・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※一度に投稿できる文字数制限を超えたようなので、回を分けます。こちら前編。コミック&絵本含む後編は→ https://tokinoma.pne.jp/diary/4550
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌の部分読みや資料目的など一部のみに目を通すものは基本省いてます。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
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1. ミハイル・レールモントフ 『デーモン』“Демон” ミハイル・ヴルーベリ絵 前田和泉訳 エクリ
https://twitter.com/pherim/status/1513914799893086215
タマーラ
なぜ私がおまえの悲しみを知らなければならないの、
なぜ私に訴えかけるの?
おまえは罪を犯したのよ......
デーモン
貴女に対して?
タマーラ
誰かに話を聞かれているかもしれない!......
デーモン
ここには私たちしかいない。
タマーラ
でも神様がいる!
そして何も知らぬ穏やかな世界は
私のいないところで花咲き終えてゆくがいい。
ああ、信じてほしい! 貴女を理解したのは、
貴女の価値をわかったのは、これまで私ひとりだけ。
貴女を我が神と定め
私は貴女の足下に己が力を置き捨てた。
貴女の愛を私は待つ、まるで天からの賜物のように、
そしてその一瞬のため、貴女に永遠を与えよう。
信じてほしい、タマーラ、悪の中でそうだったように、愛においても
私は変わることなく偉大なのだ。
天空の自由な息子として
貴女を星の彼方に連れてゆこう、
そして私の初めての恋人よ、
貴女は世界の女王になる。
憐みも同情もなく
貴女は地上を眺めるだろう、
真の幸福も
永遠の美もない地上を、
ただ罪と刑罰しかない地上を、
つまらぬ情熱しか生きられぬ地上を、
恐怖なくしては
憎むことも愛することもできぬ地上を。
あるいは貴女は知らないというのか、
人間の束の間の愛がどのようなものかを?
若さゆえに血が波立っても――
時が走りゆけば血は冷めるのだ!
別れを拒める者があるだろうか、
新たな美の誘惑に、
倦怠と無聊に、
気まぐれな夢想に屈せずにいられる者などあるものか?
いや、ありえない! 私の恋人よ、小心で冷淡な者たちや
偽りの友や敵たちや
恐れや空しい希望に囲まれ、
意味のない労苦の中で
粗野な嫉妬の奴隷となって
狭い輪の中で黙って萎れてゆくことが
貴女の運命だなんてありえない!
貴女は高い壁の向こうで悲しみに暮れながら
神からも人からも
同じくらい遠く離れた祈りの中で
情熱もなく消え去ったりはしない。
いや、ありえない、美しき人よ、
貴女には別の運命が、
別の苦悩と 別の歓喜の深みが待っている。
かつての望みを捨て、
あわれな世界はその運命のなすがままにさせればいい。
誇り高き知の深淵を
代わりに私が見せてあげよう。
私に仕える精霊たちの一群を
貴女の足下に連れてゆこう、
魔法の国の軽やかな召使たちを
麗しき人よ、貴女にあげよう、
そして東の星から貴女のために
黄金の冠を摘みとってあげよう、
真夜中の露を花から汲んで その冠に振りかけよう、
赤く染まる日没の光を
貴女の体にリボンのように巻きつけ
香気あふれる清らかな息吹で
辺りの空気を満たそう、
至めの調べで絶え間なく
貴女の耳を楽しませよう、
トルコ石と琥珀で きらびやかな宮殿を建ててあげよう、
海の底へも潜ろう、
雲の彼方へも飛んでゆこう、
貴女にすべてを、この世のすべてを捧げよう――
私を愛してほしい!......
そして彼はそっと
熱きそのロで彼女の
震える唇に触れた。
誘惑に満ちた言葉で彼は
彼女の懇願に応える。
強い眼差しが彼女の瞳を見入る!
その眼差しは彼女を焼き焦がし、夜の暗闇の中、
あらがえぬ短剣のように
彼女の真上で輝いていた。
ああ、悪の精霊が勝利したのだ!
そしてその口づけの死の毒は
一瞬のうちに彼女の胸にしみこんだ。
恐ろしい苦悶の叫びが
夜の沈黙をかき乱す。
その叫びにはすべてがこめられていた――愛、苦悩、
最後の懇願と非難、
そして希望なき別れが――
若き命との別れが。
「失せよ、陰鬱なる疑いの霊よ!」
天の使者は答える。
「お前は存分に勝利を味わってきた、
だが今、裁きの時が来たのだ――
神の定めは幸いなり!
試練の日々は終わったのだ、
地上のはかない衣とともに
悪の枷は彼女から外れ落ちた。
よいか、我らはずっと彼女を待っていたのだ!
彼女の魂は
耐え難い苦しみと
得られることのない悦びだけで
一瞬のうちに人生を終える、そのような魂のうちの一つなのだ、
創造主は最良の第五元素で
それら魂の生きた絃を織り上げた、 それはこの世にはそぐわぬ魂、
そしてこの世界も彼らには釣り合わぬ!
彼女は残酷な代償で
己の疑いを贖った......
彼女は苦しみ、愛した――
そしてその愛のため、天は開かれたのだ!」
天使はその厳しい眼で
誘惑者を睨みつけると、
晴れやかに翼をひるがえし
天空の輝きの中へと沈んでいった。
打ち負かされたデーモンは
己の狂わしい夢想を呪う
そして傲岸なるその者は、かつてのように
たったひとりで世界に取り残された、
望みもなく、愛もなく!......
だが自らの歳月を
勤め終えた城塞は
まるで友や愛する家族に先立たれた
哀れな老人のように悲しみに沈む。
姿の見えないその住人たちは
ただ月が昇るのを待ちわびている。
月夜は彼らの自由な祝祭!
唸りをあげて彼らは四方へ駆けてゆく。
新たな世捨て人、白髪の蜘蛛は
網の土台を紡ぎ、
緑色したトカゲ一家は
屋根の上で陽気に遊び、
用心深い蛇は
暗い割れ目から
古いポーチの敷石に這い出てくると、
不意に三重のとぐろを巻いたかと思えば、
長い筋となって横たわり、
古戦場で忘れ去られ
もはや倒れた英雄も使うことのない
ダマスカス鋼の剣のようにきらめくのだ!......
14歳で第1稿をあげ、26歳で決闘に散った詩人の、この圧倒的厨ニパワー。悪魔部の純粋14歳心を老成したカフカース自然描写で包み込み、叙事詩にまとめあげるその馬車馬力、プライスレス。
拙稿「【映画評】ルーシの呼び声(1)」 http://www.kirishin.com/2022/04/16/53879/
2. ジョルジョ・アガンベン 『残りの時 パウロ講義』 上村忠男訳 岩波書店
今日でもまだ、倫理と宗教は、神、王国、真理等々が存在するかのように行動することに尽きると確信している人々がいる。その一方で、「かのように」は、精神医学において、ひとつのごくごく一般的な疾病、ほとんど大衆的な状態と化すにいたった。精神病にも神経症にも明確に帰属させることができず、いってみればどんな症状をも示していないことが症状であるような――ボーダーラインとも称される――すべてのケースは、「かのように」の人格と呼ばれているのだ。かれらは、正常であるかのように――正常という領域が存在するかのように、(機会あるごとに繰り返すことを学んできた愚かな決まり文句がいうところの)「どんな問題も」存在しないかのように――生活している。そして、まさにこのことがかれらの困惑を、かれらに特有の空虚感をつくりだしているのである。 59-60
一読して、逆としか思えない言明。いわゆるいい人たち、正常な、空気の支配を難なく受け入れることができ、諸々不満はあれど時々の社会秩序と生を順応させ幸福を感受し得る人たちこそ、「かのように」の体現者たちとしか思えない。それが「逆」なのは、それこそ過去幾人かの精神科医の友人知人からもそうでない近しい人からも「あなたはボーダーラインかも」とよく言われてきたし(なにしろ学生時代はみんな今より海辺のカフカとか“本当に”読んでいて、境界例とか社会的に周知されてた)、とくに反感を覚えない程度には自覚もあったからだけれど、かつこの言明を是とすれば今日の日本社会を生きる大半がボーダーラインになってまう。一億総境界例。まぁでも、考えてみれば昼間の渋谷ハチ公前交差点とか、“特有の空虚感”しかないよな。
ゴルティエによれば、フロベールの登場人物たちには人間の本質――つまりは本質をもたない動物の本質をなす、「自分は、自分がそうであるところのものとは違うと自ら信じる能力」が、病理学的様相を呈して 現れているという。自分自身では無であることができないので、人間はそうであるところのもの (あるいは、よりよくは、そうでないところのもの)とは違ったものであるかのように行動することによってのみ、存在しうるのである。ゴルティエは、ニーチェの注意深い読者であった。そして、あらゆるニヒリズムがなんらかの仕方で「かのように」を含みもっていること、問題はどのようにして「かのように」のうちにあるかというあり方の問題であるにすぎないことを理解していた。 60
ない。そこには“個”がなく“群”しかない。あのスクランブル交差点アンサンブルに外国人観光客がスマホを構えたくなる誘因の、それは大きな一つだろう。
あらゆる瞬間において、忘却と廃墟の尺度、わたしたちがわたしたち自身のうちにたずさえている存在論的浪費は、わたしたちの記憶やわたしたちの意識の許容度を大きく超えている。しかし、忘れ去られてしまうもののこの無形のカオスは、不活性なものでも効力のないものでもない。それどころか、それはわたしたちのうちにあって、仕方こそ異なるにしても、意識的な記憶の堆積力に劣らず、力強く働いている。忘れ去られてしまったものの力と働きというものがあるのであって、それは意識的な記憶というかたちでは測ることができず、知として堆積することもできないけれども、それが執拗に存続しているということこそは、あらゆる知およびあらゆる認識の序列を規定するのである。失われてしまったものが要請するのは、想起され追悼されることではなくて、忘れ去られてしまったものとして、失われてしまったものとして、わたしたちのうちに、わたしたちとともに残ること――そして、もっぱらこのことによって、忘れえぬものでありつづけることなのだ。 65
どのようにして。
あらゆる歴史を歴史たらしめ、あらゆる伝統を伝統たらしめるものこそは、まさしくそれが自らの内部に核心としてたずさえている忘れえぬものなのである。ここでは、選択は、忘却することと想起すること、無意識なままでいることと意識することとのあいだにあるのではない。決定的であるのはただひとつ、――間断なく忘れ去られながらも――忘れえぬものでありつづけなければならないもの、なんらかの仕方でわたしたちとともにとどまっていることを要請し、なおも――わたしたちにとって――なんらかの仕方で可能であることを要請するものに忠実でありつづける能力である。この要請に応えることが、わたしが無条件に引き受けたい と感じている唯一の歴史的責任である。逆に、もしもこの要請を拒むならば、もしも―個人の次元においても集団の次元においても――わたしたちに寡黙なゴーレムのように付き添う、忘れ去られてしまったものの堆積とのあらゆる関係を失ってしまうならば、そのときには、それはわたしたちのうちに、フロイトが抑圧されたものの回帰と呼んだもの、つまりは不可能なものそれ自体の回帰というかたちをとって、破壊的にして邪悪な仕方で立ち現れることであろう。 66
抑圧されたものの回帰、を妨げる寡黙なゴーレム、としての忘れ去られた、忘れえぬものたちの。残余。
ユダヤ人にとってもギリシア人にとっても、原理としても目的としても、普遍的な人間あるいはキリスト教徒は存在しない。そこには、ひとつの残余があるにすぎない。ユダヤ人やギリシア人が自己自身と一致することの不可能性があるにすぎないのだ。メシア的召命は、 あらゆる召命を自己自身から分離し、それらにさらなる自己同一性を供給することはないままに、それらを自己自身との緊張のうちに置くのである。ユダヤ人はユダヤ人「でないもののように」、ギリシア人はギリシア人「でないもののように」。 ブランショはかつて、アンテルメの書物に関連して、人間とはかぎりなく破壊されうる破壊されえないものである、と記したことがある。この定式化に含意されている逆説の構造をよく考えてみていただきたい。人間がかぎりなく破壊されうる破壊されえないものであるとすると、このことは、破壊すべき、あるいは見いだしなおすべき人間の本質なるものは存在しないこと、人間とはかぎりなく自己自身に欠ける存在であること、つねにすでに自己自身から分かたれた存在であることを意味している。しかし、人間がかぎりなく破壊されうるものであるとすると、このことは、この破壊を超えたところに、また、この破壊のなかにあって、つねになにものかが残っていること、人間とはこの残りのもののことであること、それらをも意味していることになる。 87
理念的に“まず想定される”普遍とは逆方向の、“残りのもの”。言分けがなされた時点で内実をなくす、見えているのに見えないもの。
なぜ、パウロについて普遍主義を語ることにあまり意味がないかがおわかりだろう――少なくとも、普遍的なものがもろもろの切断や分割を超えたところにある原理であるとかんがえられており、個別的なものがあらゆる分割の最終的な限界であるとかんがえられているかぎりはそうである。パウロには、この意味においては、原理も目的もない。アペレスの切断、分割の分割があるにすぎない――そして、つぎには、残余が。 87-8
極小のうちにこそ宿る極大のリアル。だがそれはリアルという一点において原理と異なる。たとえばスーフィズムの回転は、この地べたから己をいったん引き剥がし、地の、そして銀河の回転へと開き連ねる転回の所作なのでは。とすれば言うまでもなく、そこで語る言葉は意味をもたない。文字通り、普遍主義を語ることは意味がないのだ。そういうことが、“その”回転の遥か以前、ムハンマド以前すでに生起し得たというこの夢想。
それらの省察はーユダヤ教においてだけでなく、キリスト教会の教父たちにおいてもーメシア的時間の一種のモデルをなしてきた安息日に言及したもので、とりわけ、『創世記』二章2節「神は第七の日に自分がしていた仕事を完成し、第七の日に自分がしていた仕事から離れて休んだ」の解釈にかんするものであった。七十人訳聖書では、この完了と中断の一致という矛盾を避けるために、当初の命題を修正して、「第七の日に」ではなくて「第六の日に」(en te heméra te hekte)と書き、創造の作業の終わりが別の日(te hémérá te hebdome)となるようにしている。しかし、『創世記ラバー』の著者は、逆に「およそ時なるものを知らない人間は、世俗の時間からなにものかを取り、それを聖なる時間に付加する。しかし、聖人は、ありがたいことにも、時なるものを知っていて、ほんの肌一枚のところで安息日に入ったのであった」と註釈している(「創世記ラバー』10, 9)。安息日――メシア的時間――は、他の日々と均質のもうひとつの日なのではない。それはむしろ、時間のうちにあって、――肌一枚のところで――時間を把捉し、それを完成に導くことができる内的な断絶なのだ。 116
時なるものを知る、の鋭さと鮮やかさ。週の6日から分節された7日目、ではないというこれってかなりの衝撃なのでは。日曜日の否定やん。どうするの各国政府。ってSundayの概念だけ受け入れてる今日世界の恣意性まじパない。あとがきによれば、このアガンベンの発見は聖書学者からみてもかなりイケてるものらしく、浅い話になるけどそれって真性ガチの哲学者ムーヴよね、とりわけ文献学者に対するところの。
(それはそうとラバーって表記やめてほしい。ゴム感しか湧かない)
「テモテへの手紙 二』 四章7-8節では、この使徒の生そのものが終わりにいたって自ら韻と化しているかのようにみえる(ヒエロニュムスはそのことに気づいていたようである。なぜなら、かれの翻訳では押韻が増幅されているからである。Bonum certamen certavi/cursum consumnavi/fiden servavi)。
ton kalón agona ēgõnismai, わたしは、戦いを立派に戦いぬき、
ton dromon tetéleka, 決められた道を走りとおし、
tēn pistin tetérēka 信仰を守りぬきました。
loipon apókeítai moi いまや、義の栄冠を
ho tes dikaiosynés stéphanos. 受けるばかりです。
押韻は―これがメシア的時間についてのわたしたちの解釈を締めくくりたいとかんがえている 仮説なのであるが――、それが広い意味において記号論の系列と意味論の系列との差異を接合するものとして理解されるならば、パウロが近代詩にのこしたメシア的遺産であり、押韻の歴史と運命は、詩において、メシア的な告知の歴史と運命とに合致する。()ヘルダーリンが二〇世紀のとば口において神々とのーとくに最後の神、キリストとの別れについてのかれの理論を練りあげるとき、そのときには、かれがこの新しい無神学を身に帯びる時点では、かれの抒情詩の韻律形式は粉々に破砕され、最後の讃歌のなかではいっさいのそれと識別できる自己同一性を失うまでにいたる。神々との別れは完結した韻律形式の消失と一体をなしているのであり、アテオロジ ー〔無神学]はただちにアプロソディー〔無韻律学】なのである。 140-1
「いま」は発語される(あるいは記述される)ときにはすでに存在することをやめてしまっているかぎりで、「いま」を把捉しようとする試みはすでにつねに過去、 「あった」(gewesen)を産出することになるのであり、それはそのようなものとして非在、kein-Wesen なのである。そして、この非在こそが言語活動のうちに保存されるのであって、こうして最後になってはじめて真に存在するところのものとして立てられるのである。()自らが生じたことに「ここ」と「いま」という言表の指示詞をつうじて言及しつつ、言語活動はそれにおいて表現される感覚的確信を過去として産出し、同時に未来に向けて遅延する。このようにして、つねにすでに歴史と時間のうちに捉えられているのである。いずれにしても、止揚の前提をなすのは、取り去られたものは完全に無化されるのではなく、なんらかの仕方で存続するのであり、かくして保存されることが可能となるということである(Was sich aufhebt, wird dadurch nicht zu Nichts〔止揚されるものは、そのことによって無へとは向かわない」――Hegel, 113)。
ここで止揚の問題はメシア的時間の問題とのつながりを―それと同時に差異を―明らかにする。メシア的時間もまた、それが操作時間であるかぎりで、表象された時間に断絶と遅延を導き入れるが、これは時間に補足あるいは無限の順延を付加するものではありえない。そうではなくて、メシア的時間――「いま」の不可把捉性――とは、まさしくそれを介することによって時間を把捉することが可能となるような、いいかえれば、わたしたちの時間表象の表出を完了させ終わらせることが可能となるような、突破口なのだ。 162-3
時間表象の表出を完了させ終わらせ得る突破口。
(「止揚」って訳語、もしかして天才かと。もしかしなくても)
デリダはこれらの概念に哲学的市民権を取り戻してやり、それらをへーゲルの止揚と関連づけ、痕跡および根源的代補の存在論において展開してきた。フッサール現象学の細心な脱構築をつうじて、デリダは形而上学的伝統に おける現前の優位を批判し、それのうちには、すでにつねに現前しないものと意味作用とが忍び込んで いることを示す。そして、このような地平に立ったところから、かれは「根源的代補」という概念を導 入する。それはなにものかに付加されるのではなく、これはこれでつねにすでに意味作用のうちに捕らえられている根源的な欠如と現前しないものを代補するためにやってくるのである。「わたしたちが思考にあたえたいとおもっていることがらは、反省的なものであれ前反省的なものであれ、現象学的自己贈与として伝統的に与格によって規定されてきた、自己への現前の対自(für sich)が、本源的置換としての代補性の運動のなかで、「の代わりに」(für etwas)という形式において、すなわち、すでにみたように、意味作用一般の操作そのものとして生起するということである」(Derrida 1972, 98)。「痕跡」という概念は、記号が現在および絶対的現前の充溢のうちに消え去ることの、この不可能性を名指している。 166
大地とセックスする、みたいなやつ。あれを想わせる。大地、は足もとの地面ではなくて、踏みしめてきたあらゆる地面が直観させるもの。
この意味において、痕跡とは「存在以前のもの」として考えられなければならない。事物自体がすでに つねに記号および表象されたもの(repraesentamen)と考えられなければならず、シニフィエはすでに つねにシニフィアンの位置にあるものと考えられなければならないのである。そこには、起源へのノスタルジアはない。なぜなら、起源は存在するのではなく、非起源および痕跡からの退行的効果として産み出されるのであり、こうして非起源が起源の起源に転化するからである。()「欠如」(stérésis)と零度の概念を深化させるにあたって、それらは現前するものの排除を前提にしているだけでなく、記号を絶滅させることの不可能性をも前提にしている。すなわち、それらは現前と不在を超えたところになおも意味作用が存在すること、この意味では非在もなんらかの仕方で「原痕跡」、現前と不在のあいだに存在する一種の元音素を意味しており、そうした「原痕跡」ないしは元音素であるということを前提にしているのである。そこに起源へのノスタルジアがないとすれば、それはその記憶が意味作用の形式そのもののなかに、止揚および零度として含み込まれているからである。脱構築が機能しうるために排除されなければならないものがあるとすれば、それは現前と起源がなくなってしまうことではなくて、たんに無意味なものと化すことなのだ。 167
無意味。先述のスペース会話において、沼田牧師が知人のアルファツイッタラーとして白饅頭さんを話題に出したとき、「彼のツイートには意味しかない。白饅頭は小麦粉と(砂糖と)意味からできている」という主旨のことを発言しレビ先生にバカ受けし、後日リスナーだったひとりにもそこで笑った旨聞かされたのだけど、これは自分にとっては結構大きな発見かもしれなくて、高校時代のある級友とのある会話が想い起こされた。彼は文学少年で、在学中に中国語のプロと化し中国人の才媛を恋人とし、東大文学部へ進んで中国へ渡ったようだけれど、漢文古文なども当然よくできた。対して自分は学習そのものを完璧に手放した毎日に送っていたのだが、ある日古語の活用原則に則って現実には存在しない活用を編みだして、「そんなものは無意味だ」と彼に一喝されたのだった。
無意味なのだ。
たしかに。しかしあり得る。
と言うこと自体に意味がない。という彼の発言の意味がわからない。それではテストに正解しない、東大に受からない。ならわかるがテストも東大入試も当時の自分には端的に無意味であった。けれどもこの記憶が再生された。この再生に意味はないのか。
「必要なのは、(現前にかんする記号の)この過剰の記号が、同時に、存在一般のあらゆる産出ないしは消滅の、あらゆる可能な現前と不在にたいして、絶対的に過剰なものであるとともに、しかしまた、なんらかの仕方で、なおも意味作用を果たしているということである。形而上学的テクストにおけるこのような痕跡の刻印の仕方は、それを痕跡そのものの抹消として記述する必要があるほど思考不可能なものである。 167
記憶。存在。忘却。非在。痕跡。饅頭。
この残りの者――非ユダヤ人でない者たち――は、本来的には、律法の内にあるのでも外にあるのでもなく、(「コリント人への手紙一』九章五節においてパウロが自分自身に適用している定義にしたがうなら)「律法に従っている」(énnomos) のでも 「律法を持っていない」(ánomos) のでもない。それは律法のメシア的な不活性化の、そのカタルゲーシスの記号なのだ。残りの者というのは、極限まで推し進められた、その逆説的な定式化にまで もたらされた例外である。信徒のメシア的状態にあって、パウロは、法律が適用されないことによって適用され、もはや内も外もわからなくなる、そのような例外状態の条件を深化させるのである。適用されないことによって適用される律法に、いまや、それを働かないものにして成就へともたらす所作―信仰――が対応する。
メシア的な例外状態における律法のこの逆説的な姿こそ、パウロが「信仰の律法」(nomos pisteos) (『ローマ人への手紙』三章7節)と呼ぶものなのだ。なぜなら、それはもはや行ない、ミツヴァーの実践をつうじて定義されるのではなくて、「律法なき義」(dikaiosyné chöris nomou)(『ローマ人への手紙』三章3節)の顕現として定義されるからである。このことはユダヤ教においては、義とされるのは卓越した意味において律法を遵守する者であることを考えるならば――「律法なき律法の遵守」を言うに等しい。このためにパウロは言うことができるのである、信仰の律法は行な いの律法の「除去」(exekleisthe) ――停止――である、と(『ローマ人への手紙』三章四節)。パウロがこのコンテクストのなかで信仰とは律法の不活性化(katargein)であると同時に保存(histánein)であると主張して定式化する弁証法的アポリアは、この逆説と通底する表現以外のなにものでもない。律法なき義とは律法の否定なのではなく、その実現であり成就――プレーローマ――なのだ。
例外状態のさらに二つの傾向―法律の履行不可能性と定式化不能性―にかんしていえば、それらは、パウロにおいては、信仰の律法によって実現される行ないの除去の必然的帰結として登場する。『ローマ人への手紙』三章9-20節における律法批判のすべては、律法の履行不可能性という正真正銘のメシア的原理を確固として言明したものにほかならない。「「義人はいない。ひとりもいない」。......わたしたちは、律法が言うことはみな、律法のもとにいる人々に向けて言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神にたいして有罪となるためなのです。なぜなら、律法を実行することよっては、だれひとり神の前に義とされないだろうからです」。 172-3
ロシア政府とロシア国軍の動向を、大きく予測をハズしたばかりの国際政治や軍事の専門家たちがいまだ持論の内で捌きつづける光景への違和感は、コロナ禍や原発事故でくり返されてきた光景へのそれへ似ている。己の論理フィールドを研ぎ澄ませることだけが彼らの本領であり、それはおそらく生を蕩尽するに値する“仕事”であり得る。つまり「専門家は信用ならない」と言うのは駄々っ子の態度であり、まず信念不在の媒介者すなわちメディアの機能不全が日本語圏では致命的だし、“ありのままに”受けとってしまう感性の稚拙さこそまず恥じ入るべきなのだ本来は。現実を児童向けアニメ化するテレビ新聞インターネット、を欲しがるローマ市民の末裔たち。
「引用は言葉を名前で呼び、言葉を文脈から剥ぎ取って文脈を破壊する」と、クラウスにかんする論考にはある。また、それは同時に「救い、そして罰する」とも(Benjamin 1974-89, I, 363)。論考「叙事詩劇とはなにか」では、ベンヤミンは「あるテクストを引用することは、それが所属するコンテクストを中断することを意味する」と書いている。ベンヤミンがこの論考において言及しているブレヒトの叙事詩劇は、もろもろの仕草を引用できるものにしようとしている。「役者は」とベンヤミンは付言している。「植字工が字間にスペースを置くように、その仕草に間隔を置くことができるほどでなければならない」と(Benjamin 1974-89, II, 536)。 224-5
ちょっとこのベンヤミン引用は凄いのでは。と感じるも、引用した自身がその文脈をすでに忘れかけている。かけているが、現に目の前にあるこの効用。その仕草に間隔を置くことができるほどでなければならない。老成した俳優しか思い浮かばない、という。この言明が放つ鮮烈。
こうしてかれは、無割礼のままに信じるすべての人の父となり、かれらも義と認められました。また、かれはたんに割礼を受けているということによってだけでなく、わたしたちの父アブラハムが無割礼のときにもっていた信仰の模範に従う人々にとっても割礼の父となったのです。じっさい、世界の相続人になるという約束がアブラハムとかれの子孫になされたのは、律法によってではなく、信仰の義によってであったのです。もし律法に頼る者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。(ローマ人への手紙 4章)242-3
かれらも義と認められた。無割礼のときにもっていた信仰の模範に従う人々にとっても割礼の父となった。律法によってではなく、信仰の義によってであった。
アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人々の上にさえ、死は支配しました。アダムに来たるべき方の予型だったのです。
じっさい、ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主、救世主イエスをとおして永遠のいのちに導 くのです。
()じっさい、わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉的な存在であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることがわかりません。わたしは自分がしたいとおもうことをしているのではなく、憎んでいることをしているからです。()わたしは、わたしのうちには、すなわち、わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあるのに、それを実行することがないからです。わたしは自分が望む善はおこなわず、自分が望まない悪をおこなっているのです。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしのなかに住んでいる罪なのです。そこで、わたしは善をなそうとおもっているのですが、そのわたしにはいつも悪がつきまとっているという法則を見いだします。内なる人としては神の律法を喜んでいながら、わたしの五体にはもうひとつの法則があって、心の法則と戦い、わたしの五体のうちにある罪の法則のとりこにしているのがわかります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。だれがこの死のからだから、わたしを救い出してくれるのでしょうか。 (ローマ人への手紙 6-7章)245
実際、私たちは律法が霊的なものだと知っています。しかし、私は肉的な存在であり、罪に売り渡されています。自分が望む善はおこなわず、自分が望まない悪をおこなっているのです。内なる人としては神の律法を喜びながらそれと戦い、私の五体のうちにある罪の法則のとりこにしているのがわかります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
神の。
3. 本田晃子 『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』 東京大学出版会
このような社会主義リアリズム体制下で、建築が映画に取り込まれることによって生じたのが、空間の二重化である。イメージへと変換される際に、建築物は断片化され、さまざまな編集・加工を施され、オリジナルとしての建築物よりも上位の、いわばイデアへと変容する。その一方で、決してスクリーン上には映し出されない、残滓としての空間もまた生じることになった。社会主義リアリズムの文化統制のメカニズムが生み出したこのような「現実」の二重化について、現代ロシアの研究者エヴゲニー・ドブレンコは次のように述べている。
社会主義リアリズムは「素晴らしいもの、それは我々の生活だ」と述べながら、「理念」と現実をイコールにする。ただしそれらは単に融合するのではなく、現実の「理念化」の度合いに応じて理念の「具現化」が行われ、その一方で同時に「非現実化(Дереализация)」が生じるのだ。[...] 社会主義リアリズムは、「現実」をイデオロギー的意味内容に変えることで、社会主義を生産することにある。この生産の副産物が、日常性の非現実化だ。社会主義を描き出すために、生の現実は存在を停止せねばならないのである。
すなわち社会主義リアリズム文化においては、スクリーン上のイメージこそが「現実」と呼ばれ、スクリーンの外の世界はこの現実=イデアの影に過ぎないとみなされたのである。このように一九三〇年代半ばより、映画をはじめとするマスメディアにおいて、特定の空間の神話化と、それ以外の空間の不可視化が進行した。全連邦農業博覧会やモスクワ地下鉄、さらには非在のソヴィエト宮殿までもが、「あるべき現実」として繰り返しスクリーン上に映し出される一方で、大多数の都市住人が暮らすバラックやコムナルカなどの劣悪な集合住宅、あるいは強制収容所のような空間は、表象を奪われて不可視化され、あたかも存在しないかのように扱われた。 7-8
この春に日本公開となる旧ソ連映画群で書こうと思ったのはウクライナ侵攻から半月後くらいだったとおもうけれど、シリーズ/連載化する入魂物になりそうと感覚したのは本著を読んでから。という意味では関心を深める鏑矢になってくれたのだけど、実際の記事文末で参考文献として挙げるのは結構先になるかもしれない。けっきょく自分が書くのは映画の紹介が前提で、その構造まで降りて言及するにはある程度の字幅ないし更新回数が前提とならざるを得ない。対して本書は、なにしろ建築から映画へ向かう内容なので、のっけから構造ばり出しでカッコ良い。
だが何よりこのソフホーズのセットにおいて特筆すべきは、エイゼンシテインとブーロフによる ル・コルビュジエの建築思想の「読み替え」だ。ル・コルビュジエは、人びとはなぜ飛行機を「飛ぶための機械」とみなすように、住宅を「住むための機械 (la machine à habiter)」とみなすことができないのかと問い、住宅を機械のように合理的に設計することを提唱した。このように、新しいタイプの住宅の比喩として「機械」を用いたル・コルビュジエに対し、エイゼンシテインとブーロフはより大胆かつリテラルに建築の機械化を実現した。すなわち、ソフホーズを文字通り牛乳や豚肉、農作物を加工する巨大な機械の複合体、「農業の工場」として描き出したのだ。もちろんその背後には、労働宮殿を工場の姿で描いたアレクサンドル・ヴェスニンの存在があっただろう。このようにエイゼンシテインとブーロフは、ル・コルビュジエが修辞的に用いた「機械としての建築」を文字通り機械化された建築へと、ラディカルに読み替えたのである。 34-5
まぁそのカッコ良さの印象は、ゲンロン中継チャンネルで幾度か見てきた本田晃子さん本人の語る姿にも確実に由来していて、あの明晰かつシャープな語り口そのままに読めたのは心地よかった。とりわけ鴻野わか菜さんとの組み合わせは極私的にゲンロン随一の神構成なのだけど、話が逸れた。(直近回をウクライナ侵攻前にやってくれて、ほんとうに良かった)
クラークによれば、社会主義リアリズム作品には、ソヴィエト宮殿の姿に端的に反映された上下ないし高低のヒエラルキーのほかに、中央・周辺という空間的隔たりによるヒエラルキーが存在する。社会主義リアリズムの物語においては、ソ連の辺境に住む登場人物はしばしば優れた功績を上げて中央=モスクワへと招かれるが、この周辺から中央への移動は同時にソヴィエト社会の象徴的階梯を上昇することを意味していた。()また多くの場合、中央と周辺の空間的距離は社会主義化の進展の度合いという時間にも結びつけられた。すなわち、周辺は社会主義化の遅れた状態、つまりソ連の過去または現在を表し、中央=モスクワは社会主義建設が完了した後の未来を表していたのである。
しかしこのような社会主義リアリズムのカノンに対して、『新しいモスクワ』の主人公であるアリョーシャやゾーヤはもともとモスクワ出身であり、最終的にモスクワを捨てて、シベリアという辺境へ向かう。社会主義リアリズムの美学が要求する求心構造とは対照的に、『新しいモスクワ』は中心から周辺へと拡散していく遠心構造を有しているのである。()このようなアリョーシャらの遠心的運動や、短期間のうちに目まぐるしく変化する地方の光景には、おそらく映画列車によってモスクワからソ連各地の建設中の現場に向かい、急ピッチで建設される新しい都市やコンビナート、ダムなどの光景を目の当たりにしてきたメドヴェトキン自身の経験が反映されているのだろう。しかしながらこれらの表現は、社会主義リアリズムのヒエラルキー化された象徴的な時空間構造に対立し、それを攪乱しかねない危険性を秘めていたのである。 92-3
《インポッシブル・アーキテクチャー》展スレッド https://twitter.com/pherim/status/1108145356095647744
五十嵐太郎企画の《インポッシブル・アーキテクチャー》における「アンビルド」言及はとにかくアツく、予定の倍くらい時間をかけて観たのが懐かしく思いだされる本書。しかしアンビルドであるゆえの積極的価値、社会全体を前進させる媒体としての機能をここまでわかりやすく理解させてくれる記述は、同展にはない良趣で興奮する。目前で骨組みパズルが勝手に組み上がっていく快楽、とでもいえそうな。
したがってグルジア・パヴィリオンにおける像とオリジナルの関係は、ソヴィエト人民としての経歴の頂点を極め、自我と理想自我が一致した状態、文字通りの鏡像段階にターニャが置かれていることを示していると考えられよう。ジャック・ラカンによれば、鏡像段階とは言語以前の幼児の段階であり、おとぎ話のなかでしかありえないような理想的自己への完全な同一化は、精神分析的な観点からは、むしろ社会的な退行を意味することになる。この逆説はカテリーナ・クラークやエヴゲニー・ドブレンコによって既に指摘されてきた、社会主義リアリズム文化の特性のひとつである幼児性とも重ね合わせることができるだろう。この自-他(=自己像)が完全に合致した最高度にナルシシスティックな状態においては、外部への欲望が生じる契機は存在しえない。おそらくはそれゆえに、レベジェフはこの場面から排除されたのではなかったか。
そして本章の観点からとりわけ重要であるのが、ターニャの三位一体、すなわち歓喜の頂点を表す彼女の三つの様態の鏡像的相同性によって、農業博覧会建築で目指された総合芸術が、まさに実現されているという点である。ターニャの過去・現在・未来という物語の通時的軸が、ここではそれぞれ絵画・彫刻・生身の彼女自身という異なった媒体によって共時的に示されている。ターニャの社会主義的ビルドゥングスロマンという主題が、異なる芸術メディアをひとつに結びつけているのである。
この像と等価な関係は、しかし必然的に、ターニャ自身の身体にも影響を及ぼすことになった。()かつての彼女の、工場で機械のリズムとともにダイナミックに動き回っていた身体とは対照的に、この演説の場面ではターニャの身体は演壇上に固定され、運動は上半身のみに制限され、絵画や彫刻によって表現された自らの不動の像へと近づいている。 133-4
消失点構造を守るため、生の身体性が拘束される。これけっこう、身分制とかフェミニズムあるあるかも。統制原理の構成的顕現態がみせる監獄性。陶酔への紙一重。
おとぎ話の虚構世界と社会主義リアリズムにおける「現実」(=神話)の融合の背景には、第一次五カ年計画におけるソ連の「奇跡のような」農工業の発展があった。このようなソ連の躍進は、た とえばしばしば「おとぎ話の実現」というレトリックによって表現された。スヴェトラーナ・ボイ ムは、この時期にさまざまな分野において出現した、「おとぎ話の実現」という主題を指摘している。そのなかでも、ここでは比較のために同時期のソ連映画の例を見てみたい。映画における「おとぎ話の実現」は、主として共同体の建設の完遂や奇跡的な増産の達成として描き出された。そこで興味深いのは、「おとぎ話」を実現する過程の描写はしばしば捨象されるか、文字通り超自然的なプロセスとして表現されるという点だ。セルゲイ・エイゼンシテインの『全線(古きものと新しきもの)』(一九二九年)では、主人公は夢を通じて機械化された未来のソフホーズに到達する。前出のメドヴェトキンの『新しいモスクワ』では、ひと夏のうちにシベリアの僻地に新しい町が忽然と出現する。グリゴリー・アレクサンドロフの『輝ける道』(一九四〇年)では、主人公は空飛ぶ車で時 空間を飛び越え、未来のモスクワへと到達する。これらの作品においては、一連のプロセスや因果関係の描写の欠如によって、最終的に実現された世界がまさに奇跡の産物のように映るのである。
地下鉄駅もこのような「実現されたおとぎ話」の世界に属していた。空間の構造を覆い隠す華麗な装飾同様、メディア上で繰り返される「おとぎ話のような」というレトリックは、この空間の技術的性格を不可視化し、その上にそれらを超越する奇跡的空間を上書きしようとする。サーシェンカやカーチャの年老いた父親が見出したおとぎ話のなかの宮殿は、それぞれアリョーシャやカーチャによって現実の人びとの手で作り出されたものであることが強調されるが、まさにこの止揚を通じて、おとぎ話は神話へと接続され、人の手によって作り出された奇跡としての「地下の宮殿」という言説が完成するのである。 162-3
で、“Метро”描く21世紀的リアル頽落へ。面白すぎましてん。
『メトロ42』“Метро” https://twitter.com/pherim/status/1513486843429355520
もちろん当時の読者は、一九九一年に起きたミハイル・ゴルバチョフ、ボリス・エリツィンら改革派に対する保守派の八月クーデターと、これら地下に住むスターリン主義者の蜂起を重ね合わせたことだろう。いずれにせよ、『地獄』におけるモスクワの地下空間は、地上の社会において抑圧され忘却されたかに見えるスターリン時代の暴力が、マグマのように沸き立ち、今まさに噴出しようとしている場なのである。
一八六四年に発表されたジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を筆頭に、地下への下降を過去への遡行とみなし、地底世界に過去の世界を投影する試みは、一定の普遍性を有している。だがこれらソ連末期ないしポスト・ソ連期のロシアで生み出された作品では、地下空間に投影されるのは、抑圧されねばならないソ連時代という過去、とりわけスターリン時代の暴力の記憶なのだ。ゆえに地下世界にスターリン時代の過去が重ね合わされるとき、「地下の天国」は文字通りの「地獄」へと変貌するのである。 232
つづき → https://tokinoma.pne.jp/diary/4550
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