↑Deplanchea tetraphylla, Endeavour River, Australia / Banksia serrata, Botany Bay, Australia / Clerodendrum paniculatum, Batavia, Java
・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。
※詳細は「よみめも 1」にて→ 後日掲載&URL追記予定
1. 宮坂宥勝 梅原猛 『仏教の思想9 生命の海「空海」』 角川文庫ソフィア
パトスの世界はロゴス的なことばで認識することのできない無限の沃野である。(略)たった一字であっても、それはパトス的な象徴性をもった文字である。文字のもつパトス的な象徴性を解読するもの、それが空海の真言密教である。 p.69
曼荼羅について一度もまともに考えることがなく、気づけばもうこんな歳になっちゃっいました。いやもちろん、この宇宙はこれまで一度も考えたことがないものばかりで依然占められているのだし、そこは死ぬまで変わらないと諦めもついたけれども、曼荼羅についてはそれではいけない。下手にチベットの寺院でタンカに見惚れたり、東洋美術の名品群の一としてそれらを眺めてきたせいか、これはヤバいものだという畏れがあった。要は無自覚に避けてきたようなのですね。というかもはや明白、無自覚に避けてきた。
「法はもとより言なけれども言にあらざれば、顕はれず。真如は色を絶つれども、色を待ってすなはち悟る。」(『請来目録』)
仏法の真理は、もともとことばを離れたものではあるけれども、ことばによらなければ表現することができない。また絶対の真理は色やかたちを絶ったものではあるが、色やかたちで表すことによってそれを知ることができる、という意味である。(略)「青丹よし奈良の都」の仏教は、その青と朱との二色の文化であった。 p.116-7
このようにして、造形された美なるものをひろく芸術とよぶとすれば、芸術も世界もまた「色塵の文字」である。空海においては芸術も実在のことばでなければならない。また、われわれのどのような心の世界もすべて「色塵の文字」である。(略)これに対して密教では、現実が絶対であるべきものであることを確信をもって説く。それがためには即而的に現実を絶対に転換させなければならない。これを、「当相即道」あるいは「即事而真」などといっている。自己が直面している当のものがそのまま仏道であるというのが「当相即道」である。また、世俗の事物そのものがとりもなおさずに真実であるというのが「即事而真」である。「色塵の文字」についても、まさにこのことがいいうるのはいうまでもない。 p.169
この角川仏教思想シリーズ12巻は、文字通り仏教の思想面に焦点を当てたもので、それゆえ第9巻の本書にとってもこうした具象的文物への言及そのものが核心的なのではない。そこはあくまでぼく個人がそう読んで感得するところが大きかったという話。しかしね。たとえば京都の国宝・重文級仏教美術群にあって東寺の仏像群だけが放つ異色性だとか、日吉山王曼荼羅や熊野曼荼羅などいわゆる胎蔵金剛の両曼荼羅とは明らかに異なる文脈上を引く作品群だとかをめぐりこれまで持ってきた曖昧な印象の輪郭が本書によって際立った感。これはメモしておいて如くは無し。
ただどうも、正直なところパンチにかける。読むタイミングの問題もあったのか。不思議と迫力にかけるんだよね。最澄と空海の書状対決とか日本仏教史上指折りの山場でしょうに。
密教と顕教の違いは、私は、生命そのものが、十分明白に認識しうると考えるか、それとも認識しつくせないものだと考えるかどうかの違いであると、空海は考えていたのではないかと思う。前者において世界は、明々白々いささかの曇りもなく認識可能である。けれど後者において、世界は多くの認識できない影と謎をもつのである。ここで明るい認識は、かえって闇の深さを目立たせるだけではないかと思う。 p.328
アポロンの憂鬱。の、二元論展開。そうなのか。
生命の曼荼羅世界は、生の肯定の表出である。われわれもときには、この理念型としての曼荼羅世界を描いてみてもよいのではなかろうか。あたかも空海が弥勒信仰に導かれたように、そしてわれわれもまた「宇宙はふんだんに時をもっている」ことを思い出しながら。 p.198
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
2. 高村薫 『太陽を曳く馬』 上 新潮社
昨夜、君があの円環を描いている夢を見ました。(略)禅僧が筆の勢いで一息に描く円の対極にある、ひどく固い、重い円を、君の手は一瞬一瞬の圧力や動きを確かめるかのようにして一つまた一つ、いつまでも描き続けているのでした。(略)それはまさに足跡や轍そのもので、ほんの少し前に君がそこにいたことを数秒遅れて私が知るのです。一寸ハッとするような、気が急くような、何かを失ったような心地とともに、そのとき私が見ていたのは、数秒前にあっていまは無い何者かの存在―――否、在ろうが無かろうが、正確にはふだんの身体感覚にふいに触れてくる他者という異物であり、それによって新たになる私自身の存在の感覚だったというべきでしょうか。
この眼に見えること、耳に聞こえること、身体に感じられることが直に運んでくる世界や他者の、こうした唐突な立ち現れは、何より私に、この私がいまここに在ることを知らせるものです。私はそれを日々坐りながら体感することもあるのですが、禅定のさなかにやって来るその体感がひどく無機的であるのに比して、君の円環に向き合うときに立ち現れる私は、なま温かい血や、未分化の分厚い雲のような感情の気配に満ちた、幼く穏やかな何者かであるのが実に不思議です。 p.281-2
3. コニー・ウィリス 『ブラックアウト』 大森望訳 早川書房
2060年を生きるオックスフォードの史学生たちが、個々の研究課題を携えて第二次大戦下のロンドンへ現地調査に赴くと、というSF長編。コニー・ウィリスは『航路』を読んだ際その楽しさ&読みやすさにほとんど呆れながら一気読みしたものだけれど、『ブラックアウト』はそれすら凌ぐ。二段組み760ページが嘘のよう。いやまぁ、それがエンタメ小説の本義っていやそれまでだけど。
彼はうしろをふりかえり、それからポリーに視線をもどして、「わたしたちは出逢うのが遅すぎた。時の関節がはずれてしまった。(『ハムレット』1幕5場)」といい、それから階段を降りていった。 p.326
4. 村上春樹 『職業としての小説家』 スイッチ・パブリッシング
「あなたはここから先を書かなくてはいけない。あなたはそういう領域に足を踏み入れているし、それだけの力を既に身につけているんだから」と。彼女は僕の意識のひとつのアスペクトとして、僕が今ある地点で留まってはいけないということを、僕自身に教えていたわけです。 p.234
5. 村井健 『村井健のざっくり日本演劇史』 村井健さんお別れ会事務局
何にでも歴史はあるものだけれど、本質的にあらゆる「歴史」は偽史に他ならない。そこから言葉の本質にも直結したニセモノ性を排除はできないけれど、であればこそ話者の重要性がすべてを決める。それはもう不可避的に。
考えてみれば築地小劇場から文学座、劇団四季、60年代末以降の小劇場モードをフラットに並べた語りにこれまで触れたことすらなかったけれど、個人的に感じた本書の白眉は現代よりも江戸の近世人形浄瑠璃と歌舞伎から明治新派の台頭や自由劇場の旗揚げまでの項。ここまでなめらかに語られるとかえってマジかと構えてしまうが、視点を引くなら川上音二郎や小山内薫など突出した個人を結節点として時代の転換を描く構造がみえてくる。線的な接続ではなく、結節点。本書においてその最後端に立たされたのが野田秀樹なこのざっくり感、そこは著者個人の偏りを措いてもきっと妥当なラインなのだろう。残念なことに野田MAP以降をまったく知らないので、このあたりの時代感が掴めない。残念すぎる気がしてきた。
あとはたとえば伎楽と雅楽と散楽とか、これまでぼんやり捉えてきた単語の輪郭が各々整理されたのは良かったな。そういう機会、あるようで実際あまりないんですよね。追悼。
6. 山下良道 『青空としてのわたし』 幻冬舎
『アップデートする仏教』の共著者でもある曹洞宗僧侶の山下良道さんが、一般人向けにご自身の思想を語られる際の中心概念と言って良い「青空」を、コンパクトに解説した一冊。理解第一の関門は「シンキングマインド」としての私と「シンキングマインド」以外の私を区別することだとすれば、第二の関門は恐らく「シンキングマインド」としての私によって「青空」を理解した気にならないことで、しかし「シンキングマインド」としての私以外の私への自覚がなければそれは原理的に困難だ、とも思われる。ゆえに実践が肝要、ってことかな。
そんなことより在ミャンマー・アメリカ経験のある著者の、若い頃からの葛藤と気づきと克服の語りがとても面白かった。お坊さんになってからも30年悩みましたばなし。
慈悲の瞑想では、まず「私が幸せでありますように」と念じます。これを初めて教わったときには、衝撃を覚えました。まるで現世利益的で自己中心的な願望のように聞こえますが、じつはこれこそエゴに対する死刑宣告だと気づいたからです。
エゴが幸せを望むことはありえないのです。エゴは、自分をみじめな状態にとどめおいて、そのことから強烈なネガティブ・エナジーを得ています。うわべでは幸せを望むようなポーズをとりながら、本当に幸せになると困るのです。だから幸福なエゴなど存在しません。つねに不幸であることを求めている。人間関係の苦しみが絶えないのは、まさに不幸を求めるエゴがエネルギーを得るために、相手を利用しているからなのです。 p.207-8
ここだけ抜き出すと、なんだかずいぶんひねくれた思考の発露に見えるかもですね。でもきっとこの通りだろうなと思います。私が幸せでありますように。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
7. 『ミニストリー vol.25 過疎と教会』 キリスト新聞社
依頼原稿の参考用にと受け取っていたものだけれど、面白すぎて気づいたら完読していた。専門誌で聖職者と問題意識の高い信徒向けに書かれている内容が、かえってぼくのような門外漢には新鮮で興味深い。「これは一般向けの本です」という体裁のキリスト教入門書群に、ピントのズレた偏りがあるのでは、と改めて思わされたのは、こんなにも面白い各論と具体例が沢山あって記事化すらされているのに、過去目を通したことのある入門書の類ではそれらすべてが削ぎ落とされていた感があるから。入門者が一番嫌がる《出がらし》が入門書に一番多い謎展開、ぬーん。
これまで浅く縁のあったひと幾人かも登場していて、背景などを知ることができたのは良かったしなんだか和めた。時の間メンバーの某司祭さまへの密着インタビューなどもあり!
8. 中島偉晴 『アルメニアを知るための65章』 明石書店
この『~を知るための○○章』シリーズは、巻により玉石混淆だけれども、マイナー国のものになるほど質はどうあれ貴重さが増す。アルメニアを扱った本書はこの意味でもかなりの良書。とりわけ領域国家の体裁をとるのがどうみても難しいザカフカース一帯の民族分布・歴史的経緯をめぐる解説の手捌きは感心するほど明解。なかでも隣国アゼルバイジャンのアルメニア人自治区「ナゴルノ・カラバフ自治州」を扱う章は特に秀逸。
いまなおイスタンブール旧市街の頂上に健在のハギア・ソフィアの大ドームを10世紀に修復したのが、アルメニア教会を多く手がけた古都アニの建築家トゥルダトだとか、エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』の“アトラクションのモンタージュ”に対するペレシャンの“距離のモンタージュ”が孕むアルメニア映画の本質だとか、細部への言及も驚きに満ちて多々興味深い。
さてかように興味をもったとはいえ、行く機会はあるのだろうか残りの生で。
9. 『アルメニア人ジェノサイドの真実』 アルメニア人ジェノサイド100周年記念企画実行委員会
なかったことにされ今もトルコではタブー視がつづくジェノサイドに関し、アルメニア人側から日本語に寄ってその事実を周知させるために編纂されたブックレット。その目的からして告発調になるのはやむを得ないが、列強が取り交わした条文や、オスマン帝国の勅令、各大使館の公式文書、残された貴重な写真等により可能な限り客観性を確保しようという意図は評価できるし読み応えもあった。
発行の委員会は、上記『アルメニアを知るための65章』著者・中島偉晴が委員長、現駐日アルメニア大使のグラント・ポゴシャン氏も、自身の曾祖母が犠牲となり祖父が故郷を追われた履歴を本書の序文で明かしている。同大使には先月仕事で六本木のアルメニア大使館にてインタビューを行った。これについては後日あらためて書く所存。予定は未定。
文化村なくせに安上がり動画、だけど意外に頑張ってる動画。
10. 『「キャプテン・クック探検航海と『バンクス花譜集』展」図録』 Bunkamuraザ・ミュージアム
昨年渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムにて開催されていた展覧会の図録。会期中に行けなかったので図録を借り拝読。展示の中核はクックの初回世界一周に同行した植物学者ジョゼフ・バンクスの編纂による『バンクス花譜集』の銅版画。ジョゼフ・バンクスについては以前にも少し書いた。
過去日記「弧状、群島、カリブ海。:」 [→ 後日掲載&URL追記予定 ]
さて形式としては図録だがこの本、よくできている。まず構成が良い。植物学はもとよりクック&バンクスが残した業績への歴史学・人類学的興味からアボリジニ周縁の博物欲求まで薄く広く満たしてくれる。これ、買いですよ。まだ在庫あるようです。
本著で初めて知り面白かったこと3点。
・ミクロネシアには今も残るスター・ナヴィゲーション(ウェイファインディング)の、ほぼ絶滅に瀕しているポリネシア版について、クックが探検記に生きた概容を残していること。のちゴーギャンへと続く西洋知識層の南太平洋域へのオリエンタリスム妄想に照らすとこれはちょっと意外。
・現在のジャカルタ前身にあたるオランダ東インド会社の東半球(太平洋側)拠点バタヴィアが、クック寄港時に見舞われていた災厄等に関する観察記述。アムステルダムに似せたら水路が病の伝染路になっちゃったとか、でも良い造船所があったとか。
・極楽鳥花の学名"Strelitzia"はバンクスによる命名で、北独メクレンブルク-ストレリッツ家出身のジョージ3世王妃に捧げられたものとの由。ストレリチアって大航海時代Onlineで強烈に印象に残ってた数少ない植物名の一つだけど、たぶん「極楽鳥」のことだろうくらいに思っていた。
旦那衆・姐御衆より拝借の一冊、感謝。
▽コミック・絵本
α. 森薫 『シャーリー』 2 エンターブレイン
『乙嫁語り』では“図を見る”快楽をひたすら満たしてくれる森薫作、『シャーリー』はどちらかといえば“線を見る”かもしれない。物語について言えば、女主人は独身でかつ一人でカフェを切り盛りして、老練な紳士客たちに有無を言わさず配膳を手伝わせるほどの器量持ちだけれども、屋敷での孤独な労働を淡々と過ごす主人公の少女メイド・シャーリー同様、出自不詳の謎を抱えている。この謎と謎が同居するレア状況がこの作品の不思議な魅力を支えているのだけれども、2巻では女主人の元婚約者の登場により謎の一端が明かされる。そんなことはおかまいなしに、いつものドジっ子ぶりを発揮するシャーリーの、紅茶の入れ方やうまく履けないハイヒールなどの小道具を通した大人への憧れへの描写が可笑しくかわいらしくほのかに切ない。ええのす。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 弐瓶勉 『BLAME!』 1-3 講談社
バンコクの事務所在庫にあったものを偶然読んだら傑作すぎワロス。弐瓶勉だしそれなりに期待はしたけどまあ驚くわ。いまの3D映画とか4DXみたいのはもちろん過渡期で、家庭ゲームや遊園地アトラクションのメインストリームが技術の進展次第にあわせ全感覚没入型を目指して今後も発展を続けるのは自明だけれど、あるていどジャンルとしての熟成が進んだとき決定的に重要になるのは間違いなく世界観設定で、問われるのは世界構造の厚みなのですの。
弐瓶勉や士郎正宗は早すぎた。早すぎてくれてありがとう。
γ. 豊田徹也 『アンダーカレント』 講談社
軽い線描にものすごい時間がかかっている感じ。と思ったら、めちゃくちゃ寡作なひとなんだな。巷ではいろんなものがこれから生き延びづらくなるだろうけど。とんでもなく巧いけれど量産不可能で万人受けも望めないこういうタイプの作品を描くひとが、いつまでも描き手としてきちんと生存できる漫画の国であってほしく。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日掲載&URL追記予定 ]
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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コメント
02月01日
23:41
1: zubi_gd
すごい読書量ですね。浩瀚な、深く素晴らしい読書。わたしは抗てんかん薬のせいか、完全に遅読になってしまいました。
02月04日
23:37
2: pherim㌠
遅読はぼくにとってもずっと悩みの種です。お薬の副作用となればきっとそんなものでは済まないのでしょうけれど。
漫画ならどうしてこの線をとか、小説であればなぜこの表現をという細部に思念が留まることが多く、また目は追いながら白昼夢に突入することも常で、仕方ないので「今は練習」と敢えて速度を意識しながら読むこともしばしばですが、これはこれで本末転倒感が拭えないんですよね。