・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。
1. カント 『道徳形而上学の基礎づけ』 中山元訳 光文社古典新訳文庫
君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない。 [c85] p.136
イマニュエル・カントはこのよく知られた定言命法により、「人格を、生涯にわたってどうにか耐えられるような状態を維持するためのたんなる一つの手段として使っている」
[c86]自殺や
自傷、他者を手段として利用するための
虚偽とともに、「自分にされたくないことを、他人にしてはならない……」
[c87n]といった陳腐な
日常規範を否定する。ここで肯定されるのは何かといえばそう、
理性となる。
理性は、義務の掟をきわめて尊敬すべきものとして人間に提示するのであるが、人間はみずからのうちに、こうした義務のすべての掟に強く逆らうものが存在するのを感じている。これはさまざまな欲望や心の傾きであって、人間は幸福の実現という名のもとで、このような欲望や心の傾きのすべてを満足させたがる。
しかし理性は、こうした欲望や心の傾きに、みずから定めた掟を実行することを命じるのであり、さまざまな心の傾きを満足させることを約束せずに、仮借なくふるまう。 [c35] p.64
カントのいわゆる三批判書を、訳書で良いから一度は通読せねばと思い立ってから幾星霜、いまだその端緒にも着かない時点での《予感》を述べておけば、理性へ至る道程は理性的でも、ここで言われる理性そのものは実はあまり理性的でない可能性を感じている。これは「映画の序盤で予感する終盤」のようなもので、8割はまあそうなるよねという感じで概ね当たるしだからダメというものではなく、2割はまったく外れるがだから傑作とか駄作というのでもないのと同じで、極めて核心的でありつつもポイントはそこにはない。
理性的ではない理性の本性、みたいなものをここで予感してしまうのは結局過去の読書体験によるのであり、それはたとえばキルケゴールよりもアンデルセンに軍配を上げた軌跡であり、現時点でカントはキルケゴールの側に立つけれど、実はそうではないかもしれないという期待が少しある。いやけっこう。
ともあれ、上記引用における「理性による掟の実行」とは何か。
だから尊敬に値するものは、わたしの意志の根拠となるものであり、わたしの意志の結果ではない。尊敬に値するのは、わたしの心の傾きに役立つものではなく、わたしの心の傾きを圧倒するもの、少なくともその選択にあたっては、わたしの心の傾きへの配慮をまったく排除するものである。すなわちたんなる法則だけが尊敬の対象となることができるのであり、命令となりうるのである。
そこで義務に基づいた行為は、心の傾きのあらゆる影響を排除すべきであり、それとともに意志のあらゆる対象を[その行為から]分離させるべきである。 [c29] p.51
したいことをするのではなく、すべきことをする。こうまとめれば話は単純で、四の五の言わない、言い訳しない、単にやれ、それがあなたの生きる道。というまとめへと方向づけるこの心の傾きこそが問題なのだろうけれど、さて心の傾き、いわゆる
傾向性(Neigung)を圧倒するもの。端的に言えばこれこそが自由の源泉となる。
ちなみによくある《自由意志はあるかないか論争》の不毛は、かなりの部分この「圧倒」性の履き違えまたは看過に由来する。主体を起点に主体性を議論する禿げ上がり感。
ところでカントは、冒頭引用の自殺と虚偽を否定した部分のあとに続けて、「自分自身への偶然的な義務」
[c88]と「他者への功績的な義務」
[c89]について述べている。
ところで人間性のうちには、現在の状態よりさらに大きな完全性を目指すという素質がある。この素質は、自然がわたしたち主体のうちの人間性について定めた目的の一つなのである。 [c88] p.140
というのもそれぞれの主体は、それ自体が目的であって、もしもこうした[目的としての人間性という]観念が、わたしにおいて十分な効果を発揮すべきだとすれば、こうした主体の目的は、できるかぎりわたしの目的でもなければならないからである。 [c89] p.141
自然が、ってそれ神じゃねっていう。
俺のなかのカントがんばれ。
2. 金子遊 『映像の境域』 森話社
映像作家で批評家の著者による映像論集。南米からグルジア、パレスチナ、沖縄など広範な地域の映画が扱われるが、映画論集ではなく徹頭徹尾、映“像”論集。なるほどこういう立ち位置で制作と向き合うなら、批評と制作は二足のわらじではなく同じ営みの両側面なのだなとわかる書き口で、極めて得るところの大きな読書体験となった。
私淑というのでもないが、今後長いスパンで追いかけたい作り手の一人に出会えた感。
あと名前を伏せた著者本人のツイッターアカウントと、実はかなり前から相互フォローしていたことに最近気づいた。
3. 近藤存志 『現代教会建築の魅力』 教文館
教会建築連載の執筆上、主要参考文献の一となる著書。学ぶところの多い良書で、殊にゴシック・リヴァイヴァルの主唱者オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンに関する記述には唸らされた。ぜんぜん知らなかったし、ゴシック・リヴァイヴァルというモード自体を上辺だけの虚飾に類するネガティヴ・イメージでしか捉えていなかった。ので、この文脈でマジでガチに崇高を追求した建築家が存在したことを知っただけでも、脳内地図が各所で塗り変わる音の聴こえる思いでござる合掌。
4. 佐藤優 『現代に生きる信仰告白』 キリスト新聞社
「改革派教会の伝統と神学」の副題をそのまま解説するような内容。講演が元で、聞き手の一人によく知る編集長がいるのが個人的には理解ブーストにもなり読みやすかった一冊。個別にどれだけ理解/定着したかは怪しいが、少なくとも日本プロテスタント文脈上の関連単語の整理になった。
シュライエルマッハーは、初期の「宗教論」においては宗教の本質は直感と感情であるといいましたが、後期の「信仰論」においては、宗教の本質は絶対依存の感情であるといいました。どうしてか。感情は人間の外部に在るからです。これはシュライエルマッハーのすごい発見です。(略)
ただ、早くから感情に飛躍しないということが、感情を大切にする意味ではいいのです。(略)どうしても解決できない「外側」の領域があるということを、われわれは認識しないといけません。 p.147-8
キリスト新聞社よりご提供の一冊。感謝。
5. 東浩紀 『クリュセの魚』 河出書房新社
外枠は手際良く構築されたウェルメイド宇宙SFで、根幹には《理想の女性》幻想(本書の場合は失くした女性)の反映を目前の女性(その娘)にみる男の欲動うごめく、表現としてはわりと直球な小説として読む。とはいえ「この現実」への執着のくだりはデリダ由来の“誤配”概念の小説展開そのもので、郵便的東浩紀のアウトリーチ感も楽しめる一粒で二度おいしい的なあれ。
「この世界の肯定」「やりなおさない力」などの“敢えてここに留まる”の“敢えて”はしかし、もし東浩紀を知らずこの小説のみを読んだらどの程度納得され、どう咀嚼されるのかすこし気になった。 《著者が思想家東浩紀であること》を前提しない読者をどれほど期待できるのか。すくなくとも著者はそうした読者を想定している、というか限定することにまるで意味を感じないだろうけれど。
そしてもちろん、それを前提しない読書体験を体験できない一回性を生きるこの自分だからこそ、本書とも出会え味わえたのだけれども。など、適度にのめり込める作品である一方、この“適度”がまた気になるんだよな。読むあいだ、無自覚に妙な期待値配分をしているのかも。
6. 古川日出男 『ゴッドスター』 新潮文庫
速度なんだな。読む文章に速度が欲しくなると、手にとる小説は古川日出男になるのだ今は。エッセイなら菊地成孔になるように。この快楽は知的ではなく詩的でもなく生理的で、だから理解はなんの意味も持たないし、といって文体ばかりが決め手なのではもちろんない。この点、町田康や川上未映子は昔早かっただけにちょっと近作は耐え難い。ああ、そういうことなのか。初めて気づいたわ。「文学」なんかじゃないんだな、どうも面白がっているのはそもそも。いやほんとにね。文体が売りです、とかいう書き手なり文学観の持ち手なり、一度死んだほうがいいゴミだよマジで単なるゲスいフリーライダーだろそれって要は。施された日本語への、馴致され内面化されきった安易な寄りかかり、への無自覚性から染み出る醜悪。ただの可燃回収物。それらで埋め立てた土地のうえを滑空する速度の快楽。これです。
あと巻末の「これは解説ではない」と題する管啓次郎の文章も良かった。こんなところで管啓次郎に出会うとはという驚きも、一瞬にして納得へと変わったけれど。というかこのおニ人、よく絡んでるよねそういえば。
7. 奥西峻介 『遠国の春』 岩波書店
正しいことを考え、正しいことを語り、正しいことを行う者はそのような美しい自我に迎えられる。しかしそうでない者の霊魂は、悪臭のなかで醜女が待ち受けるのである。自分の場合はどうだろうかと、岩山クーヘ・ホセインを下りながら、柄にもない思いにとらわれていた。これも聖なる山の影響だろうか。
ダレイオスの王墓の前に戻ってくると、巨体の運転手が待ちくたびれたように立っていた。 p.62
中東を中心にイベリア・東欧からメコン・日本まで、広域の文化文物を対象とした民族学的エッセイ。著者のことは全く知らず、博識だが学問的正確さを損なうことに躊躇のない自由すぎる書き口から、たぶん京都学派~《みんぱく》界隈の団塊よりも上世代のお爺さんだろうなと予感しつつ読み終えると、巻末プロフでやはり1946年生まれで京大博士出身の大阪大名誉教授とわかる。
この世代&地域の書き手だけに可能かつ許容される書き口ってあるよね。梅棹忠夫から中井久夫、桑原武夫や岡潔、梅原猛もみんなそう。こう書きだしてみると個別には互いに全然違うのに、関東ではないんだよな、たしかに。
8. 若松英輔 『イエス伝』 中央公論新社
本人の話を聞く機会があったので、数冊まとめて手にとったうちの一。このひとの本は、《だから何だ》を考えだすと何を言っているのかよくわからなくなる。思想宗教方面の博識を、惜しみなく自由に連結させる匠の技を楽しむとか、その手の心構えが大事。つまりまったく論理思考的ではない。あと読めばそれなりに面白いのだけれど、単調さがややつらい。化けてカトリック版中沢新一みたいな麻薬感ある書き手になるといい。いまのままだとカトリック版佐々木中、よりはいいかな。
そこでもリルケは「内部」を語った。もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません。あなたご自身をこそ非難なさい。あなたがまだ本当の詩人でないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言いきかせることです」(『若き詩人への手紙』高安国世訳) p.117
曼荼羅は、聖なる世界の視覚化というだけにとどまらない。その中に、鬼神や精霊をも含めた現実の俗なる世界が二重映しに投影されている。この意味で、それは聖俗一体の世界像の縮図ということができる。(松永有慶『密教』) p.163
神がみずからに等しくかたどり創造した人間の魂こそがこの神殿である。天国においても地上においても、神が驚くべきしかたで創造したみごとな被造物すべてのうちでも、人間の魂ほど神に等しきものは何ひとつとしてない。だからこそ神はこの神殿を、神のほか何ひとつないように空にしておきたいと思うのである。(「魂という神殿について」『エックハルト説教集』田島照久編訳) p.178
魂が棲み処にすぎず、それも人間のではなく、「人間に守ることを託された神の住処」
(p.179)とする確信がもたらすもの。その確信の代補物としての個の物語と、神の代補物としての自我、との相関を考える。神経症の時代を経てなお変遷する現代社会は目下《この自分》を重くしすぎる。
イエスは正反対の視座に立てという。自分の目的のために世界を用いる者ではなく、世界に用いられる者、人に仕える者こそがもっとも貴い者であることを示そうとする。
しかし、どう話してみてもイエスの意図は弟子たちには伝わらない。 p.161
しかしそこでは伝わらないことこそが決定的に重要で、伝わってしまってはお話にもならないという。
9. 小田尚稔 『凡人の言い訳』
プラトン『ソクラテスの弁明』を下敷きとした戯曲。小田尚稔の別作品鑑賞時に購入したもので、何気なく手にとったら一気に読んでしまった。読み終えた感想は「これなら観に行っても良かったな」であり、実は今年春に再演があり、興味はあったが気づいたら終わっていた。悔しい。
ちなみに3.11帰宅難民を描く『是でいいのだ』の舞台は逸品だった。とはいえ、こちらも戯曲を先に読んだら良い感想を抱くのかは正直謎。『是でいいのだ』は、
カント『道徳形而上学の基礎づけ』を下敷きとする。カント読めてない。やばい。
『是でいいのだ』感想tweet: https://twitter.com/pherim/status/802117522560430080
10. 『CROSSCUT ASIA #3 カラフル! インドネシア 2016』 国際交流基金アジアセンター
1号タイ、2号フィリピンに続く交流基金刊行の映画冊子クロスカット・アジア第3号。にしても空恐ろしいなと感じるのは、本号に登場する映画作家のほぼ全てがジャカルタ周辺で活動していることで、目下急速な経済発展下にあるこの人口2.5億の国の映画がこの状態を保つ時期はもう終わるだろうなということ。しかし中国やインド、アメリカがそうであるような文化の多極化が、映画の水準で為される時代というのも俄には想像しがたく、つまりはその不気味さ不穏さもあっての空恐ろしさか。バリやアチェが有力な極を占めるのは間違いないところだろうけど。
▽コミック・絵本
α. 森薫 『乙嫁語り』 6,7 KADOKAWA
6巻。中央アジア近世の、弓騎馬勢による丘陵地村落での攻防活写。大砲の導入により迫るロシアの足音を仄めかす点も素晴らしい。そも描く衣装の微細美麗だけでも価値ある作品だったが、ここに来てこうした拡充で魅せる作者の器に恐れ入る。今後もたぶん幾度となく読み返すだろう巻。
7巻。なんと描線が、絵のタッチが変わる。近世イスラム文化圏における浴場文化と「縁組姉妹」風習がテーマのため、従来の幾重にも重なる染織描写主体から裸体と薄衣メインの絵柄となって、表情を描く線まで柔らかくするあたりに森薫の力量幅を看取。あとがきによればこの巻だけ異なるペン種を試したらしい。
ムスリムの女の子には、少女マンガは超衝撃的:
https://twitter.com/pherim/status/891776885444591617
さいきんイスラム圏の女の子による日本マンガの受容に関する記事をtweetしたが(↑)、たとえば経産省クールジャパンとか利権誘導少し休んで、予算の100分の1でも『乙嫁語り』のイスラム圏への普及に回したほうが効能は確実に絶大なんだけど、絶対にそうはならないから作品が屹立するという面もあるのか。いやないだr
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日更新予定 ]
β. 『蟲師 外譚集』 講談社
芦奈野ひとし、今井哲也、熊倉隆敏、豊田徹也、吉田基已による
漆原友紀『蟲師』のオマージュ・アンソロジー。
スタンダードなオマージュ作が並ぶなか、『蟲師』オリジナルの世界観を現代に翻案するとSFになるのだなと思わせる今井哲也「組木の洞」は、かの横浜駅SFっぽくもあり特異。都市郊外の地霊と絡めた豊田徹也「影踏み」も良かった。あとこれを読んで豊田徹也の元々の作風が思い出せなくなり、本棚を漁ると主人公の探偵がまんま過去作からのスピンアウトとわかってふむりと。すっかり忘れているせつなみ。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日更新予定 ]
γ. 黒咲練導 『ユエラオ』 白泉社
緊縛SMの愉悦にからめとられる女子高生のお話。むだな巨乳にはじめ凡庸なエロマンガの予兆をみたけれど、一見雑にも見えるシャープな描線による表情の描き分けが、よくみればなかなかに繊細で、この描き手の核心に疼きとか自壊へと連なる種の鋭角的な痛みへの止むに止まれぬ志向を感じ、良い。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日更新予定 ]
ω. 山下和美 『数寄です!』 1 集英社
柳沢教授シリーズが好きすぎる山下和美の数寄屋建て譚。自宅を新築することになってからの顛末を仔細に。こういう余技的なルポ作品、いろんな漫画家に手がけてもらいたいなあと。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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