pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2023年
09月20日
18:44

よみめも84 かいじゅう文学とでんしゃの木

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. 岸田衿子 著 安野光雅 画 『ソナチネの木』 青土社

一ぽんの木は
ねむっているわたし
幹は夜を吸いこんで
梢は夢のかたちにひらく
31

この村では誰も怪しまなかった
じぶんたちが絵の中に
とじこめられているのを
水の光さえうごこうとしないのを
20

島に出あうたびに
わたしはその島に
じぶんを ひとりずつ
おいてきてしまう
8

風をみた人はいなかった
風のとおったあとばかり見えた
風のやさしさも 怒りも
砂だけが教えてくれた

ホルン吹きが
いなくなると
森の木や水たまりに
たくさんの音符の屍体を
みつけるのだった
9-10

草が枯れるのは
大地に別れたのではなく
めぐる季節にやさしかっただけ
つぎの季節とむすばれただけ
25

海をわたるために
姿のよい乗り物をつくる
曲線と直線が 天で結ばれた
うつくしい舟
13

待つことは航海よりもながいもの
てのひらに貝がらの数だけ
昨日を ねむらせて
舟が見えてくるのを待つことは
38

地上でわかれる
わたしたち
アンドロメダほど
遠去かれずに
ドーヴァー海峡で すれちがう
おなじ 夜ふけの霧のなかで

アランブラ宮の壁の
いりくんだつるくさのように
わたしは迷うことが好きだ
出口から入って入り口をさがすことも
47-8

汽車は おとなの中の子供が 発明したのだ
汽笛は もう一人の子供を 呼ぶ音なのだ
45

眠りの姫よ 起きなさい
長ぐつはいた猫よ 長ぐつをぬぎなさい
青ひげよ 青ひげを剃りなさい。

鬼ヶ島に鬼はいなくなって 小麦畑がひろがるばかり
泣いてる兎はいなくなって 波の音がきこえるばかり
火のいろが うつくしくなるころ
陽にやけた どんぐりは いろいろな旅にでかける
こぼれても はじけても
43-4

二人のうち一人が
旅に出てから
一本の木に
水たまりに
木蔭はなくなり
雲はうつらなくなった
50



 そらまめさんよりご推薦の一冊、感謝。
 
 
 

2. W・G・ゼーバルト 『空襲と文学』 白水社

ハンブルクでは二十万人が死んだ、と噂された。レックは書いている。すべてを信じるというわけにはいかない、なぜなら「ハンブルクからの避難民の頭が混乱の極みにあること」や「彼らの記憶の欠落、倒壊する自宅から逃げたときのままパジャマ姿でうろついている様子」についてはさんざん耳に入ってきていたから、と。ノサックも同様の報告をする。「最初の数日のうちは、正確な情報を得ることはできなかった。あちこちで語られることは個々の点で一致したためしがなかった」。 おそらく体験の衝撃によって記憶能力が一部欠落したか、あるいは欠落した埋め合わせとして、記憶にでたらめなふるいがかかったのだろう。惨禍を逃れてきた人々は、信用のおけない、半盲の証人であった。アレクサンダー・クルーゲによる「一九四五年四月八日のハルバーシュタット空襲」は、一九七〇年になってようやく書かれたものであり、戦意喪失を狙うといういわゆる〈精神的爆撃〉の効果のほどにはじめて疑問を呈した書物であるが、このなかに、戦後ハルバーシュタットの生存者にインタビューした某アメリカ人軍事心理学者のことばが引用されている。彼はつぎのような印象を受けた。「明らかに生まれついての話し好きでありながら、人々は想起する心の力を失ってしまっていた。それは壊滅したまさにその市域において顕著だった」。この見解はさも実在の人物のものであるかのごとくに書かれているが、じつはクルーゲの有名な疑似ドキュメンタリー手法による架空のものである。しかしこうした症候群の存在を指摘したのは、まさに彼の炯眼であった。たしかに、命からがら逃げてきた人々の話は概してどこかちぐはぐである。 妙にとりとめがなく、記憶の持ち主のふだんの様子とはあまりに食い違うため、作り話か、噂話ではないかとすら思えるほどだ。 証言のなんとなしの嘘臭さは、ステレオタイプな言い回しが多用されることにも依っている。 「炎の餌食」「宿命の夜」「ごうごうと燃えさかる」「地獄がはじまった」「われわれは地獄を見た」「ドイツの都市を襲った怖ろしい運命」といった一連の表現が用いられるや、潰滅の極限における想像を超えた現実は生色を失ってしまうのである。こうした表現の効能は、理解を絶する体験に蓋をして、毒消しをすることにある。クルーゲの書物に登場するアメリカ人研究者が、惨禍の調査中フランクフルトで、フュルトで、ヴュルツブルクで、そしてハルバーシュタットで耳にした「わたしたちの美しい町が灰燼に帰したあの怖ろしい...」といった言い回しは、実のところ記憶の想起を妨げるため の身振りにほかならないのだ。ドレスデンの最期を綴ったヴィクトール・クレンペラーの日記ですら、型どおりの表現の域を出るには至っていない。ドレスデンの滅亡についてわれわれが現在知るかぎり、火の粉を浴びながらブリュール・テラスに立って燃える市街のパノラマを眺めた人間が正気を保ったまま逃げおおせたとは、とうてい信じがたいのだ。証言の大半において通常の言語が損なわれた様子もなく機能しつづけていることによって、そこに述べられている体験の真正さは疑わしくなる。建物、樹木、住民、ペット、家財道具もろとも数時間のうちに都市がまるごと燃えて無くなるということは、運よく逃れ得た人々の思考や感覚の許容量を疑いなく越えていたであろうし、思考や感覚の麻痺を起こさずにはいられなかっただろう。個々の証言は、それゆえに額面通りに受け取ることはできない。概観的・人為的な視点から開けてくるものを補う必要があるのである。 28-9


 ゼーバルト『空襲と文学』を読む。第二次大戦下の空襲により市民が受けた被害と残した傷の深さについて、戦後のドイツ文学は正面から扱って来なかった、とする彼のチューリヒ講演録に端を発する論争への応答を旨とする本書は、唯一過去に読んでいたゼーバルトの著作『アウステルリッツ』(よみめも62)がもつ、戦争や歴史の荒波を通奏低音として響かせながらも全編を覆う静謐さとは真逆とさえ言える、一定以上で保たれる文章の高温により貫かれていた。


サックは、ハンブルク大空襲のあと、人々の移動の流れには決まった道筋というものがなく、「音もたてず、しかしとだえることなく、あらゆるものを呑みつくして」いき、小さな水路を伝って、遠く離れた村々にまで不安を運んでいった、と書いている。どこかにねぐらを見つけたと思うまもなく、避難民はすぐさままた腰を上げる。先をめざすか、あるいはハンブルクに取って返そうとする。それは、「なにかを 持ち出すためとか、あるいは身内の者を捜すためとか」だったのかもしれないし、あるいはまた、殺人犯を犯行現場に立ち戻らせるあの得体の知れない理由からだったのかもしれない。いずれにしても数え切れない人の群れが、来る日も来る日も移動していったのだった。のちに作家ハインリヒ・ベルは、戦後のドイツ人の旅行好きは、このような集合的に根こぎにされた体験に端を発しているのではないか、と推測している。どこにも尻を落ち着けることができず、いつもどこか他所にいずにはいられない、という感覚だ。行動学的に言うなら、空襲で焼けだされた人々が脱出し舞い戻る動きは、のちに惨禍から何十年を経てできあがる移動社会に参入するための、さしずめリハーサルだったというところだろうか。移動社会のもと では、たえまない落ち着きのなさが徳目となったのである。 35-6(太字強調by pherim)


「おなじことは、子供たちが小さな前庭を掃除し、熊手でならしているのを見たときにも起きた。それは、とても理解できないことだったので、ほかの人々に、それがふしぎなことででもあるかのように言った。またある日の午後、わたしたちは全然破壊されなかった郊外に足を向けた。人々はバルコニーにすわってコーヒーを飲んでいた。それはまるで映画のようであり、元来あり得ないことであった」。罹災者の立場としては当然のことだが、ノサックは非人間性と紙一重の、倫理的感覚の欠如を目の当たりにして当惑したのである。となりの虫の巣が壊されたからといって、虫の群れが粛然として喪に服するだろうとは誰も思わない。ところが それが人間となると、多少とも共感があってしかるべきだと期待するのだ。その意味で、一九四三年七月末、ハンブルクのベランダで小市民的な昼下がりのコーヒーの習慣が続けられていたことには、背筋の寒くなるような出鱈目さと破廉恥さがある。さしずめグランヴィルの戯画で、人間の扮装をしてナイフとフォークを持った獣が、おなじ仲間を食しているといった図だ。とはいえ、たとえ大惨事が起ころうが起こるまいが、決まり切った日常の維持とは、お茶用ケーキを焼くのであれ高尚な文化的儀式を保持するのであれ、いわゆる健全な理性を損なわないための折り紙付きでもっとも自然な方法なのだった。第三帝国の発展と崩壊において音楽が果たした役割も、この脈絡にぴったりあてはまる。厳粛さを喚起したいときには、フルオーケストラがきまって駆りだされ、政権は交響楽のフィナーレが発する肯定的な響きに自身を重ねたのだった。ドイツの諸都市が絨毯爆撃にさらされたときも、事情はおなじだった。アレクサンダー・クルーゲは、ハルバーシュタット空襲の前夜、ラジオ・ローマでオペラ《アイーダ》の中継があったことを思い起こす。「わたしたちは父の寝室にいて、よその国の放送局の名前がつらなった、ほの光る窓のついた茶色い木製のラジオのまえに腰をかけ、雑音混じりの神秘的な音楽を聴く。はるかな彼方から、混信をおこしつつ、なにやら荘重なことがらが語られていて、それを父がドイツ語でみじかくまとめて教えてくれる。午前一時ごろ、恋人たちは墓所のなかで溢れ死ぬ」。生きのびたある人は、ダルムシュタッ ト市を潰滅させた空襲の前夜、「ラジオで、シュトラウスの魅惑的な音楽が奏でるロココの官能的世界を聴いていた」と述懐している。がらんどうになったハンブルクの建物のファサードが、凱旋門や古代ロー マの廃墟や幻想的なオペラの舞台装置のごとく見えたというノサックは、瓦礫の山にたたずみ、コンヴェント公園の正門だけが突きだしている荒廃の野を見おろす。ついこの三月、そこへ音楽会に行ったのだった。「その際盲目の女性歌手が、《重い苦難の時代が今、再び始まる)を歌った。彼女はチェンバロによりかかり、気どらずにしっかりと立っていた。そして彼女の見えない目は、あの頃わたしたちがかまけていた取るに足らない事物を越えて、すでに今わたしたちが立っているこの地点へと向けられていたのかもしれない。そして今わたしたちを取り巻いているのは石の海ばかりであった」。こうした音楽体験を介してとびきり世俗的な事柄と荘厳さとを結びつけるのは、終戦後にも功を奏した方策だった。 42-3



 本書からタイトルをとられた映画『破壊の自然史』(本書の英題は“On the Natural History of Destruction”すなわち『破壊の自然史において』)記事執筆にあたり読んだ。

  拙稿「空襲とは何か。 セルゲイ・ロズニツァ《戦争と正義》2選 『破壊の自然史』『キエフ裁判』」
  http://www.kirishin.com/2023/08/30/61981/


哲学に高め、あやまった超越を持ちだすというゆゆしい傾向はあったものの、ノサックが当時ただひとり現実に眼にしたことをあたうるかぎり装飾を交えずに書き留めようとしたことは、疑いなくその功績である。たしかにハンブルク滅亡を記す彼の報告には、運命論的な物言いがあちこちに顔を出している。人々の顔は清められ、永遠への通路となった、といった表現が見られるし、報告は最後にお伽噺ないし寓話的な方向に舵を取るのだが、しかし総じて言うなら、ノサックの主な関心は事実のありのままの姿に置かれている。季節、天候、観察者の立ち位置、近づいてくる飛行編隊の轟音、赤く照らされた地平線、市 を脱出してきた人々の心身状態、焼け焦げた壁、不思議にもそのまま立っている煙突、台所の窓の前に置かれた物干しの洗濯物、無言のベランダになびいている破れたカーテン、レース編みのカバーを掛けたフラシ天のソファ、そのほかの永遠に失われた物たち、それらの埋まっている瓦礫、瓦礫の下で生まれて蠢いているおぞましい生き物、ふいに香水の匂いをもとめる人間の欲望。一九四三年七月の夜半ハンブルクでなにが起こったかを、少なくとも誰かひとりは書き留めなければならない、という倫理的命令が、大幅な技巧の排除につながっている。感情を表に出さない筆致で、報告は「有史以前の恐ろしい出来事」を語るように行われる。耐爆の地下室では、扉が開かなくなり、両隣の部屋に貯蔵してあった石炭が燃えたために、中の人々が蒸し焼きになった。そういうことが起こったのだ。「彼らはみんな、熱い壁から離れようと地下室の中央へ逃れていた。そこに折り重なって倒れていた。遺体は炎熱のためにふくれ上がっていた」。この報告の語り口は、悲劇における使者のそれである。知らせをもたらす者がしばしば縊り殺され ることをノサックは承知していて、ハンブルク滅亡についての回想録にある寓話を挟みこむ。起こったことをどうしても語らなければならない、と主張するひとりの男を、みなが寄ってたかって殴り殺すのだ。男の話が、人々を凍え死なせる冷気を放つがゆえに。潰滅に形而上学的な意味づけを施そうとする者は、 通例そうした悲惨な運命をたどることはない。そのほうが、事実に立脚した想起の作業よりも、身の危険が少ないのである。 51

おなじことは、ノサックがハンブルク市滅亡を描いた、彼の創作群のなかでも特異な位置を占める報告についても言える。少なくともかなりの部分にわたっての虚飾をまじえぬ客観性に裏打ちされた真実という理念が、激甚な破壊を前に文学的営為をつづける唯一の真っ当な理由であることがわかるのだ。ひるがえって、潰滅した世界の瓦礫から審美的ないし似非審美的効果を生み出そうとすることは、文学からその存在理由を奪うやりかたである。 52


一都市に飛来する編隊に「二百の中規模企業」が係わっている作戦をいかに円滑におこなうか、といった問題、大火災や火災旋風に拡大する効率的爆撃のための技術的問題――こういった、攻撃を組織する側に立ってクルーゲが吟味していく諸要素からおしなべてわかるのは、知性と資本と労力をかくも大量に破壊計画に注ぎ込んだうえは、溜まりに溜まった力の圧力に押されて、なにがなんでも破壊は実行に移されなければ すまなかった、ということである。一九五二年のあるインタビューが、このなりゆきの止めがたさを証している。クルーゲが引用しているもので、ハルバーシュタットの記者クンツェルトが、アメリカ第八空軍 准将フレデリック・L・アンダーソンにおこなったインタビューだ。()積んできた爆弾はなんといっても「高価な品」である、としたうえで、アンダーソンは「実際、山や野っ原にただ落とすなんてことはできませんよ、多大な労力を使って故国で作られたものなんですからね」と語るのだ。 62


奇妙なのは、廃墟をおおう静寂だ。なにひとつ起こっていないように見える。じつは錯覚であって、地下の各所ではまだ火が生きている。石炭を貯蔵していた地下室から地下室へ、つぎつぎに燃え移っていく。這いずりまわる虫の多さ。一部地域は悪臭がただよう。遺体捜索団が活動している。鼻を突く焼けたものの〈しずかな〉臭い が街全体に漂っているが、数日すると、それも〈なじみ〉になる」。クルーゲはここで文字どおり、また隠喩的な意味でも、一段高い見晴台に立って破壊された世界を眺めている。事実を挙げるときの皮肉まじりの驚きかたが、認識というものに不可欠の距離の保持を可能にしている。だが、余人の誰よりも蒙を啓かれた作家クルーゲの胸裡にすら、疑念はうごめいているのだ。われわれは自分が引き起こす厄災からなにひとつ学びはしない、学ばないまま、踏みならされてできた径を、ひょんなところでかつての道路網に繋がっていく径を、あいかわらず歩きつづけていくだけではないか、と。潰滅した故郷の町を見つめるクルーゲのまなざしは、その知的な直截性にもかかわらず、あの歴史の天使の恐怖に瞠られたまなざしとおなじなのだ。ヴァルター・ベンヤミンはこう書いている。歴史の天使は、眼をおおきく見ひらいて、「ただ破局のみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背を向けている未来の方へ、不可抗力的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものはこの強風なのだ」。 64-5(太字強調by pherim)


ただ一方で驚かずにいられないのは、インタビューのほとんどがいかにも紋切り型の語り口に終始していることだった。いわゆる体験語りの最大の問題は、内容の不十分さ、信頼のおけなさ、奇妙な空疎さ、類型的な語り口や同じことの反復に終始しがちなことで ある。シュレーダー博士の調査は、心的外傷を残すほどの体験の記憶がいかなる心的機制を持つかについて、ほとんど注意を払っていない。そのため、フーベルト・フィヒテの小説「デトレフのイミテーション 《緑青》」で重要な役割をつとめる、萎縮死体を解剖するジークフリート・グレフ博士(実在の人物)のまがまがしい報告をほかの記録と同列に扱ってしまっている。グレフ博士の報告にまざまざと表れている戦慄の専門家ならではのシニシズムを、ほとんど感じとっていないように思われるのだ。繰り返すが、破壊の夜々の記憶はまちがいなくあったし、いまもあることを私は疑わない。ただ文学を含めて、表現にもたらされるときのかたちに信を置くことができないのだ。そして、戦後ドイツで形成された公共の意識において、その記憶が再建の意志を励ますという意味以外に意味らしい意味を持ってきたとは思えないのである。 76



 「夜鳥の眼で」と題された『空襲と文学』第三章は、戦後のジャン・アメリーが強制収容所体験を執拗に書きつづけることで何を試みていたかに着目する。それは自ずと、プリーモ・レーヴィでもエリ・ヴィーゼルでもなくジャン・アメリーをえらび採る、ゼーバルトの書く動機へと直結する。このことは昨秋、町屋良平『ほんのこども』初読時(よみめも75)に感じた疑問「なぜ他ではなくジャン・アメリーなのか」を想起させ、またそのヒントを与えてくれる。天寿をまっとうしたエリ・ヴィーゼルや、その“事故死”が仮に自死だとしても突発的であったろうプリーモ・レーヴィに対して、ジャン・アメリーが周到に自殺を企図したアウシュヴィッツ生存者の系譜に属すこと。町屋作の筆致が醸す、否応のない自閉性。欠片どうしが互いを呼び合い、重なりゆく。


 以下、第三章「野鳥の眼で ジャン・アメリーについて」より。

ジャン・アメリーが一九六四年からその死までの十四年間に綴ったエッセイ作品を概観すると、それがほとんど例外なしに自伝的アプローチであり、またそのわりには叙述的内容に乏しいことに気づかされる。作品が省察にかたむく傾向は、アメリーの採ったエッセイという形式のしからしむるところにはちがいない。しかし反面、自身の人生の径路とその行き着くところを表現したいという抑えがたい欲求も、そこにはたしかに顔を出している。かつてあったこと、今後待ち受けていそうなことを直視することへの躊躇と不安から、その欲求がわずか、ないしごく控えめにしか表れていないにしてもだ。 みずからの出自や幼年期や青年期、非マイスター的な遍歴時代)についてのアメリーの記述は少ない。同様に、アメリーが係わったレジスタンス運動についても、あるいはアウシュヴィッツでの生存についても、具体的な描写はほとんどなされていない。あたかもアメリーにとっては、記憶のいかなる断片も痛いところを突くもののようであって、あらゆる記憶は即刻つまみあげて省察へと移しかえずにはいられないかのようだ。省察になってようやく、いくらか計量が可能となる。想起すること恐怖の瞬間のみならず、まがりなりにも平穏だったそれ以前の時代をも想起することが耐えがたいという問題は、迫害の犠牲者の精神状態に重くのしかかっている。心理学者ウィリアム・ニーダーラントの指摘するところでは、犠牲者は凄まじいエネルギーでわが身がめたことを記憶から締めだそうとするが、たいていの場合それに成功しない。テロルの行使者の場合とは対照的に、犠牲者の場合には抑圧のメカニズムは十全に働かなくなってしまうらしい。犠牲者のなかでは記憶欠落の島がいくつもできるようになるが、かとい ってそれで本当に忘却し去れるのかといえば、そうではないのだ。むしろとりとめのない忘却と、記憶から追いだせずにくり返し湧きあがってくる数々の心象とが混ざりあうようになる。それらの心象は、空っぽになってしまった過去のなかで、病的なものと紙一重のそこだけは異様に鮮明な記憶となって生きつづ ける。ぼんやりした死の不安、と同時にいつまでたっても迫りつづける死の不安にひたされた記憶を持つことの苦悩は、アメリーのエッセイにも生々しい。時がただ過ぎ去った場合と異なり、イシュルとグムンデンで過ごした幼年時代はいかに非現実的に思われ、いかに遠く、いかに思いだすのが辛かったことだろう。ひるがえって一九四三年七月の日々、ブレーンドンクの砦でアメリーが秘密国家警察に拷問された日々は、いかに間近であって、不滅のままくり返し脳裡にあらわれたことだろう。心裡における経験の集合と並び方は、ふつうその経験に結びついていた情緒の状態によって決まるが、通時的な枠が崩れることはない。しかし迫害の犠牲者にあっては、時間の赤い糸は千切れている。背景と前景がごっちゃに溶けあい、存在の論理的支えが機能しなくなってしまっている。テロルの経験は、人間のもっとも抽象的な故郷である時間の位置も狂わせるのだ。鮮明な、苦痛に満ちた記憶と心象をともなって幾度でも繰り返されるトラウマ的な光景が、不動の定点となる。戦後、文筆によって糊口をしのいでいたとはいえ、みずからについてはひと言も漏らさなかった沈黙の歳月に、アメリーがこの苦悩の発動に揺さぶられていたことは間違いない。「罪と罰の彼岸」(一九六六年)の初版はしがきに、彼は端的にこう記している。 136-7

アメリーにとって、ドイツのファシズムが想像し実現した世界は、拷問の世界だった。 そこでは「人間は目の前の人間を痛めつけることによってのみ存続できる」。思考の過程でアメリーが拠り所を求めたのは、ジョルジュ・バタイユである。バタイユから受け継いだラディカルな立場は、歴史とのいかなる妥協をも峻拒した。ドイツの過去に取り組んだ、あの手この手で総じて妥協に流れようとする文学において、アメリーの仕事が特異で重要な位置を占めるのはそのためである。バタイユやシオランのような掛け値なしの否定的思考の持ち主を、ドイツの戦後文学は輩出しなかった。ためにアメリーは、心理的にも社会的にも歪んだ社会の猥褻さを指揮し、なにごとも起こらなかったかのような顔をして平然と歴史が進行していく破廉恥に異を唱えたただひとりの作家となった。ニュルンベルク人種法が定める死の威嚇にさらされ、生還後もその威嚇を感じつづけていたゆえに、無頓着な歴史の改編を座視できなかった。たとえそれによって、非時代的人間として隅に押しやられるのがわかっていたとしても、である。「凡庸さと黙示論的なものの猥雑な混合物」である歴史は、アメリーにとって脅威であり恐怖であり、彼はそこにこだわりつづけた。「罪と罰の彼岸」に収録され、アウシュヴィッツ=モノヴィッツ強制収容所で強制労働者であった自分の存在について描いた一篇「精神の限界」は、歴史の客観的な愚行に対する人間のどうしようもない無力について明瞭に述べている。 「歴史とはそんなものである。歴史の車輪に巻きこまれたわけだ。殺し屋がやってきたら帽子をとるまでのこと」。 140-1


言語と取りくむ者にとって、亡命の不幸は言語によってしか乗り越えられない。老いについて書かれた一九六八年のエッセイで、アメリーは「一九四五年以降は自分の言葉を作り上げることだけに心血をそそがねばならなかった」と述べている。しかし収容所から解放された後、アメリーにはまさにそれができなかったのだった。「自由な日常語をふたたび使えるようになるまでには長くかかった。いまなお居心地の悪さがともなうし、その価値を信頼しきることができない」。母国語が「ボロボロと崩れていく」または「萎縮していく」体験について省察したアメリーは、みずからについて語ろうとするなら、言語、すなわち言葉にされていない思考の働く場である媒体を立て直すよりほかはないものと悟る。
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朝起きて前腕に入れ墨されたアウシュヴィッツの囚人番号を眼にするたびに、日ごと世界への信頼を失っていく男にとってはである。「不幸の意識はあまりにも重い病いなので、死の苦悶の算術や〈癒しがたいもの〉の登録簿には姿を見せない」。それゆえアメリーが紙に書きつけ、私たちの眼には慰めにみちた透徹した心境であるかのように思える言葉の数々は、アメリーにしてみれば、自身の不治の病を粗描するものにすぎなかった。
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ふり返ってみてはっきりわかるのだが、自分の勇気におりおり疑問符を付けていたアメリーは、生涯最後の十五年間、言語によって怖ろしい過去と対決しながら、退却戦を雄々しく戦っていたのだった。そこから生まれた洞察は、「自死論は心理学の終わるところからはじめてはじまる」こと、その議論は「純粋な否定」と「いかにしても絶対に想像し得ないあるもの」にのみ係わるということであった。死の議論は、 「自分をかたむけ大地に近づく長いプロセスであり、自死の想念を抱く人の尊厳と人間性とがとても承認できないかずかずの屈辱的なできごとの総計」である。自死についてのこの論考の著者は、思考の近縁者と言っていいシオランのつぎの言葉にきっと同意しただろう。われわれが生きていけるのは、「ただわれわれの想像力と記憶力が貧弱だからにすぎない」。暗い記憶にひたされた過去の出来事をたどりなおすうちに、人生を─暴力的でなく(シェイクスピアを引用して、アメリーは「ただの針一本で」と書いている)終えることができたら、という願望がアメリーの心裡にある時点できざしたとしても不思議はない。 147-9



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3. 宮内悠介 『あとは野となれ大和撫子』 KADOKAWA

 20世紀に面積の8割が消失した旧アラル海の領域に位置する架空国家アラルスタンが舞台で、その後宮で育てられた日本人孤児ナツキが主人公。ゆえの「あとは野となれ」「大和撫子」ってタイトルがもう良い。この時点で傑作の予感がしてしまう。実際紛争の中央アジア+世界史上も最大級の環境破壊を後ろ背に進行する子供同士のおままごとのような“政治”に、周辺国の政治家たちもゲリラ組織の指導者らも翻弄される光景は小気味よく、ネトフリあたりでアニメ化したらいいんじゃねとはちょっとおもう。おもいました。




4. 吉本ばなな 『私と街たち(ほぼ自伝)』 河出書房新社

 吉本ばななの根津千駄木話みたいなものは大昔にちょいちょい目にしていた気もするし、日芸在学からデビューにかけての話を読んでいたはずの高校時代などは自身も江古田界隈にいたからよく記憶するのだけれど、よく考えたらそんなもの四半世紀も前のことであり、その後の彼女の足取りについては何も知らない。ので、目白界隈とか下北沢に長く住んだ話とか、なかなかに興味深い。
 
 あと吉本隆明ら幼少期家族との伊豆の思い出。隆明父が先に家を出て黙々と家族分のパラソルもひとりで立て、先に海へ入り、ゆえにかの有名な事故へ至った話など、全体を包む明確な昭和感がやはり文章の巧さなのだろうなとか。
 終盤のミコノス島と、ラストの菊地成孔話も意外性あって良い。




5. 近藤真理子 『象牙の部屋』 自主制作

 二篇の極短篇「葛藤の守り」「入浴研究」と、短篇「象牙の部屋」。

 「象牙の部屋」を初めに読んだのは2023年6月15日の朝Web上のクローズドの場においてであった。それは衝撃と言ってよく、クラシック音楽をめぐる表現力の瑞々しさや、恩師の過酷な道行きをどうしようもなく見守る物語進行の醸す切なさ、淀みない文章の安定感と深い余韻のすべてにおいて圧倒された。
 ひとは誰でも一生のうち一作は良い小説を書けるものだという言葉があるけれど、当人の実人生が全編を柔らかく包み込む本作を読み終えてまず浮かぶ慣用句のひとつがまさにそれだ。

 「素敵です。音楽と人生がしっかり乗ってる感じ。
  とりいそぎひと言だけ。おはようございました。」 

  
とは、2023年6月15日午前8時5分に本人へ送ったLINE。指が震えたという主旨の返信をもらっているけれど、今みるとこんな感想を仕事前に送ってこられたら、それは調子狂っちゃうよなとおもう。短いのにたいへん素敵な文言もそのあとに続いたのだけど、もったいないので秘めておく。てか私信だし。
 極私的にも、その夜から過去未経験の身体症状を伴う鬱進行が始まったこととも相俟って鮮烈に刻まれた日付6月15日の記憶を、その初めで多少なりとも救われたものにしてくれた読書体験としてもありがたき。
 
 
 「葛藤の守り」は、段落一つないし二つからなるパートによる5部構成の展開に巧さを感覚した。技術面を含む細かい感想/指摘を本人参加のクローズドの場で行ったけど、こちらでは割愛する。


 水場は、不潔と清潔が混ざり合い、見分けがつかなくなり、最後に清潔さがすっとある表面から立ち上がる場所だ。そこは、あの得体の知れないイモムシという生き物が、ストイックに籠るサナギとも、似ていやしないだろうか。 
 
 「入浴研究」、上記引用の一文を重心として底部へ響かせ、同居する女性ABふたりの会話から醸される軽妙さが遠心作用のように全編を回転させる構成の安定感。今回初めて小説らしいものを書いたって言ってた気がするけど、表現性の豊かさや用語の精確さも含め、益々にわかには信じがたく。才能ってやっぱあるのでは、とか思わ猿を。

  爪とか髪のゆくえの話:https://twitter.com/pherim/status/683158755664527360

 子どもの頃よくした妄想のひとつに、土地土地でこの体から切り離された髪や爪や、浴室の排水口へ消える汗や垢はその後どうなるのかというのがあった。この体であった“ぼくら”はそうして拡散し変容し、やがてぼくであったことをやめてしまうのかっていう。
  
 新しいものに特有の濡れたような白さに光る、すこし大きくなった給湯器が、古いコンクリートの壁にしっかりとつかまっていた。
 
 ね。何の説明もなく「特有の濡れたような」「すこし大きくなった」でナニカを予感させ、「壁にしっかりとつかまっていた」でサナギへのイメージ連環を確定させてくうみゃあのすむむー。
 

 本書は著者ご本人よりご恵投いただきました、感謝。




6. 村上春樹 『1Q84』 BOOK2〈7月-9月〉後編 新潮文庫 [再読]

「リトル・ピープルが騒ぐと天候に異変が起きる?」
「ばあいによる。テンコウというのはあくまでうけとりかたのもんだいだから」
「受けとりかたの問題?」
ふかえりは首を振った。「わたしにはよくわからない」 263

あなたを殺さなくても済む世界が きっとあったはずなのに」
「その世界はもうない」と男は言った。それが彼の口にした最後の言葉になった。
 その世界はもうない。
 青豆は尖った針を、首筋のその微妙なポイントに当てた。意識を集中して角度を正しく調整した。そして右手の拳を空中に上げた。彼女は息を殺し、じっと合図を待った。もう何も考えるまい、と彼女は思った。我々はそれぞれの仕事を片付けてしまう、それだけのことだ。何を考える必要もない。説明される必要もない。ただ合図を待ち受けるだけだ。その拳は岩のように堅く心を欠いていた。
 稲妻のない落雷が窓の外でひときわ激しく轟いた。雨がばらばらと窓に当たった。そのとき彼らは太古の洞窟にいた。暗く湿った、天井の低い洞窟だ。暗い歌たちと精霊がその入り口を囲んでいた。彼女のまわりで光とがほんの一瞬ひとつになった。遠くの海峡を、名もない風が一息に吹き渡った。それが合図だった。合図にあわせて、青豆は拳を短く的確に振り下ろした。
 すべては無音のうちに終わった。獣たちと聖霊は深い息を吐き、包囲を解き、心を失った森の奥に戻っていった。 292-3

しかし朝に見たときとは、ずいぶん印象が違って見えた。それは天吾がそれに気づくまでに少し時間がかかったのだが髪が束ねて上にあげられていたためだった。おかげで耳と首筋がすっかりむき出しになっていた。ついさっき作りあげられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのような、小振りなピンク色の一対の耳がそこにあった。それは現実の音を聞きとるためというよりは、純粋に美的見地から作成された耳だった。少なくとも天吾の目にはそう見えた。そしてその下に続くかたちの良いほっそりとした首筋は、陽光をふんだんに受けて育った野菜のように艶やかに輝いている。朝露とテントウムシが似合いそうな、どこまでも無垢な首だった。髪を上げた彼女を目にするのは初めてだったが、それは奇跡的なまでに親密で美しい光景だった。  
 天吾はドアを後ろ手に閉めたものの、しばらくそのまま戸口にたたずんでいた。彼女のむき出しにされた耳と首筋は、ほかの女性のまるっきりの裸体を目の前にするのと同じくらい、彼の心を揺り動かし、深く戸惑わせた。まるでナイルの源流である秘密の泉を発見した探検家のように、天吾はしばし言葉を失い、眼を細めてふかえりの姿を眺めていた。手はまだドアノブにかけられたままだ。 255-6
 
天吾は受話器を耳に押しつけたまま、電話がつながるのを待った。相手はなかなか出てこなかった。『峠の我が家』 の単調なメロディーが永遠に近い時間流れていた。天吾は目を閉じて、その房総の海岸にある療養所の風景を思い出した。重なり合うように分厚く茂った松林、そのあいだを抜けてくる海からの風。休むことなく打ち寄せる太平洋の波。見舞客の姿もない閑散とした玄関ロビー。廊下を運ばれていく移動式ベッドの車輪が立てる音。日焼けしたカーテン。きれいにアイロンのかかった看護婦の白い制服。まずくて薄い食堂のコーヒー。 447

夜中に空を見上げることが一度もなかったから、月の数が増えていることに気づかなかった。きっとそうだね?」
 ふかえりはただ沈黙をまもっていた。その沈黙は細かい粉のように、空中にひそやかに浮かび漂っていた。それは特殊な空間から現れた蛾の群れが、ついさっきまきちらしていった粉だ。その粉が空中に描くかたちを天吾はしばらくのあいだ眺めていた。天吾は自分がまるで一昨日の夕刊になってしまったような気がした。情報は日々更新されている。彼だけがそれらについて何ひとつ知らされていない。
「原因と結果がどうしようもなく入り乱れているみたいだ」と天吾は気を取り直して言った。 455



 

7. 坂口恭平 『躁鬱大学』 新潮社

 躁鬱人は一人でいる時間を充実させることはできません。そのかわり、一人でいるときも誰かを頭に思い浮かべながら、その人たちのことを喜ばせられると思うと、どんなことでもできます。 41

 鬱状態になると、頭の回転が躁状態のときとまるで変わってしまいます。多くの 躁鬱人は「鬱になると頭の回転が鈍くなる」と感じてます。なおかつそれが「自分の本来の姿だ」と感じてます。 文字を読むのも困難になります。しかし、これは厳密に言うと、文字を読めなくなるわけじゃないんですけどね。()
 鬱の奥義その5
「鬱状態だから頭の回転が鈍くなるのではなく、ただ興味のないことを頭に入れよ うとは思わないだけだ。むしろ興味があることだけが、頭に入るようになっている」 104-5

 つまり、体は動きます。性欲も実はあります。でも窮屈なんです。バカみたいに羽を広げて、自分が思い描いているように世界が動いたら、すぐに鬱は治ります。そして、そのお姉さんとしばしの間、好きなだけ快楽に身を委ねて、元気になって、君がいてくれるなら仕事をがんばろう!とか思うことでしょう。
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 とにかく忘れてはいけないことは、ゲイの画家だったデビッド・ホックニー先生がおっしゃった「自分に深刻になるな、作品に深刻になれ」という言葉ですね。僕はこれをパニック状態になっていた大学生のときに知り、体がラクになりました。 136
 
 昨日も夜9時に寝て、朝4時に起きました。毎日原稿用紙20枚分(8000字) の原稿を書いてます。この2週間で、原稿を書くのを休んだのは1日だけです。僕は休みの日は特に設けていません。休むと調子を崩すので、休みの日を作らないようにしました。そのかわり、だいたい毎日朝9時には原稿を書き終えてますから、そこから次に絵を描き始める午後2時くらいまで5時間休みにしてます。1週間だと35時間休める計算になりますので、週休1日半となります。執筆を休むと、戻すのにとんでもなく力がいるので、この休み方のほうが効率がいいようです。しかも作品制作が進むので、とにかく充実感がハンパないです。
 躁鬱人は休みの日に暇を持て余していると、むしろ体調が悪くなります。逆に充実すると、その充実した時間自体があなたを癒します。 185
 
「資質に合わない努力はしないのが良さそうです」
 今まで僕が苦しんでいたのはいつも、壁を乗り越えないといけないと思っていたときだったんです。逆に調子がいいのは、重力を無視して、壁に垂直に立って走り回っているときです。ルールを破って、自分の思いどおりに、そのことだけには忠実に好き勝手にやっているときってことですね。それにはいっさいの努力がいらない。 203
 
それよりも野垂れ死にで十分、好きに生きるよ、という人生を選びましょう。そうやって自由な気持ちでやればやるほど、実は非躁鬱人の目には非常に興味深く映るので、仕事は絶えないはずです。
 仕事がうまくいっていない人は、自分のことを世界最高だと思っていない可能性があります。劣等感は怒りしか生み出しません。怒りは躁鬱人の中で最も忌避すべき感情です。非躁鬱人にとっては普段穏やかに眠っている力を発揮するために必要な感情ですが、躁鬱人は常にそれくらいの力は放出してるので、実は怒りが不要です。つまり劣等感もいっさい不要です。とにかくまずは自分がなにかの世界最高であることを自覚しましょう。人に自慢する必要もありません。むしろ人前では少し黙っていて、やるときはやる。俺最高だからなあ、と思えるからこそ、人から少々文句を言われても腰を低くして、相手の要求に応えることもできるでしょう。
 そのとき、あなたは躁鬱人ではなく、躁鬱超人になってます。
 躁鬱超人になるとどうなるか。とてもラクになります。体のコリがなくなります。
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 あなたはなにかの世界最高の、その「なにか」に気づくでしょう。そうすると、あなたはもともと世界最高なのですから、あらゆることを心地よく実践できるようになります。 209-210

 死にたい人は全員、体が冷えています。鬱状態というのは、心臓の動きが低下しているときでもあります。心拍数が下がってます。つまり、血が行き渡っていないんですね。足、お腹、腰、あたりをさすってみてください。冷たくなってませんか? 体を温めるだけで、死にたいという気分自体がなくなると思います。もちろん、それだけでは鬱のきつさ、自己否定などは止まらないとは思いますが…… 260
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 鬱を早めに切り抜けたくないですか? 検索をすればするほど、鬱は長引きます。
 体を起こせば起こすほど、鬱は長引きます。とにかく目を瞑って、体を横にしましょう。()多くの時間寝ていてください。寝たぶんだけ、治るのが早まります。 260-1

 



8.『第35回東京国際映画祭公式プログラム』 公益財団法人ユニジャパン

 2022年開催分。170ページで2021年のプログラムより10ページ多い。まだ海外ゲストは限られたとはいえコロナ禍明けムードも若干あったことの影響かも。とすれば今年はさらに厚くなるのかも。なんのかんので集中して観られるかぎり観ておいたほうが、のちのち効いてくるんだよね。もう来月末に次回来ますの。

  拙稿「2022年の世界像、国際映画祭にできること。 東京国際映画祭/東京フィルメックス」
  http://www.kirishin.com/2022/11/12/57076/





9. 伊藤聡 『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』 平凡社

 美容ライターの長田杏奈は、『美容は自尊心の筋トレ』という著書のタイトル通り、美容は自尊心の向上のために必要だと書いている。「女の人の健やかな自尊心を鍛えるために、美容ができることはとても多い。自分を愛して表現するということを肌身で覚え習慣づけることができるし、自らをやさしく扱って心地よい姿に整えることは、日々を気分よく過ごす手助けになる」。本当にその通りだと思った。まさに私も、そうしたいのである。美容の目的というと、イコール周囲からの評価と考えがちである。しかし、自分を大切にするために必要な作業だというのは、私自身がスキンケアを経験してみて、明確に同意できることだ。「私は、女性が健全な自尊心を育むことができたら、世界はよりよく変わると本気で信じている」という言葉にも賛成である。 135

 導入部がタイトルのまんまで始まる中年男のスキンケアどハマリ紀行。面白いらしいと聞き図書館で借りようとするも、人気の本らしく数ヶ月待ち、すっかり興味が薄れたあとに順番がきて読みだした。本職は映画系とかのライターさんだそうで、文章がうまいので意外につるっと読み進んでしまう。ドラッグストアの2階化粧品売り場へ入るときに感じる気恥ずかしさ&敷居の高さとか、中高時代の婦人服売り場に勝手に置き換え共感するなど。

くらべてはいけないのである。勝てるわけがないのだから。比較をしたって、嫌な気持ちになるだけだ。私がくらべるべきなのは、昨日の自分であり、一ヶ月前の自分なのだ。
 昨日の自分よりはきっとよくなれる。カツ丼やカレーライスの誘惑を断ち切り、ジムで運動してから豆腐サラダを食べる。お風呂上がりにスキンケアをしてから早めに寝る。そうすれば翌朝の私は、昨日より確実に、ほんの少しだけよくなっている。それは微々たる変化かもしれないが、その「微々たる変化」を察知できるのも、私だけだ。他の人からは絶対にわからないけれど、私がわかっているのだから、それでいいのである。ちょっとだけ、肌がキレイになった。それは保湿をしてるから。ワイシャツを着たとき、シルエットがキレイに出るようになった。大胸筋を鍛える筋トレをしたから。この「少しだけ」を積み上げていくのが、私は好きなのだ。そう思えるようになったのは、美容を始めたからなのだった。 136-7





10. パイ インターナショナル編 『世界の美しい廃城・廃教会』 パイインターナショナル

 長時間露光や日没をうまく使った写真など、単なるガイド写真集ではない遊びが地味に面白い。版権的にどうなんだと疑問わく出所不明写真も混じってるなと思いきや、Getty Imagesがからむ写真集。
 マグダーモッド、ゴルマズ、ペルペルテューズ、カリャージン等々。ヴェトナム台湾などもひっそり混入。




▽非通読本

0. 安岡章太郎 「ガラスの靴」 
 
ぶらぶらブラ下っている艶のいいソーセージ、霜を置いたパイプを枕にセロリやサラダの葉を着せられて横たわっている骨つきハム。それらを私はじっくりと眺めるのだ。いつまでもいつまでも、分厚いガラスが溶けそうになるほどながめる。すると、あざやかな断面に白い骨とうす桃色の肉をみせたハムや、はちきれそうに詰まったソーセージが、むくむくと脂ぎった肉塊に生命力をふきこまれて、たったいま切断されたばかりの胴や胸のようにみえてくる。突然、彼等は動き出す。堂々と私の眼前に立ちふさがり、あるいはブランコにのって私の鼻先をかすめて通る。 この時、私は何とも云えない快感をおぼえるのだ、……貧弱な私の胃袋が驚き怖れてちぢみ上ることに

 占領軍将校の家でひとり留守を預かる家政婦の若く痩せた女・悦子と、快活な悦子に惚れ込むも中途半端な態度をとられつづけて摩耗しゆく銃砲店警備員の主人公青年とのひと夏。

 留守宅を預かるファム・ファタルと遊ぶかぎられた時間の愉悦、ってなにか現実世界下でくり広げられるファンタジー物語の一原型を感覚する。どうしてだろう。




▽コミック・絵本

α. 豊田徹也 『アンダーカレント』 講談社 [再読]

 銭湯を切り盛りする主人公が、なぜ夫が失踪したのか思い悩み、知人の好意で探偵が夫を探し始める。手が足りないところに色々謎の若く穏やかな男が現れ云々。性格も容姿もごく平凡な主人公がふとみせる眼差しの虚無に、謎の男や探偵のそれが言外の共鳴をみせるアンニュイさが良い。
 
 10月の映画化公開を前に再読。学生の頃に読んだものと勘違いしていたのを確認。初読はたぶん8年前くらい。
  
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 13 小学館

 京都と伊豆~関東の話がいよいよ密接に絡みだしてわくわく。そのぶん備中荏原の領地が遠のいた感。にしても同姓家の対立模様とか読むほうも自然と注意深くなっていくの笑う。ともあれ伊勢家の懐事情をここまで実感催すレベルで描き込む技量たるや。一見あっさりにも映るけどこの深さの質は唯一無二よね。NHK大河化するんじゃないかな、ほんとに。

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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 南勝久 『ザ・ファブル』 19-22 講談社

 恐怖心がない強敵に、主人公“兄妹”ともそれなりに気脈を通じた中ボスクラスが2人寝返るっていう垂涎展開。格闘物はシリアス一辺倒になりがちで下らない顔芸レベルの単発ギャグで笑わせるのがせいぜいだけど、きちんと高度にコミカル展開を盛り込みつつ基本はアクションとスリルで魅せる独創性がとても好き。




δ. 松本直也 『怪獣8号』 7 集英社

 9号が規格外に強かったので、10号と6号を兵器化して対抗っていうこの構図。8号の異端感が薄まる薄まる。そういうドラマでみせる流れから切り換えたのか戻るのか。




ε. アジチカ 梅村真也 『終末のワルキューレ』 2, 3 コアミックス

 2巻でゼウスがアダムに負けるとか信じられん、という反応を期待してる感パなくて今後に不安を感じるも、3巻で復活ゼウスが辛勝アダム死亡という結末。まぁでもずっとこの場当たり感覚がつづくとすれば、予想がつかないってことだしそれはそれで良い作品なのかもしれない。
 




 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2023年
09月23日
01:16

>ソナチネの木
お手にとってくださりありがとうございます。
私も久しぶりに読んだんですが、引用で横書きになると不思議とまた雰囲気が違うのが面白いですね。

2023年
09月29日
06:12

安野さんの絵がとにかく利いた一冊で、なんなら部分的にことばと混じり合ってますもんね。

そこから岸田衿子さんのことばだけ伐りだした瞬間から別のありかたを始めるみたいなところは少しありますね。

2023年
09月29日
12:14

すごい、堪能してくださっている…ありがとうございます(人に本を紹介するときはすごく緊張します)!

むかしから絵本が大好きで、子に買うようになってまた最近読むんですが、谷川俊太郎えほんなど絵と文で作家が違うのになんでだろうというほど一体感があって、子を差し置いて読みながら気が遠くなりました。

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