・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(よみめも74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 大崎清夏 『踊る自由』 左右社
ある朝、あなたたちに会うのが急に難しいことになる。
あんなに緊密であんなに緩みなかった糸の束がさっきま
で見ていた夢の中でほどける。にやけた顔の筋肉を元に
戻せなくなるようなことが、一年に一度、視界の隅で摑
まえる光の現象みたいになる。ある日、ここにいる理由
はもう何も残っていない。頭頂から爪先まで朝日に晒さ
れて、私の口は勝手に喋りはじめる。隠れる場所がもう
どこにもないから、私はまじめな服を着る。この朝を迎
えることを知っていたみたいに、私のしたくは整ってい
る。これからは不要になるいくつかの重要なルールを、
明日出す粗大ごみの隙間に詰めこむ。あなたたちの身体
にできるだけ触らないこと、あなたたちを私たちにしな
いことが、間違えないためにとても重要だった。あなた
たちだっていつも、私に触るかわりにしりとりを始めた
のだ。
天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、
朝が来る。
照明論
暗がりはあんなに居心地よかったのに、明かりなんか全然ほしくなかったのに、私たちは驚くほど明かりを必要としているのだった。あなたは点光源をよく食べ、私は太陽光と寝ていた。私たちがそれぞれの光源を必死で忘れようとしていたとき、軽薄な音を立てて照明が点いた。私たちはかなしい握手を握手した。互いの目を見てにっこり笑った。
表へ出ると太陽光が嬉しそうに追いかけてきて、どこにいたのよ寂しかったじゃないのと言いながら私の頭をごしごし撫で、白茶けた道を図書館へ歩く私の隣でいつまでも喋った。ぺんぺん草を握りしめた子どもと、涙の跡をスウェッ トに滲ませた子どもとが、じゃれあいながら太陽光と私の間に割りこんできて、またどこかへ駆けていった。大人びた顔だちの、もの静かな子どもたちだった。彼らは今日それから明日、どんな光源を糧にするのだろう。私が黙って返事をしないことに太陽光は腹を立ててずかずかと雲のなかへ戻り、すると道はいつそう白くなって、空からはぽつりぽつりと黒い雨が降り始めた。障子紙のように光を透かす薄曇りの空の下、黒い雨は平和な音をたてて降った。意外だったが、快かった。黒い滲みが私の周りに点々と広がり、進行方向に向かってくっきり定着した一連の滲みが「あわゆきの わかやるむねを」と読み取れた。てっきり図書館へ向かっていると思っていたのに、私はいつのまにか開いた本の上を歩いているのだった。行末まで来ると、黒い雨に濡れそぼった窮屈な靴の足跡でルビを振りながら行間の白い側溝を遡り、次の行へ進んだ。人影はなく、男性用の香水の染みこんだ車の臭いの不安がときおり鼻腔を掠めたけれど、足元の文字を声に出して読みながら歩くと勇気が湧いてきた。遥か東に白い巨大な団地が見えた。それはまだ開かれていない無数の本の棟だった。太陽が沈むのと同時に雨が激しさを増し、地面が黒塗りの書面になっても、団地はいつまでも白く発光し続け、私は光を頼りに歩き続けた。
2. 桝田倫広 鈴木俊晴監修 『ゲルハルト・リヒター』 青幻舎
たとえばヨーロッパの古代あるいは中世における聖画像論争は、意外にも、リヒター作品の「もの」と「イメージ」を考えるにあたって重要な参照項となるだろう。そこではものとしての偶像がはたして礼拝の対象となるのは許されるのか、そしてまた単なるものではなくなったイメージがむしろ聖なる像として現れうるとしたらそれはどのようにしてなのかが繰り返し議論されてきた。ただのものにすぎない絵具が、ただの木が、ただの石が、像となり、信仰の対象となったり、あるいはかえってそのために憎悪の、破壊の対象となることの不思議。現代美術についての議論に中世の聖画像論争をもち出すのはアナクロニズム だと思われるかもしれない。しかし、リヒターはかつて写真を「真実」と、絵画を「真実ではない」「人工的」で「信用されない」ものだとしたが、その両者を掛け合わせた〈フォト・ペインティング〉は、 中世の神学者トマス・アクィナスが「イメージに対しては、それが何らかのもの(たとえば彫刻された、あるいは彩色された木)である限りにおいて、いかなる崇敬も示されない。というのは崇敬は合理的な存在だけになされるべきだからである。したがって、以下のようなことが残る。それが(何らかのものの)イメー ジである限りにおいてのみ、イメージに対して崇敬が示される」と記したような、中世ヨーロッパにおいて議論されていたものとイメージの問題系――そのイメージは「信頼できる、全般的な」真正なイメージなのか、それとも私たちを惑わすだけのただのものなのか――をそのまま引き継いでいるとも考えられるだろう。 23
「教会はもはや超越的な宗教をガラスと組み合わされ、とりわけパブリック・アートの領域においてリアルに感じさせる――体験を提供する手段としては不十分である。したがって、宗教を提供する唯一の手段として芸術がかたちづくられてきたのだ。つまりそれ自体が宗教なのである。」 116
R: はっきりと説明することはできそうもありません。というのは、非再現的な絵画を描こうとする試みは、いつだってそうですが、とても魅力的なことでもあります。やろうと思えば危険なほど早く結果が得られるでしょう。本質的でもっとも難しいのは、しかし、それがものをつくり出すことです。
S: よいものであるというのはどういうことなのでしょうか?
R: 私がたとえることができるのは音楽にだけです。音楽とは音を生み出すことですが、そこで音がうまく組み合わされていると、響きがよく、あるいは正しく聴こえ、そしてまた理解可能なものになって、何かを伝えることができるのです。それは言葉によるコミュニケーションではない、違うやり方でしか理解できないものなのです。
S: 実際、これらの抽象絵画はとても物語的です。つまり、視線がそれらの画面をなぞるように動いているとき、そこでは抽象的な物語が正しく生起しているのです。それは私の目にはジャクソン・ポロックの「オールオーヴァーな」ものとは異なって見えます。ポロックの絵画では絵具の飛沫や滴りが往々にして均質的で反復するようなやり方で絵画表面に現れています。
R: しかしその技法でさえ何かを物語っているのです。彼の絵画を壁に垂直にかければ、それはまさしく滴りによって立ち上がってくる、あるひとつの世界を示しているのです。 221-222
S:《4900の色彩》は、こうしたカテゴリーにそぐわないですね。
R: その通りです。それとは別のケースなんです。私が最初に描いたカラーチャートは、画材屋で売っている色見本のカードに触発されたものです。構成的なカラーフィールド・ペインティングの神聖なる色の調和をぬけぬけと無視していました。あとになって、それぞれの色がほかの色とマッチして、それ自体のうちに何かを生み出すことに気がつきました。つまり、ヨーゼフ・アルバースをはじめとするほかの画家たちとは正反対なのです。 224
R: しかしまた、それが絵(イメージ)をつくり出すのすよ。眼差しを投げかけるたびに、現実なのかみせかけなのかを識別し、そこに意味を与えていくほかないのです。興味深い光景を生み出すためには、正しい公式を練り上げねばなりません。そうでなければ、どんなゴミの山も見る価値があるということになるでしょう。
S: 組み合わせのルールを公式化すれば、たちまち主観的な要素が入ってきますね。芸術はその主観性なしには成り立ちません。
R: しかしその主観性は、客観的な質的基準をも満たさなければなりません。そうでなければ、どんな主観的な意見も、芸術と関係があることになってしまいます。
S: バランスをとることでしょうね。主観がなければ芸術は成立しませんから。全くもって繊細な問題です。いかにして芸術家が自らの主観を、意志に基づくものから、ほかの人の関心を引くような主観へと拡張できるか、というのは。 225
S: ライマンの絵画には比喩がありません。こんにちのアメリカで生み出されているほとんどの作品と同じように完全に自己充足しています。一方、ヨーロッパの絵画は、ルーチョ・フォンタナやあなたの作品であろうと、つねに何かほかのものを象徴し、特定の考えを暗示します。
R: そのようにとらえれば、1970年にパレルモと一緒に初めてニューヨークへ旅行し、そこでわれわれがヨーロッパの人間であることを思い知らされたときのことを思い出します。誇りに思ったものです。ヨーロッパの複雑さと憂愁、そして宗教、信仰、懐疑、良心、願望に関するすべてのことをずっと好ましく感じたからです。
S: 鹿が描かれた初期の絵画はすでにその不可解さを表現していますが、その後、不可知論を主張するさまざまな方法を考え出しましたね。
R: まあ、そうですね。 225
R: 拠って立つところとは?
S: ある特定の見解や意図のことです。それは内容的にも形式的にも現れてくるもので、また絵画を下支えしているものです。鑑賞者の心を動かし、一貫して鑑賞者の視線を惹きつけるあなたの絵画の要点は、魅力的な表面の背後に意図を欠いていることです。何かに言及しているにもかかわらず、直接的なメッセージはひとつも把握させません。まるで色のついた表面が剥がれたシールのようです。同時に、魅力的で、外見的な美しさもありますが、それは空虚な、単なる装飾というわけではありません。鑑賞者にとってそれ自体の存在感を保持しています。森のなかの鹿には拠って立つところがないのです、
R: 鹿はクリシェと戯れているだけですよ。 225
S: そうした物語性のあるガラス絵のあとに、また絵画を描き始めたのですね。《ビルケナウ》(op. 147~150)はその新しい段階の始まりでした。その厳格さと歴史的内容において、この連作は陽気なく〈フロウ〉シリーズとは全く異なるものですね。
R: この作品は、私が最終的に片づけなければならない負い目でした。厳粛さへの憧れに由来してもいます。それに取り組んでいるとき、よい気分でした。本当の仕事を果たしているかのようだったのです。そのあとに描いた小さな抽象絵画は、ある種のリハビリのようなもので、老境の楽しみみたいなものでした。もうこれ以上何も示さなくてもよい。少し自由に振る舞ってもよいと思えるようになりました。分別を失うということではありませんが、決意や目的に駆られることもありません......最初期の抽象絵画は正確に計画されたものでした。けれどもいまは、ただ制作行為を享受することができます。 こうした絵画に典型的なことですが、いつものごとく、始めるのは非常に簡単なのですが、完成に近づくにつれて本当に難しくなるのです。 227
翻訳:鈴木俊晴+ 桝田倫広
「futility」とはメランコリー、つまり絶望とか喪失とつながり合うもので、誰しもが受け入れるべきものです。私たちはみなこれを抱きつつ生きています。そしてだからこそ、真摯に、できるだけ 美しく提示されるべきものなのです。 230
リヒターはガラスを「真摯に、できるだけ美しく提示」することで、その無用を肯定するとともに、そこに映し出されるのが、人類史上でも自然界においても、進化や発展のかたわらで予測のつかない不条理が繰り返され、むなしさがつきまとう世界であることを伝えている。
こうしてガラスは、抽出された外界をイメージとして成立させるための支持体となる。絵画にとってのキャンバスや写真にとっての印画紙と同じく、あらゆるものを受け入れて映し出す。しかしながら、ガラスの上のイメージは、絵画や写真のように作り手を必要とせず、何かを表そうなどという意志や意図に拠らず、誰かに見られることすら望んでいない。ひとつの相に固定されることもない。全てに無関心で何ものにもおもねらないからこそ、それは純粋な写し絵として、永遠に「今」を映し続ける現象として存在する。
真像とそれを左右反転させた鏡像という関係性にくわえて、現実の世界とガラスに映るイメージの間にはもうひとつ決定的な違いがある。現実の世界は直接私たちに語りかけ、私たちはその言葉に耳を傾け、そこに介入することができる。だが、ガラスに映るイメージは、語る言葉をいっさい持たない。私たちの語りかけに応じることもない。その代わりに、世界の全ての言葉を呑み込んだような、圧倒的な沈黙の力をそなえている。限定された時間のなかにある言葉とは異なり、時間を超えて永遠性を獲得した沈黙の力によって、映し出されたイメージはよりいっそう高く、遠いところへと運ばれていくだろう。現実世界の向こう側に存在しながら、むなしさと美しさ、静謐と永遠を湛える場所を、ガラスは差し出している。 231
端的に言えばそれは、フロイトの言う「事後性(Nachträglichkeit)」のもとにあるイ メージなのである。表皮形成の反復強迫はこの事後性の効果にほかならない。
ディディ=ユベルマンが表皮についてとくに言及する背景には、彼自身のビルケナウ訪問記『樹皮』(2011年)との関係がある。同書はディディ=ユベルマンが現地で撮影した写真とエッセイからなり、その冒頭の写真図版は3枚の白樺の樹皮である。彼はそれらを自分の手で収容所跡地の樹木から剥いだという。ビルケナウ(Birkenau)というドイツ語の地名は「白樺(Birken)」の「野(Aue)」を意味する。収容所の敷地の外れ、ナチが証拠隠滅のために爆破した状態のまま残されているクレマトリウム(ガス室から死体焼却炉までを一体化した複合施設)の附近には白樺の林がある。ディディ=ユベルマンが剥いだ樹皮とはこの林のいずれかの白樺のものだろう。
ディディ=ユベルマンは、Birken-auのauにはドイツ語の苦痛・嘆きの叫び声 Au!を聴き取ることがで きると言う。Birken, au! (白樺、おお!) ――それは白樺の傷みの叫び声である。その叫び声をこの地名に聴き取ったとき、ディディ=ユベルマンが連想したのは、かつてこの場所で隠し撮りされた――それを彼は「もぎ取られた」と表現する――地獄の光景の写真だったに違いない。『樹皮』のなかで、あの4枚の写真は3枚の樹皮とモンタージュされる。『イメージ、それでもなお』が主題とする「イメージ」 とは、ビルケナウという名に埋め込まれた白樺から苦痛とともに剥ぎ取られた「樹皮」にほかならない。
絵画作品全体を覆う白から灰色、黒に至る————白樺を思わせる――絵具の層を削いだ傷痕であるかのような、赤と緑のコントラストが強烈なリヒターの《ビルケナウ》もまた、もぎ取られ、剥ぎ取られた状態で重なり合う、無数の「樹皮」から成っている、ととらえるべきかもしれない。リヒターもまたそ こに、傷みの声 Au! を聴き取っているのかもしれない。そして、その小さな、しかし、終わることのない叫びの主こそは、そこに埋葬されている「それ」(エス)なのである。 239
しかし、題は抽象度を減らして、むしろ具体的にするのでは?というインタビュアーの疑問に対して、「ええ具体的にね、でもそれは具象的という意味ではありません。つまり、インストゥルメンタルな曲にドアの閉まる音や子どもの泣き声が聴こえるわけではない。それは描写とは異なるものです。そういう情景を情景を思い出すことがありえるとしても、重要なのは別の作用です。私たちが感動するのは、音楽が自然主義的に情景描写をするからではなく、それが音楽であるからで、音楽はその固有のやり方で私たちを感動させたり慰めたりするのです」。
以上はすべてリヒター本人と音楽の関係であり、作品自体の本質に関わるものではない。リヒター芸術の本質は、彼の言葉では「シャイン(Schein)」と呼ばれる(ドイツ語で「仮象」「光」)。「シャイン(Schein)は私の一生のテーマだ。絵画はほかのどの芸術にも勝ってひたすらシャインに携わっている」。 リヒターの言うシャインとは、眼に見える像が、それ自体は非物質的で不可視の面(スクリーン、水面、鏡面、レイヤー)の上に載っているという性質のことである。「アブストラクト」とは、このシャインが、 具象に頼ることなく出現している状態を意味する。そのためには、そこに「面」があることを知覚させればよい。具体的には、質感の異なる二つの面(写真や具象画+油絵具、滑らかな平面+激しいストローク ...等々)をぶつけ合わせ、両者の落差からレイヤーを出現させるのである。 241
拙稿「仮題《ゲルハルト・リヒター展》 東京国立近代美術館, 豊田市美術館」
URL近日追記
3. E. パノフスキー 『ゴシック建築とスコラ学』 前川道郎訳 筑摩書房
このような「感情移入による崇敬のための像」〈祈念像〉という言葉はこのように言いかえてもよかろう――はそれなりに、先に述べた肖像画や風景画や室内画 と同じほど「自然主義的」、ときにはぞっとするほど自然主義的である。そして、肖像画や風景画や室内画が神の創造の無限の多様性と無限定性を観者に気づかせることによ って無限感をひき起こすのに対し、〈祈念像〉は創造主おん自らの限りなさの中に観者が自分の存在を沈めるのを許すことによって無限感をひき起こすのである。いま一度、唯名論と神秘主義が〈触れ合う両極端〉(les extrèmes qui se touchent)であることが分かる。 21
すなわち、もし信仰が、それ自体の限界の内においては完全であり 自己完結してはいるがみずからを啓示の領域から離しているような一つの思想体系を通して「顕わにされ」なければならないのならば、その思想体系の完全性、自己完結性、限界性を「顕わにする」ことが必要になった。そして、ちょうど推論というものが信仰の本性そのものを読者の知力に明らかにすると思われたのと同様に、推論の過程そのものを読者の想像力に明らかにするであろうような文字による表現の図式によってのみ、 このことはなされえたのである。そこから、スコラ学の著作の非常に嘲笑の的になった図式主義あるいは形式主義が生じたのであり、それは次の三つの要件をそなえた古典的〈大全〉においてその頂点に達した。すなわち、(1)全体性(十分な列挙)、(二)相同な部分と部分の部分との、一つの体系に従った配列(十分な分節化)、(三)明確性と演繹的説得性(十分な相関性)であり、これらすべてはトマス・アクイナスのシミリトゥディネス〉(類似)に対する文字による等価物である示唆的用語と〈諸部分の平行性>(parallelismus membrorum)と押韻とによって強められる。 48
以下訳者付論「ゴシック建築論の森の中へ」より。
を「透過現前的」と訳して、ヤンツェンが視覚的現象に限定していたこの概念にいっそう深い精神的意味を認めて、ゴシックのダイアファナスな建築は「天上の見えざるものが建物を透過して見えるものとして現前する建築である」という (大橋良介『時はいつ美となるか』中央公論社、一九八四)。 191
はたして教会堂を再現芸術と解釈してよいのか。ゼードルマイヤーに批判的なフォン・ジムソンに私はくみしたい。フォン・ジムソンもまたゴシック教会堂の源泉が天上のイメージにあることを否定はしない。しかしながらイメージを表現する方法あるいはシステムに関する解釈において、ゼードルマイヤーと対立する。ジムソンは、地上の大聖堂と天上の原形をつなぐ類比性のきずなは、決して形態的な相似性ではなく、〈数〉 と〈光〉とが天上のイェルサレムと地上の聖堂を構築するこの神の幾何学と神の光との 同一性において、つまり、天上における構造――それは眼には見えない建造物である――を地上において反映した構造――もちろん力学的意味における建築構造ではない――として、ゴシック大聖堂を、神の国のシンボルであると力説する。 193
フランクルは「芸術とはその形式が意味のシンボルとなるような、形式と意味の特殊な内的関係である」として、畏怖すべき神の概念を象徴するロマネスク様式と対比しながら、ゴシック様式においてはキリストがみずからの苦しみにおいて人間に近づき、そこで、ゴシックは人間と神の間の境界の消滅を象徴するがゆえに、ゴシック様式は芸術である、と言う。ゴシックの形式がゴシック時代に正当であった神の概念を象徴するがゆえに、ゴシック教会堂は芸術である、と言う。 203
形式がシンボルであるとすれば、シンボルが意味のシステムである限り、形式はそれ自身意味であるはずだ。ゴシック教会堂にはそれみずからの形式即意味があり、キリスト教にはそれみずからの意味がある。この二つの意味がお互いに緊密にかかわりながら、ゴシック建築は生成・展開したのではなかろうか。先に仮定した「ゴシック建築の意味はスコラ学の意味と(何らか) 平行している」というテーゼは「ゴシック建築の形式は当時のキリスト教の意味を反映しながら形成されたそれみずからの意味のシステムである」と修正されようか。ゴシック建築とは、建築という形式のもつ意味と当時のキリスト教のもつ意味との交錯によって構成されたひとつの偉大な体系であるといえるかもしれない。そして、私がみずからのゴシック空間論において試みたのは、象徴的空間という形式シンボルの意味の解明であった(『ゴシックと建築空間』)。 204
4. 林寿美 『ゲルハルト・リヒター 絵画の未来へ』 水声社
川村記念美術館の2001年《ゲルハルト・リヒター ATLAS》展、2005年《ゲルハルト・リヒター 絵画の彼方へ》展ほかを担当した元学芸員が今年の近美&豊田市美個展に併せ著した一冊で、リヒターの“画業”がこのうえなく端的にバランスよく俯瞰されている。また『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』からリヒター本人の言葉を頻繁に引用しており、分厚い同書のガイド本としても効く。
拙稿「仮題《ゲルハルト・リヒター展》 東京国立近代美術館, 豊田市美術館」
URL近日追記
5. 『美術手帖 特集 ゲルハルト・リヒター』 2022年7月号 美術出版社
西野路代の冒頭エッセイの他は論考の深度的に小品揃いで、ヴィジュアル面以外はユリイカのリヒター特集にも劣る。美術ジャンルの同時期同特集でユリイカがBTに勝るとか、かつてならあり得なかった。残念ね。特集の表題が「ビルケナウという到達点」で、自身がキリスト新聞紙面記事題とした「現代芸術の到達点」が無意識に影響を受けた可能性に、出稿後ひと月経った今さら気づくなど。
特集以外では、ロバート・スミッソンによるフレデリック・ロー・オルステッド論考翻訳が読ませる。80年代前後の、こうした論考が多数併載される美術手帖黄金期をあとから知った人間としては、現在の極めて中途半端なオシャレヴィジュアル誌化した惨状は寂しいばかりぬ。
6. エーリッヒ・フロム 『愛するということ』 鈴木晶訳 紀伊國屋書店
人間がそれぞれ孤立した存在であることは知りながら、いまだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれる。同時に、罪と不安もここから生まれる。 23
Twitterで相互フォローのいつも快活な女性が始めたスペースをながら作業で聞きだしたら、27歳女子の恋愛相談モードを27歳男2名+33歳女2名が受ける展開となり、部屋の掃除やW杯観戦そっちのけでわりと聞き入ってしまった。少なくとも自分の27歳時には、自らの恋愛模様を客体化して語る動機がまずなかったし、その能力もなかったよなと思う。それで27歳女子の悩みへ応えるため27歳男子が持ち出したのが本著で、すげーなと深夜に部屋で一人笑ってしまった。自分の場合フロムの本を初めに読んだのは恐らく20歳前後だろうけど、他人の恋愛相談へ応用しようなんて思いつきもしなかったろう。要は自分に比べ、試行錯誤をやめない彼らのほうが圧倒的にコミュ強&恋愛強者なのは間違いないなと思う次第。
本著が再読になるのか否かは正直わからないのだけれど、とりま初読の心地で近年出た新訳へ目を通す。ああこれは、と思う。仮に大昔に読んでいたとしても、当時は全体の構造がまったく掴めず読んでいたろうなと。というのも本著は前半で卑俗な愛=性愛と神(へ)の愛という2つの方向性を示し、後半でその接合を図るもので、ユダヤ/キリスト教的バックグラウンドへの理解なしに読むんでも恋人なり夫婦なりをめぐる具体言及を逐次消化するのみに留まり、エックハルトやヴェーバーの援用にも文字面以上の意味を感覚することはなかったろう。
それとは別に、幾度も登場する聖書からの引用の最初で、〔旧約聖書「創世記」三・七〕と表記があることから、すっかりキリスト教文脈で読んでしまったけど、あれたくさん引用してるのに全部旧約だねってところから、てかフロムってそもユダヤ人では、と思い出した。この表記はなんだろね、訳者の介入だとしたら恣意的すぎる気はちょっとする。ヨナ書引用の比重がむやみに大きかったり、カトリックやルターへの個別言及は東洋思想やリグ・ヴェーダなどと並列的とも読めるあたり、さほどキリスト教文脈は意識してない可能性。
ここから、思考のなかに答えを求めることを究極の目的としてはならない、という結論が導かれる。思考はたんに、思考によっては究極の答えを知ることはできない、ということを人に教えるだけだ。()結局のところ、世界を知るただひとつの方法は、思考ではなく、行為、すなわち一体感の経験である。したがって逆説論理学はこのような結論に達する ――神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。
それゆえ、正しい生き方が重んじられる。些細なことも重要なことも含め、生活のすべては、神を知るために捧げられる。ただし、正しい思考によってではなく、正しい行いによって知る。東洋の宗教には、このことがはっきりあらわれている。バラモン教で も仏教でも道教でも、宗教の究極的目的は、正しい信仰ではなく、正しい行いである。()ユダヤ教は、正しい生き方、すなわちハラカーを強調した(実際、ハラカーという言葉は「道」と同じ意味だ)。 119
どだい地上の人間に望める最上は希求であり、所有ではないんだよね。ただ希求して生きていればいい。より素朴に、より率直に。
7. 村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』 新潮社 [再読]
8. 村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』 新潮社 [再読]
9. 村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』 新潮社 [再読]
あれ、第3部ってこんなに長かったのか。というところから意外に感じるほど、覚えていないことはけっこうあるものだなという。記憶の中ではノモンハンの印象ばかりが比重を増していたことも把握。体感の衝撃がボリュームへ化けたのね。
地方のかつら工場で住み込みの工員として働く笠原メイとか、不思議な展開だよなと思っていたけど、wikipediaで安西水丸と訪れた新潟のかつら工場に取材とあり、なるほどと。
10. 薮内正幸/画 今泉忠明/監修 『世界一の動物画家が描いた家ネコと野生ネコの図鑑』 宝島社
生物学種としてのイエネコではなく家ネコ、とすることで、ライオンからサーバル、ヤマネコまでを野生ネコに収める図鑑。その構成自体は好趣ながら、記述内で際限なく「薮内の絵はよく描けている」「薮内の絵の通り」と1ページ内でさえ薮内薮内と繰り返され耐え難い。本一冊は総体として一つのまとまりある表現で、ネコの絵はすべて薮内が担当しているのだから、逐一の言及は不要かつ無意味かつムダで醜く真に不愉快。
共著本で編集者が無能か立場が弱いと、こういう無惨な関係者内忖度/権力関係が露出しちゃうあるある。絵は良いのに薮内勿体ない。
▽コミック・絵本
α. 松本大洋 『ルーブルの猫』 上 小学館
すげーいい。屋根裏へ住まう猫たちの擬人化された時空。観光客の有象無象と、輪郭伐りたつ美術館職員たち。若い頃からルーブルを熟知する老人の姉が絵の中へ消えた話。
絵の中にべつの空間が開いているこの世界では、ルーブルは多世界の結節点となる。その異次元性と半径5メートルの日常性。
(とはいえとはいえ、自作のフランスでのアート的受容へやや媚びてる感も薄っすらある。全然悪くない、てか異国舞台物もっと期待。松本大洋の中央アジア中東アフリカ南米時空よみたすぎ)
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β. 幸村誠 『ヴィンランド・サガ』 17-23 講談社
デーン人同士の川岸砦攻防戦おもしろす。この戦闘描写の深さ迫真性は、他の欧州史再現物には珍しい水準達成してるよね。戦国&中華物なら色々あるこの差も不思議ですけれど。それはそうと主人公トルフィンのキャラ造形、微妙にブレてる気がしないでもない。トルケル他よりずっと実存的なだけかもだけど。
22巻。トルケルかわいいトルケル。でも肉体的に無敵すぎて、絶対に戦争で死ねなそう。ヴァルハラで大暴れしてほしいけど
γ. 鶴田謙二 『モモ艦長の秘密基地』 1 白泉社
コストカットの波に襲われ乗員1名で運用される、長距離宇宙輸送船艦長モモの七転八倒日乗。なぜ片道500日1名で過ごすなんて設定なのかといえば、裸だからだ。2名だったりしたらちょっといろいろ余計なことになってしまい、鶴田謙二テイストからは遠のく。ぎりぎり猫がいて、通信機器越しの連絡員がいる。いいね。っていう。
とはいえあれだな。『冒険エレキテ島』とかに比べると、本当に一人きりで他者介入の気配がなさすぎるのがやや単調かもしれない。じゅうぶんに良いのでよいのですけど。あくまで相対的な話として。
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δ. ゆうきまさみ 『でぃす×こみ』 3 小学館
2巻までに比べると、新鮮味皆無の展開。短篇BLもその系の趣味がない自分には最早飽和状態で美中年とか言われてもあまり心躍らない。このままだと才能「ゆうきまさみ」の無駄遣い感パないけど、後続巻でどう切り返してくるのか楽しみではある。
にしても短篇ごと他の漫画家へ色を塗らせるのは好企画よな。五十嵐大介の着彩はやはり五十嵐大介になるのだなと。
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ε. 真鍋昌平 『九条の大罪』 1 小学館
アウトロー弁護士の日本底辺日常。要取材の具体内容具わる物語へ傾いた『闇金ウシジマくん』という印象。まだ入り口で、どうなるか期待させる。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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