pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
02月14日
23:59

よみめも49 余白をめぐる巨人族の戦い

↑恵比寿のバーガーキングでは、ビールがヱビスビールなのね。東京では通常ハイネケン。バンコクのバーガーキングはビールないし、セット+140円で飲めるお手軽感が好きで毎帰国中一度は行くのだけど、これは知らなかったな。ほんのりお得感。



 ・メモは十冊ごと、通読した本のみ扱う。
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。




1. メイ・サートン 『一日一日が旅だから』 武田尚子 編訳 みすず書房

 別離のあと残されるものは何と
 いまは死者が住まい わたしたちも死にかけている
 この家とわたしは ふたたび話しはじめる 昔のように
 何が残るのか おそらくは秋のような穏やかさ
 あるいは 若々しい愛の嘆きを許さない 別の力か
 霜がおりて 夏はガラスのように砕け散ったが
 知れ りんごが音高く落ちるとき
 わたしたちは熟し 変化の痛みに耐えて生きるのだと
 
 「別れ」 28

 
 70代から82歳までの晩年に書かれた日記で知られるメイ・サートンだが、その筆致のかこつ孤独の静謐に救われる読者はなお少なくないだろう。かくいう自分もある時期たしかにそうだったが、当時は問題意識が薄かったのか、彼女が同性愛者であったことは本書を読み終え初めて知った。深い孤独のうちに綴られた言葉の前史が気にもならないほどに弱っていた、とは言えるのかもしれない。

 大いなるもの 厳しいものよ
 はるかな星の運行を
 明らかに定めるものよ
 いまこそ わが精神を
 飛翔させてください――
 かの星々の自由を お授けください

 生きとし生けるものすべての
 声もなく慰めもない 悲嘆をつらぬいて
 澄みわたる楽の音を 響かせてください
 フルートのように魂を裂く 清らかな音色を
 狂いなく わが耳にとらえさせてください。

 厳しいもの 大いなるものよ
 あなたのかぎりない 恵みによって
 けがれたこの胸からさえ 永遠に変わらぬしらべを
 いまなお 生むことができるでしょうか
 願わくばわが歌に 厳しい形をお与えください。

 「仕事のまえの祈り」 34-5





2. ジョルジョ・アガンベン 『例外状態』 上村忠男 中村勝己訳 未來社

 例外状態は、法律的形態をとることのできないものが法律的形態をとって現れたものであるということになる。他方で、もし例外というのが、法が生に関連させられ自らの一時停止をつうじて生を自らのうちに包摂するさいの独自の装置であるとするならば、例外状態についての理論は、生きているものを法に結びつけると同時に見捨ててしまうような関係を定義するための前提条件となる。 8

 アガンベンについては、毎回想定外の長文メモとなっており他を圧迫しているので、今回は自重する。読み出すまで知らなかったが、本書は『アウシュヴィッツの残りもの ― アルシーヴと証人』(↓)に並ぶ「ホモ・サケル三部作」の一角を成すそうで。

  よみめも45: https://tokinoma.pne.jp/diary/2972

 本書に言及は一切ないが、グアンタナモのことをすこし想った。キューバ島東南部のグアンタナモ湾収容キャンプの閉鎖を、オバマ大統領は何度も宣言しながら成し遂げられなかった。しかしこの収容所こそは案外、というかまさしく、アメリカ覇権の肝なのではと。本書の論理構成を現実に当て嵌めると自分にはそう読める、という話。そしてそのありかたは驚くほど、アウシュヴィッツによく似ている。

 言語活動と法とのあいだの構造的類似性がここでは啓発的である。言語を構成する諸要素が現実的なデノテーション〔外示〕をなんらもつことなくラングのなかに存続していて、発話中のディスクールにおいてのみデノテーションを獲得するのと同様に、例外状態においても、規範は現実へのなんらの指示もないままに効力を保っている。しかしながら、何ものかをラングとして前提することをつうじてこそ、具体的な言語活動は理解可能となるように、例外状態における適用の停止をつうじてこそ、規範は通常の状況へかかわることができるのである。 75




3. 遠藤徹 『スーパーマンの誕生: KKK・自警主義・優生学』 新評論

 KKKメンバーが主人公のグリフィス『國民の創生』に始まる、奇想の映画史。これを読むとスーパーマンの起源はどうみてもKKKだし、今日の善悪規範が「ナチスが勝たなかった世界」ゆえのそれでしかないことを思い知らされる。アメリカそのものが内包するナチズムとでもいうべき思想の今日態、の少なくとも一端をスーパーマンのうちにみるとき、生身の人間バットマンとの対照はより明晰となる。

 このように、アメリカの歴史を振り返ったとき、KKKの発生はある意味必然であったことがわかってくる。自己正当化のために既存の法を無視して暴力を使うことこそ、アメリカの隠された伝統だったからである。
 歴史家のリチャード・ルベンシュタイン(Richard Libman-Rubenstein)は、アメリカ人は暴力に対して「歴史的記憶喪失」に陥っていると述べている。独立戦争、南北戦争は神聖化され、黒人へのリンチやネイティブ・アメリカンの西への追放はおおむね忘れ去られている。現状を維持し、政治的社会的変化をもたらしたのが暴力であったという事実は無視され、あたかも平和裏にことが運んだように神話化がなされているというのである。 70


 白人のヘビー級世界王者を打ち負かし、白人女性と結婚しDVに及び、白人優位自明の社会をうろたえさせてどうみてもキングコングのモデルとなったジャック・ジョンソンがハーレムに開いたクラブをギャングに売却したのが、のちハーレム・ルネサンスの中心地となったコットン・クラブだという記述の流れには何か痺れるものがある。

 逆にいえば、優生学とは障碍の「フィクション」だったのだといえる。目に見えない遺伝子がもたらす障碍を視覚化することを通して、正常性に関する言説を作り上げようとしたのである。
 障碍とは「隠喩の物質性(materiarity of metaphor)」を持つものであった。障碍は、正常性を生み出し、これに価値を与えるための筋書きを生み出すという目的に使われたのである。それは「物語の補綴(narative prosthesis)」であり、「物語の筋が表現の力、破壊的潜在力、分析的洞察を得るためによりかかる松葉杖」だったのである。 123


 これと前掲アガンベン『例外社会』の読後感を重ね合わせると、ソヴィエトという鏡像を失ったあと現代アメリカの立つ岐路が見えてくる。中国に敵を見い出しても解決しないそれはけっこう、空恐ろしい。

 モンスターの語源であるラテン語のmonstraには「見せる、陳列する、警告する」という意味がある。逸脱的身体を視覚化することで啓蒙の役割を果たそうとしたこれらの映画には、優生学的規範からの逸脱はモンスターを生むというメッセージが秘められていたことになる。 125

 ドラキュラが、ヴァン・ヘルシングに「私の血がいま彼女の血管を流れている」と言い放つとき、観客は、明らかに東方からの移民による、イギリス人女性の性的征服と、その結果としての血の混合の恐怖を体験することになる。 131

 同著者次作『バットマンの死: ポスト9・11のアメリカ社会とスーパーヒーロー』、通読必至。




4. 千葉雅也 二村ヒトシ 柴田英里 『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』 KADOKAWA

 昨年暮れ、ごく自然に「欲望会議読んだ?」とニー仏さんより聞かれたくらいなので、話題の書なんだろう。そういう方向に興味があるとも思われてないだろうぼくにそう聞いてくるくらいには、とするとかなり話題なのかな。ともかく、ツイキャスで話題になったゆえからもしれないが、ちょうど良い時機にAmazon経由にてご恵投いただいたので、心に引っかかりのあるうち読む。

 ゲイで現代思想バックに語る千葉雅也おもしろい。AV監督“なのに”、二人の変態に挟まれた一番の常識人RPになってる二村ヒトシおもろい。フェミニズム彫刻の造り手を自称するらしい柴田英里つらい。とはいえ東京藝大の彫刻修士出ててそれなんだ~、という物差しがどうしても働いてしまうため、そこは目線があまりフェアでない部分もあるのだろうけど、ネット炎上に成功すると性的に萌える、みたいのは正直うそっこさんとしか感じないし、表現者であることの加害性とはまったく無縁の、単に下卑たエゴイズムの発露でみっともない。(人格否定とかでないですよ、ネット炎上をめぐる言い草についてのみ言ってます)

 エロ表現の規制を訴える人々に対して「あなた傷ついてるんですね」と言うと怒られるだけ、という二村ヒトシが幾度もくり返す指摘は、分析として間違いではないだろうけど、「傷」をマジックワード化してるきらいを感じややもにょる。そのたびにくり返される千葉と柴田の二村への同意にしても、いやその台詞は他人に向ける前に、お互いに向けたら内輪っぽさも低減するしもっと面白かったのに。鼎談3者こそ傷だらけだし、外野からそれ言われたら図星すぎて本人たちがきっと一番嫌だよね、とも。

 千葉 我々には、近代的な内面性とは別の主体性のあり方、それこそギリシャ・ローマ的な主体性のあり方を持っている部分があって、僕は、強さというのはそっちに関わっていると思う。だから、内面的な主体性ではなく、ギリシャ・ローマ的な意味での、外側しかないような主体性を復活することが、強くなるということの一つのキーになってくるんじゃないでしょうか。その意味では、傷つきに基づく怒りを、僕は「怒り」と呼びたくないんです。内面なき怒りのみを、厳密な意味での怒りと呼びたい。 234

 ここだけ取り出すとなんだかナチスの体操協会みたいなマッチョイズム満開だけれど、脳が筋肉でできてる世界には、たしかに夏目漱石や太宰治の憂鬱はなさそうだし、痴漢冤罪製造機たる満員電車は端的に肉輸送車輌になるから問題解決するし、なのにラストの見出しが「もっと引きこもれ」という柴田の発言で締められてるってなんだったんだこの話はという謎余韻。

 二村 普遍的な正しさだけを求めようとすると結果的に、より陰湿な暴力が生まれる。誰にも共感されえない固有の秘密や無意識を、人間は持つ必要がある。 270

 必要はもちろんない。「固有の秘密や無意識」を持ってしまう人間こそ真正の人間としたがる思考があるだけで、陰湿にせよ明快にせよ暴力はただ為される。柴田英里の言明にもし嘘がないなら彼女は本書で言われるところのサイコパスだし、でもこのサイコパスに固有の秘密や無意識があるという前提は議論を覆す。よって彼女は嘘をついている。ように思える、やはりね。ただもしそれがわたしの作品制作(の一環)なのだと言われたら、そうですかと素で納得するしかない。そういう構造になっているので。

 ともあれ本書の基調となっている、二村の実例オンパレードと柴田の感情ラッシュを千葉が手際よく整理するパターンはなんか良い。続きがあったら読みたいくらい。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日更新 ]




5. マルグリット・デュラス 『苦悩』 田中倫郎 訳 河出書房新社 (旧版1985刊)

 私は本を読もうとしてみたし、あらゆることをしてみたつもりだが、文章のつながりがうまくゆかず、それでもつながりがあるはずだと思ってみたりする。だが時おり、つながりなんか存在しない、あったためしはない、現実は今ここにあると思ったりもする。別のつながりが私たちの心を占めている、夫たちの屍体と私たちの命とを結ぶつながりだ。おそらく彼はもう二週間も前に死んで、じっとおとなしく、暗い溝の中に横たわっているだろう。すでに虫たちがその上を走り、そこに棲みついている。弾を受けたのは項か? 心臓か? 目か? ドイツの土に蒼白の唇を押しあて、私の方は、それが完全にたしかではなく、まだ一秒先のことかもしれないのであい変らず待っている。次の瞬間に彼は死ぬかもしれないが、まだそうなっていないのではないか。 50

 訳者解説で明かされるが、このとき夫アンテルムは、ナチスにより貨物列車に積まれたまま13日間、事実上放置されていた。アンテルムは奇跡的に生還するも、下記引用のような死線上にあった。

 十七日間を通して、この糞の様子は同じだった。十七日間、この糞が既知の何物かに類似した相を示すことはなかった。一日に七回彼が排便するたびに、私たちは臭いをかぎ、その形状を眺めたがついにその正体はつかめずじまいだ。彼自身の脛、足、体、この信じがたきものを当人に見せないようにしているのと同様に、私たちは彼の体から出たものを当人の目から隠してしまう。
 私たちはその肢体の眺めに慣れることはついになかった。 85


 手記という形で出版され、当時は『愛人』に続く作ということも手伝いその事実関係が論議を呼んだらしいが、まったく手記形式の小説という気分で読めたしそれで何がいけなかったのか、という気がしないではない。それが「他人事」ゆえなのか否かは知らず。

  『あなたはまだ帰ってこない』(映画版『苦悩』ツイート, ふぃるめも106?):
   https://twitter.com/pherim/status/1095887022852427777?s=1...





6. 今村夏子 『こちらあみ子』 ちくま文庫 [一部再読]

 表題作の三島賞受賞時に単行本で読み、これはとんでもない才能だなと感心したのを覚えている。しかし同時受賞の窪美澄とは異なって、職業作家として作品を出し続けるひとではないかもという予感がとてもした。それは2011年春のことで、現実世界が慌ただしいなか、以降「感心」の尾は途絶したまま8年たった。

 その8年の間に、窪美澄は単行本12冊上梓、今村夏子は3冊。3冊出してくれていた。うれしい。
 この2月下旬には新作も出る。すばらしい。

 雷のような音が足を伝わり、バシンと鋭い音をたてて部屋の襖が開けられた。見上げるとそこにライオンみたいなひとが立っていた。ぽかんと口を開けているあみ子に向かって、仁王立ちしたライオンのひとは軽くこくりと頷いた。そして大股で部屋の中まで入ってきた。
 自分たちが初対面でないことは、あみ子にはとっくにわかっていた。 112


 天然系の才能がすごい、みたいなもてはやされかたをしたし実際そうだと思うけれど、上記引用部などいざ再読してみれば、まぁあざといくらいの構成力。 
 他収録作「ピクニック」、安定のまったり異様。文庫版限定の書き下ろし「チズさん」も夏子ワールド全開で、いやこのひともう少し作品たまったら、こうの史代のように映像化など通じ一気に知名度ブレイクして、いずれ国民作家になるよとここでひっそり予言しておく。




7. 本谷有希子 『生きてるだけで、愛。』

 だからこう考える。
 きっと「ザッパーン!」の瞬間は北斎にとって脳細胞がしびれるくらい強烈な刺激だったのだドーパミンとかドバドバあふれてきちゃって、本当なら見えるはずのない光景がビガーッと脳裏に焼き付いたに違いない。 10


 と考える主人公はしかし富士急ハイランドで富士山をみても脳髄にしびれるもの来ず、ジェットコースター『ドドンパ』のほうが「よっぽど刺激的」なつまりは凡庸さを抱えつつ、「あたしにはあたしの別の富士山がどこかにある」と考える。ねーよ。つーかいまここにしかねーんだな、ってのがとりま暫定の解答で、演劇のライヴ性とか要はそういうこってがしょ。

 素っ裸にコート一枚を羽織った格好で煙を吐き出して高速道路を眺めながら、どうしたら説教じゃなくて会話になるんだろう、どうしてこんなに努力しているのにあたしの言葉は誰にも伝わらないんだろう、と考えていたら笑えてきて、なんで笑っているのか分からないという顔で津奈木がこっちを見たので、 107

 映画『生きてるだけで、愛。』が微妙に惜しい感じだったので、気になって原作読んでみたの巻。

  単行本&文庫本表紙の葛飾北斎《富嶽三十六景》画像をからめた映画版tweets(ふぃるめも98):
   https://twitter.com/pherim/status/1058711421305798656




8. ノジュオド・アリ, デルフィヌ・ミヌイ 『わたしはノジュオド、10歳で離婚』 鳥取絹子 訳  河出書房新社

 イエメンの児童婚周辺を描くノンフィクション。ある少女の苦難が描かれるが、それが当たり前だった上世代にとっては耐えるべき試練に過ぎないものを裁判所に持ち込んで正義とする流れは、当然社会的な反発を招くよなとも予想され、「初夜だからと好きでもない男にレイプされたけど離婚できた、めでたしめでたし」では済まない不穏さに充ち充ちた読後感。部族因習の残る故郷に二度と住めないのはもとより、なにせ騒乱のイエメンである。10歳にして彼女が背負ったもののうちには、ISのような武装組織の支配域では真っ先に殺される徴も含まれよう。

 幼くして家出したまま行方不明になった実兄が、事実上の人身売買によりサウジで児童労働していたというのも、アラビア半島情勢をめぐる極私的解像度を上げてくれ興味深かった。(とノンフィクションの記述について書くのは「不謹慎」かもしれない)

 イエメン映画『わたしはヌジューム、10歳で離婚した』の底本。同一人物に取材した各々独立する作品なのか読むまで情報がなかったが、ほぼ書かれている通りに映像化されていたため、これが原作といえるものと確認。
 
  映画『わたしはヌジューム、10歳で離婚した』tweets:
  https://twitter.com/pherim/status/1087904149738409984
   
  試写メモ52「隠された星の片隅で」: https://tokinoma.pne.jp/diary/3192
   キリスト新聞掲載版(短縮版): http://www.kirishin.com/2019/03/12/23889/

  



9. 榊原洋一 高山恵子 『図解よくわかる大人のADHD<注意欠陥多動性障害>』 ナツメ社

 先に読んだのが↓10. 司馬理英子『「片づけられ~』で、次に本著を読んで外見の類似に反した内容の相違に驚く。10.で不満に感じた点にこちらは網羅的に答えてくれており、首肯すること山のごとし。要は自分ADHD確定ですね(いまさら)、しかも本来受診が必要なレベルを通り越してますね、ということがわかり、全力で極振り方向へ舵を切り続けた結果たまたま診断を下される機会がないだけだったらしい。ま、そりゃそうかと。

 自分が重度の耽溺癖がありながら、ドラッグ酒たばこギャンブルの類に嵌らない理由が昔からよくわからなかったのだけど、初めてなんとなく推測できた。要は器質的にストップが利かないが、逃避対象に依存したい欲求はべつにない、ということなのだろう。
 あと海外と照らした日本の投薬環境の不備などタメになった。薬不使用の療法としては認知行動療法への言及もあったけど、ここは自分の場合言葉に引っ掛かってしまう(論理に対する強強度のトラウマが恐らくある)ため、恐らく瞑想の方が効く。というか「タイの異文化理解のため」が主眼などと自分に言い聞かせてはいたが、結局無意識にしかし強烈にそれを求めていたんだろう。いま感じられる世界が世界ではないという感覚把握は、この自分を対象化する。すなわち、苦に依存できなくなる。




10. 司馬理英子 『「片づけられない!」「間に合わない!」がなくなる本 ADHDタイプの<部屋><時間><仕事>整理術』 大和出版

 役に立つかもーと思い図書館で借りた関連数冊のうち最もサイズの手軽だった一冊。「以上の20問中15問以上に該当ありのひとはADHDタイプです」の問いに、19問該当するレベルで自分は本書のいう「ADHDタイプ」であった。しかしこの「タイプ」という括りが結局、この本を自己啓発本にありがち過ぎる“説得力はあるけど実行するひとはごくわずか”なハウツーの羅列に終わらせる結果を呼んでいる。ように感じたのだけど、まぁ「タイプ」論の類に信憑性を感じるひとには効くのだろう。

 個人的には、より先鋭的に自分の資質を突き放し対象化させてくれるロジカルタイプこそ効くんだろうな、と思えたことが収穫。要は「役に立つかもー」な依存的期待値こそ原因。

  「制服にポケットがない」のすさまじい説得力。:
  https://twitter.com/pherim/status/1095486657212473344


 実際に役に立つのはこっちのほうなんだよね。Aの意志はAの全体を代表しない。Aの環境はAの全体を包摂する。ゆえに環境を変えればAの全体に影響する。意志以前に、自覚無自覚とも無関係にAは変わってしまうというお話。




▽コミック・絵本

α. 松本大洋 『Sunny』 6 小学館

 ネガティヴではない闇そのものの気配や温度を、登場する子供たちのうちに感じとる。そのあらわれこそ、このひとの描きたいことの主要な一つなのだと考える。そこに最も特化したのがたとえば『GOGOモンスター』であり、『Sunny』はそれを徹底して日常描写から離れず成し遂げる。その技は巻を進むごと深化を遂げている。ように思える。いつまでも続いてほしいが、そうもいかないのは世の理。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日更新 ]




β. オノユウリ 『美術館で働くということ 東京都現代美術館 学芸員ひみつ日記』 メディアファクトリー

 あまりにもよく知っている舞台(実在人名レベルで)“だけに”なのか、“だから”なのかわからないが、いったいこんなことを知って面白がる読者はいるのだろうかと不思議に思う内容だった。実際の美術館企画・展示作業周辺だけでなく、公立美術館の「公立」の面にもっと触れたらいいのに、とも感じたが、それこそ無理なのかもしれない。お役所ごとになるからね。




γ. 黒田いずま 『美術館のなかのひとたち』 1 竹書房

 実在の美術館を舞台とするオノユウリ『美術館で働くということ』とは異なり、学芸員の業務細目までデフォルメを施した結果として宛先がブレた感。ともあれ↑β. 同様、こそばゆくなる感じは読む前に予想しなかったことで、それがわかっただけでも収穫、かも。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ 後日更新 ]





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2019年
02月16日
12:17

>1
メイ・サートン
わりと入手困難な本でしたが『独り居の日記』と『70歳の日記』が2016年に新装版で出たので、ゆっくり手に取って読みました。

2019年
02月17日
12:16

入手困難ですか。これから需要の増える本なんですけどね、団塊的に。

『独り居の日記』がベストだろうとは思うけれど、『回復まで』と『今かくあれども』も拙宅にあるので、気になるならお貸ししますよ。

2019年
02月17日
21:12

>pherimさん
おお!ありがとうございます!
他の作品も気になっていたので、よろしければお願いします。

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