・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。
1. フェルナンド・ペソア 『ペソア詩集』 澤田直 訳編 思潮社
そして わたしは自分のシルエットを
丘のうえに見る
羊の群れへと視線を走らせ わたしの思考を見る
あるいは わたしの思考へと視線を走らせ 群れを見る
そんなとき わたしはぼんやりと笑っている
わからないのにわかったふりをする者のように
(アルベルト・カイエロ「羊飼い」抜粋) 34
そんなことは十分承知している
だが 愛を頼んだのに なぜ
冷めたポルト風煮込みなんか持ってきた
あれは冷やして食べるものじゃない
それなのに 冷めたのを出しやがった
不平を言ってるんじゃない でも冷たかったんだ
冷たいのはぜったい食べないのに 冷たかったんだ
(アルヴァロ・デ・カンポス「ポルト風臓物煮込み」抜粋) 77
一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
(略)
幾人かの詩人はときに彼らの感じることを言った。ワーズワースは そこここで言っている。コルリッジは一、二度は言っている。だから「老水夫のバラード」と「フビライ・ハン」は、ミルトンの詩のすべてより誠実であるし、シェイクスピアの全作品より誠実だと言ってもよい。シェイクスピアに留保すべき点があるとすれば、それは彼が本質的かつ構造的に作意的であり、そのために彼の恒常的な不誠実さが恒常的な誠実さになることだ。彼の偉大さはそれに由来する。
三流詩人が感じるとき、彼はつねに義務感から感じる。彼は感動において誠実でありうるだろうが、そんなことはあまり意味がない。誠実であるべきなのはポエジーにおいてなのだ。
(アルヴァロ・デ・カンポス「芸術論」抜粋) 115-6
2. フランソワ・ジュリアン 『道徳を基礎づける』 中島隆博・志野好伸訳 講談社学術文庫
文章別立てにて後日投稿予定。
神へと帰結しない非カント的道徳律の、今日的顕在態としての孟子、という可能性とその感覚による世界肯定の在りよう。真にあり得る道徳への冒険的知的探求。とか。
3. プラープダー・ユン、ウティット・ヘーマムーン他 『現代タイのポストモダン短編集』 宇戸清治訳 大同生命国際文化基金
祖父のすらりとした美しい指は一度も鍬を握ったことがなかった。それに、誰もそうさせようとはしなかった。そんなことをすれば、ただちに村の衰亡となってはね返っただろう。
昔から築き上げられてきた価値が、私たちのすぐそばにあるのだと思い至った時、私は心が震えた。それはいまでは、それを懐かしむ気分になった時にお金を出して買うことができるほど身近になり、私たちが束の間身につけて満足する飾り物になってしまった。そしてそう遠くないうちに、私たちはそれを、もはやしまっておく価値のないものと同じように捨て去ってしまうだろう。私達がそれに対して抱いていた感覚が実際はどのようなものであったかを、自ら体験してみようと考える人すらまったくいなくなるかもしれない。
それとも、私たちは本当に破滅の時代へ向かう入り口に来てしまったのだろうか?
午後三時になると、一番鶏がけたたましく鳴いた。象の哭く声が一度した。
(カノックポン・ソンソムパン「滝」)104
チョーンの目に、自分が父さんと呼んでいる大柄だが肥満体ではない中年男が、愛用の籐椅子に座ったまま残骸のようなテレビを呆然と見つめている姿が映った。それは、自らが長い時間をかけて追求してきた対象の中に何の意味も見いだせないまま、人間の人生とはその程度の価値しかないものかと憂いつつ、地平線をぼんやりと眺め、それでも何らかの僥倖の訪れを待っている人間の姿に似ていた。
(プラプダー・ユン「崩れる光」)152
彼にはもう誰にも頼れないことが分かっていた。その瞬間、彼はあらん限りの声で一度だけ長く叫ぶと、コブラの首を絞めていた左の掌を開き、大きく息を吐いた。彼の頭は敗北を受け入れたかのように前に傾いた。
キングコブラの頭が折れ曲がった。その胴体にはもはや力はなかった。コブラは死んでいた。コブラがいつから死んでいたのか知る者はなかった。人々は巻きついたコブラを取り去る段になると、誰もが簡単にそれをした。彼らはいずれもまだ恐れ、そのコブラの巨大さに驚嘆した。そしてそれぞれに、いろいろな意見を述べた。しかし、右腕の利かない子どもは、誰にも何にも関心を見せなかった。彼の目はうつろに開き、時々微笑んだり、時々は声を出して笑ったりした。時には泣き、時には自分に向ってぶつぶつと何かを呟いた。敗北を受け入れることにした、まさにその瞬間に、彼の精神は完全に毀れたのだった。
(デーンアラン・セーントーン「毒蛇」)258
王女の日記帳から
日記帳さん
今日はかぜをひいたわ
顔見知りになったとはいえ、虹はこの世でいちばん恥ずかしがり屋の生き物でした。それに虹の円弧の内部には恐怖心というものが隠されていたので、
(ビンラー・サンカーラーキーリー「虹の八番目の色」)207
4. マーク チャンギージー 『ひとの目、驚異の進化』 柴田裕之 訳 インターシフト
なにが意外かって、評判の良い科学一般書のつもりで読みだしたら本書のテーマである「視覚をめぐる4つの驚異的能力」が、テレパシーと透視力と予知能力と霊視だっていう。比喩でなければどういうオカルトだよって話だけれど、実際読み出してみると比喩でもオカルトでもなくガチで、若干レトリカルとはいえ自説の解説として間違ってないうえにそれぞれ凄い。
顔面に毛がある霊長類とない霊長類の分類がそのまま色覚能力の有無を分ける序盤の指摘からして目から鱗だし、SNSなんかでは日常的に目にする錯視イメージの大半を自力展開する「大統一理論」により包括してしまう思考の膂力は感心する。なかでも白眉は4つ目の「霊視」であり、自然淘汰により現在使われるにいたった文字が洋の東西を問わず表音文字か表意文字かも問わず、自然物が生む輪郭分布を反映するという指摘はあまりにも独創的でマジ天才。
未来を見ることが可能なのは、視覚的な特徴が時間とともにどのように変化するかを、私たちの視覚系が承知しているからにほかならない。(略)そう聞くと、「現在を支配する者は過去を支配する、過去を支配する者は未来を支配する」というオーウェルの言葉を一ひねりせずにはいられない。私たちに言わせれば、「過去をコントロールする者が未来をコントロールする。未来をコントロールする者が現在をコントロールする」となる。 212
ちなみに「4つの凄い視覚能力があるわけ」が副題。原題は『The Vision Resolution』で、皮肉にも訳出される際の編集者の“視野”の狭さが活きたタイトル。こういうのいつになったら改善されるんだろうと考えると、映画の邦題同様、まあ自分が生きてるうちは無理かなっておもう。結局日本語圏出版編集者の眼の鈍化は日本社会の劣化の反映でしかないからね。
ともあれ視覚に関心のあるひとすべてにお奨めの一冊です。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日追記予定 ]
5. 押井守 『ゾンビ日記』 ハルキ文庫
バンコク紀伊国屋の文庫棚で手にとった一冊。本書の概要をまったく知らず、本カバーのあらすじも読まずに入ったので、小説であることすら意外だった。一時期まとめて読んだ押井守のエッセイ自体が、ゾンビのようにダラダラと終わりなく同じテンションでつづくから、てっきり自嘲も込めたタイトリングかと。
とはいえ小説形式でも押井節は変わらず、だから導入部の衝撃と終幕のそれとが呼応する仕掛けのほうがむしろ意外なほどゾンビ的に楽しめた。
「万人の集合的無意識の奥深くに眠る伝統的行動モデル――原型」を唱えたカール・ユングなら、それを「戦士」とか「英雄」と呼ぶだろう。ユングによれば「原型」はリビドーに捌け口を与えることで、人間を突き動かすことができるのだそうだ。 149
古代ギリシア軍の指揮官の手紙に、こう書かれていた。
「送り込まれる兵士のうち、一〇〇人に一〇人は足手まといです。八〇人は標的になっているだけです。九人はまともな兵士で、戦争をするのはこの九人です。残りのひとりですか。これは戦士です。このひとりがほかの者を連れて帰ってくるのです」 150
技術的習得の最高レベルを「無意識的習熟」と呼ぶ。
ブルース・リーの言う「忘れるまで憶える」――自動操縦的な技術であり、戦士の訓練目標でもある。 162
押井アニメ全盛後期作がみなそうであるように、このひとの物語は細部のギミックにむしろ従属するようなところがあり、それが本作でも同じなのは興味深いし、そのギミックが他の多量のギミックに支えられていることが確認できたのは面白かった。映画ではここが省略されるから、想像力なしに観る人間には冗長に映ることになる。
異界性の身体、とでも言えばいいのだろうか。
身体表現には世界観が不可欠だという。
世界観なくしては腕一本挙げることができない――とは彼女がくり返し語っていたことだが、彼らこそ世界観を一身に表す身体そのものだ。 73
現実とフィクションとの関係は単純ではない。
力のあるフィクションは生に根拠を与えてくれるものだし、またそうでなければ芸術なんてものに、そもそも何かの意味がある筈もない。
現実以上の現実――それが芸術だ。 81
刀も「捧げ持て」ば花になる――。
(略)
動いて溶けている時ととどまって形になる時があり、どちらも同じものだ。
(略)
首をちょっと傾げただけで世界の底が割れる 91-2
否認はいま買ってあとで払うという方式であり、その詳細は細かい字で書かれた契約書だから、誰もそれを読もうとはしない。
戦場を巨大な竈だとするなら、そこに燃える炎は、否認の試みという小さな炎の集まりである。 135
6. 想田和弘 『演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか』 岩波書店
『港町』をめぐる想田和弘ブースト読書、の4。
演技ではない身振りはあり得るか。生のままの視覚とか、《ありのまま》論争にも通じるテーマが本著の通奏低音。(《ありのまま》論争:と勝手に呼ぶが特定の何かは想定されていない。でもアナ雪とか)
平田オリザを主人公とし青年団の舞台制作を撮る想田作品『演劇1』『演劇2』の撮影過程に寄り添う好著だった。カメラを前にした平田の身振りに初め戸惑い、思索し、深読みした果てに共振の生じる様が描かれて面白い。各々に著名でもある青年団メンバーへの想田の相談、みなによる平田談義など枝葉も楽しい。
また巻末の岡田利規x想田和弘対談は、演劇と映画を突き抜けた現代芸術表現談義として秀逸。なるほどチェルフィッチュ今日性の源泉そこか、みたいなね。
7. 想田和弘 『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』 講談社現代新書
『港町』をめぐる想田和弘ブースト読書、の3。
新書全体の粗製乱造イメージも手伝って、他の著作にくらべ事前の期待値は低かった。が、網羅的でありながら各章に思索の錬成も感じられ、彼の製作全般を見渡すうえでは格好の書として読めた。と、意外さとともに思い当たって検索すると、想田の表現姿勢を概観する出版物としてはこれがやはり第一書だった。つまり前進志向の気合いも存分に入っていたということ。
8. 中野佳裕 『カタツムリの知恵と脱成長: 貧しさと豊かさについての変奏曲』 コモンズ
すでに死語化した感もあるロハスとかスローフード系の思想探求を、ヒッピーのノリでなく真面目な優等生がガチで志し20年熟成させたらこうなりましたという仕上がりで、この系統の一般書が醸すフワフワした印象とは裏腹の質実さに感銘を受ける。著者の出身が長州の老舗和菓子屋で、素材も包み紙も瀬戸内各地の伝統産業に依存していたため廃業の流れに、という体験のバックボーン語りは正直読ませる。
タイトルのカタツムリがレオ=レオニの絵本に由来というのも良い。日本人はこの点すっげー苦手だし無自覚だし認めたがらないんだけど、真剣勝負は力んだほうがたいてい負ける。ちょー余裕かましてなんぼのここは弱肉強食世界だよ。
9. 藤本高之 金子遊 編 『映画で旅するイスラーム』 論創社
《イスラーム映画祭3》開催に併せ刊行された、イスラームを背景とする映画70本の解説 野中葉・中町信孝他による関連コラム収録。金子遊著作は当よみめもでも過去幾度も扱ってきたし、初回・第2回のイスラーム映画祭上映作もおおむね収録されている点で、極私的嗜好とも親和性が高く読み応えあった。巻末の、収録作に関する日本での初上映ログも地味に貴重でありがたい。
10. ウーリ・ステルツァー 『「イグルー」をつくる』 千葉茂樹訳 あすなろ書房
Ulli Steltzer "Building an Igloo"。イヌイット版かまくらのつくりかた。雪しか使わない、その場でできる、単一形態の螺旋反復というシンプル構造を、明解な写真と簡潔な文章により記録する。子ども向け絵本にもなれば映える一冊として目を喜ばせるデザイン本の要素もある。つまりはそう、北欧家具のような好著。
▽コミック・絵本
α. TAGRO 『マフィアとルアー』 スタジオDNA
その果てに彼女の世界。この彼女の故郷はこんなにも美しいのに…。だが二つの世界の無関係を、青く高い空が清冽に示していた。それがオレには少しツライ。
( 「LIVE WELL」) 119
良い。9つの短編の大半が、これから佳境というところで終わるのだけれど、余韻ではなく予感でいつも終わるこの感じがとても良い。壊れかけた女の子に壊されゆく男の子、という関係性に第三者または舞台設定そのものが介入として働くパターンが強迫的にくり返されるたび、泥沼の鬱闇へ向かわずあっけらかんとした上向きで幕切れるのは、壊されることでようやく主人公が「自分になる」からだ。
別れた彼女がまた別れたと友達から聞いたのは随分前の話だ。まるで遠い外国のニュースを聴くポーズのまま、でも耳の後ろはひどく熱かった。手の届く場所に檻の鍵が落ちているのを見つけた囚人の気分だった。そして囚人のしようとしている事を見守っている看守はまた自分自身だった。ある日の無言電話がそんな煉獄の日々を終わらせるのに役に立った。その無言電話を彼女の仕業と決めつけたので、その返事をすることにしたのだ。
(「マフィアとルアー」) 187
表題作は文句なしの傑作。
こういう作品は、自力ではたどり着けそうにないゆえ勧めてくれたT氏に深謝。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日追記予定 ]
β. 冨樫義博 『HUNTER×HUNTER』 34 集英社
ヒソカvsクロロ巻。という対決は少年漫画ファンの主要期待圏ゆえ支持も集めるだろうが、その実もはやお掃除エピソードの観も色濃い。冨樫本人の創意が「新大陸」へ向いた結果として、「少年漫画」の脱臼技とでも言える「瞬間静止」「冗長説明」の極北が試みられるその流れこそ面白く、旅団の主要メンバーが次々にザコ死を遂げる切なみに作者の捩れた享楽を覚えてしまう。変態である。(誰がじゃ
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日追記予定 ]
γ. レオ・レオニ 『スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし』 好学社
8の
中野佳裕『カタツムリの知恵と脱成長』でタイトルの由来となった絵本、たまたま本屋で通りがかりに目についたので、立ち読む。受容感覚的に、ぽにょ的世界観の下地になってるのかもなとか。
たいていの子供が読むメジャー作、のような扱いを受ける名作絵本にしても、その全てを読んで育った幸せな子供はどれほどいるかなと。そこが親の選択にかかってくる核家族化した高度経済成長こそ、この意味でも鬱っぽく分裂した今日の社会を準備したんだな。みんなで敵を騙すかしこさとかでなく、複数化し分化する自分の群れにあって目であることを選ぶんだよ。そういう意思の寓話ナノdeath。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
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