・メモは10冊ごと、通読した本のみ扱う。
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心。
1. 石牟礼道子 『椿の海の記』 河出書房新社
その味噌麹になりかけの押し麦をすくって春乃が持ってゆくと、このめくらさまは、手のくぼに受けて嗅いでみて、しばらく首をかしげているが、ひとつぶふたつぶつまんで口に含み、ほつほつと噛みながら、手さぐりで麹の筵のところにいざってゆく。ほかほかと熱を持って来ている筵の中にそろりと手を入れる。そして和やかな繊い声で言うのだ。
「明日どもはもう搗いてもよかろうばってん、この天気じゃ、まちっと筵ば押し広げて、冷まさんことにゃ、毛足の長かねずみ黴の生ゆるばえ」 117
海に降りる山道のついでにつわ蕗もわらびも山椒も採れた。山道伝いに、一日海に下れば、ゆうに一週間分は、多彩に食べわけられるしゅんの海山のものを、背負いながら帰っていた。春の海山のものがそうであったように、秋のものはなおさらにまた種類がことなり、歳時記とは暦の上のことではなくて、家々の暮らしの中身が、大自然の摂理とともにあることをいうのだった。
天草を水俣の波うちぎわから眺めると、米のない島、水のない島、飢饉のつづく島、仕事のない島、人の売られてゆく島というてきかせられても、貝も居ろうに魚も居ろうに、食べられる草や木の芽のいろいろも生きて居ろうに。なぜ人はそこから流れて来て売り買いされ、いったん売られてしまうともう、淫売! などといやしめられるのか。そのような世界を産み出して、自身は動かぬ島というものが、未知の謎を胎みながら微光を放って、空とひとつになってゆく海の向うに浮き出ていた。 130-1
だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。地の中をもぐってどこかに棲み場所を持っているおけらとか、空にむかって漂いのぼる樹木の花粉とかになって、木の中石の中からゆく道をゆけば、どこに出るのだろう。けれども青鬼というものには遭いたくない、と突然おもう。鬼というもののみじめさはかなわない。人間はなぜ、自分のゆきたくない世界を考え出すのだろう。それからわたしは、あっと思いあたる。鬼たちよりも、それを考え出す人間の方がむざんなのだと。 229
どだいそのように初歩的な数ならべなどは、五、六十銭の日傭とり人夫の日常世界には無意味なのだけれども、親バカと焼酎の肴に思いつくのである。娘にすれば親のために答えてみせねばならなかったが、いったいいくつまで数えてみればおしまいということになるだろう。数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。
一度かんじょをはじめたら最後、おたまじゃくしの卵の管のような数の卵が、じゅずつながりにぞろぞろびらびら、自分の頭の中から抜け出して、そのくねくねとつながる数をぞろ曳きながら、どこまでも「この世のおしまい」までゆかねばならぬ直感がする。わたしはすっかりおびえて熱を出す。 29
天草の島から売られてきた十六の小娘の、毎夜毎夜、売りひさがれていた姿を見知っていた栄町通りの人びとは、こんにゃく屋の小母さんの声にたしなめられたように、おし黙った。そして、人びとは、いまわのきわの娘淫売の、おっかさあーんというひと声をたしかにその時きいた。わたしは、牡丹色に光るびらびら簪が、しゃらんと鳴って、畳の上に落ちる音をきいた。血の海の中にそれが浮くのをみた。 98
己が人生を舐めるなと。
2. 最果タヒ 『夜空はいつでも最高密度の青色だ』 リトルモア
都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。塗った爪の色を、きみのからだの内側に探したってみつかりやしない。 7
ここは体温が円柱の形をして立ち尽くして、森みたいだ。 27
世界で一番高いビルに登ってもたぶん、表面張力みたいなもので人とつながるんだ。 52
静けさが唯一ひとをまともに見せるなら、夕日の時間がずっとずっと続いてほしい。 65
冷凍庫から取り出した水は、体の奥から溶ける真夏みたいに透明へとかわる。 82
3. アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポエジア―刻印された時間』 鴻英良訳 キネマ旬報社
何気なく図書館で借りたら座右の書としたくなるクラスの名著で、けれど絶版でAmazon中古本では13000円と手が届かない。ので、できるかぎり引用を残しておこう。という流れで後日あらためて時間をとり、項目別立てにて本書を扱う。 不遜極まりないことを言うようだけれどお前は俺かと、こんなところに刻印されてた感。
最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう、実際人類は芸術的イメージ以外にはなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである。 358
『映像のポイジア』読書メモ「ストーカーのリアル」(2018年7月1日筆):
http://tokinoma.pne.jp/diary/2910
4. パルバティ・バウル 『大いなる魂のうた インド 遊行の吟遊詩人 バウルの世界』 佐藤友美訳 「バウルの響き」実行委員会
沈め、沈め わが魂
形あるものの海原に
潜れ、潜れ 光の届かぬ根の国へ
そこには無条件の愛という
宝があるはずだから
探せ、探せ わが魂
聖なるヴリンダーヴァナを、心の中に
点せ、点せ 内なる真実の灯り
大いなる魂の火は静かに、
絶え間なく燃える
誰が、荒れ地で舟を漕ぐだろう
聴け、聴け! クビールは歌う
師の道筋に想いを馳せろ
――クビール・チャンド・ゴシャイ 96
わたしが子供の頃、母がある美しいお話をしてくれました。わたしが「お母さん、どうして同じ踊りを何度も何度も繰り返さないといけないの? いつになったら完璧になる?」と尋ねた時のことです。わたしは疲労と退屈さから泣き出していました。その時、母は言いました。「石が滑らかに窪むまでね」 107
氏族でもカーストでもない、ベンガル地方になお息づく、歌う集団バウル。
川内有緒『バウルを探して 地球の片隅に伝わる歌の秘密』tweet(よみめも26):
https://twitter.com/pherim/status/749853530458976256
以前バウルについて書かれた本は読んでいた(↑)が、バウル本人が書くものを今回初めて読んだ。予想以上の深度、受けた衝動の大きさに驚いている。川内の著書では、恐らく著者の資質によるのだろうがバウルの宗教的側面がごっそり抜け落ちていたことを知る。吟遊詩人的パフォーマンスは、あくまで遊行僧、行者として生きられるべき全体性の一環でしかない。そのことを思い知らされ、深く感銘を受ける読書体験。
全ての古い伝統で、毎日の実践が強く勧められています。これが日々の生き甲斐になり、完全な献身こそが毎日の歓び、そして真理となるのです。結局のところ、辿り着くべき目的地などありません。わたしたちは皆、既にそこに辿り着いているのですから。今この時代に、古くからの智慧を実践するには、忍耐強い態度を持ち「成功したい」という欲から離れなければなりません。 108
8世紀の仏教僧カンバラーンバル・パドは、詩の中で「道そのものが愛するあの方で、旅路それ自体が目的地なのだから、目指すべき場所など無い」と歌っています。いにしえから伝わるバウルの修行は、人生の全ての瞬間を祝福し、大切にするにはどうしたらよいかを教えてくれます。執着せず、共感と純粋な歓びに溢れ、全くの神的な状態で一瞬一瞬を生きることです。達成すべきことなど何も無く、「今、ここにある」だけです。 106
本当の「記録」は、人の身体の中で起こります。古くからの智慧は、日々の実践とその維持を通じて保存されていきます。智慧はそのようにして守られていくのです。デジタル・ライブラリーでアーカイブするだけでは、情報は全て残るかもしれませんが、この身体を通して日々どのように智識を実践していくのかの方策が失われてしまいます。だからグルクルのような、智慧を保存し人間の身体と智識に入力していく場所が重要なのです。 109
姐御衆より拝借の一冊、多謝。
5. 飯山陽 『イスラム教の論理』 新潮新書
予想外の説得性。コーランに則るかぎり、ISやアルカイダなどイスラム過激派指導者たちの発言のほうが、欧米型民主主義のフレームとも協調的に振る舞うイスラム穏健派知識人らの言明よりずっと筋が良いことを、幾多の事例とともに検証。価値転倒的な納得感に満ちた一冊。
ダッカ人質テロ事件での「I'm a Japanese!」という主張の逆効果や、レイプ犯が被害者と結婚すれば免罪される論理回路の開陳など諸々説得的。職場のセクハラ防止には「女性が同僚男性に自身の母乳を五口飲ませればよい」とイスラム法最高学府の教授が回答したことの、至極マジメな啓典上の根拠とか。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日追記 ]
6. 内田樹 『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』 文春文庫
要はラカン~ジジェクの映画本を日本文脈に翻案し字幅を稼ぎましたよという内容で、「街場の~」以降のいかにも市場におもねり系なこの人ならではというお話に終始していた。この人、というかこの世代の翁たちに特有の《武骨を気取る日和見鶏》な性向はしかし個人に責があるものとも最早思えず、そこを割り引いて読めば内田樹本はたぶん罪なく良心的なガイドとして役に立つ。
『大脱走』とヒッチコックにおける視線の問題をめぐる読みは面白かったけど、『エイリアン』の分析はむやみに品がなく、『ゴースト・バスターズ』に至っては単純でありがちな心理学分析をなぜこうも賢しげに書かねばならなかったのか、のほうが気になった。など当人には恐らく記憶すらない枝葉に場末で下らんケチをつけられるのもベストセラー物書きの宿痾かなとか。
7. 水谷竹秀 『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』 集英社
「話になる」極振り系ばかりを集めた感があるにしろ、登場人物群とほぼ同じ世代かつ非正規労働バンコク在住者の一人として大変面白く読めた。フィリピンにおける「困窮邦人」を扱った著作で開高健ノンフィクション賞を獲った著者によるバンコク版の対象がコールセンター特化となったあたりは、より着眼点が先鋭化した結果なのか。にしてもあれだ、インタビュイーの言葉には共通して浮き草のような印象を覚える。
将来計画などないからここに辿り着いたのはいいとして、バンコクで同じ暮らしをこれからも続けたい系の言明が目立つことは何というかあまりにも。経済環境自体が水の如しであと5年もてば御の字な状況でそれが言えるということは、つまりはそういうことなわけでして。
8. ジョナサン・エイムズ 『ビューティフル・デイ』 唐木田みゆき訳 ハヤカワ文庫NV
この家は自分の神経の延長上にあり、皮膚も同然だ。生まれてから十三年間、父のわずかな動きも聞き漏らさず、不穏な音を感じたらいつでも逃げ隠れできるように神経を研ぎ澄ませてきた。父が冷蔵庫を閉める音や階段をあがる足音で悪いことが起こるかどうか、早く隠れれば殴られずにすむかどうかを判断した。つねにいくつかの隠れ場所を用意しておき、見つからないように場所を転々と変えた。
しかし悪いことに、うまく隠れたときにはたいてい母がつぎの標的になった。何度も洗濯機の底やクローゼットの棚に息を殺して隠れ、感覚がなくなるほど手足を縮めながら母が泣き叫ぶのを聞き、あまりにも身勝手だが、自分でなくてよかったと思った。もっと成長して九歳ぐらいになったとき、この身勝手を、この罪を、神はけっして許さないとジョーは悟った。 70-1
「壊れているのは世界なのか」 映画『ビューティフル・デイ』を巡る試写メモ:
http://tokinoma.pne.jp/diary/2878
ヴォットは何年かぶりに教会へ行って床にひざまずき、救済と導きを求めて祈った。そこは古いカトリック教会で、床には石畳が敷かれ、百年前の信徒席はかつてオールバニを栄えさせた材木で作られている。
自制心を失ったヴォットは、しばらくのあいだ目の前の信徒席の下を這いまわった。朝の早い時間で教会にはだれもいない。涙を流すうちに石畳でひきつけを起こし、体がのたうった。手足をばたつかせるだけでどこにも進めない子供のようだった。
それが頂点に達したとき、キリストがヴォットに言った。“あなたを許す。わたしはいかなるものも許すことができる”そして、ヴォットは深い安らぎを感じた。しかし、つぎに神が話しかけて物事を正しく直せと命じ、そのとたんヴォットは悟った。キリストは人を許すが、神は法だ。 92-3
9. 鈴木元彦 『東京の名教会さんぽ』 エクスナレッジ
この種のタイトルから想像される、ありがちな《オシャレで素敵な教会ガイド》とは一線を画す、建築ファン需要にも応える内容。というのも著者が多摩美博士を売りにしている牧師跡取りで、1級建築士を目指してもいるらしく、いきおい記述がしばしばむやみな専門化を遂げる。そこにぷち萌える。タイトルや謎イラストの醸すイージーさとのギャップが各所で伐り立つこのウェイヴ、なごめる。
キリスト新聞社よりご提供の一冊、感謝。
10. にしもとみさこ著 かみつかさえいしょう画 『ちゃあちゃんと世界平和記念聖堂』 らくだ出版
広島カトリック幟町教会の世界平和記念聖堂建設にまつわる、ある少女の物語。著者西本美紗子の父親が聖堂建設の現場主任であったことを起点とする半自伝的物語で、僧侶である上司永照による絵もついた童話の体裁をとる。
原爆直後の荒野から、聖堂竣工の1954年へ至る広島市中の描写を子供視点で伝える記録性の点でも価値ある一著。「川向う」の朝鮮人部落の人々に助けられ、太田川の橋のない場所を渡り出初式に出席する場面、宇治平等院に取材した鳳凰像のモデルとした軍鶏を父親が逃がした挿話など印象深い。
広島・世界平和記念聖堂をめぐる建築tweets by pherim:
https://twitter.com/pherim/status/793028645694545920
▽コミック・絵本
α. 沖田×華 『ニトロちゃん みんなと違う、発達障害の私』 光文社知恵の森文庫文庫
せつない。理不尽。悪徳教師ありえん。
『毎日やらかしてます。アスペルガーで、漫画家で』という作品も売れているらしい著者の幼少時、おもに小中学校での苦闘を扱った自伝的漫画。周囲の無理解により各方面でつらさを強いられる描写に強度の切なさを感じるのは要するに「共感」しているからなのだけど、そういう支持をこの作品がもし広範に集めるのなら、それはどうみても正されるべき公教育の不備ということになる。
まあでもかつてこのレベルの悪徳教師は各学校にごまんといたろうな、とも思わせる。身に覚えありまくる。つか成人してから小学校高学年時の暴力教師とすれ違ったときは、一瞬殴り倒したい衝動に駆られたもんな。漂わせてる空気があまりに貧相なので瞬時に萎えたけど。など思い起こされもし。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日追記 ]
β. 森田るい 『我らコンタクティ』 講談社
冴えない中小企業でのセクハラ・パワハラに爆発寸前の主人公OLが、町工場で働くボサッとした幼馴染が密かに温めるロケット計画に心の活路を見いだす話。こう書くと下町ロケットのラブコメ版のようでもあるけれど、実際には恋愛要素などにかまける隙もなく物語は一気呵成に発射を目指して心地よい。そう、冒頭のOLストレス描写がいかにもありふれていて感情移入を誘いやすいのとは対照的な、この“ありそうもない”展開ながらスカッとする心地よさこそ本作の白眉だし、ブレなく物語の本道だけを突っ走る、疾走し切って打ち上がった花火を描いて終幕する爽快さは大好きだ。
Realkyoto's review: http://realkyoto.jp/blog/wareracontacte/
おまけとして↑。ある時期同じ研究室で少し世話になったひとのレビュー。こんなん書くんだなあと。
γ. 冨樫義博 『HUNTER×HUNTER』 35 集英社
この倒錯的享楽は何だろう。たとえば第364話では、一時的に主人公となるクラピカのいる部屋へ同時にかかってきた三本の電話のどれに出るかがこのエピソードの中心課題となる。撹乱要素として部屋の外には電話主の一人から派遣された警護兵が来てドアベルを鳴らす。付帯事項として言えば、三人の電話主も部屋主も同じ王の子たちで継承を争うさなかであり、各部屋の警護兵たちは各々主従関係が錯綜しており、敵対関係はつねに変動し逆転し得る。無論、選択された電話の内容により状況は変化し新たな挿話へと移行する。あたかもカードゲームで相手の顔を見ながらどの札を切るかポーカーフェイスで考えるプレイヤーたちの思考を同時並行的に漁るような描写が、表彰的にはアクションを含めた群像劇へと転写され延々つづく。この享楽。唯一無二ね。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ 後日追記 ]
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
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コメント
06月17日
16:30
1: biniyaminit
そういえば飯山陽さんはバンコク在住と、ニコ生の国際政治チャンネル登場時におっしゃっていたような。潜在する暴力性を過度に漂白するという西洋近代社会の対話における「お約束」のツケは、いつか私たちの上にめぐってくるのだとつくづく思います。
06月18日
16:35
2: pherim㌠
にゃ~んと。イスラム研究の俊英がバンコクなんぞでなにしてはるん。ともあれ目一杯弓引いてズガンと射抜くのが対ナチでも対セルビアでも常套のやり口だったし、なんかそういう極振り揺り戻しを互いに繰り返していく姿はアツいというか、繰り返さざるを得ないんだな誰にも止められないんだなみたいな諦念を覚えたりもします。覚えてどうする。とまれ二項対立的思考の陥穽に自分も嵌ってるのですねぇとか。