pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
08月12日
13:52

よみめも45 魂消る

 


 《神はアウシュヴィッツを赦しうるか》と題する小文の下ごしらえとして読む試み。このタイトルは実際の論争をめぐりアガンベン著作(↓)中に登場するフレーズだが、結局時間と精神力の制約から書き切るには至らなかった。代わりに以下の記事が生じた。としておく。

  試写メモ42 「ホロコーストの此岸」: http://tokinoma.pne.jp/diary/2964

 4,5年に1度ほど、アウシュヴィッツ関連の書籍をまとめ読む季節が来る。そのくせこの歳になるまで未訪というのも少し意外だ。20歳のぼくが知ったら、ちょっとがっかりするかもしれない、憤慨するかもしれない。まあでも、その後ダッハウの強制収容所にもベルリン・ユダヤ博物館にも行った。カンボジアのキリングフィールドにもNYのグラウンド・ゼロにも立った。なにも楽しくないのになぜかやる、という意味では、このまとめ読みも毎回同じだ。単に重たいし赦せオレ。いずれな。


 ・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。




1. カルロ・ギンズブルグ 『歴史・レトリック・立証』 上村忠男訳 みすず書房 [再読]

 わたしもまた、真理の探求こそは歴史家たちもふくめておよそ探求をおこなおうとするすべての者にとって依然としてもっとも基本的な任務であると考える。 71

 この正論。ここだけ抜き出せばいかにも単純凡庸なフレーズだが、これがポストモダン史観に基づく各種の史論・思潮に対する批判的言明のなかでくり出された言葉であることこそが、本書の肝へと通じている。

 資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者たちが主張するような視界をさまたげる壁でもない。いってみれば、それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ。ひとつひとつの個別的な資料の個別的なゆがみを分析することは、すでにそれ自体構築的な要素を含んでいる。しかし、構築とはいってもそれは立証と両立不可能なわけではない。また、欲望の投射なしには研究はありえないが、それは現実原則が課す拒絶と両立不可能であるわけでもないのである。知識は(歴史的知識もまた)可能なのだ。 48

 相対主義はアホらしい、というのはたやすい。個の制約を生きるのが人間であるかぎり、その制約ある思考による相対主義の貫徹が不可能な事態を現実とさえ定義し得る。しかし相対思考を理性的に乗り越えるのはとりあえず困難だ。まず体力がいる。いりますね。そこがどうにも自分には足りていない。すかさず気をとり直して続ければ、ゆえにレトリックと立証とが矛盾し対立するような道ではない仕方で新たな歴史を切り開け、というのが本書の指し示すところであり、次著『歴史を逆なでに読む』を読みたいところ。

 なお、主にフローベールを扱う第四章では、ベンヤミン『パサージュ論』の「パノラマ」からディオラマの登場による時間の加速経験への指摘を導く流れで、

 しかしながら、ディオラマの提供する新しい視像形態は、これまた近代テクノロジーの生みだしたいまひとつの工夫である汽車によってさらに強化された。汽車にも一篇の詩を捧げているデュ・カンによれば、汽車は感覚の働きを幾層倍にも高めあげ、わたしたち人間を神に変貌させるのであった。 143-4

 と述べられたあと、デュ・カンその他による汽車登場に伴う感覚更新の驚異が語られるのだけれど、この箇所を読んで若干不遜ながら拙文を想い起こした。

  「弧上にて I」(全4回):  http://tokinoma.pne.jp/diary/13

 奇怪な想起の連鎖というべきか、このとき飛行機が向かった先ドイツで、たしかぼくはダッハウの強制収容所へも向かったはずだ。少なくともそれは予定の行動ではなかったし、今回想起するまでその飛行機旅がフランクフルト着であることすら忘れていた。まあこれは、いずれ何かへ連なるかもしれないメモとして。
 ちなみにカルロ・ギンズブルグの両親、ことに母で小説家のナタリア・ギンズブルグは、次項以降扱うプリーモ・レーヴィ関連書籍にしばしば登場する。筋金入りのコミュニストで反ナチだったようで、この母にしてこの子あり感しかない。

 歴史的思考をめぐる極めてストイックな理論書という観。考えかたの基盤をつくるうえで良書。必携の書と言っても良いかもしれない。そしてアウシュヴィッツはさ、この「両立不可能なわけではない」構築と立証のあいだに横たわる、人類史の一方の極なんだよね。それはもう、どうしようもなく。




2. プリーモ・レーヴィ 『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』 竹山博英訳 朝日選書 [再読]

 さて私はこうして地獄の底にいる。もし必要なら人は、過去や未来をスポンジでぬぐい去る技術を、すぐにも学ぶものだ。 37

 ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生き延びることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら、最後のものだからだ。それは、同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわなければならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に表するのではなく、生き続けるため、死の意思に屈しないためだ。 42


 上記引用部は、収容所内でレーヴィが出会った印象的な人物のひとり「第一次大戦の鉄十字章受勲者でオーストリア・ハンガリー帝国軍の元軍曹シュタインラウフ」の語るところとして登場する。つまりレーヴィ自身の考えかたとして示されてはいないのだが、ここにおける一つだけ残った能力「最後のもの」は、アガンベンがレーヴィらの記述から見いだす「残りのもの」と対極を成す点である種の通奏低音を為すとも言えよう。
 なお「通過儀礼」と題された、シュタインラウフの描写をもって終わるこの章は、初版時には存在しなかったことを、竹山博英『プリーモ・レーヴィ アウシュヴィッツを考えぬいた作家』(次項↓)で知る。章の最後を、シュタインラウフの「賢さと徳性」に基づく主張を理解し受け入れる者は少数だったとしてレーヴィはこう閉じる。

 この錯綜した死者の世界を前にして、私の考えは混乱をきたしている。ある思想体系を練り上げ実行することが本当に必要なのだろうか? 思想体系を持たないという自覚を得ることのほうが、ずっと有益ではないだろうか? 43

 こうしたレーヴィによるある種諦念を伴った逡巡が、収容所内で目撃する他者をめぐる記述をかえって際立たせる。たとえば収容前は化学工場を経営していたアルフレッド・L技師を巡りこのような描写がある。
 
 Lは信じ難いほどの粘り強さで、こうした豊かさを誇示していた。自分の配給を割いてまで、物や賃仕事に支払いをし、自らを余分な窮乏体制に追いこんでいたのだ。
 彼の計画は息の長いもので、刹那的な考え方が支配する環境で練り上げられたものとしては、注目に値する。Lは精神に厳しい規律を科すことで、それを果たした。自分自身はもとより、もっともなことだが道をふさぐ仲間にも、一切あわれみを見せなかった。強者として尊敬されることと実際にそうなることとのあいだにはわずかの距離しかないこと、そして、どんなところでも、とりわけみなが同じ水準に落ちるラーゲルのようなところでは、尊敬に値する外貌が最もよく実際の尊敬を集めることを、彼は知っていた。
 ()
 彼がその後どうなったか、私は知らない。だが死を逃れて、何の喜びもない、意志堅固な支配者として、冷えきった生活をしている可能性は十分にあると思う。 111-2


 Lはこのような身振りにより、“ブナ・モノヴィッツ”(アウシュヴィッツ第三強制収容所の俗称)において「特殊技能者」に昇進し「化学コマンドー」の技術長へ任命される。レーヴィ自身もまた技術者認定を受けることで延命する。戦後の作家活動も軌道に乗り、幸福な出会いと結婚を経て40年ののち唐突に自殺したことを踏まえるとき、「冷えきった生活」の語が含みもつものを想わざるを得ない。もちろんそこに影響関係を読み込むのは、どの目にも読者の深読みに過ぎないとしても。




3. 竹山博英 『プリーモ・レーヴィ アウシュヴィッツを考えぬいた作家』 言叢社

 たとえば前項で引用した、「オーストリア・ハンガリー帝国軍の元軍曹シュタインラウフ」が登場する「通過儀礼」の章について、初版時には存在しなかったことを本書で知ったことはすでに述べた。加えて当該の章のみが疑問形で終わるという指摘もあり、そんなことはレーヴィ著を数度通読するだけではなかなか気づけないことゆえ意義深い。というような、レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』を補完する最善の書であるのに加え、レーヴィの代表作訳者が彼の死後トリノを訪れるエッセイは、ある意味著者の思考に誰よりも実直に寄り添った翻訳者ならではの感慨がまことに読ませる。竹山博英すなわちレーヴィを考えぬいた作家感。
 
 生前のレーヴィをよく知る人々、親友の妻やパルチザンの盟友、担当編集者や語学学校の同窓生まで10人へインタビューした証言集もとても良い。とりわけレーヴィの自死をめぐる多角度からの証言はなにかズシンとくるものがある。




4. ブルンヒルデ・ポムゼル トーレ・D. ハンゼン 『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』 石田勇治 森内薫 赤坂桃子訳 紀伊國屋書店

 2013-4年の取材時103歳だったゲッベルス元秘書ブルンヒルデ・ポムゼルの30時間に及ぶインタビュー映像と、往時映像素材とから編み上げられた映画『ゲッベルスと私』を元とする独白録。映画は彼女のいきた表情が何よりの見どころだが、113分の映画では切り落とされた彼女の語りが読める点で本書は映画と互いに理想の補完関係をもつ作品。

  試写メモ42 「ホロコーストの此岸」: http://tokinoma.pne.jp/diary/2964

 映画版にも共通することとして、ナチスの中核を生き抜いた見聞の希少性という点を脇に置いても、日本で言えば明治生まれのお婆さんによる200ページ超にわたる思い出話が面白くないわけがなく。かつゲッベルスの側近という、ナチス/アウシュヴィッツをめぐる問題系が孕む今日性に驚かされる。

 とはいえ「ゲッベルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」と題されたトーレ・D. ハンゼンの巻末論考は、現代EUの難民排斥やトランプ政策に対する批判への直結思考へあまりに終始しすぎていて、これはこれで過剰に四角四面だなと若干鼻白む。その短絡もわかったから、もっと豊穣な側面にも目を向けようぜ的な遠い目。

 


5. ジョルジョ・アガンベン 『アウシュヴィッツの残りもの ― アルシーヴと証人』 上村忠男 廣石正和訳 月曜社 [再読]

 本書をめぐっては、3年前の「よみめも23」でも一度扱った。

  「よみめも23 終末、雨、幽霊。」:  後日更新予定

 そちらでは一般の書評スタイルというか、書籍紹介のための概説のような内容になっているので、以下こちらでは現在の思考に沿う箇所のみ取り上げ、引用部も前回とは異なる箇所を選ぶ。俄然内容的に深くなるといいないな深くなるはずである。

 歴史家の観点からは、たとえば大量殺戮の最終局面がどのようであったのか、どのようにして収容者たちをほかでもないかれらの仲間からなる特別労働班(いわゆるゾンターコマンド)がガス室に連れていき、死体を外に引きずり出して洗い、死体から金歯と髪の毛を採取したのち、最後に死体を火葬場の炉のなかに投じたのかを、わたしたちは細部にいたるまで知っている。しかし、わたしたちは、これらのできごとについて記述し、時間軸にそって順に並べることはできても、できごと自体を本当に理解しようとすると、奇妙なことに、それらのできごとは不透明なままなのだ。()ここにあるのが、もっとも内密の体験を他人に伝えようとするときにわたしたちが通常感じる困難でないことは明らかである。ギャップは、証言の構造そのものにある。 8

 「これ以上に真実なものはないというくらいにリアルな真実。事実的諸要素を必然的に逸脱してしまっているほどのリアルさ。」(p.9) 現実的諸要素には還元できないその真実を、「回教徒(muselmann)」が証言となる(「証言する」ではなく)。
 
 責任の概念も、手のほどこしようがないくらい法律に汚染されている。法律の領域の外でその概念を用いようとしたことがある者は、だれでもそのことを知っている。それでもなお、倫理、政治、宗教は、法的責任から領土を引き離すことによってようやく、みずからの境界を画定することができたのであった。しかしまた、それは別の種類の責任を負うことによってではなく、無-責任(non-responsabilita)の地帯を明らかにすることによってであったのだ。()レーヴィがアウシュヴィッツでおこなった前代未聞の発見は、いかなる責任の確証をも受けつけない素材にかかわっている。かれは新しい倫理圏のようなものを取り出すことに成功したのであった。レーヴィはそれを「グレイ・ゾーン(灰色地帯)」と呼ぶ。それは「犠牲者と処刑者を結びつけている長い鎖」がほどける地帯であり、そこでは、被抑圧者が被抑圧者となり、つぎには処刑者が犠牲者となる。 21-2

 ところで3年前の「よみめも23」においてpherimは、「アウシュヴィッツが人類史上の特異点たらざるを得ないのは、その蛮行の規模や熾烈さゆえではなく、現代文明を構成する諸システムが経路依存により生み出した、ひとつの補完装置として機能してしまったからだ」として、「フーコーの指摘した生政治の権力構造は、情報技術の革新によりさらに全面化し完成へと日々近づいている」のであり、「現代資本主義社会の夢みるユートピア都市とアウシュヴィッツは、同じ出来事の両面であり同じ母胎より産み落とされた双子と言える」と述べている。ちょっとあなた今より賢かったのでないか。
 というわけで拙稿「ホロコーストの此岸」にほぼ一段落丸々コピペにて採用した。この盗用は怒るひとがいないはずだし、時間の節約にもなりまことに便利だ。ありがとう過去のおれ、もっとしてくれ過去のおれ。

 現代における死の零落について、ミシェル・フーコーは、政治用語を使ってひとつの説明を提示している。それは死の零落を近代における権力の変容に結びつけるものである。領土の主権という伝統的な姿のもとでは、権力は、その本質において生殺与奪の権利として定義される。しかし、こうした権利は、なによりも死の側で行使され、生には、殺す権利を差し控えることとして、間接的にかかわらないという意味では、本質的に非対称的である。このため、フーコーは、死なせながら生きるがままにしておくという定式によって主権を特徴づける。十七世紀以降、ポリツァイ〔治安統治〕の学の誕生とともに、臣民の生命と健康への配慮が国家のメカニズムと計算においてしだいに重要な位置を占めるようになると、主権的権力は、フーコーが「生権力(bio-pouvoir)」と呼ぶものに変容していく。死なせながらいきたままにしておく古い権利は、それとは逆の姿に席をゆずる。その逆の姿が生政治(biopolitique)を定義するのであって、それは生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる。 109

 アウシュヴィッツにより転倒したフーコー「生政治」の例外状態における今日態をめぐる、このうえなくアガンベンらしい端的な説明、としておく。

 人間が生起する(ha lougo〔場所をもつ〕)のは、生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非-人間と人間とのあいだの断絶においてからである。すなわち、人間は人間の非-場所において、生物学的な生を生きている存在と言葉(ロゴス)のあいだの不在の結合において生起する(ha luogo〔場所をもつ〕)のである。人間とは自己自身に居合わせない存在のことであって、この自己喪失と、それが端緒を開くさまよいのうちに存在している。グレーテ・ザールスが「人間は、耐えられることはすべて耐えなければならないなどということはけっしてないだろうし、このように力のかぎり耐え抜いて人間的なものをすっかり失ってしまうのを見るなどという必要もけっしてないだろうに」と書いたとき、彼女はつぎのことも言いたかったのである。すなわち、人間の本質なるものは存在しないということ、人間とは潜勢力の存在(un essere di potenza)であるということ、人間の無限の破壊可能性をつかみ取って、人間の本質をとらえたとおもうやいなや、そこで目にするものはといえば「人間的なものをすっかり」失ってしまっているということである。 183-4

 さて「よみめも23」における本書の項を3年前の拙者は、「祭りを望むな。黙して暮らせ。」の一文で閉じている。厨二だろうか。とすれば今は香煮、未来からみればやはり香ばしいのだろうというそれ自体が黒歴史的に煮詰まった茶々はさておいてもちょっと意味がよくわからない。
  本筋に比して鳥肌がたつほど下らないこうした茶々で自分を堕とすということを、ぼくはしばしばやっている。あとから気づく。気づくのは大概この「堕とし」をガチに受けとって、蔑みや憐れみの視線を傾けてくる他者のえも言われぬ表情を通してである。俄然「見損なわれる」わけだが、そのような自傷型コミュニケーションにより個の現実への着地を欲する性向は、しかしどうみても筋悪でやめたほうが良い。できるかぎりは。

 人間とは中心にある閾であり、その閾を人間的なものの流れと非人間的なものの流れ、主体化の流れと脱主体化の流れ、生物学的な生を生きている存在が言葉を話す存在になる流れと言葉(ロゴス)が生物学的な生を生きている存在になる流れがたえず通過する。これらの流れは、外延を同じくするが、一致することはない。そして、両者の不一致、両者を分割するこのうえなく細い分水嶺こそが、証言の場所にほかならない。 184
 
 要するに3次元の公転宇宙における存在の渦構造をdictateしているわけで、生をめぐるこのメタファーはあまりに正しい。ひょっとしてある種凡庸な水準においてすら。




6. ジョルジョ・アガンベン 『実在とは何か マヨラナの失踪』 上村忠男訳 講談社選書メチエ

 本書について書き出したら、映画『カメラを止めるな!』も絡まり長くなったので別立てとした。↓

  過去日記「ゾンビを止めるな!」: http://tokinoma.pne.jp/diary/2967

 アガンベンは再読も含め、今後しばらく継続的に読んでいく予感。




7. 内田樹 『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』 文春文庫

 軽い気持ちでラカンやレヴィナスの邦訳版を開いたことがある人なら共感いただけると思うけれど、ラカンは何を言っているのか「まったくわからない」し、レヴィナスは「ほとんどわからない」。だから解説本を手にして一応の通過ということにするのが大概だと思うのだけれど、本書ははじめにこの「わからなさ」の意味について解説していて、なるほどと納得が半分いった。半分しか納得いかないのは、とはいえラカンのその「わからなさ」の意味は果たしてどれほど有効だったのかという点でやはりもにょるからだ。もにょもにょする。

 交易を動機づけるのは、交換されたものの等価性でもないし、不等価性でもない。そうではなくて、おそらくは交換されたものの計量不可能性なのだ。人々は交換されたものの「価値が分からない」がゆえに、さらに交易を継続しなければならないという心理的圧力を感じるのであって、「価値が分かった」からそうするのではない。 115

 「魅惑する者」とは「教える者」のことであり、「魅惑されるもの」とは「教えられる者」のことである。師弟関係が欲望の関係として適切に機能するためには、つまり弟子が師に対して決して満たされることのない法外な欲望を抱き続けるためには、必要なことは一つしかない。それは師がその師に対して「決して満たされることのない法外な欲望を抱き続けること」である。 138


 「レトリックに走るな」は、レトリックに走りたくなる欲望の存在を前提とするけれど、そうすることで初めて伝達し得る総体、のようなものもやはりある。この点、冒頭のカルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』にも個人的関心の点で重なるところがあり、要は《理論の文学性》、論理からこぼれ落ちるものの論理、微細な差異、連ねれば連ねるほどおのれ不思議ちゃん感が増すだけだな。

 私たちは「美味しいスープ」や空気や光や風景や労働や理念や眠りで生きている。それらは表象の対象であるのではない。私たちは現にそれで生きているのである。私たちがそれによって生きているものは「生きる手段」ではない。(TI, p.82) 196 pherimメモ→TI: Levinas, Emmanuel, Totalité et infini - Essai sur l'exteriorite, Martinus Nijhoff, 1961/1971

 ナチスのパリ占領期、ラカンがナチス高官の常宿としていた高級ホテルに押し入って、妻がユダヤ人であることを証明する文書を係官にパワハラして奪い返し、表で破り捨てた逸話すこ。

 「絵は見かけであり、この見かけこそが見かけを見かけたらしめている当のものである」とラカンは言う。このことばを私たちはレヴィナスの「主体」の定義にそのままあてはめることができる。主体は身代わりであり、身代わりであることが、身代わりを身代わりたらしめている当の根拠なのである。
 ()
 「私」は「覆い」であって「絵」ではない。だから、私は「この布がどのような絵を覆っているのか」を実定的に伝えることができない。()
 「身代わり」とは「それが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」を顕現させる装置である。「顕現しない」という様態においてしかこの世界に顕現することがないものを欲望させる機制のことである。 239-240


 で、この引用部、これそのままアガンベンに通じるよね。つまりさ、ナチス=悪で思考停止してたらわかるものもわからない、ということがわからない風潮が最もヤバい。今でしょ!みたいな。

 私が隣人を名指すに先んじて、隣人は私を召喚している。それは認識ではなく、切迫(obsession)の形態である。(…)隣人に近づきつつあるとき、私はすでにして隣人に遅れており、その遅れの咎によって、隣人に従属しているのである。私はいわば外部から命令されている(外傷的な仕方で命令されている)のであるが、私に命令を下す権威を表象や概念によって内在化することがないのである。(AQE, p.110) 268 pherimメモ→AQE: Autrement qu'être ou Au-delà de l'essence, 1974

 驚くべきことに、『STEINS;GATE』の極みはレヴィナスだったという。

 驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。
 私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならない。神への恐れが、神の公正な裁きの予感が私を善へと誘うのではなく、善への志向は私の内部から発露するものでなくてはならない。 270


 そして、衝撃のラストへ。

 無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。(DL, p.203) 273  pherimメモ→DL: Difficile liberté, 1984

 そのためには、私の暴力の犠牲者でもなく、私を天上から断罪する神でもなく、「罪を犯した」ことを自白する「<私>と名乗る他者」が、今ここにいる私に向かって有責的であることを求めるという非論理的な事況はこうして論理的に要請されるのである。 274

 「過失を犯していないにもかかわらず、罪の意識を抱き、他者を知るよりも先に、他者にかかわりを持ってしまっていた」とレヴィナスが書く時、そこにアウシュヴィッツで死んでいった「寡婦、孤児、異邦人」たちに対する、同じ被害者であるはずのユダヤ人レヴィナスの考える有責性が前提される。やむにやまれず。
 



8. 熊野純彦 『レヴィナス入門』 ちくま新書  

 私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている、存在することに耐えがたく疲れてしまう。ひとは苦痛において存在へと追い詰められる、他者は私にとって<無限>である、他者との関係それ自身が<倫理>である。自己とは<私>の同一性の破損である、顔はいつでも皮膚の重みを課せられている、気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている。

 以上、第2章以降の各見出しに付された副題を並べてみた。句点は第I部~3部の区切り。良い要約になっていると思ったので。熊野純彦はあとがき冒頭で、「本書で私は、ときに道徳的な説教として、根拠なき断言の羅列としても「紹介」されてきたレヴィナス像に、一定の変更をくわえることをも意図していた」とするが、前記内田樹本などと比較しても、熊野のレヴィナス引用は「断言の羅列」がもつ感興の良さに秀でている。禁制の対象こそが待たれている、レヴィナス的。

 ランボーがうたうように、世界には「真の生がかけている」。だが、その詩句を引きながらレヴィナスがいうとおり、「にもかかわらず、われわれ世界内に存在している」(『全体性と無限』) 14

 ユダヤ人ベルクソンは一九四一年、失意のなか世を去った。ベルクソンの思考はしかし、決定的な意味で<絶滅収容所以前>のものではないだろうか。「空虚そのもの、いっさいの存在の空虚、あるいは空虚の空虚」が「存在する密度」が、なおある(『存在することから存在するものへ』)。 57

 「存在することに疲れてしまう」とき、私は私の存在に遅れている。この遅れ、「遅延」がしかし本質的なのである。ただ「それがそこでもつ(イル・イ・ア)」、たんにある(イリア)、のではなく、私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。 68

 <もの>たちは「光に照らされて意味をもち、その結果、あたかも私に由来するものであるかのように存在する」(『存在することから存在するものへ』)
 意識はここで世界を集約している。あるいは<ここ>で世界を表象している、といってもよい、世界はたしかに私の外部に、私とは独立に存在している。とはいえ、意識によって集約された世界は、なにほどかは<私>のうちに取り込まれている。私が<私>であるという同一性、この<同(ル・メーム)>の内部に回収されているのである。 101




The Dø (Olivia Merilahti & Dan Levy) "Despair, Hangover & Ecstasy"


 享受の歓びは「渇きをおぼえていることに由来する。享受とは癒しなのである」(『全体性と無限』)。身体こそが欠如をかかえ、身体こそが欠如の充足を、つまり欲求の満足を享受する。われをわすれて清流を掬びとり、果実にむしゃぶりつくとき、ひとは水の冷たさ、果肉の柔らかさそのものとなっていよう。世界のうちに存在するとは、欲求への「真摯さ」である。水を飲み干すときにこそ、ひとは「世界を真摯に受けとめる」(『存在することから存在するものへ』)。それはひとときの「自己の忘却」(『時間と他者』)である。 114

 性愛的な行為は、投資と回収ではなく「時間の蕩尽」であり、それはふつう世界(世間)の目からは隠されているからだ、というとりあえずは単純なこたえがありうる。では、なぜ「隠されている」のか。
 解答はふたたび単純なものでありうる。そこでひとは裸形をさらすからである、という回答がそれである。裸形とは、だがなにか。たんに裸体であることか。 127-8

 他者は構成されない。他者をその他性において構成することはできない。とすれば、他者は到来する、と表現するほかはないのではないか。しかも超越論的領野の外部から、つまり世界の外部から到来する、と語る以外にないのではないだろうか。
 ()他者との関係が<倫理>的な関係であるかぎり、他者としての他者は世界の内部に位置をもたない。他者の他性は、世界の外部を支持しつづける。 143

 殺人が可能であって、そればかりでなく現実的でありつづけ、陳腐な現実でもあるかぎり、この世界の組成(エコノミー)のうちに<他者>はない。この世界が同時に「経済」の世界でもあるかぎり、殺人はつねにおこりうる。利潤をもとめる投資、<他>を解消しつづける<同>の論理、エコノミーのなりたちのうちには、殺人を禁止するものはない。ひともまた資材であり、資材である以上は消費し抹消することが可能であるからだ。()他者もまた、世界内に立ちあらわれるかぎりでは、そのような対象のひとつである。つまり「価値を付与され、志向にさしだされる存在」である。(『存在することから存在するものへ』) 144

 <私>は「自己のうちに休息すること」でも「自己の一致」でもなく、むしろ「自己との関係における差異」である、とも述べている。第二の主著にあっては、「自己」の同一性は「自己の外部」から到来する、とされるのだ(同)。
 「主体の主体性」とは「同一性のこうした破産」である。自己はたえず自己からずれてゆく主体性はあらかじめ破綻しており、傷ついている。「自己とは、<私>の同一性のこのような破損あるいは敗北なのである」(同)。 163-4

 それにしても、なぜ他者は「寡婦」であり「孤児」であり、「異邦人」であるのだろう。()
 ユダヤ教の伝統のなかでは、ことがらのつながりは、おそらくはっきりしている。旧約聖書の預言者は「汝ら、正義をおこない、物を奪われるひとを暴虐者の手より救い、異邦人と孤児と寡婦を悩まし虐ぐることなかれ」と謳い(エレミア書 二二-3)、律法もまた「異邦人、孤児、寡婦の審きを異邦人、孤児、寡婦の審きを枉ぐる者は詛わるべし」(申命記 二七-19)と命じているからだ。 196





9. 徐京植 『プリーモ・レーヴィへの旅』 朝日新聞社

 地元図書館の哲学棚で「プリーモ・レーヴィ」の語を含む背表紙を見かけたゆえというだけの機縁ながら、とても興味深い読書経験だった。なによりも著者が日本語を母語として育った在日朝鮮人であり、80年代には韓国の軍事政権に上の兄弟2人を収監され拷問にも遭った経験から、被抑圧者の視点で書かれた点が大きい。とりわけそこで表象される抑圧者が、ナチスの過去を引きずるドイツ人のみでなく、大日本帝国を引きずる日本人を含む点が、日本人である読み手の体験を他のレーヴィ関連本とはまるで異なるものとする。

 また今年観た二本の韓国傑作映画が、1979年光州事件が舞台となるソン・ガンホ主演の『タクシー運転手 約束は海を越えて』(ふぃるめも87)、全斗煥の軍事独裁崩壊を導いた警察による学生の拷問死を主題とする『1987年、ある闘いの真実』(ふぃるめも94予定)と、ともに本書がたびたび言及する時代の韓国を描くため、韓国現代史のイメージをふくらませる予想外の好機ともなった。

 私は決してドイツ人への憎しみを抱いてはいません。人が、彼がどういう人であるかによってではなく、たまたま属しているグループによって判断されねばならないという事実は私には受け入れられないし、理解できません。
 しかし、私は、自分がドイツ人を理解しているとはいえないのです。 175


 と序言を付したレーヴィの著書に対する、ドイツ人からの一見思慮深いようで自己正当化の欲望が透ける反応に連ね、徐京植は「私自身にも耳慣れたもの」として日本人のある種の典型的反応を語る。

 「日本人」の罪というのがあるのでしょうか? かつて中国人や朝鮮人を虐待した人たちと自分とは同じ「日本人」なのでしょうか? 「日本人」の中にも「いい人」がいたことを無視しないで下さい。()……「なに人」などという区別にこだわらず、同じ人間として考えればいいじゃありませんか? あなたが「日本人」という言葉を使うのは、むしろ、あなた自身が過剰な民族意識にとらわれているからではありませんか? 176-7

 本著者もまた、前掲著者・竹山博英と同様、レーヴィがアウシュヴィッツ以外のほぼ全人生を過ごしたトリノのユダヤ人街を訪れており、レーヴィの住居を訪れて彼の自死をめぐり思索と想像を巡らせる終盤の描写は重たく迫真的だ。エリ・ヴィーゼルからの引用句が印象的だったので、最後に留めおく。

 あなたがたが知りたいのは、理解したいのは、きりがついたとしてページを繰るためではないのか。(中略)死者たちがあなたがたを救援しに来るなどとは、期待しないでいただきたい。彼らの沈黙は彼らのあとまで生きのびるであろう。(エリ・ヴィーゼル「死者のための弁護」『死者の歌』) 222




10. V・E・フランクル 『夜と霧』 池田香代子訳 みすず書房 [再読]

 わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。 145

 なるほど「役に立つ」本だなとあらためて。よく言えば、心理学者の手管によりその目的へ向けて練り込まれたゆえだが、悪く言えばそのゆえに浅い。浅くなければ広範の理解に堪えないのだからそれは成果であるにしても、要は根幹がマッチョだよね、という印象を今回初めてもったのは新鮮だった。個の輪郭がまず先にある。

 この印象についてもう少し腑分けしておけば、やはりレーヴィとの比較が大きい。これは自覚的という以前にフランクルの職業意識に基づく面が大きいのだろうが、『夜と霧』はアウシュヴィッツの体験をダシにとった自己啓発書が企図されている分、相対的にはやはり収容所体験をめぐる叙述が薄くなる。くり返すがそうでなければ本書が今日のような知名度を得ることはなかったし、子ども向けの推薦図書に指定されることもなかったろう。(レーヴィはいかにも指定されていなさそう、とりわけこの日本では。という憶測に基づく)

 この意味では、収容所で生き別れになった妻をめぐるフランクルの思考展開が、本書の性格を際立たせている。

 雪に足を取られ、氷に滑り、しよつちゅう支え支えられながら、何キロもの道のりをこけつまろびつ、やっとの思いで進んでいくあいだ、もはや言葉はひとことも交わされなかった。だがこのとき、わたしたちにはわかっていた。ひとりひとりが伴侶に思いを馳せているのだということが。
 わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、
心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。()天使は永久の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の意味を。
 ()
 そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。()愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知ったとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。
 「われを汝の心におきて印(おしで)のごとくせよ……其は愛は強くして死のごとくなればなり」(「雅歌」第八章第六節) 60-3

 



▽コミック・絵本

α. 五十嵐大介 『そらトびタマシイ』 講談社

 短編6作収録。タイトルの軽い印象から、五十嵐作品のなかでも『カボチャの冒険』(よみめも30)や『リトル・フォレスト』の、日常生活の描写が密なライトタッチを予想しつつ読み出したけれど、けっこう真逆。痛み(欠落)→犠牲→覚醒(旅立ち)のモチーフが怪異を伴いくり返される。怪異、がしかしこの作品世界における平常であり自然である点はいつもの通り。

 一見最も浅い短編「すなかけ」の読後感が意外に良い。「le pain et le chat」は、不良少女の内面にパン屋がダイブし時計じかけの蟹と遭遇するシーンが、次々項『蟹に誘われて』に重なる機縁。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日更新予定 ]




β. 水木しげる 『のんのんばあとオレ』 1 講談社

 バンコク会社在庫物の一。幼いころ家に居候していた、怪談がうまい婆さんとオレ(茂)の物語。水木しげるは子供のころにもよく読んだが、初めて絵の巧さに感心した。絵の下手さを理由に読むのやめる漫画は幼少時にもよくあったから、水木作品に関してはそういう見方をしていなかったんだな。たぶん恐さに期待しすぎて。




γ. panpanya 『蟹に誘われて』 白泉社

 夢うつつの現しみ世界。描かれる町並みはつねに歪み、霧がかって遠くは滅多に見通せず、いつのまにか異境へ入り込んでいる。ばくぜんとした不安とつきまとうかすかな恐れ、でもまあそんなものかという肯定感のとりあわせが妙になごめる。エピソード間に挿入される文章がまた徒然的でふしぎに良い。
 
 あと、カバーを外したあとの装丁が極めて良い。肌触りとモチーフと洋書風キャプションのすべてが秀逸で、この漫画家の才能と方向性の一端がここに露出しているなと。(冒頭画像2枚目)

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日更新予定 ]




δ. 斎藤隆介 作 滝平二郎 画 『八郎』 福音館書店

 バンコク会社在庫物の二。八郎潟の由来をめぐるおとぎ話。八郎という巨人が潮害に悩む村を救う話なのだけれど、土着の伝説がベースにあるのかと思いきや、wikipediaによればもっぱら斎藤隆介の創作によるらしい。それが教科書にも採用されたというのはややもにょるものも。秋田弁をとり込んだ描写に迫力のある点がきっと評価されたんだなと。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2018年
08月12日
15:30

ちょっとうまく伝わるか不安なのですが、そしてレヴィナスの文脈はよく分からないのですが、ヘブライ語聖書における「異邦人」という概念は、私のテーマの一つでもありました。
申命記等で用いられているこの語「ゲール」は、ヘブライ人の共同体内に寄留する他国民を限定的に意味しています。他民族を表すヘブライ語には他に「ザル(stranger)」や「ゴイ(否定的な意味での非ユダヤ人」などがあります。
古代ユダヤ教のキモは、このあなたがたの間にある寄留の他国民は、かつて土地を持たず荒野を放浪していたヘブライ民族、すなわちあなたがた自身の姿であると規定していることにあり、当初から現在の寄留の他国民=過去の自分、というところから出発したのです。そして現在寄留の他国民を迫害しているのは現在の自分。そして歴史が進むと、離散ユダヤ人というかたちで、自分たちが再び寄留の他国民になっていく、という入れ子構造になっています。

2018年
08月12日
19:02

おおお、ありがとうございます!\(^o^)/ なるほど異質性が前面に出るstrangerよりも、その限定性が時間軸を伴うなら、「寡婦」「孤児」との並置がより明瞭な輪郭を帯びてきますね。

自己言及をめぐる「寄る辺なき」の宿命性が未来や他集団を巻き込むとすれば、そこにおける他集団は本来的な意味における他性を失うので、倫理的態度としても筋が通る。

とはいえ「現在寄留の他国民を迫害しているのは現在の自分」という一文からは、安直にパレスチナの現状がイメージされてしまい、この自己認識の論理は当のパレスチナ人集団に対して是にも非にも働かせられるなと思いました。真性の原理とはそういうもの(政治的現実的両義性を導き得るもの)であることは言うまでもないとして。

2018年
08月12日
19:38

はい、パレスチナ地区に住んでいるパレスチナ人、とりわけ武力闘争を行っている人を、自国に寄留する他国民と考えるか否かについては、恐らく双方から異論が出るところかと思いますし、現実の政治に直接正典のテキストを当てはめるのは危険であることは言うまでもありません。
それでも敢えて現在の政治状況に当てはめるなら、イスラエル国籍をもったドゥルーズ教徒、アラブ人、うちの息子のような非ユダヤのイスラエル人、および私のような非ユダヤの永住権保持者、そしてイスラエル国籍をもたないエリトリアなどからの難民などがそれ(寄留の他国民)のカテゴリーに当たるのかと。そして昨今のイスラエル国民法、すなわちイスラエル国におけるユダヤ人の優位性を明記した、イスラエルはユダヤ国家であるという立法に、マイノリティの当事者のみならず多くのユダヤ人国民が大抗議し、法の下での平等を求めて連日連帯デモを繰り広げているのは、ユダヤ教に古代から通奏する、この感覚に拠っているのだと思います。

2018年
08月13日
18:02

含蓄あるコメント感謝です。きのうは思考の内でもうまく言語化されず軽い衝撃感のみ受けていたのですが、過去の歴史=集団記憶を個別に内面化することで、「自分たちが再び寄留の他国民になっていく」という未来の自己像を前提に現在をみる姿勢が共有されるとすれば、それはきっと物凄く強固な民族アイデンティティだよなと感じました。肌の色とか地縁血縁にも十分匹敵するような。すくなくとも来世とか死後のぼんやりした極楽イメージとはリアリティの質がまるで異なってきそう。

というあたりから、「マイノリティの当事者のみならず多くのユダヤ人国民が大抗議し、法の下での平等を求めて連日連帯デモを繰り広げている」という時に働くメンタリティが、日本のたとえば入国管理局の難民虐待への反対デモとか反ヘイトデモとは「連帯」の構成要素が全く違うのだろうなとも。そこは自分には予感できても実感へ至る素材に欠けていますし、とても興味を覚えるところですね。

2018年
08月13日
18:58

はい、ユダヤ人はなかなか侮れない人たちなのです。過去、現在、未来と、「我ら」と「彼ら」の概念がダイナミックに錯綜する。
「あなたたちの神、主は<中略>孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:17-19)。
聖書を小学校2年生から読ませる民に、日本の道徳の教科書で対抗するのはちょっと難しいかも。

そしてこの自分たちが寄留者であったことを毎年想起する過越の祭の夜においては、ぜったいに寄留者、寡婦、孤児にひとりでご飯を食べさせてはいけないという使命感が民族を挙げて発動され、私としてはありがた迷惑に感じるのでした。

2018年
08月14日
19:58

東京以上に純経済論理に基づいた変貌を遂げるバンコクにいても、人々に通底するモラル感覚の基盤にはタイ仏教の確たる存在を感じます。

「日本の道徳の教科書」は、明治~敗戦の天皇一神教が禁教化されたあとのとってつけた観がやはり強く、例えば日本スゴイ系の国内思潮とは裏腹な相互扶助意識の欠如などが社会調査で顕著に出るように、倫理面の個別対応を迫られた結果腰砕けのエゴイズムが層として全面化する事態が今後益々深刻化するようにも思われます。そのとき内面規律の何が残り何が集団的に機能するのか、あるいは単に「中国化」するのか。かなり端折った言い方になるけれど個人的には実を言うと、中国化すると思っています。

何はともあれ、ヒトリデゴハンヲタベタイ族の生存権だけは命を賭け保守したき所存です。

2020年
02月14日
07:55

> 聖書を小学校2年生から読ませる民に、日本の道徳の教科書で対抗するのはちょっと難しいかも。

は、いまさらながら言い得て妙なる一文と。

それに比してわが「中国化すると思ってます」は、中国そのものの変化をより読み込むようになった今やや的外れ感を覚えたり。など1年半の時空を超え雑感メモ。

2020年
02月16日
11:07

biniyaminitさんに快諾いただき、本稿web全体公開としました。

記事冒頭リンクの《試写メモ42 「ホロコーストの此岸」》は、キリスト新聞掲載記事「アウシュヴィッツの此岸」↓の源原稿です。
http://www.kirishin.com/2018/09/06/16812/

『ヒトラーを欺いた黄色い星』『ヒトラーと戦った22 日間』『ゲッベルスと私』の映画3作紹介主体の↑キリスト新聞季刊誌掲載にあたり、おもに以下の文章を削除しています。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


◇ホロコーストの此岸

 さて「ホロコースト」の語は、ラテン語の“holocaustum”に由来する。直截には丸焼きの供物つまり燔祭を意味したことから殉教の犠牲というニュアンスが付加され、ナチスによるユダヤ人大虐殺を指す語として定着した。この言葉の一般への普及は比較的新しく、アウシュヴィッツ生還者である作家エリ・ヴィーゼルによる提唱を経たのちの、1970年代末のアメリカ製テレビドラマ"Holocaust"が契機とされる。ちなみに、アウシュヴィッツ生還者の手記として日本では恐らく最も著名なV・E・フランクル『夜と霧』に「ホロコースト」の語が登場しないのは、原書の出版が1946年に出版であるからだ。
 ナチスによる大虐殺に宗教性を色濃く伴う「ホロコースト」の語をあてることについては、元来強い批判も存在する。イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、甘美な犠牲に結びつくこの語の使用はむしろ本質的にキリスト教的であり、

 “理由のない(sine causa)死を正当化しようとし、意味をもちえないように見えるものに意味をほどこそうとする、この無意識の欲求から生まれている”(※2)

としている。 

 にもかかわらず、筆者が「ホロコースト」の語を本稿のタイトルにまで採用したのは、この「無意識の欲求」という指摘ゆえである。学生時、自身が企画した美術展示の関連で渡独した際、ユダヤ人虐殺のためのガス室と焼却施設をもつダッハウ強制収容所を訪れた。当初の予定にはなかったそれはまさに言絶の体験であり、平常心を保ったままそのものを引き受け、たやすく発語に乗せられるような経験とは対極にあるものだった。強制収容所を生き抜いたユダヤ人作家プリーモ・レーヴィは、

 “その言葉が生まれたとき、わたしはとても不快だった。のちにそれを造り出したのがほかでもないエリ・ヴィーゼルだということを知った”“わたしはホロコーストという言葉が好きではないので、できれば使いたくないのである。しかし、そのほうが通じやすいので、使うことにする”(※3)

と語る。一方、アガンベンは

 “アウシュヴィッツと聖書のolah、ガス室での死と「神聖で至高の動機にたいする全面的な献身」を結びつけることは、愚弄としか思えない” “この語をあいかわらず使う者は無知か無神経さ(あるいはその両方)を露呈しているのである”(※4)

と痛烈に批判する。日本語文脈か否かを問わない視座からはとりわけ転倒して映るだろうが、この間隙に自覚的であることは、単に己個人が語の使用を控えるということを意味してはならない、と筆者は考える。語に宿る宗教性にすがることなくして、アウシュヴィッツという地名以上の意味性を伴う語が浸透し得たともまた思えないからだ。そしてこの場における筆者個人の文脈から言えば、無前提に使うことは恐らくもうない。振る舞いとして筋が悪いためである。



◇アウシュヴィッツの今日性

 出身地リトアニアに残した親族をほぼ全てアウシュヴィッツで失ったフランスの思想家エマニュエル・レヴィナスは、この惨劇により戦後ヨーロッパ人の陥った絶望をめぐりこう記す。

 あれほど重要な文化を持つドイツから、ライプニッツとカントとゲーテとヘーゲルのドイツの深層から出現してきたヨーロッパのヒトラー時代というあの救いのない絶望を言葉にするのは非常に難しいことです。(…) 私は今日でもなおアウシュヴィッツは超越論的観念論の文明によって犯されたのだと思ってます。 (※5)

 『ゲッベルスと私』で語られるナチス中枢部から観察されたベルリンと、『ヒトラーを欺いた黄色い星』における苛酷な生存の舞台としてのベルリンとの断絶はあまりにも深淵だ。その深淵に覗く暗闇に、アウシュヴィッツはなおも息を潜め横たわっている。それはレーヴィが言い表したごとく、この世へと顕現した“地獄の底”である。
 アガンベンはアウシュヴィッツが孕む今日性について、以下のように述べている。

 “わたしたちの政治は今日、生以外の価値を知らない。このことがはらんでいる諸矛盾が解決されないかぎり、剥き出しの生にかんする決定を最高の政治的基準にしていたナチズムとファシズムは、悲惨なことにも、いつまでも今日的なものでありつづけるであろう。”(※6)

2020年
02月16日
11:08

※2,4,6 ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りもの ― アルシーヴと証人』上村忠男・廣石正和訳 月曜社
※3 プリーモ・レーヴィ『プリーモ・レーヴィは語る』多木陽介訳 青土社

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