・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 古川日出男 『天音』 Tombac
「鴉と?」とぶらんこが尋ねて
「未来は騒然としているんだ、つねに」とおれは答えて
ぜんぜん返事になっていない
けれども ぶらんこは気にも留めない
「スラッシュだね」と言って
つまり翻訳してみた 『おれには福島の歌声が聞こえる』の記述の / のことだ
「刻んだね」とも言った
それはそうだろう
それこそが斜線の役割
だから / で歌が刻める
おや? ノートを覗かれた
「何冊持っているの?」と訊かれた
「霊感をため込んでいるの?」とも尋ねられた
らー、らー。らー
たった七冊だとしかおれには答えられない
八冊だったかもとしか返答できない
そこで天を仰いだら
カリフォーニャの(ニャアニャア! にゃあにゃあ!) 青空には七千冊のノートブック
たぶん太平洋のその海中には二万五千冊の
そして無数の岩石の直下の
地中には三冊の創作ノート
たったの三冊
そっちも探求しないと!
おれは、わが霊感をもって情報をそんなふうに受信して(らー!らー、らー!)即、号泣
〈号泣〉即是〈歓喜〉
「川端康成は言ったよ」とぶらんこに言った
「梵鐘の音は空から来て、空に残っているようであった」と言った
「『たんぽぽ』という未完の小説に書いてある」と言った
歓喜!
おれはそんなことを思いだせた
そんな大事なことを
ここカリフォーニャの正午には天恩があるのならば
空に、それがあるのならば
そもそも大空には天音がある
音を「おと」と言わずに「おん」と言ってON
(天音
( /
(ON
とおれが刻むのを ぶらんこは気に留める
「じゃあ、空に残っているものを、ON」と言って
おれの創作ノートに つける……さわらせる……接触?
ぶらんこはうなずいて
踵を返して
というのも、太平洋岸に進んだからで
ビーチから海中に入ったからで
北関東を、栃木をめざして泳いでいってしまったからで
さようなら さようならだ!
ぶらんこ
きっと
未来にはもう会えない
おととい会おう
とあっさり言ったら
おれの創作ノートが燃える! 七十ページぶん
58-64
混乱するな、この詩篇!
混乱するな、この記述!
天音は そうだ
天音が見た 狂乱の旋律が シンフォニック花束に生まれ変わって
メロディアス機械に収穫される
しかも機械を操るのは 鳩
つがいの雉鳩
もちろん地中には棲まない
棲息域は〈地上〉で
救いの手はそこから
おお救済! 救い!
そこから
それから雉鳩たちのオペラが開幕する
天音彷徨
つがいの雉鳩が暮らすのは大森林
一ミリ単位で樹間はオペラに満ちる
一光年単位の植生のまとまり
量子がその歌声を吸った
「ここ、などという場所は存在しない」
まるで南無阿弥陀仏の六字
この断言
オペラは斜面を疾駆する、その〈地上〉の!
天音は それから <世界>を それから〈世界〉を
おれは もう天音が覚醒しているのを、確認して
叫ぶ
音符、おまえが量子の神秘を解き明かす
音符、おまえが酸素という酸素を燃焼させる
音符、おまえは五線譜の代わりに樹間を求めた
フローラの魔法
幹と枝とのあいだの〈空間〉の、その血管
静脈の五線譜 動脈の系譜
音符たちが産み落とす〈時間〉
そして滑走路
本日は二〇二二年の六月十四日だ 火曜日 いまだ日本時間
おれは羽田にいて
こういうフレーズはどう?
(わたしがわたしを語ることは日本を語ることにはつながらないけれども
( /
(わたしがわたしを語ることは日本語を語ることにはつながる
その日本語のままで
欧州
さあ、響いてゆこう
東京国際空港から飛ばされる フィアンセの天音を隣席に座らせて
102-7
2. ゲルハルト・リヒター 『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』 淡交社
R 写真とは、ほとんど自然なのです。()我々は、これらの恐ろしい写真をみたがっている。()高速道路の事故を考えてごらんなさい。どれほどそれが魅力的であるか。なぜだか説明できますか?
■私たちは生き残っているからです。その時点では、我々は事故を免れたからです。観客として特権的な場にいるからです。その瞬間に、自分たちが生きていることを、とくに強く感じるからです。
R それは大きな利点です。でも、そこで我々は自らのおわりをもみている。これが非常に重要なことです。そしてこれもまた、写真表現 の可能性なのです。だから、写真が非人間的だと感じたことは一度もない。写真が絵画より劣っているとも思いませんし、まさしく絵画とはちがうものだと思います。写真にはべつの効果があります。それは、より直接的で、じかに触れてくるもので、無媒介的です。
■ その意見は驚きですね。写真は私を石にします。絵画は哀悼を許してくれる昇華作用だと感じられますが、写真はそうしたものを許してはくれません。写真はその複製において、盲目です。
R 一枚写真をみせていいですか? 私がこの写真から読みとれるもの……それは同情です。こんなにあらわにほとばしりでているこの若い女がここで横たわっているようす、すべての細部が、こんなにも多くのことを物語っています。絵画はこんなに直接的には表現できません、写真ではすべてがずっと強烈です。()
()
R そして、作品は写真とも異質でなくてはなりません。そのちがいを、こういえるでしょう。この例でいうならば、その写真は恐怖をひきおこすが、同じモティーフの絵はむしろ哀悼をひきおこすと。
■その際、死はまだ偉大さをもっているでしょうか? 我々の時代に、偉大な死というのは、もはやほとんどみられないように思うのですが。私自身がくりかえし目をとめるのは、「犬死に」という見だしのもとに、私が集めているニュースです。たとえば、掃除機に巻きこまれたとか、冷却槽に落っこちた人のニュースがあります。あるいは、ベルリンの墓地では、場所が足りないので垂直に埋葬する、といった話です。私はしばしば自問するのです。そのようなニュースによって、我々の死にたいする態度は変わっていくわけですが、ディレクターや編集者は、それに気づいているのだろうかと。そういうニュースが我々の時代です。あなたは、この残酷な真実に加担しようとしているのですか?
R まったくその反対です。 死というものの厳粛さを示そうとしています。
■ それなら、このぼかしはなぜですか?
R まず、イメージを非常に厳密に写真からうつして描きます。ときには、お手本よりもリアリスティックにです。それは、いくらか経験をつめばできることです。もちろん、できあがるのは、あらゆる観点からみて耐えがたい絵ですが。
■精神分析のやり方が思いだされます。 まるであなたは、まず抑圧を撤回して、それから再びつくりだしているようですね。写真をずっと大きなサイズで描くと、写真の恐ろしさも増大するのですか?
R 部分的にはそうです。それは事件を再構成するようなものですからね。原寸大ですから、なおさらそうです。 86-8
R 「平凡さ」は「取るに足りない」よりはもう少し上です。
■ どういうことでしょう?
R もう少し意味がある。「悪というものの平凡さ」に言及しましたが、それは平凡さとは、ある点でなにか恐ろしいものでありうることを示すためです。平凡ということを、人をぞっとさせるなにかとして表現することが問題なのです。シャンデリアの作品《フランドルの冠》は怪物です。私はわざわざ本当の怪物を描く必要などない。この物体、このダサくて小さくて平凡なシャンデリアを描くだけで十分です。この物体は恐ろしい。フランシス・ベーコンと自分のちがいをいうために、かつてのべたことがありますが、私なら顔を変形する必要などない。人々の顔を写真に写っているそのままに平凡に描くことのほうがずっと恐ろしいですよ。そうすることで、平凡なものはたんなる平凡以上のものになるのです。
■怪物的とは?
R 私にとってずっと恐ろしいということです。 154
R いや、甘受というよりもう少し上ですね。ケルンの大聖堂で二人の子どもに洗礼を受けさせたとき、教会にたいする私の見方は大きく変わりました。教会がもたらしてくれること、どれほど教会が人生に多くの意味をあたえ、支えと、慰めと、安らぎをあたえてくれるかに気がつくようになったのです。
■そうおっしゃっても突き詰めればそれもやはり、宗教心をもつための宗教的な理由というよりは、実際的な理由であり美的な理由にすぎないですよ。あなたは宗教儀式の力と形式的な言葉遣いの不変性にひかれているのです。祈りの言葉、我々を庇護する空間、偉大な絵画、眼前を通り過ぎる場面、音楽の響き。我ら自身の存在を超えるものへの希望。
R 我々が必要とするすべてでしょう。
■ドレスデン時代、文学はあなたにとってどうでしたか?
R 非常に重要でしたよ。とくにトーマス・マン。でもトーマス・マンへの敬慕とともに西側へやってきて 気がついたのは、そんな敬慕はむしろ自分を滑稽にみせるということでした。マンは進歩的でもなく、ラ ディカルでもなかった。ブルジョワだったわけで、こうした言葉が当時のスローガンでした。 190-1
■形式がもっとも重要だなどと聞くと、それを形式主義的に誤解する人も出てくるのではないでしょうか。つまり、戦争にたいしてあなたは無関心であると
R いいえちがいますよ。戦争という内容は所与です。つまり存在しているところのものです。今回の場合、事実があまりにも圧倒的なので、我々は他の場合以上に形式化の試みをしなければならないわけです。戦争と対峙するために、形式をより必要とするということです。 211
拙稿「浮遊する死と未生の光 《ゲルハルト・リヒター展》 豊田市美術館, 東京国立近代美術館」
URL近日追記
有名人でいるつもりもないし、イデオロギーももつ気はない。ほかの人々と同じでいるつもりだ。皆が考えることを考え、私がしなくともだれかがするようなことをするのだ。それ以外のことを することに、いかなる意味もみいださないし、意味をみいだすことなどはけっしてしない。それでなくとも人は(たとえなにか新し いことをするとしても)、だれかがするようなことをいつもするのだと思う。
イデオロギーをもつことは、法と基準をもつことであり、つまり、ほかの法をもつ人々を殺すことである。なんの役にたつというのか?
自由というのはまったく存在しない。自由があったとしても、それでなにをすべきか、私にはわからないだろう。
芸術家にとって、名前は存在してはならない。机にたいする机も、家にたいする家も、十二月二十四日にたいするクリスマスも、十二月二十四日にたいする十二月二十四日もあってはならない。そのようなばかげたものを我々は知るべきではないだろう。 我々(芸術家)は、いかなる見解も意見ももってはならない。意見とか見解などは、ほかの人々にまかせておけばよい。たとえば、消防士の世界の見方は、時計職人のそれとは異なっているだろう。
絵画について語ることに意味はない。言語でなにかを伝達することによって、人はそのなにかを変化させてしまう。語られうる性質のほうをでっちあげて、語られえないそれをないがしろにする。でも語られえないものこそ、つねにもっとも重要なのだ。
ポルケ曰く、「描くという行為にはなにかあるにちがいないぞ、だって、たいていの狂人はなにもいわれなくても描きはじめるんだから」。
私の絵画における中心的な問題は光である。
1966 NOTES
私はいかなる意図にもシステムにも方向性にも従わない。いかなるプログラムもスタイルも関心ももたない。専門的な問題、仕事上のテーマ、亜流も巨匠もどうでもよい。私はあらゆる規定を逃れ、自分のしたいことを知らず、一貫性がなく、いい加減で、受け身である。 無規定のもの、限界のないものが好きだ。それと絶えざる不確実性。それ以外のものは、キャリアや広告や成功に役立つだけで、いずれにせよイデオロギーや意図や概念やものの名前とおなじくとっくに古臭くなっている。
僧侶と哲学者がもはや存在しない以上、芸術家がこの世で最も重要な人種である。そのことだけが興味を引く。 244
3. 近藤存志 『ゴシック芸術に学ぶ現代の生きかた』 教文館
こうしたペヴスナーの見解は、ドレスデンにおけるドイツ表現主義絵画をめぐる議論の中から導き出されたものだったと思われます。という のも、ペヴスナーが実際に身を置いた1920年代後半のドレスデンにおいてティリッヒが真の宗教的芸術表現のあるべき「形式」として表現主義芸術の価値を論じていたからです。
ドレスデン工科大学在職中のティリッヒは、彼の「最初の代表的著作」とされる『現在の宗教的状況』 (Die religiöse Lage der Gegenwart, 1926) を出版し、「造形芸術」を主題のひとつとして扱いました。それはドレスデン時代のティリッヒ自身の芸術観がまとめられたものと言えるでしょう。ティリッヒはその中で、次のように主張しています。
今世紀の初頭以来、ブルジョワ社会の精神からの離反が最も明白な形をとってあらわれているのは、絵画においてである。通常「表現主義」 と呼ばれている一派はこれを典型的にあらわしている。……
セザンヌが客観的造形への意思をもって形式ととりくみ、事物に その真の形而上学的深みを与え返した。ヴァン・ゴッホは、情熱的な力をもって光と色彩のなかの創造的動態を顕わにし、北欧人ムンクは自然と人類のなかにある宇宙的戦慄を示し出した。この地盤の上にその後イタリア、フランス、ドイツ、ロシアなどいたるところでもろもろの新しい力が展開した。本来の表現主義が、革命的意識と革命的力とをもって登場してきた。事物そのものの固有の形式は解消したが、しかしそれは主観的印象のためにでなく、客観的形而上学的な表現のためであった。存在者の深淵が、線と色彩と柔軟な形式のなかに呼び起されなければならなかった。ドイツでは「ブリュッケ派」の画家たち、すなわちシュミット・ロットルフノルデ、キルヒナー、ヘケルなどが指導的な役割をはたした。他の人びとも彼らとともに歩んだ。この運動が、現実的なものの内的表現力がまだ奔放に見られた古い原始的で異国的な形式にもどっていったのも当然のことであった。原始的芸術やアジアの芸術の発見は、 ブルジョワ社会の精神からの離反の象徴になる。この派はまた、未来派、立体派、構成派といった名称であらわされる特異な運動を引き起こした。事物の自然的形式が解消し、幾何学的性格が採用される。そこには、ブルジョワ的、合理的精神の支配下にあるあらゆる有機的形式表現がいかに不真実なものかという感情があ る。同時にまた、そのようにして獲得された平面、線、 立体は、ある神秘的透明性をもっている。表現主義でもいたるところそうであるが、ここでも現存在の自己のうちに安住する形式の突破が現われている。ここには、古代の芸術におけるごとく彼岸の世界が描かれているのではないが、自己をこえて彼岸へと向かう事物の内的な超出が描かれている。 39-40
拙稿「『ゴシック芸術に学ぶ現代の生きかた』 近藤存志」
http://www.kirishin.com/book/57997/
拙稿「浮遊する死と未生の光 《ゲルハルト・リヒター展》 豊田市美術館, 東京国立近代美術館」
URL近日追記
つまりここでティリッヒの言う「ブルジョワ時代」とは、必ずしも「近代」に特化したものを意味していません。それは、「ものとの関係」が「聖なる畏怖」によって聖別されず、「所有することに対する敬虔と感謝」によって聖別されていない社会傾向を指し示し、そうした傾向はルネサンスであれ、近代であれ、現代であれ、どんな時代にも成立し得る「非神律的社会」のあり様を意味しているのです。そして「ブルジョワ社会の精神」と対峙する「神話的・宗教的性格」の精神も、「今世紀の初頭以来」の社会にのみ限定されるものではなく、 41
一方、「4つの異なるレベル」の中で、「最も具体的な意味において宗教的芸術と呼びうる芸術」は、「宗教的な表現形式と宗教的な内容が一体化」されているような芸術、 すなわち宗教的な内容がそれにふさわしい宗教的様式や信仰的表現によって表されている芸術でした。ティリッヒは、こうした絵画芸術について、「典礼的目的や、あるいは私的信仰のために用いることができる」と指摘するとともに、次のように説明しています。
この形式は、それが、なにかを表現するために表層が崩壊させられている形式であるがゆえに、一般に表現主義的と呼ばれている。
つまりティリッヒは、徹底して「なにかを表現」しようとする「表現する」という芸術的 <機能> の追求に徹した表現主義的な芸術作品を「もっとも具体的な意味において宗教的芸術と呼びうる芸術」として捉えていたのです。
こうした芸術は、ドイツ表現主義の興隆によってはじまったものでは決してありません。それは 「近代よりずっと以前」から存在していたからです。ティリッヒもそう主張しています。 47
それでも彼らは、中世を生きた人びとが「美を強化するための揺るぎない信仰心」を持ち得たのは、人びとの社会的生活とは別次元で神律的社会が実現していたからだと見ていたということでしょう。そうした中世の姿は、ヨハン・ホイジンガ (Johan Huizinga, 1872-1945) が次のような言葉によって説明していることと重なります。
中世キリスト教社会にあっては、生活のあらゆる局面に、宗教的観念がしみとおり、いわば飽和していた。すべての事物すべての行為が、キリストに関連し、信仰にかかわっていたのである。つねにそうであった。つねに、事物すべての宗教的意味を問う姿勢がみられ、かくて、内面の信仰はひらかれて、おどろくほどゆたかな表現を展開する。
中世人の日ごろのものの考えかたは、神学の思考様式と同じであった。……生活のなかに、たしかな場所を占めるにいたったもの、つまり、生活形式になったものは、卑俗な習俗慣行であれ、至高至尊のことがらであれ、すべてこれ、神の世界プランのうちに秩序づけられたものとみなされる。
中世思想の概念体系は、天をさしてそびえたっている。 80-1
サヴォナローラは、カトリック教会の世俗化と権威主義を激しく批判して、その結果、処刑されました。処刑のおよそ2ヵ月半前の1498年3月3日、サヴォナローラが教皇に宛てて書き送った手紙の末尾には、次のような言葉が記されていました。
われわれが求めているのはこの世の栄光ではなく、ただキリストの栄光だけです。そのためなら決して死をも厭いません。
サヴォナローラと、アレクサンデル6世を中心とする当時のカトリック教会主流派との対決は、「キリストの栄光」を求める者と、「この世の栄光」に固執するカトリック教会の対立だったのです。
宗教改革の先駆者であり、カトリック教会の世俗化と堕落に命をかけ て警笛を鳴らしたサヴォナローラは、ピュージンにとって、宗教改革を 必然的に誘発し、その後さらに堕落を重ねたローマ・カトリック教会の衰退を的確に予見した、まさに英雄だったのでしょう。ピュージンは、サヴォナローラを「偉大な闘士にして真理のための殉教者」と形容しています。
生前、サヴォナローラは、「われわれが神の名でしているつもりのことは、じつは世俗的な名誉心を満たすためにしているのである」という言葉を残していました。
サヴォナローラは、名誉欲とは「決して尽きること」のない、人間を最も強く蝕む悪徳であるとも語っています。 97-8
人を魅了する技巧や飾り装飾がキリスト教芸術にふさわしくないことは、使徒パウロが「アレオパゴスの評議所のまん中」 でアテネの市民に説いた言葉からも明らかです。
「……この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。 神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、またひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。 あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。
このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。……」
(新約聖書「使徒行録」17章24-30節) 100
ピュージンは、著書『尖頭式、すなわち教会建築の正しい諸原理』の中で、次のような印象的な言葉を記しています。
人間に与えられている最大の特権は、この地上に生のある限り、神の栄光に寄与することを許されていることである。
これはピュージンのキリスト教的ゴシック・リヴァイヴァルの核心を表わす宣言として読むことができるでしょう。 106
壮麗な大聖堂、大修道院の建設のプロセスの中で、中世の職人たちが担った役割は、歴史研究と現代社会のあり様との結びつきを強く意識していたペヴスナーの目には、大量生産の製品製造工程――現代の生産プロセスの流れの中で――歯車のように働く現代人の生きかたについて考える手掛かりのように映ったに違いありません。中世の人びとの多くは、長大な芸術創造のプロセスの中で無名に徹し、周囲の人びとや後世の人びとからその働きが承認されることを欲することなく、ひたすら労働にいそしみました。 功名心とは無縁な労働環境に生きる現代の勤勉な労働者の姿には、そうした中世の先人たちと重なる真面目さ、ひたむきさが感じられたのでしょう。 130
キリスト教的ゴシック・リヴァイヴァルは、「高ぶる者は低くされ、ヘりくだる者は高められる」(ルカによる福音書11章43節 / マタイによる福音書23章12節)と教える聖書に忠実な芸術創造姿勢の実践と言い表すことができます。
それは、敬虔な信仰によって、福音書が警告する人の弱さを克服し、信仰の表明として建築・芸術が実現されることをめざしました。
キリスト教信仰に根差した中世ゴシックの芸術創造の復権をめざしたキリスト教的ゴシック・リヴァイヴァルの探究者、そして実践者たちは、現世的な富と名声を獲得したいという人間的欲求を神律的芸術創造の実践によって乗り越えた先人たちが、中世ゴシックの時代に実在したと信じました。そうした中世ゴシック芸術の先人たちの生きかた・労働姿勢に倣おうとするキリスト教的ゴシック・リヴァイヴァルの精神は、日々現世的な喜びを欲し、周囲から評価、承認されることに囚われてしまいがちな現代を生きるわたしたち一人ひとりに、神律的営みの価値を今も教えてくれています。 136
4. 『ユリイカ 2022年6月号 特集ゲルハルト・リヒター』 青土社
読み応えある特集。とくに強い印象が残ったのは、清水穣、香山檀、沢山遼、関貴尚、新藤淳、浅沼敬子。荒川徹の音響論は理解し切れないものの新鮮、丹生谷貴志の文章は昔から好きなはずなのに、文字を追っているだけでほとんど意味が入って来なかった。時期をあらためれば違うのかも。
学生のころ直に縁のあった人間が書き手に5人くらいいるのも驚き。5人いても上記へ並ぶに至らないのも、今後が予感されむしろ悪くない。
5. Gerhard Richter “An Empty Space” text by Itaru Hirano Akira Ikeda Callery / New York
死とは何かと考えたとき、純粋な死などはあり得ないことに気付く。 死は常に様々な言説によって支えられるからである。死はそれが語られる状況に応じて美化され、英雄性を帯び、カタルシスを生み、蔑まされ、汚される。 死とは言説とともに常にあるとい うこの事態を認識し、リヒターはあえて言説が最も厚みを帯びる死、すなわちイデオローグの死をテーマに選んだのである。そしてその分厚い言説の厚みを消し去っていくことこそ、まさにリヒターにとっての絵画制作であり、芸術行為にほかならないのだ。逆の見方をすれば、その厚みがあるからこそ、厚みを消す作業が芸術行為になりうると言えるであろう。なぜならその厚みが消え去った時の真空のような落差がなければ、言葉を完全に奪われたあの言い様のない死という印象は、決して生まれないはずだ。《1977年10月18日》という連作とは、イデオロギーの言説の厚みの向こうにある死を、その厚みを拭い去った後の落差を通して、言葉に換言できない光景へと変える試みといえるのである。 34
仮に“死”がもはや宗教的なもののなかに存在しない (あるいは、それ以前より少ししか存在しない)としたら、“死”はほかの場所に存在するものでなくてはならない。その場所というのが、おそらく生を保存しようとして“死”を生み出す写真映像のなかなのである。もろもろの儀式の衰退と軌を一つにして出現した“写真”は、おそらく宗教を離れ儀式を離れた非象徴的な“死”が、われわれの現代社会に侵入してきたことに呼応するものであろう。それは字義どおりの“死”のなかにとつぜん飛び込むような“死”である。」そしバルトは、写真の出現によってもたらされた「平板な死」の時代の到来を指摘する (18) この近代以降に現れる「平板の死」という時代の感覚を敏感に察知し、最初に絵画にした画家の一人が、恐らくエドワール・マネであろう。 36
こういった死をその意味作用から切り離し、冷徹に描くマネの姿勢は、写真や新聞というメディアの存在と不可分であったといえる。
近代主義絵画の入口に位置するマネの作品に、既に現れていたこの「平板な死」の表現は、20世紀に入りポップ・アートの制作の中で頂点に達することになる。なかでもアンディ・ウォーホルは、「平板な死」という状況をマス・メディアに氾濫する写真に見出し、その写真を絵画に複製するという点で最も自覚的な美術家であった。ウォーホルは 1963年のインタビューで、マス・メディアに死が氾濫していることに言及し、私がしていたすべてのことが、死であったに違いないと気付いた。」と自ら語っている。 37-8
写真に保存された「平板な死」は、写真からそのまま絵画へと複製されることで、いかなる意味をも与えられず平板に再現されているのである。こういったウォーホルの絵画における死の表現とは、 近代主義絵画の入口に位置するマネの死の表現の延長線上にあるといってよい。様々な意味作用が抹殺された死が、写真を介して平たい平面に記号のようにはりついた絵画なのだ。それは死の危機であると同時に、まさに絵画の危機でもあった。ウォーホルの作品が、絵画の終焉と言われる所以の一つはそこにある。 38
寄稿者よりご恵投の一冊、感謝。
6. 大橋良介 『時はいつ美となるか』 中央公論社
様式展開における美的な成熟を「時が充ちる」過程と捉え、「時熟」という造語を軸に据えて中欧を旅する随筆。リヒター原稿の流れで行き着いた本ながら、ミュンヘンの項目が意外性もあり良かった。結果的にミュンヘンは欧州で一番長く滞在している街のはずだけれど、展覧会企画を目的にミュンヘン大学学生カップルのアパートへ居候していたため、街の大枠も観光スポットもほとんど把握していなかったりする。だから五千人規模の集落であったゆえの大聖堂計画の意識的な素朴さという話は知らなかったし、腑に落ちる部分も多い。土地柄的に、感覚的に。
それでまぁ読書中の高揚なども手伝って昨年のベスト本8位に挙げたのだけれど、読み終えてみるとそこまでの圧力とか重い手応えのようなものがあったかといえば、あったとも言えるしそうでもないとも言える。良い随筆って多くの場合はその捉えきれなさが良いのであって、捉えきれないということは量りかねるということであり、いま書きだすまでベスト入りは違ったかなと思ってたけど、案外順当なのかもしれない。
いずれにせよ、いずれ再読はしたい一冊。
あと古東哲明と読後感に不思議な類縁性を覚えた。内容の方向性はまったく違うのだけど、書き口かな。まったりじっくり深めていく味わいの。
2022年の本ベスト約10冊 https://twitter.com/pherim/status/1608771982556028928
7. 有田浩介 編 『Segei Loznitsa 2022 vol.2 Mr. Landsbergis The Event : Official Film Guide Book』 株式会社サニーフィルム
https://twitter.com/pherim/status/1609063767882764288
『セルゲイ・ロズニツァ ミスター・ランズベルギス 新生ロシア1991 公式ガイドブック』。ロズニツァ映画パンフではお馴染みの池田嘉郎解説、ランズベルギス教授x沼野充義対談、想田和弘/中山良夫+石渡敏幸/夏目深雪/村山匡一郎、監督ノートおよび日本配給元サニーフィルム有田浩介エッセイ。
教授x沼野対談は沼野先生の質問精度がさすが。中山良夫+石渡敏幸は、両名がまだ若かりし1991年に日テレのドキュメンタリー企画でロシアをシベリアから北ルートで西端のバルト海まで抜けた経験の持ち主で、終点の先のリトアニアでソ連軍侵攻に立ち会ったという武勇伝の持ち主。いまの局内でも伝説化している取材というが、今の若手がそれをやりそうには全く無い感じが文面から伝わってくる切なさも。
拙稿「ルーシの呼び声《4》」URL後日追記
発行元よりご恵投の一冊、感謝。
8. 『日本発見 岡本太郎と戦後写真』 川崎市岡本太郎美術館
生まれそこなった子供みたいな、ひらくべくして、ひらかなかった魂。だからこそ生命の渾沌に耐え、その力にみちて、不気味である。ちゃっかり形になってしまった人間の、間のびしただらしなさ。その無気力な表情にくらべ、この目、口、耳を潰されて、ひたすら内に生命力を充実させている人型の方が、どれほど人間か……と思う。
()
(岡本太郎『神秘日本』中央公論社、1964年) 91
2001年春開催の岡本太郎写真を軸とする展覧会のカタログ。ほか濱谷浩、土田ヒロミ、土門拳、東松照明、内藤正敏、都築響一、藤原新也出展。
2022-3年東京都美術館開催の《展覧会 岡本太郎》に併せ掘り返す。22年か。(遠い目)
《展覧会 岡本太郎》スレッド https://twitter.com/pherim/status/1602907456577114112
日頃から感じているモチーフ、仮説だが、狩猟的なものが、生と死の直接的なからみあいを生活の基調としているのに、農耕文化の上を覆うているものは、性の象徴であると思う。それが呪術的に形式化されている。田の神を中心としたさまざまの儀礼。
(中略)
早乙女の尻がずらりと並び、苗を植えるたびに、揃って微妙に動く。だいたい女性のこんなポーズは挑発的なものだが、それが集団になると、いちだんとセクシュアルである。 一人一人の女ではない。この全体が「女」そのものなのだ。
このエロティックで、ひどくかわいい尻に向って、囃し手は猛烈に太鼓を打ち鳴らす。迫るような男性的リズム。大太鼓を前につけて激しくふんばったところは、男が 男根をふりかざして挑んでいるようだ。
植え進むにつれて、女の尻が並んだまま、じわじわ迫ってくる。女がまた男に挑んでいる。
囃しの合間、早乙女がときどき両足をひらいたまま立ち、手をだらりとひろげ、揃ってほっと放心する場面がある。これを「腰にする」というのだが。それがまた色っぽい。
植える、実らせる。この生殖行為を象徴した呪術。そのうしろの泥田で、牛がいつまでもぐるぐると廻っている。まるで神秘 の証人のように。
作業は激しくかきたてられる。
(岡本太郎「神秘日本』中央公論社、1964年) 102
土門 カメラメカニズムを百パーセントにその機能を発揮させたものが必要なんだよ。昔は大型カメラで五秒なり三分なり動かないでもらわないと写らなかった。その場合でもカメラメカニズムの限界一ぱい使う。現在35ミリカメラの1000秒の切れるものでも、その限界を一ぱい使う。シャッターだけじゃないけれども、その限界を極度に生かしたものが、そのときのいい写真を生むともいえるね。
岡本 われわれに与えられた今日の課題は、現代の技術をいかに生かすかですよ。たとえばモダーン・アートなんかいかにもでたらめを描いているように考えられるわけだけれど、 実は一番技術的にむずかしい。徹底的にむずかしいし、高度ですよ。 画面全体をでたらめに塗って過去の芸術を否定したんじゃないですよ。インチキを描いてるんじゃ長続きはしない。とくに芸術の上ではごまかしはきかないんだからね。高度の技術が必要なんだ。高度なんということは言いたくもないし言うべきじゃないが、土門君にしたってブラブラ遊んでいるようにして撮っていても無雑作だからこそ高度な技術がかえって要るというもんだろうな。 195
(土門拳連載対談第3回 今日の芸術 岡本太郎 X 土門拳 『カメラ』アルス 1954年11月)
9. ハンス・ゼーデルマイヤ 『光の死』 森洋子訳 鹿島出版会
『中心の喪失』『大聖堂の生成』などの著作もある、ヴォリンガーやゴシック芸術をめぐる本などでしばしば言及されるゼーデルマイヤの『光の死』の古書がネットで比較的安価に手に入る(2000円)のを見つけ、これはと注文してみたものの、読み出してみるとまったく乗れない。同時代ながらやや先行するヴォリンガーがそれなりに面白く読めたのに対し、このつまらなさは何だろうと逆に興味深く思い、一応全ページめくる程度の仕儀には及びけり。
要は固有性や新しさを一切感じないということなのだろう。熱を感じず論理は基本乗り越えられた先のものをすでに読んでいるという感じ。ヴォリンガーは理屈はさておき、熱だけはあったからな。プロ倫やキルケゴールでさえその一点をまず評価してまう自分としては、それがないのはがっかりしてまう、ものらしい。
まぁ、時間をおいて読むとまた違うのかもしれない。
10. 『ゲルハルト・リヒター ATLAS』 川村記念美術館
2001年春開催のリヒター大規模展。現代美術そのものが新鮮なジャンルだった頃、はるばる千葉の田舎まで出かけたのは良い思い出。偶然にも岡本太郎展↑と同じ時期の展示カタログを続けて読み返すことに。まぁそういう時期ということはあるのかも、とはすこし思う。
想像すること、見解をもつこと。それが我々を人間らしい人間にする。芸術とは意味を与え、形にするものであり、神を探求する宗教に似ている。たとえ、すべての意味付与や想像は人為であり、幻影であると分かっていても、それらを放棄することはできない。なぜなら、信仰(現在を思考し未来に思いをはせること)は、我々の非常に重要な特質なのだから。
(創作ノート、1962年) 121
ハンス・ウルリヒ・オブリスト: 僕は鏡をあなたの全作品のメタファーだとみているのです。「reflek- tieren = 反映する・反省する」という言葉は、その二重の意味とともに見る者を作品のなかへ引き入れ、観者は同時にふたつの状態におかれる。リフレクションの狡知というわけです。
リヒター:心地よいのは、映像空間が写真よりももっと多様で偶然だということだ。
オブリスト:さらに開放的?
リヒター:そう、絶えず異なってみえるただひとつの作品。そしておそらくは、すべての絵が鏡であることへの示唆。
(ハンス・ウルリヒ・オブリストによるインタヴュー、1993年) 121
(編/松岡 剛、 訳/清水穣)
▽コミック・絵本
α. 石川雅之 『惑わない星』 5 講談社
ブラックホールの接近にシリウスが気づかず軌道が曲げられる、という変身態の定義が曖昧なあたり逆に良い。こういうラインを確信犯的に狙える感覚はもやしもん作者ならではというか、女の子キャラの物神化に文字通りを通り越した、けれどフェティシズムとも異なる味わいを醸しだしていて、それこそかもすぞ的なセンスだなと。などものすごく感覚的な物言いに終始してみました。なぜか5巻で完結と思い込んでいて、まだ終わらないと知りふと宇宙の無限感に想いを馳せるなど。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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β. 魚豊 『チ。 -地球の運動について-』 1-6 小学館
のっけの『薔薇の名前』的ダークミステリー展開がすっげーいい。密室で進行する科学風味も、コペルニクスとかガリレイとか想わせるものあって素晴らしい。のだが話が進むにつれ、抑圧者の描写がかなり都合よくなってきた結果セカイ系味が濃くなってしまいつつあるのが残念。戦隊モノがつねに鉱山現場で地球の平和を守ってる感じ。
とはいえ6巻終盤では、暗闇で地動説と印刷術とが出逢う。どうもっていくのか楽しみではある。
γ. 相田裕 『1518! イチゴーイチハチ!』 2 小学館
生徒会物語、歓迎マラソン編。こんなピュアどストレートな主人公娘、+みんないい子な登場人物だらけでしっかり面白いこの話運びはなんかすごい。どこに引っ張られてるのかわからないけど、きちんと興味が引っ張られていくんだよね。この破綻の無さは無さすぎて不思議なんだけど、2巻終わってまだ入学歓迎段階というこのじっくり歲月を重ねる感じは、先が楽しみにもなるね。なつかしの日常系ってな趣き。
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δ. 石黒正数 『天国大魔境』 1 講談社
超能力系近未来SF on 終末世界 with 不条理テイスト、イイ。石黒正数ってもっとマイナー路線ゆくのかと思っていた。アイアムアヒーロー的にブレイクする近未来あるよねこれ。
ε. 南勝久 『ファブル』 8-12 講談社
兄の山での生命力鍛錬と、妹のバーでのバカ男狩りとの競宴わろす。
街なかでシマがどうのシノギがどうのやってるだけのヤクザものよりでかい世界を舞台にしてますよ、っていう画域をわかりやすく示す対照性よろしおす。“ワルの凶悪さ”とかいくら描き込んでも同語反復にしかならず、どうしたって退屈になるし何かの模倣になる。そこを回避するのがファブルの面白さなんだろね。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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コメント
01月15日
23:24
1: pherim㌠
冒頭画像元ツイ:
https://twitter.com/pherim/status/1609063767882764288
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