pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
12月21日
12:39

よみめも47 ザンスカール・ラダック編

左画像:世話になった馬方さんとガイドさん、薪のない土地ゆえ乾燥馬糞にて焚き火の儀
右画像:ヒーバー夫妻『ヒマラヤの小チベット=ラダック』(下記第4項)より



 今回は、今年9月のザンスカール滞在に合わせた読書メモです。続編あり。

 ・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。




1. ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ 『ラダック 懐かしい未来』  山と溪谷社

 大地が緑のあいだは、物語は何も語らないほうがいい。 52 (ラダックの諺)
 
 私たちは大空高く望みを抱く
 先進国の人びとは地上に降りてきて、「空には何もないよ」と言う
 ――ゲロン・パルダン/シャクティ村での会合にて 一九九〇年 195


 名著。著者のスウェーデン人女性は、外国人に対する1974年のラダックへの入境開放直後から現地に暮らした言語学者。ラダックというローカル性に根ざした基調から、少なくとも日本では今後も広く読まれることはないだろうが、そのいかにもヨーロッパ知識人然とした研ぎ澄まされた個の思考から繰り出される記述の射程は、レイチェル・カーソンやアマルティア・センに十分匹敵する広がりをもつ。

 もっとも原書刊行は1991年のため、その炯眼から紡ぎだされた言葉には古色を帯びる箇所も目立つ。古典の深みを感じさせるのは、現象におもねるのでも委ねるのでもない、その視座に芯があっての言葉たちゆえだろう。

 ラダックでの二年目、ある結婚式に参列し、お客が楽しんでいるのを一歩下がって観察していた。そのとき唐突に、「ああそうか、彼らはあんなに幸せなんだ」と口をついて言葉が出た。そのときになってやっと、私はそれまで色眼鏡でラダックの人を見て、彼らが見かけどおりに幸せなわけはないと信じ込んでいたことに気がついた。冗談や笑いの裏には、私たち西洋人の社会と同じように苛立ち、嫉妬、不満感があるに違いないと思っていた。人間が幸福になる可能性に、さほど大きな文化的な違いはないだろうと無意識に思い込んでいた。このように意識せずに憶測していたことに気づくことは、私にとって驚きであった。それ以来、そこにあるものを感じ取り、経験することに抵抗がなくなったと思う。 113

 やっている間は満たされているとはいえ、手打ち引用に時間をかけすぎるのも問題に感じてきたので、記憶と索引のフックとなるようなキーワードを並べ以下引用に代える。

・p47-8の伝統的家屋をめぐる描写は、あまりにも簡潔にして精確かつ流麗で痺れる。
・出産からリンポチェによる命名へいたる乳幼児育成をめぐるp.88の記述も秀逸。
・ラダック語の英訳辞書を世界で初めに完成させたのも彼女らしいが、p.210には太陽光と自然の空気対流を保温効果に活かしたトロンベ壁のラダックへの導入を政府へ提言のうえ実現したことが綴られ、いったいどんだけ万能なのだこの人は。ちなみに南壁に大ガラスを張るトロンベ壁は2018年9月のラダック旅行中、実際にThukje村等で目にした。

 なお日本ではフクシマ後ようやく人口に膾炙したメディアや宣伝に対する「ファクトチェック」も、本書には「真実度チェック」という訳語ですでに登場している。(p.244) これに類似した事例は他にも多く、「先進国」のスタンダードに、日本がいまだ20年遅れた国かも疑惑、すら。

 時間をかけて先入観のベールを何枚もはがし、やっと私はラダックの人びとの喜びや笑いがなんなのかということがわかりはじめた。()別の道も可能なのだということを学んだのである。 224

 オルタナティヴうんちゃらは、カタカナ言葉としては定着するもいまだ空疎に消費されるのみですね。意識高い系、みたいな。

 学校での作文で子どもの一人が「ここの人たちは英語やヒンディー語の歌は喜んで歌うが、自分たちの歌を歌うときは、まるで悪いことでもしているみたい」と書いた、という一節はこう続く。

 最近は、恥ずかしく思って私たちの服を着ない人が増えている 145-6

 これなどは、8月に観て最近記事を出稿した『あまねき旋律』に登場するナガ族の思い出語りと全く同じで、要は同じことが進行しているのだなと。紛争による停滞がないため、ラダックのほうが全体的に数十年進行が早いけれど。

  試写メモ48 「なぜあなたと歌うのか」: https://tokinoma.pne.jp/diary/3071

 以下、珠玉の表現を箇条書きにて。

 今日の巨大なセンターである都市と、そこが必要とする物との関係は、私たちの食物が食物連鎖の階梯を上がるほど多くの土地を使うということと似ている。 227

 それぞれの個人は親密な関係の網に支えられているけれども、ひとつの関係だけが強すぎるということはない。ラダックでは、核家族に特徴的な強い愛着や罪悪感、拒絶のようなものを私は一度として見かけなかった。 228
 
 満足は、自分が大いなる命の流れの一部であることを感じ、理解し、気を楽にしてその流れと一緒に動いていくことから来る。もし長旅に出ようとしていた矢先、大雨が降っていたとしても、なぜ惨めになる必要があるのか。そうなって欲しくなかったかも知れないけれども、ラダックの人は「なんで悲しむことがあるの」という心の姿勢でいる。 117


 再読の価値も十二分に感じる本で、2003年刊行版を図書館で借りて読んだが、2018年8月に増補改訂版が出ている。お気の向くかたぜひご支援のポチリお願いいたしまする。m(_ _)m〔→https://goo.gl/MBBYye




2. 『ユリイカ臨時増刊 総特集 死者の書』 青土社

 1994年12月25日刊行、の日付がまず意味深。クリスマスかつ、あの1月17日や3月20日の直前、つまりニューアカ躁状態の最終盤。ここでいう「死者の書」も、この4文字にまつわるすべてを網羅する勢いで、チベットからエジプト、折口信夫から北米インディアンまで多様。寄稿者ももち中沢新一や梅原猛がいれば、いかにも抑えとけ的に青木保や山折哲雄、なんと岡崎京子までいる。永沢哲による野口晴哉整体とチベット医学を結びつけるエッセイも良かった。

 個別には多様すぎて特記しようもないが、トータルで看取したのはバブルの香り残す出版文化の膂力であり、2010年代のやせ細った現状であり雑誌の窒息だ。ユリイカにしても、仮にいま同じ厚さで特集号を組めたとしても、この幅広さはあり得ない。もっとまとめて来ちゃうし、そのぶん射程が狭くなる。まずそういうシュリンクが無意識の前提となり今の編集者は発想するから、俄然そうなる。残念だけど、少なくとも雑誌における日本語の豊穣はだから、もう過去に求めるしかないんだなと。これは学生の頃『美術手帖』の軽薄化に感じたことが基盤にあるし、現在いかに東浩紀が尽力しようと、他の寄稿者の小粒感により『思想地図』や『ゲンロン』に『批評空間』の神感が伴わない点にもダブる。寄稿者の選択が悪いからではもちろんなく、「日本人」全体の視野狭窄化が背景にあるため、この変化そのものが時代なのだとはまあ言える。まあ、ね。
 
 バンコク会社在庫の一。




3. チベット文学研究会編 『SERNYA チベット文学と映画制作の現在 vol.5』 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

 前項につづければ、だから今は一般読者の購買力に依存した雑誌形態はもう無理で、なんなら書店流通に乗る媒体ですら難しい、という方向へどんどん流れていく過渡期なのかもしれず。不可逆でしょうけど。

  試写メモ41「踊るブータン、笑う仮面」: https://tokinoma.pne.jp/diary/2941

 『SERNYA』は、チベット寺を舞台とするブータン映画のマスコミ試写会場外で、配給の友人ニキと話していた女史が外語大に在籍するチベット文化研究者(私的な場だろうし一応名は伏せておく)で、しばらく話してのち郵送にてご恵投いただいた一冊。5号までは非売品。パラパラめくるレベルではチベット文学紹介といった態だが、実際通読を始めると意外に懐が深く視野の広い編集方針が窺える。この意味では、昔ながらの風味でバターとバターミルクをつくる木製電動撹拌機のコラム(星泉)など望外の素敵読み物として楽しめた。傑作映画『草原の河』をめぐる村上大輔の論考も深い。翻訳にリサーチに執筆編集にと各所で獅子奮迅な海老原志穂の馬力もすごい。一般層相手の商売ではあり得ない深さだが、観客皆に読まれる価値ある考察とも言える。

 いや実際、タイもそうだけど東外大勢の力って凄いんだよね。敬服することほんとに多い。決定的に言葉が人間社会と文化(文字通りに文が化けたもの)を成す以上、語学集団もただの職能特化集団ではいられない、ということなんだろうな。

 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所よりご恵贈の一冊、感謝。




4. A. Reeve Herber & Kathleen. M. Herber 『ヒマラヤの小チベット=ラダック』 宮持優 訳 未来社

 ヒーバー夫妻によるラダック見聞録。原著"Himalayan Tibet & Ladakh"は1926年刊。本よみめも冒頭に挙げたヘレナ・ノーバーグ=ホッジ著作の項で1970年代の外国人へのラダック解放について述べたが、解放の主体であるインド国家成立以前、藩王国時代のラダックに滞在した近代西洋思考の日本語訳が読める驚き。

 本書の訳者あとがきに従えば、著者カタカナ表記はアドルフ・リーブ・ヒーバー、およびカスリン・マリー・ヒーバー。レーにあったモラビア教団病院に医師として12年間(1913~25頃)滞在したとの由。以下、気になった箇所をキーワード化し列記する。

 ラダック二重朝貢(to ラサ&カシミール)の様子(p22)、第一次大戦下における宣教師団のヒマラヤ越え(p60)、ヨーロッパ人の臭い(p64)、パンゴン・ツォ(p112)とチャンパ族の家屋(p113)、竈とバター茶(p123)、レー王城での儀式(p224)、へミス僧院の宗教劇(p309)

 中国側から視察に来た人の記録にあるとおり、「ラマ教はモンゴリアの男性から活力と進取の気性を搾り取り、その知性を枯死させた責任がある」。こんなに多数の若い男性を隔離して偽りの独身生活を強要することによって、この国の出生率と併せて道徳水準を低下させている。このような悪い風習は仏陀の正しい教えから何と大きくかけ離れていることだろう。この魔神崇拝に持ち込まれたうわべだけの改革に仏陀の名が使われているというのに、一般大衆が見るからに健康で、楽しく暮らしているのは驚きで、ラダックを訪れた人で、このたくましい高地民族の魅力を否定できる人は一人もいないだろう。 312-3

 1の『ラダック 懐かしい未来』に比べるとかなり偏見の強い筆致だが、在来民への「見下し」がまったく否定へつながってはいない点が面白い。無意識に作用するオリエンタリズムは、視線を歪めてもその鋭さを遮断するわけではないという。これはコロニアリズムに乗った欧米作家の文学作品多くにも言えること、と書きながら「面白さ」の所以に気がついた。

 このように、山の野生動物に対する興味は尽きないが、自然に真近に接して過ごした幸福な日々を思い出すたびに、「最高に充実した人生」ともいえる経験を呼び覚ますことだろう。 180

 ね。




5. 森一司 『ラダック・ザンスカールの仏教壁画 西チベット残照』 大岩昭之 編 田中公明 監修 渡辺出版

 これは良い壁画集。恐らく日本語の枠を超えた史的価値を今後担っていくことになるだろう。それだけ充実した内容を、プロでも大学の研究者でもない在野の一愛好者が撮り溜めたことの意味も大きい。結果的に、どんな学術企画も一個人の情熱に屈したのだ。

 ともあれ、アルチ・カルシャなどの美術的にメジャーな僧院はもとより、自身滞在中なにげなく目にした小規模ゴンパの壁画に本書で再会する驚きはとて~も素敵なものだった。理想はこういうものを事前にきっちり勉強してから旅行へ、だけれど実際はないし、結果論としてもそれでよくなるんだよね。ただ、読まないのは下策すぎるのでそこはきちんと抑えていく。何になるかはわからない。が、何かにはなる。経験則。



 
6. 庄司康治 『氷の回廊 ヒマラヤの星降る村の物語』 文英堂

 ザンスカールからラダック・レーへ抜ける、凍結した河を踏破する冬だけの道、通称“チャダル”をゆく紀行作。早稲田探検部OBでヒマラヤに取り憑かれた著者による本書が特徴的なのは、特定の家族へ密着した筆致の情緒と独特の構図・色彩感覚に優れた写真群。
 
 とりわけ終盤に登場する、12歳の少年タムチョスが初めて村を出て、氷の回廊を渡るというイニシエーションを経て大都会レーで初めてバスに乗り映画を観るくだりは読ませる。1998年刊。




7. 中村安希 『ラダックの星』 潮出版社

 ハイライトの一点へ向け、はじめは互いにつながりを感じられない各要素が集束されてゆく構成の視覚的な喚起力に、彼女のデビュー作『インパラの朝』が想起された。巧い、とおもわせるそのことの巧拙はしかしまた別の話で、終盤の質的な分岐はこの意味でとても興味深い。巧いのか下手なのかよくわからないがとにかくイメージを描く感じが、やはり『インパラの朝』の読後感そのものだったからだ。とはいえこの間の彼女の他作を一切読んでおらず、今年6月発刊の本書の存在も自身ラダックへ発つ数日前に初めて知ったくらいなので、他作にあたれば感興も変わるのかもしれない。

 ちなみに彼女がラダックに滞在したのは恐らく2017年の9月で、たまたまぼくは2018年の9月にザンスカールのテントのなかで本書を読み終えた。本書で彼女が登頂を目指すストック山は、レー周辺のどこからでも望める標高6000m超の名峰で、この9月に自身がラダック~ザンスカールを旅行中に、当のストック山で日本人の死者が出ていたことを、レーへ帰り通信環境が復活して初めて知った。




8. 岡田正大・NHK取材班 『NHKスペシャル 神秘のインド大紀行―神々の台座・デカン高原 天空の王国・ザンスカール 』 日本放送出版協会

 NHKスペシャルの取材過程における見聞録、1991年発行。TVディレクターゆえの不勉強なぶった切りがやや目立つものの、ザンスカール編のカルギル~カルシャ・ゴンパまでの記述は、自身の行程とほぼ同じルート(車道が一本しかないから当然だが)を行くため、四半世紀前との比較や知識の追加など意外に発見と学びは多かった。とくにゴンパや王宮など古建築に使用された木材と原生樹木との関係考察は面白い。要はあるある昔はもっと木生えてた説。

 デカン高原とのセットになっているのは無理やりすぎてご愛嬌。「先史的在来部族の生息地」というアフリカやパプアのような視線自体が初見で新鮮といえば新鮮だった。


 

9. 山田正文 『ザンスカール ZANGSKAR ヒマラヤ、峠越えの異郷へ』 山と溪谷社

 6000m以上の山稜と5000m級の峠に囲まれ冬季はほとんど孤立するザンスカール。しかし結氷するザンスカール川が、雪に閉ざされたこの地からラダックへ向かう道となる。この氷の道“チャダル”に魅せられた写真家による紀行写真集。これほど過酷ではないにしても、登場する景色はどれも自身が目にしたものに近しく、その場にいた感覚が蘇るような味わい。あと、本気の写真はやはり違うなという意味でも面白かった。(自分も恒常的に写真は撮り続けたが、意識配分において最優先事項ではまったくなかった)

 あと、登場する現地ガイドやポーターたちが、世話になったガイドと間違いなく知人つながりだろうなと思えることも、感じた近しさのおそらく一因。中沢新一の前文も良い。




10. 『地球の歩き方GEM STONE ラダック・ザンスカール・スピティ』 ダイヤモンド社

 じつは20年くらい前には、『地球の歩き方』には別装丁のマイナーエリア版がすでにあったことをかすかに覚えている。バングラデシュとか、国タイトルを背負う正式版すらまだ存在しないものが多かった。

 それにくらべると、GEM STONEシリーズは写真に比較的重点が置かれつつも、情報的にもかなり行き届いており好感がもてる内容。どれくらいマイナー目線かというと、世話になった現地ガイドに見せると写真中の人物がしばしば知り合いだという水準。数軒しか家がない村まで載せる解像度の高さなどは、市販のガイドブックとしてはまことにグッジョブな試みである。

 姐御衆より拝借の一冊、感謝。




▽コミック・絵本

α. 森薫 『乙嫁語り』 10 KADOKAWA

 物語的な進捗が少ないぶん、描写の実りの大きな巻。この第10巻の前半は、丸々狩猟描写にあてられるという垂涎展開。きちんと前段を踏んで4話目「騎馬鷹狩猟」へ至る流れはまさに珠玉。また10巻後半のアンカラ編は、これでもかというほど時代設定・世界観設定を明らかにしてくれている。あとあとの制約にならないかと心配になるほどだけれど、後続の話がそれに見合うだけ解像度を上げてくるのは必定と考えるだにwkwkがとまらない。
 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日追記 ]




β. 泉一聞 『テンジュの国』1, 2 講談社

 チベット医学における医師=アムチを主人公とする作品。舞台設定は18世紀とされているが、今回のザンスカール・ラダック滞在での見聞との共通項は多く、大変参考になる。衣装や建物内観の意匠描写が『乙嫁語り』ばりに密なのに対して、表情および遠景の記号的処理と目立つ余白(圧倒的白さ)とのアンバランスが絵的に惜しく、物語進行の芯となる婚約者同士の関係描写が予定調和的なのが弱い。と感じたが、2巻末尾の3巻予告で恋敵キャラ登場が宣言されており、ま要請的にそうなるよねと。




γ. 野田サトル 『ゴールデンカムイ』 2 集英社

 イオマンテを始めアイヌ風俗描写の慎重さと丁寧さに目を見張る。中華周縁の少数民族縛りでみると、アイヌは一帯の遊牧騎馬民や氷原の狩猟採集民に通じるものが多く、この観点からは中央アジア物の連なりとしても楽しめる。関東軍出身者らの纏う「満州性」に引きずられた日本軍兵士たちの凶暴描写もそこに連なる。文明という魔術背負いし怪物ども。そのデモーニッシュな本性に、撥ねの粗い彼の画はよく似合う。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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