・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心
※バンコク移住後に始めた読書メモです。よろしければご支援をお願いします。
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1. ラビンドラナート・タゴール 『迷い鳥たち』 内山眞理子 訳 未知谷
264 ちいさな花が土ほこりのなかによこたわる。花は蝶の通り道をもとめたのだった。
ベンガルの大詩聖による、326編からなる短詩集。心に留まったものを薄く感覚的に三分のうえ、以下写す。
5 大砂漠は、一草の愛をもとめて燃えあがるが、草の葉は、頭をふりつつ笑って飛びさる。
41 樹々は、つま先立ちして天をのぞいている、まるで大地が天にあこがれるかのように。
58 スズメはクジャクを気のどくにおもう、その長い尾を見て。
123 鳥は、魚を空中に持ち上げるのは親切な行為だと思っている。
154 花びらを摘んでも、花の美しさをあつめることはできない。
190 静かにすわっていなさい、わたしの心よ、さわぎたてないで。
そうすれば世界のほうからきみに近づいてくる。
196 「わたしの心はあなたの口づけをしまっておく黄金の小箱のようです」
と夕日に染まった雲が太陽に言った。
203 昼は、この小さな地球の騒音で、あらゆる世界の静寂を消してしまいます。
217 果実の役目は貴重であり、花の役目は甘美なものであるけれど、わたしの役目は、つつましい献身で木陰をつくる、樹木の葉のようでありますように。
227 生命の運動はそれじしんの調べのなかに休息をもっているものです。
267 おんみに家にお入りくださいとは言いません。
295 真理はその究極の言葉をつれて来るかのようだ、そして究極の言葉はさらにそのつぎを生みだす。
タゴールは極私的に、日本語圏以外における最大の詩人という存在感をずっと抱いてきた。それは十代終わりから二十代初めにかけての複数回にわたるベンガル地方滞在に由来するもので、とりわけ東ベンガル=バングラデシュでは都市農村問わず大人の男たちがこぞって詩吟する姿が新鮮だったし、そうした気風の親玉として君臨するのがタゴールで、しかし当時進学した東京藝大創設者・岡倉天心と彼が盟友であったという知識も手伝ったのかもしれないが、いつしか構えて取り組むべき存在へと化してしまい、実は記憶のかぎりその著書に当たるのは今回が初めてになる。
SNSでその名に触れることも極端に少なかったことに、検索してとても驚く。3件しかない。
ヤスミン・アフマド『細い目』主演インタビュー: http://www.kirishin.com/2019/10/24/31377/
ボブ・ディラン ノーベル文学賞関連tw:https://twitter.com/pherim/status/786781149938851841
(よみめも16)臼田雅之『近代ベンガルにおけるナショナリズムと聖性』:
https://twitter.com/pherim/status/749769575386853380
つまり実態とはほぼ無縁に維持されつづけたこの存在感の虚構が現れる体験、という側面もある読みとなった。ちなみにオリジナルが英語で書かれた本書の原題“Stray Birds”は、天心没後1910年代の日本訪問時に滞在先の庭でふれた光景によるという。よってアフォリズム集ともとれるこの短詩群の由来(の少なくとも一端)に俳句があることは容易に想像できる。周縁のエピソードとしては、イェーツによる
『ギタンジャリ』序文が素敵すぎて、別著だけれどもメモ書きしておく。近々扱う。要多重精読。
16 今朝わたしが窓辺にすわると、この世界は一瞬、道ゆくひとのように立ち止まってわたしにうなずいてみせ、そして立ちさります。
20 わたしは最善をえらぶことはできない。最善がわたしをえらんでくれる。
27 光が、緑の木の葉のあいだで楽しそうにたわむれる、はだかんぼうの幼子のように、人間が嘘でよそおうことなど知らないまま。
50 知性というものは鋭いが包容力に乏しく、あらゆる点にこだわるけれど感動をしない。
57 わたしたちが謙虚さにおいて偉大であるとき、偉大者にもっとも近づく。
59 時をおそれるな――永遠者の声はうたう。
77 子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。
127 蜜蜂たちは花の蜜を吸い、去るときぶんぶんうなって感謝する。
けばけばしい蝶々は、花のほうが感謝すべきだと思いこんでいる。
129 「可能」は「不可能」にたずねる、
「あなたのお住まいはどこですか」
「無気力な者の夢のなかです」と答えが返ってくる。
138 「わたしはじぶんの空虚を恥じています」
と「ことば」は「しごと」に言った。
「ぼくはきみを見るとき、じぶんがどんなに貧しいかを知ります」
と「しごと」は「ことば」に言った。
140 真理はその装いのなかで、さまざまな事実をとても窮屈だと知る。
いっぽう物語において、真理はゆったりとふるまうものである。
169 思想はそれじしんの言葉でじぶんをやしない、成長するのである。
171 あなたがたに仕事があってもなくても、そのどちらでもよいが、「なにかさせてくれ」といわねばならないとき、わざわいが生じるのだ。
184 善きことをなすのにあまりにも忙しいひとは、善くあるための時間をもたない。
222 世界は漏れ出すことはない、なぜなら死が破れ目ということではないのだから。
283 わたしが街道の群衆にまじって通りすぎたとき、バルコニーからのおんみのほほえみを見て、わたしは歌い、そして騒音をことごとくわすれたのです。
316 わが「主」よ、わたしを真に生かしてください、そうして死がわたしにとって真となりますように。
318 わたしはこの刹那、あなたがわたしの心をじっと見ておられるのを感じます、収穫の終わった寂しい野に、朝の陽光が黙って降りそそぐように。
325 果たしえなかった過去からわたしを解き放ってください、それは背後からわたしにすがりついて死を困難なものにします。
「おんみ」という訳語、これ"thou"とか"my lord"の訳らしいけど、好きになれない。これは聖書訳の「みことば」「みこころ」などにも言えるのだけれど、そこに封建文脈のニュアンスを嗅ぎとらない感性は貧しいと正直思うし、嗅ぎとるなら神との関係に割り当てるのは妙だと感じる。ましてや国家神道外の文脈ならなおさらだけれど、そんなこととは無関係に幼少時から馴染んできた人々には、高確率で意味不明なゴタクにしか聞こえないだろうというのもわかる。“You”でなくとも二人称単数なら神相手であれ「あなた」で良いし、古語風味を出す意味はなく単に相手を敬うとき、社会関係の具材に過ぎない敬語システムを超越存在に割り当てることの政治性は存外ゆえにこそ厄介だ。タゴールの信仰はヒンドゥイズムのなかでも一神教的なそれであったようだが、深意を汲もうとするならそこには人格的尊称でなく神格こそふさわしい、という直感は免れない。その尊崇の念を最高敬語(最上級敬語)にこと寄せ済ませる感性の野暮とダサさを貫く錯誤感。
ところで上記引用部にみられるよう、後半になるほどなぜか「あなた」の用例が増えてくる。これ原語が何かすこし気になる。でもすこししか気にならないので放置の儀。
8 思いにしずむその女の顔が、わたしの夢につきまとう、夜ふる雨のように。
28 美よ、きみじしんを愛のうちに見いだせ、きみを映しだす鏡のへつらいのなかにではなく。
95 静かに、わたしの心よ、これら大樹は祈祷者です。
120 暗い夜よ、わたしは感じます、あなたの美しさを。愛されている女性がランプを消したときのそれに似て。
152 これは夢である、夢では物事がすべてばらばらで、押しつけがましい。
夢からさめるとわたしは、それらがおんみのうちに摘みとられているのに
気づき、わたしは自由になる。
155 沈黙があなたの声をはこぶでしょう、眠る鳥たちをいだく巣のように。
165 さまざまな想念がわたしの精神を過ぎてゆく、空をわたる鴨の群れのように。
わたしはかれらの翼の声をきく。
166 運河は、そこに水を供給するためにのみ河川がいくつも存在するのだと思いたがるものだ。
167 世界はそれがもつ苦痛でわたしの魂に口づけし、その返礼を歌にするようもとめた。
182 わたしは静寂のなかで追憶の足音に耳をすます夜道のようです。
241 おんみは、わたしの多忙な一日を通してみちびいてくださいました、この夕べの孤独のなかへと。
わたしは夜の静寂のなかでその真意がもたらされるのを待っています。
261 あなたの音楽を、市場の騒音の中心に向かって、剣のごとく突きさしなさい。
289 おんみがのぞむときにランプを消してください。
わたしはおんみの暗闇を知り、そしてそれを愛するでしょう。
300 神は、人間が叡智のうちに子ども時代をとりもどすのを待ちのぞむ。
317 人間の歴史は忍耐づよく待っている、侮辱された人間が勝利するのを。
326 わたしはあなたの愛を信じます、これをわたしの最後の言葉とさせてください。
2. 西田幾多郎 『善の研究』 岩波文庫
而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後蘇るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。 374-5
ある美術館の開館に伴う半年間を手伝うため、金沢に住んだ時期がある。兼六園から香林坊へ下る短い一本道の途上、ガラス張りの真新しい美術館からその道を隔てた向かいに、旧制高校時代の金沢大学を記憶する元校舎が残っていた。その一室が西田幾多郎記念室のような形で公開されていて、秋から冬へかけて仕事をサボるなどした際に、幾度か通った。実際の彼の研究室だか居室だか記憶も定かではないけれど、ともあれ西田の硬質な文章にふれたとき背景に浮かぶのは、だからまずその時降り積もる室内の、冷たく張り詰めながらも木製家具の醸す温もりを薄くまとう空気であった。古いガラス窓に覗く金沢の町景は職場の人間関係やら当時の忙しい心情などを含み込み、「絶対矛盾の自己同一」の後ろ手に、薄曇りの空のもとなお青白く浮かんでいる。
『善の研究』は四部構成で、純粋経験、実在、善、宗教、と連なる四編のうち、上記引用部は第三編「善」の末尾に当たる。この箇所が目に留まり、再読して禅における円相図への想起から自然に連想されたのは、
テッド・チャン「あなたの人生の物語」の一幕であり、その映画版
ドゥニ・ヴィルヌーヴ“Arrival”(邦題:メッセージ)中盤の宇宙人による墨描イメージだった。『善の研究』初読では第四編「宗教」に望外のヤバさを看取し興奮したものだけれど、第三編「善」末尾のわずか数行のうちにキリスト教から仏教、ムハンマドからローマ教皇まで言及し次章へ具えるこの巧緻もよく考えればかなりヤバい。
“Denis Villeneuve "ARRIVAL" Weapon Opens Time”
宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。()パウロが「既に我生けるにあらずキリスト我にありて生けるなり」といったように、肉的生命のすべてを十字架に釘付け了りて独り神によりて生きんとするの情である。 379
「宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではない」とは、すこし考えるなら自明の理として了解できるものながら、ただひたすらに“癒やされたい”人々はこうした理にたやすく目を背ける、ように見える。なんならお前はなにもわかっていないと憤りさえするが、望む癒やしから最も遠いのがその瞋恚では、とは考えない。いまこの瞬間、“この自分”の感じるものが正義だからだ。俄然、何を欲望するかの自覚なく、形にすがる。「みながしている」と個の虚構を全面化し己の願望に仕えるため「宗教」を消費する姿勢など、骸に過ぎない祈りへの禁忌から起こる偶像破壊にも数段劣り醜いが、当人はそうして晴れがましく笑みさえ浮かべられるのだから人間は殊に可笑しく奥ゆかしい。ただし個をめぐる撞着の核心は、そこからの解放にしかない。キリストが
「十字架を取りて我に従わざる者は我に協わざる者なり」(マタイ10:38, ルカ14:27)というこのとき、従わざる者とは真に誰か。
「運慶、鑿、円成」:http://pherim.hateblo.jp/entry/2017/12/24/221654
「父よ、若しみこころにかなわばこの杯を我より離したまへ、されど我が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまえ」とか、 「念仏はまことに浄上にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極致である。而してこの絶対無限の仏若しくは神を知るのは只之を愛するに依りて能くするのである。之を愛するが即ち之を知るのである。インドのヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門はこれを知るといい、 基督教や浄土宗はこれを愛すといい、またはこれに依るという。各自その特色はないではないが、その本質においては同一である。神は分析や推論によりて知り得べきものでない。実在の本質が人格的のものであるとすれば、神は最人格的なるものである。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚によりて知り得るのである。故に、我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。 455-6
木枯らし吹きつける曇天の秋の夕暮れ、古びてひび割れた灰褐色のコンクリート壁を照らすオレンジ色の白熱球が印象的なあの西田幾多郎記念室が入る建物の玄関部から表の歩道へかけて、火を灯された小背の蝋燭が敷き詰められていたことがある。各々微細に揺れる炎の群れが夜闇を底で溶かすその光景が何だったのか、もう覚えていない。
この記念室とはまったく別の場所に、西田幾多郎記念館なるものが2010年に開館したといま検索し初めて知る。とすればあの空間はおそらく建物ごとすでに壊されたのだろうと想像できる。金沢大学を郊外へ移転させ、周辺の町文化を根こそぎにしたのは一帯を盤石の地盤とする森喜朗であったけれど、それでも地方都市における単館系ミニシアターの雄として存在感を放っていたシネモンドが入る香林坊109から少し歩いた近江町市場には松井秀喜の実家だか親戚だか経営の海鮮食堂がひっそり繁盛していたりして、それなりに楽しい町だった。
冬には脂の乗ったノドグロも旨かったけれど、当時すでに日本海温暖化の影響から、良い漁場は能登半島以北へ移動したとも聞いた。その冬も雪はしっかり積もり、細い白柱と薄い白壁のほかは円形に囲う大ガラスのみが天井を浮かせる妹島和世らSANAAによるその美術館の構造を、金沢の雪の重さは許容しないという深刻な懸念も耳にした。今月試写を観た日本映画秀作『RED』で原作の舞台は金沢だけれど、積雪が期待できないため脚本段階で新潟へ変更されたとプレスで読む。進行する世界の浅薄化は、白の実容をも軽くする。
バンコク宅撤収作業のどさくさで岩波文庫版が行方知れずとなり、引用部はページ数ほか半ば講談社学術文庫版参照、ゆえ仮名遣い等ブレあり。大量の補注を伴う講談社学術文庫版は未読。そも『善の研究』本体自体が引用思索に値する箇所膨大のため、まずは三編に加え四編の末尾を引用するに留め置く。講談社版読了時にまた書くし、別立てでもぜひ書きたいが目下そうした時間が見当たらないこの生活とは真に何か。
3. バオ・ニン 『戦争の悲しみ』 井川一久 訳 河出書房新社
「平和なんて、死んだ仲間たちの血を吸って育った木じゃありませんか。骨は少々残してくれましたがね。生きる資格を持ってたのは、いまここで森番になって眠ってる人たちですよ。
()
はっきりしてるのは、立派なもの、美しいものが、戦争でたくさん消えちまったってことだけだ。少しでも残ってたら、せいぜいどっかの町の闇市で物々交換に使われるだけでしょうよ。『南の住人は親戚を探し、北の住人は品物を探す』って、よく言ったもんだ。これじゃ誰の心だってくじけますよ。そういう風景を見た目で、ここ死んだ立派な連中の墓や骨ばかり見てると、ただもう悔しくって……」 222
ベトナム滞在ツイ紐づけ:
https://twitter.com/pherim/status/1222168614771425286
書くことが自分の宿命なのだと信じながらも、彼はその宿命を成就するための自分の頭脳の明晰さを疑っていた。ページを追い章を追って書き続けてはいたが、書けば書くほど彼自身ではなくて彼に反抗している何者か――キエンが人生や文学について胸中に刻みつけた信条とルールに逆らっている何者か――が書いているような気がしてくるのだった。彼はその何者かに完全には抵抗できず、ますます悪循環の渦に吸い込まれていった。彼の小説は、しょっぱなからヴェトナム文学の伝統的な叙述形式を逸脱し、作品の中の時間と空間は不合理にかきまぜられ、物語の筋は乱れ、登場人物の人生は偶然性に委ねられることになった。どの章でも、キエンのペンは勝手に動いた。そのペンの描く戦争は、彼の同胞すら知らぬ戦争、彼一人の戦いのようだった。彼はその戦いに身を投じた。それは孤独で、超現実的で、キエンだけの情念と感覚に突き動かされた戦い、従って当然のことに過誤に満ちた戦いだった。 232
ちなみにタイ語で「書く」をキエン(เขียน, khĭan)という。ベトナム語ではないから他人にはだから何だという話だけれど、読むあいだ脳裡へ終始この音似が連環しつづけた。
しばらく前のことだが、ほとんど眠らなかった夜の明け方、まだ浅いまどろみの中にいたキエンの脳裡に、死の鮮明なイメージが浮かんだ。そのイメージは、()はっきりした輪郭と色彩を持っていた。そのとき彼は現実の死を経験したのかもしれなかった。ごく短時間にせよ、実際に死んでいたのかもしれなかった。
そのたまゆらの死の感覚をキエンは胸に刻印されたかのように覚えていた。それは自分の内面の、もやもやとした正体不明の何か、幻のように確認不可能で非物質的な何かが、何千分の一秒という超短時間に突然氷のように凝結したという感覚だった。その凝結したものの正体は、恐らく理性、石と化した理性だったろう。それが目に見えぬ銃弾となってキエンの心を貫いた。彼の心は一瞬たじろいだ。が、その一瞬の空白ののち、彼の心身を支えていた生命力がその傷口に集まり、静かに、しかし止めようもなく彼の体から脱落していった。底に穴の開いた瓶から水が流れ出るように、彼に体から生命力が流れ出た。彼の頭はゆっくりと机の上に落ちた。握り締めていたペンが指から落ちて床に転がった。 318-9
ベトコンのトンネル潜航とAK-47試射:
https://twitter.com/pherim/status/439932408305971200
――要するに人生には借りが多すぎるのである。キエンの借りは、彼の人生を構成する異常な戦時の体験をまだ十分には記録していないという事実だった。一つの世界、一つの時代、つまりは歴史が、死んだキエンの肉体とともに湿った土の中に深く埋められるとしたら、それはどう考えても正当性を欠く惜しむべき事態なのだった。
キエンにとって、書くことは過去の一切を――過去に夢見たことをも含む一切を――そのときどきの映像や音響もろともに記録する作業にほかならなかった。もしも眠る必要がないなら、もしも生活維持のための雑事に煩わされずにすむなら、もしも全時間が執筆に使えるなら、彼はやがてこの債務を弁済して、遂に運命の日、死後の世界へ旅立つ日を迎えることができるだろう。愛し親しんだ人々の亡魂の待つ世界へと流れてゆくあの河へ、軽やかに身を投げることができるだろう。 325
バンコク会社在庫の一。
4. マーク・フィッシャー 『資本主義リアリズム』 セバスチャン・ブロイ 河南瑠莉訳 堀之内出版
(自己と世界の)凍結されたイメージの前で、反射的かつ反復的な行動習慣に翻弄される人間存在にとって依存症は、むしろ正常な状態であることを示している。スピノザが教えるように、自由とは、私たちが己の行動の真の原因を理解することができ、私たちを陶酔させ有頂天にさせる「悲しき情念」を切り捨てて考えることができるとき、そのときにのみ獲得され得るものである。 180
with Netflix: https://twitter.com/pherim/status/1184373514645557249
資本主義社会という、外部をなくした“己”の混迷。この混迷それ自体との距離が、
アガンベン『例外状態』や
笠井潔『例外社会』よりも圧倒的に近い、というよりそのものと化した“私”を臆面もなく語る点が新鮮かつ信用に値する。信用に値はするが到底信頼できないのはやはり、そこに横溢する暗さ、ペシミズムにどうにも違和感が拭えないからだ。ともあれこの感受性の鋭さの思考の卓越性は稀少だし、再三引かれるボードリヤールの末期への不可解さにも重なるが「だからなんで自殺とかするんだよ」とやり切れない。
リアルの内破した世界になお生きる価値が感じられなくなったとき、死を選ぶより「死を選ぶ己」を変えたほうがその先がまだ面白そうと感覚する自分はやはり能天気すぎるのか。
カフカのみならず、フーコーやバロウズによってもスケッチされた管理社会は「無期限の延期」に基づいて機能すると、ドゥルーズは観察している。生涯にわたるプロセスとしての教育……労働生活が続く限り終わらない訓練……家に持ち帰る仕事……自宅での勤務、はたまた勤務先が自宅。この「無期限」の権力の結果のひとつは、外的な監視〔surveilance〕が内的な警備〔policing〕によって継承されることだ。管理はあなたがそれに加担する場合にのみ機能し得る。バロウズにおける「管理マニア」の形象はここに由来する。つまり、一方で制御に依存しつつ、他方ではまた必然的に、管理にのっとられ、管理にとり憑かれているものである。 64
メディアコンテンツが感情教育のシステムとして機能する現状をめぐり、著者は終盤でBBC等で番組製作するドキュメンタリー映像作家アダム・カーティスの言葉を引く。
人々が何に苦しんでいるのかといえば、それは自分の中に閉じ込められていることだ。個人主義の世の中では、誰だって自分の感情から、自分の想像から出られない。公共放送としての僕たちの仕事は、自分自身という境界の外側に人々を連れ出してあげることだ。そうしないかぎり僕らに未来はない。 184
これは仕事などで、とりわけ同世代以下の日本人と接していて本当によく感じることに通じる。いま自分に見えている選択肢だけで彼らはものを考えようとする。選択肢そのものに「外側」があり得ることを想像せず、したがって欲望しない。あたかも、自分に見える世界の内でのみ完結するなにかとして己の人生を捉えているかのように見える。絶対に完結などしないのだが、そうはならないことに対して責任を感覚する素振りもない。
それはとても、馬鹿げたことだ。
拙記事「中国、その想像力の行方と現代」:http://www.kirishin.com/2019/11/27/39116/
5. 木澤佐登志 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』 星海社新書
新約聖書・四福音書におけるキリストの磔刑を共同体による「創設的暴力」の顕れと位置づけ、暴力の発現による共同体崩壊を回避する手段としての供犠こそが「原罪」を招来する、という著者による冒頭部での端的なジラール解説(18)が良く、以降ノージック、ヤーヴィン、ホイ・ユク(許煜)と手際よく整理されニック・ランドへ至る流れは明快すぎて、かえって怪しさすら覚える。
prf.〈中華未来主義〉という奇怪な思想: https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60262
実業家ピーター・ティールの思想解説において、啓蒙の本質を聖書における「主は与え、主は奪う」へと帰結させる流れは説得的。20世紀後半西側世界の覇権国家であったアメリカが表では人権外交を唱えざるを得ず、裏で独裁国家を支えテロ組織を育成せざるを得なかった意味も、この筋ならば明解に21世紀現代へと接続できる。
とまれ直観優位なマーク・フィッシャー語る
『資本主義リアリズム』の理論的基盤を結果的に補ってあまりある筆致。
6. 小栗左多里 『こんな私も修行したい! 精神道入門』 幻冬舎
『ダーリンは外国人』シリーズの小栗左多里による、スピ系体験談。彼女はタイ旅行&料理物も出しており、すでに当よみめもコミック欄の常連だけれど今回は文章主体ゆえ本欄にて。全8章で順に瞑想・写経・座禅・滝・断食・座禅・お遍路・内観という構成。座禅や内観を瞑想の一形態と考えれば、瞑想と実作業を交互に繰り返し飽きさせない構成とも言える。
本書の特徴は、批判や皮肉も豊富なため行った先の固有名言及がかなり省かれている点。たとえば冒頭の瞑想はヴィパッサナー系で、十中八九pherimもよく知るタイ仏教寺院系なのだけれど、描写の逐一まで目に浮かぶようで面白かった。厚着禁止の寒い禅堂で、向かいに坐る男の着るフリースに嫉妬しつづけたり、「水を無駄に使わない作法」の実情が合理的に考えれば単なる「節約プレイ」(p156)にしかなっておらずもにょるあたり、とても親近感がもてる。なにげない個人の感情描写だが、伝統と現代の不整合が顕れる一面でもあり。
皮肉なことに修行をしてみて初めて、いかに自分が雑念の多い人間なのかがわかったのだ。多いどころか、雑念の湧かない瞬間なんてない。もう雑念が息をして、ご飯を食べているようなもの。
()
結局、こういう「雑念」の部分が個性ではないのだろうか。同じ景色を見ても感じることや考えることが違うのは当たり前。その違いが個性で、つまりは「雑念=私」なのではないのか。
修行はこの雑念を払い、自分を透明の入れ物にするような感覚なのだ。難しい、と同時にちょっと怖いことでもある。これだけ私の脳内にうずまいている雑念をどかしたらどうなるのだろう。 221
あとがきにおける、上記引用部から著者懸案の「幸せ」問題に展開し、「幸せとは心の強さのことである」の至言へいたる平易なことばづかいによる流れは見事。
「幸せだと思えるか」は言い換えれば「感謝できるか」だと思う。「感謝する心」、つまりそれが実は「強い心」であり「足りない何か」なのではないかなあと。私は思ったのでした。
本当は気持ちを切り替えればすぐそこにあるはずだけど、なかなかできない。 222
バンコク会社在庫の一。
7. 『《話しているのは誰? 現代美術に潜む文学》展図録』 国立新美術館
展示連ツイ: https://twitter.com/pherim/status/1193336451301179392
担当学芸員・米田尚輝の趣旨文で、出典作家ミヤギフトシの以前の作に、とても感銘を受けていたことに気づかされる。それは祖父が日本帝国少年兵で沖縄の米軍キャンプへ収容されていた戦後直後のラジオの記憶を語るサウンド・インスタレーションなのだけれど、せっかく思い出したのにも関わらず、当の出展作のほうはほぼ唯一きちんと鑑賞しなかった(あとで鑑賞しようと思ったまま忘れて会場をあとにしたというADHD仕草)。
ところでたまたま訪れた時が担当学芸員によるギャラリートーク開催の時間に当たったので、米田尚輝さんの話聴く。彼、年齢も近いし、藝大在学時に絶対どこかで関わりあったんだけど、思い出せない。
8. 宮腰圭 『「巻き肩」を治す 肩こり、首痛、ねこ背が2週間で解消!』 サンマーク出版
要約すると、「手のひらを外側へ開いて歩けば肩こり治る」となる。これだけのことを158ページかけあの手この手で説得的に解説し推奨する諸々に感心する。
歩き方のコツとしては、人差し指の縦ラインで歩く(くるぶし前側直下の交点に重心を載せて)。
まぁやってみようかという気にはなる。この「気」が続かないことが真の問題ではという予感にやや切なさを看取しつつ。
9. C.ダグラス・ラミス 『世界がもし100人の村だったら』 池田香代子訳 マガジンハウス
2001年発刊、この手の子供向けを装う情勢/環境概観本の嚆矢でありすでに古典的存在ながら、いまAmazonレビューを見たら「評判から期待したほどではない」系のいわば《ディズニーは手塚治虫のパクリ》級の倒錯言及がトップに並び、あいかわらず馬鹿な大人ほど口はでかい。
ちなみに池田香代子さんは
フランクル『夜と霧』(よみめも45)や
『ソフィーの世界』の訳者。装丁もしっかり練られており、クレヨンべた塗りページの圧力を活かして、一見カラフルな印象に反して最小限のカラーページでまとめており、あらかじめベストセラー→重版展開を読み込んだつくりになっている。
美容室ATOM蔵書よりご恵贈の一冊、感謝。
10. アランジアロンゾ 『わるい本』 角川書店
主人公の“わるもの”と親友“うそつき”らの日常。四コマ調コミック+手縫い人形フォトエッセイ的な。元はベネッセから出ていたらしい。起承転結なく、キャラクターのみで幼な心に訴える戦略。実際そこそこ成功しているっぽい。個人的には、何かあるかもと思わせつつ最後まで何もなかった感に“わるい”心象を抱かなかったことの意外性がなかなか、わるくない。
バンコク会社在庫の一。
▽コミック・絵本
α. 有間しのぶ 『その女、ジルバ』1 小学館
ラストでようやくジルバの物語が始まるのだけれど、なんだかものすごい予感。手塚治虫や浦沢直樹なんかの漫画史そのものとはべつに、
『風の谷のナウシカ』とか
『大奥』とかね、突出しすぎて漫画というジャンル内評価を退けてしまう種の圧倒的な力を感じるのだけれど、なにしろ物語が始まりそうなところで終わるのでまだ、「予感」。
β. 山口つばさ 『ブルーピリオド』 2 講談社
いまだ東京藝大受験が本作のように半ば神話化され、実技入試の特異なテーマ付けが“天才”を見いだす最適解であるかのように描かれることに驚きつつも、少子化+不況+独法化がもたらす各種平準化で倍率が下がっても、たしかに総体としての構造は維持される、変えようとする導因は誰の内にも働かないことは少し考えれば自明なのだった。
そしてこの枠組みを所与の前提と捉えるなら、その枠内で醸成されたゲームの実相を見事にエンタメ化していて諸々唸らされる。たとえば一家全員藝大という家の現役高校生の、デッサン実習における佇まいがおのずと発するオーラとか。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日更新 ]
γ. 山本直樹 『明日また電話するよ』 イースト・プレス
『レッド』を読み進めるうち、いつもの「山本直樹」を読みたくなり手が伸びる。この「いつもの」の期待通りな一作でとても楽しめたのだけれど、楽しめたこととはべつに、その「いつもの」性自体が思いのほか時限的かもしれないことに、彼の予想外に長い作品履歴などから思いを馳せさせられるなど。各話につく短いあとがきも良い。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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δ. 市川春子 『宝石の国』 1 講談社
市川春子についてはその絵柄から、かなり前にすこし書いた記憶があり検索すると、7年前に短編集『25時のバカンス』の感想発見。『宝石の国』の第一印象もこれに違わないため、以下コピペ↓する。内容言及は次巻以降におくとして、wikiるに本作でブレイクした様子と知る。素晴らしいね。アニメ化までされてると。素晴らしい。少なくともこの面では正しく機能してるね業界GJ。
風変わり過ぎるSF恋愛物語。生涯を賭けるに値する目的への問いと、一個の実人生の重みとのぶっ飛んだバランス感覚がいずれの短編でもメインのモチーフになっている。その乾いた乖離ぶりの心地良さに、作者の抱える切望の在り処を知る思い。度々登場する身体を空洞化させ異化させたカットのグロテスクさと、その乾いたタッチの生むコントラストがやたらに強い読後感を抱かせる。全然知らないひとだけれど、文句なしにこれは名作。
ε. 弐瓶勉 『人形の国』 4 講談社
スケール感の麻痺こそ持ち味な弐瓶アクションが、地上戦の制約下で抑制され、ガンマン同士のウェスタン展開へ収束する様がじわる。あとは終盤、ダメ人間が後悔や反省もしたかのように見えつつも力を得ると単なる凶悪化ダメ人間と化す様など、描かれる世界の異様さに対する人間像の凡庸さにやや作品としての疲れが看取され。とはいえこれ系は世評よりずっと高く評価しちゃうんだけどね。
『ブレードランナー2049』とか
『イノセンス』とか、そっち系。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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コメント
01月31日
00:44
1: pherim㌠
2013年タイ移住後、原稿記事を書きだした2015年あたりから「ふぃるめも」が「よみめも」に先行するようになりました。が、望んでいたバランスではまったくないため、今年から「よみめも」傾注します。と宣言してみます。
あわせて、今回より「よみめも」のweb全体公開始めます。「ふぃるめも」同様、こちらへいただいたコメントは外部からも閲覧可能です。なお「いいね」は見えません。また過去の「よみめも」で、コメントをいただいていない回の幾らかをweb全体公開へ設定変更するかもしれません。しないかもしれません。ご了承くださいませ。
03月28日
17:25
2: pherim㌠
宣言しつつも、なんのかんのでSNS告知は2ヶ月躊躇してた件。
https://twitter.com/pherim/status/1243816137717993472