・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV
1. 木下龍也 鈴木晴香 『荻窪メリーゴーランド』 太田出版
ふたりとも黙ってしまうそのあいだ海が喋っていてくれるから
きみが見た夜がわたしのものになるくちづけとは渡しあうこと
匿名の誰かと誰かであった冬この駅はまだ工事中だった
約束をするから怖くなる夜に選んだのはいちばん細い指
3180グラムを生んだ日を未来の話みたいに聞いた
君だけが止まって見える雑踏で好きだって言い飽きたりしない
手袋を外してから手を繋いでも皮膚のぶんだけ遠いと思う
太腿に私を乗せて抱いたあと子猫のことも等しく抱いた
お揃いでつけていたキーホルダーのスーモまだひとりで生きていた
約束をせずとも会えたはじまりのぼくらをぼくはうらやんでいる
どの恋もきみにやさしくあるための予習だったな 十の深爪
閉じるべきまぶたが二枚増えてから夜がぼくらに手こずっている
上9首が鈴木晴香さん、下3首が木下龍也さん作。初読して鮮やかに感じた短歌十選。(どの首が好きかを友人に尋ね、返ってきた答えの中から確かにこれも良かったという2首も含めた)
木下龍也ゴシック体、鈴木晴香明朝体で、恋愛感情を扱う短歌をプロ歌人が交換し合う試み。交換が進むごと深まるドラマ性もあり面白い。終盤はノリ過剰でやや引いたけど、一冊ぜんたいの読み味としては良いアクセントとして利いている。
流れがあるので、単独でここに引用した結果まったく意味不明になっているものもある。(3180グラム~とか)
木下さんはすこし操作的というか「反応」にシフトしすぎてる感じで、個別の作に鋭さを欠いた印象も。
2. ミシェル・ウエルベック 『滅ぼす 上』 野崎歓/齋藤可津子/木内尭 訳 河出書房新社
予想に反して、リヨンの町の散策はけっこう心地よいものだった。ソーヌ河岸はローヌ河岸よりも静かで、車はほとんど行き交っていなかった。()今日、心地よい風景がほぼ必然的に、人の手がまったく触れないまま少なくとも一世紀はたった風景であることは、残念ながら認めざるを得ない。きっとその事実から何か政治的な帰結を引き出す余地もあるだろう――とはいえ彼の国政中枢部における地位からして、それは控えておいたほうがよさそうだった。
おそらく彼は、より全般的に言って、考えること自体を控えておいたほうがよさそうだった。八年前に訪れた母の死は人生において強烈な、奇妙な経験だった。母のシュザンヌはアミアンの大聖堂の塔を飾る天使の群像を修復している最中に、足場から転落した。 81
セシルは昔から父のお気に入りだった。それが真相で、最初から父はセシルが可愛くてたまらなかったのである。結局のところポールとしても文句はなかった。なぜならセシルは実際気に入られて当然であり、人間として上等だったからだ。※1
事態は急激に逆転し、父はいまや子供、さらには赤ん坊同然になっていた。だがセシルはそんな状況に立ち向かおうとしている。 143
こんな見栄えのしないものからのちにワインが生み出されるとは、まったく想像もできない。世界は何とも奇妙に作られている、とポールはブドウの木のあいだをめぐりながら思った。もしセシルが考えているように神が本当に存在するなら、もっと自分の見解を教えてくれてもよさそうなものだが。神はメッセージを伝えるのが下手で、こんな素人臭さはプロの世界だったら許されなかっただろう。
*1 (143頁)〔原注〕こうした問題を考えるようになると(遅かれ早かれ、そんなときが必ず来る)、人が必ずや自分を道徳的世界の中心に置き、良くも悪くもなく、道徳的に中立の立場にあるものとみなすことを考慮に入れる必要がある(つまり本音の部分、意識の奥底においてはという意味である。表向きは自分は「どちらかといえばいいやつ」だと称しても、心の底ではそう信じているわけではなく、自分を道徳的世界の中心に位置づけるひそかな尺度を保ち続けている)。こうして、人間観察に尺度のずれが生じるので、たいていの場合、解釈のし直しが必要となるのだ。 144
ウェルベックはつねに心に引っかかっていながら、なかなか読み出せない作家のひとりで、まだ数冊しか読めていない。よみだすのに圧力が要る案件、なのかも。上記注とか、いわゆる一般書的な注釈としては長さのわりに内容がなく意図不明に映るけど、言うまでもなく小説作品における表現の一環として総合的に意味をもつ。という視座を感じさせるあたりがウェルベック味よな。
ポールの疑問は電話を切るや、たちまち人間の共同体全体へと拡大した。ポールは昔からプロイセンのフリードリヒ二世のエピソードが好きだった。フリードリヒ二世は愛犬のそばに埋葬されることを望んでいた。邪悪な種である人間にかこまれて眠らなくていいように。ポールには人間界が自己中心的で、てんでばらばらなウンコの寄せ集めに思えた。ウンコはときにそわそわして、自分本位なまま好き勝手に交接する。その結果、さらに小さなウンコが発生する。たまにあることだが、ポールは妹が信仰する宗教への嫌悪感にいきなり襲われた――なぜ神はウンコの姿なんかで、この世に生まれることにしたのか? おまけに、それを讃える歌まである。「神の子がお生まれになった」これをドイツ語で言うとどうなるか? 「エス・イスト・ゲボーレン、ダス・ゲットリッヒェ・キント」と、 そくざに頭に浮かんだ。やはり学があるのはよいものだ、と彼は独りごちた。一定の水準が身につく。数年前から、ウンコたちが大量に交接しなくなっているのも事実だった。選り好みすることを覚えたとみえ、互いの悪臭に顔をしかめて距離をおく。人類の絶滅は中期的には、ありえそうだった。ゴキブリだの熊だの穢らわしいものは、いぜん生き残るだろうが、なんでも一挙に解決するのは無理というもの。つまるところ、ポールは精子バンクの破壊にまったく異論がなかった。精子を金で買うという考え、そしてより広く、 性欲や愛などの感情すら言い訳にせず生殖 を企てることに、ポールは端的に反吐が出た。
()
こんな考えをあたためていてはいけない、とほぼ同時にポールは思い直し、〈アニマル〉チャンネルに目を転じた。いつのまにか話題は変わってバク、特にブラジルバク(タピルス・テレストリス)とヤマバク(タピルス・ピンカクエ)、そしてアジアにだけ生息するマレーバク、別名鞍敷きバクのことになっていた。いずれも警戒心の強い単独性の動物で、森の奥に棲み、おもに夜、活動する。社会生活がなく、つがいは交尾のためだけに形成される。要するに、バクの一生は信じがたいほどつまらなそうだった。だから、ポールはスポーツチャンネルに替えたが、百十メートルハードル走にも思考の流れはそらされなかった。ポールは当初から、正体不明のテロリストらに、つい称賛の念をおぼえている自分に気づいていた。 274-5
「ウンコ」という訳語選択にみる野崎歓の生理言語感覚。と、しておく。
クリオス・インターナショナル本社はオーフス(デンマーク第二都市)の中心地にあるというのに、火災は敷地の境界線内で、ぴたりととまっていた。連中は間違いなく、手練れだった。
悪いことに――しかし、なぜプリュダンスは帰らないのだろう? 唐突に、ポールはそう思った。もうすぐ二十一時。いま、妻にいてほしかった。妻が必要で、ふだんの会話が必要なのに、仕方がない。これ以上、待っていられない。ベッドに入って寝たほうがよさそうだ。ひょっとして、スキーのジャンプを観るのも手だろうか――悪いことに、テロリストらの目的が、世界を滅ぼすこと、ポールがよく知るこの世界、近代世界を滅ぼすことならば、必ずしも彼らを責める気になれないのだった。 276
全体を通しての感想等は下巻パートで書く。上巻終わりでようやく下地が整ってきた感あり、後続を読むのが楽しみ。
3. 柴崎友香 『きょうのできごと』 河出書房新社
「あんなあ、酔うてるときって、卵の中におるみたいな気がせえへん? せえへん?」
「卵ですか?」
()
「気にせんでもいいで、かわちくん。それはけいとの酔うたときのねたやから」
わたしは二人の向かい側に座って、空いてるコップに梅酒を注いだ。けいとはわたしのほうをちょっと睨んでから話し続けた。かわちくんに話しかけるたびに短い外はねの髪の毛が揺れて、しっぽを振る犬みたいだと思った。
「ええやろ、べつに。ほんまにそう思うんやから。卵やの、卵。柔らかい、水みたい のに包まれてる感じがせえへん?声とかも水の中でしゃべってるみたいにこもって 聞こえるし、感覚とかも鈍くなるやん。触っても、あんまり感じへんくって。きっと 卵の中におるのって、こんな感じなんやろうなあって思うねん。鳥の卵じゃなくて、 おたまじゃくしの卵とか、そういうのやで」 36-7
「おもしろかったですよ、いろんな話で。さっきの卵の話も、そんなふうに思う人もおるんやって、なんか感心した」
「好みの男の子の気を引くねたその一って感じやな。でも、あのパワーは羨ましい気 もするわ」
けいとを見ると、ガラス戸にもたれて膝を抱えて丸くなって眠っていて、ほんとう に卵の中に入っているみたいに見えた。
「わたし、けいとには言うたことないけど、なんとなくわかるねん。卵の中にいてるみたいな感じって」
自分の声がお風呂場の壁に反響して自分の耳に聞こえるまで、ゆっくりと時間がかかっているみたいに感じた。お風呂場の中はほとんど空気の流れがなく、空気の塊が ここでじっとしているみたいだった。 43
柴崎友香は長らくノーマークできた作家で、ついに読み出せて良かった。というかこれは好きだわ。表現意図と表現内容の合致ぶりが明瞭というか。日本語圏の女性作家で(という区分け自体もうさすがに違和感もあるとはいえ)これから川上弘美や川上未映子に並ぶ“各世代代表”的なプレゼンスを発揮しゆくこと間違いないようにも感じられる。
おばさんたちの視線に気がついていないかわちくんは、まだ窓の外を見ていた。落ち着かないできょろきょろと周りの建物や通りかかる人を見ているみたいだったので、このあとどこへ行こうか考えているのかなと思った。半袖のシャツから出ている腕は、 白かったけれどしっかり筋肉がついていて、やっぱり男の子の腕やなと思った。
「なあ、かわちくん」
かわちくんは、不意をつかれて反射的にわたしを見た。
「かわちくんは、わたしに振られたらどうする?」
目を丸く開けて、それからきれいな形の毛を寄せて、かわちくんは聞き返した。
「え……、それって……、そういうこと考えてるってこと?」
「違うって。ただ聞いてみてるだけ。どうする? わたしに振られたら」
水滴が重くなって流れている、薄茶色のコップのお水を一口飲んだ。冷たいだけでなんの味もしなかった。
「だから、たとえば、めっちゃ泣いて部屋に閉じこもるとか、友だちと飲みに行って暴れるとか、しつこく電話かけてきて待ち伏せしたりするとか、あ、それか合コンに行きまくるってパターンもあるやん?」
かわちくんは、わたしがそんなことを言っているあいだも、黙ってテーブルの上のお水のコップのあたりをじっと見ていた。答えが返ってこなくて、なんでこんなつまらない質問をしてしまったのかな、と思い始めたころ、やっとかわちくんが口を開い た。
「ぼくは、どうもしないと思う」
かわちくんの目は、わたしの目を見ていた。
「なに? どうもせえへんって」
わたしは、かわちくんの顔とかわちくんのうしろの鏡に映っている自分の顔を見な から聞き返した。かわちくんは、水は飲まないでただコップの縁を指でなぞりながら、少しずつ言葉を繋いだ。
「ぼくは、たぶん、どうもしないと思う。今、ぼくはちょが好きで、振られるときも たぶんおんなじようにちょが好きだと思うから……。ちょがぼくを好きじゃなくなったらしかたないし、どうしようもないっていうか、だけど、ぼくが好きな気持ちは変わらないんだから、泣いたり暴れたりしなくていいような気がする。そういう感じで、どうもしないっていうこと」
かわちくんはまじめな顔でそこまで言って、言い終わってからやっと照れたようにちょっと笑った。わたしは自分で聞いたくせに気恥ずかしくなって、ふーん、と愛想のない返事をして、窓の外を見ているふりをした。空は、さっきよりも少し明るくなっているような気がした。
「おまたせしましたあ」
妙にはしゃいだ声で、注文を聞きにきた女の子がランチセットのオムライスを持つてきた。 204-5
「ジャームッシュ以降の作家」と題された、保坂和志による文庫版解説より下記引用。
このとても機敏な動きの連続は、一見日常そのままのようでいて、本当に構成されている。この書き方ができる人は、ほんのひとにぎりの優れた小説家しかいない。
つい昨夜も、NHKでかなり力の入ったドラマをやっていたのだが、“大事なことを二人の登場人物がしゃべる”というシーンがどうしても出てきてしまって、二人がまったりと夜景かなんかを眺めながら昔の話なんかをしているそのあいだ、カメラは二人の表情をいったりきたりするだけで、こういう機敏な動きを忘れてしまう。
小説も映画もテレビのドラマも、ただ筋を語ればいいというものではない。映画やドラマならカメラが何を写すか、小説なら何が書かれているか、というその要素によって、作品独自の運動が生まれて、それが本当の意味での面白さになる。もっといえば、それだけが作品独自の“何か”を語り出す。逆に、この運動がなくて、同じ対象や同じ気分にとどまる作品は、ただ感傷的になることで読者の満足感を演出することしか知らない。
この機敏な動きは導入部分だけでなく、この小説全体で止まることがない。だからそれに気がついた――つまり、それを楽しむことのできた――読者はきっと、一見簡単でするりとした外見(つまり「筋」)にもかかわらず、読むのに案外時間がかかっただろう。気がつかなかった読者は(だいたい感傷的な展開しか期待しないタイプの人たちだから)、「なに、これ」としか思わなかっただろう。不幸なことだが、ふつう読者だけでなく、仕事で毎日のように小説を読んでいる評論家も、仕事ゆえに注意力が麻痺していて、この小説の運動に気がつかず、「十把ひとからげ」の新人と同じだと思ってしまう。しかし柴崎友香はそうじゃない。ちょっとだけ目新しい書き手は簡単に発見できるけれど、柴崎友香はもっとずっと異質な書き手だからその新しさに気づくのが難しく、読み手自身の力量が問われることになる。 218-9
4. 納富信留 『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』 岩波新書
むしろ、あなたがソクラテスの生涯、とりわけ哲学者としての営みをアポロン神の使命として、象徴的に真実を語り直したものではないでしょうか。つまり、「ソクラテスの弁明」という著作は、「真実」を明かすための創作(フィクション)だと、私は考えています。 68
プラトンの邦訳も多い納富信留による、プラトンへ語りかける文体で綴られた意欲的なギリシア哲学入門書。その試みが成功しているか否かについては、語りかける納富の視座へいまいち入り込めず、終始微妙な居心地の悪さを感じながら読み進めたためあまり肯定的には評価できないが、かといっていかにも新書にありがたちなつまりは凡庸な語り口で対話編を解説されても最後まで読み切ったかはとても怪しい。つまりはアリ、ということになる。
身ごもり張り裂けんばかりになっているその人は、美しいものをめぐって興奮を膨らませます。美はその苦痛から解放します。 これが「美しいものにおける出産」です。
では、一体なぜ生むことを求めるのでしょう。それは、生むこととは永遠の産出であり、 死すべきものにとって不死なるものだからです。(『饗宴』二〇六E)
このディオティマの発言は衝撃的です。 不死なる神々に比して「死すべき」と運命づけられた人間が、出産によって「不死」に与るというのですから。そしてこれが、「善きものが自分のものとなることを、つねに望んでいる」というエロースの規定の実質をなすからです。
人間に限らず動物たちも、出産と子どもの養育をめぐって異常なまでに執着し、時には我が身を犠牲にしてもそれを成し遂げようとします。パイドロスがギリシア神話から例にひいた女アルケスティスの身代わり物語にしても、英雄アキレウスによるパトロクロスの復讐にして も、愛する者のために自己を犠牲にしさえする、これがエロースの力でした。しかし、その真意は、「不死」との関わりにあると言うのです。
()
それはこの方法でのみ可能です。すなわち、生むということです。そのわけは、古いもの 当の代わりに、つねに別の新しいものを残していくからなのです。(『饗宴」二〇七D) 132-3
現代は愛に飢えた時代だと言われます。蜃気楼に誘われて砂漠を彷徨うように、間違った愛の見方に囚われる。そこにはもう「人間」はいません。求めるものを間違えると、求めるということ自体が間違っていたような罪悪感が生まれます。愛に責任はありません。それを間違えて捉える私たちがいけないのです。
ですが、かけがえのない人は、人生において確かに存在します。家族、友人、そして恋人や配偶者、私たちは真剣に生きるなかでそういう人たちと出会っていきます。「赤い糸」のように前から決まっている運命ではありません。しかし、たまたま出会った人々と一緒に生きていくこと、それが「かけがえのなさ」を育んでいくはずです。
私は「あなた」と出会い、人生を一変させます。いや、そこで初めて人生が意味を持つ気さえします。 そこで出会う私とあなたとは、一体何者でしょうか。私とは、もはや肩書きや財産や容姿や、この肉体とそれにまつわる物を指してはいないはずです。私が出会うのは「あなた自身」であり、そうして出会っているのは「私自身」です。つまり、魂と魂とが裸で出会い触れ合うのです。それは私たち人間同士が抱きうる、そして抱くべき愛なのです。私たちは言葉 を語り合いながら、なにかを求め、生み出しながら必死に生きています。その同じものを愛し 求める者同士、あるいは導き手が、かけがえのない愛の仲間です。
そんな愛は「饗宴」の最後で、サテュロス劇のように加えられたもう一つの演説で影のよう に示されます。酔って宴会に乱入してきたアルキビアデスは、横たわろうとした寝椅子にソク ラテスの姿を見て、飛び上がって叫びます。
おおヘラクレスよ、こりゃ一体何事だ。ソクラテスではないか。あなたはまた私を待ち伏せてここで横になっていたのですね。いつも、けっしていないだろうと思う場所に、突然出現して!(『饗宴』二一三B―C) 142-3
さまざまな職業や役割を担う市民からなる共同体は、どのようにして寄せ集めの集団から 「国家」という存在になるのでしょう。それには、国家を一つのものとして、その全体を配慮する者が必要です。 それが他の分業者とは異なる知恵を持つ守護者です。善い守護者に統治された国家は正しいあり方を示します。そこに、国家の各成員、つまり市民が自ら相応しい仕事に従事し、分を越えないこと、すなわち正義が姿を現します。
私たちの魂が国家と同じようにいくつかの働きから成り立っているとしましょう。「生産者、戦士、守護者」に対応して、それぞれ「欲望、気概、理性」という部分が見えてきます。それらが自身の仕事を行いながら、バランスをとっている秩序が「正しさ」のようです。
こう見ていくと、「正しい国家」は秩序があり調和のとれたもの、「不正な国家」はそういった秩序や調和がない国、というだけに思われます。しかし、そもそも「国家とは何か」を見ていくなかで「正しさ」を見出したように、国があるということは正義に支えられているのであり、本当に不正な国家、つまり一部の人々や一人の人が欲望のままに自分のやりたいことを奔放に行う場は、もはや国家というあり方を示していないことが分かります。不正の究極にある僭主制は、もはや国家ですらないのです。
魂も同様に、理性が命令を下しながら気概がそれに従い、欲望をコントロールして全体とし善きあり方を実現するのが「正しさ」です。またそれが、魂があると本当に言える状態なのであって、欲望がどんどん暴走して、理性や気概をそれに奉仕させるというあり方では、もはや魂とは言えません。正義とは、複合的なあり方をする存在を成り立たせる「一」の根拠なのです。
すると分かります。人間の本性は欲望にあるのではなく、その解放は人間性の実現ではない。人間が存在する、つまり生きると言えるためには、理性に従った正しいあり方、「一である」 あり方を実現する必要があるのだと。 他人に見られていようがいまいが、正義を行うのは私たちが自分であるためであり、一つの生を実現することです。罰せられないからといって不正を行い、正しくないあり方をすることは、自分の形を知らないうちに破壊していくこと、自分でなくなることであり、それはまさに不幸であり害悪なのです。 158-9
時間をかけるに値する読書であった。ととりわけ感じさせたのはでも、語り口よりも終盤の宇宙と時間をめぐる記述&引用部。
ガチ面白ぇ。
「プラトン」という名は、カルキディウス(四世紀頃)がラテン語に訳した『ティマイオス」をつうじて、中世では宇宙論者として知られていました。制作神による宇宙制作の理論です。自由奔放な想像で、現代には通用しないと思われがちですが、シュレディンガー(一八八七―一九六一)やハイゼンベルク(一九〇一一九七六)ら、現代の物理学者たちはプラトン対話篇の愛読者で、そこから多くのヒントを得たと言われています。量子力学の理論を打ち立てたハイゼンベルクは、青年時代に屋根の上で「ティマイオス」を読みながら、物質の究極はプラトンが考えた幾何学図形のようなイデア的なものか、それとも数式なのか思案していたと、後年、「部分と全体」という著書で語っています。『ティマイオス』の魅力は、始まりにどこまで遡れるか、その想像力にあります。言葉と理性による挑戦です。
それ以前にも大きな影響がありました。ルネサンスに復権したプラトンの自然学は、コペルニクス、ケプラー、ニュートンら近代の理論家たちに、自然法則を数学的に捉え、自然界を解明する新たな宇宙論を示しました。なかでもケプラー(一五七一―一六三〇)は「ティマイオス」 の幾何学的宇宙理論に刺激を受け、「ブラトン立体」とも呼ばれる五種の正多面体が、六つの惑星の軌道に対応すると想定したほどです。 近代科学はプラトン主義のもとで進歩しました。万物は斉一的な秩序で成り立ち、原因から合理的に説明される。その洞察を打ち立てた古代ギリシア哲学が西洋科学を生みました。素朴には、異なった場所や時や状況で異なった現象が起る、そんな風に考えても不思議はありません。しかし、時間や空間をつうじて万物が従う法則や理論があり、その斉一性の根拠が数、つまり、算術や幾何学というイデア的秩序にあるとする見方は、すぐれてピュタゴラス派的、プラトン的でした。 178-9
私たちの宇宙が斉一的にずっとありつづけるのは、それに似せて作られたからです。
世界の創造を神の仕事とする伝承は、ギリシアでも旧約聖書でも、他の文化圏でも見られます。だが、これは結局「神話」ではないか。ギリシアの哲学者たちが合理性によって退けた非合理に戻っただけではないか。現代の読者は、おそらくそう反発することでしょう。 そもそも、「デミウルゴス」なる神の存在と役割が謎です。
しかし、ティマイオスの宇宙論が通常の神話と異なるのは、原因が理性的に開示される点にあります。宇宙の始まりや成立について語るのは、たしかに「ありそうな筋」に過ぎません。ですが、哲学の問いに答えるために、日常の常識をはるかに超えた次元で考えることが要求されます。論理や科学といった理性の活用はもちろんですが、それ以上に、限界を超えて思考する想像力が必要なのです。その途筋をもう少し追ってみましょう。
単一なるモデルに似せたことで、宇宙は単一のものとしてありつづける。この論理を考えます。通常は一つのモデルに複数の似た像が作られます。一人の女性にたくさんの肖像画が描かれるようなものです。しかし、ここではイデアというモデルが持つ単一性という特性を模倣することで、宇宙の単一性が保証されます。そうして作られた宇宙は「本性上もっとも立派でもっとも善い作品」であり、魂を備え理性を備えた「一個の可視的な生き物」(三〇B―C) です。
宇宙という大いなる対象を論じるには、理性と神話にわたる想像力が必要になります。 「つねにある神」である制作神によって作られた宇宙は、「いつかあることになる神」とも呼ばれます(三四A―B)。宇宙はそうして理性が把握する対象となります。つづいて、宇宙の魂を制作する混合が説明されて、時間の叙述に移ります。この一連の論述は、「宇宙は生成した」 という始まりから合理的に積み上げる宇宙のあり方の言論であり、それ自体が言葉による宇宙の創成に見えます。
そうして制作された宇宙は、永遠のモデルに倣って時間における永続性を有します。その 「時間」を解明することが次の課題となります。
時と永遠
時間は生成した。この説は、現代の宇宙物理学から見ても、あながち間違ってはいません。ビッグバン仮説では、宇宙は時間と空間の区別がつかない一種の無の状態から忽然と誕生したとされるからです。アインシュタインが構築した相対性理論では、それまでの伝統的な物理学 (ニュートン力学)で分けられていた時間と空間を合わせた「時空」が導入されます。時間と空間は独立ではなく、相互に関係する。 182-3
しっかり考えたい。けれど時間が、ねぇ。ってマルクス・アウレリウスにだってできたんだから、言い訳よね。それにほら、こうして時間はありていにあるもんでもないらしく、だから作るとかじゃなく、あるんだよ。どの瞬間にも生まれてる。の。
第6章 宇宙の想像力
()
有限な中間者である人間は、思考によって宇宙の始まりを捉え、宇宙の中に自分の存在を見据えます。そこで初めて、私がある様が見えてくるはずです。いや、そこで宇宙と一体化すると言うべきでしょうか。自我や個人の魂といった次元をはるかに超えて永遠を志向し、そこに身を置くこと。プラトンさん、それがあなたの指し示す先だと思われます。
ストア派の哲学を学びながら、あなたの哲学にも大きな敬意を払っていたローマ皇帝マルク ス・アウレリウス(一二一―一八〇)は、自身への語りかけで、あなたの言葉を引用する間に美しい一節をはさんでいます。
共に周回を走る者として、星々の走路を観察せよ。また、元素相互の変化を絶えず心に思え。これらを想像することは、地上の生の汚れを浄め去るのだから。(マルクス・アウレリウス『自省録』七・四七)
人間が宇宙と一体であるというストア派の思想は、あなたの宇宙論の後継者です。
永遠の相の下で
「永遠の相の下に見る」 (sub specie aeternitatis) という言い方があります。オランダの哲学者スピノザ(一六三二―一六七七)の一元論に関して使われる言葉です。プラトンさん、あなたの視点もこのように表現できるかもしれません。私たちが生きている限られた宇宙とほんの短い時間とを、永遠という別の次元から眺める時、現状のしがらみから解放され、人生の意味やかけがえなさが、まったく別の相貌で見える気がします。その超越が向かう先がイデアであり、私たちの言葉を超えた永遠がそこに広がるからです。
「永遠」という非近代的な話題を哲学に復活させた人がいます。ニーチェです。彼はある時点から「永遠回帰」という理念を語り始めます(「ツァラトゥストラはこう言った」)。人間を克服して到達すべき超人。それを考えると嘔吐をし、のどの蛇を噛み切らないと済まないぞれ。そして迎える大いなる正午……。ニーチェが見ようとした「永遠」は、時間における永続であり、肉体を持って私たちが生きる世界です。生きるとは、永続的に回帰する現在に耐えること。これはプラトンさん、あなたの永遠という相を覆そうとするニーチェの応答でした。 193-4
一応、下記記事執筆を踏まえて読んだ。
拙稿「イデアの海原 『IDEA―2台のアンドロイドによる愛と死、存在をめぐる対話』 金沢21世紀美術館」
https://www.kirishin.com/2023/11/09/63134/
5. 夏目漱石 『坊ちゃん』 新潮文庫 [再読]
歌は頗る惣長なもので、夏分の水飴の様に、だらしがないが、旬切りをとる為めにぼこぼんを入れるから、のべつの様でも拍子は取れる。この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これは又頗る迅速な御手際で、拝見していても冷々する。隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間が又切れる抜身を自分と同じ様に振り舞わすのだから、余程調子が揃わなければ、同志撃を始めて怪我をする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険もないが、三十人が一度に足をして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遅過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、中々以て汐酌や関の戸の及ぶところでない。聞いてみると、これは甚だ熟練のいるもので容易な事では、こう云う風に調子が合わないそうだ。ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、このぼこぼん君の拍手一つで極まるのだそうだ。傍で見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実は甚だ責任が重く非常に骨が折れるとは不思議なものだ。 154-5
長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隠れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、己れは小供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わからぬ寐言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねた位だ。その時は三日ばかりうち中の笑い草になって大に弱った。ことによると今のも夢かも知れない。然し慥かにあばれたに違ないがと、廊下の真中で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響いたかと思う間もなく、前の様に拍子を取って、一同が床板を踏み鳴らした。 それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっ ちも負けん位な声を出して、廊下を向へ馳けだした。おれの通る路は暗い、只はずれに見える月あかりが目標だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真 中で、堅い大きなものに何をぶつけて、痛いが頭へひびく間に、身体はすとん前へ抛り出された。こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。 51-2
清の事を話すのを忘れていた。()おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ早々帰って来て下さったと涙をぽたと落した。おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んで仕舞った。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
6. 町田康 『[現代版]絵本 御伽草子 付喪神』 石黒亜矢子絵 講談社
彼等は船岡山の後、長坂の奥、という割と市内に拠点を築いた。なぜなら、あまり遠くだと、食物すなわち新鮮な人間が手に入らないからである。恐ろしいことである。
さあ、そんなことで、彼等は頻繁に市内に出没、人間を捕らえては食し、それで足らぬときは人々の大切な財産であり、輸送交通にも欠かせない牛馬も捕らえて食した。市内の道路の、いたるところに肉片や骨が散乱し、血痕が残り、それに青がたかっていた。人々は恐怖と悲しみが極点に達し、狂ったような、無気力なような、訳のわからないヒステリー状態になっていた。人々には夕日が通常の三倍く らい大きく見えた。言葉も涙も次第に失われていった。そこいらの神社や祠から火が出ていた。康保の頃合いの出来事である。 23-5
原典の「御伽草子 付喪神」と異なり、物が化けた妖怪らが武闘派と穏健派に分かれ、鴨川で対峙し、ビームとかバリアとか繰り出す町田世界。
「やかましいわ、蛸。俺はねぇ、一緒に仕事してておまえのそういう木材的にのんびりしたところが一番嫌だったんだよ。いまは懐かしいとか言ってる場合じゃねぇだろ」
「と、申しますと」
「怒られていてやがる。いや、だからさ、俺なんかこのままだったら錆びてぼろぼろになっちゃうわけだよ。そうなったら困るだろ。そこの茶碗、おまえもそうだろ」
「僕は錆びません」
「いや、そうではなく、このまま粉になったら嫌だろ、つってんだよ」
「ああ、それは嫌です」
「だろ。だから俺たちは立ち上がらなきゃならんのだよ」
と、庖丁が言ったとき、そこここから、「その通り」「異議なし」という声が上がった。声を発していたのは、木、ヌンチャク、金槌、といった過激の御連中であった。 7-9
最後で仏に帰依する教訓物であるからこそ世に語り継がれたであろう原典から、帰依などせず分裂しただ争い滅し国破れて山河あるのが町田宇宙。
この事実を数珠はどうしても認めることができなかった。
経を読んでいるときも飯を食べているときも、忌まわしい記憶は数珠のなかに嫌っていた。そのことを考えると眠れなくなり、和歌とか作ろうかな、と思ってしまう。 42
7. 松本清張 『小説帝銀事件』 角川文庫
1948年1月の帝国銀行椎名町支店における行員毒殺&強盗事件を、松本清張が綿密な取材と構想を経て小説化。
という体裁ながら、実際は掲載誌編集長の判断で小説形式とされたようで、清張自身はノンフィクションを望んだらしく、その経緯は作品本体へ如実に反映されており殆どルポとして読める。ゆえにいわゆくモキュメンタリー的なおはなしに映る部分もあり、どこまでが事実をめぐる清張の推理で、どこからが清張による創作なのか作品本体のみからは判別できない。
しかしこのことは作品に類稀な緊張感を生んでもいて、GHQ占領下で元軍人それも陸軍中野学校(旧軍の諜報部門)やら731部隊系との関連が疑われる流れは極上のミステリーを読む興奮にそのまま通じて終盤まで弛みなく飽きさせない。この虚実定かならない読み味には初めて感覚する面白さがあった。
8. 『群島語~Archipelago』 自主制作
三鷹のイベントスペースSCOOLでこの8月に2日間開催された《Archipelago~群島語》展の展示カタログ。カタログといってもこの企画は佐々木敦&映画美学校主催の講座「ことばの学校」2期生の修了展に位置づけられたものゆえ、本書の内容も図版や展示写真よりも文章がメインとなっている。
筆者も最小単位ながら参加しており、収録された拙稿も身心ともに生涯MAXレヴェルでキツかった7月当時に可能限界まで精魂を込めたし愛着もある。ただ一個の表現物としてみれば、速成の経緯も知っているため不満もないのだけれど、展示カタログとしても言語表現ジャンルの冊子としても半端な練られていない感は否めない。企画そのものの端緒から嫌な思いしかしなかったことが、この評価に影響しているならとはむしろ望む。それは冊子の水準が思っているほど低くはない可能性を含み込むからだ。
なお本書収録の多くの文章作品は、下記サイトでも読める。
群島語note: https://note.com/guntougo
個別には板野晶「X年8月10日N島」「X 30年8月10日N島」と下坂裕美「心臓」が突出して良い、というか好き。次点で今津祥「隙間」。変化球として近藤真理子「桃食まぬ子ら」「『オニガシマの調査レポート』試訳」、高橋利明「高橋利明自転時点自伝」。小品として板野晶「ファミリーレストランからの手紙」。なぜか知らないが秋頃まで上記サイトでは、読みにくいはずの自身の作品(プリズン的なやつ)に企画作中最多の
(スキ)がついていた。今見たら3番目くらい。5つあるテーマでは展示性との連環など熟成度で《二つの時点》が一歩抜け。あと参加者十数名が影響を受けた三冊を各々紹介する《我々の教科書》は、単純に読み物企画としての完成度が高い。
9. 村上春樹 『1Q84』 BOOK3〈10月-12月〉後編 新潮文庫 [再読]
天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。 私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
祈りの文句は、口からそのまま自然に出てくる。条件反射に近いものだ。考える必要もない。その言葉のひとつひとつは何の意味も持たない。それらの文言は、今となってはただ音の響きであり、記号の羅列に過ぎない。しかしその祈りを機械的に唱えながら、彼女は何かしら不可思議な気持ちになる。敬虔な気持ちとさえ言っていいかもしれない。奥の方で何かがそっと彼女の心を打つ。たとえどんなことがあったにせよ、自分というものを損なわずに済んでよかった。彼女はそう思う。私が私自身としてここに――ここがたとえどこであれ―いることができてよかったと思う。
あなたの王国が私たちにもたらされますように、と青豆はもう一度声に出して繰り返す。小学校の給食の前にそうしたように。それが何を意味するのであれ、彼女は心からそう望む。あなたの王国が私たちにもたらされますように。
天吾は青豆の髪を指で梳くように撫でる。 594-5
ここがどんな世界か、まだ判明してはいない。しかしそれがどのような成り立ちを持った世界であれ、私はここに留まるだろう。青豆はそう思う。私たちはここに留まるだろう。この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はここからもうどこにも行かない。どんなことがあろうと私たちは、このひとつきりの月を持った世界に踏み留まるのだ。天吾と私とこの小さなものの三人で。
タイガーをあなたの車に、とエッソの虎は言う。彼は左側の横顔をこちらに向けている。でもどちら側でもいい。その大きな微笑みは自然で温かく、そしてまっすぐ青豆に向けられている。今はその微笑みを信じよう。それが大事なことだ。彼女は同じように微笑む。とても自然に、優しく。
彼女は空中にそっと手を差し出す。天吾がその手をとる。二人は並んでそこに立ち、お互いをひとつに結び合わせながら、ビルのすぐ上に浮かんだ月を言葉もなく見つめている。それが昇ったばかりの新しい太陽に照らされて、夜の深い輝きを急速に失い、空にかかったただの灰色の切り抜きに変わってしまうまで。 601-2
10. 宮内悠介 『ホテル・アースポート』 Kindle
軌道エレベーターの麓はかつて観光地で賑わったが、政情不安から今は廃れた麓のホテルで殺人事件が起こる。というミステリー。SF仕立てのミステリーという、ありそうであまりない試み。インド洋に浮かぶ島国、という設定が宮内悠介らしくて好き。
▽コミック・絵本
α. ヤマザキマリ とり・みき 『プリニウス』 12 新潮社 完結
12巻での大団円。フェニキア少女がきちんと大人になって出てきたり、1巻の半魚人も海原から顔覗かせたり色々嬉しい。じめじめしたローマの宮廷劇からつねに距離をとって、アフリカ北岸とか闊歩して独自の自然観察&世界記述をくり広げるプリニウスの爽快さをコミカルに描き切る、結果として当初思った以上の傑作へ昇華しましたね。楽しかった。
にしても辺境総督はともかく、海軍総司令にまでなってたのは面白い。軍人と学者が折り合い悪いという刷り込まれたイメージ/感覚も、よく考えたら不思議だけれど。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ https://amzn.to/317mELV ]
β. トマトスープ 『天幕のジャードゥーガル』 2,3 秋田書店
ペルシャ人学者の娘が、奴隷となってモンゴル帝国チンギス・カン亡き時代の跡目争いへ巻き込まれゆく。シリアスな史実ベースながらコミカル調のデフォルメ画で軽快に描くスタイルは西島大介『ディエンビエンフー』を想わせるが、アクション描写が秀逸な西島作に対し、こちらは宮廷陰謀とエスニックなギミック群で魅せる趣向。
描写の豊穣さゆえ人物相関の複雑さはあまり気にならないし、一般読者であれば敢えて正確に把握しようという気にもならなさそうだけれど、チンギスの長男ジュチや次男チャガタイは現状ほぼ登場せず、継承者である三男オゴタイ勢力と軍事的に突出した四男トルイ勢力との水面下の攻防を主舞台とする着想がまず面白い。金の首都開封を目指す侵攻作戦では、第三軍としてチンギスの弟テムゲもちょい出するのが不穏で良い。後続楽しみ。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ https://amzn.to/317mELV ]
(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
γ. 小山宙哉 『宇宙兄弟』 4-6 講談社
密室訓練劇つづく。謎のミステリー仕立て。謎のギミック「グリーンカード」とか、でもこの半端な名称はたぶん実在するからなんだろうなとか思いながら読み従う。人狼っぽい面白さはあったかな。宇宙、あんま関係ない気もしますけど。
6巻、締めの弟ロケット発射を、兄が前世紀NASA施設の廃墟から見上げる着想はガチ素敵。
δ. 南勝久 『ザ・ファブル The Secod Contact』 1,2 講談社
話が転がりだす前だからこそ活き活きする“妹”ヨウコの感じが、ファブル1st Season初期のゆる和みモードを思い起こさせる。意外すぎる新婚生活描写も込みで。
2巻、隠遁したかったけどどうしたって引きずり出されてまう主人公特性。っていう古典的物語原理そのものがこの独自ノリで再現されちゃうあたりはたぶん、本作の足腰の強さの一端よな。
ε. 原泰久 『キングダム』 45-7 集英社
最高外交官翁・蔡沢による、咸陽へのサプライズ斉王&李牧訪問が面白い。趙の太行山脈をまたぐ展開、山脈名がよく出るとこにぐっと来てまう地理フェチシズムを自覚。
邯鄲攻略への大掛かりすぎる“奇襲”は、図式的すぎる大枠をキャラと細部で押し切る構図がほとんどジョークの域に達しており逆に面白い。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
Amazon ウィッシュリスト: https://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/3J30O9O6RNE...
#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T