陳氏が仙人の言を入れ、夫を取り戻すためにとる挙動の描写がキモくて生理的にくる。聊斎志異の成立は蒲松齢30代の1670年代らしいけれど、江戸前期と考えるとこの生々しさはなっかなか。以下原文抜粋。
畫皮
嫗在室,惶遽無色,出門欲遁,道士逐擊之。嫗僕,人皮劃然而脫,化為厲鬼,臥嗥如豬。道士以木劍梟其首。身變作濃煙,匝地作堆。道士出一葫蘆,拔其塞,置煙中,飀飀然如口吸氣,瞬息煙盡。道士塞口入囊。共視人皮,眉目手足,無不備具。道士卷之,如卷畫軸聲,亦囊之,乃別欲去。
10. 森美樹 「ダーリンは女装家」 (『黒い結婚 白い結婚』所収) 講談社
40歳になった主人公女性が、15歳の頃憧れたミュージシャン男50歳と再会したとき男は女装していたけれどやっぱり好きで、と告白したら求婚され、結婚の報告へ実母の元へ行ったら、痴呆症の実母は女装した男を自分の夫(主人公の父)の浮気相手とみなしてピンタかまし、男はハラハラと泣いて謝る。なんで謝ってるのかわけわかめだけれど実母が男にしなだれかかる図は情景としてなんか良くて、主人公も男かっけぇとか惚れ直す全体が巧い短篇でした。
10. 徳田秋聲 「女装」 (『徳田秋聲全集 第七巻』所収) 八木書店
明治41年の作。田舎の実業家跡取りの元へ裕福さ目当てに嫁いだ東京育ちの肉食系女子が、旅先で恋仲となった男に女装させ脇へ置くが、やがてバレるも、という話。イケメンに女装させたら美女になってまい、田舎社会の男らにモテてしまうくだりが寓話といえば寓話的。でも終盤での、当の実業家夫の脱力はちょっとノレないってか心情がよく呑み込めない。全世界ごとアホらしくなったとかならわかる。
・クリスチャン・ザイデル 『女装して、一年間暮らしてみました』 長谷川圭訳 サンマーク出版
「よみめも106 国の根源」→https://tokinoma.pne.jp/diary/5690
▽コミック・絵本
α. 坂口尚 『あっかんべェ一休』 上 講談社漫画文庫
どこまでも
どこまでも
歩いて行こう
雨ふらば降れ
風ふかば吹け
ユーゴ紛争描く『石の花』からして、なんでこんなニッチな題材(いや個人的には諸々決定的に影響を受けた戦争なんだけど、そこはそれとして)描く秀作が現れるんだってびっくりしたけれど、『あっかんべェ一休』でもうそんなところにこのひとの境地はなかったんだ初めからと唸るしか。どう考えてもこのひと、他にいくらでも売れるマンガ描けるだろうにっていうね、でもそんなん関係ねぇっていう。
《坂口尚と一休展》前期 米沢嘉博記念図書館
https://x.com/pherim/status/2017612913167716427
バンコク在庫の一冊。
β. 黒田硫黄 『ころぶところがる』 小学館
自転車テーマの短篇連作集なのだけど、十数篇あるうちなぜか最後の一篇冒頭で中断したまま長らく放置になっちゃったやつ。面白いか否かでいえばかなり面白く、三蔵法師ネタから宇宙ネタまで短篇間の薄いつながりかたも初めて味わう種の楽しさがあり、なぜ読み切らなかったのかわからない。かつ最後の一篇は読んでみると震災ネタで、すこし空気が変わった感じを読み取って無意識に構えちゃったのかもしれず。
ともあれ墨汁筆描き風の画面の軽快さが作品世界の浮いた感じにもマッチして、しかし自転車へと都度帰る永劫回帰感も孕んでこれは好き。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ https://amzn.to/317mELV ]
γ. 沙村広明 『おひっこし』 講談社
歴史物のイメージが濃かった沙村広明の描く、うだつのあがらない大学生グループの日常が堪らなく愛おしい。てか巧い。細かく刻んで挟み込む手描き小文字ギャグとか逐一秀逸。
そしてさまよう20代漫画家志望女性の冒険。妙に演歌調入った、しかしノリはしっかり平成で昭和じゃない渇いた感じの絶妙感。意外な変貌を遂げる各章の出落ちじみた演出のわざとらしささえ計算されている憎たらしさ、と感じさせる巧緻の妙。まぁでも、『無限の住人』に精力奪われ続けた結果がバネとして利く部分もあるのだろうし、『大奥』後のよしながふみみたいな反動解放期の走り、みたいなところはあるのかな。
(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
δ. 荒川弘 田中芳樹原作 『アルスラーン戦記』 1-14 講談社
1巻、こりゃ面白くなるの確定やね。荒川弘って画力以外の読めなさが凄いし、打率も高いよね。
2-4巻、↑なんて期待値も超え、こりゃ鋼の錬金術師よりハマるかも。てかすでに!
巧いし、キャラが相対化されてる感じが先の読めなさにも世界の広さにも連なってスケールでかい。
6-7巻、主人公チーム補正かかりすぎて若干興ざめ覚えるさなか、侵攻してきたインドモデルの隣国軍があまりにもご都合的に弱く阿呆で萎える。ハガレンもこんなだったっけ。と考えると、その気はあったかもと思えてくる。都度都度におけるボス以外の敵は基本ザコ、みたいなやつ。主要キャラの強さを引き立てる道具感が露出しすぎっていう。
8-14巻、城落としに来たのに、全軍騎馬隊っていうモンゴルモデルのトゥラーン国好き。
ε. 鹿子 門馬司 『満州アヘンスクワッド』 1-12 講談社
1巻、再読だった。2巻以降もしばらく読んで初めてわかる再読状態がつづくのかもだけど、まぁ良い感じ。
2巻、既視感大幅低減。満鉄から満映へ。人物でなくアヘンが主人公補正かましてる。
3-4巻、ロシア要素が加わり勢力錯綜、面白くなってきた。
6巻、ハルピンのロシアンボス、せっかく大物感描けてたんだから、も少し大技くり出してから死んでも良かったのではっていう不完全燃焼感。
7-9巻、吉林を舞台とする満州旗人登場篇開始、これは期待。ロシア人やモンゴル人の仲間ができて、次は清人っていう流れですかね。
10巻、吉林篇完。満州憲兵側の大男・凡の最期が切ないなり。
12巻、大連から上海へ。上海楽しみだが、大連一瞬で過ぎた感。
作画の鹿子さん昨2025年11月、脈絡膜悪性黒色腫のため37歳で逝去。ご本人の希望もあり本作は代筆を立て続行との由。合掌。
ζ. 濱田轟天原作 藤本ケンシ画 『ミハルの戦場』 1-2 小学館
同じ濱田轟天原作でも『平和の国の島崎へ』がリアル現代日本を相対化して描くのに対し、戦場化した仮想日本現代を舞台にした戦術級の描写がよりパキッとして面白い。これ読んだあとに島崎読んだら相対的なふわふわ感は否めなかったように思う。
2巻中盤の、主人公がリード役とはぐれ、ひとりで戦地奥の集合ポイントを目指す描写がPOV化するくだり、やたらに面白い。作画マンの力量炸裂する場面だけれど、ちょっとこれは通常の商業作品工程を突き抜けており、見入るし嬉しくなりさえしちゃいますね。“表現”の芯がむきだしになってる感。
η. よしながふみ 『きのう何食べた』 1-2 講談社 [再読]
1巻、2007年刊なんだな。わりと新しい。と思ってまうほど大昔に読んだ記憶があるのだけれど、よみめもには初記載。これと『大奥』が長年並行していたっていうのは、バランス的になんかわかる。どっちかだけだと苦しいときほんと出口なしに嵌りそうだし、両方あることでどちらも突き抜けられるというか。
四十路になってから不惑へ向かう自分をささやかに見いだしていく物語を基調としながらも各回、ストーリーがもう一歩踏み込むかというところで料理描写へ移る、このリズムが留まらさせるもの、安易に物語的カタルシスへ頼らないあっさり強度が本作の強みよね。
θ. 河合孝典 『DINER』 1-3 集英社
1巻、殺人者だけを客とする限界レストラン、で働かされることでのみ生かされるウェイトレス、という設定の勝利。からの、面白さをここからどう持続させるのか後続巻が興味深い。
ι. 石田スイ 『超人X』 1 集英社
亜人が各々個別のヴィジュアルと超絶個性を具えた世界、のような。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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