・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
今回より、ツイートした場合のみタイトル下へ当該URLを付記することにしました。
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌の部分読みや資料目的など一部のみに目を通すものは基本省いてます。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
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1. 古川日出男 宮沢賢治 『春の先の春へ 震災への鎮魂歌 宮沢賢治「春の修羅」をよむ』 左右社
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかった
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとってきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつばいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした 23
叩きつける。吐き捨てる。
わたくしの汽車は北へ走ってるるはづなのに
ここではみなみへかけてゐる
焼杭の柵はあちこち倒れ
はるかに黄いろの地平線 それはビーアの澱をよどませ
あやしいよるの 陽炎と
さびしい心意の明滅にまぎれ
水いろ川の水いろ駅
(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
汽車の逆行は希求の同時な相反性 17
「永別の朝」「無声慟哭」「報告」「青森挽歌」「春と修羅」の5篇を、古川日出男の朗読CD付きで収録。いや「CD付き」ではなく、声こそが本作の本体。他に古川のあとがき、参加者・小池昌代の覚えがき、企画者・管啓次郎の後記。
それともおれたちの声を聴かないのち
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひこれらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になって立ち
立ってゐるともよろめいてるるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
(わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
いったいほんたうのことだらうか
わたくしといふものがこんなものをみることが
いったいありうることだらうか
そしてほんたうにみてゐるのだ)と
斯ういってひとりなげくかもしれない……
わたくしのこんなさびしい考は
みんなよるのためにできるのだ
夜があけて海岸へかかるなら
そして波がきらきら光るなら
なにもかもみんないいかもしれない 30-1
古川日出男の朗読、初めに聴いたのは、Ustream時代のDommuneだったのでは。こういう記憶は知らないうち曖昧になっていく。以降、生で聴く/観る機会も幾度かあった。しかしスタジオ収録物は、そのいずれともやはり微妙に異なる。場の圧力は消える代わりに、より技巧的で精度が高い。(とはいえけっこう決定的な読み違えもあり。残した点は、らしいといえばらしい)
最後に、『永訣の朝』。この詩を僕は読めるとも思わず、読む「資格」があるとも思わず、しかし、たしかに読めました。声は出ました。僕に言えることはこういうことだけです、僕は感情を息にできた。祈りを、息に変えられた。こういうことなのだと思います。
もう一度、宮沢賢治の姿勢について。この人は、答えるよりも問います。その問いが、その問い自体がじきに願い、じきに誓います。僕はこの姿勢を称えます。そして、学びます。 45 (古川日出男)
宮澤賢治は、わたしにとっては難解詩人です。よくわからないところがある。しかし彼の声によって、活字のときには、はねつけられた言葉が、身体にだいぶ入ってきました。とりわけ長編詩「青森挽歌」には、声が言葉の意味を決めていくと思えるところがありました。わたしは今まで、言葉を先に見ていたからわからないのだ、声が先頭に立って言葉がついていく、そう思うと、今まで遮断されていた、賢治への道が見えてきました。
朗読というのは面白いものです。賢治の声、古川日出男 の声に、もうひとつ、外側には聞こえていない自分の声も、実は密かに載せて聴くことになる。古川日出男の声一つ聴きながら、実はすでにその時点で、わたしは複数の声を、無意識に調整しながら聴いていたのではないか。 50-1 (小池昌代)
収録を密室の作業にしたくなかったので、ぼくはごく少数の若い友人たちをかりそめの「聴衆」として招き、ブース内に同席してもらった。古川にはその分、緊張を強いることになる。だがその分、場ができ、空気が熱をおびる。これは成功だった。理解のある他者の耳を得て、理想的なテンションをもって、収録が進んだ。そこには、吉増剛造語に倣っていえば何かが「音連れ」た。それで日出男の声 はすでに日出男だけのものではなくなり、賢治の言葉は賢治だけのものではなくなった。ぼくら全員が、録音技師さんも含めて、そのときその場で心の気象が変わる思いをした。何かの前線が通過した。歌舞伎町も福島も、宮城も岩手も青森もない。われわれは地続きであり、心と心は地続きた。東北は遠い。でも賢治の声と日出男の言葉に乗ってれわれはそこへの歩みを何度でも開始する。 58-9 (管啓次郎)
古川日出男の小説は、この朗読の調子を知っているか否かで、読み味が大きく変わらざるを得ない。もとより身体化されている言葉を、身体感覚から読みとる階梯の有無。『アラビアの夜の種族』とか『聖家族』とか、いま読んだらきっとかなり違う。
報告
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります
2. エマニュエル・カント 『純粋理性批判 〈7〉』 中山元訳 光文社古典新訳文庫
純粋理性の唯一の闘いの場は、純粋神学と純粋心理学の領域に求められるべきである。しかしこの闘いの場には、武器をもって完全に武装した恐るべき闘士が登場することはない。闘士はここには嘲笑と大言壮語を武器として登場するだけであって、まるで子供の争いだと、笑いを集めることしかできないのである。これはたしかに理性にとって慰めになることであり、理性はこれで勇気を取り戻すことだろう。理性だけが、すべての 錯誤を除去するという使命をおびているというのに、みずから混乱に陥っていて、平和も、平穏な所有も享受できないとしたら、いったい理性は何に頼ることができるのだろうか。 864/73
だから純粋理性の対立論なるものは、そもそも存在しないのである。
(以下、引用文中の太字修飾は筆者による)
たしかに彼らはしっかりと闘っている。しかし彼らが倒す影は、まるでヴァルハラの英雄たちのように、倒れたかとおもうとその瞬間に集まってふたたび立ち上がり、ふたたび血を流さない闘いを挑んできて、楽しむのである。 879/95
ゾンビはゾンビであり傀儡は傀儡で、拠って立つ根拠が侵されることはない。こうして理性は勇気を取り戻す。
おぅ。
論争相手の[議論を構築する]建物を破壊する一撃によって、若者がそれまでみずから所有していた思索に基づく建物もまた破壊されざるをえないのはたしかである(もしも若者がそのような建物を建造することを考えていたとしたならばである)。 しかし若者はこれに煩わされる必要はない。こうした建物のうちに住む必要はまったくないからである。今や若者の目の前には、実践的な活動の場の展望が開けているのであり、この場において理性的で健全な体系を構築するための確固とした土台をみいだせることを、十分な根拠をもって期待できるのである。 878/94
中山訳第1巻のメモで、「文学として読めばけっこうイケる」ということを言ったけど、実際そう読まないと今回もどこかで挫折していた気はとてもする。つまりそれは、「哲学書として読む」の中身が間違っていたという意味にもおそらくなる。過去の〈はじまり〉は未来の〈はじまり〉にほかならない。嵐との恍惚的な愛の舞踊の最中であろうが、世界のはるか上空での孤独な瞑想の旋回であろうが。
想像力がたんに夢想するだけではなく、理性の厳しい監視のもとで虚構を作りだすときには、作りだした〈虚構〉がたんなる〈仮構〉でも〈臆見〉でもなく、何らかの完全に確実なものであるためには、対象そのものが可能であることを確認しておかなければならない。これが確実であるならば、それは現実のものであるのだから、〈臆見〉に援助を求めることは許される。ただし臆見が根拠をもつためには、現実に与えられている確実な説明根拠と結びついていなければならない。このような結びつきがあるとき、臆見は仮説と呼ばれるのである。 895/118
自分たちの社会システムの人工性、仮説性。その内なる「正義」に依って立つ存在であるという、そのことを露わにする。
「お前なしで俺に何ができるだろう。お前が俺を完成させるのだ。」
すなわちすべての生はほんらいの意味では叡智的なものであって、時間の変動にはまったく影響されないのであり、出生によって始まるものでも、死によって終わるものでもないと主張できる。この世での生というものはたんなる現象にすぎず、純粋に精神的な生を感性的に思い浮かべただけのものにすぎない。感性界のすべては、わたしたちの現在の認識方法に現れた〈像〉にすぎず、この〈像〉は夢と同じように、それ自体としてはいかなる客観的な実在性をそなえたものでもない。そしてわたしたちが事物と自分自身をそれがあるがままに直観することができるのであれば、わたしたちは自分を精神的な本性をもつ者たちの世界に住む者とみなし、このような世界との間で、わたしたちは唯一で真実の相互的な関係を結ぶのである。この関係は出生によって始まったものではないし、たんなる現象としての肉体の死によって終わるものでもない、と主張することができる。 905/134
対象そのものが可能であること。精神的な生を感性的に思い浮かべただけのもの。唯一で真実の相互的な関係を結ぶこと。この視覚野が再構成してお前の世界はこうだと知らせるいつからか、それらの生起退行し連環する音の連なりを聴いている。現象としての、肉体の死。
このような注意深さが欠けていると、この証明はあたかも岸を乗り越えてしまった川の水のように、荒々しく野原を横切り、その内部に隠されていた連想の[自然な]〈傾向〉におし流されて、気の向くままに奔放に流れ去ってしまうことになるだろう。この証明は、連想という主観的な原因の力で、自然に生まれた親和性によるものとみなされるものであり、その正しさを確信しているという見掛けを装っているだけである。このような大胆な証明の進め方には、疑念が生まれるのは避けられないことであり、こうした疑念を防ぐことはできない。
だからすべての識者が認めているように、[ライプニッツの]充足理由律を証明しようとする試みは、いずれも失敗に終わらざるをえなかった。そして超越論的な批判が登場するまでは、この原則を捨て去ることもできなかったので、新たに独断論的な証明を試みるよりは、健全な常識にあくまでも依拠しているほうが望ましいと考えられ たのだった。理性によって問題を解決することに絶望すると、つねに利用される避難場所が、この常識というものなのである。 908/139-140
離脱と帰還。
ところで「伝統的に自由は、選択意志の自由として考えられてきたが]この選択意志はたんなる動物的な選択意志(アルビトリウム・ブルトゥム)であり、感性的な衝動にすぎず、感受的に(パトローギッシュ)規定されるものにすぎない。しかし感性的な衝動とは独立して、理性だけが指示する動因によって規定することができる選択意志は、自由な選択意志(アルビトリウム・リベルム)と呼ぶことができる。そしてこの自由な選択意志にかかわるすべてのことは、その根拠と帰結の両方を含めて、実践的と呼ばれるのである。
この実践的な自由は、経験によって示すことができる。人間の選択意志を規定するのは、感覚能力を直接に触発するもの、すなわち[心を]刺激するものだけではない。 わたしたちにはある能力があって、この能力によって、[直接に利害関係のない]疎遠なものについても、それが有益なものであるか、有害なものであるかを思い浮かべることができる。そしてそのことによってわたしたちの感性的な欲求能力に与えられた印象を克服することができる。わたしたちはこのような方法で、自分のすべての状態について、それが欲求する価値があるものかどうか、すなわち好ましく、有益なものであるかどうかを熟慮するのであるが、これは理性の仕事なのである。理性はわたしたちに法則を与えるのであるが、これは命令であって、自由の客観的な法則であり、それはおそらく実際には起こらないかもしれないとしても、何が起こるべきであるかをわたしたちに告げるのである。これが自由の法則と、何が起こるかだけを考察する自然の法則の違いである。だから自由の法則は実践的な法則とも呼ばれるのである。 929/171-2
スピノザが教えるように、私達を陶酔させ有頂天にさせる“悲しき情念”を切り捨てて考えるときにのみ、自由は獲得され得る。自己と世界の凍結されたイメージの前で、反射的かつ反復的な行動習慣に翻弄される人間存在にとって依存症は、むしろ正常な状態であることを示している。(Mark Fisher)
実践的な自由というものは、わたしたちが経験によって認識するものであるが、この実践的な自由とは、わたしたちが自然の原因からは自由に行動することであり、理性が意志を規定する原因性となることである。()だから純粋理性の基準については「意志の自由の問題は除外することができるのであり、わたしたちは次の二つの問題を検討すればよいのである。これらの二つの問題は純粋な理性の実践的な関心にかかわるものであり、これに基づいて理性の使用のための基準が可能でなければならないのである。すなわち、「第三の命題である]神は存在するかという問いと、[第二の命題である]来世は存在するかという問いである。()
()
理性のすべての関心は(すなわち思索に基づく関心と実践的な関心は)、つぎの三つの問いに集約される。
一 わたしは何を知ることができるか
二 わたしは何をなすべきか
三 わたしは何を望むことができるか
930-2/173-5
意思は血を吐くのだろうか。
第三の問い、すなわち〈わたしがなすべきことをなせば、何を望むことができるか〉という問いは、実践的であると同時に理論的なものである。実践的なものは、理論的な問いに答える際の導きの糸となるものであり、理論的な問いが高次の段階に到達した場合には、思索に基づく問いへと導く。というのは人間のすべての望みは、幸福を目指すからである。そして希望が実践的なものや道徳的な法則とのあいだで結ぶ関係は、事物の理論的な認識において、知識が自然の法則とのあいだで結ぶ関係と同じものである。希望が究極的に到達する結論は、あるものが生起すべきだからこそ、あるものが存在する(これは可能的な究極目的を規定する)ということである。これにたいして知識が究極的に到達する結論は、あるものが生起するからこそ、あるものは存在する(至高の原因が結果をもたらす)ということである。 935/177-8
風の音。風が草はらをなでる音。風が砂を転がす音。転がり込むかすかな砂の渇いた味。草はらのささやく言葉たち。遠くにだれか、獣の声。目には見えない。虚焦点は錯覚の産物だが、この錯覚に敢えて乗ることから“意味”は生じる。ただ気配だけがそこにある。息をひそめて、こちらを見つめ返している。
幸福とは、わたしたちのうちに自然の傾きとして存在しているすべての〈心の傾き〉[=傾向性]を満足させることである。人間の心の傾きは多様なものであるから、外延的に満足させられるし、また強度をもつものであるから、内包的に満足させられるのであり、さらに持続するものであるから、長く伸びて満足させられる。わたしは幸福になろうという願いを動因とする実践的な法則を、実用的な法則(処世智の規則)と名づける。いっぽうで幸福になるに値する存在になろうとする願いを動因とする実践的な法則を、道徳的な法則(道徳の法則)と名づける。
第一の[実用的な]法則は、わたしたちが幸福になることを望むならば、何をなすべきかを勧告する。第二の「道徳的な]法則は、幸福になるに値する存在になるためには、どのようにふるまわねばならないかを命令する。()
第二の「道徳的な]法則は、〈心の傾き〉も、心の傾きを満たす自然の手段も無視 するものであり、理性的な存在者一般の自由だけを考察し、自由でありながら、原理にしたがって幸福を実現することのできる必然的な条件を考察する。この第二の法則は、少なくとも純粋理性のたんなる理念に依拠するものであるから、アプリオリに認識することができる。 936/178-9
ざらつく錆の感覚に輪郭づけられ、この感覚というのは匂いだすなわち嗅覚なのだと脳のどこかで為される判断が人ごとのように傍観され、かろうじて保たれた意識の鍾乳洞へ、奔流となった液体が注ぎ込んでくる。熱い濁流が踊り狂う洞窟は即座に合流し、鉄の味がのど奥から口蓋へ逆流する。分岐して食道へ流れ堕ちる。胃が流れを受けとめ収縮する。横隔膜が収縮に引きずられ急激に膨れた肺が気道を鳴らす。顎骨と鼓膜を経て振動が音信号へ置換されゆく、のを感覚する。
だから神が存在しないならば、そしていまはまだ不可視であってもやがて訪れることを望んでいる世界[来世」が存在しないのであれば、道徳性のすばらしい理念は、 たしかに賛同と賛嘆の対象となるとしても、[道徳的な]行為を企て、実行するための原動力となることはない。というのはすべての理性的な存在者は、自然にある目的 を心にいだくものであり、この目的は純粋な理性によってアプリオリに規定され、必然的なものとなるのであるが、こうした理念だけではこの目的を完全に実現するには、不十分だからである。
()実践的な理念においては、[幸福であるに値する存在となって幸福になろうと願うことと、実際に幸福になることという]この二つの要素は本質的に結びついている。だから道徳的な心構えをそなえていることが条件となってこそ、幸福になりうる。幸福になれるという見込みによって、道徳的な心構えが可能となるのではないのである。もしも幸福への期待が道徳的な心構えを可能にするのであれば、この心構えは道徳的なものではなくなり、完全な幸福に値するものではなくなる。 947-8/190-1
“どうにもカント三批判書を読み終えてからでなければ、この自分の思考は始まらないのかも”という恐れ、について第3巻のメモでは言っていて、それは十代の頃に始まるとも書いていて、そういえばそんな気もするけれど、いまやどうでもよく感じられるから驚きである。幸福とか言い出したらそらそうやねとしかならないけれど、そういう直観の及ぶ範囲だけで成り立たない世界があるから世界は豊かなのでもあって、そうでなければ大変窮屈ではないか。窮屈かもしれないけど幸福じゃん。そらそうやね。
でもとりあえず勃起はしないし。濡れもしない。しらんけど。
自然認識が拡張され、さらにそれまでのすべての時代において欠けていた、適切で正しい超越論的な洞察がもたらされることがなくても、理性は神的な存在者の概念を作りあげたのだった。現在ではわたしたちはこうした神的な存在者の概念を正しいものとみなしているが、それは思索に基づく理性がその正しさを納得させるからではなく、この概念が道徳的な 理性の原理と完全に一致するからである。
このように結局のところは純粋理性の働きによって、しかも実践的な理性の働きだけによって、たんなる思索では妄想するだけで妥当なものにはできなかった[神についての]認識を、わたしたちの最高の関心事と結びつけることができたのである。この認識は証明されたドグマではないとしても、純粋理性のもっとも本質的な目的のための必然的な前提となったのである。 953/198-9
存在しないものをあるのだというときに、何の躊躇も感じないのが良いことなのか、どうなのか。信をおく直観も磨き抜いた技術も振る舞うあて先しだいでは、単なる愚かさ浅薄さの表明にしかならない。「傷」はあくまでメタファーだ。実体をもたないから「傷だらけだ」と気づいた瞬間に、心は傷だらけにもなれる。
わたしたちが自由について考察する際には、理性の原理にしたがって、目的に適った統一という観点から考察するのであり、[神の命令のもとではなく、この自由のもとで] 理性がさまざまな行動そのものの本性に基づいて、道徳的な法則をわたしたちに教えてくれるのである。そしてわたしたちはこの道徳的な法則を聖なるものとみなすことによって、神の意志に適っていると信じるのであり、わたしたちがみずから、そして他者とともに世界の善を促進することによって、神の意志に奉仕していると考えるのである。
だから道徳神学は、この世でのわたしたちの使命を実現するという目的だけで、〈内在的に〉使用することができるのである。そのことでわたしたちはすべての目的の体系のうちで、目的にふさわしい存在となるのであり、善き生活をすごすうちに、道徳的な法則を定める理性の示す導きの糸にしたがうのである。だからこうした導きの糸を、狂信的に、あるいは冒潰的に[理性から切り離して」放棄して、これを[神という]最高の存在者の理念に直接に結びつけたりしてはならない。これは[道徳神学の]〈超越的な〉使用であって、たんなる思索の超越的な使用と同じように、理性の最終的な目的を転倒させ、挫折させることになるのである。 954/200-1
表層上の論理が逆転することで芯の部分が貫徹されるようなこの書き口はジワジワくるし、昔は逐一全実存をかけ咀嚼しようと構えていたから先に進まず体力切れを迎えていたのだなとひしひしわかる(昔のメモより)。とはいえ全実存とかいったってなそんなもん、本人がありがたがったり必死がったり天狗になったりしてるほど大したもんでも実際なかった。てかびっくりするくらいどうでもよすぎてわろてまう。此岸と彼岸。世界にとってどうでもいいのに誰かにとってはそうでないとかね、真剣ガチ本気の水準で個に留まれたらそれこそ神だ、ほんとうに。此処を離れたならば、岸のない大洋へ漕ぎだすことになる。
自分の考えにきわめて強い自信をもっていて、扱いにくいほどに頑固に主張し、自分が間違っているのではないかという疑念をまったくもちあわせていな いようにみえる人がいるものである。しかしこのような人に、「自分の主張の正しさにいくらのお金を」賭けるかと尋ねてみると、急にまごまごするものである。
その人の思い込みの正しさは、金貨一枚分の価値はあるが、一〇枚の価値はないとしよう。するとその人は自分の思い込みに一枚の金貨は賭けようとするだろうが、一○枚を賭けるかどうかとなると、急にそれまで考えてもいなかったこと、自分は間違っていたかもしれないということに気づくのである。
同じようにわたしたちが自分の主張することに、自分の生活のすべての幸福を賭けるという場合を思い描いてみよう。するとそれまでの勝ち誇っていたような判断も急に縮こまり、まったく臆病になって、ようやく自分の信念というものを、[すなわち幸福のすべてを賭けるほどの]ものではないことを発見するものである。だからこの実用的な信念には、ある〈温度〉があって、そこで働いている関心の大きさに応じて、高くなったり低くなったりするものなのである。 965/211-2
理性からの、信仰の、要請。
最終巻にきて、急な転回にも感じるこの“神”感は、しかし20年以上前に初めてキルケゴールを読み通した夏の午後にも似てじっとりむかつく。以下引用は訳者・中山元博士による解説部より。 ともあれ急にまごまごする頑固な人かわゆす。
これは「選択意志が、感性的な衝動によって生まれる強制から独立している」(623、同)こと によって可能となる。実践的な自由は、人間が自分の欲望を否定してでも、「べきである」という命令にしたがって行動する自由を意味するのである。実践的な理性は人間の意志が自由であることを前提として、人間になすべきことを命令するのである。
()
この経験的な実用的な法則とは異なり、純粋に実践的な法則の目的は理性によって 完全にアプリオリに規定されている。実用的な法則は、人間がこれまでの経験に基づいて、自分が幸福となるために最善の道を選択するものであり、経験的に条件づけられている。これにかんしては経験という内容にかかわらない基準は存在しえない。しかし純粋な理性の産物である道徳的な法則であれば、それが「純粋理性の実践的な使用にかかわるもの」(926)であるために、「基準をもつことができる」(同)のである。 318-9
ある閉じられた、ひとつの円環。このサーキットの内側で。おそらくあなたもそうであるように。あまたの街の生み出す雷音、無量の光線、視界をさえぎる無数の事象。ただ忘れるにまかせようという、これも弱さのあらわれなのか。
中空にさらした半身のさきの、手のひらの。
カントは最高善という概念を理論的に根拠づけることには失敗した。幸福になることと幸福になるに値することが一致することを、理論的には証明できない。現実はその反対のことを示しているからである。そのためにカントは最高善をある種の要請として示すしかなかったのである。 343-4
眼に映る壁や地面の黄土や砂礫が、深く藍に染まりだしている。渇いた風がつめたく頬をさらってゆく。からだを起こそうと試みる。視界の端で風に吹かれて瓦礫の下の砂や枯葉が浮きあがり、小さく渦を巻いている。
3. 高須正和 高口康太 編著 『プロトタイプシティ 深圳と世界的イノベーション』 KADOKAWA
https://twitter.com/pherim/status/1501840652791066624
どちらもいろんな意味で衝撃だった1997年と2016年の深圳滞在。なかでもこの20年のあいだに起きた変化が、変化という言葉の臨界へ挑むレベルで凄まじい、信じがたい急変貌を遂げていたことの衝撃の腑分けを本書は初めてしてくれた感。適当に読み流すつもりだったのにそこそこ熟読してしまった。
頭でっかちな計画を立てるよりも、手を動かす中で正解を探していくプロトタイプ駆動。そのプロトタイプ駆動をより効率的に行うために必要なコミュニティが、新興国など新たな都市に芽生えている。プロトタイプ駆動とその実践の場、すなわちプロトタイプシティの時代が始まっている。 251
IT起業家への投資にもはや慎重な審査など不合理で、圧倒的な数へ圧倒的な額をバラ撒くほうが、砂中の玉を効率よく拾えるという冒頭に描かれる実践など、まさに深圳だからこそ始められたものと納得できる。日本だと恐らくこれに近いのは、バブル崩壊後に利息を限界まで上げた消費者金融が「無審査即融資」を実践するなんて方向で、言うまでもなく生産性向上にはつながらないし実際BANされ銀行へ吸収されて終了した。この違いはもう止められないし、深圳でいきいきと活躍してる日本人執筆陣らが書かずして日本社会の構造的終了を示しているとも言える。
深圳は、いわば製造業の蠱毒を行うことでレベルアップしてきたのではないか。 159
“遅い”特許制度の代替装置が深圳雑居ビルの混沌から自然発生するように登場し、実質無料コピー可でもトータルで“速く”生まれる利益につながるから開発者も状況を受け入れる。それでもナチュラル・ボーン・深圳みたいなインフルエンサー兼メーカーCEO的スーパーガールにしてみれば、「中国は決定過程が遅い!」と不満を洩らすのだから笑える。超高層ビルのなかにふつうに工場があるサイバーパンクな魔都という2016年滞在の印象は、すこしも的外れでないどころか印象以上に物凄い事態が進行している都市なんだなと。
季刊誌Ministry《特集「となりの国のキリスト教★香港/中国編」》30号
http://www.kirishin.com/book/8762/
深圳滞在見聞録寄稿↑。1997年のそれとはガチ異世界だったけど、現在が凄いというのもあるけど、1997年は別の意味で凄かった。空虚すぎる摩天楼とか、日本人学生より数段個人化された香港人に対する、同じ広東語を話すにも関わらず統制され馴致され抑制された(ようにみえる)深圳側学生の物腰とか。
てかね、話のレベル極度に落とすけど、日本語圏は「深圳」くらいとっとと打てるようにすればいいのに。横並び表記統一で「深セン」とか書き続けてるメディアとか、その単に馬鹿っぽいリジットさへ違和感さえ持てないほど感性老いてるんだよな。で、そういうとこに適応できちゃう若者だけが日本に残る。無理と感じる人間はなんとかして出ていこうとする。
ともあれ。“その先”としてなら、「深圳は深圳だけ、現状世界で他にない」が本書の見方だけれど、深圳以外にもいろんな場所が勃興しつつはあるのだろう。みたいなことを読後おもう。決して住みたいとは思わないけど、1ヶ月くらい滞在して色々見聞してみたい気はするな。そういう都市が中国には目下どんどこ増えてるけど。重慶とか重慶とか。
4. 劉慈欣 『三体 Ⅱ 黒暗森林 下』 大森望 立原透耶 上原かおり 泊功訳 早川書房
しだいに夜が明けるにつれ、星がひとつずつ消えはじめ、いくつもの眼がじょじょに閉じていくように見えた。そして、明るくなりはじめた東の空では、今度は巨大なひとつ眼がゆっくりと開き出した。蟻は葉文潔の墓碑を登りつづけ、彼女の名前がつくる迷宮の中を歩いていた。いま、この墓碑にもたれて立つ賭博師が現れる一億年も前からすでに、蟻の仲間たちは地球に暮らしていた。だから、この世界の一部は蟻のものでもあるはずだが、いま現在起きていることについて、蟻はベつだんなんの注意も払うことはなかった。 321
面白かった。とはいえ。三部作のうちこの第二作が最も世評が高いというのも、そのスケール感から理解はできるものの、第一作に比べ深部を揺るがす《異様さ》には欠けて映る。存在そのものへの衝撃、みたいなものが減じ、互いに同質のゲームへ移行してしまった感。そも「智子」による文明抑圧自体がこの移行を前提していたことが、読み終えてからようやくわかる。原子レベルでの圧倒的すぎる技術力格差がありながら、それに比べれば数千桁倍は単純にも思える脳支配ができない、シナプス&脳内物質統御はしないという設定の恣意性とか。
第三作を読めばはっきりするだろうけど、中国市場に牽引された実売部数をもってSF史上に輝く傑作とするのはどうも早計な気さえする。ウェルメイドな娯楽作としては超一級。でも『黒暗森林』に限っていえば、どうにもそこまでかなという印象。そこはしかし世評の低い押井守『イノセンス』やリドリー・スコット『プロメテウス』を大変好む人間なので、こうは書きつつも思い切り楽しんで読んだしグレード自体に不満はなく。奢る戦艦2千隻が水滴1機に殲滅させられる描写とか、映像喚起力がマジ凄まじい。
5. 伴名練 『なめらかな世界と、その敵』 早川書房
速度が、増していくにつれて。加速が、弾んでいくにつれて。ストロボの映像のように、夏と冬が切り替わる。隣にマコトが現れ、消失する。自分の身体が、熱を帯び始める。体に貼りつくような夏の大気と、切り裂くような冬の風を交互に浴びながら、あたしの身体はコーナーを曲がる。手袋を嵌めた指先がかじかんでいる。
イグサの匂いが鼻腔を打った。同時に、足袋を履いた左足が、畳を踏んだ。足裏に伝わるその感触は、スパイク越しの校庭のものよりも遙かに生々しい。グラウンドを区切るフェンスと、どこまでも続く畳の地平線が視界の果てでちらちらと切り替わる。道標のように所々に置かれた日本人形はどれも同じ顔で、かえって距離感を失わせかける。
直線で更に速度を増すと、腰の辺りに、突然、重みが増えた。あたし自身の、三本の尻尾の重量だ。目に映る右腕は緑色をしている。行ったり来たりしながらだと、自分の半身だけが爬虫類になったように見える。足元が不安定なのは、大地の代わりに、ごつごつした皮膚や脈打つ血管の上を走っているからだ。巨獣の背を脊椎の端まで走り切って、またコーナーを曲がる頃には、ほんの僅か、マコトと差が開き始めている―いや、これは予知のようなもので、まだ目に見えるほどじゃない。
耳を割るような、いやもっと、肌にビリビリくるような轟音に襲われた。うねり、蛇行する配管から、紙製の足を踏み外さないように走っているけれど、その下からは金色の下生えのように 光と音が溢れ出していて、遙か下方で演じられている舞台劇の賑やかさを伝える。駆ける音と心 音、息遣いしかない静寂の世界とのスイッチに、眩暈がしそうになる。酷使したあたしの四肢は、頭を残して爆発し、紙吹雪となって舞台上へと降り注ぐ。
次いで視界に飛び込んできた路面の白さは、雪の色でも紙の色でもなかった。あちらでバラバラになり、こちらで折り重なっている骨。吹きつける土埃に思わず顔をしかめる。煙が吹き散った直後、眼前に姿を現したのは、蜘蛛のような金属製の六本脚をもった、文字盤付の時計だった。 象くらいの大きさがあるそいつが、一本の脚を振りおろしたけれど、わずかにあたしの右隣へ逸れる。マコトがやられる、とゼロコンマゼロ何秒かだけあり得ない仮定に怯んでから気づくと、 金属の脚は白骨の山に突き刺さり、あたしはもう、二歩ばかりマコトに引き離されている。
突然、前のめりに転びそうになる。足下じゃなく、前方から重力が呼んでいた。左右の眼下に 星の海。あたしの半身は、宇宙空間から地上へ向けて渡されたロープの上にあった。足裏から滲み出る樹脂の吸着によってあたしは体勢を立て直し、地上へ向けて再び駆け下り始める。交互に切り替わる重力方向の変化は船酔いめいた酊感を引き起こす。酸素を必要としない身体と、酸素を求める肉体の転換もまた、何かの発作のようにあたしの神経を揺さぶった。
「じゃ あ な!」
切れ切れに聞こえたのは、耳慣れた声だ。もう一つの夜の校庭で、松葉杖をついたマコトが手を振っている。返事をしたいけれど、そんな余裕はない。目を交わせたから、それでいいんだ。 あたしはすぐ前を走るマコトを追いかけている。幾つもの現実で、全力疾走しているあたしを転々としながら、あたしはマコトに追いすがる。
最後の周回を終え、ゴールへ向かう直前、道がふつりと途切れた。もはやその先は存在しない。 ただ、あたし自身のスケールさえよく分からない闇色の空間で、あたしが踏み、蹴った地点にだけ光の帯が生じた。そこから何か途方もないエネルギーが生まれ、未来が生じた。
あたしは夜のグラウンドを走る陸上部員であるのと同じくらいに、世界の種を蒔いていく創造主だった。 42-4
“日本語の壁”に阻まれていただけで、日本製SFの水準はマンガに等しくもとより世界級で、アニメがそうであったようにセールス下手が禍して、例えば劉慈欣のほうが売れているに過ぎない疑い。さえ感じさせるぶっ飛び感。己の出自に日本SFの系譜&財産が直結しているような書き口の著者あとがきが、余計にそう感じさせたのかも。
刹那、知覚が爆発した。ヴィーカの脳内が爆裂したかのように一挙に拡散し、瞬きひとつしないうちに感覚が東側全土へ広がった。座席に押し込められている自分自身は、機首にジェーニャが佇んでいて、後ろでマイケルが意識を失っている戦闘機に、モスクワの町に、レニングラードに、キエフに、ミンスクに、アルマアタに、レニンスクに、バクーに、イルクーツクに、ウラジオストクに、カムチャッカに、ウラルの山々に、永久凍土の大地に、東シベリアの凍える海に、 党員一人一人の脳髄に、労働者一人一人の呼吸に、赤ん坊一体一体のニューロンの発火に、動物 一頭一頭のタンパク質の合成に、ソヴィエトに。
全く同じ瞬間に、ヴィーカは自分が書記長現実と呼ばれる視座の直中にいるのだと理解し、遥か以前からその全知の力を我がものとしていたかのように錯覚した。 212
「な、薙原さんは、天乃や他の皆が、ちゃんと帰ってくるって思ってるんだね」
「当たり前だ」
即答だった。なんなら少し食い気味だった。
「天乃はやることがある人間なんだ。止まってられない人間なんだ。暴走特急だ。だからあんなのすぐ終わる。どうにもならなかったらこっちでどうにかする」
無根拠に力強い言葉を言い捨ててスマホに再び目を落とす。その横顔に滲むひたむきさは、確かに、天乃の芯の強い部分を彷彿とさせなくもなくて、睫毛はどきりとするほど長くて、瞳は天乃と同じくらい澄んだ鳶色で―そんな風に、こちらが油断している隙に、天乃の写真を探すつもりか、薙原は僕のスマホ内の写真フォルダを確認し始めていた。 240-1
なんなら少し食い気味だった。
6. 蒲生俊敬 『インド洋』 講談社ブルーバックス
https://twitter.com/pherim/status/1493463685196500993
インド洋の特殊性と海洋研究の最前線。
三大洋のなかで、唯一北極海へ通じてないことがもたらす個性。旧インド大陸北上の足跡が現代へもたらす波紋とか。
ディアマンティナ断裂帯、ロドリゲス三重点、名前だけでゾクゾクくるし、鉄製の鱗もつスケーリーフットの奇態凄いし。
対海賊厳戒態勢で挑む、アデン沖海底火山探索航海とかもう胸熱すぎて極私的映画化必至。
ちな副題は「日本の気候を支配する謎の大海」。でも日本との気候的な連関は、ああそういう仕方で影響するのねという伝播模様が面白い程度で、本書の主旨ではありません。
7. 東京都写真美術館 編 『アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち』 東京都写真美術館
https://twitter.com/pherim/status/1501427975258279936
アピチャッポン新作『MEMORIA メモリア』評↓執筆にあたり再読。以前通読していたのに《よみめも》未掲載だったのは、他のアピチャッポン関連書籍とまとめて扱おうと目論んだからだろうけど、あきらかに目論見は失敗しとる。ゆえ個別に扱っておく。
【映画評】明滅するリアル: http://www.kirishin.com/2022/03/04/53173/
アピチャッポン本人のエッセイ2篇が極上。ほか四方田犬彦論考や田坂博子によるインタビュー等。佐々木敦も寄稿していて、おそらくHEADSレーベルからアピチャッポンCDが出た関連で声がかかったのだろうと推測するけど、他のアピチャッポン本にも常連のように出過ぎていて、それなりに長い佐々木敦ファンといえるはずの自分の目にも、正直どうかなって少しおもう。少人数に絞られた本書の構成的には、他の若手研究者なり現代タイ文化専門の書き手とかのほうが良かったのではと。中村紀彦とか次項の福冨渉とか、金子遊とか。って思い浮かぶ名前が定番すぎて、自分でさえこの体なのだからそらあ忙しい学芸員の目に届く範囲には限界が、ってのはある。
1970年代のタイで広まったイデオロギーへの恐怖は、結局は支配の口実となった。それは今でも搾取の源となっている。こうして異質なものへの恐怖は、もはや恐れぬという人々に古い物語を負わせ、分裂させるために使われている。映写機の中にいる幽霊。それが投影されて僕らが見たものは、慈悲と共感に溢れていた。しかも、時空が歪んだ自然の中にいた。 97
上記引用は、リクリット・ティラヴァーニャによるアピチャッポン作品をめぐる寄稿文「映写機のなかの亡霊」より。リクリットは、東南アジアにおいて現代美術市場そのものが未形成であった1990年代から、タイ人アーティストとして国際美術展シーンを牽引してきた第一人者。引用文出典は
Apichatpong Weerasethakul: Primitive, eds. Gary Carrion-Murayari and Massimiliano Gioni, New Museum: New York, 2011。
上記拙記事末尾で2001年9月にイスタンブールでアピチャッポンと初めて話したことに触れているけど、リクリットもそこにいた。タクシィム広場ほかでの爆弾テロを受け米国大使館周辺などが封鎖される物々しさのなか、周囲にタイカレーを振る舞っていた。彼のパフォーマンスなどが牽引した「関係性の美学」云々が、日本の現代美術/論壇界隈でトピック化するより十年は以前のこと。
8. 『ハワイと南の島々展』 東洋文庫ミュージアム
ハワイ日系移民渡航150周年と。ハワイ王国を軸に太平洋の島々と在来民および西洋人による探検の歴史を概略。ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアのまとめが巧い。
展覧会図録然とした読みにくさとは一線を画した、東洋文庫の冊子シリーズ良い。当然ながら図版が優れていて、視覚記憶優位の人間であればそこらの新書より定着する知識量は多そう。一般の美術館博物館も書き手は世にたくさんいるのだから、こういうの企画すればいいのに。コロナになったらどこもかしこもネット放送ばかり始めるとか、評価に値するのは初めの数館含めたごく僅かだけで、とりわけ公立館の大半は「やってますアピール」先行型で相変わらず右へならえ前ならえの頭カタ過ぎ、危機感なければ創意工夫とか興味もないんだねと。もっとゆでてどうぞ。
東洋文庫訪問ツイ群: https://twitter.com/pherim/status/1441674671401758724
9. 東野圭吾 『秘密』 新潮文庫
かなり特殊なきっかけから読みだした一冊で、ああいうことでもなければこの本を読むことはなかったなと、読み終えてやはり思った。読めば面白いのはわかっているけど、そんなこんなで人生ふつうにいけば読みそうにない作家というのは結構いて、東野圭吾はもうずいぶん長いことその主要なひとりであり続けている。なぜかといって、あらかじめわかっているその面白さを、恐らく自分は「小説」にあまり求めてないからだろう。
そこから先は考えたことがなかった気がする。その面白さとはつまり、プロットの巧みさ、を構成する仕掛けやギミックなどからなり、こうしたものは映画であれマンガであれ重要な要素であり、つまり映画やマンガにも代替できる。と思い込んでいる。その思い込みが正当なものかどうかはともかくとして、だから「ふつうには読みそうにない」。宮部みゆきとかもそう。気になる時はとても気になるのだけれど、実際に読みだすことはだから少ない。伊坂幸太郎もそこに含まれがちだけど、すこし外れることに書いて今気づく。
ともかく今回読み終えてみて、やっぱそうだな、と再確認した心地。
あと二十歳の広末涼子が寄せている一文が案外面白い。四十代の心もつ十代女子を演じた十九歳の格闘を素直に作文した感じ。
10. チャットラウィー・セーンタニットサック 『花、ドア、花びん、砂、大きな木』(はじめてのタイ文学 2021) 福冨渉訳
https://twitter.com/pherim/status/1491304009855950849
強烈な午後の日差しに照らされる路上の猫の死骸、を家の中から見つめる私の描写に始まる、父と祖母と暮らす25歳女性の物語。15歳のとき飛び出した実家へ、コロナ禍で職を失った彼女は出戻っている。幼い父を置いて出奔した過去をもつ祖母は、かつてどこか異邦から流れてきたらしい。(世代的にラオスやカンボジア、ないし共産党に追われた中国からの難民という可能性も考えられる。実際よくいる。)
映像ディレクターとして暮らしたバンコクと、なにひとつ変化のない田舎生活とのあらゆる感覚のズレが、時を超え、ときに逆再生させるかのような祖母の痴呆描写により倍加される。ダラダラと現在だけが連なるその家で、父はまったく別様の世界を生きているようにもみえる。
新型コロナがもたらした、あるはずではなかった時空のキツさと優しさ。
同著者極短篇「クレーターで眠ろう」https://www.shofukutomi.info/magazine/chatrawee1
画像ツイ https://twitter.com/pherim/status/1491304013438263297
▽コミック・絵本
α. ヤマザキマリ とり・みき 『プリニウス』 8, 9 新潮社
牡牛を屠るミトラス神像とか、ティルスの要塞島描写など麗しう。ローマによって半島化する過程に交え、さらとカルタゴ建設へ至ったフェニキア概説してるあたりとか、こういう方向への目配りの良さは期待してなかった、すっごい良い。あとカラスのフテラを飼いならす謎のフェニキア少女、そこにつながるのか、え、ってことはこの巻き毛ってそういうこと!??っていうあたり言葉で説明してないのも良い。連載漫画とかでここわかりやすく説明しろって編集者圧力かからないor抗しきれてるとすれば、それは確実にこの作品のオリジナリティを上げてるよね。
そういう諸々の結果として、プリニウス当人の行動原理とかギリシアでのネロとの対面の合理的解釈可能性とか見えないままなのも、狙ってるか否かは別にして低温スリルと化してて良い。わかりやすい物語パターンへ乗らずに、トータルでここへ来てより面白くなってるのは凄いやね。
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β. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 8 小学館
いよいよ伊豆へ。にしても早雲の覇道にきっかけを与えたのが今川家当主義忠の野心で、かつ義兄にあたるっていうガチ近い親族なのは知らなかったな。早雲については遠い昔ってか中2か3のとき司馬遼太郎かその周辺で読んだきりで、やや里見八犬伝に印象かぶってるところもあり至ってあやふや。
ゆえにゆうきまさみのちょっと偏執的なくらいの背景細密描写がとても楽しい。なんか地理的にこの界隈の歴史ドラマが流行ってるみたいだけど、地上波系全部パスしてるから乗れてないんだよね。だからせめてものまさみゆうきでけっこう満足。まいつかまとめて観たいけど。ってもうあまちゃんの頃から思い続けてる。(いつかドラクエFF完走したい、みたいな願望と同じジャンルになりつつある)
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γ. 久米田康治 『かくしごと』 5 講談社
冒頭&巻末の数ページだけで進行するサブストーリーの利きがいよいよハンパなくなってきて、業界内輪ネタが平板であればあるほど飽きが来ない、つまりいずれは来る確定感が強まるからこそ終わりが引き伸ばされることに妙な安心感を覚えてしまうこの仕掛けは面白い。既視感もうっすらあるけど具体的におもいだせない。なんだっけなぁ。
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δ. 水上悟志 『戦国妖狐』 3, 4 マッグガーデン
前回ゲンコツ描写の特異性にふれたけど、魂抜けの縦線描写が爽快なくらい記号化されてて、こういう意図的というよりやむにやまれず仕方で固有性が切り立たちゆく流れは嫌いじゃないけど、漫画というジャンルでそれがとびきり目立つように感じられるのは、己の視覚偏重性ゆえか音楽家や本気の文学者でもそうなのか。という疑問をふと抱く。
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今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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