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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2023年
08月26日
11:31

よみめも83 水影の向こう側

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 江國香織 『パンプルムース!』 いわさきちひろ 絵 講談社

おさけのみになるほうほう

すてきなよっぱらいをみること
ゆかいはすてきとしること
からだをおんがくでみたすこと
せかいはすてきとしること

40  


ようじ

たぶんそれはよるです
いきなり だれかが むかえにきて
あなたにようじがあるといったら
それがきつねでも ねこでも
あなたにようじがあるというなら
ついていくしかありません
ふねか でんしゃか
ともかくそこにあるはずのないのりものが
よういされているはずです
はだしで
なにももたず
だれにもおわかれをいわず
ついていくしかありません
あなたにようじがあるというなら

ようじとは
そういうものです

58


えいがかん

えいがかんはわくわく
じゅうたんの あまく おもい におい
ポップコーンは ざくざく
ゆびについた しおもなめよ
くらくなると ぞくぞく
えいしゃきの じーっという おと
さあ あたらしい せかいの まえ


おとな

あさごはんっていうものは
みているだけのほうがきれいね
いろとりどりのくだものや
あまいにおいのやきたてのワッフル
みつとバター
はじのこげためだまやき
でもたべるとげえっとなっちゃうの
これからうみにはいるっていうあさに
からだにたべものをいれようとするなんて
おとなってほんとにわからない

23


いつかあなたはおもいだすでしょう

いつかあなたはおもいだすでしょう
とおいむかし
たしかにこのばしょにきたことがあると
うすやみも
カラスも
ちっともこわくなかったと
なんのためにここにきたの
どうやってきたのか
は おもいだせないかもしれません
でも
たしかにここにきたことがあって
なにひとつこわくなかった と
それだけはきっと
おもいだすでしょう

66





2. 山本浩貴 『言語表現を酷使する(ための)レイアウト――或るワークショップの記録 第0部 生にとって言語表現とはなにか』 いぬのせなか座

 ことばにより、世界は初めて確定される。
 縁取られ、言分けされる瞬間ごと、そして世界がズレ始める。

 山本浩貴(いぬのせなか座) 『言語表現を酷使する(ための)レイアウト 第0部 生にとって言語表現とはなにか』は、生きることと書くことを恐ろしく生真面目に、かつ先鋭的に繋げ直す試みだ。高度情報化の極たるネットが先導する視聴覚優位の環境下で、圧倒的に遅くコストのかかる言語表現に残された生き場の端緒を日本の純文学潮流に見いだそう、そして詩歌や演劇へ画域を拡げようという意欲がまず面白い。《「猫」を比喩として使わない》《猫を猫として書く》保坂和志以降の文芸潮流、言い換えるならそれは反メタファー、反村上春樹つまり反主流から次代を見通す試みでもある。柴崎友香、山下澄人らを挙げるこの潮流の尖端で山本が描く、「一文一文は、あくまでそれぞれにそれそのものとして《真に受け》られ、それぞれに肉体を十全に触発せねばならない」(p.8)とする立脚点は純粋で、原始的で、理想主義的だからこそ信頼に値する。そう感じられるのは、たとえば本書で名が挙げられる樫村晴香や酒井隆史、表現行為を肉体生理の水準まで引き戻して再考する平倉圭からさえ否応なしに看取される高踏的な身振りとも真逆の、極めて論理立っていながらも泥臭い、けっして要領が良いとは言えない筆致の遅さに恐らく由来する。

 私の思い出せる十五年前の私の通学路の風景を、あなたがどうやってもうまく思い出せないこと。浅瀬のうにの群れと赤く小さい魚の群れが、お互い触れ合わぬまま共に海水のなかで生きていること。右腕を上げながら、二十年前に握ったカミキリムシの足が皮膚と擦れるこそばさを思い出しつつ、 横断歩道の向こう側にいる犬に呼びかけること。同じ私が、異なる場で異なるものを見つめ、異なる考えを抱きながら、或るプロセスを共有し生きていたこと。 30

 「共通の友人の死」が彼ら“いぬのせなか座”を結びつけ、本書に固有の思考/運動へと駆り立てる様に幾度か言及されることも印象深い。記述の端々へ不意に死者の目線が顔を覗かせ、唐突に生者のそれと並置される。そこには服喪や追悼へと向かう姿勢よりずっと以前のなにかがある。「友人の死」に仮託された別のなにかがそこには潜んでいて、その気配に薄々気づいている。死は誰のものか、どう扱い得るかというのは切りのない話だけれど、そういう風に第1部以降が展開したらいい。わたしはなぜいまここにいて、あなたはここにいないのか。そのように問うことが本書の思考を押し立てる推進力はなんら明晰でも論理的でもなくて、しかし固有だ。そこから踏みだされる一歩は質実で、汲みだされることばは着実だ。言語表現を酷使する。死も生も、ただのことばだ。このための。 




3. 丸谷才一 『樹影譚』 特装版 中央公論新社

 一泊して帰る午後、商社の社員は素人用のカメラで夫婦を何枚か撮る。カメラマンの妻が男二人をこれも何枚か撮る。カメラマンは彼と自分の妻とを並ばせて、一枚だけ撮ってやると 言った。もちろん素人用のカメラで。まったくの座興。カメラマンがオランダへ出発した 翌々日、二人は都心のホテルの一室にゐる。やがて商社員は、さつきDPE屋から受取つたばかりでまだ見てゐない写真を袋から出す。浅間山。研修会とその打上げパーティの他愛もないスナップ。カラオケで歌ふ社長。浅間山。夫婦の写真はきれいに撮れてゐる。男二人の写真も愉快さうに笑って。しかしカメラマンの妻と商社員の写真はなくて、その代り、壁に映った樹の影だけのものが一枚ある。カメラマンのすぐ後ろに高く立つてゐた白樺の樹の影だ。まるでしみのやうな、煙のやうな影。どうしてこんなことが生じたのか。本職のカメラマンがこんな失敗をするだらうか。樹の影のメッセージは何を告げようとしてゐるのか。ベッドのなかの二人は顔を見合せて……気休めを言ふ。
 古屋はまづ、人間が樹の影になるといふ神話的なイメージを得て、それを、人間を写したはずなのに樹の影しか撮れてゐない写真へと、いはば翻訳し、そこからだしぬけに姦通が出て来たせいで、この三人の作中人物が生れたのだった。かういふ想像力の動き方はたびたび経験してゐることで、別に怪しむに足りない。それなのに、影しか写つてゐない写真にこだはつたのは、ここを探ればまだ何かが出て来さうな予感がしたからだ。老作家は、三人の作中人物といっしょに生きて彼らの人生を長篇小説の本筋とからめながら、他方、自分と樹の影との関係を探らうと努め、さうしてゐるうちに、ふと、雑誌から切抜いた写真を思ひ出したのである。
 しかしそれはどうしても見つからない。そして、肉眼では見ることができないといふ条件がかへつて心のなかのイメージを鮮明にしたらしく、幻の林檎(?)の樹の影をしきりになつかしんでゐるうちに、自分はもともと樹の影が好きだったと思ふやうになつた。たとへば十五年ほど前、バンコクで。
 それは新聞社に頼まれてフランスと北欧にゆく仕事で、途中なぜタイに寄ったのかは思ひ出せない。案内役の記者がバンコク支局に用があるので、こちらもまだ見たことのない 国だから同行したのだつたか。 香港から飛んだ最初の夜、支局長の招待で夕食を食べ、それから二次会。ここでかなり酔ったらしい。二階の酒場から降りて蒸し暑い路上に立ち、街燈の光を受けて並木の影が灰いろの塀に映つてゐるのを見てゐるうちに、京都にゐると錯覚した。そして、数年前に親しかった女(まだ四十前のはずだ)に電話をかける気になり、 60-1

 答礼した将校が明りを彼らのほうに向け、遅くまで何をしてゐるのかと訊ねた。これが天皇崇拝に凝り固つてゐる精神家の将校なので、古屋は咄嗟に、この男の加勢で台本批判がいつそう激しくなるのではないかと案じたが、会社員がのんびりした声で、今日の演藝会の反省をやつてゐるのだと答へると、精神家は寸劇の出来ばえを絶識して、思ひ出し笑ひをし、いかがはしい冗談を言ってから、早く寝ろと言ひ残して去った。その後ろ姿は、左右に懐中電燈を向けて、暑苦しくて平穏な闇をもつともらしく検分しながら、ゆっくりと遠ざかつてゆく。そのとき一瞬、棕櫚の樹の影が土藏の白壁に鮮明に映った。村長の家に分宿して以来、古屋はこの埃まみれの棕櫚の樹が嫌ひで、全体のむさくるしい印象、長い柄のついた葉のひろがり方、ぼろのやうにめくれた大きな皮をほとんど憎んでゐた。 誰にも言はなかつたけれど、朝夕これを目に しては厭な樹だなあと思つてゐた。ほかのところで見かける棕櫚にはわりあひ無関心だつ たのに。だが、不思議なことに、このとき見た同じ樹の影にはひどく魅惑されたのである。様子がよくて端正だつた。 64
 
 日が経つにつれて関心の向きが変った。自分の小説のなかで作中人物が樹の影に感銘を受けるとき、声に出してはもちろん心のなかでもかうつぶやきはしないことに興味を感じたのである。この場合、在来さほど気にかけてゐなかつた癖である以上、それを自分が作中人物に賦与しなかつたのは当然、とは考へなかつた。作者と作中人物の関係について、古屋は普通とは違ふ見方をしてゐるので、作中人物はしばしば、作者の意識に支配されず 自在に行動し、語り、思索し、そして彼らの生き方によつて作者の心の奥をあばくといふのが、彼が若年のころに発見し、長い経験ののちいよいよ強固なものになつた小説論なの である。すなはち作中人物の人生は作者の見る夢であつて、夢ではありながら脈絡が必要なのは当然のことだが、それを解読することは読者にゆだねられてゐる。さう考へてゐる古屋は、小説を書きつづける都合からも、自分の過去を意識化したり、それについて図式を作ったりしないやうに努めてゐた。
 作中人物にこの性癖がないといふのは、例の、人妻と関係してゐる商社員もどうやらさうなりさうだが、それだけではない。思ひ当るものはほかに二つあつて、第一は、刑務所から出て来たばかりの、まだ髪も伸びないチンピラである。これは「古事記」専攻の国文学者が主人公である長篇小説『海流瓶』(昭和三十年代の作)の脇役で、国文学者の腹ちがひの末弟。
 この二十代前半の男は、中央線の沿線で母と暮してゐる。 68-9

 

 表題作のほか、短篇「鈍感な青年」と「夢を買います」収録。図書館で出逢った若い男女が、佃島の祭へゆくが本祭は3年に1度で空振る話と、宗教学者に囲われた水商売の女の語る諸々。下記引用は後者末文、抜けのある快い締め。
  

 しばらく御無沙汰だつたので、旅行かしらと思つて、研究室に電話かけたら、大学をやめたつて話なんですもの、びつくりしちゃった。さうしてゐるところへ、ドイツから航空便が舞ひこんだの。急に話が決つてここの大学に二年契約で勤めることになつた、例の教団は変なことゴチャゴチャ言ふので縁を切った、君との楽しかった友情の記念としてこなひだパリで買ったものを送る、なんて書いてあった。読みにくい字で。別れるときお金を下さるなんてこと、頭にないのね。けろりとしてるの。
 ハンドバッグかな? それとも? なんて待つてたのに、なかなか届かなくて、ははあ舟便だな、と思ってたら、やはり倹約して舟便で、開けてみたら、馬鹿にしてるぢやない、大きな写真一枚だった。肩のところにうんと大きな翼がついてる彫刻だから、ルーブルの、何とかの何とかといふ女神ぢやないかしら。はふつて置くのも何だから、額縁屋に行つて、額に入れて、かけてあるの。立派よ。ママがすてきな夢を見たら、あれと交換してもいいんですけど、どう? 146





4. 宮内悠介 『盤上の夜』 創元SF文庫

「このごろ、碁を打ちながら、風の吹き荒ぶ一本の長い尾根を想像するのです。足場にはわずかな幅しかない。左が抽象の谷、右が具象の谷です。そのどちらに落ちてもいけない」
 碁とは抽象そのものではないか。そう思ったが、黙って耳を傾けた。
「すべてはバランスなのです。だからそう――碁とは、抽象が五割の具象が五割です」
 二人はこれから東海岸を回り、さらには南米、ヨーロッパと岩本の足跡を辿るつもりだという。 311
 
 「語彙はすぐに足りなくなりました。同じ五感であっても、視覚や聴覚の幅広さに比べて、触覚をめぐる単語はプリミティブなものが多い。言語をまたいでも、それほど大きな差が得られないのです。まして、彼女が表現しようとしていたのは、囲碁の触覚という、言ってみれば人類未到の領域だった。痛い、痒い、熱い、固い、……彼女が本来触覚を通して感じとりたかったのは、こうした定型句の向こう側にあるものだった。まもなく、由宇は自分自身で言語を考えるようになりました。しかし、それは辛く苦しい作業でした。言語とは、本来は他者と共有するものだからです。ところが、彼女がやろうとしていたことは、本質的に、 誰とも共有できない領域の言語化だった」
 相田はそう言ったが、このような領域に迫ろうとした人間は、過去にもいたことだろう。 たとえば、宗教家と呼ばれる人種がそうだ。しかしそれも、他者とつながった上の話である。
「発狂するまでつづける人間など、稀なのです」
このとき相田が、発狂、という語彙を選んだことは印象的だった。
「急激に、彼女のなかで言語の爆発が起こったのです。まったく唐突に、彼女は喋れなくなってしまった。彼女のキャパシティを、言葉が覆い、 埋め尽くしていった。それ以外に道がなかったからこそ、限界を超えてしまったのです。囲碁もまた、打てなくなりました。感覚の循環に、言葉の牢獄に、彼女は囚われてしまった。それが、言語化できない彼岸と、長きにわたり、たった一人で向かいあった結果だったのです。そうして、由宇はわたしたちの前から姿を消しました」
「……」
「――わたしと灰原八段が、男と女の関係にあったのか、知りたがる人たちがいます」
()
「もっと露骨に言えば、わたしたちの性行為に興味を抱く方々がいます。 しかし、わたした盤
ちは盤に向かいあい、対局したのみです。神経は、盤上で触れあっている。 由宇は、感覚器 と囲碁盤とが直結した人間だった。だからこそ、わたしたちの痛覚が、温度覚が、そこで出会い、からみあい、十の三百六十乗という無限に近い世界へと根を伸ばすのです。それ以上 のものなど、ない。それ以上の触れあいなど、ない。それ以上の愉悦など、ありえない。対局こそが、わたしたちにとっての、性愛だったのです」
そこまで言ってから、 相田は気を取り直すように首を振った。
「いや」と相田は自分自身の言葉を打ち消した。「ことによると、わたしは由宇との関係にこだわるあまり、まったく無関係な観念に囚われているのかもしれません、いや、きっとそうなのでしょう」
終始穏やかだった相田の表情が、波打った。
「しかし――いったい人から観念を取ったら、どれだけが後に残るというのですか!」 38-40

 由宇は、あの半眼で盤面を見下ろしている。
 星。小目。掛かり。高挟み。虚空へと放たれる、棋士たちの一手一手。それらは由宇の身体地図にプロットされ、言葉をなし、めぐり再帰しながら、やがておぼろげに一枚の棋譜をなす。
――氷壁。
 そこにはもう、時も名前もない。 それを呼ぶ他者もいない。意識さえもが薄く、どこまでもぼんやりと霞んでいく。まるで、無響室にいるようだ。自分が棋譜なのか、それとも棋譜 が自分であるのか、……呼吸ばかりが重く、海で遊んだ後の余韻のように、満ちては引いていく。
 そう、由宇は氷壁を登っていたはずだ。 そこで言葉は泡のように生まれては爆ぜ、飛び回っては対消滅し、戯れに主格をなし、いったんは目的格をなし、音声表示をなし、意味表示をなし、そしてまた拡散する直前の一点へ――由宇は透明なハーケンを打ちつけ、架空のホールドを握りしめる。熱く。柔らかく。あるいは冷たく。硬く。
 山頂は遠く、消失点のかなたに隠されている。
 いや、頂上があるかどうかさえわからない。だが、ただ一つわかっていることがある。そこには過去未来、誰一人として、到達することは叶わないのだと。それでも由宇は登攀する。ここにない山の、ここにない氷瀑を。ここにない冬の、ここにない氷柱を。
 アックスが弾き返される。
 風は縦横に吹雪き、ぶつかっては反響し、乱流をなし、やがてピンクノイズとなり耳元へ押し寄せる。その深奥に、由宇は人のざわめきを聞く。最初、何語でもなかったそれはやがて収束し、一つの光景を浮かび上がらせる......どこか郷愁さえ感じさせる、あの中国の碁会所を。煙草の煙。仏頂面で帳簿に目を通す店主。甲高い中国語のイントネーション。挨拶。ボヤキ。愚痴。世間話。昨日女房のやつがさ。引っ越したんだっけ? 五十元? たったの五十元だってのか? それより聞いてくれよ。それ! 勝った、勝ったぞ!――ああ、これは馬の声だ。どうだ、由宇、何か食べたいものはあるか?
 違う。
 幻だ。
 由宇は氷質を見極めて、改めてアックスを打ち下ろす。そのつど音韻が、文法が、語彙が、意味が、生まれぶつかりあい、めまぐるしく移り変わり、音韻変化し、母音変換し、言語病態をなし、そしてまた治癒されていく。まるで、野生の植生のように。
 ――もはやない。
 英語も日本語も、インド・ヨーロッパ語族も、もはやない。セム語族も、ア ウストロネシア語族も、もはやない。おのずと、由宇の口からはつぶやきが漏れ出てくる。破裂音が。摩擦音が。鼻音が。半母音が。それはやがて歌うように上下しては跳ね、クレシェンドし、スタッカートしはじめる。架空の口腔の架空の音声で、由宇は歌いつづける。架空の口腔の架空の音声で、由宇は歌いつづける。
 忘れられた古代の音価群を。あるいは、来ない未来からの歌声を。それは獣の言葉ではな 木ない未来からの歌声を。それは獣の言葉ではない。人の言葉ではない。 蝶の言葉ではない。およそあらゆる動物の言葉とも違う。 天に架け られた垂直の氷瀑のまっただなかで彼女が歌い上げるのは、そう――植物相の語彙なのだ。
 一歩。
 また一歩。
 遠く、麓で明滅する街の灯火は由宇の内奥の神経の発火だ。たえまなく吹きつける吹雪、 意味と統語のスープのなかで。抽象の未踏峰の氷壁を一ミリ、また一ミリと登りながら、由宇は抽象のザイルをたぐる。――その向こうに相田はいたのか。 40-3





5. 千葉雅也 『エレクトリック』  新潮社

 1995年に宇都宮に暮らす高校生の日々。中編前作『オーバーヒート』の、「ツイッター投稿をそのまま載せた態の挿入文による特有のリズムが生む短冊集成のようなガチャガチャした印象」が、同時期同都市で十代後半を過ごした著者の回想色を全面へ重ねることで抑えられた感。この意味で著者の身体記憶が具体性の供給源であるとともに、インスタグラムのフィルター機能のような役割を果たしているのが面白い。

  宇都宮市街&教会散策ツイ: https://twitter.com/pherim/status/1645712701052817409
 
 しばらく前に宇都宮市街中心部を、徒歩や路線バスで細かく移動する機会があったため、東武デパートを西の中核とし「新幹線の発射点」としてのJR宇都宮駅を東縁とする市街描写を興味深く読む。現地在住者にとってはそういう位置づけなのかという逐次言及の深度をそこに感覚したのだけど、このローカル性とは対極のギミックとして、父親がこだわる真空管アンプや妹のポラロイドカメラ、黎明期のインターネット等が登場し、あるいはエヴァンゲリオンやサリン事件などの固有名が振り撒かれる。

 「エレクトリック」は、言うまでもなく電気と勃起の掛詞だが、非ローカル=全国区の読者へ通じる後者のギミックとしての電気electricのほとばしりにより、超個人的な勃起erectの萌芽を少年のうちへ感じさせる構成の技巧性とタイトルの勝利感がいかにも千葉雅也。この対照性を際立たせるため、固有名記述は全国区のものに限定した(たとえばハッテン場関連の固有名記述は登場しない)工夫は、同じ1995年の東京が前半の舞台となる燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』を想起させる。

  『ボクたちはみんな大人になれなかった』: https://twitter.com/pherim/status/1678597771392335872
 
 そして小説としてどちらが広く読まれ、楽しまれるかといえば圧倒的に『ボクたちはみんな~』で、文学性の点で『エレクトリック』が優るという評価は容易に想像されるが、その場合の「文学性」の狭さこそ極私的には興味深い。なぜならその狭さこそ価値だというしかない面白さはたしかにあり、そこは千葉本人こそ明確に自覚しているからだ。

 また、たとえばJR宇都宮駅は、もっぱら東京へと向けた新幹線の発射地点としてのみ描かれる。 「東武デパート前の繁華街を通る道が大通りへ合流する」描写が2度くり返される。本作は総じて「東京以前」の「未遂」の十代を描く作品で、この大通りへ合流する流れのつくる湾曲もまた勃起過程のメタファーになっている。なんなら都市景を後ろ背に屹立する真空管アンプも。
 『デッドライン』に比べると概して技巧が目立ち、トータルの表現性で劣る。




6. 市川沙央 『ハンチバック』初読感想

 コロナ禍以後の今日における「精神の牢獄」としての身体/社会描写と、逼塞し間欠泉のように沸騰する内面記述が凄まじく鮮烈で、「新たな『地下室の手記』が書かれたと言ってしまい衝動に駆りたててくる。」とする阿部和重選評に同意する。
 
 と同時に、飽きる。性産業の現場に疎く、またそこに借材した作品をあまり読んだことがない自分の目には細部描写の逐一が斬新に感じられたし、個別特殊視点を通した鋭い社会風刺や批判は新鮮で読ませるのだが、中盤から後半へかけそうした鮮度はいきおい失われ、徐々に感覚が飽和したあと際立ってくるのは、意外性にも独創性にも欠けた主人公のツッコミ心性が半径2mの人間の弱さを抉る痛々しさばかりである。挙げ句とってつけたような最終章に、純然たる息切れ感を看取して読み終えた。

 この後半の失墜ぶりに、こういうリサーチの羅列を小説に求めてないんだよなという残念感が読後全面化した話題作『82年生まれ、キム・ジヨン』も想起された。(映画版↓はとても良い)

  映画『82年生まれ、キム・ジヨン』 https://twitter.com/pherim/status/1311863463916920832
 



7. 村上春樹 『1Q84』 BOOK1〈4月-6月〉後編 新潮文庫 [再読]

 青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」
 「もしそうだとしたら、人生はけっこう薄暗い」
 「そういうこと」
 「しかし誰かを心から愛することができれば、それがどんなひどい相手であっても、あっちが自分を好きになってくれなかったとしても、少なくとも人生は地獄ではない。たとえいくぶん薄暗かったとしても」
 「でもさ、青豆さん」とあゆみは言った。「私は思うんだけど、この世界ってさ、理屈も通ってないし、親切心もかなり不足している」 344


 前編(よみめも前回)でふかえりと『騎士団長殺し』の秋川まりえについて書いたけれど、性格は異なれど鮮烈な少女キャラは『ねじまき鳥クロニクル』他でもしばしば出てきたことを思いだす。それに比べると、女性の登場人物として本作で注目すべきはむしろ青豆で、村上春樹長編作品の主人公としては天吾よりもスタンダードな「僕」に近いとは前編時に書いたけれど、それを女性でやるというのはない気がする。(短編では『神様の子ども~』であった気もする)
 
 初期の「僕」が、鼠や羊を纏う他の男性登場人物にくらべ明白に著者本人の分身的であったことを考えれば、それを女性でやることそのものが一つの達成であったろうという気もしてくる。そう考えてくると、青豆に比べ天吾は小説家であるにも関わらず、村上本人からけっこう遠く感じられることも興味深い。たすき掛けのような、デタッチメント/コミットメント交錯の試みとか。




8. 村上春樹 『1Q84』 BOOK2〈7月-9月〉前編 新潮文庫 [再読]

 ふかえりは天吾の顔をしばらくしげしげと見た。それから言った。「あなたはこれまでとはちがってみえる」
「どんなところが?」
 ふかえりは唇をいったん妙な角度に曲げて、またもとに戻した。説明できない。
「説明しなくていい」と天吾は言った。説明されないとわからないのであれば、説明されてもわからないのだ。 213





9. 小瀧忍 『三月の水』 自主制作

 金沢、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州の先住民居住区、厚木基地。土地にまつわる3篇の自伝的エッセイ+短歌で構成された文庫サイズ冊子製作企画だけれど、まずこの三箇所の並びが絶妙で、まず“裏”日本の文化都市もつ特有の翳りから北米先住民のやるせない精神史へ、そして国家による暴力専有の象徴たる基地が個人史へ落とす影のなか描かれる父の臨終という、晴れきることなき青灰色の空の下で進行する無数の物語の一断片を淡々と描く筆致に、水色と白のツートンカラーからなる装丁や章ごと配された天気記号のピクトグラムがよく馴染む。

 読み味としては、厚木基地篇が短い中にも肉親の死を扱う重厚さを湛えるのに対し、旧赤線街に居並ぶ日本家屋を撮る写真家の古い写真集へ依拠する金沢篇の時間感覚と、失われゆく独自文化の切なさとクリスマスを祝う素朴さの静かな対照が余韻をひくBC州篇とがやや軽すぎるため、読後感に全体としていびつさ/不整合感が生じているきらいがあって惜しいといえば惜しい。これには3篇個々の圧力を整えるほか、他の章を加えることによる相対感覚の“ならし”なども活きるかもしれない。

 また短歌3首については、各エッセイ末尾から1ページめくって大文字のそれが現れるという趣向に、たった3度のくり返しにも関わらず歌舞伎の見得のような様式美が感得され、このリズムをもう少しながく楽しみたいという欲も生じるゆえの上記よその土地篇追加への期待、が生じたのかもしれず。
 テーマ曲のボサノバ《Águas de Março 三月の水》へたしかに通じる、あとがき含めた心地よい読後感。

 ともあれ初めての製本トライというから、期間1週間にしてこの出力は素晴らしい。
 大手中堅出版が出す近代文学の復刻版っぽいとコメントして小瀧さんご本人からツボとのお応えいただいたけど、具体的にイメージされたものを探すと、小学館P+D Booksという復刻版ブランドでした。


  著者ご本人よりご恵投いただきました、感謝。






10. 児玉雨子 『##NAME##』 河出書房新社

 きちんと精読する時間がとれず。このためも手伝い、なにかに跳ね返されるような感覚が一定に維持されたまま、最後のページまでとりあえずめくり読む。「跳ね返されるような感覚」には、著者固有の筆圧や一貫した作品世界観も含まれるから、「一定に維持され」るように感じたこと自体に書き手の力量を予感はする。しかし自意識と密着したような文体のまま傍観者的な形容記述がつづくことにはどうにもいびつさを覚えたし、##NAME##の登場箇所以外の緩急の無さには冗長さが目立ち要するに間が持たない。途切れない細やかなな流れに力点のある文章でもないから、編集介入ですごく良くなりそう。




▽非通読本

0. 小島信夫 「馬」 
 https://twitter.com/pherim/status/1681968340531810304

 トキ子は夫の知らぬ間に、知らぬ金で家を建て始める。建ちゆく様を通勤の電車から夫は眺め、棟梁と妻の距離を疑い、飼いだした馬と妻の仲を妬み、精神病院に入れられ、家は増築が始まる。

 馬と干草と木造家屋の匂い。トキ子も馬も僕の代わりに生きる僕、と思われゆく日常宇宙。




▽コミック・絵本

α. 森薫 『乙嫁語り』 14 KADOKAWA

 族長アゼルの嫁とり。お嫁さんが最強の馬乗る弓取りっていう最高です。とはいえなんということでしょう、とうとう対ロシア連合が。それも野の部族間でなく、町衆と荒野衆の結束。これはもうやるしかない感でてきたのがほんとに切ない。主人公アミルの婿さまなんてまだ子どもなのにのに。闘いながら強くなるってキャラでもないし、てか刃牙じゃないんだしこれからどうなっちゃうのっていうソワソワ感。いやそれもまた巧さなんでしょうけども。あと5年は続いてほしいのです祈り。
 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 12 小学館

 堀越公方足利氏と古河公方足利氏、扇谷上杉氏と関東管領上杉氏、らの下で異様な存在感をみせる太田道灌(とその弟・資忠)などの関係性がこれほどよくわかる表現物はジャンル問わず他にないのでは。というほど明解に示される。これはあとにつづくのだろう相模→関東進出の流れが楽しみで仕方ない。 
 おまけに一休宗純も背中だけ出演。わいわい。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 南勝久 『ザ・ファブル』 17-8 講談社

 しっかり強いんだけど、その時々の中ボス敵キャラより常にちょっと弱い妹と、圧倒的真打ちキャラの兄貴という黄金設定リフレイン。痛覚がないっていう今敵の設定はけっこう良いよね。まだまだ見せ場つくれそう。
 



δ. 原泰久 『キングダム』 42-4 集英社

 ずっと黒羊丘の戦い。絶対死なない飛信隊副長陣と、あっけなく寡黙なまま逝った慶舎の対照性とか。にしても地勢をゲーム盤使いする開き直り感がすごい。そろそろあれよね。秦から遠いどこかで伸びてくるライヴァル的なサブストーリーが欲しい感じなんだけど、キングダムどうでしょう。


 

ε. 小山宙哉 『宇宙兄弟』 3 講談社 [再読]

 宇宙飛行士選抜の試験過程に入ってテンポ落ちた感。でも発刊の2008年当時はまだ人気獲得途上だろうし、こんなものかもな、とか。冒頭図↑は、同チームの候補生親父のメガネを踏んづけて壊してしまった頑固ボーイが、自分は悪くないと嘯いているあいだメガネを踏んだ足に残っている“いやな感じ”が、きちんと自らの労をとって対処したら消え去ったというエピソード締めの2ページ。
 
 直近でけっこう苦しんだフラッシュバックが、これくらいスパッと消えた経験があるため妙なる感銘を受けてしまった。
 良い漫画なのでは。(いや言うまでもなく。)





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2023年
08月26日
19:17

今はなき赤プリがうつってますね

2023年
08月26日
19:36

なんのことだろうと思ったら、たしかにこの角度だととても似てますね。六本木一丁目のANAコンチネンタルホテルが入るビルでした。

2023年
08月26日
20:30

なるほど。そうでしたか。

2023年
08月26日
20:53

パンプルムース!、持ってます。いいですよね。
これともう一冊すごく好きな詩集に立て続けに出会って、もっとないかなと詩集ばかり当たっていた時期があったんですがさっぱりで、返って詩から遠ざかっちゃいました。
詩を気に入ったからって気に入る詩を探すのはあべこべなのかも、と思ったのを覚えています。

2023年
08月26日
22:46

実はしばらく本が読めなくなっていた(読めても尋常でなく遅くなっていた)のだけど、その論理的に筋だって入ってこない感じに浸されているあいだも、詩集は読めたんですよね。

生理把握のレベルで出自の違うことばなのだなと。パンプルムース!は江國さんの天然性というか天真爛漫さ、の中にしっかり鋭い棘も混じってたりするのが、そのまま出ているような詩集ですね。

もう一冊が何なのか気になります。

2023年
08月27日
19:43

> しばらく本が読めなくなっていた
なんと、いつだったか別のエントリでもそのお話を聞いた気がします。たびたびなっちゃうんですか?(><)

もう一冊は岸田衿子「ソナチネの木」です。平沢進の「現象の花の秘密」という曲にこの詩集とちょっと似てる歌詞が出てきて、世界の見方に言葉をあてる仕方の一類型を見たきがして感動しました。

2023年
08月29日
13:01

あぁ、たぶん別のエントリというのはどちらかといえば年単位の緩いほうについて書いたもので、よみめも中断期がそうでしたね。タイ生活で忙しくて、読みたいのに精神的になかなか向かわない、集中力が整わない、みたいな感じ。

今回のは急性のやばいやつでした。端的に意味がよみとれなくなる感じ。

岸田衿子「ソナチネの木」、とりま図書館予約しました。楽しみです。平沢進のことばがもつ宇宙人的な浮遊感はいいですよね。宇宙レベルの唯一無二おじさま。

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