pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2021年
02月07日
16:55

よみめも63 てのひらの滑走路

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心


 ※バンコク移住後に始めた読書メモです。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。批評とかでなくメモ置き場です。よろしければご支援をお願いします。
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1. 萩原慎一郎 『歌集 滑走路』 角川書店
 
  きみのため 用意されたる 滑走路 きみは翼を 手にすればいい

 派遣労働の日々を歌い、32歳で自死した歌人の遺作を下敷きとする映画を観た流れで、その歌集を手にとる。

  映画『滑走路』 https://twitter.com/pherim/status/1327807313902596096

 はじめから読み進め、中途であとがきへと移る。驚く。彼は同じ中学高校の後輩で、しかも中高時代のイジメにより心を病んだという。それを知った瞬間から、ひとつひとつの歌のみえかたが、まったく変わってしまった。
 
  スパゲッティミートソースを混ぜに混ぜじんわり舌に感じるイタリア
  君のそのクリームパンの誘惑に思わず僕は齧りたくなる
  プロ野球選手になれず少年期終わるがごとく太陽沈む


 歌集では章立てで幾つかの歌ごとまとまりをもたせているのだけれど、ここよみめもでは順序を入れ換えている。たとえば上記3句。中学高校の最寄り駅周辺には音楽系・芸術系の大学などもあり、ささやかながらアングラ文化の香りただよう大学町の趣きを残していた。内緒で酒もだす旧制中学時代から馴染みの居酒屋があれば、個性的なパスタ屋も幾つかあった。

 音大生向けのオシャレなパスタ屋は若干の緊張も要したけれど、通学路には明らかに当該の中高生徒を主要な客層に当て込んだバケツサイズの大盛りナポリタンを出す店も存在した。その途上には古い木造家屋でお婆ちゃんが商う、すでに絶滅しかけていた駄菓子屋の生き残りのような店もあって、120円だか200円だったかのメンチカツバーガーが同校生徒にとりわけ愛されていたのだけれど、曖昧なクリームパンも美味で知られていたような記憶がある。驚くべきことに、四半世紀たった今でもラップにくるまれた自家製バンズの柔らかく湿った感触や、ソースの甘酸っぱさとレタスのシャキシャキ感がカツの衣に絡むあの味と歯応えを鮮明に思い出せる。

 萩原慎一郎にとって、中学時代に野球部でイジメに遭い退部したことが深い挫折となり心の病を引き起こしたらしい。体育館や校門前のローソンがその先にあることもあり、野球グラウンドの脇を自分も毎日のように歩いていたし、体育の授業ではその野球グラウンドでよくサッカーをした。

  今日という日もまた栞 読みさしの人生という書物にすれば
  草をかき分けてゆくごと文章を書いてゆくのだ 乗り越えるため
  まず文語そしてハンマー手に持って口語短歌に変えてゆくのさ


 その野球グラウンドでのサッカーで、一度ハーフラインから高く蹴り上げたボールが、走り出たキーパーの上を大きく越えて無人のゴールネットを揺らしたことがある。よくやったと反町くんが喜びつつ褒めてくれたのをいまも鮮明に思い出せる。反町くんはその後未成年だか最年少だかで司法試験を通過し、今はある有名な受験予備校を率いている。中学に入学して、初めのクラスで隣になった田中くんとその隣の佐藤くんが野球部へ入った。あまり仲良くはならなかったけれど。歌集に登場するミートソースやクリームパンや野球部の風景を知っているといいたいのではなく、言葉の質がそのように近しさを増して感じられる特異な体験だった。
 サッカー部が練習に使うグラウンドは、野球グラウンドとは別に隣にあった。プールへ行くためには、野球グラウンドのど真ん中を横切るのが早道だった。
 
  更新を続けろ、更新を ぼくはまだあきらめきれぬ夢があるのだ
  クロールのように未来へ手を伸ばせ闇が僕らを追い越す前に 
  きみじゃないきみを探すよ あの街にさよならをしてどこかの街で


 だから世間的な注目を集めた派遣労働をめぐる歌の数々を、ここではとりあげない。そちらは正直、社会状況をよく反映した若者の歌という一般的な受けとり以上のものがなく、評価が高い理由もわかるが個人的にはかなり距離を感じてしまう。派遣時代といえる時空を自分も経験したけれど、彼(に象徴された今日を生きる若者世代)の共有するつらさとはかなり別種の、むしろ個人史的には穏やかで楽しい時季だった。ともあれ、きみじゃないきみを探して中高時代は池袋から先のひろがりを求めたし、卒業してからは東京と関東以外の場所を欲した。
 あげく訪れた今がある。いろいろと変わってしまった。

  深海にある折畳傘を取り出すために手を鞄の底へ

  生きるのに僕には僕のペースあり飴玉舌に転がしながら
 
  この列はなんの列かと思ったらシュークリームの列だったのだ





2. ルシア・ベルリン 『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』 岸本佐知子訳 講談社

 「お前はもう夏休みのあいだ誰とも会ってはならない。ことにクレアは絶対にだめだ。」
 やっとヘル・フォン・デッサウアが煙草を吸うために外に出ていき、つかのま訪れたその至福の時間に二人の友は笑いあう。抑えきれない、さざめくような笑い。父親が戻るころには、二人はまた静かに本を読んでいる。 156


 著者を知らず、邦訳版がよく売れている、ということ以外なにも知らずに短編小説集として読み出す。軽快さ、鋭い文体のスピード感と、リアリスティックでありながらたえず酩酊のなかにいるような浮力を感じてよみ進むと、まったく異なる話と解していた各章のあいだに時折連環するものが見いだされ、半ばへ至るころにはその全体が著者の自伝的内容をもつとわかる。しかしそれでも、章によっては時と場を大きく移すため、読み味としては一個の人生描くひとすじの物語へは回収されることなく終盤へ。

 「オーケイ、白状する。教師をやっている人間なら、誰でも経験あることだと思う。ただ頭がいいとか才能だけじゃない。魂の気高さなのよ。それがある人は、やると決めたことはきっと見事にやってみせる。」 250
 
 締めの一文がしばしば神懸かっている。溜まりこんだ圧が一気に解放されるような描写のため、そこだけ抜き出して伝わるものでもないのだけれど。
 
 わたしは家じゅうのドアと窓を開けはなった。背中に太陽を受けながら、キッチンの食卓で紅茶を飲んだ。正面ポーチに作った巣からスズメバチが入ってきて、家の中を眠たげに飛びまわり、ぶんぶんうなりながらキッチンでゆるく輪を描いた。ちょうどそのとき煙探知機の電池が切れて、夏のコオロギみたいにピッピッと鳴きだした。陽の光がティーポットや、小麦粉のジャーや、ストックを挿した銀の花瓶の上できらめいた。
 メキシコのあなたの部屋の、夕方のあののどかな光輝のようだった。あなたの顔を照らす日の光が見えた。 269





3. エマニュエル・カント 『純粋理性批判 〈1〉』 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 だからわたしは、信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかったのである。形而上学の独断論は、批判なしで純粋理性の営みをさらに進めようとする偏見であって、道徳に反抗しようとするあらゆる無信仰の源泉であり、こうした無信仰はつねに独断論的なものなのである。 175

 文芸書と学術書や一般書との違いのひとつには、読む姿勢の差異がある。読まねばならない、という意識で為される文学体験を貧しい(が、必要に応じてなされる)ものと自分はおもうほうで、そこに書かれている内容や知識の修得のために為される読書とは第一にそこが異なる。逆にいえば、必要に駆られて文学書を読むことほど無意味に苦しい作業もない。小学校の「課題図書」「読書感想文」がもたらした執拗なる呪いにて候。

 それでもう何度目になるかわからない、『純粋理性批判』通読の試み。端的にいえば、文学として読み出したらけっこうイケる。 
 くり返し挫折しても続けた点では、個人史的に聖書と並ぶ両巨塔だったけれど、6年前にクリアした聖書もたしかにその気はあった。文学として、と書いたとたんそこには別様の堅苦しさも惹起されるが、要は表現作品のひとつとして単に楽しむっていう。けれど言い換えるならこれは真理への探究とか神の教えを人の業とみる姿勢ゆえ、ある種のひとには不敬とか不誠実とみなされ得る。まずは楽しめれば良いのだから細部までの完璧な理解は欲しない、辻褄とか整合性とか求めない。そうしたことへの欲望は、たぶん再読時(がもしあれば)にやって来る。これでいいのだ。今はね、なんかそうおもえる。

 何度もの試行のなかで、自室本棚にはほかに熊野純彦訳や石川文康訳もあり、以前はそちらのほうが良いように感じていたけれど、今回は自然とこの中山元訳を選んだ。理由は物理的、軽いからである。おもに横浜への往復電車で読む。
 
  横浜しゅうまつ紀行:https://twitter.com/pherim/status/1355480865539727364
 
 もっとも聖書通読は、後半の新約で相当ダレた。今回の「通読の試み」とは三批判書すべての通読を言っていて、聖書より長丁場となることが予想もされる。とまれ『純粋理性批判』のミラクルは、かつてあれほど単調に思えた文面が、今回は名作SF並みに全編刺激に充ちて感じられていることだ。単にヤバいやつやった。

 こうしてわたしたちは、空間が(すべての可能な外的な経験については)経験的な実在性をそなえていると主張すると同時に、空間にはこうした経験についての超越論的な観念性もそなわっていると主張するのである。この[空間に]超越論的な観念性がそなわっていることが意味することは、すべての経験の可能性の条件を放棄して、空間が物自体の根底にあると考えるようになった瞬間から、空間は何ものでもなくなるということである。 90




4. 川端康成 『掌の小説』 新潮文庫

 川端観が大きく変わる、111編からなる短篇小説集成。しばしば、こんなのアリなんだというほど素っ気なくストーリーラインがぶった切られて終わるのだけれど、慣れるとそのほうが好ましく思えてくる。さいごに落とす必要のない世界。ここでふとオチのある世界(関西)とオチのない世界(関東)のあくなき対立も想い起こされるのだけれど、そうした連想の果てにはむろん、書き手の出自に由来して何のオチも到来しない。この面に限っていえば、上記ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』とは真逆の読み味。

 驚くのはこの大半を20代のうち書いたということで、しかも末尾解説によればアラフォーの頃にはこれを否定し「わたしの歩みは間違っていた」とさえ述べたというから才人は恐ろしい。なかには50代の成熟さえ感じさせる洒脱さ迸るというに。

  川端「心中」原作のマレーシア短篇映画『Love Suicides ― 手紙』 by エドモンド・ヨウ:
  https://twitter.com/pherim/status/1331248476466933762


 あとは日本語の膂力のようなもの。まったく知らず思いもよらなかった死角から広がる世界をふつうに読めてしまう言葉の強さと、まったく知らなかったにも関わらず一度読んでしまうと己にインストールされた“日本語”はその先にしか生起しえない何物かだったと納得される。とはいえとはいえ、言語の壁こえ映像化される手つきの伝えるものに、表現の核心がないとも言えず、そこはいたって肥沃な現代だ。

  中島敦『山月記』に依るタイ映画『トロピカル・マラディ』 by アピチャッポン・ウィーラセタクン:
  https://twitter.com/pherim/status/698651415372107777





5. 田中忠三郎 『図説 みちのくの古布の世界』 河出書房新社

 東北の民の衣に焦点化した一冊。外見はよくある薄いビジュアル本タッチながら、中身の濃さに驚く。麻布の多用から古手木綿の流入、津軽こぎん刺しと南部菱刺し、裂織の歴史。
 
 裂織の読みに「さきおり」「さぐり」「さっこり」等あり、「さっこり」などはもうアイヌ感満載。けれどこの本全体からはむしろ、いつのまにか刷り込まれていたこの“アイヌ”イメージにこそ疑いを抱くに至る。というのも本書を手にし図版をパラパラめくった最初の印象がすでに「やはりアイヌっぽい」というものだったからで、考えてみればそこにはなんの論的根拠もない。単に積み重ねてきた視覚記憶によるパターン認識がそう判断させただけで、その直感はたしかに何かを分けるのだが、その分水嶺が民族分類としてのアイヌ/大和の境界に重なると考えるほうが筋が悪い。アイヌ厚司なんて語彙も、本書で初めて身についたし。
 
 それはともかく、南部と津軽とで異なってくる形などの記述などは、みちのくの古布をめぐる己の解像度がグーグルマップを指で拡大するようにぐんぐん上がるようで楽しく、激寒期の描写は迫真的。この著者・田中忠三郎を初めて認識したけれど、地元出身の男が昭和40年代からこの種の研究を足で深めてきた軌跡自体が貴重かつ胸熱で、こうした内発性本位での探究を実践する人間の画閾を、後続の世代がどれだけ継承できているかはまことに気になる。

  クメール絹絣、タイシルクのルーツと染織のアジア:
  https://twitter.com/i/events/837952663027265536

  インド更紗とモンスーン貿易風(ツイキャスby pherim):
  https://twitter.com/pherim/status/1292423151985422337

 
 「梅の花」「キジの足」等、極度に抽象化され説明されなければわからない菱形模様に表れる地域の特徴をめぐる記述(p.34)は、東南アジアや中央アジアの染織への極私的興味に通じ、出会えて嬉しい。
 
 菱の中に自在な模様の創造と色彩を与えられる、バラエティ豊かな自由な感覚の持ち主が、菱形という一つの枠を超えることが出来なかった社会的背景があったのだろうか。一つの条件と状況を打ち破れぬ場合、その物事は、いつしか爛熟し、崩壊する悲しい運命を持っている。この悲哀が、また菱刺しの美しさにつながっている。 35
 
 みたいな、むやみに熱い一文がそこかしこで唐突に噴き出す出色本だった。
 
 しかも終盤で縄文土器への言及が始まり何のことかと思ったら、いやまさに縄文土器の模様って編み物そのものでしたよねっていう。実際、出土した当時の麻の編布(あんぎん)図版あり。




6. チョ・ナムジュ 『82年生まれ、キム・ジヨン』 筑摩書房

 原作本とその映画化作品とで催される感興がまるで異なるのは自然なこととして、『82年生まれ、キム・ジヨン』をめぐるその“違い”はかなり新鮮なものだった。端的にいえば文学的なのはむしろ映画版のほうで、あとから友人に借りて読んだ原作本は“小説”という形式が訴求的“内容”のほとんど奴隷に近い形で使役されていて、読み終えてからも圧倒的に残るのは映画で観た主演チョン・ユミの離人的な眼差しのほうだった。
 
 と書けば酷評にも映りそうだがその一方、本書が韓国で百万部超えのベストセラーというのは頷ける話だともおもう、数頁に一度の頻度で示されるデータのすべてに、韓国の現代を生き抜いた女性の多くが実体験の記憶を伴う共感を覚えるのだろう。という追体験ができる点とても説得的な内容で、いわば社会学的背景を前提としてビジネス書棚に平積みされる類いのベストセラー本が小説の形をとったという印象。読み味としては、アメリカなどの自己啓発本でよく挿入される小話が全面化したような。 

 韓国映画の目覚ましい興隆を体感しだしてもう十年以上になるが、韓国文学のそれについては耳にしつつも実作品にあたれていない。本作の立ち位置は、そのメインストリームへのカウンターパートとして注目されたのでは、という予想はある。さて、2021年中にこの当否を判別できるか。したいですのう。
 
  映画版『82年生まれ、キム・ジヨン』 https://twitter.com/pherim/status/1311863463916920832

 沼田牧師より拝借の一冊、感謝。(上記ツイートのリプ欄↑に拝借までの交信経緯あり)
 
 


7. 川戸貴史 『戦国大名の経済学』 講談社現代新書

 加賀百万石、などと石高制を自明のように近世大名家の勢力を図る物差しとして誰もが語るけれども、要はこれGDPみたいなものなのにどうして米の獲れ高なのだということは、そういえばきちんと教えられた記憶がないし、疑問に思ったことも「ない」と打とうとして、いやあるだろ、と正直思った。自分は疑問に思っても、まわりが疑問に思ってなさそうだから、とりあえずその疑問をなかったことにする。子供の頃のその作業はいつのまにか無意識化して、そのようにしてペルソナのごとき社会的自己が形成される。 
 とはいえ石高制の由来に戦国期の貨幣不足、貨幣不足の由来に明の倭寇対策を紐付けてゆくこうした本が売れるのだから、ペルソナによってのみ生き得るひとは案外少ないのかもしれない。
 
 それとは別に、フィリピン諸島の在来民のあいだで使い捨て同然に使用されていたルソン壺が、茶の湯の名器として大名間で突如価値沸騰したがため、高額レアルで買い集められた結果島嶼部の村々から姿を消したというくだり(p208)が面白い。松永久秀の爆死から千利休の自害へ至る裏側というか遠方で、侘茶ブームがそんな余波を巻き起こしていたグローバル近世感。
 
 貨幣経済の形式こそ続くにしろ、金属物としての貨幣には早晩終わりが見えてきた。データ化された金銭の捉えどころのなさ、実感からの遠さこそしかし“経済”の本性にはきっと近しいのだろうな。




8. 大野美代子 エムアンドエムデザイン事務所 藤塚光政(写真) 『BRIDGE―風景をつくる橋』 鹿島出版会

 国内のマイナー橋の写真が良い感じで図書館借りした一冊。橋のデザインに長年携わってきた大野美代子という存在さえ知らずに読みだしたが、橋の基本的な設計/建設過程や見かた、当人の来し方などがコンパクトにまとめられテンポ良く通読できた。

 ミヨー高架橋ほか欧州の名橋をデザイナー視点でまとめた見開きページx2は秀逸。(※コメント欄に写真メモ追加↓)
 



9. 『青花の会 骨董祭 2020』 新潮社

 新潮社の編集者主催の〈青花の会〉が毎年暮れに企画しているらしい骨董祭の、2020年版冊子。出店する30近い全国の骨董商が各々自己紹介するとともに書きつける「心に残る展覧会」の項目が面白い。その過半は関東で(も)開催された展示にもかかわらず、自分が観ているものは2,3しかなかった。彼ら積年の研鑽を積んだ目利きからすれば、自分などふつうに眼力不足なのだなと納得される。
 
 西洋骨董を扱う3人による巻末鼎談も興味深く、こうして粋を極めた領域で生を成りたたせる姿は、どの分野であれ爽々しい。




10. 宗像大社 山村善太郎(写真) 『神々への美宝 世界遺産「宗像大社神宝館」』 求龍堂

 2016年秋に訪れた宗像大社神宝館、2017年には沖ノ島含む関連遺産群が「神宿る島」の冠名称つき(英名Sacred Island of~)で世界遺産指定を受けたそうで、めでたい。てか4年前にみた展示は、おそらく世界遺産指定を目前に踏まえた企画だったろうけど、そのあたりへの関心が薄いのかよく覚えていない。
 
 本書は神器を美しく撮る方針に貫かれていて、美術図版に慣れた目にはある意味新鮮。見開きにでっかく逸品を載せるのもたまには良いけれど中心部が折り込まれよく見えず、これが十数頁あるのはむしろ残念感を醸しだす。それも質感優位な勾玉とか素朴な出土物ならまだしも、織機(《金銅製高機》)なんかどうしたって気になる細部構造が見開き中心に来てよく見えない。ざんねーんすぎるよな。 
 
 現地訪問時には、煌めく金銀宝玉にもまして子持ち勾玉(《滑石製子持勾玉》5-6c)がやはり強烈だったと再確認するなど。

 《宗像・沖ノ島 大国宝展》連ツイ https://twitter.com/pherim/status/801065201994862592




▽コミック・絵本

α. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 1-6 小学館

 滅茶苦茶おもしろいし、新しさにビビる。まず十代半ばを信長の野望と司馬遼太郎にまみれて過ごしたので、北条早雲の立志伝は2,3読んでいたし周辺人物の相関図も知らないではないつもりだったけれど、6巻終わっても舞台が坂東へ遷移しないため既知の国盗り物語とはまるで別物。
 
 で、特異な中世京都市街の戦術描写。パトレイバー節で描かれる応仁の乱、これは凄い。中国古代物であれ欧州近世物であれ、マンガのヴィジュアル性は歴史小説より遥かに作品世界の幅を多様にするし、実際好んで読んでもきたほうだとおもうのだけれど、それでもちょっと記憶にない描写の手触り。

 ゆうきまさみといえば『パトレイバー』のひとで、今はツイッターが面白いひとという以上のイメージをもってなかったけれど、いやこれは嬉しいな。マンガ蔵書の大量譲渡をいただいて読みだした一発目がこの六冊なのだけど、のっけからメガトン級の衝撃でした。いとありがたき僥倖。
 
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β. 室井大資 岩明均原作 『レイリ』 1-6 秋田書店

 武田勝頼の息子・信勝の影武者を務めた少女レイリ。という設定だけからして醸される、岩明均風味の清々しさ。
 
 なんだろうねこの『七夕の国』『ヘウレーカ』『ヒストリエ』に通じる抜けの良さ、見晴らしの良さは。岩明均の作品世界中ではむしろ『寄生獣』こそ浮いてすら感じられる。本作白眉の高天神城籠城戦、ギリシャ古代のあれに通じる半径10mの精密描写が楽しかった。

 室井大資の後頭部が縮まったデッサンは初め気味悪く受けつけなかったけど、話が面白いので読み進むうち旅先現地語の定形文法のように無意識化され、そうでなきゃ可愛くないというくらいに適応するから人間凄い。

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γ. 弐瓶勉 『弐瓶勉フルカラー作品集』 講談社

 いつもの弐瓶世界で本人が二次創作を試みたような。そこで飛び出るおやじ的ギャグセンスの醸す、士郎正宗にも通じる諧謔感は良い。「二次創作」といま書いたのは本人が意図的に自己パロディをやっていると思しき風合いが本書収録作の過半にあるからだけど、なかには正統のスピンオフと思わせる点景的短篇もある。
 
 『人形の国』など弐瓶勉の近作をめぐって、自己模倣と酷評するのは簡単だけれど、通底する独特の世界観はそういう水準で語れるものではない可能性を地味に感じる。文字通りそれは“宇宙観”であるのだけど、物語の自己模倣はNGで絵柄の継続はOKという判断軸自体が恣意的で、絵柄同様に世界設定もまた本人の意志的にはどうしようもなく無意識的身体的ということはふつうにある。士郎正宗や鳥山明の新作は実質存在しないが、弐瓶勉の新作は存在する、ここはそういう世界線だ。その現実を甘受しとう。
 
 霧亥の物真似するつむぎとか、むっちゃ良い。

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δ. 松本大洋 『竹光侍』 5 永福一成 作 小学館

 沼に嵌った老馬の、巨躯の刺客・木久地による救出劇が白眉。(冒頭画像↑)
 
 原作物ゆえの描画注力が、表層の物語とは別様の語りをもたらす愉快。
 
 こういうところをきちんと評価できてる漫画評論とかあるのかな。あれば読んでみたい。本作を下位に置く松本大洋評など単に凡庸だけれど、たまに目につく言説があるとしても、結局そういう筋の目線ばかりなんだよな。上記弐瓶項にも重なる物言いになるけれど、これは『イノセンス』や『スカイ・クロラ』を下げる押井守評なんかと同じで、作り手側の変容を促す流れに、ずっと若いはずの受け手の感性がまったく随伴できていない。素人の話でなく、プロの話。もっとも批評的視座などこの社会では機能せず、端から不要なのだという蓋然性はいたって高い。
 



ε. 平澤まりこ かのうかおり 『チーズの絵本』 mille books

 サイズや厚さ含め往年の『チーズはどこへ消えた?』を想わせる装丁ながら、こちらはベタにチーズ雑学を各種イラスト解説する内容。作者の趣味範囲がそうさせたのだろうけれど、乳酪製品の世界的な奥深さには一切触れることなく、欧州の現行名産品のみにフォーカスする点、ややもったいなさ、狭さを感じる。中央アジアや地中海対岸への接続をせめて予感くらいさせたほうが奥行きひろがる。
 若き時分ブルーチーズに目覚めたくだりなど、実感ベースの記述が良かった。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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コメント

2021年
02月08日
07:34

レイリ は読んでみなきゃなあ、と思いました

2021年
02月08日
09:55

写真メモ追加。


> レイリ は読んでみなきゃなあ

是非!

2021年
02月13日
17:01

>名作SF並みに全編刺激に充ちて感じられていることだ。単にヤバいやつやった。
分かりますw

哲学書の読める/読めないは、その哲学者と自分との相性(興味関心のリンク度)に左右されると感じています。

純粋理性批判、和訳たくさんありますよね。宇都宮訳が読みやすいという会話を先輩とした記憶がありますが(10年以上前)、私はけっきょく通読できませんでした。
文学として読むという発想はなかったです。が、以前によみめもで取り上げられていた、石川文康「カントはこう考えた」がすごく面白くて、それはカント哲学が面白かっただけでなく石川氏の修辞がすごく上手かったためもあるので、なるほどと思いました。

2021年
02月13日
18:02

> 文学として読むという発想はなかったです。

都心にいて時間があるときは帰り道の地下鉄1,2駅分をよく歩いたりするのだけれど、たとえば皇居前広場から眺める日比谷や丸の内の夜景などを昔からかなり好きで、夜闇のなか無数に浮かぶ白い窓明かりを、そのときたぶん人間の表現として楽しんでいる。丸の内OLも霞が関の役人も、意図せずこの表現に参画している。そんな感じです。

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