pherim

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pherimさんの日記

(Web全体に公開)

2024年
01月03日
17:45

熊本被災地ルポ 廃村決定の村を訪ねて

 
 

 日本福音ルーテル大江教会(熊本市)牧師の立野泰博さんは、熊本地震の直後から、教会周辺での支援活動と同時に阿蘇地域への支援も行ってきた。まだ生々しい爪痕の残る被災地を案内してもらった。

 大江教会は熊本市中核の東寄りに位置し、九州学院に隣接する。九州学院教会を前身とすることから同学院との関わりは深く、立野さん自身も学院で教鞭をとる。震源に近く教会や教会員の被害も大きい中で、地震直後より阿蘇地域への支援へ乗り出した理由の一つには、行政による対応の遅さがあった。メディアでも頻繁に報じられる益城町、御船町などの人的被害は確かに大きい。が、より深刻なのは阿蘇だという。
 立野さんの運転する車で阿蘇へと向かう途上、実際に、報道ではあまり目にした覚えのない町や村でも、益城町同様に全壊状態の家屋が群れなす光景をたびたび目にした。各種のNGOやボランティアによる支援の手もまずは人的被害の大きな地域から入るため、熊本市や益城町に比べて人口規模の小さな西原村や南阿蘇村などは、ライフラインに関わる不可欠の支援ですら後回しになる傾向が強いという。

 

 熊本から阿蘇カルデラへと至るルート上、阿蘇外輪山の麓に「立野」という地名がある。町村合併により南阿蘇村の一部となったその村で、立野さんは生まれ育った。今回の地震では、立野さんのご実家を含む集落全体が再起不能の被害を蒙った。他では被害家屋の内部写真も撮りづらいだろうとのご厚意から、ご実家の屋内も見せていただいた。
 玄関から客間へ土足で上がり真っ先に想起されたのは、東日本震災後に訪れた岩手や福島の記憶であった。日常生活の場が徹底的に破壊され、風雨にさらされるがままになっている。 ガラスや木片があたりに散乱し、黒く湿った畳の目には細かく土砂が詰まっている。向かいの民家は地盤が約5メートル崩落し、本来建物の後ろ半分があったはずのスペースが中空になっていた。

 この周辺集落一帯を廃村とする決定が、地域の自治体により先ごろ為されたという。それにより失われる人のつながりや堆積されてきた時間の厚みを想えば、復興させないという決断は極めて重い。にもかかわらず、こうした現実があまり報じられず、耳目を集めることの稀な現下の情報環境に言い知れない鈍重さを感じとる。廃村決定の一方、個別の市民に対しては居住家屋の全壊と半壊とで給付金額が異なるなど矛盾も大きい。東日本震災や阪神・淡路大震災の経験はこうしたあたりでも、今後より多面的に参照されゆくのだろう。

 

 熊本市から南阿蘇へ向かうほぼ唯一のルートである阿蘇大橋が崩落したため、北へ遠回りして外輪山を越え阿蘇カルデラへと入る。このルートへと人流が集中したため、山道は上下ともに大渋滞の様相を呈している。山肌の縁がそこかしこで大きくのっぺりと雪崩れ状に剥げて、無数の箇所で土肌を覗かせる。鮮やかな緑色と土色のコントラストは強烈で、もしその下に集落があれば丸呑みするだけのスケールをその逐一が持っている。これらのすべてが、今回の地震で生じたものらしい。

 阿蘇でYMCAや教会関係の誰もから共通して聞かされたのは、水害への懸念だった。梅雨と台風、とりわけ台風直撃の危険性が強調された。行政の認識は甘く、被害は阿蘇を水源とする熊本市にも及ぶだろうという。取材は梅雨入り前の6月初頭だったが、7月末の現時点ですでに土砂崩れなど関連の報道が小さい扱いながら現れ始めている。

 こうした行政の対応の遅さについて、憤るでもなく「素人だから仕方ない面もある」と立野さんがつぶやいた。立野さんはかつて東日本大震災時、半年間にわたり現地に泊まり込むなど被災地への支援活動に携わった。しかし、自身が被災者でありながら支援者に回ることの困難を、今回初めて思い知ったという。立野さんの活動は災害と教会支援、ひいては今日における牧会とは何かを見つめ直すうえで極めて示唆に富む。

「となりびとに対して、私もひとりの小さなキリストになる」

 東日本大震災での体験をまとめた著書『被災地に立つ寄り添いびと』で、立野さんが綴った言葉だ。



※熊本取材@2016年6月初旬 (『季刊誌 Ministry 30号』 2016年8月刊行, キリスト新聞社, p.24-5掲載)
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