・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 井戸川射子 『する、されるユートピア』 青土社
川をすくう手
学校、うん、教室にいるとぽつんと、一つの島に一人ずつがいる気持ちになる。それがきれいな島ならいいけれど。
私家版で2018年に発行された井戸川射子の第一詩集『する、されるユートピア』は、こうして始まる。それは「この世の喜び」で第168回芥川賞を受賞する5年前のことであり、川すなわち水の流れは以降今日にいたるまで、井戸川の最も重要なモチーフでありつづける。詩作においても小説においても変わらない、そこには生命を、あるいは存在の全体さえをひとつの流れとして捉えることで、個別化そして孤立化へと追いやられる現代人の精神の逼塞を、どうにか抜けでたところで言葉を紡いでいこうとする、井戸川のしなやかな手つきが看取される。詩集『する、されるユートピア』は23番目の詩「ニューワールド」により、次のように閉じられる。
ニューワールド
詩があった、それで良かったです、体だけでは感動を与えられないから、言葉をすごく上手に使いたい、考えるのは組み合わせだけでも、引き出せれば見たことのない帯で、ただ、順序よく並べるためだけのものではないと信じます。見た?見られた、どの体も同じくらいみずみずしい、ぼくたちはいつも、離れる力で衝突大破をくり返す、さまよう広がり、ひびわれの砂だ、ミューゼスの海だ。語は個々に着色される波で、追い抜かされそうになる、分からない、まだ全部は生まれていない、川のようにされたところ、少しでも早く流れ出ようとするフレーズに囲まれている、存在する、を引き受けているだけで意味はあるはずで、川、戻らずいつもニューワールドです。 43
水滴が寄り集まり、せせらぎを生み、合流しあって山を削り、曲がりくねって地を平らげ、海へとそそぐ。ここでは以下第一詩集から、川や水の流れをめぐり重要と思われたフレーズを幾つか抜き出してみる。なおこれらは一部にすぎず、実際には詩の数よりも多く登場する。
池にいる石も削り取られ、
元からの形じゃないかもしれない、あなたもそうだ
したたる水がくっつき合い、
この集まりとしての一生が今終わった、
痛みのない変身もあるんだな
妻を支えるあの夫は、それだけで
愛そのものに見えること、知っているかな
薄紫のジャンパーと乱れぬ歩調は、
今日の空と同じだ
袖が動きを制限することもあるだろう
添いあうペリカンの白い像がいて
波打つ羽、くちばしを上げてここに2匹、
立ち続けるのは楽しいだろう
(ムービング) 17
それはたとえば、
高速で、
善良であるということの全てを、説明できる
あたらしい議論が発現する
うれしい、
どうしようもない分かり合えなさもない
読めている?
今、向き合うぼくたちの間にもものの介在
口の動きに合わせ水は入って来る、
安全な反復感動
見たことないものは、
この文章の中にない、驚かない
入れ物、ぼくでなければ
おもしろい程違う光景だろう
「エスエフだな」
地面のような肌だ、生み出す点において同じだ
背中は絵画が置かれる前の広い空間
安全な反復感動
言葉を覚えたのはどんな気持ちか
歴史群か、それ以上のもの?
曲線を持たない体だったら残念だ、
と思って肩をつかむ
機能している
水面は光の量を二倍にして、
映らないぼくはまだ一人だ
安全な反復感動
「それは、川の表面だと思って触ると
上手くいくらしい」
まねしてみる、偉大だ、上手くいく
(どの表面も、反射する膜) 18-9
やがて本当の闇が訪れる。広くせいせいとしていて、僕は中央を歩く。あの時懐中電灯は持っていなくて、母の脚、弟と片方ずつしがみつきながら行ったのだ、お腹をくっつけながら進んで、いつでも何か追ってきそうなのは後ろ側。家の二階に一人で上がることもできなくて、あの時すべてはもっと怖かった。息を吸って吐くことが大変なんて、絶対気付いていなかった。また響いていくのはどこかからの水音、自分の一歩もよく見えない。突然に、出口が白い点として見え出す。外に出ればそそり立つ、どこでも同じ光と川だ。
(光る川はそのまま、それで、これは流していいんだっけ) 27
少年は顎をななめに傾け、口を開けた
「水っぽい、と言われることはうれしいのかな、硬く、
どんどんと重くなるのを切望されるのに、ゆがみなく、
大きく生きることが本質なのに」
「性差も
まだ分からず、
調和や活躍なんて
考えてなかった、その時のことは覚えている?」
返事を待つけど、
厚い殻のせいで、ぼくにはよく聞こえない
(バイバイ、グッドモーニング) 31
水の中では全てが膨張スローで、
対面すれば動きはもっと速いはずだ
「固着して動かない種もいる」 地面で互いにひとつながり、
表面に区別などないのかな
僕も同じ、集合だ、まとめられた愛だ
説明がほしいと、いつも思っている
会えなくなっても、動き方まで覚えておける?
筋肉も落ちて骨の形にくぼんで、
入り江みたいだったな
中身も消えてこんなにあざやかな貝殻だ
周りの人がぼくくらい悲しくいますようにと、
願わなくてもたぶんその通りだ
(川、腰までつかるほどの) 33
たとえば深い川に柱がもれなく建ち、安定している顔してるのは変でない?快晴はいつも、同じく大きく膨らんでこない?暗くなれば分かりにくいけど、皮ふは見れば小さなものの集まりで、中身、詰まっているものを知らない。森も横から見ればすき間ばかりだ、自分で動かせないものの多さに驚く。ダフネ、ぼくのこと特別だって、思ったことなかったろうね。ぼくは遠くに行ってしまってあなたはそのまま、どこへも動かないで生きる気だ。見に来れば会えるけど、沈黙だけが流れるだろう、選択も反響で、体はなければ楽だろう。使ったことのある言葉をもう口にしたくない、そうか、次ぼくは自分のことさえ呼べなくなるな。大きく地面を踏んでも前に聞いた音がして、じゃあもう鳴らす意味はないか。悲しいことは起きないように注意している、意味ないこと知っている。
(ダフネ) 35
不定形の川の流れに無常感がただようのは、恐らく読むほうが鴨長明や美空ひばりへ勝手に言寄せているからで、これらの表現はもっと深い共通項をもつ。ひとつにはからだとの直の連環であり、水に対する強烈な没入感と、これに相反する“出口”へとつねに開けた期待感を醸す点である。こうした川や水の流れをめぐる表現の多用は、第一小説「膨張」や「ここはとても速い川」でも変わらず、むしろ加速する。というよりも、「膨張」の語や速度への言及がすでに上記引用部内にもあるように、小説群は先行する詩作のモチーフを詩的言語の世界から散文的な日常会話の語り口へと編み直す作業であるかのようにさえ感覚される。
「夜の街をまだあてどもなく回遊」するところから始まる小説「膨張」で、「川の、開けていく下流の方にある簡素ホテル」に泊まる主人公は、「イブさんと呼んで」という女性と「ウオ」と名乗るその息子5歳らと交流し、「対流する人波をかき分けて走るウオ」を追いかける終盤では路傍の石がビルのように、街が陶器のように転化を始め、ウオの耳に入ったイヤホンは燃える火のように光り、頭とからだの「内部」が膨張しだす。中盤に登場する塾のチャイムが鳴り生徒が席へ戻る描写で唐突に挿入される、「散財するかたまりたちがほどけていって、集まる若さは噴水だ、小さくても見応えがある。歳を取ると川になってしまう。」は殊に印象深い。それはたとえば「ここはとても速い川」での、少年主観による下記のような川の描写を想起させる。(次項へつづく)
2. 井戸川射子 『ここはとても速い川』 講談社文庫
浅いところは石で痛くて、深いところは怖いんやった。注がれてくる水が水をまたいで、川は群れでめっちゃ飲んでしまう。勢い、流れ落ちひんためには、何かの形にしがみつかなあかん。水の帯がこうやって囲むんやなと思う、まだ大事なもんみたいに握りしめてる網は何も助けへん。残りの指で傍の石をつかむけど固定もされてない、一緒にただ押し出されてまう。 48
己を包み込み、己を押し流す存在としてのこうした「川や水の流れ」の描写優位は、親子が噴水のあるサービスエリアから温泉のあるキャンプ地へ向かい雨に降られる2022年1月発表の「キャンプ」や、荒川と芝川という名のふたりの女性を主な登場人物とする2022年3月発表の小説「マイホーム」にも踏襲される。しかし、同7月発表の「この世の喜びよ」と同6月末発行の第二詩集「遠景」の中盤から、それまでとは明確に異なるトーンを帯び始める。その変化は両作品に共通するため、ここでは「この世の喜びよ」からの引用を通し考えたい。
3. 井戸川射子 『この世の喜びよ』 講談社
魚コーナーは水が破裂する音がし続ける、こういうアロワナなんかはやっぱりずっと見てられる、悠々と動いて景色みたいで、などと言い合う。あなたは熱帯魚が好きなので、ここに来ればいつも魚たちの細かな動きを腰を沈めてじっと見る。これは外側だけに色が塗りつけられた、透明の体なのだろうか、体の内からこんな模様が浮き出ているのか、と思いながらあなたは軽い布に包まれた、手触りのいい自分の膝を撫でる。
「目チカチカする」 30
夕方なので釣りのゲームには男の子たちが群がっていて、大きい水槽のような広い画面は遠くから見れば黒い沼で、それにかぶりつくようにして、手 は釣り竿型のコントローラーを握っている。男の子たちの、今この瞬間も伸びていってるような脚が台を囲む、目の高さを合わせ、肩をぶつけて喜んでいる。少し近づいて見ると、真四角の綺麗な水辺で、睡蓮の葉の下から小魚の群れが現れたりする。ゲームなら害がなくてとてもいいと、自分の売り場の作業台に戻りながらあなたは思う。 15-6
小説「この世の喜びよ」で、喪服売り場の販売員を生業とする主人公女性は、職場周辺の人々と関わる時間のなかで、育て上げた娘との日々を回想しつづける。過去作において顕著であった「川や水の流れ」をめぐる多種多様な描写や比喩表現は大きく後退し、本作では専ら「魚コーナー」の水槽と、「釣りのゲーム」のゲーム内へと押し込められる。あるいは浴槽の内側へ。
大学生の時に付き合った相手は、女の子の胸って水中で踏むと気持ちいいんだよねと言い、湯船で向かい合い、毛の濃い脛を上げて柔らかくあなたのを足蹴にしてきた。あんなことをこの子もするだろうか、しないだろうかとあなたはぼんやりと思った。魚も切り身なら楽だよ、フライパンの上で鮭ほぐしちゃってそのままチャーハンに、とあなたはアドバイスした。ハリネズミには唇の厚みも眉もない、ケージの前にはまだおばあさんがいて、狭い場所で走り回る犬を、そんなに急いで、とたしなめている。 34
湯船の中で女の子の胸は踏まれ、魚のからだが刻まれ表情のないネズミや窮屈な犬へと連なる描写は鮮烈だ。そうして水槽や釣りゲームがくり返し登場するなかで、主人公とあるひとりの少女との距離が縮まっていくのだが、ここで注目されるのは上記引用部においてアロワナの体を「景色みたい」と言い合い、「外側だけに色が塗りつけられた、透明の体なのだろうか、体の内からこんな模様が浮き出ているのか」と心象が記されたあと、「軽い布に包まれた、手触りのいい自分の膝を撫でる」へと描写がつながる点である。下記に引用する本作末尾の段落は、この描写から直に導かれている。
あなたと話したいから思い出したの、うちの近くには団地があって、それがありがたかった。寒さでベランダの柵が鳴り出すような古い建物で、錆びた遊具や枯れ木なんかが落ちてた。最近行ってみたの、壁は思い出のよりもっと黄色くなって、バリアフリーなんてない頃のだから細かい段差がいくらでもあって、大きな切り株は、時が経てば岩と見分けがつかなくなって。あんな地面を、どうやってベビーカーを押して進んでいたんだろう。日なたの黄色い芝生に鳩がたくさんいるだけで、あの子たちは叫ぶほど嬉しがって、私も手を打ち鳴らして、芝生は古かろうが柔らかくて安全で、陽が照ればなおいい。傾斜の緩い坂もあるから歩くのに楽しく、夕方は団地の子で溢れるけどそれまでなら人がいなくて、強い風が吹けば砂が形を作った。広いから周りは明るさばかりで、木も、用水路からの水音もあって、ああいうところが、長く待っているにはいいんじゃないかな。少女が、近づく自分を見てうつむいたとしても、それなら出来るだけこれで最後だというように、でも力を込めてそう言う。進む脚に力は均等に入る、スーパーの空洞を循環する暖かな追い風が背を撫でる。あなたに何かを伝えられる喜びよ、あなたの胸を体いっぱいの水が圧する。 96
かなり長めの引用となったが、これ以上短くすることは文脈上不可能と思われる。ここで大きな切り株は岩と見分けがつかなくなる必要があり、吹く風が砂の形を作り、用水路からは水音が響かねばならず、その逐一を示す義務が筆者には生じている。ここではそれら切り株や風や水音の総体が主人公のからだとなって、「あなた」の景色を準備しているからだ。ちなみに「無人島だったから大勢で 渡し舟に乗っていった」と始まる詩「水島」を初めに置く井戸川の第二詩集『遠景』は、娘の成長を大地創生になぞらえる詩「調和の入り江」や、世界の仕組みを伝えようとする詩「説明がいる、外にある」を含むなど、過去作との対置において概ね小説「この世の喜びよ」に近い印象を抱かせる。
すなわち主人公はここで「歳を取り川になった」のであり、外部から川中の出来事を眼差している。この場合の川とは足早に地上をゆくそれだけでなく、目に見えない速度で気づけばふと地上へ現れ、あるいは深海へと直にそそぐ地下水の流れを含む。井戸は後者へ風景をもたらし、井戸底の水面では「あなた」すなわちわが子や世の子どもたちの胸を、体いっぱいの水が圧することで生かしゆく。この水の流れを空想の産物とするのはそれを読む側の世界観の反映にすぎず、たとえば私たちを満たす空気のうちへ、水の類系とみなせる資質を見いだす詩人がいたとしても不思議はない。2023年3月雑誌『群像』掲載の新作小説「野鳥園」は、「何かが鳴り続けている、池の流れの音がある。」と始まる。
井戸川射子は流れつづける。
井戸川射子 作品批評(『この世の喜びよ』を軸として)
https://tokinoma.pne.jp/diary/4868
4. アニー・ディラード 『石に話すことを教える』 内田美恵訳 めるくまーる
イタチはただ生きねばならぬように生きる。わたしもそう生きたいし、それはすなわちイタチの生き方だという気がする。時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず、与えられたものを猛烈な、狙い定めた意志で選択する生き方だ、と。
その機会を、わたしはのがした。喉元に食らいつくべきだったのだ。イタチの顎の下の、あの白い筋に向かって突進すべきだった。泥の中だろうが野バラの茂みの中だろうが、食らいついていくべきだった、ただ一心に得がたい生を求めて。わたしたちは連れだってイタチとなり、野バラのもとで生きることもできたろう、ものも言わず、わけもわからずに。いたって穏やかにわたしは野生化することもできたろう。二日間巣にこもり、背を丸め、ネズミの毛皮に身を横たえ、鳥の骨の匂いを嗅ぎながら瞬きし、舐め、麝香を呼吸し、髪に草の根をからませて。下は行くにいい場所だ。そこでは心がひたむきになる。下へは外へでもあり、愛してやまぬ心から外へ抜け、とらわれのな い感覚へと戻ることである。
その沈黙は眩暈を覚えるほど引き伸ばされた断食だった。そのために、一瞬一瞬がかけられた言葉の饗宴となったようにわたしは記憶している。時間と出来事が注釈もなにもなしにそのまま流しこまれたのだ、血液が頚動脈からわが臓器に送りこまれるように。()人は選んで貧困の誓いを、貞節や服従の誓いを、はたまた沈黙の誓いを立てる。要は、呼ばわる必然へと巧みに、しなやかにしのび寄ることだ。やわらかい、いきいきとした一点を見つけて、その脈に接続することだ。それは従うことであり、抗うことではない。イタチはなにものをも襲わない。イタチはそう生きるべく生きているだけだ、一瞬一瞬、ひたむきな必然の、完全なる自由に身をゆだねて。 12-3
沈黙こそ自然の唯一の所見であり、世界のかけらのどのひとかけも、あの無言で不変の塊りから削りとられたものである。中国人に言わせると、人間は一万余の事物の世界に住んでいるということだが、その一万余のどのひとつもわたしたちにまったくなにひとつ語ろうとしないのだ。神はその昔、神聖な木立にいつも入りたがるイスラエルの人びとに怒ったものだった。わたしは、そんな木立があるのなら見つけたいものだと思う。 35
買ったのは軽く四半世紀前で、ふしぎなタイトルに惹かれて買ったけれど硬派な書き口に興味は持ったまま通読できずにいた。
拙稿「石のみる風景《二つの教会をめぐる石の物語》展 宇都宮美術館」
http://www.kirishin.com/2023/04/09/59892/
石がテーマの文章を書くことになり、ようやく読めた次第。
わたしたちはもはや原始のままではない。今は世界じゅうが神聖でなくなっている。 神聖な木立の小枝から光を奪い、至高所や神聖な小川からそれを抹殺してしまった。わたしたちは丸ごと汎神論から汎無神論へと移行したのだ。沈黙はわたしたちに託された遺産であるどころか宿命となってしまった。人は生きたい場所に生きるものなのである。
魂は神になんでも願い求めることができるし、その願いが叶わないことはないだろう。 36
恐怖のあまり理性を失った彼らは、もう二度と直接語りかけられたくないと思って、モーゼに懇願した、「神さまがわたしたちに語りかけないようにしてください。でなければ、わたしたちは死ぬでしょう」と。
モーゼはメッセージを伝えた。彼らの自意識を憐れんだ神は同意して、二度と人間に語りかけないことにしたのである。そしてモーゼにこう言い添えた。「行って彼らに伝えよ、テントの中へもう一度戻れ、と」
Ⅲ
自分で招いた損失をとり返すのは、そして去ることを求めたものを呼び戻すのは、至難のわざである。木立を冒しておいて、気を変えることもしかりだ。神聖だった山々は黙したままである。()かつて風は叫び丘は賛美をとどろかせただろうに、今や地の命なきものからは言葉が消え、命あるものも少数の者にわずかなことを語るのみだ。鳥は甘い戯言をさえずり、猿は吼え、馬はいななき、豚はみんなご存じのとおり――ブーブーと鳴くだろう。だが、浜の玉石も波が引けばごろごろと鳴き、雷雨の中で雷鳴が空気を割くこともあるのだ。こうした音をわたしは沈黙と呼ぶ。動いているところには音があるともいえる、クジラが跳ね上がって水面を叩きつけるときのように。そして、静止しているところには静かな、小さな声が、つむじ風を通して語る神の声が、自然の昔ながらの歌と踊りが、町からわざわざ見に出かけてきた見せ物が、ある。 37
月の黒い実体が空から剝がれて太陽の上に覆いかぶさったとき、丘の上の全員がたぶん、わたしも含めてだが――絶叫した。しかし同時に別のことが進行していて、思うに、わたしたちを叫ばせたのはそれだった。
太陽が消える一瞬前、わたしたちに向かって暗い影の壁がものすごい勢いで襲ってくるのが見えたのだ。まるで雷のように、見たつぎの瞬間にはもうわたしたちの上に襲いかかっていた。谷にとどろきわたり、ドカンと丘を打ち、わたしたちを昏倒させた。月の、途方もなく速い影の円錐だった。その後、この影の波は時速一八〇〇マイルで移動するということをなにかで読んで知った。時速一八〇〇マイル。このような速度は言葉ではまったく把握できない。幅も一九五マイルあった。終わりが見えず、見えたのは先端だけだった。それが時速一八〇〇マイルで陸を越えて自分に向かってくるのだ、うしろに疫病のような暗闇を引っ提げて。それを見て、自分に向かっているのだと知るのは、麻酔薬がずんと腕を駆け上ってくる感覚と似ている。頭の回転の速い人なら、「じきに脳に達する」と考える時間ぐらいはあるかもしれない。麻痺感覚が腕を駆け上ってくるのが、自分の血のぞっとするような非人間的な速度が、感じられる。わたしたちは影の壁が襲ってくるのを見て、打たれる寸前に叫んだのだ。 77
地理は生命を限定する要因である。種分化、あるいは生命そのものは、最終的には暖流と寒流の、肥沃な土壌と痩せた土壌の、あるいは砂漠と森の淡水と塩水の、デルタやジャングルや平原の、問題なのだ。種は孤立の中で出現する。石膏模型像の緻密さは母型の緻密さにかかっており、生命は地理の注解なのである。地に拳を打ちつけて地理学を砕けば、行き当たるのは地学だ。気象とは、それぞれの土地の地学的条件によって調整された、鉱物地球の丸みと傾きと軌道がつくる風である。 111
これは気の滅入る、絶望的な考え方である。人生の進展にともなって病みだし、生活の規律や規律の幻影を失い、どんな目標にも向かわずただ流されていると感じるときに、こうした想念が呼ばれもしないのに群がってくるのだ。わたしたちの人生はただののたくりに終わり、いつまでも放浪すべく呪われているらしい。自然さえも敵対して毒をもち、脆いわたしたちが生き残ることはこの冷酷な石の上では不可能なようにも思える。
わたしにとって、こうした考え方が真実か否かより、それに内在する美の可能性のほうがはるかに興味深い。わたしたちは美が成長するこの地上に、時間の中で存在しているのだ。たとえものごとが考えられるかぎり悪化し、すべてが無意味になっても、そうなればことの真偽などどうでもよくなるというものだろう。そうならば、いっそわれわれの感情や感覚を思いっきり楽しませ、あらんかぎりの元気をふりしぼって一か八か飛び出せばいいではないか。
地球は閉ざされた宇宙船 宇宙船地球号――というより、美しくも自由な、裸のままのマングローブの島に似ている。()「どこへともなく」がわたしたちの出番の合図であり、その合図で合奏団が演奏しだすと、コーラス部のわたしたちは動きだして芸を始める。マングローブの島は流浪をダンスに変え、漂いながら自らの土を創造し、塩っぱい海をでたらめに揺られながら、昼も夜も太陽の周りをぐるぐるとまわりながら揺れつづけ、太陽をまわり、ヘラクレスの東へと揺られていくのである。 142-3
通読する価値を感じるのに、何度かトライしてるけどできてない本というのはたくさんあって、しかも少しずつ増えていくから昔のそれは余計に遠のく。今回宇都宮美術館の記事を書くことになって、この機に読むぞと決めたら、
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
https://twitter.com/pherim/status/1647118945940561920
記事を書き出した日に観た話題作エブエブの中で主人公母娘が石になって話しだしていて、笑う。なんの符号だっていう、こういうことがあるとまぁ記憶には残るよね。
皿を洗っていて向きなおると、また夏になっていたり、別の季節か、もう行かねばならない時間になっていたりする。
子供とわたしは川端に立っている。車に荷物を積みこんで以来落ち着きを失った犬が、わたしたちのまわりをうろつく。森に隠れようかと思いついては、その案を打ち消したりしている。子供とわたしは並んで立っている。牧草地の向こうでは、山々が靄の中へ消えてしまった。牛たちもいない。スズカケノキの枝が揺れもせず、川の上へぎこちなく垂れかかっている。水の反射は枝下の周辺を揺れ、枝についている葉の裏側で平たく光っている。
「わたしは行かない」子供は言う。「ここに残るわ」
続いて、だれが望みを叶える立場にあるかについての若干の考察が行なわれる。わたしたちはアメンボを眺める。悲しいことに、今こうやって立っている自分たちを将来の自分たちが思い出しているところを、わたしたちは想像しているのだ。子供が女の指をもてあそび、緑の谷と澄んだ川の 上に朝の光が射しこんでいるところをだ。だが、彼女がわたしの指をもてあそぶことも、トラックがコテージの裏手の坂を上ろうとギアがロウに入った音を耳にすることも、ここに来るまでは想像していなかった。わたしたちは向きなおって出発した。
エピローグ代わりに追記するならば、発つ段になって、小さな、決定的な出来事がわたしたちに 起こった。予期しない突風が吹いたのだ。 177
土地
相対的到達至難極とは「どの方角の陸地からももっとも遠い北極海の想像上の一点」である。ピアリーとヘンソンが一九〇九年に北極点に到達したあと、探検すべき目標がつきてしまった北極探検家たちをなだめるために考案された航海地図上の一点のことだ。南極にも相対的到達至難極という、どの方角の海からももっとも遠い陸上の一点がある。
とすれば、「絶対」が形而上学における相対的到達至難極に当たるのだろう。だれがなんと言おうと、絶対性についてわかっているのは、それが相対的に到達困難だということだけだからだ。どの方角から到達するにもいちばん遠い精神の一点。トラブルがもっとも多い極点でもあるのはほかの二極点と変わらない。同時に――これも当たり前のことだがもっとも高い代価が求められる極点でもある。 181
こうした個人的記録を数多く読んでいると、極地探検家というのはどういうものか、その空疎で重くるしい文体ゆえに選ばれたのではないかとさえ思えてくる。あるいは、たとえば著名なビクトリア朝の貴族が、あるとき自分の文章を読むとはなしに眺めていて、ああこんな文体では極地探検にでも行かずばなるまいと、おそらくは愕然として気がついた、といった次第だったのではないだろうか。 186
年とってからのジェームズ・マクニール・ホイスラーは、よく大西洋岸の浜辺へ二、三枚の薄板と絵の具を持って散歩に出かけた。来る日も来る日も板の上に幅広のぼやけたひと塗りをして空と海と海岸を描いた。三本の光あふれる縞。わたしがとても好きな晩年のホイスラー作品である。北極圏の高緯度で、そんな絵の中に立っているような気がして彼の作品を思い出した。わたしは靴から焦点をぼかし、足元の砂利からも岸辺の混沌からもぼかして、生まれたばかりの赤ん坊が見るにちがいない、網膜に映る意味のないさまざまな光を見た。世界は、知らない距離からわたしを包む色彩の原野の絵だった。わたしはそこに踏み出すのをためらった。
要するに、北極には認識できる三次元の空間がなかったのだ。時間もなかった。太陽は沈まなかったが、もともと現われても来なかった。二四時間ぶっ通しの薄暗い光が、雲の蓋が濃くなったり 薄くなったりするにつれてでたらめに変わった。情況が情況だけに、食事はでたらめになったり不可能になったりした。わたしは疲れたときに寝た。起きると外に出て、無色の縞と渦巻く風の中を歩いた。大気が距離と混じり合い、地面と氷と光が夢見るような凍った蒸気へとぼやけ、わたしはほかにそれらをどうすることもできず、結局、ただ息をした。ときおり、蒸気の中から白い鳥が物質化し叫び声をあげた。それはほかに形容のしようが見つからないのだが美しい土地だった。空が澄みわたり、暗い海の中で氷が光ったときはなおのこと美しかった。 212-3
5. 矢野利裕 『学校するからだ』 晶文社
中高一貫校の国語教師として働き「身体性」へ着目する批評家が、コロナ禍を迎えオンラインへ逼塞する教育潮流へ全身で抗っていくファイティングストーリー。というほど物語物語はしてないのだけど、現場の瑞々しい七転八倒描写が大変読ませる。こういう教師がいたら絶対好きになったし、なんなら登場する生徒と同じように生意気にも彼を舐めつつもリスペクトする、要は気安く接する路線を採ったろうなと確信される。まぁ実際、たった3日間ながら生徒として接した際にもそこかしこでその片鱗は醸していたのかもしれない。
ともあれ、たぶんこれ本人に会ってから読んだことで全編イメージ鮮明な読書体験だったけど、もし会わずに読んだらどれくらい違った受け取りになったかはすこし気になる。「身体性」が先行してこその論理/知識受容という点では、まさに本書の内容そのものの受け取りができた感はあるけれど。
6. 矢野利裕 『今日よりもマシな明日 文学芸能論』 講談社
冒頭に書いたように、文学の本領は、言葉を書き連ねていくごとに世界が立ち現われていくという「一回性」のうちにある。常人には見ることができない、どころか語った本人すらも理解のおよばない、論理や秩序や社会とは無縁の、あの特異で解放的な世界。
熊太郎は、希求した人並みの社会性を手放さざるを得なかったが、手放した社会性の代わりに、あの特異な世界を語りえた。熊太郎の悲しみに同情するのはいいが、熊太郎の切実さとともに見出された、あの解放的な世界を見逃すべきではない。いや、見逃さなかったからこそ、「河内十人斬り」は、夏祭りという《芸能》の場所で唄い継がれていたのだろう。 64-5
奥泉はなかばいとうを諭すように、さまざまな観点から小説論を展開したうえで、「単一の意味の方向性に回収されない言葉の運動の可能性を探っていくこと」が「小説を書く作業」だ、と語っていた(『小説の聖典 漫談で読む文学入門』河出文庫)。 92
「こうやってしゃべっている僕の言葉を聞いて、誰かの考えが変わったとします」
何を言っているのか、自分で把握出来なかった。どこで読んだのでも聞いたのでもない考えが自分に降ってきていた。だが、しゃべっている自分にはなんの迷いもな かった。私はすでに暗い溝のようなところを飛び越えていた。私は最後の言葉にいきついた。
「それが奇跡ではないでしょうか」
(いとうせいこう『Back 2 Back』) 94-5
言葉は裏切る。 《私》たちはいつだって、言葉の厄介な性格に振り回される。しかし、そんな言葉に背中を押されて生きているのも、またたしかである。言葉は思い通りにならないからこそ、《私》を別のところに連れていく。この社会を別のところに連れていく。本当がウソになってしまうのと同じように、ウソが現実に働きかける。()
言葉を書くと、また次の言葉が生れてくる。
――何という奇蹟か。元気のない時には、なぜこんな精妙な事が、ごく簡単に、まるで自然な容易さで行うことが出来るのか、よく解からない。できるだけ、言葉を書いてみよう。ただの一語でもいいから書き付けてみよう。言葉を書くことが、こんな場合は、つまり生命の徴しなのだ。(秋山駿『「生」の日ばかり』講談社)
誰が勝者誰が敗者/誰も決めれる訳などないさ
だが今ここに確かにある俺という現象がただただラップ
あってないようなもんさ目的は後付けで構わんね俺的には
ただただ止めどなくあふれるフロウ/これが俺の命の鼓動
(DABO 「I REP feat. ANARCHY, KREVA」) 246-7
7. 藤本高之 編著 『イスラーム映画祭アーカイブ 2022』 イスラーム映画祭
イスラーム映画祭8主催者インタビュー http://www.kirishin.com/2023/02/13/58734/
《イスラーム映画祭8》上映全作スレ https://twitter.com/pherim/status/1623868263074787328
恒例の映画祭に、恒例のアーカイブ本、安定。佐野光子、岡真理、渋谷哲也はじめ執筆者も常連陣安定で、既存記事のくり返しにはしない必然からも、限られた紙幅いっぱいに斟酌ない深さまで掘ってくれて読み応え抜群でした。
いずれは大全みたいな形で一般書籍化されて然るべき水準なんだけど、どうですかね。聡明な出版社のあらんことを。
8. 大西暢夫 『糸に染まる季節』 岩崎書店
「色には季節がある」って岩田さんは言う。
から始まる、新潟県十日町の染織家岩田重信を撮る写真エッセイ。草木染めに生涯をかけている職人の、自然に囲まれた山中の作業場で土地と一体となったような仕草から抽きだされる色たち、伐りだされる言葉たち。端正ながらもややロマンチック寄りの読み味に懐かしさを覚えたけど、末尾履歴に本橋成一師事とありなるほど納得。
画像ツイ https://twitter.com/pherim/status/1649550963840278528
9. 『ひとり暮らしで知りたいことが全部のってる本』 主婦の友社
イラストが良ファンシー風味醸してて、内容も良いさすが主婦の友社感。これみて新生活の諸々へ期待と想像膨らませてる春の18歳とか22歳を物陰から愛でたい感じ。
トーストのレパートリーとか、チューブ生姜やチューブにんにくぶっ込むドライカレーとか、手数を減らす系の工夫に目がいった。図書館推薦棚本から借りた中ではわりと当たり。(全ページめくった時点で基本当たり)
10. 東浩紀 『ゲンロン友の声セレクション』 ゲンロン
だから、人文科学の古典は、自然科学とは異なり、それが真実として人々に広く認められたから、その実証性が確認されたから、その結論を前提として受け取るために読むのだ、というようなものではありません。だから哲学に発展も蓄積もないのはあたりまえで、そもそも、ソクラテスの正義とカントの正義とレヴィナスの正義と、それを比較考量するような物差しが原理的にないのだから(というかそもそも彼らはみなそれぞれの正義の概念をギリシア語、ドイツ語、フランス語の正義に相当する名前で呼んでいたわけで、それらの意味は微妙に違うわけだし)、 そんな蓄積などできるわけがないのです。そうではなく、人文学においては、古典というのは、たんに、自分だけでものを考えるのに限界があるから読むだけのものなのです。それがおもしろいと思うかくだらないと思うか、 それは質問者さんの選択です。ただ、 「正義」 だけではなく、 「愛」や「心」や「真理」や「欲望」や「知」といった概念もまた、この意味ではすべて人間の外側にはなにも物理的には存在しないものなのであって、もし質問者さんがそれらの概念あるいは言葉に足を踏み入れようとすれば、必然的にぼくと同じように、「評価の定まった知見は教科書に集約され+頻繁にアップデートされ、それに加えて最新の研究論文を参照する」なんてことは永遠にない世界でさまよい続けることになります。それが哲学というものだと思います。 5
ぼくはときおり、左手の指を机のしたで折り曲げていることがあります。そういうときは、あ、ここ話が盛り上がるポイントだなと思って、答えを返す時のキーワードを忘れないように指でメモっているのです。そういうコツを自分なりに開発すると、「今思い浮かんだこと」 も忘れなくなりますよ! 11
▽コミック・絵本
α. 森薫 『乙嫁語り』 13 KADOKAWA
まじかー、っておもっちゃう。スミスがアミルたちとの再会を断念するの、予想はできてたけど、やっぱ再会したときの展開とか想像しちゃうよなぁ。
構想的には当初からあったのだろうけど、実際2021年3月発刊でこのロシア侵略がもたらす深い翳りはすげーな、ともおもう。直前の双子x双子おもてなし編がめちゃ明るい展開だっただけにズーンとくる。しかもあとがきで14巻完結と知りどよーんが加わる。この世界だけは終わってほしくなかった。まぁ森薫の他の世界も観たいし贅沢は言いませんけど。いや神作ですねほんとに。すでに十分高い評価も、これからさらに上がるとおもう。とくに海外で。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読み)
β. 山田鐘人 アベツカサ 『葬送のフリーレン』 6,7 小学館
6:魔術師試験編、とても巧くて唸らされる。これは長く続いてほしいと思ってしまうな。定型の力というか、ハンター試験とか天下一武道会並みの祭り感でるねやっぱり。
7:試験おわた。いつものターン回帰。ベースソロみたいなもんだねこれ。
γ. 南勝久 『ザ・ファブル』 13-16 講談社
妹による男いたぶり回再来たのしす。でもきちんと泣かせオチつけるあたりさすがに巧いね。同じ繰り返しにはしないっていう。
屋上でサンマを焼いて居間で食うのも良い。もう完全にこの面白さを引き立たせるためのウェルメイド暴力アクションパート、という仕立てを(少なくとも自分は)楽しんでいて、次々現れる凶悪エネミーおじさんたちの暗き人生背負うシリアス独白も笑ってはいけないギャグに思えてくるこの唯一無二感、好き。
δ. アジチカ/梅村真也/フクイタクミ 『終末のワルキューレ』 1 コアミックス
神々vs人類代表。1巻最終ページで「発表」される13vs13の中に日本人が4人いて、ニコラ・テスラとかラスプーチンとかアダムさえいるバカ面白い予感。ゼウスも釈迦もいるけどヤハウェはいないそこはビビったのねというぷち和み感。
『終末のワルキューレ異聞 呂布奉先飛将伝』1巻の次に読んだので、呂布vsトールはまぁまぁ楽しい。関羽がロボコップなの出てくるたび笑う。
ε. 小山宙哉 『宇宙兄弟』 2 講談社
やはり漂う、うっすら過去に読んでる感。(安定して面白いわりにゆえなく退屈な不思議感)
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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コメント
04月22日
01:16
1: biniyaminit
『乙嫁語り』13のあとがきを読み返しましたが、掲載誌が変わるだけで連載そのものは続くかと(終わったら私も大ショックです)。14巻を読みましたが、完結している風情ではありませんでした。それはそうなのですがその一方で、森薫さんは体調不良で休載、というニュースがありました(ネット検索で出てきます)。
04月22日
08:29
2: pherim㌠
あの「もう少し続くよ!」が14巻のことでないとしたら嬉しいですね。ただAmazonとかでみると、「14巻完結」と表示されてたりもして、状況は予断を許しません。
04月22日
08:31
3: pherim㌠
漫画家短命問題については、投手並みの業界規制が望まれますねぃ。