pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2021年
07月07日
15:17

よみめも65 ザリガニ日和

 

 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
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1. 日和聡子 『びるま』 青土社

 後ろの庭に
 ふしぎな花が咲いた
 名前を 知らぬ

 昼にテレビで
 難民が映つておつた
 わたしは飯を食べ
 その後で
 昼寝した

 夕暮れ前の買い物に
 不意に出て来たサンダルを履いた
 音のせぬのに
 耳がつぶれる

 こわれるものは こわれてしまつた
 この空は
 あそこにもある

 

 青土社刊行は2002年、その前年に私家版を出していたようだから、ここにいうビルマ(であるとして)は世紀の変わり目ころのそれであり、作者は1974年生まれで立教文学部卒というから当時20代後半、もしかしたら蓮實重彦の講義を聴きに集まる将来の著名映画監督らとあの伝説的な熱なり空気なりを共有し、あるいは脇目に建築も粋な学食で彼らと隣り合っていたのかもしれない。
 ヤンゴンがラングーンだった頃。いや、そうでもないか。ない気がする。だからこのタイトリングには薄っすらと、どうだろう。

 ミャンマー国立博物館訪問ツイ: https://twitter.com/pherim/status/788175878022848512

 このころに知り合った友人のひとりはのちヤンゴンへと移り住み、バンコクへと移り住んだ自分はあるとき、もう5年は前になるのか、彼を訪れた。いま思いだされたのはなぜか、当地の国立博物館でみた幾つかの、6世紀や9世紀頃のものとみられる手乗りサイズの仏像たちとゴツい展示ケースや、それを見下ろしているあいだ周囲をながれる弛緩した空気の感触で、ひとの棲み処は疎らで半ば文明の空白地帯であるかのように鬱蒼と緑の生い茂る広大な密林が、アンダマン海から中国奥地までただ圧倒的に横たわる古代の様を、そのときたしかに想像していた。 
 サンダルを履いていた。バンコクの路上で買った、ゴム製の。




2. ディーリア・オーエンズ 『ザリガニの鳴くところ』 友廣純訳 早川書房

 それから数ヶ月が過ぎると、その土地にも南部らしい穏やかな冬がやってきた。太陽は毛布のように暖かな日差しでカイアの肩を包み、湿地の奥深くへと彼女をいざなった。ときおり、夜中に正体のわからない音を聞いたり、近すぎる稲妻に跳び上がったりすることはあったが、身がすくんんでしまったカイアをいつも抱き留めてくれるのも、やはり湿地だった。そのうちに、いつしか心の痛みは砂に滲み込む水のように薄れていった。消えはしなくても、深いところに沈んでいったのだ。カイアは水を含んで息づく大地に手を置いた。湿地は、彼女の母親になった。 51

 ネイチャー誌に論文が掲載され、米国自然史博物館からジョン・バロウズ賞も授かった一線の野生動物学者ディーリア・オーエンズが、70歳にして物した湿地文学傑作。みたいなことはまったく知らず手にとったが環境描写がまぁすごい。単に自然の描写ってことではなく、そこにしっかり人間が組み込まれているゆえの、物語としての骨太感たっぷり満喫の一書。
 邦訳版の評判としては、下記引用部がネット上でも検索上位にあがる。
 
 ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこに悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるとしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって替わるものだと捉えられている。 199

 訳者あとがきでも引用されている要はキメの一文みたいな箇所なのだけれど、この「生物学」の語からフーコー『言葉と物』(ふぃるめも前回)における、経済学や言語学に並ぶ生物学への着目が想い起こされた。世界をわが脳漿中のものとする術として研磨された「生物」の「学」への回収による世界の更新。それが人間の更新でもあるという流れを、まったく異なる位相でカイアは遂行する。つまりディーリア・オーエンズが。

 半島をまわり込んでジャンピンの視界から外れると、エンジンをアイドリングにし、箱に手を入れてレースの襟のブラウスを取り出した。()海を走り、家に向かって入り江を進むあいだも、カイアはずっと片手をハンドルに、もう片方の手を襟のレースに当てていた。 120
 
 描写として最も感銘を受けた箇所は本稿冒頭画像部↑(210-1 長すぎるので写真にて)。全身の覚醒と、湿地への合一をこのうえなく触覚的に描いてかつその全体が水飛沫の光に充ちている。著者が学者として蓄えてきた世界観、どう世界を観ているか、観たいかが端的に顕れた一節。

 惜しむらくは、後半がミステリー仕立ての法廷劇を軸とする展開へシフトしたことで、いつまでも浸っていたいような環境描写の連なりから乖離してしまっている。もっともこの展開ゆえのミリオンセラー化&大手からの日本語訳出版であり、これがなければそもわが手元には届かなかった恐れのほうが大きいとはしても、70歳でデビュー作をものした小説家としての技量の核心がそこにないのも確かゆえ、向後の作品にはもっと仕掛けなしのストレート球を期待しとう。

 それから何日経っても、テイトが読み書きを教えにくることはなかった。羽のゲームが始まるまえは、孤独はもはやカイアとは切り離せないものになっていて、体にくっついた腕とどこも変わらなかった。ところがいまは、それが体内にまで長く根を伸ばし、胸を内側から押しはじめていた。 140
 
 法廷における人間観察に秀でた一節もまた、この著者にしかできない描写で興味深い。アルファ雄である判事の重みある余裕と、力ある雄ジカのような老練弁護士の格、派手なネクタイや肩パッド入りの上着、大きな身振りや声で威圧する劣勢の雄たる検察官、「黒光りする拳銃やら厳めしい鍵束やら、無骨な無線機やらをたっぷりベルトにぶら下げる必要がある」(438)もっとも劣勢な廷吏。“自然界では優劣順位が場の安定をもたらすが、人間社会も似たようなものなのだ”(438)

 本作随一のクズ男にして唯一の死体役チェイス・アンドルーズ、彼がカイアから贈られた貝のペンダントを終始身につけていたという幾度もくり返される一節に、本筋とは別の話として印象深いものを感じた。それは救いの無さにも近い。チェイスにしてみれば間違いなく、自身のカイアへの想いは誠実にして本物だと自覚されていたのだろうし、だからこそ逆ギレもすれば暴行にも及ぶ。その正当性になんら疑いは持たないし、彼が彼であるかぎり持ちようがない。この隔絶は現にありふれているし、すなわちクズはそこらじゅうに「現在」し、現在するということがそのままおそらくは、そのように感覚するみずからの部分的反映であるという種の救いの無さ。
 
 途中、窓台の横を通り過ぎるとき、サンディ・ジャスティスの尻尾に手を伸ばした。彼は知らんぷりを決め込んでいた。さよならは不要だと一瞬で気づかせる、その無駄のないパフォーマンスに、カイアは心底感心させられた。
 そして、ついにドアが開いたとき、カイアは顔に吹きかかる海の吐息を感じた。 477-8





3. ポール・ウェイド 『プリズナートレーニング』 山田雅久 CCCメディアハウス

 監獄の中で、わたしを正気にとどまらせてくれたのがトレーニングだった。()一日のうちそれ以外の時間がどれほど狂気に満ちていようと、その狂った世界で、トレーニングだけが岩のように安定している場所になった。確かに監獄に入ったことで失ったものは多い。しかし、体を鍛える時間が、健康と体力、そして、自尊心を取り戻してくれた。ここで1レップ追加し、そこで技術が進歩する。よりハードなエクササイズにステップアップする。論理的であり、意味があった。筋が通っていた。常に前進し、常にコントロールしていた。わたしにとって、これほど魅力的な時間はなかった。 322

 ジムなどの器具類を一切使わず、自重だけでバランスの良く全身を筋肉化する方向性。これを、マシンの近代化とは無縁に監獄で保存され、受刑者たちにより発展・継承されてきた18世紀以来のトレーニングメソッド“キャリステニクス”としてパッケージングし、粗い紙質でいかにも粗暴さを底に湛える秘伝的な装いとともに提供する本書、その総体が面白い。
 
 この面白さに引かれ読みだしたが、一本筋の通ったロジックに貫かれる語り口は説得的で独特の勢いがあり、翻訳にも関わらず文章だけによる四肢の細部へ渡るメソッド解説がまた不思議と読ませる。スポーツジムのトレーニングマシンを使ったワークアウトを、部位をバラバラに分解して鍛えるトータリティを欠いた、マッスルな外見だけを欲望するくだらないものと唾棄しつづける筆致も、毎度表現を細部でマイナーチェンジしてくるので飽きずに笑える。
 
 やりたくなった時だけ、あるいは、退屈や孤独を紛らわせたい時だけキャリステニクスを行うのではない。監獄内のルーチンを理解し、そのルーチン内にトレーニング時間をうまく挿入するのだ。それは、ほとんどコントロールの利かない世界で、思うままに世界をコントロールする自由を手にすることだ。自分に属する何か、好ましく思える何かを、短い時間、所有することだ。()その時が来たらとにかくワークを始め、やるべきことをなす。すると、退屈と無駄に終わるはずだった時間が、達成した満足感と、精神的・肉体的な高揚感に置き換わる。堅実で、考え抜かれたタイムテーブルは、モチベーションと規律を維持する上で価値あるものになるだろう。 311

 一切皆苦と仏教にいうが、監獄の本質は国家の統治などになく、人間の根底へと直通する。他人の管理する監獄に甘んじるか、己を己の監視下に置くか。この意味では、問われるのはつねに今この瞬間の己でしかなく、どのようであろうと世界は何ら問題にはならない。

  よみめも60:フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』 https://tokinoma.pne.jp/diary/3932

 本書は変わり種の味付けを施された、実質は単なる自重筋トレ本として売れたし、そのように読まれるのが本筋には違いない。しかし引きこもりや独居老人、日本特有の核家族型専業主婦スタイルやコロナ篭りに至るまで、身体環境としては監獄状況とさして変わらない、むしろ官吏に生活強制されないぶんより不健康すなわち過酷な閉塞環境に置かれた身体は少なくないのではとさえ思われる。

 脱獄。
 いつやるの。今でしょ。

  『パピヨン』映画評「ここではない、どこかへ」 http://www.kirishin.com/2019/06/14/25771/
  『パピヨン』ツイート https://twitter.com/pherim/status/1140100005224574976


 ギアナ高地とかね。今この瞬間にも、てか生まれてからずっとこの地球上に共存してるはずなのに、なぜ行けてないのか謎である。

 ともあれ著者は、23年間に及ぶ収監中に伝授されたこれらのトレーニング大系を磨きあげ、一冊の著書へとまとめあげたという。とはいえ今“キャリステニクス”をググると、これを取り入れたトレーニングマシン通販やスポーツジムのHPなど並び、監獄の奥よりも資本主義地獄の闇に慄える。
 
 どんなトレーニングプログラムであっても、ゆっくり、順序だって進めるべきだ。それには理由がある。トレーニングに勢いがつくのだ。薪をガンガン突っ込んで先を急ぐより、ゆっくり蒸気を上げていったほうが、はるかに早く目的地に到達するからだ。パラドックスのように聞こえるかもしれないが、それが真実だ。 294
 
 欲望は結果のみを欲望し、実践は欲望する結果のみを結果しない。急がば回れをひたすら強調するのも印象的で、これは語学書であれ瞑想書であれ良書に共通する点かもしれない。それだけ人の業は深くも実を結びがたい、ゆえにこそいついかなるときも価値を生む。ということなのだろう、きっと。
 
 真剣にトレーニングしてほしい。どこにいようと、トレーニング時間に敬意を払うのだ。セッションが始まった瞬間、態度を改め、ギアを入れる。気まぐれといかさまはやめる。()そして、攻撃する。焦点を定め、自分を制御しながら攻撃するのだ。
 ()いま思えば、会わないで済むならそうしたい人のために限りない時間を無駄にしてきた。しかし、トレーニングは? わたしは、そこに費やした1秒に至るまで後悔はしていない。
 努力したすべての瞬間、すべての汗の滴が、価値に満ちていたからだ。 322-3

 



4. エマニュエル・カント 『純粋理性批判 〈2〉』 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 何年か前に別の邦訳を読みだし早々に挫折した際に期待ないし予感した内容とは、まったく異なる手触りに驚く。ほぼ透明なロジックの枠組みのようなものが突き詰められることを想定していたのだけれど、実際には各所が逐一ゴツゴツして、触る手指に要所要所で痛みを覚える。つまり思っていたよりずっと具体的、たとえば「悟性」が中山元訳では「知性」となったそれだけで見通しは朝霞が晴れ昼がきた街角のようにクリアになり、「想像力」は極めて限定的ゆえに実用的なそれであった、というような。

 164 自己についての逆説
 ()内的な感覚能力はわたしたちを、わたしたち自体として〈あるがままに〉意識のうちに描きだすのではなく、みずからに〈現れるがままに〉意識のうちに描きだすのである。それはわたしたちがみずからを、内的に触発されるとおりにしか直観することができないからである。たしかにわたしたちが[自発的な行為者でありながら]自己にたいして[触発されるという]受動的な態度をとらざるをえないのは、矛盾したことのように思える。心理学の体系では、内的な感覚能力自己統合の意識の能力を同じものとして捉えるのはそのためである(わたしたちはこの二つを慎重に区別する)。 153


 すでにわかっていることを確認するのが哲学書を読む価値、みたいなことを大昔にどこかで読んだ気がするけれど、これはけっこう正しいと感じることはよくあって、しかしとすれば未知の“哲学ごと”を人はどのように「わかる」のか。それは日常の実人生を通じてである、みたいな現状追認型のビジネス書のごとき月並言辞を脇に置けば、なんか知らんうちにわかっている、としか言えなくなる。ならば、知らんうちにわかることと、いつまでもわからんこととの違いはどこで生じるか。
 
 これはたぶん、意志とか意識みたいな主体性の範囲を超え出るところに肝のある話で、そもそも己に把握可能な狭い自意識の境域の内でわかることなど、わかるとわかる時点でこの自分にとってさえ当然の、言い換えるならつまらないことどもに過ぎない。ここから素朴に言えることは、わからないから読まない、のではなく、わからないからこそ読んでおけ、となる。「できないからやらない」と言い換えれば話は早い。やらなければいつまでもできないままだ。と書いて思い出されたのは20代の遠い昔、女の子と同衾しつつもハイデガー『存在と時間』など意味もわからずページを繰り続けていた日々があり、どうみてもバカの所業だけれどあれはあれで無意味でもなかったのかもしれない。いや相手の気持ちを考えたら、ぜんぜん無意味でいい気もします。はい、罪と罰のげんざい。
 



5. 村上春樹 『一人称単数』 文藝春秋

「あなたには見えるのですか?」
 老人は返事をしなかった。ぼくの質問はしばらくぎこちなく空中に浮かんでいたが、やがて霞んで消えていった。 41
 
 しかしそれでも僕は、暇つぶしにそれらの設問の解答を、ひとつひとつ頭の中でこしらえていった。そして多くの場合、僕の頭――精神的自立を目指して日々煩悶する成長途上にある僕の頭――にはどうしても「比較的理にかなっていないけれど、決して間違いとは言えない」種類の解答が浮かんでしまうことになった。そういう傾向もあるいは、僕の学業成績がもうひとつ振るわない原因のひとつになっていたかもしれない。 97
 
 それは一九六八年のことだった。フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』がヒットし、マーティン・ルーサー・キングとロバート・ケネディが暗殺され、国際反戦デーに学生たちが新宿駅を占拠した年だ。そう並べてみると、なんだかもう古代史みたいだけど……。 128

 それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。()しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏させ、家々の扉を激しく叩いてまわる、秋の終わりの風のように。 183

 でもまあ、それはいい。小説のことを考えるのはやめよう。そろそろ今夜の試合が始まろうとしている。さあ、チームが勝つことを祈ろうではないか。そしてそれと同時に(密かに)、敗れることに備えようではないか。 149





6. 野田知佑 『日本の川を旅する カヌー単独行』 新潮文庫

 予想外の名著。カヤックで国内の代表的河川14本を下る日本列島縦断紀行・河川版なのだけれど、元の刊行は1982年でバブル真っ只中かつ公害列島まっただなか。冒険家として脂の乗り切った時期が、環境汚染の一番ひどい時期にあたるとこうなるのかという悲哀をそこかしこに滲ませる。
 
 野田知佑の名は、石川直樹のカヤックにおける師匠として長らくインプットされており、星野道夫のような肌合いをイメージしていたが読み口はほぼ真逆。ずっと俗っぽくまた泥っどろの開高健に比べればカラッと明るく、流域のおじちゃんおばちゃんとも親しく付き合う人懐っこい筆致は意外。

 地の果て感ただよう釧路川に始まる描写は、緯度を下げるごと下界感を増し、文明による自然破壊の軸では多摩川で一度底を抜ける。その後、自然と人間社会の近しさ描きつつ東海から関西へと遷移し、中国四国を経る後半はラスト鹿児島の川内川とその直前・熊本の菊池川で、著者自身の地元すなわち近影へと至って終わる。この構成も秀逸。
 
 バンコク会社在庫の一。




7. 中垣俊之 『粘菌 その驚くべき知性』 PHPサイエンス・ワールド新書

 関東地方の都市分布に対応した養分をシート上に置き粘菌を這わせると、JR路線図に酷似した菌糸図が出来上がる、という記事を初めて読んだのは、なんとなく小中学生新聞だったのではないか、と曖昧に記憶する。著者はその実験を発表してた人、らしい。
 
 単細胞が「バカ」のメタファーである現状への疑義から始まる本書、後半へ進むほどテンション上がり引き込まれた。「記憶能力がある?怪しいなぁ」という序盤の感想から、「いやこれはもう知性があるってこういうことでは」と終章読み終える頃には深く納得してしまう。周期記憶の謎から、前進する粘菌先端部の構造解析へ至る終盤など、このわかりやすさは新鮮だな。

 貫徹される、著者の物質還元主義思考がなにしろ清々しい。そらまぁヒューマニティとか電気信号の産物ですき、と言える文脈では完璧に言えるのが道理だけれど、この「完璧」さを実践するのはもちろん至難で、意図せず「心」を忍ばせてしまうのが常人というものだ。が、それでは話が凡庸になり凡百の科学ライターはこれに嵌るゆえ凡百なのだと知る心地。

 美容室ATOM蔵書よりご恵贈の一冊、感謝。
 
 


8. アントン・チェーホフ 『ワーニャおじさん』 小野理子訳 岩波文庫
 
 本文訳は、先に読んだ光文社古典新訳文庫のほうが圧倒的に良い。ゆえ両者の刊行年にかなりの差を予想したが8年しか違わず、訳者の年齢かと検索したところ16歳違い(ただの16年でなく、戦前と戦後を隔てるそれ)だった。
 
 訳者解説の、深読みかもしれないがと断りつつ主観ベースで登場人物個々とチェーホフ実人生を対照させる語り口が面白い。モスクワでの本作鑑賞後スタニスラフスキーが、チェーホフから受け取ったひと言にいたく感銘を受けるくだりなどなかなかに艶い。
 



9. 『青花の会 骨董祭 2021』 新潮社

 2020年号めぐるよみめも63で「毎年暮れに企画しているらしい」と記したが、2021年は6月開催。さように現状記すもの考えるものすべてが勘違いの可能性は否めない。
 
 「こうして粋を極めた領域で生を成りたたせる姿は、どの分野であれ爽々しい。」とは前号をめぐり書いた言葉だが、現実にその爽々しさを支えるのは泥臭い経済活動であり、その禍々しさから卒然としていられる奇特な人間などいたとしても泡のようなものでその全体は欲得ずくの。などという感じだろうか無理やり言葉にすれば、会場を実際に歩いたうえでの感想を。
 
 とまれ今回一の収穫は村上隆+村田夫妻《となりのトトや》出展であり、そのリーフレット(本冊子とは別)掲載文がまた熱い。過去のノリだとむしろこれについて書くのが本項の習いだが、そうして毎度一投稿を超長文化させるのは明らかな悪習なのでここは抑える。本人ほぼ精神病院住まいの草間彌生を別にすれば、村上隆は現役の日本人としては突出した現代美術作家ゆえに、この四半世紀の試行錯誤をへて「美術」を語る日本語文章を最も認めない場所へといま至っている(四半世紀前の彼はまだ認めるに足るそれを探していた)。その彼が人知れず語る美術の言葉はしかし、昨今の美術手帖数年分を凝縮させても到底及ばぬ鋭利な煌めきに充ちていた。
 
 美術業界の専門家たちは現状見向きもしないの意を込め「人知れず」といま記した。不況震災にコロナ禍というエクスキューズを見いだし続け、直視すれば瓦解する熱量をきょうも快調にとり逃がしているのが君らの真の姿では、とは正直おもう。
 また改めて。


  

10. 日和聡子 『瓦経』 岩波書店

 かなり風変わりな夢をみたときでも少くない場合、なにかとても変わった夢をみたという特殊さの感触だけを残してほか一切を(思い出せそうで)思い出せない。この思い出せなさにおいて、そのような夢への稀にみる近しさを本書は湛えていて、このために全6篇収録なのにもかかわらず、物語の境界も曖昧なまま漠然と4篇くらいにしか感じられない。この特異さが何に由来するのかあまり考えを突き詰めたいとも思わないあたりも込みで珍しく、興味深い。

 ときに牛馬は、この藁を食べるのだろうと娘は父に訊いた。こんな藁などがうまいのだろうかと訊く娘に、藁は甘いのだと父は教えた。娘は驚き、藁を綯えずに戻った手元のよじれた藁を食んでみた。藁は食んでもなかなか甘くはならない。しかしずっと噛んでいるうちに、何かかすかにまろみのような、ふくらみのようなものを唾液の中に感じ出した。これがそれなのだろうかと、娘は考えながらもっと食んだ。そのうち、家のもうひとりの娘がふらりとそこへやって来て、どれどれと妹と一緒に食み出した。妹が姉に藁のまろみを示唆すると、ふむふむと姉は妹の横でしばらく食んでから、何か漠然としたことをひとこと言って、藁を妹に返すと、ふたたびあちらの方へ行った。 33


  

▽コミック・絵本

α. 山田鐘人 アベツカサ 『葬送のフリーレン』 1-2  小学館

 魔王を倒した冒険者一行のうち、ひとりだけ超長命なエルフが仲間たちの死を看取りつつ大冒険の“その後”を生きる話。
 
 超いい。なんだろうな、勇者はとっとと死んだあと、死を目前にした老いし魔術師や剣士がキャラ立ちしてくる点含め、勇者PTの脇役同士が勇者=本来の主人公不在の場で勇者について語り合う、まずはこのリアリティ。そして外見幼女な千年生きるエルフの醸す、超長命ゆえに奇特化する現実感、に起因する物腰の超越性。そこから客観視される人間物語の箱庭的凝縮感。
 
 こういう珠玉の醸成される腐葉土として初めて、有象無象の異世界転生モノ大流行も肯定できる。いやほんと、至福の充実読後感。
 
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β. ヤマザキマリ とり・みき 『プリニウス』 1-4  新潮社

 ヤマザキマリ単独では、全体のトーンが『テルマエ・ロマエ』の二番煎じに堕しかねないところを、とり・みき要素がうまく補い作品の立体性と深みを増している。しかしそのぶん語り口がやや平板かつ冗長化している面は否めず、メリハリ薄くダラダラとつづくテンションが玉に瑕、とはいえ充分に玉として読めるから問題ない。プリニウスとネロとの交接がここまであったとは思えないというか、同時代であったことさえ意外に感じてそこは創作か史実かを問わず面白い。まぁ史実なのかもしれない。
 
 異界ギミックとしての半魚人(的ナニカの)登場は稀少だからこそ活きるので、4巻での早々の再登場は意図がわかる分ややがっかり。神ならぬ異物の眼差し、もう少し別のなにかに置き換えたほうが良かったよね。

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γ. 久米田康治 『かくしごと』 1-3 講談社

 業界内幕物+幼女日常物。おしゃれコミカルなテイストはエッジの利く描線と相俟って窪之内英策の21世紀更新版のようでもあり、舞台となる家そのもののミステリアスなラスボス設定が全体を締め、かつどこかでどうにか転調しないと完結しなさそうに思わせて巧い。
 それにしょうもないギャグを切なさでくるむとか、ほんとズルい。面白いからいいんですけど。
 
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δ. デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン ジュリー・フレット 『わたしたちだけのときは』 横山和江訳 岩波書店

 岩波公式HPでの内容紹介:
 “おばあちゃんは子どもの頃,家族のもとをはなれて,家から遠くはなれた学校に行くことになった.そこでは制服を着せられ,髪を切られ,自分の言葉で話すことを禁じられた.「どうしてなの? おばあちゃん」 孫娘の素朴な問いに答える形で,カナダ先住民族への同化政策の歴史と,子どもたちのいじらしい抵抗を描く.カナダ総督文学賞受賞.”
 
 「カナダ先住民族への同化政策の歴史と,子どもたちのいじらしい抵抗を描く.」は全く間違いではないのだけれど、実際に本作が評価を受け岩波から日本語訳が出るまでに至ったのは、(孫娘の素朴な問いに答える形で,)現代社会の闇を描くからだろう。ウイグルやミャンマーの暴虐を糾弾する口調の内にいくらか潜む、忘却しきれない自責の裏返しさえそこには覗く。不気味なもの、と言い換えてもいい。児童向けの絵本としては、だからネガティヴなものを感じるというのではない、むしろ表現として本質的。ゆえに価値大。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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