魂の牢獄という。肉体は魂の獄屋であり、己の罪をそそぐまで人の魂は、神によりその内へ閉じ込められる。日本の刑務所におけるTC(Therapeutic Community=回復共同体)の試みを撮る映画『プリズン・サークル』を観ながらはじめに想起されたのは、そうして生の根源を問うプラトンの一節だった。『パイドン』において彼は説く。《魂はあたかも牢獄の檻を通して見るかのように、実在するものを他ならぬ肉体を通し考察するように強いられる》
『プリズン・サークル』で主調となるのは、対話を通し回復しゆく受刑者らの瑞々しい姿であり、それを支える民間支援員らの熱意が胸を打つ。法務省との交渉に6年を費やしたという撮影上の困難は映像の端々から窺われ、また受刑者の来し方に深く迫る砂絵アニメの挿入は心の奥へと響き、TCの全面導入には程遠い日本の現状も指摘されるなど、構成に優れたドキュメンタリー作品だとまずは言える。
映画の中盤、罪背負う受刑者が、他の受刑者による犯罪の被害者を演じる場面がある。たとえば親族の家で盗みを働いた青年に対し、青年の親族女性になりきった他の受刑者が「あれから怖い日々を過ごしている」と責め立てる。青年は頭をもたげ、耳を赤くし言葉を失くす。こうした作業の成果は、青年個人に見つめ直す機会を生むのみに留まらない。親族を演じた受刑者は語る。「被害者の立場がどういうものか、初めてわかった気がする」と。
明示的な言及こそないが、刑務所内の試みへ焦点化することで本作は、現代社会が抱える歪さをも鋭く炙りだす。映画の後半で、出所後のTC経験者らと支援員らが市中に集う。そこで“娑婆のキツさ”に耐えきれず再収監の瀬戸際に立つ出所者の一人へ、他の出所者が喝を入れ檄を飛ばす。あたかも即興のTCかのようなこの場面は同時に、実社会に欠如するものの在り処を暗示する。本作監督の坂上香氏は現に、「私もこうした場が欲しい」という観客の声をよく聞くという。弱音を吐けない社会、不寛容のもたらす空気。互いに自己責任を強要し、孤立化を深めゆく個人。
実は、アメリカで生まれたTCが日本へ導入される契機となったのは、同国の刑務所を撮る坂上監督2004年作『Lifers ライファーズ 終身刑を超えて』の存在だった。TC経験者の再犯率は実際、全国平均に比べ著しく低い。「映画なんかで社会は変わらないが、変化の動きの後押しならできる」と語る坂上監督の仕掛けは周到だ。
『プリズン・サークル』の終盤、TCを修了した受刑者が充実の感想を述べ監督へ握手を求めるが、“接触禁止”の規則から刑務官が制止する場面がある。法務省の要請から本作に登場する受刑者は全て顔にボカシが付されるが、中心的に扱われる青年の一人が出所する終幕場面では、その顔がさらけ出される。青年の晴れやかな表情は作品の締めにふさわしく、と同時に、直前の場面で制止する刑務官の醸す昏さとの対照が際立った余韻を残す。また先に述べた出所者とTC指導員が市中で会う場面が可能なのは、支援員は外部委託の民間職員だからで、女性支援員の一人は出所者の姿に感動し涙を流す。一方、刑務官は法により出所者と外部で会うことが“禁止”されている。しかし刑務官のこの孤立にどんな意味があるのだろうか。
そう考えさせられたとき、刑務所内の光景を通して実社会を逆照射する本作において、刑務官の存在が象徴するものへ自ずと思念は移る。罪と再生、孤独と救済の矛盾的葛藤の軋みをそこにみる。そこに覗く亀裂は、イジメが跋扈する“学校”や鬱の蔓延する“会社”が抱えるそれと瓜二つだ。プラトンの別の一節が脳裡へ響く。《この牢獄は欲望を通じて成り立っており、縛られている者自身が、縛られていることへの、最大の協力者であるようになっている》
試写メモ73.1 『プリズン・サークル』 "Prison Circle"
https://prison-circle.com/
1月25日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
※《》内引用は、プラトン『饗宴/パイドン(西洋古典叢書)』(朴一功訳 京都大学学術出版会 2007年)より
コメント
05月11日
16:50
1: pherim㌠
※本稿、紙面掲載あったものの現状Web非掲載のため、映画本編のネット公開(2020/5/16)に併せ、こちらを全公開に設定変更しました。