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pherimさんの日記

(Web全体に公開)

2020年
09月07日
20:29

よみめも60 聖なるむらさきの絶望

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心


 ※バンコク移住後に始めた読書メモです。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数。()は(略)の意。覚え書きゆえ重心は文脈より各部自体にあります。よろしければご支援をお願いします。
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1. ダグ・ハマーショルド 『道しるべ』 鵜飼信成 訳 みすず書房

 大地に重みをかけぬこと。悲愴な口調でさらに高くと叫ぶのは無用である。ただ、これだけでよい。――大地に重みをかけぬこと。 69
 
 あたかも哲人皇帝マルクス・アウレリウス『自省録』現代版のごとき清冽。それも敬虔なる現代クリスチャン版とでもいうべき本著の威容。旧植民地独立の波が世界を襲い、戦後の混乱が猖獗極める1950年代に第2代国連事務総長を務めた男による、まさにその任期下の歳月に書かれた日記を主体としながらも、俗世を離れ修道院に籠もる修行僧のように静謐な筆致が全編を覆うところにそれは発する。

 「御心」を行わしめたまえ――」内面と外面に、魂を現世に先んぜしめること――そのために、どこへ導かれることになろうと。また内的な価値を外的な価値がかぶる仮面に成り下がらせぬこと。 83-4

 ハマーショルドについては直近のふぃるめも等でも触れたが、具体的には映画『誰がハマーショルドを殺したか』の日本公開が、本書を通読するきっかけとなった。
 
  拙稿:映画評『誰がハマーショルドを殺したか』 敵対と猜疑のゆくえ 再監獄化する世界(2)
  http://www.kirishin.com/2020/08/28/44943/


 とはいえ冒頭に引用したハマーショルドの言葉を“彼の言葉”として知ったのは、実は四半世紀前のことになる。十代の頃ノートに書き写したのを覚えているのだけれど、何からだったか思い出せない。

 十二月二十四日(p注:1956年)
 おまえの傾注した努力が《それを成しとげた》のではなくて、神がそれを成しとげたもうたのである()
 自分のしていることが《必要》なことなのだとおまえが感じたとすれば、喜ぶがよい。しかし、そのばあいでさえ、神はご自分の目的のために創造なさった全宇宙に、おまえをつうじてごく少量のものをつけ加えれられたにすぎず、おまえはこうして神の道具となったにすぎないのだということを、忘れずにいるがよい。 140

 
 つまりずっと気に留めつづけていながら、結局四半世紀読むことはなかったという、それに代わる価値あるものでこの四半世紀が埋め尽くされていたかといえば全くそうではないあたり、まこと残念な始末というしかない。

 《安らぎを得るため》に、自己の体験ないしは確信のなにものも否認したりはせぬ――! 87 
  
 ところで冒頭引用句、実は“彼の言葉”ではなかったらしい。本書注によれば、遭難した登山家ベルティル・エクマンの遺稿集からハマーショルドが抜粋したもので、このエクマンの理想主義とキルケゴール的倫理感とが青年時代のハマーショルドに強力な影響を及ぼしたと。コンゴの密林に墜ちたキルケゴールの残滓。

 虚栄心がその小さい滑稽な頭を擡げ、歪んで映る鏡をおまえに見せつける。一瞬、役者は自分の演ずべき役割にあわせて、作り笑いをし、そして顔つきを整える。ただ一瞬のことではある――しかし、それは余計な一瞬なのである。お前が敗北を招きよせ、おのれの仕える御方を裏切るのは、このような瞬間においてである。 141
 
 上記引用部は、色合いがやや苛烈で異色。読んでなぜか↓が想起された。
 
  アンジェイ・ワイダ+タデウシュ・カントール『死の教室』
  https://twitter.com/pherim/status/1197717612215431169

  
 終盤にイプセンの戯曲『ブランド』からの引用があり、同作引用はボンヘッファーでも気になっていたため一読の要ありと。しかし日本語訳は古いもの(「ブラン」「ブラント」と訳)しかなさげ。


 感謝し、そして用意を整えよ。おまえはなにもしないのにすべてを得たのである。求められたら、躊うことなくおまえの有するすべてを捧げよ。それはつまるところ、全体とくらべたらなにものでもないのである。 143




2. ミシェル・フーコー 『監獄の誕生 監視と処罰』〈新装版〉 田村俶 訳 新潮社

 刑車にくくりつけられたどんな罪人も必ずや死の間際には、貧しさ(惨めさ、でもある)のせいで犯罪をおかしたのだと天を非難し、自分の裁判官たちの野蛮さをとがめ、彼らに連れそう司祭を呪い、司祭がその代弁者となっている神を冒涜するのである」。人々を戦慄させる国王権力のみを明示するはずのこうした処刑のなかには、〈お祭騒ぎの無礼講〉の一面がそっくり存在していて、それぞれの役割は逆転し、権力者が愚弄され、罪人は英雄視される。不名誉の烙印は逆の相手に押され、犯罪者の勇気や涙や叫び声は、もっぱら法だけをおびやかすのである。 71

 監獄は一見《失敗しつつ》も自分の目標を逸してはいない。それどころか、違法行為の諸形式のなかに或る特別な形式を出現させて、それを別扱いにし、それに充分な光をあて、相対的には閉ざされながらも侵入可能な一つの場としてそれを組立てることを可能にする、その限りにおいて、監獄は自分の目標に到達するのである。


 初読にも関わらず、時間の制約もあり現段階では極めて浅い読みに留まる。具体的には下記記事執筆のため読んだ。 
 
  『死霊魂』 憑依する肉声、再監獄化する世界。」 
   http://www.kirishin.com/2020/08/13/44713/

 重要なのは、――処罰技術が身体刑の祭式で身体に襲いかかるにせよ、あるいは人間精神を対象にするにせよ――それら技術を政治体の歴史のなかに位置づけなおしてみることである。刑罰の実際を、法律理論の影響の一つとしてよりも、政治解剖の一つの章として考えること。 35 


 毎度のことだけれど、“記事執筆のため”というのは自身への騙しというかプラセボで、これが効くと安い稿料より余程効能があるしそれで良い。いきなり話が逸れているようでもあり、これぞ本質のようでもあるのは要するに、自身のフーコーへの関心はやはり内面規律を通じた人間の統御をめぐるものだからで、それはつまりそもそも今お前は息するほかに、なぜこんなことをしているのか、という問題の糸口をうっすら期待もするからだ。
 
 だが、《感受性》へのこうした依存は、理論化が不可能であるという事態を必ずしも性格に表すものではない。そうした依存には実際、一種の計算が含まれているのである。()今や法は《自然本性にそむく》人間を《人間的に》取扱わねばならないのだが()、その理由は、犯罪者が内部に隠しているかもしれぬ奥底の人間性に存するのではなく、権力のみちびく諸結果の必然的な適正化に存している。この《経済的合理性》こそが、刑罰の尺度となるべきであり、それの整備された技術を定めるべきだというのである。 105
 
 ちなみに「第三部 規律・訓練」の「第三章 一望監視方式」冒頭、「ある都市でペスト発生が宣言された場合に採るべき措置は、十七世紀末の一規則によれば次のとおりであった。」から始まる数段落の記述は、おどろくほどコロナ禍21世紀今日の都市光景と変わらない。この圧倒的な変わらなさを、加速主義の信奉者が論理的にどう受容するのかは興味深いところ。(皮肉ではなく、素朴に。)
 
 つまり〔時間の〕使用というより尽きざる消費である。()あたかも時間が、どんなに細分化されても無尽蔵であるかのようであり、あるいはまた、あたかも、ますます細分化される内的な整備をもってすれば、すくなくとも人々は、最大限の速やかさが最大限の効果とむすびつく理想的な目標点へ向かいうるかのようである。まさしくこの技術こそは、プロシアの令名高い歩兵操典のなかで使用されていたものであり、フリードリッヒ二世がつぎつぎ戦争に勝つと全ヨーロッパがこの規程集を模倣したのであった。()それは人間活動の技術論全体からして重要となるはずであった。 177-8




3. 遠藤徹 『バットマンの死: ポスト9・11のアメリカ社会とスーパーヒーロー』 新評論
 
 コロナ禍の映画新作公開延期→名画再上映の流れで再見した『ダークナイト』IMAXレーザーの衝撃から本稿を書き出したら非常に長くなったので、独立記事へ↓に伐り出した。
 
  「バットマンの死」: https://tokinoma.pne.jp/diary/3913
  
 遠藤徹の本業(というか初発)はホラー作家であるらしく、これは近々読まざるをえない。(迫真)


  

4. 今村夏子 『むらさきのスカートの女』 朝日新聞出版

 日なが商店街を回遊し、公園でいつも同じベンチに座りクリームパンを食べる「むらさきのスカートの女」は、髪はボサボサでいかにも不健康ななりをしていて、商店街の人々の誰もが知りながら避けられ、公園では小学生の遊びのネタにされる。ホテルの清掃員として働く主人公はそんな「むらさきのスカートの女」が気になって仕方なく、友達になりたい一心からあれこれと画策しだす。

 今村夏子の不思議な魅力を巡っては以前にも書いた(よみめも49:6)が、その天然系の才能を炸裂させ文字へと定着させる技術が研ぎ澄まされてきた感ある。それは流れるようなテンポを生み、量産化にもつながるから作家の処方として悪いことではないはずだが何だろう、終盤の急展開に、このこなれてゆく自身の創作への、無意識からの反撥とも感じさせる軋みを聴く。最後の行できちんと落とすのだけれど、そういうオチの決まりがこの作家の持ち味とは捉えていなかったので意外でもあり、しかしこれはこれで余韻として新しくアリにも思える。
 
 誰も関わろうとせず誰とも関わろうとしないのに、誰からも存在を意識される「むらさきのスカートの女」に対し、「黄色いカーディガンの女」と自らを呼ぶ主人公は至って透明な存在で、「むらさきのスカートの女」のことを序盤では姉と似ていると思い(p4)、終盤では「下を向いて爪を見ていた」姿が小学校時代の友達めいちゃんに似ている(p104)と思ったりする。話の脈絡にまったく関係なく不意になされるそうした言及が、なぜか良いんだよ。とても良い。そのことがとても不思議に感じられ、このひとの作品をまた読みたいと思わせる。すごいよYOU。
 
 


5. 濱野ちひろ 『聖なるズー』 集英社

 獣姦から、ズーフィリア・エロチカ、動物性愛と言分けが進み、動物性愛はやがてパラフィリア(異常性愛、性的倒錯)の一つ、つまり精神疾患としてDSM-5よりカテゴライズされる。という概念の細分化の経緯叙述とは全く無縁に展開される、実感ベースの動物性愛者宅への数々の滞在録が面白い。安易なレッテル貼りを拒む多様性がコンパクトに窺われる記述。

 その視線のやりとりをもしもすべて糸にして表したなら、数十分で濃い網の目が部屋のなかに出現するだろう。私はその網のなかにいるから、まるで犬や猫たちとも絡み合っているような気がしてくるのだ。
 この空間のあり方は独特なものだ。ズーの家では、人間と動物がともに、まったく同等の強さで存在している。 57

 
 それとはべつに、ナチスによる諸々の身体/性抑圧施策への反動から、60年代西ドイツで極度に性革命、性の自由化が進んだことは知らなかった。さらには一方で、意外にもナチスの手厚かったライヒ動物保護法が、現行のドイツ動物保護法の基礎になったということ。で、なぜナチスが動物に優しい法を制定したかというと、食肉動物の喉を刺して殺す前に気絶させてはいけないというユダヤ教の食物規定コーシャを抑圧するためだったというオチも。
 
 これについては、たまたま図書館から同時に借りていた書から別筋の引用を以下しておく。
 
 あなたはナチ連中、とりわけヒトラーが動物愛好者だったことを忘れています! つまり、動物を愛するということは、人間を憎み侮辱することなのです! (ジャック・デリダ+エリザベート・ルディネスコ 『来たるべき世界のために』p.100)
  
 カミングアウトの、他人に影響を与え得る政治性に期待することの不純さ、という著者自身の感覚への再考過程も印象深い。セクシュアリティの表明が、そのセクシュアリティであることの苦悩に由来せねばならない理由などそもそもない。そこに一抹の浅ましさを感覚する自らの感性こそに疑いが持てるか否かは、けっこうでかい。99%の人間は、自らの感性に疑いをもつという行為をそもそも知らず、知らずに下す判断を理性的とは言わないことも無論知らない。

  『タッチ・ミー・ノット~ローラと秘密のカウンセリング』
   https://twitter.com/pherim/status/1269383547044786176

  
 映画『タッチ・ミー・ノット』に登場する部屋とインテリア全体が白で統一された性的少数者の集まりが、本書にも登場していた。この思わぬ連絡に、ドイツでも顔が見えるレベルの狭いコミュニティ圏ではあるのだろうなと。
 
 私の目の前には、特別な人間たちがいた。そして、パーソナリティを発見する実践は、かたちあるひとつの「愛」なのではないかと、私はいま、期待してもいる。 273
 
 発見することが愛、というのは面白い。愛をめぐる一見最も控えめな定義にも思えるが、そうかもしれない。




6. 藤本高之 編 『イスラーム映画祭 アーカイブ 2015-2020』 イスラーム映画祭

 イスラーム映画祭5開催に併せ編纂された、過去5回の上映全50作の個別解説+各専門家十数名によるコラム。またムスリマの服装やシャリーア、六信五行などイスラーム理解を促す図表ページもわかりやすい。なんのかんのいって映画の視覚記憶は強いので、今後イスラーム関連書籍や井筒他を読み進めるなかでも本書は度々参照必至だろう。

 あと依然観ていない作品も幾つかあり、DVD/VOD作まとめページとともに今後のチェック対象。
 
  拙稿「イスラーム映画祭5主催者・藤本高之さんインタビュー」:
  http://www.kirishin.com/2020/03/12/41844/

 
  藤本高之+金子遊編『映画で旅するイスラーム』(「よみめも42 ゾンビの道徳」第9項):
  https://tokinoma.pne.jp/diary/2870





7. 慎改康之 『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 岩波新書

 一九九六年のフーコーは、西洋における「人間の出現」を、ルネサンス以来のエピステーメーの歴史的変容を分析することによって描き出す。至上の主体であると同時に特権的な客体でもあるものとしての人間の登場は、古典主義時代に想定されていた表象の自律性が崩壊し、新たな認識論的布置が成立することによって可能になった、比較的最近の出来事であるということ。 81-2

 時代順に追いかける形でフーコーの主著数編を各章の主題とする、フーコーの業績全体を見渡しながらその腑分けも明瞭という端正な構成。厚塗り飽和化しがちな中公やわかりやすさ以上に軽薄化しがちな光文社等に比べ、岩波らしいといえばらしい。

「考古学」について、フーコーはそれが、我々にとってあまりにもよく知られすぎており、それによって絶えず姿をくらますものを、「視線と態度のある種の転換」にとってとらえ直そうとするものであると語っている。見えないものを暴き出そうとする代わりに、見ているのに見えていないものを見えるようにすること。我々から絶えず逃れ去るものを回収しようとする代わりに、あまりにも我々の近くにあって我々が見落としてしまっているものを立ち現させること。要するに問題は、かつて語られたことを精査し、現在の我々を差異として際立たせることによって、我々が通常受け入れている自明性そのものについて問いかけること、それがいかなるものであるかを明らかにすることなのだ。
 そしてそのように、見えないもの、ネガティヴなものの探索を放棄する限りにおいて、フーコーの企ては一種のポジティヴィズムとして現れることになる。 103-4

 
 


8. 赤瀬達三 『駅をデザインする』 ちくま新書

 営団地下鉄出身の駅案内表示エキスパートによる、日本の電車駅批評として極上。この観点からは、新宿駅への言及部が白眉で、尖りすぎて思わず笑い声が出てしまうほど。またその当人が、日本の駅表示は世界標準からみて全くイケてないと言い切る説得力が凄い。
 
 この四半世紀、東京メトロの案内図はJRや都心私鉄に比べ、生理レベルで年々わかりやすい方向へ進化するのを感じてきたが、なるほどこういうひとの尽力が裏にあったのだなと。さらに言えば、みなとみらい線の駅デザインには唯一日本らしからぬ垢抜けぶりを感じていたけれど、本書ではその理由が具体的に言語化され諸々ヤバかった。

 地下駅がわかりにくい最大の理由は、駅全体が地中に埋められて外観が見えないことだが、それは同時に風景の喪失を意味する。風景とは、人間が生きるのに必要な外界の情報源なのだ。それがないと閉じ込められた感覚が増して不快感が生じる。
 使える資金と造形力のすべてを投入して、どうにかして地下に広々とした空間と風景をつくり出す、そのことがこの駅のデザイン上の最優先課題ではなかったか。 217-8

    
  メトロ銀座駅案内表示ツイ:https://twitter.com/pherim/status/1301023357517754373

 バズりツイートへのぶら下がりとはいえ、よみめも起点のつぶやきで400RT&1000いいねはちょっと意外。

 新出ワードメモ:内照式表示器具の優位性、移動空間の可視化、硬い仕上げ材使用による反響が招く聴覚誤認




9. Andreas Gursky 『アンドレアス・グルスキー』 国立新美術館+国立国際美術館+読売新聞社

 極度に研ぎ澄まされた構築性により、この地球上の一光景を切り取る写実そのものでありつつ、絵画のように設えられた意志的統一を感じさせる写真作品群。多面的「写真芸術」の在りようにおいて一方の極に立つことを強烈に納得させるそのシャープな構築性に驚かされる。

 もっと安直に言うならば、単に川面を水平に写したようにも見える作品が内包する、ロジックの束の厚みが放つ熱量の残滓に感動する、というような。
 
 鉄とガラスの現代建築ファサードやスーパーの商品棚から兜町など群衆構図へ。そんな彼の今日最先端をゆく試みがチャオプラヤーの川面を映す抽象に転じた一連のバンコク連作へ帰結することに、さらに驚かされる。かつ何というか、世界の狭さのようなものを感じる。たとえばこの「抽象」のうちに映り込む、川面に浮かぶプラスチックごみの姿形がもたらす、むやみな親近感などを通じて。
 
 美容室ATOM蔵書よりご恵贈の一冊、感謝。

 
 
 
10. 佐藤雅彦 『認知症の私からあなたへ 20のメッセージ』 大月書店

 巻末エッセイを鎌田實が書いているし、あの佐藤雅彦が!と一瞬驚いたけれどそこは別人。
 
 ツイッターでは最近、認知症になった蛭子能収の動画がバズってたりして、ま認知症の社会的認知が促進される気運への需要は団塊世代の70代突入を機に当然あったろうから、その先駆け案内人が蛭子さんというのは適役すぎてむしろ感銘を覚えてしまう。
 
 というような方向へ本書の読後雑念が動いたのは、本文で描かれる症状がかなりの程度自分にも軽くあるというか、表層に現れる行動だけをみるなら重症化したADHDのような側面も多分にあり、つまりは認知症がより包摂される社会の前提に、発達障害をより包摂する社会が要請される、というような筋が走った。
 
 それとは別に、著者の行動範囲がpherim実家近所のため、挿入写真の多くが場所特定できてしまう奇妙な読書体験ともなり。
 
 


▽コミック・絵本

α. 五十嵐大介 『ディザインズ』 4 講談社
 
 本来生物は、自分にとって都合の悪い情報こそ認識しなければ生き残れない。()人は自分を守るための感覚を自ら遮断してしまった。感覚遮断はヒトに混乱と幻覚を引き起こし、著しい知的能力の低下を生じさせる。失われた外部からの刺激を渇望するあまり、もたらされる情報に対して驚くほど受容的になるんだ。これはね、洗脳のメカニズムそのものだ。現代の都市生活はまさに洗脳装置の役割を果たしている。ヒトは自分で自分を洗脳している。システムに依存して生きる家畜へと。

 チタンの義眼を嵌め込んだ謎の覚醒者オクダの本巻中盤における台詞「金属を介して触れると、世界は違う姿を見せるよ」「君たちも試してみるといい。金属の会話が聞こえるよ」から、オクダが独自に湛える環世界が別宇宙へ連なる可能性への言及、そして終盤遺伝子工学者ビクトリアによる「オクダの中の底無しの闇を覗くと、圧倒的な絶望が私を蝕んでいく。凍りつくようなその感覚は極限の快楽」への展開。あなたのまわりは死者だらけ。あなたはどんどん私へ近づいていく。
 
 旦那衆よりご支援の一冊、感謝。




β. 吉田誠治 『ものがたりの家』 

 映像作品等の背景美術や美術設定を手掛けてきたイラストレーターによる、《こんな家あったらいいな》解説図つきイラスト集。そうか、こういうものを同人誌というのか。(たぶん合ってるけど違う)
 
 収録された家のどれも好きなんだけど、イマジネーションの幅が欧州+日本に限定されちゃうあたりに残念というほどではないけれど、そうなんだよな、という。宮崎駿でさえそうだからね、これは。
 
 
 

γ. もちオーレ 『出会い系サイトで妹と出会う話』 KADOKAWA

 姉妹が長じて離れ離れになったあと、初めて十代の頃からの相思相愛を確認する表題作に始まる、バスケ部の先輩と後輩、双子の姉妹などを各々の主人公とする百合短篇集。どれも微笑ましいし、表題作など色々巧いと感じさせもした。
 それとは別に、安直な理解で言えばこうした作品で勃起するのが腐男子ということになるのだろうがとてもそうはなれそうにない。など思う。

 旦那衆よりご支援の一冊、感謝。




δ. 山本直樹 『レッド』 6 講談社

 山中の閉鎖空間で、革命者連盟と赤色軍の対立が顕在化しゆく過程の暗示描写が連続し、目立った立ち回り皆無ながら不穏さのボルテージ上昇が半端ない。それにしても「非美人」として描かれる赤城容子(永田洋子)の表情の描き分けに神経のすべてが注ぎ込まれている表現者魂の発露は良い。 
 「天城(遠山美枝子)死亡まであと31日」の表記で6巻エンド。いよいよ感しかない。
 
 



 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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