↑図中右上いざ受け取らんとするは、コズエさまの御掌なり。
今年後半は、過去2年つづいてきたペースがだいぶ乱れました。
おかげで読了本もだいぶ貯まっておりますゆえ、何はさておき漸進々々。
・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。
※詳細は「よみめも 1」にて→ [→ 後日掲載&URL追記予定 ]
1. イザベラ・バード 『日本奥地紀行』 平凡社
私は、このようにすばらしい未開人たちが、焚火の光に顔を照らされながら集まっている姿ほど奇妙な絵のような光景を見たことがない。加うるに、たいまつのような焚火は赤く燃えて強い光を投げ、部屋の奥や屋根は暗い闇夜となっている。屋根の片隅からは星空が覗いている。後ろには未開人の女たちが一列に坐っている。東洋の未開人と西洋の文明人がこの小屋の中で相対している。しかも未開人が教え、文明人が教わっている。この二つのものを繋ぐ役目をしているのが黄色い皮膚をした伊藤で、西洋文明などはまだ日数も経たぬ赤ん坊にすぎないという東洋文明の代表者として列席している。 p.384
イギリス人女性による、明治初めの日本奥地紀行。東京(になったばかりの江戸)から北海道(になったばかりの蝦夷)までの、彼女以外にはまだ西洋人が誰ひとり訪れたことがないだろう奥地の自然と山村の人々が、他に類例のない細密描写により書き留められていく。とりわけ日光東照宮とアイヌ文化をめぐる描写は秀逸で世評も高いが、全編を通して描かれる日本人に共通する純朴だが野卑た感じも興味深い。この目線、日本人がかつての支那人、現中国人に差し向けるそれに似てなくもない。とすれば数世代あとの中国人は誰を相手に、って主語の曖昧すぎる話だぬ。
味噌汁が
「ぞっとするほどいやなもののスープ」だったり、農村の習俗を痛烈にこき下ろしつつも常にエクスキューズを忘れなかったりと、まぁとにかく思いのほか多角度から楽しませてくれた一作。またこの国が「落とした財布やスマホが返ってくるミラクルの国」なのは、なにも《経済的に豊かだから》だけではないことが、バードによる馬子の支払いや手工品購入をめぐる交渉などの記述によって納得される。とすればこの精神文化、根は江戸まで突き抜けていることになるわけね、少なくとも。
やがて酋長の正妻のノマが三つに割った薪を火穴に挿しこみ、灯芯と魚油を陶器の破片にのせて、その上に置いた。(略)彼女はここのあらゆる女の中でもっとも利口そうな顔をしている。しかし悲しげで、厳しいほどの顔つきであり、めったにしゃべらない。彼女は酋長の正妻ではあるけれども、幸福ではない。彼女に子供がいないからである。もう一人の妻がりっぱな男の赤ん坊を抱くとき、彼女の悲しげな顔は暗くなって何か邪悪なものに変わってゆくような気がした。 p.386
これ原作の漫画が出るようで。絵柄がすこし森薫なあたり気になるかな。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
2. 高村薫 『新リア王』 下 新潮社
私は本を置いて考え込みます。貴方は新しい時代に〈何かがあるのか〉と問われたが、野は依然として野である半面、新しい身体は草の一本一本を見るようにして、物質や音声や光が過剰なまでに満ちあふれている世界を見るのだろうか、と。それは欠如もない充実もない、生と滅を繰り返すばかりで在るのでも無いのでもない、運動する原子の群れのような世界だろうか。冷えて不活性化した運動のエネルギーがあるだけの、物質以前の、意味以前の、世界以前の、無名で無数の気分の粒子のように在る世界だろうか。しかしそうだとしたら、そういう世界の姿は私たち仏家がやれ有なる時だの、時なる有だのとのたもうて、尽有尽界を存在と時間の時節因縁に還元してしまうのとほとんど同じであるのかも知れず、新しい世代は踊るように笑うように、ハンバーガーを食うように、呼吸するようにこの生成変化の瞬間瞬間を生きているということだろうか――――。ああいや、そうだとしたら彼らがサーフィンに興じるようにして仏家も坐ればよいだけのことですが、ともかくこうして事態を追いかけてゆく私の言葉は何にも追いつくことがなく、片やとうの昔に身体でそうと分かっていたのだろう初江の黙念こそ、自然体であったということかもしれません。 p.194
しかしそれらの個々の事情は選挙のつど用済みになるが、些細な個人生活に蒔かれた悪意や妬みや嫉みの種は、こうして一つ一つ根を下ろし、田んぼの畦道にまで広がり沁み込んでゆくままになる。その繁茂たるや、どこもかしこもこんな草庵一つの佇まいや朝晩の読経ぐらいでは洗い流せない陰気さであり、村じゅうの見えない視線に貫かれてまさに窒息せんばかりであり。片や、そこに棲む政治家たるや町議のバッジを襟に光らせ、田んぼの泥をものともしないタガメよろしく分厚い面の皮をここにさらして、国政がどうした、福澤がどうしたと言わんばかりに小鼻を膨らませているのだった。 p.227
そして、エネルギーがそうしてさまざまに散らばってゆくとき、それを再び集めて一つのことに注ぐのがいかに困難か――――。たとえば仏道も、尽十方界の真の姿を捉えんとする精神のエネルギーの営みですが、人間のこの煩雑きわまりない身体をたった一つのことに向かわせんとする辨道功夫のエネルギーの大きさといったら! おそらく仏教が誕生した当初、発心なるものは無駄になる廃熱がまったくゼロであるような精神の熱溜めを想定していたに違いないのですが、時代を下ったいま、そんな熱溜めをもつ人間はいない。この二千年の間に熱は方々に散らばって、もはやかき集めることも出来ない。発心の大きさにおいて、現代の仏家がけっして二千年前の諸仏に追いつくことがないのは、このためだろうと思います。私たちのエネルギーは消えたのではないが、もう十分な活性がないのであり、大きすぎる仏の前では為すすべもなく坐るほかはない。 p.175-6
上記引用部は
「そして、私の発心のエネルギーがそうして小さくなれば、仏もまた小さくなってゆくのです」と続き、これに対する父=新リア王としての福澤栄からの反駁へ展開するのだけれど、このあたりは濃度を下げたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』大審問官の下りをやや想わせた。『新リア王』は前作『晴子情歌』や後続の『太陽を曳く馬』に比べ小説としての評価は世間的にも批評家のそれも恐らく低いだろうけれど、この作品が下地を引き受けたことで前後作に結晶化の作用が生じたという見方もありぽす。井戸を掘る村上春樹とは対極の渇いた世界認識、に基づく日本文学最前線の一翼ここにありという感想。
3. 吉村昇洋 『心が疲れたらお粥を食べなさい 豊かに食べ、丁寧に生きる禅の教え』 幻冬舎
「食べた相手に感謝すらされないので、作る気が萎えます」と、その途上で、自分ばかりが割を食うと思うのではなく、むしろ「自分が信念を持ってやっているのだから、相手の反応など関係ない。相手が気づくまで気長に待ちますよ」というぐらいの心意気で努めていきたいものです。 p.107
禅修行の根幹は、自分のことに気づくということにあります。しかし、人は誰しも自分の嫌な側面など見たくはないので、都合の良い言い訳で合理化して生活をしています。(略)心の緩みは、案外そういった自分を納得させる“自分勝手さ”が作り出しているのかもしれません。 p.194-5
最近の新刊本は編集者ないし出版社の意図により、中身とタイトルに若干もしくはかなりのギャップがあることが珍しくないけれど、本著もその一例。癒やし系料理本の類ではなく、実は本著こそが吉村昇洋渾身の一作。
この本をめぐっては、吉村さんご本人をお相手に下記ツイキャス録画にて諸々伺っているので、ご視聴いただければ幸。
吉村昇洋さん(禅僧・臨床心理士)とツイキャス
http://twitcasting.tv/pherim/movie/211404196 [録画]
ツイキャスで何か話そうとなった際、吉村さんから「近著について」とご提案があったのは、実は二年ほど前に吉村さんの単著第一作をめぐって彼の本拠地である広島の普門寺にて一晩お話を伺ったことがあったから。この時も一部は録音のうえニコ生放送前提だったのだけれど、機材に難があって放送は果たせなかった。その意味でもできて良かった。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
4. フェルディナント・フォン・シーラッハ 『犯罪』 酒寄進一訳 東京創元社
このひとの語り回しには、固有の読む快楽がある。文学的情緒とか重厚さの類ではなく、なにかの記録からはみ出る余韻のような渇いた軽さ。訳文でも伝わってくるそのテンポの良さは、ちょっと類例が思い浮かばない。前回扱った同著者『罪悪』
(→よみめも27 http://goo.gl/7huqaq)は本作の後継作。『罪悪』と翻訳最新作の『禁忌』は姐御衆よりご支援いただいた。『禁忌』を読むのは年末からのタイ滞在中の楽しみの一つ。感謝。
5. 茂木健一郎 『東京藝大物語』 講談社
東京芸術大学において、著者が美術解剖学特別講義を担当した数年間に見聞した「芸大生の青春」を描く。けっこう売れているらしいのが驚きだが、本作は茂木自身のこうであってほしい「大学生の春」を、歴史的に特殊な文脈をもつ「東京藝大」という舞台に当て嵌めた文字通りの小説で、誰もこんな風には生きていない。
実は主要登場人物の全員と知り合いというか、ここだけの話ふぇりむ自身も登場人物のひとりである。さらにいえばある登場人物は無断で諸々「創作」されたことについて、尋常でない憤りを見せていることも耳にしている。では茂木さん本人に売らんかなで他人を利用する意図があったかといえば、それはない。彼としては120%、自作に登場させた元学生に対しては応援したい気持ちしかない。善意であれば何をしてもいい、はずがない。このあたり、変わってないなと思いましかばまし。
6. マララ・ユスフザイ クリスティーナ・ラム 『わたしはマララ』 学研パブリッシング
副題は「教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女」。前回日記で扱った映画版『わたしはマララ』も、その他もろもろの便乗物も、すべてこの本の世界的ミリオンセラーゆえ。
昔からベストセラー本はあまり手にとらない天邪鬼なのだけれど、これは読んで良かった。ノーベル賞少女の一代記というお題目にはそぐわないほど巧い構成。タリバン等イスラム過激派との格闘だけでなく、文化習俗の紹介やパキスタン固有の政情、通り過ぎた街々の描写など。銃撃事件後、イギリスに移送されてからの生活描写も生々しくて面白い。このあたりは前回日記にすこし書いた。
7. マララ・ユスフザイ パトリシア・マコーミック 『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』 岩崎書店
『わたしはマララ』の派生本、便乗本、子供向けリライト本は日本語でも各々大量にあるけれど、今回原稿準備の目的で目を通したなかでは本著が《子供向けリライト》部門のベストだった。構成も訳語も子供向けによく吟味された痕跡が感じとれる。ただ290ページが読みこなせる児童なら『わたしはマララ』で良いのでは、という身も蓋もないことを思わないでも。
8. ヴィヴィアナ・マッツァ 『武器より一冊の本をください』 金の星社
副題は「少女マララ・ユスフザイの祈り」。マララがBBCに匿名で載せていたブログ等からの編集本。日記調に終始するため読みやすく、量もほどよい。意識高い系中学生向け。もしそんなものがいるなら。ま、いるよね。すべては再生産される世の中ゆえ。原理主義も“まじめか”も。
今回いろいろマララ関連本を図書館で検索予約したら、概ね子ども向けだったのも少し新鮮。少子化でもこの辺の需要あるのか。マララ周辺事態については、大人のほうが知ったら良いこと多いんだけどね。
9. 石井光太 『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。 』 ポプラ社
副題は「マララ・ユスフザイさんの国連演説から考える」。便乗本。と言えば聞こえは悪いが、後半の石井によるメッセージが明確なので良書と言えば良書かも。学校を「自分のことばを自分でつかみ取る場」としたうえで、その重要性を説いている。いくら「世界の子どもに教育を!」みたいに叫んでも、ひとはそう簡単に共感を覚えるものでもないはずだし。子どもならとりわけね。
10. ローズマリー・マカーニー 『マララさんこんにちは 世界でいちばん勇敢な少女へ』 西村書店
訳者が『わたしはマララ』と同じなのが意外なくらいの粗製濫造本。明らかな子ども向けであるにも関わらず、たとえば抽象単語は単に漢字の一部がひらがなにされているだけで、言葉の置き換えが為されていない。せっかく対象絞っているのに、全国紙の四角四面な常読漢字準拠に倣ってどうするんだっていう。スローガンのくり返しばかりが目立って何か勢いだけは良いけれど、これはちょっとないすなぁ。ナイスではない。
▽コミック・絵本
α. 阿部共実 『ちーちゃんはちょっと足りない』 秋田書店
こういう《傑作ぶり》ってあるんだなん。前半は、知恵遅れ気味の主人公ちーちゃんを中心とする、下地には発達障害・いじめ等をめぐる社会批評性もほんのりあるけれど基本的にはほのぼの系、というよくある良作水準で進行する。ところが登場人物中で最も凡庸な“よい子”のナツによる主観描写がメインとなる後半で、描かれる日常の色合いがガラリと変わる。女の子たちの日常に表面的な変化は何もないのに、ナツの内面が絵柄として外部化されることですべてが変わって見える、漫画ならではマジカル展開。
ちょっと足りない《はず》のちーちゃんが最も満ち足りていて、ナツの内面を襲う地獄感は痛いほど伝わってくるのに、それが一度過ぎれば何でもないこともまたきちんと描けている。しかもその取るに足りなさを、バス停やジャスコのカットによって表現するあたりは小津安二郎かっていう。友人間でのちょっとした犯罪をめぐる扱いも見事で、というかそうなのよ、書き出したらキリのないことを書く場でもここはなかった。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 九井諒子 『ダンジョン飯』 1 エンターブレイン
各所で良い評判しか聴こえてこない本作、ようやく読めた。もともと九井諒子の《次元がちょっとズレた感じ》は大好きだったので、良い予感しかしてなかったけれど余裕のK点越え流石でおじゃった。つねにRPG的世界観を傍らに育った世代には、スライムや呪いの甲冑の料理法はむしろ必修の妄想知識であるはずで、どうしてぼくたちはこれまでこのことの大切さに、こうも鈍感でいられたのかと小一時間。栄養バランスとかにも気を使うダークソウルとかの時代、くるで。きっとくる。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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γ. 幸村誠 『ヴィンランド・サガ』 16 講談社
この作品、なぜか一方向に新大陸目指すものと思い込んでいたので、ここにきて黒海やシチリア編の脈もあるのではと想わせる展開へ突入とは畏れ入る。というか心は狂喜乱舞である。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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