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pherim㌠さんの日記
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2024年
04月27日
21:13
よみめも番外編 村上春樹 『騎士団長殺し』 第1部+第2部
村上春樹 『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』 新潮社
[再読]
村上春樹 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 新潮社
[再読]
《顔》
「それとは違う」とユズは言った。「鏡で見る自分は、ただの物理的な反射に過ぎないから」
私は電話を切ってから洗面所に行って、鏡を眺めてみた。そこには私の顔が映っていた。自分の顔を正面からまともに見るのは久しぶりのことだった。鏡に見える自分はただの物理的な反射に過ぎないと彼女は言った。でもそこに映っている私の顔は、どこかで二つに枝分かれしてしまった自分の、仮想的な片割れに過ぎないように見えた。そこにいるのは、私が選択しなかった方の自分だった。それは物理的な反射ですらなかった。 1:56
免色は笑って静かに首を振った。彼が首を振ると、真っ白な髪が風に吹かれる冬の草原のように柔らかく揺れた。
「どうやらあなたは、私のことを買いかぶりすぎておられるようだ。私にはとくに謎なんてありませんよ。自分についてあまり語らないのは、そんなことをいちいち人に話してもただ退屈なだけだからです」
彼が微笑むと、目尻の皺がまた深まった。いかにも清潔で裏のない笑顔だった。しかしそれだけではあるまいと私は思った。免色という人物の中には、何かしらひっそり隠されているものがある。その秘密は鍵の掛かった小箱に入れられ、地中深く埋められている。それが埋められたのは昔のことで、今ではその上に柔らかな緑の草が茂っている。その小箱が埋められている場所を知っているのは、この世界で免色ひとりだけだ。私はそのような種類の秘密の持つ孤独さを、彼の微笑みの奥に感じとらないわけにはいかなかった。 1:131
《絵画》
「人は時として大きく化けるものです」と免色は言った。「自分のスタイルを思い切って打ち壊し、その瓦礫の中から力強く再生することもあります。雨田具彦さんだってそうだった。若い頃の彼は洋画を描いていました。それはあなたもご存じですね?」
「知っています。戦前の彼は若手の洋画家の有望株だった。でもウィーン留学から帰国してからなぜか日本画家に変身し、戦後になって目覚ましい成功を収めました」
免色は言った。「私は思うのですが、大胆な転換が必要とされる時期が、おそらく誰の人生にもあります。そういうポイントがやってきたら、素速くその尻尾を掴まなくてはなりません。しっかりと堅く握って、二度と離してはならない。世の中にはそのポイントを掴める人と、摑めない人がいます。雨田具彦さんにはそれができた」
大胆な転換。そう言われて、『騎士団長殺し』の画面がふと頭に浮かんだ。 1:158
そしてその両目は僅かに私の方に向けられていなくてはならない。彼は私の姿を視野に収めている。それ以外に正しく彼を描く構図はあり得ない。
私は少し離れたところから、自分がキャンバスにほとんど一筆書きのように描いたシンプルな構図をしばらく眺めた。それはまだただのかりそめの線画に過ぎなかったけれど、私はその輪郭にひとつの生命体の萌芽のようなものを感じ取ることができた。それを源として自然に膨らんでいくはずのものが、おそらくそこにはある。 何かが手を伸ばして――それはいったい何だろう? 私の中にある隠されたスイッチをオンにしたようだった。私の内部、奥深いところで長く眠り込んでいた動物がようやく正しい季節の到来を認め、覚醒に向かいつつあるような、そんな漠然とした感覚があった。
私は洗い場で絵筆から絵の具を落とし、オイルと石鹸で手を洗った。急ぐことはない。今日のところはこれだけで十分だ。これ以上は急いで作業を進めない方がいい。 1:191
秋の太陽は既に西の山の端に姿を消していたが、それでも私は灯りをつけ るのも忘れて仕事に没頭していたのだ。キャンバスに目をやると、そこには既に五種類の色が加えられていた。色の上に色が重ねられ、その上にまた色が重ねられていた。ある部分では色と色 が微妙に混じり合い、ある部分では色が色を圧倒し、凌駕していた。
私は天井の灯りをつけ、再びスツールに腰を下ろし、絵を正面からあらためて眺めた。その絵がまだ完成に至っていないことが私にはわかった。そこには荒々しいほとばしりのようなものがあり、そのある種の暴力性が何より私の心を刺激した。それは私が長いあいだ見失っていた荒々しさだった。しかしそれだけではまだ足りない。その荒々しいものの群れを統御し鎮め導く、何かしらの中心的要素がそこには必要とされていた。情念を統合するイデアのようなものが。しかしそれをみつけるためには、あとしばらく時間を置かなくてはならない。ほとばしる色をひとまず寝かさなくてはならない。それはまた明日以降の、新しい明るい光の下での仕事になるだろう。 しかるべき時間の経過がおそらく私に、それが何であるかを教えてくれるはずだ。それを待たなくてはならない。電話のベルが鳴るのを辛抱強く待つように。そして辛抱強く待つためには、私は時間というものを信用しなくてはならない。時間が私の側についていてくれることを信じなくてはならない。
私はスツールに腰掛けたまま目を閉じ、深く胸に息を吸い込んだ。秋の夕暮れの中で、自分の中で何かが変わりつつあるという確かな気配があった。身体の組織がいったんばらばらにほどかれて、それがまた新しく組み直されていくときの感触だ。 1:263-4
20 存在と非存在が混じり合っていく瞬間
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朝の早い時刻に、まだ何も描かれていない真っ白なキャンバスをただじっと眺めるのが昔から好きだった。私はそれを個人的に「キャンバス禅」と名付けていた。まだ何も描かれていないけれど、そこにあるのは決して空白ではない。その真っ白な画面には、来たるべきものがひっそり姿を隠している。目を凝らすといくつもの可能性がそこにあり、それらがやがてひとつの有効な手がかりへと集約されていく。そのような瞬間が好きだった。存在と非存在が混じり合っていく瞬間だ。 1:329-330
私はその基本線のまわりに、木炭を使って何本かの補助的な線を加えていった。そこに男の顔の輪郭が起ち上がってくるように。自分の描いた線を数歩下がったところから眺め、訂正を加え、新たな線を描き加えた。大事なのは自分を信じることだ。線の力を信じ、線によって区切られたスペースの力を信じることだ。私が語るのではなく、線とスペースに語らせるのだ。線とスペースが会話を始めれば、やがては色が語り始める。そして平面が立体へと徐々に姿を変えていく。私がやらなくてはならないのは、彼らを励ますことであり、手を貸すことだ。そして何より彼ら の邪魔をしないことだ。
その作業が十時半まで続いた。太陽が中空にじわじわと這い上がり、灰色の雲は細かくちぎれて、次々に山の向こうに追い払われていった。樹木の枝はもうその先端から水滴を垂らすのをやめていた。その時点までに仕上がった下絵を、私は少し離れた場所から、あちこちの角度から眺めてみた。そこには私の記憶している男の顔があった。というか、その顔が宿るべき骨格ができあがっていた。しかし少しばかり線が多すぎるような気がした。うまく刈り込む必要がある。そこには明らかに引き算が必要とされていた。でもそれは明日の話だ。今日の作業はここらで止め ておいた方がいい。
私は短くなった木炭を置き、流し台で黒くなった手を洗った。 1:331
日曜日の朝がやってくるまでには、秋川まりえの肖像画のために用意された新しいキャンバスに、自分がこれからどのような絵を描いていくかという考えはほぼまとまっていた。いや、具体的にどんな絵を描くことになるのかは、まだわからない。しかしどのように描き始めればいいかはわかっていた。まず最初に、真っ白なキャンバスの上にどの色の絵の具を、どの筆でどの方向に引けばいいのか、そうしたアイデアが頭の中にどこからともなく生まれ出てきて、それがやがて足場を得て、少しずつ私の中に事実として確立されていく。私はそのプロセスを愛した。 2:106
《性愛》
あのとき彼のオフィスのソファの上でもたれた激しい抱擁はたぶん、これが最後と決めた別れの愛の行為だったのだ、と免色は悟った。免色はそのときのことを、あとになって何度も繰り返し思い返した。その記憶は長い歳月が経過したあとでも、驚くほど鮮明であり、克明だった。ソファの軋みや、彼女の髪の揺れ方や、耳元にかかる彼女の熱い息をそのまま再現することができた。
それでは免色は、彼女を失ってしまったことを悔やんでいるだろうか? もちろん悔やんではいない。あとになって何かを後悔するようなタイプの人ではないのだ。自分は家庭生活に適した人間ではない――そのことは免色にもよくわかっていた。どれほど愛する相手であれ、他人と日常生活を共にできるわけがない。彼は日々孤独な集中力を必要としたし、その集中力が誰かの存在によって乱されることが我慢できなかった。誰かと生活を共にしたら、いつかその相手のことを憎むようになるかもしれない。それが親であれ、妻であれ、子供であれ。彼はそのことを何より恐れた。彼は誰かを愛することを恐れたのではない。むしろ誰かを憎むことを恐れたのだ。
それでも彼が彼女を深く愛していたことに変わりはなかった。これまで彼女以上に愛した女性はいなかったし、たぶんこれから先も出てこないだろう。「私の中には今でも、彼女のためだけの特別な場所があります。とても具体的な場所です。神殿と呼んでもいいかもしれません」と免色は言った。
神殿? それは私にはいささか奇妙な言葉の選択のように思えた。しかしそれがたぶん免色にとっての正しい言葉なのだろう。
免色はそこで話をやめた。細部までとても詳しく具体的に、彼はその個人的な出来事を私に語ったわけだが、そこにはセクシュアルな響きはほとんど聴き取れなかった。まるで純粋に医学的な報告書を、目の前で朗読されているような印象を私は持った。というか、実際にそのようなものだったのだろう。
「結婚式の七ヶ月後に、彼女は東京の病院で無事に女の子を出産しました」と免色は続けた。1:214-5
《妊娠》
私はまず、出産を控えている(という)妻のことを考えた。それから彼女はもう私の妻ではないのだということにふと気づいた。彼女と私とのあいだには、もはや何の繋がりもない。社会契約上も、また人と人との関係においても。私はもうおそらく彼女にとっては何の意味も持たないよその人間になってしまっているのだ。そう考えるとなんだか不思議な気がした。何ヶ月か前までは毎朝一緒に食事をし、同じタオルと石鹸を使い、裸の身体を見せ合い、ベッドを共にしていたというのに、今ではもう関係のない他人になっている。
そのことについて考えているうちに次第に、私自身にとってすら私という人間が意味を持たない存在であるように思えてきた。私は両手をテーブルの上に置き、それをしばらく眺めてみた。それは疑いの余地なく私の両手だった。右手と左手が左右対称にほぼ同じ格好をしている。私はその手を使って絵を描き、料理をつくってそれを食べ、ときには女を愛撫する。しかしその朝は、それらはなぜか私の手には見えなかった。手の甲も、手のひらも、爪も、掌紋も、どれもこれも 見覚えのないよその人間のもののように見えた。
私は自分の両手を眺めるのをやめた。かつて妻であった女性について考えるのもやめた。テーブルの前から立ち上がり、浴室に行ってパジャマを脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。丁寧に髪を洗い、洗面所で髭を剃った。 それから再び、子供を私の子供ではない子供を――やがて出産しようとしているユズのことを考えた。考えたくはなかったけれど、考えないわけにはいかなかった。
彼女は妊娠七ヶ月くらいになっている。今から七ヶ月前というと、だいたい四月の後半になる。 2:186-7
そのリアルな性夢は、一人で孤独な旅を続けている私に、しばらくのあいだある種の幸福な実感をもたらしてくれた。浮揚感とでも言えばいいのだろうか。その夢のことを思い出すと、自分はまだひとつの生命として、この世界に有機的に結びついているのだと感じることができた。論理でもなく、観念でもなく、あくまでひとつの肉感を通して、私はこの世界に繋ぎとめられているのだ。
しかしそれと同時に、おそらく誰かがどこかの別の男が――そのような感覚を、ユズを相手に実際に味わっているのだと思うと、私の心は差し込むような痛みを覚えた。その誰かは彼女の堅くなった乳首を触り、白い小さな下着を脱がせ、彼女の湿ったヴァギナの中に性器を挿入し、何度も射精しているのだ。そのことを想像すると、自分の内側で血が流されているような痛切な感覚があった。それは(思い出せる限り)私が生まれて初めて経験する感覚だった。
それが四月十九日の明け方に私が見た不思議な夢だった。そして私は日記に「昨夜・夢」と記し、その下に2Bの鉛筆で太いアンダーラインを引いたのだ。
そしてちょうどその時期に、ユズは受胎したことになる。 2:193
《穴》
その二年後に妹は死んでしまった。そして小さな棺に入れられて、焼かれた。そのとき私は十五歳で、妹は十二歳になっていた。彼女が焼かれているあいだ、私は他のみんなから離れて一人で火葬場の中庭のベンチに座り、その風穴での出来事を思い出していた。小さな横穴の前で妹が出てくるのをじっと待っていた時間の重さと、そのとき私を包んでいた暗闇の濃さと、身体の芯に感じていた寒気を。穴の口からまず彼女の黒髪の頭が現れ、それからゆっくりと肩が出てきたことを。彼女の白いTシャツについていたいろんなわけのわからないもののことを。
妹は二年後に病院の医師によって正式に死亡を宣告される前に、あの風穴の奥で既に命を奪われてしまっていたのではないだろうかそのとき私はそう思った。というか、ほとんどそう確信した。穴の奥で失われ、既にこの世を離れてしまった彼女を、私は生きているものと勘違いし たまま電車に乗せ、東京に連れて帰ってきたのだ。しっかりと手を繋いで。そしてそれからの二年間を兄と妹として共に過ごした。しかしそれは結局のところ、儚い猶予期間のようなものに過ぎなかった。その二年後に、死はおそらくあの横穴から這い出して、妹の魂を引き取りにきたのだ。貸したままになっていたものを、定められた返済期限がやって来て、持ち主が取り返しに来るみたいに。
いずれにせよ、あの風穴の中で、妹が小さな声でまるで打ち明けるように私に言ったことは真実だったんだ、と私は――こうして三十六歳になった私は今あらためて思った。この世界に は本当にアリスは存在するのだ。三月うさぎも、せいうちも、チェシャ猫も実際に実在する。そしてもちろん騎士団長だって。 1:377
免色は続けた。「暗くて狭いところに一人きりで閉じこめられていて、いちばん怖いのは、死ぬことではありません。何より怖いのは、永遠にここで生きていなくてはならないのではないかと考え始めることです。そんな風に考えだすと、恐怖のために息が詰まってしまいそうになります。まわりの壁が迫ってきて、そのまま押しつぶされてしまいそうな錯覚に襲われます。そこで生き延びていくためには、人はなんとしてもその恐怖を乗り越えなくてはならない。自己を克服するということです。そしてそのためには死に限りなく近接することが必要なのです」
「しかしそれは危険を伴う」
「太陽に近づくイカロスと同じことです。近接の限界がどこにあるのか、そのぎりぎりのラインを見分けるのは簡単ではない。命をかけた危険な作業になります」
「しかしその近接を避けていては、恐怖を乗り越え自己を克服することはできない」
「そのとおりです。それができなければ、人はひとつ上の段階に進むことができません」と免色は言った。そしてしばらくのあいだ何かを考えているようだった。それから唐突に――私から見ればそれは突然の動作に思えた席から立ち上がり、窓のところに行って、外に目をやった。
「まだ少しばかり雨が降っているようですが、たいした雨じゃない。少しテラスに出ませんか? お見せしたいものがあるんです」 1:405
考えごとをしながら、長いあいだそこにじっと立っていた。頭上に半月形に切り取られた空が 見えたから、それほどの閉塞感は感じなかった。懐中電灯の明かりを消し、薄暗く湿った石壁に背中をもたせかけ、頭上の不規則な雨だれの音を聞きながら目を閉じていた。何を考えているのか、自分でもうまく把握できなかったが、とにかくそこで私は何かの考えを巡らせていた。ひとつの考えが別の考えに繋がり、それがまた違う考えに結びついていった。しかしどう言えばいいのだろう、そこにはどことなく不思議な感覚があった。どう言えばいいのだろう、まるで自分が「考える」という行為そのものにそっくり呑み込まれてしまったような感覚だ。
私がある考えを持って、生きて動いているのと同じように、この穴もまた思考し、生きて動いているのだ。呼吸をし、伸び縮みしているのだ。私はそのような感触を持った。そして私の思考 と穴の思考とはその暗闇の中で根を絡め合い、樹液を行き来させているようだった。自己と他者 が溶けた絵の具のように混濁し、その境目がどんどん不鮮明になっていた。
それからやがて、周りの壁がだんだん狭まってくるような感覚に襲われた。私の胸の中で、心臓が乾いた音を立てて伸縮していた。心臓の弁が開いたり閉まったりする音まで聞こえそうだった。自分が死後の世界に近づいているような、ひやりとした気配がそこにあった。その世界は決して嫌な感じのする場所ではなかったけれど、私がまだ行くべきではないところだった。
そこで私ははっと意識を取り戻し、一人歩きする思考を断ち切った。そしてもう一度懐中電灯のスイッチをつけ、あたりを照らしてみた。梯子はまだそこに立てかけてあった。頭上には前と同じ空が見えた。それを目にして私は安堵の息をついた。空がなくなり、梯子が消えていても不 思議はなかったんだ、と私は思った。ここではどんなことだって起こりうるのだ。 2:68-9
私はふと妹の手のことを思い出した。一緒に富士の風穴に入ったとき、冷ややかな暗闇の中で妹は私の手をしっかり握り続けていた。小さく温かく、しかし驚くほど力強い指だった。私たちのあいだには確かな生命の交流があった。私たちは何かを与えると同時に、何かを受け取っていた。それは限られた時間に、限られた場所でしか起こらない交流だった。やがては薄らいで消えてしまう。しかし記憶は残る。記憶は時間を温めることができる。そして――もしうまくいけばということだが芸術はその記憶を形に変えて、そこにとどめることができる。ファン・ゴッホが名もない田舎の郵便配達夫を、集合的記憶として今日まで生きながらえさせているように。 2:111-2
《川》
「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。「もう川の水を飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。ここはそういう場所なのだ」 2:360
「自分を信じるのです」とドンナ・アンナは小さな、しかしよく通る声で言った。「あなたはあの川の水を飲んだのでしょう?」
「ええ、喉が渇いて我慢できなかったので」
「それでいいのです」とドンナ・アンナは言った。「あの川は無と有の狭間を流れています。そして優れたメタファーはすべてのものごとの中に、隠された可能性の川筋を浮かび上がらせることができます。優れた詩人がひとつの光景の中に、もうひとつの別の新たな光景を鮮やかに浮かび上がらせるのと同じように。言うまでもないことですが、最良のメタファーは最良の詩になります。あなたはその別の新たな光景から目を逸らさないようにしなくてはなりません」 2:373
《信頼と尊重と礼儀》
お互いすっかり裸になって抱き合っている。とても無防備に、恥じらいなく。そういうのって、考えてみれば不思議じゃない?」
「不思議かもしれない」と私は静かに同意した。
「ねえ、これをゲームだとして考えてみて。純粋なゲームではないにせよ、ある種のゲームみたいなものだと。そう考えないことにはうまく話の筋が通らないから」
「考えてみる」と私は言った。
「で、ゲームにはルールが必要よね?」
「必要だと思う」
「そのとおりだ」
彼女はそこでしばらく時間を置いた。そのイメージが私の頭にしっかり根付くのを待った。「それで、私が言いたいのは、私たちはこのゲームのルールについて、一度でもきちんと話しあったことがあったかしら、ということなの。あったかな?」
私は少し考えてから言った。たぶん、なかったと思う」
「でも現実的に、私たちはある種の仮想のルールブックに沿って、このゲームを進めている。そうよね?」
「そう言われれば、そうかもしれない」
「それはつまりこういうことじゃないかと思うの」と彼女は言った。「私は私の知っているルー ルに従ってゲームを進めている。そしてあなたはあなたの知っているルールに従ってゲームを進 めている。そして私たちはおたがいのルールを本能的に尊重している。そして二人のルールがぶつかりあって、面倒な混乱を来さない限り、そのゲームは支障なく進行していく。そういうことじゃないかな?」
私はそれについてしばらく考えた。「そうかもしれない。ぼくらはお互いのルールを基本的に尊重している」
「でもそれと同時に、私は思うんだけど、それは尊重とか信頼というよりは、むしろ礼儀の問題じゃないかしら」
「礼儀の問題?」と私は彼女の言葉を反復した。
「礼儀は大事よ」
「たしかにそうかもしれない」と私は認めた。
「でもそれが――信頼なり尊重なり礼儀なりがうまく機能しなくなり、お互いのルールがぶつかりあって、ゲームがスムーズに進められないようになると、私たちは試合を中断して、新たなな共通ルールを定めなくてはならなくなる。あるいはそのまま試合を止めて、競技場から立ち去らなくてはならない。そしてそのどちらを選ぶかは、言うまでもなく大事な問題になる」
それがまさに私の結婚生活において起こったことだ、と私は思った。私はそのまま試合を中止して、競技場から静かに立ち去ることになった。三月の冷ややかな雨の降る日曜日の午後に。「それで君は」と私は言った。 2:76-7
私は電話を切り、テラスに出てみた。雨はもうすっかりあがっていた。 夜の空気はくっきりと澄んで冷え込んでいた。割れた雲間からいくつか小さな星が見えた。星は散らばった氷のかけらのように見えた。何億年ものあいだ溶けることのない硬い氷だ。芯まで凍りついている。谷間の向こう側には、免色の家がいつものようにクールな水銀灯の明かりを受けてぼんやり浮かび上がっていた。
私はその明かりを眺めながら、信頼と尊重と礼儀について考えた。とくに礼儀について。しかしもちろん、どれだけ考えても何の結論も導き出されなかった。 2:87
《海外文学》
「マルセル・プルーストは、その犬にも劣る嗅覚を有効に用いて長大な小説をひとつ書き上げました」
免色は笑った。「おっしゃるとおりです。ただ私が言っているのは、あくまで一般論として、という話です」
「つまりイデアを自律的なものとして取り扱えるかどうかということですね?」
そのとおりだ、と騎士団長が私の耳元でこっそり囁いた。でも騎士団長のさきほどの忠告に従って、私はあたりを見回したりはしなかった。 1:389
「キリーロフ」と私は言った。
「そうだ、キリーロフだ。()しかしロシア人って、なんだかずいぶん不思議なことを考えるよな」
「ドストエフスキーの小説には、自分が神や通俗社会から自由な人間であることを証明したくて、 馬鹿げたことをする人間がたくさん出てくる。まあ当時のロシアでは、それほど馬鹿げたことじゃなかったのかもしれないけど」
「おまえはどうなんだ?」と雨田は尋ねた。「おまえはユズと正式に離婚して、晴れて自由の身になった。それで何をする? 自ら求めた自由ではないにせよ、自由は自由だよ。せっかくだから、そろそろ何かひとつくらい馬鹿げたことをしたっていいんじゃないか」
私は笑った。「今のところとくに何かをするつもりはない。ぼくはとりあえず自由になったのかもしれないけど、だからといってそのことを世界に向かっていちいち証明する必要もないだろう」
「そういうものかな」と雨田はつまらなさそうに言った。 2:196
「()若い頃は、自分にはどんなことだって可能だと思っていました。そして将来、自分はほぼ完璧な人間になれるはずだと考えていました。世界をそっと見下ろせるような高い場所にたどり着けるだろうと。しかし五十歳を過ぎて、鏡の前に立った自分自身を眺めてみて、私がそこに発見するのはただのからっぽの人間です。無です。T. S・エリオットが言うところの藁の人間です」 2:269
《その他》
私はそれからカードのシロクマの写真をじっくり眺めた。しかしそこにもまた何の意図も読み取れなかった。どうして北極のシロクマなのだろう? おそらくたまたま手元にシロクマのカードがあったから、それを使ったのだろう。たぶんそんなところだろうと私は推測した。それとも小さな氷山の上に立ったシロクマは、行く先もしれず、海流の赴くままどこかに流されていく私の身の上を暗示しているのだろうか? いや、たぶんそれは私のうがちすぎだろう。
私は封筒に入れたそのカードを机のいちばん上の抽斗に放り込んだ。抽斗を閉めてしまうと、ものごとが一段階前に進められたという微かな感触があった。かちんという音がして、目盛りがひとつ上がったみたいだった。私が自分でそれを進めたわけではない。誰かが、何かが、私のかわりに新しい段階を用意してくれて、私はただそのプログラムに従って動いているだけだ。
日曜日に自分が秋川まりえに、離婚後の生活について口にしたことを思いだした。今までこれが自分の道だと思って普通に歩いてきたのに、急にその道が足元からすとんと消え 何ない空間を方角もわからないないまま、手応えもないまま、ただてくてく進んでいるみたいな、そんな感じだよ。
行方の知れない海流だろうが、道なき道だろうが、どちらだってかまわない。同じようなものだ。いずれにしてもただの比喩に過ぎない。私はなにしろこうして実物を手にしているのだ。その実物の中に現実に呑み込まれてしまっているのだ。その上どうして比喩なんてものが必要とされるだろう?
()
だから私はユズには手紙の返事を書かないことにした。いったん手紙を書くなら、起こったことをすべてそっくりそのまま(論理も整合性も無視して)書き連ねるか、まったく何も書かないか、どちらかしかない。そして私は何も書かないことの方を選んだ。たしかにある意味では、私は流されゆく氷山に取り残された孤独なシロクマなのだ。郵便ポストなんて見渡す限りどこにも ない。シロクマには手紙の出しようもないではないか。 1:498-9
「でも自分がただの土塊であることに、恐怖を感じたりすることはないのですね?」
「私はただの土塊ですが、なかなか悪くない土塊です」、免色はそう言って笑った。「生意気なようですが、けっこう優秀な土塊と言っていいかもしれません。少なくともある種の能力には恵まれています。もちろん限定された能力ではありますが、能力であることに違いはありません。ですから生きているあいだは精一杯生きます。自分に何がどこまでできるかを確かめてみたい。退屈している暇はありません。私にとって、恐怖や空虚さを感じないようにする最良の方法は、何よりも退屈をしないことなのです」 2:145
眠りの中で私は短い夢を見た。とても明白で鮮やかな夢だった。しかしそれがどんな夢だったのかまったく思い出せなかった。思い出せるのは、それがとても明白で鮮やかな夢だったということだけだった。夢と言うより、何かの手違いで眠りの中に紛れ込んできた現実の切れ端のようにも感じられた。目覚めたとき、それは逃げ足の速い俊敏な動物となって跡形もなくどこかに消え失せていた。 2:164
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