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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2022年
04月19日
14:22

よみめも71-2 続 さよなら西武新宿ちゃん

↑ Иван Константинович Айвазовский 《Вид Леандровой башни в Константинополе》 1848


 よみめも71後編です。前編は→ https://tokinoma.pne.jp/diary/4549


4. アントン・チェーホフ 『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』 浦雅春訳 光文社古典新訳文庫
  https://twitter.com/pherim/status/1408739983389646855

 地上の悪という悪、あたしたちのこうした苦しみが慈悲の海に浸されて、その慈悲が全世界をおおい、あたしたちの生活がまるで愛撫のように穏やかな、やさしい、甘いものとなるのを目にするの。あたし信じているわ、そう、信じてるの……。かわいそうな、かわいそうなワーニャ伯父さん、泣いていらっしゃるのね……。伯父さんは人生の喜びを味わうことはなかったのよね。でも、もう少しの辛抱、ワーニャ伯父さん、もう少しの辛抱よ…… 128-9


  拙稿「【映画評】ルーシの呼び声(1)」 http://www.kirishin.com/2022/04/16/53879/


ワーニャ いや、気が狂ってるのは、君らを生かしている地球のほうだ。 110

アーストロフ 残念だな!(じれったそうな仕草) お残りなさいよ。どうせこの世には、あなたがしなくちゃならん仕事なんてありませんよ。あなたには生きる目的も、 あなたの関心をひくものもないんだ。おそかれ早かれ、あなたは情にほだされることになるんです――それが避けがたい運命なんだ。それならいっそのこと、ハリコフやクルスクくんだりに出かけるより、ここの自然のふところに抱かれてのほうがいいじゃないですか......。少なくとも詩的だし、なんといっても美しい......。 117

ヴェルシーニン おもしろいことに、将来何が高尚で重要だと見なされ、何が瑣末で滑稽と見なされるのかは、今の私たちにはまったく知りようがない。コペルニクスの発見だとか、あるいは、コロンブスの発見なんてものは、最初のうちは無用で滑稽なも に見え、その一方でどこぞの変人が書いた戯言が真理だと思われてきたのではないでしょうか。これと同じで、私たちが当たり前に思っている今の生活だって、 時間が経てば、何か妙な、居心地の悪い、おろかしい、けがらわしいものだと思われるかもしれない。いや、罪深いものだとすら思われかねない。 157


 ウスマル・イスマイル『三人姉妹』 https://twitter.com/pherim/status/833468350864908288


トゥーゼンバフ 渡り鳥や鶴はああして飛び渡っていますが、彼らの頭のなかに高尚な、あるいはささいな目的が去来しようと、やはりそのまま飛びつづけ、どうして飛ぶのか、どこに飛んでいくのか知りえないでしょう。その鳥たちのなかにいかなる哲学がはぐくまれようが、ああして飛んでいるのだし、またこれからも飛びつづけるのです。御託をならべたいならどうぞご勝手に、私たちはただ飛びつづけるだけだってね......。 200

オリガ ああ、神様! 時が経って私たちが永久にこの世をあとにすれば、私たちのことは忘れ去られてしまう。私たちの顔や声や、私たちが何人の姉妹だったかも忘れられてしまうんだわ。でも、私たちが味わったこの苦しみは、私たちのあとから生まれてくる人たちの歓びに変わっていき、やがてこの地上に仕合わせと平安が訪れるの。そのときには人々は今生きている私たちのことを感謝をこめて思い出し、きっと祝福してくださるわ。ねえマーシャ、ねえイリーナ、私たちの人生はまだ終わりじゃないの。 生きていきましょう! 音楽はあんなに愉しそうに、あんなにうれしそうじゃない。もう少し経てば、私たちが生きてきた意味も、苦しんできた意味もきっと分かるはず......。それが分かったら、それが分かったらねえ! 308





5. ナディア・エル・ブガ, ヴィクトリア・ゲラン 『私はイスラム教徒でフェミニスト』 中村富美子訳 白水社
  https://twitter.com/pherim/status/1505116254587453440
  
 優れた女性たちの知的貢献がなかったら、イスラムの歴史からいったい何を学べるだろう。 現にハディース〔預言者ムハンマドの言行録]、フィクフ(そもそもは「シャリアの理解」の意。宗教、政治から私生活まで、人々の生活のすべてを統合する実定法を指す)、判例集、聖典解釈、詩歌などに関する女性研究者たちの功績をまとめた歴史書が存在する。アル・ハヒィド・イブン・ハジャール [一三七二~一四四九年。エジプトの神学者]は、法学者や文学者など一五四三人もの女性知識人の生涯を選集に綴っている。イブン・サアード[七八四~八四五年。イラクの歴史家] も同じように、代表作『アル・タバカ・アル・コブラ』の一節を丸ごと女性の研究者に捧げている。そこに紹介された女性たちが、アンダルシアで頂点を極めるイスラム神学の興隆に貢献したことは疑う余地がない〔イスラム勢力は八世紀にほぼスペイン全土を支配。一〇一三年に滅亡するまで、アンダルシア地方の コルドバがその首都となり、西方イスラム文化の中心として栄えた〕。ところが彼女たちの仕事は今ではすっかり忘れ去られている。なぜ、男性に劣らず貢献したのに、女性の仕事にはスポットが当てられないのだろう。なぜ男性の、それも厳格派の法解釈しか認められてこなかったのだろう。
 預言者ムハンマドの時代からずっと、女性たちは知的な欲求を表明してきた。ムハンマドの妻アイシャは、ハディースに夫の言葉をたくさん伝え残しただけでなく、その解釈者として当時最も信頼される一人だった。「フィクフ、医学、詩の分野で、アイシャほどの教養人を私は知らない」と、メディナの神学者ウルフ・イブン・アズ=ズベイール〔七一三年没]も認めている。イスラム歴の三世紀〔西暦八五九年〕にイスラム圏で初の大学、カラウィン・モスクをフェズに創設したファティマ・ アル・フィフリヤ・ウム・アル・バニンも高名な女性の学者だった。また、イスラムで最も有名な聖女、ラービア・アル=アダウィー〔七一七頃~八〇一年〕はスーフィズム[イスラム神秘主義]を信奉し、その詩は信者によって絶えることなく受け継がれ、今もなお貴重な教えとされている。イランの神秘派詩人、ファリッド・アル=ディン・アッタール〔一一四五頃~一二二一年頃〕は著書『鳥の言葉』のなかで、この聖女について「凡庸な女性ではない。男性が百人かかってもかなわない」と書いている。 65-6
 
 不思議なことに、世間ではハラムよりフシュマが重視されている。例えば宗教的禁止を軽んじて酒を飲む男も、親の前では決して飲まなかったりする。ということは、神に恥じるより親に恥じるということだろうか。同様に、家族を安心させるためにスカーフを被る娘も、大学に着くなり脱いだり、住んでいる地域から離れると被らなかったりする。そこにはもう告げ口をする者がいないからだ。他人の目、世間の評判や噂ばかり気にするこうした強迫観念がモロッコ社会を腐らせている。それはユダヤ・キリスト教の影響を受けた西洋的な道徳とはまったく異なる。このフシュマはじつは遙か昔のアラブの伝統に由来するもので、イスラムの聖典にはなんら言及されていないし、もちろん正当化もされていない。それどころか預言者ムハンマドは、礼拝中に子どもたちがやってきて駄々をこねると、追い払うどころか温かく抱きしめ、それからまた瞑想を続けたと伝えられている。 104

 フシュマの問題は、聖典のどこにも見当たらない。 112
 
 見者であり、霊感に優れ、フェミニストでもあるムスリムの男性に出会えたのだ。これはメクトゥブなのだろうか。 145


 [メクトゥブ:あらかじめ運命づけられていること]

 コーランの再解釈を夫と企画したことで、これらのハディースや詩節を原文のアラビア語で読み、どれほど巧緻な文章でつづられているかを発見できるのが、なによりの喜びだ。
 施し(サダカ)と報い(ハッサナト)はイスラムでは崇拝の行為である。サダカはムスリムにとって五行、つまり五つの義務の一つで、意図が重視される。誰に与えるのか、なぜ与えるのか、何をどのように与えるのか、どのような状況で与えるのか。そうした根本的な問いによって 意図が明らかになる。先にあげたハディースでナダカが語られるのも決して偶然ではない。体を張るということは軽々しい行為ではない。神はここでセクシュアリテの本質を喚起している。 つまりセクシュアリテとは自分自身を知り、自分自身に贈与を行ない、それから他者に与え、他者を幸福にしようとすること、そうやって感謝(ハッサナト)を得るということだと。もしその 感謝が共に生まれること、二人で生まれることでないなら、セクシュアリテに何の意味があるだろう。 性の営みに身を投じることはつまり、施しと報いという二つの善行に通じているのである。
 タブーばかり口にし、コーランのメッセージの本質を見失わせている教条的な学者たちは、 当然ながらセクシュアリテを語るのにこうした語彙は用いない。 152

アル・カザリにとって快楽とは楽園だけに許された悦楽の前ぶれであり、神への崇拝を後押しするものだ。性の営みは非難されないどころか、絶対者との絆を作るものとして奨励されている。私もモスクで講話を行なう際にしばしば引用するが、それは祈りの原理そのものだ。意図の概念はセクシュアリテにも信仰生活にも共通する。与えたり受け取ったり、望みを満たしたり、もてなしたりするのに良いコンディションを作ることが大切で、性行為は思いつきで相手にとびかかるようなものではない。自分自身の心を整え、相手にも心の準備をしてもらう。禊はその準備だ。水が象徴する浄化とは欲望の高まりでもある。準備がぞんざいなら、関係もまたそれだけのものになってしまう肉体と精神の官能をなおざりにしていては、素晴らしい挿入など期待できない。祈りもまた肉体に関わっている。身体を洗い清め、ひれ伏す。セクシュアリテでも祈りでも、絶対的なものを探し求める旅を可能にしているのは肉体だ。 152-3

 もちろん、セクシュアリテのこのような定義を良しとしない聖典解釈もある。欲望、とりわ け女性の性欲は疑わしいもので、イスラムでは厳しく禁じられていると規定するような解釈さえ ある。しかし、それではコーラン十二章の全体をどう考えればよいのだろう。この章ではヨセフ に魅了されたズレイカの物語が語られる。ヨセフには十一人の兄弟がいるが、この兄弟たちは、 父ヤコブがヨセフにばかり愛情を注ぐのを妬み、ヨセフを井戸に隠して死んだことにする。最愛の 久息子が亡くなったと知られた父は、現枯れて失明してしまう。 ユダヤ教とキリスト教の 聖書にも同じ物語があるが、コーランではさらにこう展開する。ヨセフは奴隷商人たちに助け 出されてエジプトの宰相の家に売られ、その妻ズレイハのために働くことになる。
 「さて、家にヨセフを受け入れたズレイハは、彼を誘惑しようとしてすべての扉を閉めて言った。 『さあ、こっちへ来て。私はあなたのものよ』。するとヨセフは叫んだ。『神よ、お守りくだ さい! 私を寛大に扱ってくれたご主人さまを裏切ることはできません。裏切り者は決して 幸福にはなれませんから』。しかしズレイハはヨセフにすっかり魅了されていた。ヨセフの ほうも、神の徴に照らされることがなかったなら彼女を欲していただろう」
 
 私がスカーフを被るのは、他者の視線から自分を守るためではない。もっぱら自分自身のため、神と直に接するためだ。思春期の頃は外見ばかり気にしていた。腰まで伸ばした髪は栗色の巻き毛で、肌は黄金色。どう見ても北アフリカ系にしか見えず、ルーツは否定しようがなかった。それが嫌で、白人の女友達と同じに見えるように、誰よりも西洋的な格好をした。でも、そんなことをしても無駄だとすぐに思い知らされた。私はフランス生まれなのに、どうしようもなくモロッコ人だった。その頃からアイデンティティーや信仰に興味を持ちはじめ、こう考えるようになった。 「スカーフが私自身に向き合う助けにならないだろうか。容姿についての考え方が変わり、西洋と北アフリカの間で振り子のように揺れ動くことから抜け出せるかもしれない」
 それは仏教の尼僧やキリスト教の聖職者、修道女たちのふるまいに近いかもしれない。彼らはどう見られるかではなく、偽りのない自分であるために、そして本質的なことだけを考えるために長くゆったりした服を身に着けている。多くの宗教で、聖なる場所に入るとき、人は神を 敬って体を覆う。その神への敬意、神との強い結びつきこそ、私が二度と手放したくないものだ。「敬う」という言葉は今や地に落ちてしまったけれど。
 こういう私を矛盾していると咎める人もいる。フェミニストでありながら、「隷属する女」 の象徴であるスカーフを被るなんてありえない、と。その論理の危うさを指摘しよう。人を そのようにレッテル張りして枠に押し込めるのは、使い古された抑圧者の論理でしかない。なぜ、抑圧者が上から目線で説く「自由な女性」のイメージに合わせなければならないのだろう。 ハイヒール、赤い口紅、脚線美を露わにするドレス。それは私が考える自由とは違う。それも 自由の一つの表現かもしれないが、もっとずっと多様であっていいはず。今、私のなかで女性 性と信仰はうまく折り合っている。それもまた自由を感じるということではないだろうか。 コーランの第七章二六節にはこうある。
「アダムの子孫たちに、裸を隠すための服と装身具を身につけさせた。しかし最良の服は敬虔な心である。そこに神の印が刻まれている」
この一節に、私が感じていることが完璧に表現されている。スカーフはサラート[断食月の特別な礼拝] や日々の礼拝の最中に私と神とを結びつけてくれる装い。それを一日中、そして毎日身に着けることで、私はいつでも神とともにあると感じられる。 164-5

 スカーフを抑圧の象徴としか見ないフェミニストがいるのは、とても残念だ。いったい何の権利があって、一握りの女性が他のすべての女性に代わって、正しい解放の仕方とやらを決められるのだろう。それこそ女性を子ども扱いし、自分では何も選択できない存在だと貶めてきた 父権社会の図式と変わらない。
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 「自発的な隷属」という考えがブルキニ〔顔以外の全身を覆う水着。ブルカ(女性の全身を覆う長衣)とビキニの合成語〕をめぐる議論のなかで盛んに用いられたが、それはムスリムの女性を思慮が浅く愚かな存在とみなし、自分が隷属させられていることさえわからないほど知的にも肉体的にも弱々しい存在だと貶めるものだ。
そうしたフェミニストたちには、主人と奴隷に関するヘーゲルの弁証法を学び直してほしい。もし主人が奴隷の仕事に依存するならば、奴隷の奴隷ということだ。そして、もし奴隷が働くことで自由を獲得していくなら、私はこの奴隷でありたいと思う。そうやって支配の関係をひっくり返し、平等を獲得するのだ。 165-6





6. 劉慈欣 『三体 Ⅲ 死神永生 上』 大森望 光吉さくら ワン・チャイ 泊功訳 早川書房

 面と向かってたずねたりしたら、母親はその瞬間から、永久に、ほんとうの別人になってしまう。母親の秘密にさえ触れなければ、いままでどおり接することができるし、人生は変わらずつづいていくだろう。もちろん、それもまた、楊冬にとっては、半分死んだような人生ではあるにしても。
 半分死んだような人生を送っている人間も、実際は珍しくなかった。楊冬の観察するところ、周囲の人間の相当数が、半分死んだような人生を送っている。忘却力と適応力に優れた人間なら、半分死んだ人生にも満足できるし、幸福さえ感じることができる。
 しかし、物理学の終わりと母親の秘密、この二つの“半分死んだ人生”が合わされば、ひとつの人生がまるごと失われる。そのあとに、いったいなにが残るだろう。 36-7
  
 宇宙の闘技場で羅輯が体験したのは、戦いというより舞に似た華麗な動きの中国剣術でも、剣士の鮮やかな技価を見せるのが目的の西洋剣術でもなく、一撃必殺の日本の剣術だった。日本刀の真剣を使った一対一の本物の決闘では、斬り合いの時間はきわめて短く、○・五秒から二秒しかつづかない。 刃と刃がただ一度だけ触れ合ったとき、すでに一方は血の海の中に倒れている。だが、この電光石火の対決がはじまるまでのあいだ、二人はともに微動だにせず石像のように立ち、ただじっと相手を凝視する。この過程は、長ければ十分間にもおよぶ。このとき、剣客の剣は、手ではなく心に握られている。目を通して視線へと変化した心の剣は、敵の魂の深みまで刺し貫く。真の勝者が決まるのはこのプロセスだ。二人の剣客のあいだで静止した沈黙の中、魂の剣は音のない雷鳴のもと、突き、かわし、斬る。最初の一撃が加わる前に、勝敗と生死はすでに決まっている。
 羅輯はまさにその必殺の視線で白い壁を凝視し、その切先を四光年彼方の世界に向けていた。いついかなるときも、複数の智子が自分を監視し、彼の視線を敵に中継していることはわかっていた。この視線には、地底の冷たさと頭上の岩石層の重さがあり、すべてを犠牲にする決意があった。その視線は敵の心をおののかせ、いかなる軽挙妄動をも控えさせてきた。
 剣客の視線にも、いつか終わりがくる。決闘における、最後の真実の一瞬。この宇宙規模の対決の一方の当事者である羅輯にとって、ただ一度だけ剣が振られる最初にして最後の瞬間は、ついに訪れないかもしれない。
 しかし、次の一秒で、それが訪れるかもしれない。 235

 この五十四年間、羅輯は沈黙を守り抜き、ひとことも言葉を発しなかった。じつのところ、人間は、十年から十五年なにも話さずにいれば、しゃべる能力を失ってしまう。聞いて理解することはできても、話すことはできなくなる。羅輯は、まずまちがいなく、話せなくなっていた。話したいことはすべて、面壁に向けた視線の中に込めた。羅輯は自分自身を一個の抑止機械に変えた。そして、半世紀を超える長い歳月、触れればその瞬間に爆発する地雷として、二つの世界のあいだで危ういバランスを保ちつづけてきたのである。 236

 それから羅輯は、程心のほうに向き直った。新旧の執剣者が無言で相対した。彼らが視線を交わしたのはほんの一瞬だけだった。その一瞬で、程心は鋭い光のすじが自分の魂の暗い海を照らした気がした。その視線の中で、程心は自分が紙のように薄っぺらで軽く、透明にさえなったような気がした。 五十四年間の面壁で、この老人がなにを悟ったのか、程心には想像もつかなかった。歳月に沈殿した彼の思想は、いま頭上にのしかかる地層のように重厚かもしれないし、あるいは地表の上の青空のように軽いものかもしれない。程心には知る由もなかった。彼が歩いたのと同じ道のりを自分でたどらないかぎり。羅輯の視線からは、底知れない奥深さ以外、なにひとつ読みとることができなかった。 237

 羅輯は彼らを見ようともせず、そのままエレベーターホールのほうへ歩いていった。検察官たちがあわてて進路をふさいだ。じつのところ、羅輯の眼中にはそもそも彼らなど存在していなかったのだろう。羅輯の眼の鋭い光はすっかり消え、夕焼けのように静かな眼に変わっていた。彼が面壁者となってからの三世紀にわたる長い使命はついに終わった。もっともつらく苦しい責任はいま、彼の肩から消えた。この先、女性化した人類から悪魔や怪物だと思われたとしても、羅輯の勝利が文明史を通じて、ほかのだれもなしとげられないことだったという事実は認めざるをえないだろう。
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 鋼鉄のドアががらがらと音をたてて閉じはじめたとき、程心は、しだいに細くなっていくドアの隙間から、自分のこれまでの人生が、漏斗から流れ落ちる水のように洩れ出していく気がした。鋼鉄のドアが完全に閉まったとき、新しい程心が生まれた。 238

 
 コンスタンティノープルの陥落から始まるの、かっけぇ~。って感動したな。塩野七生の世界もよみがえった。で、羅輯の香港カンフー翁ばりの確変カコよす。全体としては後半へ向けた“溜め”モードなんだけど、それにしては驚かされる面白ギミック乱発で、ひとりでこれを考えだしたのマジすげぇと感心しつつも、ひとりだからこそ可能なのか、とも思われSF的想像力の奥深きこと多次元宇宙の如しすな。




7. 藤本高之 編著 『イスラーム映画祭アーカイブ 2022』 イスラーム映画祭
  https://twitter.com/pherim/status/1494518967615983619

 2020年のアーカイブが過去5回を総覧する意欲作で、編集もメッチャ大変そうだったのでしばらく出ないかなと思ったらその逆で、2021に続き2022版、つまり毎回出る流れに。思うにこれは映画祭全体をめぐる主催・藤本さんの力点変容の表れで、発信の質・量を上げるのに有効な手段のひとつとしての出版物、という位置づけかと。
 
 各専門家のコラムも短すぎず詳しすぎずの程よい内容で、地味に藤本さん自身によるアフガン映画まとめなど面白い。




8. 『サンクトペテルブルク/モスクワ 地球の歩き方Plat 18』 ダイヤモンド・ビッグ社

 地球の歩き方のコンパクト街歩き版。対ウクライナ/ロシア映画連載ローラー作戦の一貫としての、全ページ閲覧の試み序盤篇。建物や美術、料理とか雑貨のカラー写真大量で、まず視覚からロシア圏文物へ馴染ませるのには向いていた。モスクワ郊外の“黄金の環”とか、まぁ一度くらい行ってみたい気はしますわね。
 エルミタージュさえ行けてないのに何いってんだ、とは思うけど。

  拙稿「【映画評】ルーシの呼び声(1)」 http://www.kirishin.com/2022/04/16/53879/
  
 あと160頁オールカラーで1400円って、印刷技術も進化したんだなぁとか感心。
 



9. 鹿児島大学2019年度タイ研修参加者有志 『タンカムターム』 

 なんかこう、日本のふつうの大学生ってこうなのかとちょっと衝撃的だった。まず良くも悪くも無知を恥じない姿勢。ゼロ年代初頭にはまだ残滓として多少はあった教養主義の欠片も霧散済みという感じはしかし、悪いことばかりでもないのだろう。すごく素直な感じが伝わってくる。ただ20歳前後になって初めて考えましたみたいな内容が、ちょっと一般の(世界標準の)大学生イメージから乖離しすぎ。高校生とか中学生の感性っぽくて、これは自分の頃でもそうだったけど、むしろ拡大してるのかも。
 あと言葉の壁でお互い認識していないおそれも感じるけど、取材相手と温度差がありすぎて一方通行のきらいが甚だしく、相手に何かを与えようという対等意識がみられない。インタビューも質疑応答もふつうに対話の一形式なんだけどね。
 
 で、中盤くらいで気づいたのだけど、自身の高校卒業年に参加したNGOワークキャンプの報告冊子と、無意識に比較してたんだよね。でも警察官志望の高校生からタイ語選考ニキ、開発経済院生姐から海外協力隊帰りのアラサーニキまで、報告冊子のほうはそも新聞掲載の作文募集に応募して選考通ってきた若者たちで、本書のほうは大学科目なので主体性のレベルで違ったのでした。もちろん20年前の鹿児島大学を知らずに、台湾大学や香港大学と東大生との格差みたいな体験記憶も参照して感じたことに過ぎないといえばそう。
 
 意外な中身としては、『トロピカル・マラディ』ほかアピチャッポン作品常連のSakda Kaewbuadee/トンのインタビューが良かった。バンコクのIDC(移民収容センター)へ通い詰め難民支援活動してたっていう驚き。
 
 『トロピカル・マラディ』 https://twitter.com/pherim/status/698651415372107777
  トン自身のパフォーマンス作品 https://twitter.com/pherim/status/924975021218439168





10. 金原瑞人 編 『BOOKMARK 15号 2019 WINTER 「Be Short!」』 

 ラッタウット・ラープチャルーンサップを図書館検索したら引っ掛かった一書。カウンターで初めて接した現物はCDのライナーノーツのようで意外すぎた。短編小説集ガイドで、既読のものもあったがこれから読みたいと思わせるものが多く収穫。必読と感じた順に一部を以下メモしておく。
 
 『ザ・ディスプレイスト 難民作家18人の自分と家族の物語』 ヴィエト・タン・ウェン 編
 『観光』 ラッタウット・ラープチャルーンサップ 
 『壊れやすいもの』 ニール・ゲイマン
 『中国が愛を知ったころ 張愛玲短篇選』 張愛玲 [沈香屑 第一爐香/五四遺事 羅文濤三美團圓/同學少年都不賤]
 『なにかが首のまわりに』 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ
 『海峡を渡る幽霊 李昂短篇集』 李昂 [吹竹節的鬼]
 『天空の家 イラン女性作家選』 ゴリー・タラッキー ほか
 『千年の祈り』 イーユン・リー
 『ロレンス ショートセレクション 二番がいちばん』 D・H・ロレンス




▽コミック・絵本

α. 藤本タツキ 「さよなら絵梨」
  https://twitter.com/pherim/status/1513443819655598084

 時間に追われてる人、多いと思うんです。ルックバックの衝撃と修正騒ぎから3つ季節がたつことに驚くし、他の藤本タツキ作品も読もうと思ったのに読めてない、みたいな。

 作り手も傷つかないとフェアじゃない、ってキメてくる。
 さよなら絵梨、コマ送り調の醸す時間性。淡々と超えゆく凄味。最高では。




β. サムイル・マルシャーク詩 ウラジーミル・レーベジェフ絵 『しましまのおひげちゃん』沼辺信一 監 鴻野わか菜 訳 淡交社

 「幻のロシア絵本」復刻シリーズ、図書館で借り出してみると、なんとキリル文字の原本復刻版に日本語訳+解説紙が付く体裁で、両者を包む薄い紙箱ふくめ装幀の全体が可愛らしく素晴らしい。日本語に置き換えた版をつくらなかった理由が経済的な制約なのか、審美的なものかは不明なのだけど、原書の良さを味わえるのは子どもにとってもとても楽しく印象深い機会になるはず。

 詳細不明ながら、芦屋市美&東京都庭園美術館の企画らしい。なるほど納得のマテリアル>ブッキッシュ感




γ. ヤマザキマリ とり・みき 『プリニウス』 10 新潮社

 ネロ死亡。まぁさすがにちょっと、展開がダレた感は否めない。ダメな奴って以上の深みがでるキャラでもなかったし、プリニウスとの絡みも何か悪い予感を高めるとこまでは良かったけど、史実ベースを曲げた劇的展開も限界あるし。とり・みきがひたすら背景設定にこだわるって役回りはほんと効いてるよね。上辺の物語とはおよそ無関係な、無駄に分厚い構造がキャラ図とは別につねに地を占めるこの感じは一人の思惟が全面化しちゃう他の歴史マンガとの良い差別化になっている。『チェーザレ 破壊の創造者』の鈍重さとか『ヒストリエ』の画の薄さとか。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]



 
δ. 押井守原作 大野安之作画 『西武新宿戦線異状なし DRAGON RETRIEVER 完全版』 角川書店

 もう何でみかけたかも忘れたけれど、タイトルと押井守の名に引きの強さを感じ検索したらアマゾン中古が手頃だったので入手、読む。自分は軍事マニア心性とは決定的に何かズレを感じつつも兵器の機能美のようなものに惹かれる資質は共有していて、そういうあたりの押井守のこだわりや長講釈も嫌いでないため、主人公らが乗るM32BIっていう戦車回収車の描き込みとかそこそこ楽しめた。ヒロイン上官もなんか人間界へ墜ちたグラマラス素子感あって良い。にしてもアクションの主役が戦車回収車っていかにも押井守よね。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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