・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 『ポケット詩集』 童話屋
系図 三木卓
ぼくがこの世にやって来た夜
おふくろはめちゃくちゃにうれしがり
おやじはうろたえて 質屋へ走り
それから酒屋をたたきおこした
その酒を呑みおわるやいなや
おやじは いっしょうけんめい
ねじりはちまき
死ぬほどはたらいて その通りくたばった
くたばってからというもの
こんどは おふくろが いっしょうけんめい
後家のはぎしり
がんばって ぼくを東京の大学に入れて
みんごと 卒業させた
ひのえうまのおふくろは ことし六〇歳
おやじをまいらせた 昔の美少女は
すごくふとって元気がいいが じつは
せんだって ぼくにも娘ができた
女房はめちゃくちゃにうれしがり
ぼくはうろたえて 質屋へ走り
それから酒屋をたたきおこしたのだ
I was born 吉野弘
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと、青い夕靄ゆうもやの奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは突飛しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと 諒解した。僕は興奮して父に話しかけた
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝けげんそうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね――
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってはこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。
父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
――蜻蛉かげろうと言う虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜻蛉かげろうの雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口はまったく退化していて食物を摂とるに適しない。胃の腑ふを開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりとした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげてるように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて <卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。
父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものだった。
――ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。
生ましめんかな 栗原貞子
こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です、私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくて暗がりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
伝説 会田綱雄
湖から
蟹が這いあがってくると
わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ
蟹を食う人もあるのだ
縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を掻きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる
ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたくしたちのために
熱いお粥をたいてくれたのだった
わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
痩せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように
それはわたくしたちのねがいである
こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖の上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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2. 夏目漱石 『虞美人草』 新潮文庫
死を忘るるものは贅沢になる。一浮も生中である。一沈も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣いなしと思う。贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に背いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞なしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
道義に重きを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に――喜劇の進歩は底止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外はずして、死の圜内に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫の陥穽なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄りに飛び超ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
二ヵ月後甲野さんはこの一節を抄録して倫敦の宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり流行る」
ウェルベックみたいな漱石。
3. David Edmonds, John Eidinow 『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』 二木麻里訳 ちくま学芸文庫
全体主義を徹底的に批判したかれの著書「開かれた社会とその敵』が、イギリスで出版されたばかりのころである。ポパーはこの本を、ナチスがオーストリアに侵攻した日に書きおこし、戦況が連合軍勝利へむかいはじめたころに書きおえたという。そして戦争がおわって出版されるとすぐ、優れた読者層から高く評価された。バートランド・ラッセルも賞賛 をおしまなかった一人だった。
ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ポパーという三人の大思想家が一堂に会したのは、この晩が最初で最後である。だが、そこで起きたことについては今日まで意見がわかれる。はっきりしているのは、哲学の問題とはなにかについて、ウィトゲンシュタインとポパーのあいだにはげしい応酬があったことだけである。哲学にはほんとうの「問題」があるとポパーは主張し、それは「謎かけ」にすぎないとウィトゲンシュタインは応じた。二人の「対決」は、すぐに伝説になっていった。 12
ヒジャブとウィトゲンシュタイン、そして研究生のエリザベス・アンスコムは、宗教哲学の議論にはまりこんだ。ウィトゲンシュタインによれば「ある人が宗教的であるかどうかを知りたければ、相手にたずねるのでなく、よく観察すること」だそうである。ウィトゲンシュタインのまえだとヒジャブは、畏れのあまり、ほとんど黙りこんでしまう。だが目のまえにいなければ、師の思考のきらめきをうまくとらえて表現できるときもあったという。
ヒジャブはいま、こう回想する。それまで自分がもっていた知的な基盤や宗教上の信念、抽象的な思考能力のすべてを、ウィトゲンシュタインは破壊してしまった。博士号をあきらめてケンブリッジをはなれたあとは、長年哲学について考えるのをやめ、数学の世界にもどっていた。ウィトゲンシュタインは「原爆か竜巻のようなもの。ただ、だれもそのことに気づかないだけ」であるという。 27
このときウィーン学団のメンバー数名が集まって、シュリックをたたえる書物を出版することにした。「科学的 な世界観 ウィーン学団』というこの書物は、ウィーン学団の目的と価値観を表明する、なかば公式の綱領になった。ここには運動の知的な〈父〉として、三人の名があげられて いる。アルベルト・アインシュタイン、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、バートランド・ラッセルである。
科学の世界における最新理論で、アインシュタインは学団にとってとくに輝かしいスターだった。時間と空間についてのかれのおどろくべき反直観的記述は、ひじかけ椅子に すわって頭をかかえて省察するだけで、世界についてなにかを発見できるというカントの主張にまっこうから異議をとなえるものだからである。かつてカントのしめした発見の一つは「すべてのものに因果関係がある」ということだった。この論は世界のはたらきについてなにかしら語ってはいる。だが経験的な観察から生まれたものではなく、省察である。 その意味ではニュートンの物理学の法則も、省察からみちびきだすことができる。しかし アインシュタインはそれらの考えかたが不合理であるとあばいたことになる。省察だけで ニュートンの法則を演繹することはできない。さらに、アインシュタインの理論によって、 これらの「法則」そのものがいつわりであるとあきらかになったのだった。 128-9
ウィトゲンシュタインの反ユダヤ主義的言明 178, 180
ウィトゲンシュタインが魅惑されたのは、タゴールの詩のもつ結晶のような純粋さと、ひかえめに表現された精神性だったにちがいない。そしてウィトゲンシュタインは壁にむ かって朗読するのが好きだった。 囚われの論理学者たちは、内心のいらだちをみせないように苦労しながらその背中をみつめつつ、われらがメシアのメッセージを読みちがえているのではという疑念がきざしてくるのを感じることもあったようである。
詩人としてのわが虚勢は、汝が目のまえに、恥辱のうちに滅びさらん
おおわが師なる詩人よ、われは汝の足元に座す
わが生が、簡素で率直なものとならんことを
汝が草笛に楽の音を満たすごとくに
234
ウィーン学団の残響は「ノイラートの船」という概念にもつたわっている。ノイラートは反・基礎づけ論者だった。知識に確固とした下部構造はないと考えていて、そのことを説明するために航海の比喩をつかったのである。「われわれは、外洋で自分たちの船を修理しなければならない船員のようなものだ。船を乾式ドックに入れ、最良の部品でくみたてなおすことなどできないのだ」。 246
帰納法の推論プロセスをはじめて疑問視したのは、十八世紀のスコットランドの哲学者デヴィッド・ヒュームである。これまで毎朝太陽が東からのぼったからといって、明日もそうだと信じる妥当な理由はどこにあるのか? ヒュームは、信じる理由はないと考えた。 自然法則にうったえても、どうどうめぐりの議論にはいりこむだけである。わたしたちが自然法則を信じる唯一の理由は、それが過去において信頼できると証明されてきたからで ある。しかし過去の信頼性の高さが、将来についてもなんらかの指針になると考える理由はどこにあるのだろうか。
のちにバートランド・ラッセルは、この問題をつぎのようにいいかえている。「ながらく鶏に餌をやり、育ててきた男がいる。だがある日かれはついに鶏の首をひねる。鶏とし では、自然の恒常性についてもっと洗練された法則をあてはめてもらうほうがありがたかったろう」。ラッセルにはものごとを視覚的に思いえがく才能があったようだ。
ヒュームの仕事は科学的手法にたいして重要な意味をもつものだと、ポパーはしめしてみせた。実験と理論には基本的につりあわない面があるという。いくら実験をかさねても、 理論の妥当性をしめすことはできない。つまり、これまで太陽がどれほどしばしば東からのぼってきたとしても、将来あるとき、太陽はこれまでの骨やすめに休暇をとるかもしれないからである。 ある理論が偽であると証明するには、ひとつの反証があればいい。わたしたちがこれまで黒いカラスを何万羽と目にしてきて、ほかにどんな色のカラスもみたことがなかったとしても、「すべてのカラスは黒い」という命題の妥当性を論理的に帰納することはできない。つぎの角をまがったら、青いカラスが巣をつくっていないともかぎらないのである。 257-8
ともあれ、ウィトゲンシュタインのようにきわめて厳密で、もとめることにおいてきびしい知性のかたまりのような人物が、悪をほろぼそうとするタフガイの探偵物語だの、ロサンゼルスの私立探偵マックス・ラティンの冒険だのに熱中していたという事実には、どこかじんとさせるものがある。ラティンをつくりだしたのはノーバート・ デイヴィスで、ハードボイルドの世界ではハメット/チャンドラーの流れをくんで成功したが、ようは二流どころの作家である。だがウィトゲンシュタインのお気にいりだった。
ラティンという人物は、道徳的感受性はごくまっとうである。だが、事務所にしている湯気のたちこめた満員のレストランで、顧客や警官を相手にするときには、わざとかたひじをはったシニックな態度をとる。自分のまっとうさをかくそうとするのである(ラティンはそのレストランのオーナーである)。しかし必要とあらば暴力にうったえることもひるまず、じっさいにひるんでいられない場合が少なからずある、という設定になっている。
彼は猫のような足どりですっと彼女にちかづき、殴った。拳がうごいた距離は六インチにみたない。だが女の耳の下、あごのつけねの真下をするどくえぐっていた。彼女、 テレサ・マイアはシルクのドレスを優雅にひらめかせて身をよじり、ソファーのむこうがわにたおれ、床にうずくまった。そのままうつむいて、身うごきもせずによこたわっている。ラティンはすぐに片膝と片手をついて、攻撃直前のサッカーのラインズマンのような姿勢をとった。
ぎりぎりまでそぎ落とされた文体には、どこかウィトゲンシュタインの建築を思わせるものがある。かれが姉のマルガレーテのためにクンドマンガッセに建てた住宅の、極限ま で機能的な設計である。 ノーバート・デイヴィスとタフガイの探偵物を気にいったのも、 おそらくその簡潔さのためだったのではないか。
ウィトゲンシュタインをつきうごかした力を理解するには、あらゆることについて正確さをもとめる生ける情熱というみかたがてっとりばやいのかもしれない。 ものごとは正 確か、正確でないかのどちらかである。そしてもし正確でなければ、ウィトゲンシュタインにとっては文字どおり生きるのもつらいほどの拷問になる。 296-7
ポパーは剣でなく、ペンをふるってたたかったからである。じっさいにウィーンでデモの参加者が射殺されるのを目にしたこともあるかれは、ペンをつかってこそ最高の勝利をえられると確信していた。
ところで、ポパーがマルクス主義のもっともすぐれた批判者であったかどうかは、むずかしいところだろう。マルクス主義は科学であるという主張を論破していたかどうかも議 論の余地がある。ポパーによると、有効な科学とは精密な検証をうけるものであり、また検証を可能にする予測理論をしめすものである。予測じたいは大胆なものであるほどのぞましい。
だが疑似科学は、まず検証されることをこばむ(疑似科学は、反証することのできる明確な予測を提示しない。だがたとえばアインシュタインの相対性理論であれば、観察による検証手段がしめされている。そしてサー・アーサー・エディントンがじっさいに観察をおこなって理論のただしさを検証した)。 あるいは疑似科学は、たとえ予測を提示したとしても、見たところ対立する証拠にもとづいて反証を無効にしてしまう。ポパーはこうした疑似科学として、ネオ・マルクス主義とフロイトの精神分析をあげていた。
たとえば革命は、プロレタリアートがもっとも勢力をもっている国では起きなかった、 と指摘したとする。 「ああ、それはこういうわけでですね」とネオ・マルクス主義ならいうだろう。資本主義では、富がますます少数者のもとに集中したりしなかった、と指摘したらどうだろう? 「ああ、それはこういうわけでですね」。ネオ・マルクス主義にはこうした「ああ、それはですね...」というあいまいさが山ほどある(しかしマルクス自身については、ポパーは敬意を表している。マルクスは予測を示したからである。もっとも理論としてはマルクスの予測は反証されたと考えているのであるが)。 350-1
たとえばわたしたちは、原子の粒子運動を絶対的な正確さで記録することはできない。粒子の位置か運動量のどちらかなら定義できるが、その両方を同時に定義することはできない。そこは確率で処理するしかないという理論である。
この問題になやまされたのはポパーだけではない。アルベルト・アインシュタインもである。神はサイコロをなげない、とかれは語ったほどである。世界は完全に規定されてお り、通常の因果法則に支配されている。理論的には粒子の軌跡を百パーセント確実にみとおせるはずだとかれは主張していた。晩年にいたるまでかれは、不確定性をなくす完璧な理論をさぐっていた。
ポパーの場合、自分の客観主義的な直観とハイゼンベルクの不確定性の原理の矛盾を、 もっとべつのかたちで解決した。まず世界に確率というものがあることをみとめよう。しかし、だからといって世界が主観主義的なものであるということにはならない。わたしたちが確率を必要とするのは、わたしたちの無知のためではない。むしろ自然そのものに 「傾向性」が(ポパーは確率よりこのことばのほうを好んだ)存在するからである。傾向性は世界の客観的要素であり、電気とおなじように、じっさいに存在する物理的現実である。したがって、確率には確実性が存在する。 363
ウィトゲンシュタインはそこに謎しかないと断言する。が、それじたい哲学的な申した てではないかとポパーはいいきるのである。なるほどウィトゲンシュタインの主張はただ しいかもしれない。が、それをただ断言するだけでなく、そのただしさを証明しなければならないはずだろう。そして証明しようと思えば、ウィトゲンシュタインはほんとうの〈問題〉についての議論にまきこまれざるをえないだろう――それはつまり、意味のあるものとないものの境界について、自分の考えかたの正当性を精密にしめすという〈問題〉である。したがって、たとえかれからみて大部分の哲学が〈問題〉ではなく〈謎〉にすぎ ないとしても、すくなくともここに一つは〈問題〉が存在するはずではないか。
ウィトゲンシュタインはこの異議をあらかじめみとおしていた。だが、そのこたえは沈黙だった。『論考』にあるように、言語と世界のあいだには絵画であらわせるような関係 が存在する。しかしこの関係そのものを絵画でしめすことはできない。したがって、意味あるものと意味なきものの境界を明確にしめそうとするこころみは、それじたいが、この 境界そのものをこえようとすることなのである。「語ることができないものについては、沈黙しなければならない」。 372
ウィトゲンシュタインの考えかたのいくつかは、すっかり受けいれられたものになった。「意味とはつかいかたである」というウィトゲンシュタインの発想は、スローガンとして長もちすることがわかっている。ことばは、わたしたちのつかいかたをつうじて意味をもつのである。言語というものは、規則にさだめられたどの活動ともおなじように、わたしたちの実践や習慣、生活に根をもっている。
しかし言語は世界を映す鏡であるという幻想を、ウィトゲンシュタインのおかげで捨てることができたとしても、それでわたしたちがすべての問題から自由になったのかどう か? ほとんどの哲学者は、そこを疑問に感じている。ウィトゲンシュタインの救出プロジェクトによって、たしかに、言語にまつわるある種の混乱はとりのぞかれた。それでも、 わたしたちのすべての哲学の問いが、言語のつかいかただけから生まれるものかどうかは疑問である。たとえば、明日も太陽がのぼるかどうかは言語をこえた問題と考えざるをえない。哲学の専門家たちは、意識という神秘や、心身の問題についていまも考えつづけている。言語の分析だけでそれを解決できるとは思っていないのである。
ウィトゲンシュタインは〈謎〉があることをしめしてみせた。だが、哲学には〈謎〉しかないとしめしたわけではないと、ほとんどの哲学者たちは考えている。哲学の〈問題〉 という一隅でたたかったポパーは、これを部分的勝利ととらえたかもしれない。ただ、もちろんかれとしては、ウィトゲンシュタインの無条件降伏しかみとめないだろうが。 423
4. 藤岡陽子 『晴れたらいいね』 光文社
現代の東京に暮らす看護師が、1944年のマニラへタイムリープし、別の日本人看護“婦”として戦場体験をする物語。
まさかと思ったけど、タイトルはドリカム往年のヒット曲《晴れたらいいね》から来ていて、後半で歌われるハイライト場面の抜けの良さは格別。軍属描写や、日本赤十字社の看護婦(日赤救護班)と陸軍従軍看護婦の違いなどよく調べられている一方で、読み味だけでなく話の流れや感情の動きまでリーダビリティを削がないよう敢えて簡略化されている感もあり、なるほどこういう配慮に「純文学」はひたすら欠けるのだな、とは思う。良し悪しは別として。
『赤い天使』 https://twitter.com/pherim/status/1235395995057324032
5. 小泉義之 『生殖の哲学』 河出書房新社
《妊娠》について考えだすと、自分ごととして引き受ける視座をどうしても欲してしまう。これは思考の罠だと言える。なぜなら自分ごととして考えさえすれば、その思考はどんなにやわで貧弱なものであれ「この自分」だけのものとして受け入れられ、つまりは大して考えずとも定位される己に当座安心できてしまうからだ。己の頭のなかだけで。
小泉義之『生殖の哲学』はこの「自分ごと」を端から脇に置く。クローン技術、生殖補助技術、新胚作出技術、遺伝子改造技術のひらく社会的可能性を論じるために、まず序章でオルダス・ハックスリー『すばらしき新世界』のアンチ・ユートピアを皮切りにドゥルーズ、ハラウェイ、ドーキンスらを参照しながら、フーコーにおける生-権力の規律権力的側面のみに着目し商品生産や市民生活の再生産のみを生殖=reproductionと名指すネグリ&ハート『帝国』を「二人の視野からは、すっぽりと肉体の次元が/生殖をめぐる闘争が脱落する」と批判する。
生殖の問題は、特定の場合に中絶するか否かの問題に縮小される。そして、中絶するかを選択することをもって、まるで生殖するか否かを選択したかのように思い込まされる。中絶を選ばなかったのだからには生殖を選んだというわけです。このようにして、生殖を直接に問わないようにさせながら生殖を選ばせるものこそが、生-権力であると見切るべきです。
これは、殺人や自殺の問題化とまったく同型です。自分は殺人を選んでいないからには共生を選んでいるというわけだし、自分は自殺を選んでいないからには生存を選んでいるというわけです。このようにして、共生や生存そのものの意味と目的は問わずに済ませて、現行の生活に安住させる権力が働いている。
障害をもった子どもが生まれるかもしれないということで遂行される選択的中絶が問題化されること自体が、その事態に拍車をかけるものであると見たいわけですね。 107
この箇所はフーコーの“生-権力”をめぐる簡易な説明になっているけれど、より端的で感心したのが下記の箇所。
現実には、性愛によってというよりは、生殖によって、「死の不気味な轟きを聞くことを受け入れている」はずです。人類誕生以来と言ってよい時間スケールで、子どもを生むということによって、奇妙な短い生涯もまんざらではなかったと信じさせるような装置が働いてきたはずです。それが働かなければ、それこそ人間が子どもを生むことを停止してしまうような装置が働いてきたはずです。 42
ターミネーターやエイリアン4を挙げつつ、フェミニズムやカルチュラル・スタディーズ、ラディカル・デモクラシー等を渉猟する筆致そのものが、デカルトに始まりスピノザ、ライプニッツなど正統的哲学を経た著者の「自分ごと」を相対化するかのようにどこかアイロニカルな響きを具えとても読ませる。また2024年のベスト映画に挙げるひとが今後量産されること確実な『哀れなるものたち』初見の衝撃下で読んだためもあり、フランケンシュタインを扱う中盤の読み味からは、全編体当たりでエマ・ストーンが演じた「おのが胎児の脳を移植された貴婦人のからだ」の視覚記憶が想起されつづけ、クローン技術も遺伝子操作もバッチ来いな小泉の筆運びにウィレム・デフォー演じるマッド・サイエンティスト“ゴッドウィン”の語る薀蓄が重なりつづけた。
なかでも白眉は、ひたすら童貞主人公の屈託を描く三島由紀夫『金閣寺』さえも「生殖」文脈で読む後半の一章だ。ここで小泉は、蜂と菊の関係をめぐる叙述「菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたものであり、その美しさ自体が、予感に向かって花ひらいたものなのだから、今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ」(p67)をとりあげ、生を輝かせる美しい形態こそが蜜蜂=主人公の欲望を失墜させたゆえに「金閣を焼かねばならない」という実践へ至るとする。この記述の直後に、「難民は、それでもと言うべきか、だからこそと言うべきか、子どもを生んでいます」と問いかけ、
子どもを生むことにおいて、悲惨な人生と死を癒すような意味を見いだすというのではなく、そうではなくて、どこからともなく発せられているとしか、いまのところ言いようがない使命に促されて、子どもを生むのだと考えてみたいのです。そうすると、いかなる子どもであれ歓待するということ、いかなる状況にあっても子どもを生むということが、唯一の譲れない「人生に対する行為」ではないのかと思われてきます。 68-9
と結ぶ著者の生命観は明瞭だ。またこれら原理をたぐる思考からぽっと出るフレーズの数々も素で面白い。たとえば献体者や臓器提供者には一銭も払われない現状に対する以下のくだり。
臓器移植や人間部品産業で儲けているのは専門家権力であり、搾取されているのは病人自身と献身者である。考えてもみよ。これほど移植をめぐって第三者が稼いでいるのに、どうして病人が何千万円もの大金を負担しなければならないのか。しかも、病人自身が金策に駆け回っているのだ。どうして臓器提供者に一文も支払われないのか。冗談ではない。商業主義そのものが間違っているのではない。不公正な商業主義が蔓延しているから間違っているのだ。対価を与えることが間違っているのではない。対価が搾取されているから間違っているのだ。
医師会や政治家が束になって潰すだろうことばの明解さ。
生殖をめぐり「ねばならない」の思考をもたらす生-権力構造の外側に立つ視点から、2001年~2003年の執筆時点でベーシックインカムの有用性を述べている点も大変興味深い。BIの語が巷間に膾炙するのは2010年代か早くともゼロ年代後半だったように記憶するから、もしかしたら著者をこの概念の日本語圏における提唱者のひとりと数えて良いのかもしれない。それは下記のような思考からもたらされる。《妊娠》をめぐり書く試行の要から生じた読書メモの締めとしても相応しく、とりあえずこれにて終える。
私は生殖を肯定するし、殺すことを否定し生かすことを肯定しますが、だからといって出生率が上昇したほうがいいなどとはまったく考えません。また、これは強調しておきますが、出生率が低下したほうがいいとも考えません。それは、どちらでもいいし、どうでもいいことです。各人が子どもを生むかどうか、人口が過剰かどうかなど、大した問題ではない。騒ぐほうがどうかしている。そんなことより、はるかに重大なことは、誰かが子どもを生まなくとも、その誰かの現在の生活が、死後の生殖を当てにしているということです。ここを見込んだ上で、いかなる未来といかなる生殖を選ぶのかを問いたいのです。 103
6. アンディ・ウィアー 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 上 小野田和子訳 早川書房
宇宙船内で記憶喪失した宇宙飛行士が目覚め、ミッションを思い出せないまま宇宙人の船と遭遇し、仲良しバディとなって窮地脱出を試みる。という展開の、仲良しになるまでが上巻。この面白さはつまり、こう書いてしまうとフワフワしたファンタジーSFちっくにさえ思えてしまうところを、『火星の人』ばりに20世紀的リアリスティックな技術描写で地に足ついた物語であるかのように感じさせてしまう巧さにまず由来するのだろう。記憶喪失の謎解きへと収束すると予感させる出発前の回想パートとの往還もリズミカルでテンポよく読め、これぞ読みたいエンタメ、飽きずに読み終われるエンタメ作よなと感心させられる。
『オデッセイ』 “The Martian”ツイ:https://twitter.com/pherim/status/1609892864682778624
7. 橋迫瑞穂 『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』 集英社新書
本書は妊娠・出産にまつわるスピ系コンテンツを「子宮系」と「胎内記憶」、「自然なお産」の3つに分け論じる。その総体が、科学的裏付けを欠くぶん時にリスクを伴うにも関わらずこれらへ頼らざるを得なくない女性の立場に同情的ながら、分析の筆致はあくまで価値中立的な点がとても信頼できる。
そのうえでまず面白いなと感じたのは、事が妊娠・出産へ特化してさえ、ひとのイマジネーション展開は定型的で、既視感さえある構図がくり返される点だ。たとえば担い手に医療従事者や鍼灸師など専門家も多い「子宮系」は、子宮マッサージや子宮温活など自助努力をベースとする「努力型」に始まり、インナー子宮風水や「子宮の声を聞く」などの「開運型」の登場を迎える。仏教でいう上座部から大乗へ、そして念ずれば叶う鎌倉仏教の登場を想う。とても雑駁に言ってしまえば「胎内記憶」神話は旧約聖書のようだし、「自然なお産」信仰はカトリックの現状追認図式を想わせる。
またこれらが日本では保守思想と親和性をもち、フェミニズムとは折り合いが悪いという指摘も面白い。(「「胎内記憶」が日本という国家観に結びつきやすい」102)
「鳥居は入り口で、参道は産道、お宮は子宮です。そして鳥居をくぐって入ってくる御神輿が精子」だという見立てを披露している。この見立ては、「アメリカ発のセックスのクリトリス主義」と対照的なものに位置づけられている」(by 三砂ちづる) 160
あまりにもわかりやすく戯画化された箇所ゆえ引用してみたけれど、もちろん当事者の多くが保守思想へ取り込まれやすいという話がされているわけでもない。
ただし、妊娠・出産のスピリチュアリティが保守的な国家観と結びつくことがあっても、当事者である女性自身がそのような価値観を必ずしも受容しているわけではないことは強調しておきたい。国家や伝統が持ち出されるのは、あくまで〈母〉という確たる存在になることの価値を補強するためであり、その逆ではないからである。 191
ここで着目したいのは、つまりこの傾向性こそ助産院など制度的にも実在する事例の特殊性を説明するもので、かつそれゆえにフェミニズム批判へ向かう素地を用意した点だろう。
こうしたことから、妊娠・出産のスピリチュアリティにおいて重視される家族とは、夫婦と子どもからなる現実の核家族ではなく、また、家父長的な伝統的家族観を引き継いだものでもない。そこに見いだされるのは、擬制的な母系家族と言えるだろう。
こうした身体観は、身体性の内奥で起こる妊娠・出産と超越性とが接続する一方で、身体の外にあるもの、つまり社会に対する視線が排除されていることと関係している。妊娠・出産のスピリチュアリティにおいて、例えば職場やそのなかでの女性の立場、あるいは育児に関わる社会的条件などにはほとんど言及されることがない。また、「自然」という言葉が多用されているにもかかわらず、実際の社会における自然破壊の状況だとか、地球環境の悪化だとかいった問題に触れられることも少ない。
さらに、外部の社会を排除した家族観は、スピリチュアリティが代替療法と親和性が高いことと関係している。 188-9
このなかで、今日現在では批判されまくりなイヴァン・イリイチのジェンダー論における妊娠をめぐる理論が言及され、ヴァナキュラーな場/コンヴィヴィアルな組織論といった概念を興味深く感じた。がこれらの探求は今後の課題とし、ここでは著者による総括的な段落を引用して一旦締める。
いずれにせよ、日本という社会において妊娠・出産は女性の人生に負担とともに大きな変容を迫る。男性が子どもを持ちながらも、仕事に専念できる人生が保証されているのと比較すると、その違いが一層際立ってくる。
こうした変容を受動的にではなく能動的に働きかけるなら、妊娠・出産を経て〈母〉になることを、外部に期待することなく、自身の内面からの積極的かつ純粋な希望としてとらえる必要がある。そのためには、妊娠・出産を経て〈母〉となる身体を、自分の手で積極的に肯定して導かなくてはならない。そこで女性としての自身の身体性と、妊娠・出産 とを言うなれば祝祭に導く手段として、妊娠・出産のスピリチュアリティは「市場」で需要を得る。だがその先にあるのは、聖別された〈母〉と子ども、そしてその関係によってのみ構成される「家庭」である。そして、女性を取り巻く状況が変化する兆しが見えないなかで、「スピリチュアル市場」では新たなコンテンツが生み出されているのである。 206
『フォルス・ポジティブ』 https://twitter.com/pherim/status/1738140518276854215
8. 窪美澄 『夜に星を放つ』 文藝春秋 [再読]
「じゃあね、また」
公園の入口で、もう会う気はないのだろうに、また、と言うところが村瀬君らしいな、と思った。
「さようなら」
私はそう言うと、村瀬君に背を向け、もう一度もふり返らずに自分の部屋を目指した。時々、顔をあげて空を見た。明るい星がふたつ、私を追いかけてくるようだ。ポケットの中のミルクティーはまだほんのりあたたかかった。何があっても、どんなことが起こっても生きていかなくちゃ。なぜだか私は強くそう思い、村瀬君が巻いてくれたマフラーの中に顔を埋めて、アボカドが待っている自分の部屋に足を進めた。 46
死んでしまった双子の妹の元彼との、距離感。義母とのギクシャクした関係から孤立した少年が出逢う、同じ建物に住む高齢女性の描く空襲の夜。いかにも世の中にはありそうながら、読み手が自身の体験を重ねるというほどにはベタな感情移入を回避する関係性への着目で共通する5篇収録。
「これは戦争が終わった日の絵なの。もう焼夷弾は降ってこなくなった。太陽がかっと照りつけていてね、蝉が鳴いていることにその日、初めて気づいたのよ」
キャンバスの青空には、真昼の白い月とどこかに飛んでいこうとする小さな蝉の姿が描かれていた。
「私はあの暗い夜に、父も母も妹も亡くしたの。……だけどね、どんなにつらくても生きていればいいこともあるから」
佐喜子さんはそう言ってくれたが、それはなんとなく佐喜子さん自身に言い聞かせているようでもあった。 214
訳あってスパンの短い再読の儀。窪美澄、やっぱ巧いよね、技術のひとというイメージは変わらない。彼女の他作は2011年に『ふがいない僕は空を見た』を読んで以来。タイトル的に響き合うものを感じるけど、中身的にどうだったろう。もう素ではよく思い出せないな。
9. 背筋 『近畿地方のある場所について』 KADOKAWA
ネット発のホラー本ベストセラーとして直近に想起される雨穴『変な家』に比べ、本作はぐっと怖さの深みを増して感じられ。とはいえ何だろう、自身の「怖いもの見たさ」が欲しがるものとは方向性が異なる感じは『変な家』にも近く、エンタメJホラーにも近い気がする。もっと黒沢清的なのがほしいところだけど、寡聞にして知らず。
10. 『第36回東京国際映画祭公式プログラム』 公益財団法人ユニジャパン
2023年のプログラムは176ページ構成。2022年が170ページ、2021年が160ページなので、順調に微増している。実は今年プレスパス向けのプログラム無償配布がなくなったので、どうしたことかと気を揉んだものの、内容的な劣化は見当たらず。事務局的にはWebでみろという指示っぽいけど、TIFF公式Webって動画補填は充実してる半面、記述的にはものすごく貧しいんよね。テキスト情報だって重要だろうに。
というわけで来年以降の縮小方向が心配だけれど、まぁ紙ですからね。いつまでもあると思うな配布と紙。
▽コミック・絵本
α. 東村アキコ 『かくかくしかじか』 1 集英社
1巻は美大受験マンガ展開。風変わりな絵画教室描写が滅茶苦茶面白い。ジャージ講師のスパルタに耐えてた幼児とか爺さんの生徒がその後どうなったか気になる。『ブルーピリオド』を準備した一作も言えそうな。というか物語がなんであれ、語り口だけで魅せることができるひと感パないの東村アキコ。
ともあれこの文脈で、第一志望校選択のコマで東京藝術大学と東京学芸大学を取り違える致命的な誤植はどうなんだろう。逆に伝説的な気もするけど。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
β. 山口つばさ 『ブルーピリオド』 4-7 講談社
思ったより倍速で藝大受験当日が近づいてびびる。直前講習期に入った4巻の《表現》をめぐる描写の穿つ深さは戦慄級。面白いとはいえありがち受験物藝大版の一バージョンという位置づけから突き抜けるものをこれまで実は感じてなかったのだけど、この鋭さはガチで読ませる。
6巻、てっきり受験漫画だと思いこんでたので、一発現役合格しちゃうとは思わなんだ。でも発表掲示板から上級生制作の合格袋配布、不合格者とのすれ違い、予備校への報告訪問などなど、合格日の描写がまんますぎてリアル懐かしい。あんど7巻以降まったく想像不能。
7巻、1年生の春特有の期待と不安入り混じる感じ面白い。絵画棟の再現性すごい。3人出てくる助手の感じは造形が出来すぎていて、あんな教育的に研ぎ澄まされ緊張感醸す助手さんはひとりも記憶にないけれど。
γ. 野田サトル 『ゴールデンカムイ』 7,8 集英社
7巻、BLヤクザvs熊よい。あと飄々とした女占い師のキツネ系流し目よい。鍋物あいかわらず旨そう。
8巻、アイヌになりすました極東ロシア・アムール川周辺の少数民族出身のパルチザン、という広がりの吸引力。
「賢吉は自分の役目を見つけて命を使いました。私の生まれてきた役目はなんだろうと毎日考えています」
「まずは私のために、クルミ入りのカネ餅を作ってくれないか」
くるみの入ったカネ餅、ヤツメウナギのうな重。
δ. 原泰久 『キングダム』 48-9 集英社
王翦のもったいぶりかたがいい加減飽きてくるけど、王翦=謎のまわりで主要キャラが斬った張ったする構造的必然ではあるのかもな。で、丸ごと台風のように敵国を荒らし回る所業。
ε. 森恒二 『無法島』 1 白泉社
このひともうほとんど脅迫的に離島サバイバル物やりつづけるひとなんね。バトロワ作家の称号確定感。これでゾンビ要素とかサイレン要素など入ってきたらさらに面白そうだけど、1巻よむかぎりあんま良い予感しないというか、傷ついた女子を憐れみつつ守る流れちょっとクドい。
世界は一冊の本 長田弘
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけが本ではない。
日の光、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
ブナの林の静けさも
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。
本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
ウルムチ、メッシナ、トンプクトゥ、
地図のうえの一点でしかない
遙かな国々の遙かな街々も、本だ。
そこに住む人びとの本が、街だ。
自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
シカゴの先物市場の数字も、本だ。
ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
草原、雲、そして風。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
200億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
考えることができると言うことだ。
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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コメント
03月02日
19:33
1: そらまめ
ポパーのは読みたかったやつでした!
『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』面白そうですね、いま読むといろいろな気づきがある気がするので読んでみます。
03月03日
10:20
2: pherim㌠
ああ、そうか。そらまめさん直近の経験者なのに、なぜか抜けてたw
『生殖の哲学』の距離感は、妊娠体験者からするとけっこうSF的に思えるのかも。ポパーのはとにかく長い全体で脱線が本体みたいなやつでした!