・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. タラス・シェフチェンコ 『シェフチェンコ詩集』 藤井悦子 編訳 岩波文庫
遺言
わたしが死んだら、
なつかしいウクライナの
ひろびろとした草原にいだかれた
高き塚の上に葬ってほしい。
果てしない野の連なりと
ドニプロと切り立つ崖が
見渡せるように。
哮り立つとどろきが聞こえるように。
ドニプロの流れが
ウクライナから敵の血を
青い海へと流し去ったら、
そのときこそ、野も山も――
すべてを棄てよう。
神のみもとに翔けのぼり、
祈りを捧げよう……だがそれまでは
わたしは神を知らない。
わたしを葬り、立ちあがってほしい。
鎖を断ち切り、
凶悪な敵の血潮で
われらの自由に洗礼を授けてほしい。
そして、素晴らしい家族、
自由で新しい家族に囲まれても、
わたしを忘れず 思いだしてほしい、
こころのこもった静かなことばで。
188-9 (ルビ注 草原=ステップ, 塚=モヒラ)
ロシアのウクライナ侵攻で、日本でもその界隈ではすっかり名の知れ渡ったウクライナの国民的詩人。実際読んでみると半端ない憂国の士で、とりま本書は全編ロシアへの怨念に充ちており、これは今読まれますよね。コロナ禍初年にカミュ『ペスト』がベストセラー入りしたようなもので。
「霧よ、霧よ、
この広い野の中、
なんてみじめな運命でしょう!
葬り去ってはくれないの?
なぜわたしの呪われた運命を
大地の中に埋めてはくれないの?
なぜわたしの息の根を止めて、
なぜわたしを隠してはくれないの?
いいえ、そんなことはしないで!
広い野のどこかにわたしを隠してほしいだけ。
わたしの不幸な運命を誰にも知られないように、
誰にも見られないように。
わたしは ひとりぼっちではないの。
お父さんもお母さんもいるのよ。
それに、霧よ、わたしには…… 107
ウクライナの地理的メインは黒海北岸の、かつてはモンゴル騎馬軍が自由に往来した大ステップの西端にあたる、要するにどこまでも平坦な草原もしくは荒れ地がつづく。これは容易に転じますね、平らすぎて逃げ場がない恐怖感に。
『クロンダイク』https://twitter.com/pherim/status/1601917613478924288
という平らかな戦争下の今日感がよく映り込む映画が『クロンダイク』で、上記引用はわが子を有力者の養子へねじ込み、自身は出自を隠しその家のメイドに雇われ密かにわが子を見守る貧婦を主人公とする詩「ナイミチカ」の冒頭部なんだけど、この隠れ場なく、寄る辺ない感じから視覚的に想起されるんですよね。映画は妊婦が主人公なのもあるのでしょうけど。
汝を裁くのはわれらの仕事ではない!
われらはひたすら 泣きに泣いて、
日々のパンを捏ねるだけ。
刑吏はわれらに残虐の限りを尽くし、
われらの真理は酔って眠りこんでいる。
真理はいつ目覚めるのか?
神よ、汝はいつ
疲れて身を横たえるのか?
われらを生きさせよ!
汝の力を、生き生きとした魂を
われらは信じる。
真理は立ちあがる! 自由は立ちあがる! 149
神に向かって「汝」とか命令形とか使う語感が原語由来か、単に訳者と肌が合わないのか不明だけれど、まぁ神にだって文句もつけたくなりますよね、なんせこちとら憂国の士ですので。みたいな。
レールモントフ詩集『悪魔』ヴルーベリ画 連ツイ
https://twitter.com/pherim/status/1513914799893086215
イリヤ・レーピン連ツイ https://twitter.com/pherim/status/1520688369025810432
拙稿「ルーシの呼び声《4》」 URL後日追記
2. W. ヴォリンガー 『ゴシック美術形式論』 中野勇訳 文藝春秋
ゴシックの実際の偉大さは、「美しい」 (schön) という概念の中において必然に頂点に達せざるを得ないような、ごく普通のわれわれの芸術観念とはほとんど関係がない。したがってこういう言葉をゴシック的な価値に援用することは、いたずらに混乱をひきおこすおそれがあるだけである。
で、われわれはゴシックから、美学という名称と結びついているものをすべて排除することにする。 24
この線は、生あるものの気まぐれによって、したがってまた変化してゆくものによって、悩まされつづけている彼に平静と満足とを与える。なぜならばそれが彼の達成し得る非生命物、絶対者の唯一の直観的表現だからである。彼はさらに広汎に線の幾何学的可能性を追求して、三角形、正方形、円を創る。同じようなものをならべて組合せ、さらに規則正しく配することの効果をさえ発見する。要するに原始的装飾を創り出す。こういう装飾は、彼にとっては単に飾りたてる喜びや遊戯ではなくて、象徴的な必然価値の図示であり、したがって強度の精神的な 逼迫状態を緩和するものである。彼は首尾一貫した解釈によってこの明確な恒常な必然 的な線の象徴のうちに内在すると考えた呪巫力を完全に利用するために、彼にとって価値があると思われるものをすべてこのような呪文の標によって覆う。まず第一に彼は、自分自身の体を装飾的な入れ墨によってタブー化しようと試みる。原始的装飾は、まだ進歩的な精神的方向によって緩和されていない恐怖、無秩序な環境世界に対する恐怖のためにする呪巫なのである。したがって進歩的な精神的方向と、芸術のもつこういう硬直した抽象的特徴の衰退すなわち呪巫的特徴の衰退とが平行することは明らかである。こういう精神的方向に進む能力は古典期において最高所に達し、それとともに渾沌界から調和界が生れた。したがって芸術が、人間史の発展のこの段階で呪巫的性質からまったく解放され、今やなんのはばかるところもなく生命そのものに、また生命によって有機的に充実させられたものに、向かい得ることもさらに明白である。 芸術の超越性、芸術価値のもつ直接的な宗教的性質もこれとともに終焉に達した。芸術は以前には生命の呪咀であり否定であったが、今や生命の理想的な高揚になり変わる。
()原始人は、線条的な幾何学的装飾で、いわば必然性の価値の基礎をまず創っておいて、その後に彼を悩ませる現象界の気まぐれをさらに進んでふせぎとめようと試みる。かくて彼にとって特殊な意味と価値とをもちながら、しかも頼み難い視覚印象の流転になって彼のかたわらを転変し、押流されてゆくところの外界の個々の対象や印象を、自分の直観に対して固定しようと試みる。このようにして彼は、この外界の対象や印象から必然性の象徴を創り出そうと試みる。これには言語の創成という手本を想起するだけで十分であろう。
ゆえに彼は、直観的に固定することによって自家薬籠中のものにしようと試みている この外界の個々の対象を現象の間断ない流転からきりはなし、混乱した四囲から解放し、 またそれが空間の中に消失してゆくことから脱却させ、こうして転変する現象方式を決定的な、そしていつでも復旧できるような標徴に還元する。すなわちその標徴を彼の抽象的な線という言葉に翻訳し、彼の装飾の中に同化し、このようにしてこれを絶対化し必然化する。 34-5
美しい曲線を引くとき、われわれはしらずしらずのうちに内部感情を注ぎながら自分の手の関節の運動に追随してゆく。われわれはある種の幸福感を覚えながら、その線があたかも手首の自発的な活動から発生して来るように感じている。われわれが行ないつつある運動は何の妨げるものもない軽快なものである。()われわれはこういう物事の成立過程のなかに起こる 幸福感と自由性とを、ついには線それ自体の上にしらずしらずのうちに移し込んでゆく。 線が引かれてゆくときに感じていたものを、その線の表現に帰してしまう。こういう場合にわれわれは線のなかに有機的な美の表現を見る。というのはその線の歩みがまさしくわれわれの有機的感情にぴったりと適応するからである。()
しかしわれわれがすべての古典的装飾において体験する、上述の有機的な線の表現能力とならんで、もう一つ他の表現能力がある。そしてこれこそはわれわれのゴシック問題として考察されるべき当のものなのである。ここでもふたたび遊戯的に線を楽書する日常の経験と結びつけて見ることにする。われわれが強い内的な興奮に満たされて、しかもその興奮は紙の上に現わすより他ゆるされていないとすれば、書きなぐられた線はまったく違った結果を呈するであろう。 手首の意志などは全然問題にされない。鉛筆が乱暴に激しく紙の上を走ってゆく。美しい円い有機的な調和を保った曲線の代りに、強烈な表現熱に浮かされた、硬直した角ばった、絶えず中断される、ぎざぎざの線が出来上ることであろう。自発的に線を創り上げてゆくのは手首ではなくて、手首に対してみずからの運動を命令的に強制するわれわれの激しい表現意志である。いったん発した運動衝動も、それが自分の自然的な傾向のなかに発する場合のように、その衝動自体のなかに没入しつくすというわけにはゆかない。 60-1
妨げによる力の蓄積と、分裂による新たな運動。ゴシック的表現意志の成立をめぐる、あまりにも鮮やかな叙述。
すなわちホルバインやデューラーのような人たちの白猫の線芸術にこの例が見られる。ここでは自然主義と精神的表現の本質とはもはやまったく対立関係ではない。この二つはもはや外的結合を与えられているのではなくて、内的結合を与えられているのである。もちろん精神化をねらう方の意図は、偉大な動力性を失いはしたが、しかしその意図は非常に高邁なものになり、またはなはだしく内面的な方向に向けられた。 そしてその結果はこれが、有形化表現(ダルシュテルンク)から、あるいは有形的に表現されたもの(ダス・ダルゲシュテルト)それ自体から発生して来る精神的表現と合致させられ得るほどになっている。したがってこの精神的表現という性質は、もはや現実に対して外部的に強要されているのではなく、現実がそれをみずから生産しているのである。このようにして今や現実性の再生と抽象的な線の活動との完全な融合に到達する。そしてこの融合については、前述のようにデューラーやホルバインの示した線描による特徴表現の能力に感謝せねばならない。この二人のこういう能力は、北方人に与えられていた芸術的前提の下において刻苦して達成され得た最高のものを、したがってその完成の程度においては全芸術史を通じて比肩するもののない最高のものを、造形芸術の範囲内で表現しているのである。 82-3
この稜線の発展における第二の偉大な決定的な歩みは、ヴォールトの内部の構造がこの線によっての模倣と合致させられているということである。すなわちリブをヴォールト構造の本当の支担者にさせ、天井面がただ枠のなかを充填するものとして張られているにすぎぬということは、まさにヴォールト組織においてのゴシック的な大革命である。リブは全構造のもっとも内的な骨組になっている。リブの芸術的な意味とその構造的な意味とはまったく一致している。しかもわれわれはこのゴシック問題の全般にとって非常に重要な経過が、常に方々にくりかえされることを認めるであろう。すなわち始めにはゴシックの表現欲求はただ外部的に活動させられえたにすぎない。 161
われわれはゴシックのドームの内部空間を、感覚的なものから出発した超感覚的な体験として感ずる。ところでこの体験は、全体の性質から見れば、ゴシック建築のもつ抽象的な表現世界や、ゴシック建築がわれわれを感動させるために用いている手段とは正反対の立場に立つものである。それと同様に、神秘派のスコラ派に対する差異もまた、スコラ派の抽象的な、非感覚的な性質と対立する、神秘派のより感覚的な色彩によって制約されているように感じられる。 スコラ派の宗教感覚は、知的法悦にひたることによってその聖教の確実性を獲ようと努めている。ところが神秘派にしたがうと、こういう法悦の代りに、感情の陶酔がその宗教的体験の決定的な支配者になっていることが認められる。精神の陶酔が一種の魂の陶酔に変わっている。しかしこの霊的体験は空間体験と同様に、あらゆる精神的なもの、抽象的なものから区別されたあるものであって、直接にわれわれの感官によって養われているものである。なぜならばわれわれが霊的と呼んでいるものは、実は感覚的感情が高揚され繊細化されて、ついにそれが超感覚的な領域に達している場合を指すにすぎないからである。それゆえ神に向かって高く翔ってゆくものは、もはやここではスコラ派の場合のように精神ではない。魂である。 208-9
他方感覚的感情は、人間性の個人化過程と不可分に結合されていて、ただ個々の人格だけによって把握されうるものだからである。集団から解放された人間だけが必然に、感覚的自然的に感ずるのである。なぜならば彼が集団から解放されているということは、まさしく二元性がある程度まで消え失せて、人間と外界とのある種の統一感情が現われ始めたことを物語っているからである。集団でもおそらく感覚的に感ずることはできるであろう。しかしそれは個々の人格が団結されている集団に限ることであって、中世において感情の保持者であったようなあの個人的に未分化な集団のことではない。
ゆえにまず最初に、人間と外界との二元的な恐怖関係が緩和されておらねばならない。また実在に根拠を与えることが不可能であるというあの本能的な意識が、まず最初に衰退させられておらねばならない。そうした後にこそ初めて人間は、この実在すなわち無限の現象界に対して単独で立ち向かうこともあえてできるのである。人格感情が成長してゆくことは、偉大な世界感情が崩壊してゆくことを意味する。だからこそわれわれは、東方人がヨーロッパ的な個人化過程には決して加担しなかったことをおぼえるのである。それは彼の世界感情が、すなわち現象界の虚妄に関する彼の知、実在に根拠を与えることの不可能性についての彼の知が、あまりにも鞏固に彼の本能のうちに碇を降していた からである。彼の感情・彼の芸術はそのために、常に抽象的なものとしてとどまっている。ところが単に二元的に束縛されているだけで、二元的に純化されていない北方人の発展のうちにおいては、しだいに成長してゆく外的認識の確実性を追求しているうちに二元性がいつしか顕著に緩和され、その結果としてついにはある種の個人化過程に達したのである。 210-2
キマイラとして生まれ出るゴシック。
「空間恐怖 horror vacui」はリーグルの装飾論において、モチーフが隙間なくびっしりと充填されていく執拗さを形容する語であったが、ヴォリンガーはこれを「精神的空間恐怖 geistige Raumscheu」 と読み替え、自身の衝動理論と結びつける。そして抽象衝動が生みだした範例として、古代エジプトのピラミッドのような幾何学的形態を挙げる。「彼ら(筆者 注:原始民族)が芸術のうちに索めた幸福感の可能性は、自己を外界の物に沈潜し、物において自己を味うということではなくして、外界の個物をその恣意性と外見的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見出すことであった」(『抽象と感情移入』三五ページ)
こうして、幾何学的形態が典型的であるが、流麗な有機的「自然主義」の観点から見ると生気に乏しくぎこちなく映る原始美術や東洋美術の様々な「様式」を、ヴォリンガーは「抽象衝動」の所産として位置付ける(第二章「自然主義と様式」)。それだけではない。芸術のはじまりに幸福感ではなく「不安」を見出すことで、あらゆる芸術活動の根底に「自己抛棄の衝動」があるのではないかという示唆にすら至るのである。抽象衝動が強烈な自己抛棄と結びつく一方で、幸福感に満ちた美的享受にすら「我を忘れる」という自己抛棄がみられるからだ (『抽象と感情移入』四三―四五ページ)。ここには彼がショーペンハウアー哲学から得たペシミステ ィックな認識が反響している。 269-270[石岡良治解説]
3. 町屋良平 『ほんのこども』 講談社
かえしてよ。
もういない私をかえしてよ。 まずはおとうさんを連れていかないで。そのまえに、おかあさんをころさないで。そのまえに、おかあさんをぶたないで。そのまえに、私をぶたないで。そのまえに、生まれないで私。生まれないで。生まれないで、生まれない私をかえしてよ。 277
かれはそこで読みもしない本をひろげてぬくもっている。あべくんは真剣に活字を追いかけているようにみえた。小説をかいているとだんだんわかってくるのだが、小説を読んだりかいたりするということは、物語を現実のほうに引き寄せることではなく、現実を物語のほうに引き寄せていくということだ。どんなひとも、夢をみる。たとえば叶えたい夢があるひとは物語のちからで夢が叶った想像を えがき活力とすることもできるが、夢を叶えてしまったひとなら叶えていなかった世界を物語に託し夢みたりする。銀幕スターが駆け出しエキストラのころに食べたパンの耳みたいなエピソードを図書館は担っている。こうしたことは本のストーリーや内容とあまり関係がなく、読んでいる時間のなかでひとは、物語との関係を自分に置き換えて、そう生きえなかった自分の姿を想像することになる。 21
「迷惑だなんて」
そんなあたりまえのこと。かれが生きているだけで、どれだけ世界が迷惑しているだろう? でもつよい皮膚、若い体力によって勝手に治る傷だって、治してあげたらやさしさになるし徳になる、殴られる機会が増えたほうがいいんじゃない? また勝手に繋がっていく、母性フィクションにつつまれて心地よく。 58
川のようなちいさな水のながれている名づけえぬスペースがある。じょうじょうという水の音はひとのすくない時間にだけかれの耳にとどき、子どものこえとそこをとおる大人のこえ、かれはほとんど活字から顔をあげないままでそこにある自分と世界の関係をわかった。靴についた土が乾いてさらさら地面と足裏を繋げ、陽光にあたるとカスタードめいたなめらかさを帯びる。本の内容に集中しながら、遊んでしまう思考のあれやこれやが風景と結びついて、言葉が、身体からたちのぼるようなイメージをもつのだ。じわじわ溶けて、現実では本から知識や世界のなにかを「うけとって」いるというのに、どうじに、自分の身体が言葉のけむりとして蒸発していく。
シューシューという音をたてて。 172
言葉にすると「ありえないこと」「想像を絶すること」「前代未聞のこと」が起こる。あべくんはどうだったかわからないが、私はそうした「 」のなかで語られることの中身に同意せど、体感としてはわからない。生まれたときにはもう起きていた出来事がそうした「 」のなかで括られている意味と大きさが身にこたえない。私はどうしてか人間が自暴自棄になったときの行為の力を、過大評価しすぎているのかもしれなかった。人間はなんでもする。倫理や意味を手放して生の価値基準などかんたんに忘れ去る。私がそうだから それは腑におちる。関連する本を読んでいても、とくに辛くなり読みすすめられないということも私には起きなかった。実際にあったことの陰惨さや感情表現の果てのような記述を、ためらいなくよんでいった、私は私に疑問をもつ。これは大きな加害行為に荷担する人間の、普遍的な無感覚なのではないか? いつも、あべくんはどうだったのだろうとおもう。被害側に感情移入するとしても、加害側に共感している。文章がわかりやすいとは、そもそもわかりやすい文章とはそういうことではないか? 整理的である認識とはそのように、共感の側に収束していくことを目的とした文章だから、自分がかいた小説に共感されていたら私はその小説は失敗だったとおもってしまう。
小説に登場する人間としてのリアリティ、その好ましいブレンド比は「私」をえがくときと登場人物をえがくときではかなり隔たる。「私」を差しだせば現実ばなれした出来事 も信じてもらいやすいが、創作した登場人物のばあい現実よりも「現実らしく」しなければリアリティがないと判断される。注釈がいるだろう。こんなことが起きるなんて「ありえないこと」「想像を絶すること」「前代未聞のこと」と。ではフィクションではない場で、ふつうの現実で他者の人生に登場する私としての立ち居振舞いはどうだろう。 174-5
「いつからそうした消費的なものらをだらだらと長くかけるように?」
「や、みんなやっていることですが? 批評性があればこそで」
「批評? 自己正当化のことをそういうなら、いい時代だね」
笑うしかなかった。
もはや、想像することそのものがたのしくてつらい、つまりおもしろくて仕方ないんだよ。たとえばこれから強制収容所のガス室でシラミを駆除するよりよほど少量で殺人にこと足りたともいわれるチクロンBが投入される場面を描出すると仮定しよう。では手指がどのようにその慣れた作業を行い、缶を開けガス室の中に投入するなどなにか行動しているときの身体にこもる殺意を、どうやって「この場」としてかけるだろうか? そんなことを想像するのが私の生きる娯楽になってしまい、活力になってしまい、ゴシップに身をおかして、でも「やる」しかないんだろ? やってやろう、やってやるよ! いやそんな言葉にするほどの意志すらこもっていない。ただ「やる」からやるんだ、自己犠牲だよ? 180
数年後、小説家になった私は自宅で珈琲を淹れて水筒に注ぎ、小説をかきに公園へいく。カフェインと混ざりあう身体の特殊な集中状態は、まるで言葉を媒介に身体が過去に吸われて、かき終えた未来へ吐き出されるような時間の送りかたになっていて、ひとりで生きている感じがせず虚脱で鬱だった。もう死んでいるあべくんを「ジャマ」だといった あけちはただしいとおもう。あべくんはあけちを壊したいとおもっていたのに、学校に戻ったらもうあけちのことは忘れていた。あけちはあけちを忘れている目のまえのかれはもうあべくんじゃないんだとおもった。あべくんの割った窓から空と樹が、ざらざらになって目にうつり、写真と絵画がグラデーションしているような、五感の表現形式そのものが混交する緑と茶色と青が、いつまでもあけちの知覚に残っている余韻。尖ったりヒビの入ったりするギザギザの葉と空の境界が、夏休みまえの火照った身体と外を混ぜてくれる教室内で。あけちの言葉が吸いあげられ、感覚のラッシュに混乱してかれをジャマだと内面で叫んだ。けれど、声は身体にこもったままで、いまはいわない。いつかいう。いまのあ ベくんのまえではいわない。なんで? 身体のまえではいわない。()
もう光っていない息子をみておとうさんはどんどん冷静になっていき身体が凶悪犯を演じはじめた。フィクションが先に集まり、現実を凌駕して凶悪殺人犯になれそうだった。心はいつまでも単一に、息子をころすべきか悩みつづけている。
ハイビームにしたライトが月に反射してかれの目を撃った。 198-9
フィクションのなかでフィクションでないかもしれないものを見つけるとその反証としてあべくんがいる。毎日外をあるいて思考をあかるくし、文章をかいて資料を読む。しかし、かいていないときには抑鬱に「私」が揺らされすべての文章に後悔が交ざる。双極に振れあい情緒が自己同一性を担保しない私の身体はフィクションかもしれなかった。躁に振れていないと文章そのものがかけないが、鬱に振れると昨日までにかいたものが記憶を傷める。ほんとにこれは「やるしかない」フィクション、かくしかない小説だったのか? 私によってフィクション化されたもののフィクションコードを引けば、読者だけの体験が待っている。君のためへだけのフィクションマイナスがどの小説からも見つかる。人はだれもれも犯罪者として生まれ無垢を演じる刑罰により日々を生きるのだ。
特権的にあったシャワーのたびに毎回よぎる想念がある。さざめく情緒が水に流されると、まだ生きているとおもう回顧の一端として、さっきまであったイメージに「死」を代入する。()
引き摺る死体が滑っていく体液が拭われ石灰で壁を塗り直す作業にもうどこにもありえない生家の似ても似つかない気配、二度とおもいだせない故郷のほんとうのにおい。よろこびの失われた季節が押し寄せて、そうした偽の材料をかきあつめ故郷に似たものをかく。緑が黄色の花に混ざって山肌を包み込み、太陽に奥行きを出してもらう。視点のさまよいを川面がうけとめて、ゆらめく水の皺が光をしずませ穴があく。汗のにおいが家族を捕まえてベつの視点が風景にうつる。死と血と排泄物のにおいが身体を強ばらせると風景の出力が止まり、またつぎの脳が洗われるような情動を待つ。前回かいていた線画にのせるべき色をあらわすボカシを入れていきながら線を重ねると、警備に殴られて意識が点滅するそうした交錯に情動がブレて四日後に死ぬまで二度と思い出せない景色がフェイントする。 268-9
皮膚をバリバリ削ぎおとして、命が机みたい。そうおもった。ほんとうに? かいたら そうなっちゃう。だから私はそうおもった! 本が好き? 紙に印刷された文字。全部のページがべつの文字。きもちわる。命が言葉みたい。私はそうおもった! 私にはもう壊せるものがないよ。なんで? わからない。あとで考える......。本を読むと、なにかがととのうなあ。
そうして整理されるからこそ、整理されるまえにあったものがわかる。こわいよ。すごく。()
図書室で借りた本を読んでいる鍵盤におかれた尻がつかれて骨盤を寝かせると音が鳴る、手首をつくことに間抜けな音が鳴る、すると先生が来て、先生は私の担当のべつの先生を呼んできて私の名前を呼ぶ。夕方でピアノの蓋の黒が焦茶色になり、鍵盤と穿いていたズボンのカーキが溶け合って肌と骨がつながるみたいに音が鳴った。ドーンと骨にひびく、鍵盤の手前側が底まで勢いよく押されたときの打楽器の、高音でもズシリとおもたく身体の内側を揺らす巨大な音。大きな音が鳴ると、記憶が弾んでフラッシュする。さいしょに机をつぎつぎ倒していたときも、そうした大きい音を求めていたから倒しかたに拘った。手前に引くと引き出しの中身がクッションになりだらしない音になるから、しっかり両腕で手前の一辺のふくらみを摑んで、人体を転かすように丁寧にストンと。辺じゃなくて、角を鳴らすのが良い音。さいしょに倒した机があけちのものだったことをおぼえている。音が教室にひびいて記憶の恍惚を味わっていると、あけちはなにかをいいたそうにした。私はわかる。「おまえはもうあべくんじゃねえ」といいたかったんだろう?
「あけちー」 277-8
血がしめった地面にまじりあい、刃が裂いたかれの肉の感覚と柄を握る手のひらの感覚とが交換され、それぞれのなされるべき描写とひきかえに言葉が身体に、言葉が世界にもどっていく。
「私?」
星が体内に落ちてきた反射にすわっと貫かれる。珈琲のいろが皮膚を燻してとじていく。天体感覚が目に宿ってみはるかす。くさったにおいが混ざって何人もの身体。体積がまるごと横たわりまったくの川感覚。叫びがピカリと光りアスファルトに吸われる。
出ていく時間が私を置いていくと、身体から放たれる色が風景となって周りをくすま ていき、コイン投入口につぶつぶとある錆が銀色の反射を鈍らせる自動販売機のあかりが照らし変え死体らしくなる私の、アスファルトを掴んで引き摺った爪が剥がれかけ風に揺れる。目玉がしずんで口があいている舌から言葉がだらだら染みでていき、風景からかなしいの情動がおくられて圧が増し、大腿部がもう生きていない重みを骨にかけて周辺の肉が平らに垂れていきスクッと歴史がたちあがると、死体がキレイの頂点をなしみるみる汚くなっていき、外灯が自然光に混ざり汚点が道路をビシャビシャにして、外部を宙吊りにしかき継がれない認識が掃除されるまであと数時間たったひとりで死んでいる。 314
4. ディートマー・エルガー 『評伝 ゲルハルト・リヒター』 清水穣訳 美術出版社
ロルフ・シェーンとの1972年の対話の中で、リヒターはこの絵画と写真の関係の逆転について簡潔に語っている。「私の関心は、写真を模倣することです。私は写真をつくりたいのです。写真といえば一枚の感光した紙片のことだという意見を無視すれば、私は別の手段で写真をつくっているのです。写真的要素を持った絵画ではありません」。 61
想定されたイメージからは、なんの認識も獲得されないからだ。「作品は絶対に私より賢くあるべきなのです」と、リヒターは1990年に、作品に求めるところを述べている。「私が完全についていけなくてもよいのです。作品は、私がもはや完全には理解できないなにかでなければなりません。理論的に把握できてしまううちは退屈なのです」。
1982年の第7回ドクメンタのカタログのために書いた、よく引用される重要なステートメントの中でリヒターは、アブストラクト・ペインティングと、それと平行して制作される具象の風景画は、どちらも同じコンセプトの作品だと明言する。「ある出来事を描写したり、なにかを計画したり、一本の木を写真に撮ったりするとき、われわれはモデルをつくっている。モデルが無ければわれわれは現実についてなにも知ることは出来ず、獣に等しいであろう。アブストラクト・ペインティングは仮象的なモデルである。なぜなら、目に見えず言葉にも出来ないが、それが存在していると推測は出来る、そういう現実を、アブストラクト・ペインティングは明確にするからだ。そういう存在をわれわれは否定形で呼び(見知らぬもの、把握できないもの、終わりのないもの等々)、何千年も前から、天国や地獄や神々といった代理のイメージで表現してきたのだ」。さらにその数行先で、風景画との並行性が説明される。「具象画にも当然、こうした超越的な側面がある。あらゆる物象は、究極的に理解不可能な世界の一部としてその世界を体現しているから、描写の「機能」が少なければ少ないほど、その絵は世界のすべての謎を一層強力に示すことになるのだ」。アブストラクト・ペインティングと風景画は、このように相補い合って一つの世界像を形づくるが、その世界像はつねに断片的であり続ける他はない。絶えず複雑化の度合いを高め、謎めいて手に負えなくなっていく現実世界を把握するための目に見えるモデルとして、リヒターの絵画は機能するのである。「それは技巧的なゲームのようなものではなく、必然性のあるものです。なぜなら、すべて未知のものはわれわれを不安にすると同時に希望で満たしもするからです。絵画は、説明不可能なものをもう少しだけ説明出来るように、あるいは説明できなくても扱いやすいようにする可能性を持っているのです」。このようにリヒターは自分の作品の求めるところと、その優れた性質を強調する。「だから絵画がこの不可解な現実を、比喩においてより美しく、より賢く、より途方もなく、より極端に、より直観的に、そして、より理解不可能に描写すればするだけ、それはよい絵画なのです」。ここでリヒターは二つの、一見矛盾し合う特徴である直観性と理解不能性を、彼の絵画においてイメージを構築する二つの際立った特性としてはっきりと提示している。アブストラクト・ペインティングは、それが関わっている現実を解釈するわけでもなく、ましてや現実の諸問題を解決することも出来ないが、しかしどこか慰めになる。 308-9
拙稿「仮題《ゲルハルト・リヒター展》 東京国立近代美術館, 豊田市美術館」
URL近日追記
リヒターの風景画が成立しているのは、まさにそれが写真に定着された瞬間を絵画の無時間性の中へと移行させるからである。元の写真の中に記録された、ある具体的な場所と時間に結びついた現実は、絵画の中で、場所も時間もない自然の経験へと昇華していくのである。
風景画はつねに自然の一つの断片を見せるだけである。その断片は眼に見える現実には対応しているが、 われわれの今日の世界の本質的真実には対応していない。リヒターは、元の写真を丁寧に描き写すのだが、特定の場所とアングルと時間に限定されたモチーフを選別し、さらに細部を絵画的にぼかすことによってその現実を操作し、真実の不在を強調する。その限りで、リヒターのすべての風景画は、真実が失われているということの目に見えるモデルであると言えるのだ。それによって目に見えないものの「仮象モデル」である アブストラクト・ペインティングを補っているのである。
そうしたモデルは、それが関係する現実に似ることしか出来ない。だからどの作品もリヒターにとっては現実に接近するための、一つの試行であるほかなく、しかもその現実に完全に匹敵することはない。従って唯一無二の作品が成功することはありえず、多数の作品群が存在するだけである。もはや絶対的な真実が存在しないのであれば、少なくとも人工的な真実はありうるだろうと、1962年の時点でリヒターはまだ望むことが出来た。「絶対的な正義や真実はもはや存在しないがゆえに、われわれは人工的な、手本となるような、つまり人間的な真実を追い求めるのである。一つの真実をつくり出してそれと認め、それによって他の真実は除外される。芸術はそのような真実生産の一部である』。 311-2
完成披露式は2007年8月25日に執り行われた。ケルン市民のアイデンティティにも等しい大聖堂、その特別な場所のステンドグラスに、誰も無関心ではいられなかった。 「リヒター・フェンスター(リヒター窓)」を巡る議論が、何週間も新聞の文化欄や読者欄を埋めた。ほとんどの意見は肯定的なものであったが、批判の声も聞かれた。曰く、あまりにも抽象的・恣意的なデザインであり、大聖堂という場所性や歴史的文脈をほとんど考慮していない、と。実際には、リヒターはこのステンドグラスの仕事で3つのことを成し遂げている。まず、ケルンの大聖堂を訪れステンドグラスを見た人は、たとえそれが純粋に抽象的なモチーフであっても、そこに神の実在を感じるだろう。神の顕現はキリスト教のイコノグラフィーの中では現れ出る光として表現されるのがつねであり、それがここではスペクタクルな色彩のシンフォニーとして祝福されている。次に、このステンドグラスはキリスト教への対抗モデルでもある。すなわち、突出した中心を持たず下位に置かれた周縁も持たない、非序列的な秩序で並べられた色面は、キリストの代理人を頂点とするカトリック教会の序列構造に対する、現代の平等主義的・民主的な対抗モデルなのである。 347-8
5. 村上春樹 『海辺のカフカ 上』 新潮社 [再読]
6. 村上春樹 『海辺のカフカ 下』 新潮社 [再読]
20代前後、村上春樹は1,2年に1度新刊が出るたびとりあえず買って読むターンが続いてたけど、その間隔のためか今回初めて『ねじまき鳥クロニクル』との強い連環に気づいた次第。というかある面ではこれ、ねじまき鳥のネジ巻き直し作品だった。失われた妻/母を取り戻す、井戸を通じてイデアへ通じる、そこはまた魍魎跋扈する裏世界的でもあり。
『ねじまき鳥クロニクル』こそ現状村上小説最深の到達点、のように捉えてふつうに十年以上たつけれど、だから作品としての精度/稠密度に関しては『海辺のカフカ』がクロニクルを更新したように感じる。まぁでもやはり、ねじまき鳥ノモンハンパートの地獄的カオスタッチにはカラマーゾフ大審問官編の無闇な熱さに近いものを感覚したし、それは様式的洗練により研ぎ澄まされるものでもないよな、とも納得される。
なんにせよ。一度読んだからとりまいいかな、という思い込みによる先送りこそ悪習とあらためて。
7. 岡本太郎 『自分の中に毒を持て』 青春出版社
再読の可能性も端々に感じるが、岡本太郎が類似のことを余所で書くのを読んだだけのような気もする。その意味では粗製濫造感がなくもないのだけど、言っている内容自体のブレのなさは正しく岡本太郎だし、オリジナリティはありすぎるので名著として残る一冊はこれなのかも。
戦前のパリ回想が半端なくヤバすぎて笑う。完全に“あの”モンパルナスの住人だし、現代思想界の歴々ともふつうに交接している様はほとんどフォレスト・ガンプのようだ。
《展覧会 岡本太郎》スレッド https://twitter.com/pherim/status/1602907456577114112
一方で男女関係や結婚制度への忌避感には、岡本一平&かの子の影を感じずにはいられない。どうでもいいと思っていたらわざわざ激烈に否定も批判もしないわけで、そこに文字面とは裏腹の遥かな羨望のようなものさえ予感するのだけど、単なる深読みかもしれない。
沖縄文化論とかに比べると、終始当世の若者をアジってる感じは演技的で、TV芸人としての岡本太郎も半分入ってる塩梅。
バンコク会社在庫中の一冊。
8. 有田浩介 編 『Segei Loznitsa 2022 Донба́сс Донба́с Donbass : Official Film Guide Book』 株式会社サニーフィルム
ロズニツァ2018年作品『ドンバス』の劇場公開向けパンフレット、『セルゲイ・ロズニツァ ドンバス 公式ガイドブック』。
『ドンバス』“Донба́сс”https://twitter.com/pherim/status/1525445955570388992
表紙・背表紙に日本語はなく、表紙全面には「ドンバス」がロシア語/ウクライナ語/英語で3列表記される。ロシア語が先に来ているのはロシア語話者ロズニツァ作品ゆえ。小泉悠や町山智浩が寄稿してる鳴り物感は、ロズニツァ作品履歴中でも本作にこそ相応しく思われる。
ロズニツァはロッセリーニ+ブレヒトの伝統の中で『ドンバス』の十三エピソードからなるオムニバス形式を生み出した。 47
[渋谷哲也「戦争の日常、恐怖の記録 映画『ドンバス』における叙事演劇の手法」]
寄稿者よりご恵投の一冊、感謝。
拙稿「ルーシの呼び声《4》」URL後日追記
9. 藤原新也 『祈り』 株式会社クレヴィス
50年のキャリアを総覧するだけあって写真も言及対象も極めて多岐にわたり、手にとる誰にとっても「藤原新也」のイメージから外れる発見が必ずあるだろう一著。門司からインド・チベット、香港デモ、渋谷ハロウィン、山口百恵や大島優子など元アイドルたちから伊藤詩織、周庭まで。
拙稿「うつしみるとき 《祈り・藤原新也》展 世田谷美術館」
http://www.kirishin.com/2022/12/15/57613/
10. 飯山由貴『「あなたの本当の家を探しにいく」展から、知る・話す・書く』 東京都人権プラザ
《飯山由貴「あなたの本当の家を探しにいく」》展@東京都人権プラザ スレッド
https://twitter.com/pherim/status/1585977154025959424
飯山由貴展の冊子が届いてた。『「あなたの本当の家を探しにいく」展から、知る・話す・書く』。
精神障害者の差別や人権巡る経緯と現状を整理する中身。件の作品をめぐる言及皆無で、ひと月遅れの着配。冊子に書かれていないことこそ、この配達の実質的“内容”になってる感。(詳細は上記リンク先スレッドにて)
▽コミック・絵本
α. 瀬野反人 『ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~』 4 KADOKAWA
すでに恒例の魔界言語探索から、さらに一段深い認識世界探索へ。人間にとっての戦争が、魔族の側からは少しも戦争と認識されない、その回路が働かないのは、そも同族との物語が発生しないから、という発見の過程が鳥肌たつ。
いやなんというか、これ表現手法と表現内容の合致感が凄まじく、現行漫画ジャンルの画域をなす一極を占めているし、押し広げさえし得る予感。まだ予感の段階ですけれど。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 羽海野チカ 『3月のライオン』 11-13 白泉社
二階堂vs宗谷の対決は、シリーズ全体を見渡しても本作の将棋表現における山場の一つになるのだろうけど、その割にはサラッと描かれたというか、同時並行する葬儀屋兄弟エピソードがその山場感を食うくらい深くて良いあたりなんかもう羽海野節炸裂しすぎて圧巻よな。でもって和菓子屋マイホーム描写で落とす安定の。12月のライオンまでこれずっとしてほしくもあるけど羽海野新作も色々読んでみたいしって心から思わせる至宝。
γ. 原泰久 『キングダム』 32-38 集英社
合従連合各国からすれば、山の民の援軍とかチート級でやってらんない感あるよね。楚もびっくりの広域軍だし、夷狄が一番悩みの種な燕にしてみればズルすぎる。それに比べ突然でてきた魏火龍七師、秦六将・趙三大天と並び立つとか謳われてもザコ臭しかしない始末。昇進速度UPは意外。もっとモタモタするのかと。
食わせ者キャラはむだに目がつり上がっていて、兜が適当。
独立した奥行き醸す羌瘣エピソーズは好物です。
δ. KAKERU 『天空の扉』 3 日本文芸社
「ドラクエFFのよく馴染んだ世界観設定上で回る物語を、一部キャラのパラメータを突き抜かせることで一斉更新する手際はけっこう斬新。」とは1,2巻をめぐるよみめもにて書いたことだけど、ルーラの意外性がすでに慣れて恒常性に変わった世界で別の地力が問われるなか、すこし厳しい展開がつづく感。これどうやって後続巻をもたせるのか不思議なくらい、各話が各話自体のうちで息切れしているようにみえてしまう。しかしロリ絵や固定ネタのくり返しに強力な同人誌臭も感覚され、これはもしや読む自分の“ルールわかってなさ”のほうに原因があるのかもとか。そういうストーリーとはまったく無関係なところで新鮮だった読後体感。
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ε. 岩明均 『ヒストリエ』 6 講談社
大昔にどこまで読んでいたか覚えておらず、なんとなくこのあたりだろうと試しに6巻から読み出したら記憶よりぐっと解像度の高い物語で引き込まれる。アレクサンドロスが少年から青年へ。スキタイ出身とはいえエウメネスがマケドニアへ鐙を導入というのははじめ行き過ぎ感あったけど、おかげで馬のシーン増えたのだから画的にも幅的にもこれで良かったのだと至極納得。
ヘファイスティオンの二重人格っぽい登場はさすがの不穏さ、寄生獣味。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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コメント
12月15日
10:54
1: pherim㌠
冒頭画像元ツイ:
https://twitter.com/pherim/status/1588035529517731840
https://twitter.com/pherim/status/1602907456577114112
https://twitter.com/pherim/status/1601478025346191360