・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 中平卓馬 『新たなる凝視』 晶文社 1983
私の写真は
ほとんどすべてを忘却してしまった
私自身の
止むを得ぬ行為だ
1977年に急性アルコール中毒で倒れ記憶喪失となったあとの顛末があとがきで書かれており、会ったことがあることだけはわかるフランス人の友人ふたりの訪問を経て、フランス語を思い出したから手紙を書いたなど、興味深い。William Klein(『ADIEU A X』@ふぃるめも90でも言及)について、倒れる前の自分は彼を模倣しようとして、表面だけに終わり失敗していたようなことを書いていて、模倣というほど似てるようにもやはり思えず、てか被写体との距離もブレの激しさも全然違うので、まぁわりとふつうの話として、本人弁はあまりあてにならない好例かも。
というより、身も蓋もない印象としては、ここに収められた写真のほうが何かの模倣に見えてしまう。そう見えてしまう感性自体への疑義を前提するとして。
素朴な、
またある意味では、基本的な撮影行為そのものが
逆に対象を明確に捉えることになる、と信じ
撮影し抜いた。
2. レナード・E・バレット 『ラスタファリアンズ レゲエを生んだ思想』 山田裕康訳 平凡社 1996
ナイヤビンギ儀礼であれ、ポップスのレゲエであれ、ラスタファリアンの音楽に耳を傾けるものなら、社会のさまざまな抗争を映しだす不協和音の構造が、その低音のビートの奥に存在していることに気づくだろう。だが、ボブ・マーリィの"ノー・ウーマン・ノー・クライ"のような歌詞に目をやれば、彼がとり憑かれたように、「すべてはうまくいくさ」とくり返し歌うところで、協和音が求められていることがわかってくる。こうしてみると不協和音は、現実のものにせよ想像上のものにせよ、この社会みずからが生みだした、社会と文化の不調和による疎外を示しているといえよう。
この不協和音はときに、対抗文化のなかに異常な事態をつくりだし、そのことが社会に、死、もしくは逆に活性化をもたらす。音楽の不協和音と同様、文化の不協和音も、文化の協和音に変容するために、文化そのもののなかに潜在するはずの協和音をたえず求めている。その解決和音は、一般的には被抑圧階級出身の予言者に示されることが多いといえる。また、協和音が対抗文化のなかから生まれるこもある。この不協和音と協和音の関係はラスタファリ運動の進展にも見られる。まず不協和音があり、それから、ラスタファリアンが貢献している今日のジャマイカ文化のなかに、協和音、解決和音がある。 265
拙稿「信念の親指、ある信仰者の雄叫び。」https://www.kirishin.com/2024/05/15/66514/
ボブ・マーリー&ジャマイカ連ツイ https://x.com/pherim/status/1762394390910357934
上記記事作成のため読む。事実言及、歴史遡及等で他書よりよくまとまっており参考になった。勘どころが良いというのかな、ビサンツ&ロシア系以外の正教やコプト教関連の言及になると、日本人の書き手はどうしても精度の面でいびつになりがちな気はする。個々の資質というより、日本語自体に関連界隈における一般通念が共有されてないゆえかなと。
エチオピア教会は、一九五〇年までエジプトのコプト教会に統治されていたが、両者は組織上、および教義上から見ても異なった教会である。アビシニア教会と呼ぶほうがより正確なのだが、現在ではエチオピア正教会〔またはエチオピア教会〕という名が受けいれられている。
伝説によれば、教会の創設は、使徒時代、とくにアクスムへ布教に行ったといわれるマタイやバルトロマイの時代にまでさかのぼる。教会の創設は、使徒行伝八章にでてくるエチオピアの宦官によるものだという説もある。また、五旬節でのペテロの新しい説教を聞いたユダヤ人によるという説もある。エルサレムを訪れたエチオピアのユダヤ人が、キリスト教に改宗して、伝道師としてエチオピアにもどったときのことである。しかし、史実にもとづいていえば、エチオピアにキリスト教が伝えられたのは、西暦三三〇年だ。シリアのふたりのキリスト教徒 (エデシウスとフルメンティウス)が、紅海沖で難破した船から逃れ、皇帝の宮廷に連れてこられたときのことだった。彼らが宮廷に受けいれられたことで、支配王朝にキリスト教が伝えられたのである。このふたりの布教活動は功を奏して、のちにフルメンティウスがアレクサンドリアの大主教アタナシウスによってエチオピアの初代主教に任命された。彼はアブーナ・サラーマ (われらの平和の父)という名を授かったが、それ以降、キリスト教がエチオピアの支配宗教となるのである。
キリスト教が支配する以前のエチオピアには、そのほかのアフリカ地域と同様に、現在でも多くの人びとの有力な表現手段となっている独自の伝統宗教があった。勢力のあったイシス信仰は、いまでもエジプトやエチオピアに広まっている。また、タルムード編纂以前のユダヤ教にもとづくユダヤ人の優勢なカルト的伝統があったようだ。そこでは、創世記一四章のメルキゼデクのような大祭司が人民を統治していた。 彼らはムカリブスと呼ばれた。これらの祭司以後には、マルカナスと呼ばれる王が出現する。これがあと になって、宝庫の管理人および税収吏という意味のネガシという名に変わる。さらに、この名がいまでは 「王の王」という意味で使われる「ネガス・ネガスト」となる。この称号は二世紀になって現われたとされている。これらすべての初期の宗教表現がキリスト教の枠組みにとりいれられて新旧混淆のユニークな エチオピアのキリスト教ができあがり、四世紀から現在にいたるまで存続しているのである。
やがてエチオピア教会は、イエス・キリストの人格の解釈をめぐって、西方教会と東方正教会から袂を分かった教会を指すようになる。西方教会ならびに東方正教会は、イエスには神性、人性のふたつの性質があるとした。コプト教会およびエチオピア教会は、イエスは神性のみをもつと信じる。分裂は、四五一年にカルケドンで開かれた第四回キリスト教公会議で生じた。この分派の神学は、キリスト単性論といわれる。すなわち、ひとつの性質を信じるものの論である。分裂をめぐる論争は非常に複雑なものなので、これ以上話を進めるのはやめよう。あきらかにしたかったのは、分派したこの教会が、いかに古いものであるかということだ。五世紀に西方教会と袂を分かったあとのエチオピア正教会は、七世紀のイスラムの台頭によって衰退期をむかえる。そして、エチオピア正教会の名は、一三世紀になるまで聞かれることはなかった。
一三世紀になると、エチオピアの伝説の祭司であり王である、プレスター・ジョンの名がヨーロッパに知られるようになった。この王 (黒人国家を統治した白人といわれる)は、アフリカのキリスト教信仰に対する脅威と思われたイスラムとの戦いに重要な役割をはたしたといわれる。 314-5
3. 佐藤亜紀 『小説のストラテジー』 ちくま文庫
〈物語だと我々が思い込んで読んでいるのは、しばしば、「運動」のことである。〉 51
少なくとも私は、誰も聴くことのない音楽、誰も見ることのない絵画、誰も読むことのない小説はあると思います。確かに芸術は鑑賞者を必要としますただしその鑑賞者とは、快楽の装置である作品が生み出される瞬間に、装置の動作を想定するために仮定される鑑賞者であって、現に生きている人間である必要はかならずしもない。 口を開けて待つだけの消費者には謎でしかない作品があります。そうした作品の存在を知っているなら、むしろ芸術はディスコミュニケーションであること、理解は不可能であることを強調しなければならない。この場合の理解とは、すでにご承知の通り、安直な消費であり、安直な「意味」の追求です。
ただし、もっと真摯な問い掛けとして同じことを訊かれるなら、答はおのずと違うものになるでしょう。
表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的なものだと想定して下さい。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。「伝える」「伝わる」というような生温い関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しません。見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねない作品が、現に存在します。作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。否定的な見解を抱いて来た作品が全く新しい姿を見せる瞬間があることも知っている筈です。そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は成り立つのです。 30-1
佐藤亜紀を読むのは15年ぶりくらい。去年ある呑みの席で豊崎由美さんにたぶん『吸血鬼』を奨められ、気になったまま一年がたちようやく読み出したのだけど、こちらを先に読み終えた。早稲田の一文、二文で20年前に教えていた講義録集成のようなものらしいのだけど、とても刺激的。でも仮にこの内容を学生時に教わっても、ほとんど馬耳東風に終わったろうな。文学部の学生にはあるのかもしれない前提条件が自分には全然なかった。
歴史は単に為された事の総体であって、特別な意味も目的もない、平均気温が数度上下しただけで数世紀にわたる営みも空しく消え去るような、全くナンセンスでアンチ・クライマックスなものですが、イデオロギーはそれを単純で効果的なドラマ性によって刈り込み、目から鱗が落ちる説明に仕立てて信奉者を集めます。ウィルソンが得意とする、作家の個人史から作品を説明するやり方も同種の操作と言っていいでしょう。ディケンズの幼少時の過酷な労働体験が作品における弱者への眼差しを培った、とか、ヘンリー・ジェイムズの一時帰国が祖国回復体験として作品におけるアメリカ人のイメージを一変させた、とか言われると、大抵の人間は論じている当の批評家さえ、何かが解明されたと思い込んでしまいかねないのですが、実際に行われているのは、為された事の渾沌として偶発的で多義的な総体にドラマ性を付与して、解りやすいよう切り詰めたに過ぎません。 290
ディケンズやヘンリー・ジェイムズを評した時には大いに役に立ったように見える(それとて今日となってはかなり微妙なものですが)伝記的事実から導き出される読解も、あるバイアスが掛かるとそう常に役に立つ訳ではないという証明でもあります。更に面白いのは、ナボコフを評するつもりで書かれながら、実際に明るみに出れたのは書いた当人であることです。批評というのは往々にしてそういうものですが、どんなにうまく書いたとしても相打ち、大抵は明後日の方向に落ちる作家や作品の影に切り付け、その切り付け方や明後日の方向の偏りによって批評家自身の自分でも気の付かない正体を語って終ります――だからこそ、西瓜割りを見物する愉快さ、とでも言いますか、なまじな小説より面白い訳ですが。ちなみに今回私が本講の締めくくりとして展開するのもある種の西瓜割りですので、存分に囃しながら見物していただいて結構です――ただし西瓜割りである以上標的がない訳ではなく、振り下ろした先が近いか遠いかの別は厳としてあり、命中と言える一打も可能なばかりか、外し方にも良し悪しがあることはお忘れなく。これは、そんなの所詮主観でしょ、とおっしゃる無邪気な方へのご忠告です。 287-8
ともあれこれは、再読の価値あるし必須だなぁと。まずはユルスナール、ナボコフ、笙野頼子をきちんと読んで再考したい。続編的な著作もあるので、それも読む。考え方がなんというか、自分の足で立ってる感しかなく立派だなと思う。今言うと後出しジャンケンみたいになるのが嫌なんだけど、それでも学生時に読んだ渡部直己は辛辣ではあったけど何か違ったんだよね。同じ早稲田に、同時期にいたのかな。まったく水と油に思えるけど。
表現者も、鑑賞者も、固有の歴史的・社会的文脈に捕われています。そればかりは回避しようがない。表現も、解釈と判断も、個々の人間の逃れ難い条件に規定されている。ただ、そうした文化的な条件の下に、ある原始的な条件おそらくは我々の身体と本能に由来する原始的な条件が確実に作用し続けており、そうした条件が根底から覆されない限り、普遍的な永遠の相というものは、確実に存在する筈です。最大限の振幅を規定する不動の一点、とでも言いますか。もし我々がある作品を別な視点から眺めることになったとしても、得られる快楽は揺るがないそういうあり方が あり得る。もちろんこれは、私個人の信仰告白として受け取っていただいても結構な訳ですが。 36
4. 小川洋子 『妊娠カレンダー』 文春文庫
最初彼女は珍しい物を見るように、皿の上に目を凝らしていた。そしてゆっくりと腕をのばし、粉っぽく乾燥した指でクラッカーをつまんだ。そこからそれを口に放り込むまでが、不自然なくらい素早かった。子供のように丸く唇を開き、閉じる時一緒に目をつぶった。
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買い物かごを提げた人たちが、何人も何人もわたしたちの周りを歩いていた。みんな水の中を漂うようにゆらゆらと、食べ物を捜し歩いていた。
ここにある物が全部、人間の食べる物だと思うと、恐ろしかった。食べ物を捜すためだけに、これだけの人数の人たちが集まっていることが、不気味に思えた。そして、沈んだ目でクロワッサンを眺め、三日月の先端の小さなひとかけらをちぎっている姉のことを思い出した。それを飲み込んでいる時のほとんど泣いているような目元と、テーブルにこぼれた白いパン屑が、頭の中に順番に浮かんできた。
おばあさんがクラッカーを食べた時、ほんの短い間彼女の舌が見えた。弱々しい身な りとは不釣り合いの、鮮やかな赤い舌だった。表面のつぶだちの上で照明が弾けているように、暗い口の中でもくっきりと見えた。舌はしなやかに、ホイップクリームの白を包み込んでいった。
「あの、もう一つ、いいでしょうか」
おばあさんは腰をかがめ、巾着をぶらぶらさせながら言った。 46-7
姉の妊娠から出産まで、という距離感でまず固有性を感じさせるところから巧いのだけどいや正直、このタイミングで小川洋子を再発見するとは思わなかった。ずっとストーリーテリングが巧くて、映画とかの原作にもなるベストセラー作家で、つまりは滅多なことでもなければ(その映画に仕事で関わったりしなければ)、読むこともないだろうくらいのカテゴリーに入ってしまっていたけれど、いや文章すごいでないの。読みやすさを脇において、なおヤバい。
わたしが今、自分の頭の中で赤ん坊を認識するのに使っているキーワードは『染色体』だ。『染色体』としてなら、赤ん坊の形を意識することができる。
前に、科学雑誌か何かで染色体の写真を見たことがある。それは双子の蝶の幼虫が、何組も何組も縦に並んでいるように見えた。楕円形の細長い幼虫は、人差し指と親指でつまむのにちょうどよい丸味を持ち、小さなくびれや湿っぽい表皮が生々しく写し出されていた。一組一組はそれぞれに個性的な形をしていて、先端がステッキ状に曲がったもの、まっすぐ平行に向き合ったもの、シャム双生児のように背中がくっついたものなどいろいろだった。
姉の赤ん坊のことを考える時、わたしはその双子の幼虫を思い浮かべる。赤ん坊の染色体の形を、頭の中でなぞってみるのだ。 38-9
十四週間のつわりの間に減った体重五キロを、姉は十日で取り戻してしまった。
姉は目覚めている間ずっと、何らかの食べ物を手にしている。テーブルで食事をしているか、スナック菓子の袋を抱えているか、缶切りを探しているか、冷蔵庫をのぞいている。彼女の存在そのものが、食欲に飲み込まれてしまったように思える。
姉はひたむきに食べる。呼吸するように休みなく、ものを飲み込み続ける。瞳は無表情に澄み切って、まっすぐ一点を見つめている。唇は鍛え抜かれた陸上選手の太もものように、たくましく動く。つわりの時と同じように、わたしはどうしようもできずにただじっと見ているしかない。
姉は突然、とんでもないものを食べたがった。雨の降る夜、枇杷のシャーベットが食べたいと言い出した。雨は、庭が一面水しぶきで白っぽく見えるほどの土砂降りだった。もう真夜中近くて、三人ともパジャマに着替えていた。そんな時間に開いている店は近所にないし、何よりわたしには枇杷のシャーベットというものが存在するのかどうか、よく分らなかった。
「やまぶき色の果肉がガラスの破片みたいに何枚も何枚も薄く重なり合って、シャリシャリ音がする枇杷のシャーベット。枇杷のシャーベットが食べたいの」 52-3
妊娠して食欲が暴走する描写はそこらじゅうにあるけれど、なんだろうね。唇が陸上選手の太ももになり、ガラスの破片みたいでシャリシャリする枇杷のシャーベットとか、肉感的にしてエレガント、生々しいけど品がある。これはひろく好まれるやね。たとえば川上未映子にはできない、毒気のなさが武器、みたいな。
「でももっと怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」
彼女は突き出たお腹に視線を落とした。
「ここで一人勝手にどんどん膨らんでいる生物が、自分の赤ん坊だってことが、どうしてもうまく理解できないの。抽象的で漠然としてて、だけど絶対的で逃げられない。朝目覚める前、深い眠りの底からゆっくり浮かび上がってくる途中に、つわりやM病院やこの大きなお腹やそんなものすべてが幻に思える瞬間があるの。その一瞬、何だ全部夢だったんだって、晴れ晴れした気分になれるの。だけどすっかり目が覚めて、自分の身体を眺めてしまうともうだめ。たまらなく憂鬱になってしまう。ああ、わたしは赤ん坊に出会うことを恐れているんだわって、自分で分るの」
わたしは背中で姉の声を聞いていた。砂糖と果肉の小片と細切りの皮が黄金色に溶け合い、所々でぷつぷつ弾けていた。わたしはガスの火を弱め、大きなスプーンで鍋の底をかき回した。
「恐れる必要なんて全然ないわ。赤ん坊は赤ん坊よ。とろけるみたいに柔らかくて、指をいつも丸く握って、切なげな声で泣くの。それだけよ」
スプーンに絡みつきながら渦を巻くジャムを見つめ、わたしは言った。
「そんなふうに単純にうるわしくはいかないのよ。わたしの中から出てきたら、それはもう否応無しにわたしの子供になってしまうの。選ぶ自由なんてないのよ。顔半分が赤痣でも、指が全部くっついていても、脳味噌がなくても、シャム双生児でも……」
姉はいくつもいくつも恐ろしい言葉を連ねた。スプーンが鍋底をこする鈍い音と、ジャムのべとつく音が一緒に聞こえた。 68-9
上記がこの小説一毒々しい箇所かもしれない。出生前診断を迷う心理にも通じる、当事者ゆえの恐怖と葛藤、非当事者との隔絶感が端的にかつ鮮やかに伐りだされた箇所。
七月二十二日 (水) 三十五週十二日
大学が夏休みに入った。これからわたしは、ずっと姉の妊娠に付き合わなければいけないのだろうか。
しかし、妊娠とは永遠のものではない。いつか終わるものだ。赤ん坊が生まれる時終わるのだ。 70
耳の奥が切なく痛んだ。わたしは三階に目をやった。ネグリジェ姿の女性が遠くを見ていた。肩の曲線がガラスに映っていた。ばらけた髪の毛が頬にかかり表情を青白い影にしていたので、それが姉なのかどうかよく分らなかった。彼女はくすんだ唇をわずかに開き、まばたきをした。涙を流す時のような、はかないまばたきだった。目を凝らしてもっとよく見ようとした時、ガラスで跳ね返った陽射しが視界をふさいでしまった。
わたしは赤ん坊の泣き声を頼りに非常階段を上った。 一歩一歩足をのせるたびに、木の階段はつぶやくようにみしみし軋んだ。身体は暑くぐったりしているのに、てすりをつかむ掌と赤ん坊の声が吸い込まれてゆく耳の中だけはひんやりとしていた。芝生がゆっくり足元から遠ざかり、その分光が濃く強くなっていった。
途切れることなく、赤ん坊は泣き続けていた。三階の扉を開けると、外の明るさが一瞬にさえぎられめまいがした。波のように寄せてくる泣き声に神経を集め、しばらく立ちすくんでいると、薄ぼんやり奥にのびている廊下が見えてきた。わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。 74
下記引用のみ、同文庫収録別短篇「夕暮れの給食室と雨のブール」より。
男は何度もうなずいたあと、口をつぐんだ。雨の音だけがわたしたちの間を漂っていた。どう取り繕うこともできない、気まずい沈黙だった。今、忙しいから、と言って引き取ってもらうこともできた。実際、わたしはペンキ塗りの途中だったのだ。なのにそうしなかったのは、やはり彼らの特殊な空気のせいかもしれなかった。
「どうしても、お答えしなければならないのでしょうか。あなたとその質問とわたしの間には、何のつながりもないように思えるんです。あなたはそこに立っている。質問は宙を漂ってる。わたしはここにいる。ただそれだけのことで、これ以上変化のしようがないと思うのです。犬の気持ちにお構いなく、雨が降るみたいに」
わたしはうつむき、レインコートのペンキの染みを指でなぞった。
「犬の気持ちにお構いなく、雨は降る」
と、男は小さな声で繰り返した。ジュジュが首をのけぞらせて、あくびをした。 160
文体模写かって春樹味にんっとなる昼。
5. 川上未映子 『春のこわいもの』 Amazon Audible 新潮社
見砂は()外資系の彼氏ともうまく行っているようだった。
見砂は今も昔も鈍感で、わたしが夢に向かって一生懸命に、迷いなく小説を書き続けていると思っていたし、ずっと続けていくものと思っているようだった。
けれどわたしはもう自分が小説を書いて作家になることは難しいのではないかと思い始めていた。子どもの頃からそこに行けば息ができると心から思えたたったひとつの場所、書店にも足を運べなくなっていた。平台に積まれた新刊、棚に刺さった作家の名札、文芸誌に小説家たちの新作がひしめいているのを見ると比喩ではなく息ができなくなった。 世間にはこんなに無数の本があふれているのに、こんなにもたくさんの本があるのに、たった一冊、自分の書いた本一冊をそこに存在させることもできないのだと思うと涙が止まらなくなり、この先を生きていける気がしなかった。お前はだめなのだと、作家になどなれないのだと誰かにはっきり宣告されればよかったのかもしれないけれど、わたしにはそんなことを言ってくれる誰かなどいなかった。どんなかたちであれ明確に絶望できる、わたしはその資格すら持っていなかった。 183-4(「娘について」)
川上未映子クラスの小説家が《Audible書き下ろし小説》、つまり活字化が前提されない“小説”を刊行するという、これは想定できていなかった2020年代感。そして新潮社がAudible作品を書籍化。あらかじめ紙での書き下ろし出版が予定されていたとしてもこの流れ、テレビ局とSNS動画の逆流が想い起こされ。朗読は岸井ゆきの。
冒頭作の掌編「青かける青」。のっけから他の川上作品とは力点が異なる感じ。手紙形式で呼びかけるような調子は淀みなく、岸井の巧さを読み込んでも文体と内容の狙いが「朗読の先で立ち上がるもの」一点へ集中し、かつ成功している。
好みの一等は中盤の「ブルー・インク」。不思議ちゃんというか相当にミステリアスな雰囲気醸す同級生女子へ密かに想い寄せる男子が主人公で、せっかくの女子から貰った手紙を読む前になくしてしまうところから始まる物語は先が読めず、しかし瑞々しく甘酸っぱく、そして後半次第に怖さすら催してくる。ええぇ、おぇ~、まじかー、っていう手に汗握る感たのしい。
おいしそー、とマリリンはフィナンシェの入った小さな透明の袋を指でつまんで、鼻のまえで小刻みに揺らし、にっこり笑った。白いアイシャドウを盛っていた涙袋が、上まぶたの黒いアイシャドウと混じりあって、見たことのないような銀色に光ってみえた。
やばいー、おいしー、と言いながらふたりはフィナンシェを齧りつづけ、おなじひとつの甘さがそれぞれの舌のうえに広がっていった。ほかに客の姿はなく、いい感じに酔いがまわったふたりの声は、大きく響き渡った。
いっぽう、さっきの店員はレジのカウンターの中で、ただでさえ長く美しく生えそろった睫毛をさらに長く美しくしようと念入りにマスカラを塗りながら、最近いい感じに距離がつまってきて、この数日に何かが起きそうな相手に送るラインの中身を考えている途中だった。もし寝ることになったなら、相手が自分に期待していたり想像している以上のものを、見せつけたいし、圧倒したいし、今まででいちばんすごいと言わせたい小さな手鏡のなかの自分を見つめれば見つめるほど、その恍惚はいっそう高まる。客席から、女たちの笑い声が聞こえて顔をあげる。そのとき彼女はたしかにトヨとマリリンを見たけれど、ふたりの姿は目に映らない。 61(「あなたの鼻がもう少し高ければ」)
6. 阿部和重 『シンセミア 上』 講談社文庫 [再読]
怒涛よね。古川日出男がシャーマニスティックな怒涛とすれば、阿部和重の怒涛はドン・キホーテ的な。セルバンテスでなく、深夜の郊外で光ってるほうのドン・キホーテ的。あれそっちはドンキ・ホーテだっけ。いやちがうそれは単なる店頭のPRソングの節のほうだいま確認した。って耳はたやすくレイプされるし馴致されるよね。東は西武で西東武とか。そういう怒涛。
それでまぁ、なんだろうなこの面白さは。ってやっぱ感心する。ガチャガチャだけど、きちんと進行していく感じ。混沌が、混沌のせいで見えない視界の奥できっちり制御されているけど神の手は隠されているから目にするのはやっぱり純度100%の混沌で。それが楽しい。だから飽きない。サーガって言われるだけありますの。
7. 湊かなえ 『少女』 早川書房
昔、家で日本昔話全集のビデオを観ていても、由紀ちゃんがワンワン泣いている横で、敦子は退屈そうな顔をしていたよな。パパが懐かしそうに言った。
我が子は人として大切な何かが欠けているんじゃないか、と心配そうにしていたパパに由紀が言ったらしい。こぶとりじいさんのいいじいさんが鬼の前で楽しく踊る場面、花さかじいさんが枯れ木に花を咲かせる場面、そういった、がんばって楽しそうにしているところで敦子は泣くんだ、と。
そんなことあったっけ? ママに訊ねると、小さなことまでは憶えていないけど、敦子のことを昔から一番理解してくれているのは由紀ちゃんじゃないの? って言われた。
パパやママとはいつもこうしてたくさん話をしていたはずなのに、あたしは何も気づいていなかった。あたしは、不幸じゃない。
「ヨルの綱渡り」で由紀の言いたかったことが、ようやく少しずつわかってきたような気がする。
あんたがそれほど不幸だと言うなら、わたしとあんたの人生をそっくりそのまま入れ替えてあげる。それに抵抗があるうちは、あんたはまだ、世界一不幸ってわけじゃない。 209-210
映画版『少女』(三島有紀子監督作連ツイ) https://x.com/pherim/status/1226711689493504001 ※未ツイ
養護施設で働く「どんくさい」おっさん、しかし過去に痴漢冤罪で家族を失い後半展開の鍵になるおっさんに、稲垣吾郎を充てたキャスティングの秀逸こそ刮目に値するなと、原作を読みしみじみと。
8. 遠野遥 『破局』 河出書房新社
内面を見失った人間のコード化された内面、が暴力描写により炙り出される。と書けばいかにもありふれているのだけど、なんだろうな、『破局』は書き手すらも一切の抑揚なく対象に触れているような、ゾンビたちを書くゾンビを想わせる低温持続が好ましいといえば好ましい。人格を関心の範疇から外したかのような描写はテクニカルでさえあって、現代社会をないし社会を生きる人間をこのように描ける個性はたぶん日本語を超えられる。21世紀文学ってこういう方向に流れるのかも、とか。
『ケイコ 目を澄ませて』https://x.com/pherim/status/1637279618070880258
9. チャック・パラニューク 『インヴェンション・オブ・サウンド』 早川書房
ハイジャックされ、あとは墜落するだけの旅客機に乗り合わせた人々の最後の留守電のメッセージをミッツィは思い出す。火を噴く世界貿易センターの高層階に取り残されて行き場を失った人々が残した留守電のメッセージも。ネット上にはそういったメッセージがあふれている。「さよなら」「愛している」と留守電に吹きこむ声は、おそろしく冷静だ。大多数はその直後に飛び下りた二百を超える死者のうちなのに。
ミッツィの心を動かすのは、そういったメッセージを受け取った人々がその録音テープを大切に保存し、コピーし、それをまたコピーして、彼らの最後の言葉が決して失われることがないように守っている事実だ。
それは人類の古い衝動だ。保存し、管理すること、死を出し抜くこと。
アンビエンは、ミッツィの短期記憶をみごとなまでに穴だらけにしてくれる。問題は長期記憶だ。 110
十一歳の子供だったころはどうだった? 十二歳のときは? 眠れない夜、父親はくたびれた 毛布を集めてきて録音スタジオの真ん中に巣を作った。その巣でミッツィは体を丸め、父親は照明を落とした。音も光も消えれば、外の世界もまるごと消えた。外の世界を消去したうえで父親は、ミッツィを中心に新たな世界を築いた。ミキシングコンソールで、風の音を作った。そこに暖炉ではぜる薪が加わった。アンティーク時計が時を刻む音が聞こえた。枠がゆるんだ鉛ガラスの窓がかたかた鳴る音も。城を築き、そのてっぺんの塔にミッツィを運んだ。そのすべてを音だけでやってのけた。刺繍入りのベルベットのカーテンに守られた天蓋つきの豪華なベッドで、ミッツィは眠りに落ちた。十二歳の記憶はそれだ。 111
いわゆるfoley artist、音響効果技師の天才少女が主人公となるパラニューク。そりゃぁ面白そう。と読み出したけど、ちょっと何がなんだか、どこに力点があるのかもわからない感じがずっと続いてキツかった。
ただそのわからなさ自体を含め、どこまでが現実でどこまでが仮構なのかわからない作品世界の描出にはたしかに成功していて、『ファイト・クラブ』後半のうねりを想起させますね。その意味では、ふたりの主人公がついに交錯する最終盤の昇華ぶりは見事で、音響自在な映画でなく言葉オンリーの小説で、ここまで調子をアゲられるテクはさすがやのパラニューク。
いまどきのトレンドでは、人々はメディアをそれぞれ一人きりで消費する。録音済みの笑い声や観客の悲鳴がないと、映画やドラマは魔法の威力を発揮できない。映画会社はそれを知っている。配給会社も劇場チェーンも知っている。だから、何とかコンテストと銘打って人々に応募させ、マスコミ向け試写会に特別招待する。何かを勝ち抜いたつもりの若年層は、有頂天だ。影響 ある地元の評論家は一握りしかいなくても、会場は熱狂した若者で埋め尽くされる。
それだけ大勢を脳髄までハイにできれば、絶賛する批評がメディアに氾濫すると保証されたようなものだ。ヒトの感情を司る大脳辺縁系はハイの絶頂あるいはローのどん底に到達するのにコミュニティを必要とする。
ところがホームシアターや配信サービスの普及を境に、大衆は家から出なくなった。とりわけ新しもの好きや可処分所得の多い層やアーリーアダプターはそうだ。みな家で一人で映画を鑑賞し、最近の映画が昔ほど笑えないし怖くもないのはなぜだろうと首をひねる。 78-9
大勢がフォスターを追い越していったが、誰もこちらを気にしていない。ゆっくりと、急な動きは死刑執行人の頭巾のてっぺんをつかんで脱いだ。
警備員はフォスターの顔をまじまじと見つめた。スラックスの後ろポケットから携帯電話を取り出し、フォスターの顔の横に並べた。フォスターの顔と画面に表示されている何かとのあいだを、視線がせわしなく行き来する。「けっこうです」警備員は言い、拳銃を差し出した。「コンベンションをお楽しみください」
フォスターは驚き、銃を受け取ってから礼を言おうとしたが、警備員はすでにフォスターの肩越しに次の来場者に目を向けていた。「はい、次の方!」 118-9
10. 村上春樹 『一人称単数』 文藝春秋 [再読]
初読時メモ:よみめも65 https://tokinoma.pne.jp/diary/4222
猿は何度か大きく瞬きをした。長いまつげが、風に吹かれる棕櫚の葉のようにはらはらと上下した。それから一度ゆっくり息をついた。走り幅跳びの選手が助走の前にするような深い呼吸だった。
「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。その愛はいつか終わるかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。もしそのような熱源を持たなければ、人の心は――そしてまた猿の心も――酷寒の不毛の荒野となり果ててしまうでしょう。その大地には日がな陽光も差さず、安寧という草花も、希望という樹木も育ちはしないでしょう。私はこうしてこの心に(と言って猿は自分の毛だらけの胸に手のひらをあてた)、かつて恋した七人の美しい女性のお名前を大事に蓄えております。私はこれを自分なりのささやかな燃料とし、寒い夜にはそれで細々と身を温めつつ、残りの人生をなんとか生き延びていく所存です」
そこで猿はまたくすくす笑った。そして何度か軽く首を振った。
「しかしどうも変な言い方ですね。背反的と申しますか。〈猿の人生〉だなんてね。ふふふ」 205(「品川猿の告白」)
三年前というのがいったいいつのことなのか、それさえうまく把握できなかった。彼女が私に向かって口にしたことは、すべて具体的でありながら、同時にきわめて象徴的だった。部分部分は鮮明でありながら、同時に焦点を欠いていた。その乖離が私の神経を奇妙な角度から締め上げていた。
いずれにせよ、ひどく嫌な感触のするものが口の中に残っていた。呑み込もうとしても呑み込めない、吐き出そうとしても吐き出せない何かだ。()
階段を上りきって建物の外に出たとき、季節はもう春ではなかった。空の月も消えていた。そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。街路樹にも見覚えはなかった。そしてすべての街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻きつき、蠢いていた。彼らの鱗が擦れる音がかさかさと聞こえた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍りつくように冷え込んでおり、私はスーツの上着の襟を立てた。
「恥を知りなさい」とその女は言った。 (234-5「一人称単数」)
表題作「一人称単数」の、《自らの加害性にまつわる無自覚の過去をめぐる可能性》は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のそれをより端的に突きつけてくる。端的さがクリアすぎて意味不明なほど謎しかないのだけど、そういうものだと言われたらそうかもしれないと思うしかない、自覚できると思うほうが素朴だけれど安易というか危うさしかない。「恥を知りなさい」の身も蓋もなさ。
どこかの隙間から差し込んでくる陽光の、縦長の明るみの中にバードは一人で立っていた。たぶん朝の光だ。新鮮で率直で、まだ余分な含みを持たない光だ。こちらに向けられたバードの顔は暗い影になっていたが、暗い色合いのダブルブレストのスーツを着て、白いシャツに明るい色のネクタイを結んでいることがなんとか見て取れた。そして彼の手にしているアルト サックスは、お話にならないほど汚れて、埃と錆だらけだった。一本の折れたキーはスプーンの柄と粘着テープで危なっかしくつなぎとめてあった。それを目にして、僕は首をひねらないわけにはいかなかった。いくらバードだって、こんな惨めな楽器を使ってまともな音が出せるものだろうか?
そのとき唐突に、僕の鼻はとびっきり香ばしいコーヒーの匂いを嗅いだ。なんという魅力的な匂いだろう。熱くて濃厚な、できたてのブラックコーヒーの匂いだ。僕の鼻腔は喜びに小さく震えた。しかしその匂いに心を惹かれながらも、僕は眼前のバードからいっときも目を逸らさなかった。少しでも目を離したら、その隙にバードは姿を消してしまうかもしれないから。どうしてかはわからないが、そのときの僕にはそれが夢であることがわかった――僕は今、バードが登場する夢を見ているのだ。ときどきそういうことがある。夢を見ながら「これは夢だ」と確信できる。そして夢の中で自分がこれほどまで鮮やかにコーヒーの匂いを嗅ぎ取れることに、僕は不思議な感動を覚えていた。
バードはやがてマウスピースを口にあて、リードの具合を試すように注意深くひとつの音を出した。そしてその音が時間をかけて消えてしまうと、更にいくつかの音を静かに、同じように慎重に並べた。それらの音はしばらくそこに浮遊してから、柔らかく地面に降りていった。それらの音が残らず地面に降りて、沈黙の中に吸い込まれてしまうと、バードは今度は前よりもずっと深い、芯のある一連の音を空中に送り出した。そのようにして『コルコヴァド』が始まった。
その音楽をいったいどのように表現すればいいのだろう。バードが僕ひとりのために夢の中で演奏してくれた音楽は、あとから振り返ると、音の流れというよりはむしろ瞬間的で全体的照射に近いものであったように思える。その音楽が存在していたことを僕はありありと思い出せる。しかしその音楽の内容を再現することはできない。時間に沿って辿ることもできない。曼荼羅の図柄を言葉で説明することができないのと同じように。僕に言えるのは、それは魂の深いところにある核心にまで届く音楽だったということだ。それを聴く前と聴いたあとでは、自分の身体の仕組みが少しばかり違って感じられるような音楽そういう音楽が世界には確かに存在するのだ。 65(「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」)
▽非通読本
0. 町屋良平 「私の文体」(『群像』2021年12月号所収 講談社)
マスク需要は高止まりを維持しつづけていた。そうした定まらない五感が風景への知覚を緩やかに変化させ人称にかかわらず小説の文章はあたらしい焦点化の時代に入る。描かれる風景はそれまでの人体が描出する五感よりあやしく、身体性から離れた広い射程と高低差があらわれ文法レベルからの混濁がより目につくようになったとある批評家は指摘した。 260
▽コミック・絵本
α. 毛塚了一郎 『音盤紀行』 1 KADOKAWA
LPレコード屋を軸に、抑圧下の旧共産圏、抵抗する海賊ラジオなど描く短編集。なにせ絵柄が良くて好き。基本は東欧っぽいけど、なんかインドっぽい仮想の南国都市編などあったりもして、これは続いてほしいなっておもう。
『マグネティック・ビート』“Les Magnétiques”
https://x.com/pherim/status/1561548087759618048
南アジア編はビートルズがモデルに思えるけど、他の話もモデルとなった実在曲とか巻末で並べてくれたりあとがき的に思い入れ語ってくれたりしたら嬉しいんだけど、まぁあればあったで野暮かもね。
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β. 意思強ナツ子 『魔術師A』 リイド社
微エロ奇譚。女性器への執着が全面化してるけど、絵柄が不思議ガーリー系なのでグロ一歩手前で留まる抑制感もなんか凄い。どんなひとが描いてるんだって珍しく気になって検索すると、チェコへ彫刻留学してたっていうインタビュー記事が出てきてほほぅ。タレ目の感じでマスクしてて、ってマスクが便利な時代だなぁ。関係ないか。にしても終盤の魔法使いお婆さんの造形とか、すっごいどっかで見たことあるんだけど思い出せない。ひょっとして宮崎駿という気もとてもする。だとしたらなんか、それはそれで良い継承。
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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
γ. 九井諒子 『ダンジョン飯』 12-3 KADOKAWA
マルシル迷宮の主化は驚きだし、迷宮の怪物たちがマルシル仕様に変形されるの面白い。ネトゲのイベントなどである期間限定の表層グラフィック貼り替えを想起させる。ただ変形のせいでPT構成的に弱体化している点が単なる貼り替えでなくマルシルの個性の表出になってるあたりの巧緻はさすがの九井諒子。
13巻、いよいよまとめにかかってきたドライヴ感パないけど、そこはやはり九井諒子。統失っぽくヒビ割れたまま世界は一切収束することなく“魔物”だけが個の輪郭を伐り立たせてくる流れに妙な説得力を覚えるラス2読後感でした。
δ. 南勝久 『ザ・ファブル The Secod Contact』 3-5 講談社
ヨウコが社長に惚れるの、あまり説得力抱けなかったけどそこでヌードになるんだ、“兄”と別の意味で並行して全裸披露するんだっていうジワジワ感。まぁ酔っぱ癖あるというのはそういうとこ柔軟になってるってことでもありそうねぇ。
てかヨウコ大活躍ターンがしばらく続きそう。画としてエロ入りにできるから、続編シリーズともなれば需要としてそうなるターンはまあ必至よな。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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