pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2021年
09月30日
16:36

よみめも67 唐草戦記

※↑オムライス(むさしや、新橋)+『中世』、フライ定食(ときわ食堂、駒込)+『純粋理性批判4』
 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
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1. 日和聡子 『唐子木』 

 凹んだまま戻らぬ座布団
 盃に僅かに残つておる酒がぬるい
 わたしはしばらくそれを眺めておりながら
 牛鍋の黒い縁があつたあたりを
 つつく箸を見る

 (「百葉」)


 きのうコロナワクチン2回目接種。ロキソニンテープとかウィダーインゼリーなどいろいろ準備したのに、24時間たっても絶好調なので、がつんとカツカレーなど食べだしている。

 石川五右衛門の話なぞする。
 彼に刀を都合したのは、
 意外にも四条、彼であつた
 「角一という研ギ師が
  毎夜 台所にて研いでおつた」。
 私は何故か石川へ持つておつた感情を告白した
 四条さんは私の目を見つめ
 あつ、と言つた。
 
 たつた今
 嘘山が崩れたそうである。

 (「嘘山」)

 
 とはいえ今朝起きてみると腕は上がらず、だからワクチン接種した夢をみたのでないことは、いまみる世界が夢でないかぎり確かだけれど、そういえば昼前に一度36.8℃まで体温が上がっていたので、念のためといま測ってみたら37.0℃と出た。とたんに、若干の目まいに襲われている気もしてくる。いつも襲われている気はとてもする。

 知っている道の散歩のつもりであったが
 延々たる礫道が幾重にも畳み込まれてあるので
 何処ぞに辿り着いたような気もせぬまに
 また唐子の木を眺めてゐる 

 (「唐子木」) 





2. 石牟礼道子 『苦海浄土 わが水俣病』 講談社文庫

 どのようにこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の湧く割れ目の必ずある。そのような真水と、海のつよい潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさの、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。
 ()
 自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏ん張って立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あをさをとりに行こうたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん――行こうごたる、海に。 168


 『椿の海の記』そのものの自然描写が、シームレスに水俣病描写へと接続する。時系列でいえばもちろん『苦海浄土』が先で、『苦海浄土』が書かれなければ、そしてあれほどの反響が起こらなければ恐らく『椿の海の記』はあり得なかった。それはつまり日本じゅうの、いや世界じゅうのどこにでもあったろう漁村の豊穣が世界文学へと結実する前段に、豊穣の破壊が必要であったことを意味していて、その残酷さは個人意識の発生と昇華の過程にどこか似ている。傷痕が輪郭を形成するのよ。
 
  『椿の海の記』(よみめも43 落ちよるときの夢)
  https://tokinoma.pne.jp/diary/2889

  

 生まれてこのかた聞いたこともなかった水俣病というものに、なぜ自分がなったのであるか、いや自分が今水俣病というものにかかり、死につつある、などということが、果たして理解されていただろうか。
 なにかただならぬ、とりかえしのつかぬ状態にとりつかれているということだけは、彼にもわかっていたにちがいない。舟からころげ落ち、運びこまれた病院のベッドの上からもころげ落ち、五月の汗ばむ日もある初夏とはいえ、床の上にじかにころがる形で仰むけになっていることは、舟の上の板じきの上に寝る心地とはまったく異なる不快なことにちがいないのである。あきらかに彼は自分のおかれている状態を恥じ、怒っていた。彼は苦痛を表明するよりも怒りを表明していた。 144


 新作映画をめぐるメディア記事って、あらすじと共に監督や俳優の声を載せたり、だれか有名人の感動の声を集めたりとつねにワンパターンだけれど、ハリウッドの宇宙なりファンタジーならそれでいいとして、「水俣」をまったく同じに扱うのが業界の常識だとすれば脳が痺れる。『MINAMATA―ミナマタ―』や『沈黙‐サイレンス‐』や『硫黄島からの手紙』のような日本の近世史現代史を重厚に複眼的に捉える映画がなぜ海外からのみやって来るのかという疑問さえ無化されるその場所では、日本的文脈との接続など脳裡をよぎったりするはずもない。けれどやって来るものを右から左へ受け流すのだけが映画コラムのお仕事ですかとは思うので、メディア記事を検索して一つくらいは最低限、石牟礼道子との接続を図る記事が見つかるべきだろう。というような動機が底にあって書き出したら、予期したよりかなり気合入ってしまったのが下記である。

  拙稿「水俣に命ながれる 『MINAMATA―ミナマタ―』」
  http://www.kirishin.com/2021/09/23/50829/


 紙面に載るのは通常千数百字で、この記事は約7000字。だからWeb限定でいいやと出稿したら、たまたまタイミングが合ったらしくまた編集長の感心をそこそこ買いもしたらしく、それなりの枠で紙面版にも載るっぽい。
 とまれ舶来の映画なしには『苦海浄土』の凄味を考えようともしない己もまた、いまだまったく伐り立って来ないこの感じ。個の析出へのこの観想。

 伏目になるとき風が来て、ばらりとほつれ毛がその頬と褐色の頸すじにかかる。その眸のあまりのふかいうつくしさに、わたくしは息を呑んだ。霧のように雨を含んでひろがる風である。
「そうそ、お下がりば貰いまっしょ。仏さまから」
 草いきれのたつ古代の巫女のように、彼女はゆらりと立ちあがる。 353





3. エマニュエル・カント 『純粋理性批判 〈4〉』 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 人間の理性が真の意味での因果関係を示せる領域、そして理念/イデーが実際に作用する原因である領域、すなわち行為と行為の対象を生じさせる原因となる領域は、道徳の領域である。
 ()世界秩序における自然なものを[イデアの]模写とみなす考察から始めて、目的[すなわちイデア]に基づいて世界の秩序が建築術的に結合されたものとみなす思想へと上昇していくこの哲学者の精神の高揚は、わたしたちが注目し、手本とするに値する営みである。道徳性、立法、宗教の原理については、経験において理念/イデーが完全に表現されることはできないとしても、理念/イデーこそが経験そのもの(善の経験そのもの)を可能にするのである。 410/59-61

 この[心という]実体は、内的な感覚能力の対象としては、非物質性という概念を与えるのであり、単純な実体としては不壊性という概念を与える。実体の同一性は、知的な実体としては人格性(ペルゾナリテート)という概念を与える。これらの三つの概念が組み合わされると、精神性という概念が生まれる。空間に存在する対象との関係からは、物体との相互関係の概念を与える。だから合理的な心理学は思考する実体を、物質における〈生〉の原理として、すなわち心/アニマとして、また動物性の根拠として示すのである。この動物性が精神性によって制限されると、不死の概念が生まれる。 441/106

 経験的な対象は、空間のうちで思い描かれた場合には外的な対象と呼ばれ、時間的な関係だけにおいて思い描かれた場合には内的な対象と呼ばれる。そして空間も時間も、わたしたちの内部にしかないのである。 L41/200

 しかしこの〈わたし〉なるものは直観ではないし、何らかの対象についての概念でもなく、意識のたんなる形式にすぎない。これは[内的な像と外的な像の]両方の像に伴って、これを認識まで高めることができるものである。ただしそのためには、直観のうちもっと別のものが、対象の像の素材を提供するものが与えられねばならない。 L49/215

 主体の自己同一性は、わたしが主体のあらゆる像において意識しうるものであるが、これは主体の直観にかかわるものではない。直観においてはこの主体は客体として与えられているのである。だから主体の同一性は〈人格/ペルゾーンの同一性〉を示すものではない。()人格の同一性を証明するためには、〈わたしは考える〉という命題を分析するだけでは不十分であり、与えられた直観を基礎とするさまざまな総合的判断が必要となるはずである。 449/114



 表層上の論理が逆転することで芯の部分が貫徹されるようなこの書き口はジワジワくるし、昔は逐一全実存をかけ咀嚼しようと構えていたから先に進まず体力切れを迎えていたのだなとひしひしわかる。当よみめもの恒例パターン、文学については引用のみして余計なことを書き足す欲求湧かず、己の妄想拡充のダシとして利用する思想書や学術書についてはあれこれ書き連ねる。というモードが今年に入って逆転気味なのも恐らくはこれゆえで、サスペンス小説に看取してきたノリを『純粋理性批判』に感じるターンが来るとは思わなかったし、一方でミステリー小説の類が読み進められなくなった。まぁそういう時代があってもいい。そらええわ。


 この境界の規定は、自然みずからが定めたヘラクレスの柱に、ここを超えるなかれ/ニヒル・ウルテリウスという警告の言葉を絶大な自信をもって掲げたものなのである。それは人間の理性の航海を、連続して絶えることのない沿岸という経験の領域の内部でつづけさせるためである。わたしたちはこの経験の〈岸〉を離れることは出来ないのであり、ここを離れたならば、岸のない大洋へ漕ぎだすことになる。この大洋はわたしたちをつねに空しい展望で欺くのであり、わたしたちはさまざまな退屈で困難な仕事に赴くのであるが、[それが欺きにすぎないことに気づかされて]望みのないものとして、放棄せざるをえなくなるのである。 L65/238




4. 石井妙子 『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』 文藝春秋

 私は人類に戦争を止めるだけの知性があるかについては、ほとんど絶望している。だが同時に、私は宗教を信じるような強烈さをもって、自分の肉体的・知的能力の洗いざらいをもって、次の戦争を止めるか、少なくともそれを遅らせるために、ささやかな貢献をしたいと思う 92

 これは水俣渡航よりはるか以前の1946年4月、自身の展覧会場にてユージン・スミスはまだ顔面に受けた戦傷も生々しい状態で語ったとされる言葉。として拙記事の締め直前に引用させていただいた。
 
  拙稿「水俣に命ながれる 『MINAMATA―ミナマタ―』」
  http://www.kirishin.com/2021/09/23/50829/


 石井妙子ってかのユリコ本『女帝』の著者だとは、本書を読み出してから知った。『女帝』は未読だけれどこのひとの書くものなら売出し期のブームがイメージさせるような扇情的内容でもないんだろうな、と思わせる程度に質実かつ、360ページとそれなりのボリュームがあるにも関わらず満遍なくコンパクトに収めた感があって読ませる。とりわけ水俣訴訟とチッソの履歴をめぐる中盤の記述については、『MINAMATA―ミナマタ―』そのものというより土本典昭の水俣作品群との対照から水俣病をめぐる群像構図が立体的に把握された観もあり、大変に収穫多き。




5. 東浩紀 『ゲンロン戦記』 中公新書ラクレ

 劉慈欣かっていうくらい、一切の中弛みなくツルッと読み終える。しかしこの軽快さは内容ゆえでなく、『クォンタム・ファミリーズ』や『一般意志2.0』の書き口が思い起こされる種のもので、内容は中小企業経営めぐる裏切りあり遁走ありのむしろどろっどろなのだから文章が巧いということだろう。

  スベトラーナ・アレクシエービッチ 『チェルノブイリの祈り 未来の物語』
  (よみめも39 未来の祈り): https://tokinoma.pne.jp/diary/2721


 それとはべつに、読み進むなか想起されつづけたのがアレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』で、もちろんゲンロン主催のチェルノブイリツアーが幾度も言及されるせいもあるだろうけど、あの重厚なる世界文学と五反田の悲喜こもごもを語る本書には、一見本筋とは関係のない細部描写の奥行きが生む没入感の楽しさみたいなものが通底していて、本来小説的な仕草であるはずのそれが小説ではない文体で躍動する点とても近しい。
 
 兵士がネコを追いかけたのを覚えているんだ。ネコのうえで線量計が動いていた。機関銃のように、ガリガリ、ガリガリと。ネコのあとを男の子と女の子が走っていた。この子たちのネコなんだ。男の子は黙っていたけど、女の子はさけんでいた。「わたすもんですか!」。走りながら、さけんでいた。「ネコちゃん、早く、逃げて、逃げて!」。兵士は大きなビニール袋を持っていた。 (『チェルノブイリの祈り』260)

 不安を抱えたツアーもひとまず成功して、ほっとした気持ちで日本に戻ってきました。ツアーは空港で解散です。ぼくも上田さんも疲れていましたが、()途中夕食を食べたりして、ゲンロンに到着したのは23時台だったと思います。オフィスのドアを開けたら、徳久くん、Bさん、Cさんの3人がまだいました。それはいいんですが、玄関近くに、なんとIKEAの家具パーツが1週間前のまま放置されていた。
 これにはさすがに怒りました。 171



 2013年にバンコクへ引っ越した時点では、時間をかけるに値しリージョン規制のかかってない優良日本語コンテンツはpodcastの類を除くと極少で、自分の場合3つのみだった。神保哲生+宮台真司のビデオニュースと、宇川直宏のDOMMUNE、そして東浩紀のゲンロン中継チャンネルだ。ビデオニュースは週2時間くらいしかやらないし、DOMMUNEはタイムシフト視聴がないから時刻が合った時しか観られない。というわけで特に2013年から2016年頃までは、仕事しながら生活しながら、ゲンロン中継チャンネルをかなり視聴しつづけた。このうち2013~2015年くらいが『ゲンロン戦記』では最悪の時期のひとつとして描かれており、そこそこ意外で驚く。海を隔てるとそのあたり感じとれないものなんかぬ。ときおり企画趣旨を離れて東x上田界隈で交わされる魂の肉弾戦は、表現として圧巻だった。

 一時帰国のタイミングが合った際には、今ではゲンロンの半レビュラーメンバーと化しているレビ先生(山森みか師匠)に連れられ、五反田で初生あずまん&生津田大介観覧を果たしたのもその頃だった。その津田大介がゲンロンを離れ、当時タイ文学の数少ない情報源として私淑(というほどでもないけど大変参考に)していた福冨渉がゲンロン入社とか、歳月の偉大さを感じてしまう。クーデターもプミポン崩御もびっくりだったし、香港にしろコロナにしろ予想もしない事態がわが身を直接翻弄する頻度が東日本震災以来パないけど、ゲンロンはゲンロンで動乱の日々だったのが感じられ勝手ながら心強い。
 
 前に一度アート界の騒擾をめぐり、人名を次々と挙げ思うところを縷々書き連ねたけれど、今なお表沙汰には一切出てないハラスメントの処理実務をする立場に院生時ごく短期間なったことがあり、その主舞台となったある勉強会の呼びかけ人はすでに物故されたし、被害者女性は名のある記者ゆえこんなことで自分を切り売りする可能性も感じないから最早数人の記憶に留まるのみで消失しゆくのだろう。けれどその当加害者が十数年越しで東浩紀とトラブってるのを耳にして、「彼」はもうかつてのそれを憶えてさえいないのかもとは少し思ったし、だったら告発せずにおかれるのは良くないのではともやや考える。
 
 それはともかくバンコクからの静観込みで、この主観からはどうみても世界標準の実力をもつ東が「彼」ごときとがっぷり四つをとる方向へ舵を切ったこと自体は興味深い、とはその折に書いた通りで、この舵切りのディテール、具体的進行過程が『ゲンロン戦記』には詳述され、というよりそれこそ本体といって良い内容だったからとても面白く読めた。この歳になって初めて純粋理性批判の透徹したフレームのしなやかな構築性に痺れだしているのとは対極の、骨組みの上に血肉具わる人間の臭いや温度。

 2014年から15年にかけては、業務の中心はもっぱら3万冊超の書庫整理となっていた。書庫といっても都心の雑居ビル上階で、隣室にはミャンマーやカンボジアの労働者相手にビザ業務を代行する業者が入り、下には中華食堂やインド人の仕立屋が入り、ついでに隣接ビルの行きつけタイマッサージ屋上階では弊社のwifiが入り動画の続きも聴けるなんていう猥雑たる環境だった。五反田で喋っている人々はよもやそんなシチュでおのが声を聴く人間がいるなど想像の埒外だろうけど、その書庫内のダンボールの山に埋もれ日がな夜な夜な過ごす際、フロアに反響する主なBGMがB5版ノートPCから流れる軽音化したゲンロン中継で、すでに1年半以上コロナ篭りしているこの身にその心象記憶の群れはなんだか、前世紀や前世の記憶にさえどこか想える。




6. 巖谷國士 『マン・レイと女性たち』 平凡社

 Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された《マン・レイと女性たち》図録であり、独立の単行本としても読める構成。それだけ物語的に練られた展示だった証左とも言えそう。
 
 展覧会は、キキ・ド・モンパルナスやリー・ミラー他、各時代のパートナー女性により章立てされる回顧展形式。シャネル、ドヌーヴ、宮脇愛子らとの仕事が無数に並ぶ絢爛人生に眩暈しつつ、繁栄のアメリカからパリへ出戻る道行きにしんみり共感。オブジェ&絵画出展の多さは収穫だった。
 
 全体監修を巖谷國士へ託す仕草にBunkamuraの矜持を看取。国立の美術館博物館も、国代表級の文士なり思想家なりが、もっと図録冒頭を飾って良い。(無論本体は学芸員論考として) 立体作《イジドール・デュカスの謎》から、解放仄めかす形で同じモチーフが描き込まれた晩年の絵画《フェルー通り》への転回など、主旋律とは層を隔てる地下水脈の煌めき醸す余韻精妙。
 
  《マン・レイと女性たち》展@Bunkamura 連ツイ
  https://twitter.com/pherim/status/1431844825318322176


 単行本では、登場する女性たちのしなやかさと自立性について冒頭に強調されていたのが今日的。#metoo以降の流れであると同時に、かつてのウーマンリブが醸した強さともどこか異なるこの21世紀モードに、染まるのでもなく並走する巖谷國士の抑制を利かせた書き口が読み味よい。本来はもっと硬質な文章を書くひとという印象があり、優先的に読みやすさを顧慮する基本方針が展示とも通底してあったのかもしれない。
 


 
7. ウィンストン・ブラック 『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』 大貫俊夫監修 訳 平凡社

 「中世」イメージをめぐるファクトチェック本。
 
 とまずは端的にまとめられる一書。魔女やペストに関連して流布周知される各種のギミック(苛烈な磔刑とかペストの嘴マスクとか)の大抵が、実際には16世紀以降つまり近世産の表象に過ぎないことを、一次文献を併置しつつ述べ立ててゆく流れが面白い。ただ読み心地のリズムが平板というか、もう少し見た目で一次史料と著者言及との差をつけて良かったのでは、とはおもう。
 
 あと厚さと体裁の割にパンチが弱いのは、著者が前のめりすぎて若干指摘が粗い印象をもたせてしまうのと、訳の校正に甘さが目立つから。著者の姿勢についてはともかく、例えばレイチェル・ワイズをレイチェル・ヴァイスと訳出するとか学術的に間違いでないだけで、一般書の作法としては世間知らずの鼻高プライド丸出しで単に拙い。ゲームやマンガの例出にしてもジャンル全体への目配りを全く感じさせない、たまたま目についた作品をとりあげるモードが説得力を押し下げモニョる。そこはたまたま目についた一次資料でいいんですか本当に、っていう。

 女教皇ヨハンナまわりとか、知らなかったディテールがそこかしこ楽しめた。


   
   
8. 戸泉絵里子 『スペイン語 スペインを旅する』 三修社

 《トラブラないトラベル会話》というCD付き語学シリーズ物らしい。このジャンルに自腹を切ることは長らくないためバンコク会社在庫の生き残りかと思ったが、2002年という発行年や挟まっていた書泉の栞から、学生時代に自分で買った可能性も少し感じる。その場合、今はなき書泉ブックドームで買ったことになり哀愁。ともあれ。

 あれです。語学系再起動の嚆矢として、まずは西より始めよ。
 昔とった杵柄で、基礎文法はそれなりに憶えてるっぽい。

 バンコク会社在庫の一。(恐らく)




9. 『ユージン・スミス写真集』 クレヴィス

 映画『MINAMATA―ミナマタ―』の公開に併せこの9/7日本向け再刊となった写真集『MINAMATA』と同じクレヴィスによる2017年発刊で、こちらはユージン・スミス初期から晩年までを主な写真集別に章立てした総花的内容。文章量もそれなりにあり、ユージン・スミスのエッセイからの抜粋は端的で良いが、それ以外は少々微妙。後半の論考など目線が些末すぎる感。そもあれつまり4年前には、『MINAMATA』周縁企画がすでに動き出していたということなのかもしれず。もちろん『MINAMATA』からの数枚が終章を飾るが、代表作《入浴する智子と母》は含まれない。非掲載の理由は、拙記事でも詳述した。↓
  
  拙稿「水俣に命ながれる 『MINAMATA―ミナマタ―』」
  http://www.kirishin.com/2021/09/23/50829/


 戦争写真家としての大戦時の写真も水俣の仕事ももちろん良いが、もう戦争はコリゴリとばかりに1946年から50年代を通じてアメリカ片田舎の人々の暮らしを撮ったフォトエッセイ群がやはり個人的には断然好みで、カントリー・ドクターとか助産師シリーズとか何というのだろう、ずっと観ていられるんだよな。

  ユージン・スミス〈カントリー・ドクター〉(昔みた展示の一景):
  https://twitter.com/pherim/status/1130471174645747712





10. 加藤國男 『草木の染色ノート』 グラフ社

 「身近な草花、樹木を使って」と副題にあるよう、本当に近所に生えてる雑草類や日々台所にあがる野菜根菜類から色を採る。

 繊維の中に入り込んだ植物の染料成分(タンニン、フラボン)が金属と結びつくと、水に溶けない物質に変わり、落ちにくくなります。この働きを利用して繊維を染めることを、「植物染色(Vegitable dyeing)といいます。 4
 
 染織工芸、みたり手にとるのは好きでも、こんな基本中の基本もあらためて解説を読むとへぇってなる。だから泥とか灰が媒染剤になる、っていう。カツミレとかエンドウとかセイタカアワダチソウとか、100種以上のサンプルを5種の金属で媒染、各々インディゴで後染めして計10パターン*100種強で千以上の色サンプルが並ぶのだけれど、凄いのはそのほとんどが金属媒染黄~茶系+インディゴ後染め緑~藍系で、色味の差異自体に価値を置いているのでもなさげなところ。謎の情熱、ないしは収集熱。玉ねぎの皮くらい今度してみよっかな、みたいな気にも一瞬なる。どうだろう。




▽コミック・絵本

α. ゆうきまさみ 『でぃす×こみ』 1, 2 小学館

 ゆうきまさみの巧緻炸裂。各話冒頭が毎度カラーでかつ日本代表級の現役漫画家たちに色を塗らせるという、ゆうきまさみだからこそ為し得るムーヴ、そしてカラー部はすべて独立したBL作冒頭部になっていて、そのどれもが続きを読みたくなる水準だけれど続きはないっていう。これがまったく嫌味にならない立ち位置を保持する力量こそ至宝。ってベタ褒めしすぎかもだけど、『新九郎、奔る!』だけでもヤッバいのに『でぃす×こみ』読み出して完全降伏。
 
 でもこちらは3巻で終わってることを今知って、それはそれで納得感ある。この凄味は真性の本領から来るものではなくて、むしろ逆の全く遠い領域でできることを試してみたらこんなんでました、っていうこんなんが超グレードってな凄味なんだよね。『新九郎、奔る!』はね、パトレイバー@室町後期感あるんよやはり。泉野明も後藤隊長も顔かたちを変え作品内世界に息づく感じ。
 
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β. 『鶴田謙二イラスト集 ひたひた』 白泉社

 絵の魅力にしろ独創性にしろ、まごうことなき一線級の漫画家なのに知名度がいまいち追いついて来ない。そういうたまにみる作家の代表格が鶴田謙二(自分的には)、という思いをこのイラスト集をペラペラめくりつつあらたにしていたら、編集者との巻末対談がやたらに濃くボリュームもあって驚いたし、同時に「知名度が追いつかない」理由もうっすらわかった。生来のこだわり性で調べ好き。調べすぎて生産量が業界を乗りこなすアベレージへ常に達さずメジャー化を妨げる。

 でもそれでいいんだろうなという気はとてもする。それに五十嵐大介的な隘路を通じたメジャー化の轍はいずれ踏みそうという予感もする。けれどそこでペースを崩したりもせず、当人は淡々と寿命+本義を遂げる、みたいな翁になってほしい。至極勝手な願いですけど。
 
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γ. 原泰久 『キングダム』 14-23 集英社

 王騎死すの対趙戦から、対魏・山陽攻略戦へ。蒙驁vs廉頗の直接対決、迷路砦の攻防は数千規模でそれはどうかなという興醒め感あるも、全体として飽きさせず次々によくやるなという戦術描写の連続に感心。

 にしても昌平君とか李牧とか、天才軍師が若きロン毛のサラサラヘアーな類型性どうしたものか。ごりごり武官たちとのコントラストから来る造形なのはわかるけど、頭よさげ=ヴィダルサスーン使ってそうな固定心象はむやみに吹きかねず大変危い。その点、めっちゃヤバい剣客将軍が出来杉君タイプという輪虎の崩しかたは光ってたけどあっというまに斬られちゃった死。

 ともあれ23巻末尾の新章突入感はいいね。これぞ少年歴史漫画っていうわくわく度MAX。



 
δ. 諫山創 『進撃の巨人』 25-27 集英社

 超大型巨人の小規模核弾頭的な使用法に笑う。ガンダム以来の、「それって人型の意味なくない?」という疑問さえ封じてしまう人型固有のフェティシズムで押し切るノリ、異性の体に対する性欲喚起と似た構造あるよねきっと。
 
 ヒィズル国はどうなんだろう。要はパラレルワールド日本文明がキープレイヤーとして登場してくるのだけど、海外のマンガアニメファン(特に中韓)の感情処理の仕方がすこし気になる。これでムッソリーニ的新勢力とか毛沢東主義とか出てきたら面白いけど、もはや巨人置き去りの文明系RTSになってしまう。(期待)





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T

コメント

2021年
09月30日
17:52

更新してツイートしたら36.8℃に下がってました。
つつがなくこのまま明日を迎えたき。

2021年
10月01日
07:34

7:26、36.6℃。2回目接種から41時間経過。腕も上がるし、平熱は高めの人間なので、すでに平常運行なのでしょう。

苦しんでます系の声ばかり目に耳にしてきたのに、不安になるレベルできのうは色々むしろ捗ったぞ。何が問題なのだ。

2021年
10月01日
17:27

「水俣に命ながれる」、タイトルから秀逸だなあと思ったのでした。

学生時代、純粋理性批判の輪読会で、教授は私のレジュメのときは句点ひとつ進むごとに首をかしげていたんですが、高畑淳子似のパリピ同期のレジュメには「うんうん、そうだね」とうなずいていて、ああ私は文章が読めないのだなと思いました。
(パリピ同期は今も大学でカントを研究しています)
カントを面白いと思ったのは卒業してからです。
輪読会は凹んだけど、大事な経験でした。

モデルナを接種した友人、ほぼ全員が痛みや高熱の副反応が出たと言っていましたが、元気だったと言っているコも1人いました。3回目はどうなるんでしょう。

2021年
10月01日
19:42

学生各々の訳文がおかしいということなのでしょうか。輪読で首を傾げたり「そうだね」と頷いたりする状況に興味あります。

「水俣に命ながれる」は、キリスト新聞社サイトのランキングで、自分の映画記事としては珍しく1週間以上ランクインしています。pherimツイッター効果はせいぜい2日なので、これは非知の経路を通じ読まれていることを意味し、なかなか嬉しいことです。

モデルナでよければ8月中にも打てたのですが、ファイザーを待った理由の一つが副反応の統計上の差だったりします。3回目って同じ会社のほうがいいんですかね。

カント研究者の高畑淳子パリピ版というのはアツい!\(^o^)/

2021年
10月02日
14:30

あ、ファイザーだったんですね!私もです。
医院の個別接種で、看護師さんに、1回目大したことなかったなら2回目も大丈夫よ〜と言われて何を根拠にと思ったんですが、本当に微熱だけでした。

テキストは日本語だったので、おかしかったのは訳ではなくて純粋に読解力でした(純理だけに!)。文庫だったから篠田英雄訳の岩波かなあ。

そして、輪読、教授のリアクションでレジュメの良し悪しが測れるものだと思っていました!そうじゃない輪読会の経験がない…。

2021年
10月02日
19:15

現場でそれ言える看護師さんなら信用できそう、みたいな感じはありますね。

なるほど反応自体に教育意図があるのだと。ひとりだけ実力の突出した輪読会、というものを想定してませんでした。

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