与那国島。
天気の良い日には台湾島の稜線も望めるこの島でひとは、古来から独特の文化をつちかってきた。長い時間をかけその独自性を結晶させたものの一つが、島の言葉“どぅなんむぬい”だ。この言葉はしかし今、ゆっくりと忘れ去られつつある。そこには島のなかだけで人生を完結させることが誰にとっても困難となった、現代に固有の事情がある。たとえば島には、小中学校はあっても高校がない。子どもたちのほとんどは15歳の多感な時期に島を出て思春期を過ごし、おとなへと成長する。映画『ばちらぬん』は失われゆく言葉の響きのうちに、島の暮らしの来し方と行く末を映しだす。映画『ヨナグニ 旅立ちの島』はこの島の中学生たちが体験する、卒業までの心のうごきを映しとる。
"" https://twitter.com/pherim/status/1520228359212466177
『ばちらぬん』の東盛あいか監督もまた、かつて島外の高校へと進学した。1997年生まれの彼女は与那国島を15歳で離れたあと、石垣島の高校を2年生時に中退し、映画と出逢う。本作は、京都芸術大学在学中の卒業制作へ向けた学内コンペが起点となった。コンペを通過した作品には大学から支援がつく。そこで与那国を舞台とすることは、自案の強みになると彼女は考えた。映画学科の映画製作コースではなく、俳優コースを選択していた彼女にはしかし、与那国を撮る以上は他の学生に監督を任せる気になれなかった。実際には、本作は学内コンペどころか、新人監督の登竜門として著名なぴあフィルムフェスティバルでグランプリを獲得、東京国際映画祭上映を経て、卒業制作品としては異例の全国配給まで決まった。「それなりに注目されるはずと企んだら、ケタ違いにバズってしまった感じかな」と聞くと、「そんな感じですね」と笑って応える東盛監督の日本語が、20代前半の若者が話すそれとしては極めて明晰かつ論理的な標準語に終始したのは印象的だった。
映画『ばちらぬん』は、四人のどぅなん語話者が紡ぐ物語を主旋律としながら、各所に与那国島の過去と現在へ取材したドキュメンタリー部を挟み込む。四人の登場人物は東盛本人を含む若い俳優が演じるが、そも皆がこの世を生きる人間なのか精霊の化身もまぎれ込むのか判然とはしない。この物語の幻想的な情緒性に対し、与那国織の租税史やカジキ漁における血抜きの重要性、台湾アミ族にも通じる竹造舟のコツなどを島民たちが語るドキュメンタリー部は、生活に密着した直截的な現実性が持ち味となっている。東盛監督本人の主観的には、卒業制作の戦略としてメガホンをとったにすぎないとしても、本作には表現者として具える彼女の資質がよく顕れる。多くの巨匠の第一作に、のちの長大な作品履歴のエッセンスが凝縮されているように、デビュー作『ばちらぬん』には作り手・東盛あいかのすべての内在が予感され、今後の展開も楽しみだ。
"Yonaguni" https://twitter.com/pherim/status/1516971683344617474
一方『ヨナグニ 旅立ちの島』の監督は、アヌシュ・ハムゼヒアンとヴィットーリオ・モルタロッティのイタリア人ふたり組だ。空へ発つ小型機を見送る下級生から、進学のため島へ別れを告げる卒業生へ。十代の視点から与那国の一年を描く本作の着想は、沖縄諸語研究の泰斗である社会言語学者パトリック・ハインリッヒとの共同プロジェクトに始まり、すでに展覧会や写真集も派生している。与那国の文化と現状を多面的に捉える学術性の濃い展示や出版に対し、中学生を軸に据えた物語性が意識される映画撮影では、海際の岸壁や草はらに佇む人物や与那国馬を遠景で撮る情景描写や、固定カメラによりただそこに生起する音や光への注意を喚起させる詩的な演出も目立つ。なかでも鮮烈なのは、与那国織をまとい化粧した少年が草むらのなかで舞うショットだ。その数秒のうちに筆者は、かつて目にした台湾先住民の舞踏を貫き、粤劇(京劇の江南版)の光をも幻視する感覚に襲われた。監督へ尋ねるとこの少年は本作の撮影年、島へ残った唯一の中学卒業生なのだという。映画は終盤で、空へ飛びたつ旅客機を鞍上から見送る少年の背姿を映しだす。この余韻は深い。
なぜイタリア人監督が与那国を撮るに至ったか、しかもこのコロナ禍下に。
という誰もが抱く疑問について、二人は東日本大震災の被災地取材に始まる経緯を縷々と話す。被災地で育まれた関係性の網目から、和歌山白浜を舞台とするドキュメンタリー製作の機会が訪れ、そこからさらに与那国へと機縁は偶然的に連なった。二人の主観としてはそうなのだろう。しかし『ヨナグニ 旅立ちの島』を観ながら個人的に連想されたのはまずサルディーニャ島のカタルーニャ語集落や古代遺跡であり、次にシチリア島のノルマン様式やマフィアに代表される独特の精神文化であり、フェリーニやパゾリーニほかイタリア映画を代表する巨匠たちがみせた方言への執着である。そこで二人の出自を尋ねると、各々トリノとパドヴァであるという。トリノはフランス国境に近く、まさにサルディーニャ王国の首都としてイタリア統一運動を牽引した都市であり、パドヴァはヴェネツィア共和国やオーストリア帝国下の時代が長い。ローマやフィレンツェ、ミラノやナポリなどイタリアの代名詞的な諸都市に比べいずれも周縁性の際立つ土地だ。二人はこちらの質問の意図を汲んでさらに各々の方言体験や、先行世代の話す土着言語からの乖離を語ってくれた。東日本大震災を機に日本国へ関わり始めたこのイタリア人監督コンビを与那国へ呼び寄せたのはさしあたり、彼ら自身の抱える言語的周縁性であったとは言えそうだ。幼いころは祖母の村で話される言葉がわからなかった、家の中で父が父の母語を話すことはなかったと語る彼らの表情には、不可逆に進行する言葉の消失への不安が露わとなっていた。
"綠色牢籠" "Green Jail " https://twitter.com/pherim/status/1377809432839524352
拙稿「島奥のかそけき呼び声 『緑の牢獄』」
http://www.kirishin.com/2021/04/20/48331/
東盛監督の話す明晰な標準語が印象的だった、とさきに述べた。そこには与那国島をはじめとする、筆者自身の旅行経験が関係する。一人旅をくり返すようになったのは15歳くらいからだが、1990年代当時は離島に限らず本州の地方都市でさえ、同年代の若者が町なかで話す言葉を聴きとることは至難であった記憶が少なくない。どこの駅前にも同じように並ぶチェーン店の座席で、同じスマホ画面を覗き同じ言葉を話す若者を目にすることができる今日とは、まるで異なる風景がほんの四半世紀前には当たり前に存在していた。
『ヨナグニ 旅立ちの島』では、すでに触れた少年の舞踊の他にも、歌や踊りの場面が頻繁に登場する。なかでも特徴的なのは、冒頭と終盤に登場するラジオ体操の一幕だ。オフィスと養護施設とで各々ラジオとテレビ放送に従って為される規律化された身体運動を黙々とつづける人々の無表情は、どこか標準語の無情緒を想わせる。
これとは対照的に奇異な印象を残すのが、中盤における公民館での舞踊稽古から披露への連なりだ。稽古の場面では直前に、夜の交差点で点滅する黄信号が固定カメラの長回しで映しだされる。誰も通らない交差点の闇を、カチカチと黄色い輝点が照らしつづけるそのリズムに、やがて舞踊の拍子がオーバーラップする。両者のリズムを完全に一致させるこの演出が意図的でないはずもなく、そこに両イタリア人監督の抱える不安の筆者は反映をみる。公民館で磨かれ、祭りの公共的なイベント特設舞台上で催される目にも色鮮やかな群舞は、農民の茶系の着物をまとって独り草むらで舞う少年のそれと対置的に描かれる。消失と画一化はなにも言葉だけの問題ではなく、身体所作の全体をともない進行する。それは総体としてある文化の衰退を呼び込み得るし、当事者たちの意図せぬ形で促進され得る。この危うさ。
与那国島では路線バスの運転手と仲良くなり、日がな乗りつづけていたことがある。運転席のそばに陣取って彼と話し、彼が他の乗客と話すのを聴きながら窓外に流れる風景をずっと眺めていた。すでに高齢であった彼によれば、かつて同じ日本国内であった台湾との密貿易は、公式に消滅したとされる戦後もしばらく続き、与那国の漁師と台湾の漁師とは各々生来の言葉で意思疎通が可能であったという。日常的に観光客も相手するバス運転手である彼は筆者に対して丁寧な標準語を話し、島民に対して話すどぅなんむぬいを筆者はまったく理解できなかったが、しばらくあとになって時折、彼が乗客とそのどちらでもない言葉を使い話していることに気がついた。それは那覇の言葉であり、同じ「琉球諸語」と括られてはいても、意味を解さない筆者にさえ明瞭に判別できるほど沖縄本島の「沖縄方言」とどぅなんむぬいとは響きが異なっていた。
馬の頭をした怪異が火踊りすら舞う『ばちらぬん』のなかでもとりわけ異様に感じられたのは、船上の漁師が釣ったばかりの魚を手に血抜きを実践してみせる場面であった。そこへ至るまでに牛牧場での作業や野菜の収穫描写も登場するため、漁師の場面のみを異様と感じる観客は少ないかもしれない。だが漁船の舷側に立ち熱っぽく語る中年漁師の下半身部には日本語字幕のテロップと血抜きされた釣果とが重なり、その上半身の背景を青空と水平線まで突き抜ける海原とが占める構図は、かつてこの海原を往き交い与那国と台湾をつないだ無数の人々が塗り重ねた不可視の航跡なしには成立しえない構造の厚みを湛えていた。
"자산어보" "The Book of Fish" https://twitter.com/pherim/status/1459691184624791552
拙稿「信従のまなざし、遠流の明晰。『茲山魚譜-チャサンオボ-』」
http://www.kirishin.com/2021/11/19/51548/
朝鮮半島西方沖に浮かぶ牛耳島出身で1777年生まれの漁民・文淳得(ムン・スンドゥク)は、1801年洋上で大嵐に遭い、琉球王朝下の奄美大島へ漂着、島民に救出された。その身柄は与論島などを経て首里近郊へと移され、当時の琉球王国と李氏朝鮮の取り決めに従い清朝経由で送還されるはずであったが、朝鮮人や中国人の漂着民らを乗せ那覇港を出た船は遭難し、またも漂流の憂き目に遭った文淳得は次にフィリピン・ルソン島へと上陸した。文淳得をモデルとする人物の体験談として映画『茲山魚譜-チャサンオボ-』にも描かれるその顛末(上記リンク記事にて詳述, ※1)には、国境線を文化や物流その他の壁として過大に扱いがちな現代人の感覚とは異なる、突き抜けた風通しの良さがある。それはまた、『ばちらぬん』『ヨナグニ 旅立ちの島』両作をプロデュースする『緑の牢獄』監督の黃胤毓(コウ・インイク)がライフワークとする、“八重山の台湾人”をテーマとするドキュメンタリーシリーズ《狂山之海》の主旋律とも直に重なる。言葉と概念の壁に隔てられたまま忘れ去られようとする人々や事物の流れに着目する黃監督と、東盛監督やハムゼヒアン&モルタロッティ両監督との出逢いはこの意味で必然でもあり、同時に今後周辺の表現分野における僥倖となるだろう。
サルデーニャ島の先史文明ヌラーゲの始まりは、紀元前1800年頃と推定される。西洋文明の起点として周知の古代ギリシア・ローマ文明より遥か以前から残る巨石構造物群は知的好奇心を喚起させてやまず、『ばちらぬん』が亀甲墓を映しだした際にはヌラーゲの支石墓ドルメン様式が想起されたし、『ヨナグニ 旅立ちの島』監督の口からサルデーニャの語が出た際には文字通りに膝を打った。“日本最西端”の与那国島や“日本最南端”の波照間島には、南方の未知の島をめぐる伝説が残る。与那国では「はいどぅなん」すなわち南与那国島と名指され語られるこの伝説は、民俗学的にはニライカナイ概念の一類型として、近世史的には過酷な人頭税からの逃避対象として、幻想水準では与那国島南方に沈む巨石構造物(今日では自然構造物とほぼ断定される)と結びつけられ、現代においても小説やアニメなどへ取り入れられ創造的に再生産されつづける。※2 映画『ばちらぬん』は、海際で遠く水平線をまなざし仁王立ちする主人公の後ろ姿で終わる。主人公を演じるのは監督本人だが、ここではもはや監督が役柄を演じているのか、役柄が監督へ憑依しているのか定かではない。水平線が画面を分かつこの終幕では、さざなみの音とともに人々の幸福と平安を祈るどぅないむぬいの唄が流れる。風はそよぐが、仁王立ちする後ろ姿は微動だにしない。だいじなのはその視線のさき、水平線のさきには、さきがあるということだ。そこではなにも終わっていない。最後の一閃までは。
『ヨナグニ 旅立ちの島』の描く中学生たちと同じように、かつて島から飛びたつ15歳の子どもであった東盛あいか監督が、縁側でおばあの話を聴きながら涙をとめられなくなる場面が『ばちらぬん』にある。おばあの話は村人総出で催した雨乞いの儀式や歌の再現に始まり、継ぎ手不在のため“神のしきたりを閉じる”亡きおじいの決断までが訥々と語られる。与那国の伝統や文化について島を出るまで興味をもつことはなかったと話す東盛監督は、この場面は撮ろうとして撮れたものではないとも語る。島の旧家で長らく祭祀を担ってきた祖父母と彼女は、このとき面と向かい初めて出会いなおしたのだろう。
過日イタリア文化会館での先行上映会後の監督鼎談を、彼女は客席へ向けたどぅなんむぬいによるスピーチで締めた。どぅなんむぬいは現在、ユネスコの消滅危機言語リストで「重大な危険(severely endangered)」へ分類される。筆者はその耳慣れない言葉の響きに、“与那国”すなわちどぅなんの守人たろうとする彼女の静かな決意を看取する。それは祭祀の担い手たる祖先からの、形を変えた継承であるようにも感覚される。「忘れない」をどぅなんむぬいでは、ばちらぬんという。
試写メモ154 『ばちらぬん』
https://yonaguni-films.com/
2022年5月7日より 新宿・ケイズシネマ、アップリンク吉祥寺 ほか全国順次劇場公開
試写メモ155 『ヨナグニ 旅立ちの島』
https://yonaguni-films.com/
2022年5月7日より 新宿・ケイズシネマ、アップリンク吉祥寺 ほか全国順次劇場公開
コメント
05月06日
20:37
1: pherim㌠
※1 文純實「朝鮮王朝後期漂流記録にみる対外認識について―「漂海始末」を中心に」中央大学論集 第34号 https://core.ac.uk/download/pdf/229752591.pdf
※2 横山光輝漫画を原作とするアニメ『GR-GIANT ROBO-』(2007)では、南与那国島の海底遺跡から巨大ロボットが発見される。ほか藤崎慎吾の小説『ハイドゥナン』(2005)など。
※3 『緑の牢獄』記事内でも扱った黃胤毓監督作『海の彼方』の主人公おばあ・玉木玉代さんが2022年4月20日に永眠されました。95歳でした。100人の大家族を築くに至った激動の人生には感服させられました。玉木玉代さんの訃報を筆者は、期せずして与那国を舞台とする両作取材のためその翌日に初対面した黃監督から知らされました。心からご冥福をお祈りいたします。
05月06日
20:37
2: pherim㌠
【本稿筆者による言及作品別ツイート】(言及順)
https://twitter.com/pherim/status/1520228359212466177
https://twitter.com/pherim/status/1516971683344617474
https://twitter.com/pherim/status/1459691184624791552
https://twitter.com/pherim/status/1377809432839524352
https://twitter.com/pherim/status/896202370496856064
05月06日
20:43
3: pherim㌠
※4 また黃監督作 『海の彼方』『緑の牢獄』は、本文でも述べたように本稿で扱った与那国両作ともダイレクトに連なる内容をもちます。ぜひご覧ください。(『海の彼方』はAmazon Prime, U-Next等にて配信中です)