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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2023年
06月04日
09:27

よみめも81 江國のよるに

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみでも扱う場合あり(74より)。部分読みや資料目的など非通読本の引用メモは番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
  Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV




1. リチャード・ブローティガン 『東京日記』 福間健二訳 平凡社ライブラリー 

昼を夜にして

東京の夜明けの中を
タクシーがぼくを連れて帰る
ぼくは夜じゅう起きていた
太陽がのぼるまえにぼくは
   眠っているだろう
ぼくは昼じゅう眠る
タクシーが枕で
街路が毛布
夜明けがぼくのベッドなんだ
タクシーはぼくの頭を休ませる
ぼくは夢に向かう途中だ

東京
一九七六年六月一
Day for Night 79-80


午後の日の光はあたたかくて 気持ちがいい
  猫はそれを楽しんでいる
  猫のすぐそばを、人々が歩いてとおる
でも猫は怖がる様子をまったく見せない
猫は動かない
  これは異常なことだと思う
  ドアのすぐ内側には
  本物の料理が待っているというのに
  プラスティックの中華料理の前で
  猫はしあわせなのだ

東京
一九七六年五月中頃 37


ミステリー物語もしくは当世風ダシール・ハメット

ここ東京では
   ホテルの部屋を出るときにいつも
きまった四つのことをする
   ぼくのパスポート
   ぼくの手帳
   ペン
   そしてぼくの英和辞典
   をもっているかどうか確かめるのだ
人生のほかの部分は完全な謎である

東京
一九七六年五月二十六日
A Mystery Story or Dashiel Hammett a la Mode 54-5




孤独の生みだした距離が
四次元を出現させる
飢饉のときに虫をみつめる
腹をすかせた三羽のカラスのようなものとして

東京
一九七六年六月六日
Worms 99


どこへ通りぬける?

ときどきぼくはパスポートをとりだして
自分の写真をじっと見る
   (あまりいい写真じゃないけどね)

   ただ自分が存在するのを確かめるために

東京
一九七六年六月十二日
Passing to Where? 136


「きみのために生きる」とぼくは言った 「あたたかさが
   ぼくの肉にもどってきたよ」

きみは黙ってまたうなずいた
そこまでひとことも言わなかったのだ
二百人の立った乗客は
終点に着いたというのに
列車にのこっていた
()

東京
一九七六年六月九日
Lazarus on the Bullet Train 110





2. 樋口貴太 『宮崎駿作品における兵器表象について ―〈軽快・美しい=飛翔する兵器〉と〈鈍重・醜い=墜落する兵器〉―』 早稲田表象・メディア論学会

 長くなったので文章全体は別立てにて。↓3200字

  「この掌のさきに」 https://tokinoma.pne.jp/diary/4935

 



 樋口貴太論考『宮崎駿作品における兵器表象について ―〈軽快・美しい=飛翔する兵器〉と〈鈍重・醜い=墜落する兵器〉―』は、宮崎駿アニメに登場する航空機描写へ着目し、そこに通底する反戦思想と兵器マニアとしての愛着との葛藤をあぶり出す。各作へ登場する航空機表象を、反戦側を象徴する〈軽快・美しい=飛翔する兵器〉とマニア心情が存分に発揮される〈鈍重・醜い=墜落する兵器〉へと分類したうえ、新作『君たちはどう生きるか』公開を再来月に控えた現時点での宮崎駿最新作『風立ちぬ』において、「葛藤をそのままに、兵器の両義性をそのままに描き込むという」仕方で再結合を図ったとする手つきは鮮やかだ。
 
  なんてみにくい船かしら 私はメーヴェのほうが好き
  ガンシップは風を切り裂くけどメーヴェは風にのるのだもの……

 
 ずんぐりとして無骨で大型の空中戦艦が、もっぱら墜落しゆく描写に力点を置かれがちなのに対し、戦争行為そのものには批判的ないし消極的な態度をとる宮崎アニメの主人公たちが関わる航空機はより小型で、軽々と空に舞う。論考でも引用される『風の谷のナウシカ』主人公ナウシカの言葉は象徴的だ。その作品世界においてガンシップは、より現実的で実効的な兵器として、風の谷の独立を軍事的に担保する。これに対しメーヴェを操るナウシカは、あり得ないほど軽やかに風をよみ、風にのる。この構図は『風立ちぬ』においても、たとえばずんぐりとした下半身をもつ七試艦戦と、主人公堀越二郎がその改善を図った九試単戦との対置へ受け継がれる。
 
 



 堀越の試作機は、より先進的な構造を有しながらも三菱との競合に敗れ軍不採用となる。この、現実的な軍の需要に見合わないがゆえ却下された挿話もまた、メーヴェの軽やかなイメージが孕む架空性を想起させる。と同時にこのとき論考を読みながら連想されたのは、森博嗣小説を原作とする押井守アニメ『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』の主人公搭乗機・散香Mk-Bが空を舞う姿であった。九試単戦のフォルムは、飛翔するカモメの翼が示す山型とは逆の形状「逆ガル翼」を特徴とするが、散香Mk-Bもまた浅い逆ガル翼を有し、同作へ登場する他の航空機に比してひときわ軽快に躍動する。
 
  大刀洗平和記念館訪問(零戦実機写真)ツイ
  https://twitter.com/pherim/status/806876248672608256


 散香Mk-Bには実在のモデルとして震電があり、2016年の暮れ福岡県筑前町の大刀洗平和記念館でその実物大模型を見た。九試単戦が日本陸軍の試作機であるのに対し、震電は日本海軍の試作機で、どちらも実用量産には至らなかったことも興味深い。というのも仮に量産され現実の戦闘に使用されていた場合、宮崎駿や押井守が同じ文脈で重用したとは考えにくいからだ。兵器の美学とは「用の美」の究極態であり、採用へ至らなかった試作機とは、この究極へ限りなく近づいた現実態に他ならない。いわばその頽落態に過ぎない量産機が生むカタチよりは、アニメ作家の想像力が飛翔する圏域はつねに試作機の延長線上にあるといえる。
 あるいは滅びゆくもの、すでに滅んだものの姿影の内に。
 
 



 歴史を考える意義は無論多様だが、概観的には二つの方向性に集約される。一つは己の立ち位置を明確に意識するべく、筋の通った“語り”のうちにそのルーツを収めようとする方向性。もう一つは学問上の研究対象とする方向性。むろん両者は必ずしも相反せず、世上語られる歴史とは概ねこれら二つのベクトルがかみ合う領域に生成されてきた。これにより、その歴史的価値は明瞭であるにも関わらず、どうしても矮小化ないし歪曲化のうえ語り継がれる部分が生じることになる。たとえばナチスドイツ独自の兵器開発、鉄のカーテンに閉ざされたソ連の宇宙工学、それから西洋近代が自己の端源としてつねに参照するギリシア・ローマの敵対者カルタゴを形成した謎多きフェニキアの軍事技術もまた良い例だろう。それらはしばしば不可視のヴェールに覆われたまま襲い来る。

  何子彥《Voice of Void 虛無之聲》鑑賞ツイ
  https://twitter.com/pherim/status/1411302079994359808


 樋口論考の極私的白眉は、『風立ちぬ』ラストで零戦編隊が地上の主人公へ敬礼したあと高高度の大編隊へ合流するシーンを「昇天」と名ざし、『紅の豚』の同系シーンも挙げつつ戦没者への慰霊の意図を読みとるくだりである。天の河のような静けさを伴う高高度の大編隊が、天上へ向かう戦死者の長列と化すこの箇所を読みながら想起されたのは、シンガポールの芸術家ホー・ツーニェンによるVR&映像インスタレーション作品《ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声》の高空描写であった。このVR作品において、鑑賞者は身体姿勢の変化により京都学派の哲学者らが戦争を擁護する議論の現場(煉獄)と、戦時中に投獄され獄死へ至った三木清の牢獄=豊多摩刑務所(地獄)、特攻任務へ向かう零戦編隊を想わせる飛行中の機械ロボット部隊(冥界)との往還を体験する。

 茫漠とした死の世界たる天上と地下の、わずかな狭間に人の生はある。わずかな狭間のみに制約されるナウシカのメーヴェこそ、圧倒的に自由なムーヴメントを中空へ描きだす。この逆転構図はしかし、生まれた時代や場所から受ける強力な制約こそ奔放な想像力の源泉を保証するという、宮崎駿ら卓越した表現者たちの生き様にも重なり映る。

  
 
 
 


3. 江國香織 『去年の雪』 KADOKAWA
 
 祈り終えると安らかな気持ちになった。仏さまと思しき人影は、あいかわらずぼんやりと立 っている。土間からは犬たちの寝息と、たくさんのかざぐるま(母親が内職で作って、糊がよく乾くように家の外側、榧で囲った空間に吊るしてある)が回る、かすかな音がしている。

 掃除、掃除、掃除。ほんとうに、掃除にはきりがないのだ。 払っても払ってもどこかしらの隅に蜘蛛は巣を張るのだし、拭き清めても拭き清めても、畳はじきに艶を失う。磨いているさなかですら、風が吹けば縁側は砂でざりざりになり、桟という桟には埃がたかり、金気のものには錆が浮くのだ。たちの悪い風邪をひき、同僚の桂が仕事を休んでいるせいもあり、勢喜はきょう、朝から働きづめで、貸本屋で借りた本を読む暇もなかった。 170-1


 あの娘――制度にも子供にも縛られず、自由に生きてフランスに骨を埋めるつもりだった娘――はもういないのだ。それに、と、顔つきの卵を冷蔵庫の卵立てにならべながら真織は思う。それに、子供を産み育てるより大切なことなんて、結局のところこの世には一つもないのだから、と。 257


 またべつのそれもおなじ公園にいる。が、それが感じているのは硬さとつめたさで、なぜなら青銅製の騎馬像に、ぴったり密着しているからだ。 おなじ騎馬像を蟻が二匹這っている。騎手の頭上には鳩が一羽とまっているし、台座の上では瀕死のテントウムシが、ただじっと身体 を休めている。瀕死であろうとなかろうと、生きものたちの存在をそれは歓迎する。他者だからだ。いまやそれにわかるのは、自分と自分以外のものの区別だけだ。 生前自分が人間の男だったことをそれは憶えていないし、子孫を残したことも憶えていない。そもそもの始めから自 分はこういうふうだったと思えるし、実際それで申し分なかった。 硬さとつめたさ、そして他者たち。はるか上空をヘリコプターが飛び、その音を、それは空気の振動としてだけ感じる。ヘリコプターが存在しないころを生きて死んだそれはしかし、その振動を世界の鼓動の一部として、何の苦もなくあたりまえに受け容れる。 270


 母親の膝につっぷして嗚咽しながら、啓斗は“違う”と言いたかった。いまの自分は退屈などしていない、ただ絶望しているのだ、と言いたかった。けれどそれを一体どう説明すればいいのかわからず、熱い息と涙であえぎあえぎ、顔じゅう(母親のスカートもいっしょに)濡らすよりなかった。
 ()
 新那はきょう、学校を休んだ。 朝、また喘息の発作を起こしたからだ。ひゅうひゅう、ぴいぴい、胸が鳴った。そうなると、吸入器を当ててもらっても最初は上手く息が吸えず、ぐったり、ぼんやりしてしまう。けれど、発作はたいていすぐに治まる。ベッドに寝かされ、すこしうとうとして、白湯をのまされたり、もう百回くらい観た気のする“アナと雪の女王”のDVDを(たぶん百一回目に)観せられたりするうちに、いつのまにか回復する。きょうもそうだ 275





4. 江國香織 『物語のなかとそと』 朝日新聞出版

 子供のころ、私は夢をもっていませんでしたし、打ち込めるものも好奇心もありませんでした。友達も、そうたくさんはいませんでした。では毎日何をしていたのかというと、ただ見ていた。他人を、世界を、自分とはつながりのないものとして、ただ見ていました。何しろ食器棚の奥の食器ですから、他にできることがなかったのです。
 自分と自分以外のものがつながったとき、世界はいきなりひらけます。これは本当です。それまでは、だからじっとしていてもいいの。ただし目はちゃんとあけて、耳を澄ませて、体の感覚を鈍らせないように。雨がふったら誰より先に気づくように。猫の毛と犬の毛の手ざわりの差を知るように。岩塩と天日塩の味のちがいを歴然と知るように。何もかも自分で感じること。
 食器棚からでたときに、それが基礎体力になるのです。 46



 書くこと。
 
 NARRATIVEというそのおなじ単語が、名詞でずばり「物語」の意であることも、辞書にのっていたからです。だとすると、ナラティヴな物語、という言い方はおかしいはずで、同様に、ナラティヴじゃない物語も成立しないはずです。ナラティヴな小説、ならいいのだろうか。
 私は、物を考えることがあまり得意ではありません。でもそのようにぐるぐると、考えをめぐらせました。
 子供のころ、「桃太郎」でも「人魚姫」でも「かちかちやま」でも「幸福な王子」でもいいのですが、シンプルな言葉でわかりやすく語られた、あるいは書かれた、物語をそれこそごくごくのむみたいに読んで、実際には見たことすらないもの鬼とか、下半身が魚で上半身が人間という生きものとか、北欧の空気とか、ルビーだったかサファイアだったかの目から流れ落ちる涙とかをありありと見て感じた、あのような読み方をしてもらえる小説が、書けたらどんなにいいだろう。
 わかりやすいことはいけないことなのだろうか、という疑問が随分以前から私のなかにあって、それが、わかりにくい方が文学的なのだろうか、というある種の憤慨となって、エネルギーをくれたようにも思います。
 私は普段、新聞も週刊誌も読まないので、二度目の週刊誌連載は、依然として新鮮な経験でした。自由に書いていいですよ、と言って下さった、編集部のかたたちに感謝します。 54-5



 書くことは、すこしだけ時間を止めること。

 文字には質量があり、文字を書くと、その質量分の小さな穴が、私にあく。
 こんにちは、とたとえば私が書いたとすると、こんにちは、という五文字分の穴が私にあいて、それまで閉じていた私の内側が、外の世界とつながる。冬になりました、と、たとえばいま時分なら私は手紙に書くかもしれないが、そうすると、それまで私の内側にだけ存在していた私の冬が、外側の冬とつながる。書くことは、自分をすこしだけこぼすことだ、文字のあけた小さな穴から。
 曇り空ですと、もしそれが手紙なら、私は続けて書くだろう。風が強く、今朝ゴミをだしたとき、ゴミ容器のふたが飛んで行ってしまうのではないかと心配でした、と書くかもしれないし(そうなれば、我家のゴミ容器にシオナという名がついていることや、それが、三十年近く前にイギリスで出会った女性に由来する名前であること、当時、彼女がボーイフレンドへのクリスマスプレゼントとして、アヒル形のバスタブの栓を買っ たことにも言及せざるを得ないかもしれず)、あるいはまた、私はさっき遅い朝食として、わかめをゴマ油で炒めたものをたべました、と書くかもしれない(ほんとうは、その他にオレンジ一個とはちみつ入りのヨーグルトもたべたのだが、全部書くよりわかめだけ書いた方が、冬の台所の気配が伝わるだろう)が、いずれにしても、相手がその手紙を読むのはきょうではないわけで、その日は曇り空でもなければ風が強くもなく、私の住む区域のゴミの収集日でもなく、私の朝食はトーストだったりりんごだったりするのかもしれない。それでも紙の上にあるのは紛れもないきょうで、書くことは、すこしだけ時間を止めることだ。止められた時間は、そこにとどまり続ける。
手紙でも小説でも、文章を書くとき、私は自分の頭が透明な箱になっているように思う。そこは言葉がなければ空っぽなのだが、冬、と書けばたちまち雪景色になり、わかめ、と書けば、たちまちみずみずしい半透明の緑色の海草でいっぱいになる。 60-1


 
 読むことは、ここに居続けること。
 
 読んでいる本のなかで誰かが本を読んでいる、というのは入れ子状態だから、あやしい気持ちになる。
 読むことはよく旅にたとえられる。その比喩もわからなくはないのだけれど、私はむしろ、ここに居続けること、の方に似ていると思う。いまでこそ旅も好きになったけれど、子供のころは旅なんか好きじゃなかった。でも、本を読むことは好きだった。旅にでると、私は旅先に行ってしまう。あたりまえだけれど。旅先に行ってしまえば、そのあいだはここにいられない。
 読むことは、どこに行ってもここに居続けること、なのだ。湿った土の上に、カエルのいる場所に、薄暗くなっていく部屋のなかに、降りだしていた雨のなかに。 109



 読むことは、一人で外にでるための練習。

本さえあれば、周囲の現実を遮断できる。だから、知らない場所でも大丈夫。
 この日、私の選んだ本は太宰治の『斜陽』だった。好きな本で、物語の空気が濃く、開けばたちまちそこに行かれた。登場人物の一人ずつをよく知っている気がしていたので、読んでいると安心するのだった。
 いまふり返れば、代官山を「歩く」だけのために、なぜそこまで武装したのかと訝しくも思う。でも、あのときにはそれが、たしかに必要だったのだ。
 本を読むことは逃避であると同時に、一人で外にでるための練習でもあった。一人で旅をすること、物を見ること、理解すること、そして一人で生きていくことの、シンプルな練習でもあった。 111





5. 江國香織 『神様のボート』 新潮社

 1999年作。母と娘のミステリアス転居生活。母と娘の主観が交互に入れ替わり物語が進むのだけど、男(父)の影が濃すぎてなんなんだって中盤ややクドさも覚える。が、スマートにしてファンタスティックな終わりかたがすべてを挽回した感。『つめたいよるに』の「デューク」へも通じるマジックを、こうしてふいにくり出す機転こそ江國香織の凄味なのかも。




6. 江國香織 『きらきら光る』 新潮文庫

 1991年作。アル中妻と同性愛夫の結婚生活。お見合いでお互いに秘密を暴露し偽装結婚へ至ったあとの、夫の奔放な恋人♂同僚や妻の親友や双方の両親をからめた物語進行は、どこが派手というのでも時代がかった要素があるというのでもないのに、全体としていかにもバブリーな時代性が湧きあがる不思議。

 読後wikipediaで映画化されていたと知る。主演薬師丸ひろ子+豊川悦司、恋人役筒井道隆など。悪くなさげ。




7. 江國香織 『つめたいよるに』 新潮文庫

 1989年刊行の短編集ベース。幼い頃から一緒だった飼い犬の死から始まる『デューク』が完璧すぎて、あとの印象が相対的に薄くなるほど。児童文学スタートな初期江國香織のあらゆる技巧が凝縮され宝石のように輝く珠玉掌篇で、唐突ながらオールタイム短編小説マイベスト10入りをここに宣言しとう。
 
 


8. 村田沙耶香 『コンビニ人間』 文春文庫

 この奇天烈にしてありそうにも思えるキワキワの人間観に基づく描写貫徹はたしかにすごい。登場時に衝撃を以て迎えられたのも納得の。けれど正直後半ダレる。物語展開としてはどうにも平板で、奥行きのなさこそ奇怪な主人公はそれとしても、妹や偽装夫が役割をこなしてるだけのハリボテ感をかもす点かなり窮屈さを覚えたのもたしか。ここ何年もずっと気になってた村田沙耶香ようやく初読、ともあれ独自性には確固たるものを感覚しました。
 



9. 國分功一郎 千葉雅也 『言語が消滅する前に 「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』 幻冬舎新書

千葉 精神分析系の論者はみんな口を揃えて言っています。メタファーがなくなっていくと。 われわれの無意識の構造にとってメタファーというのは基本的なものだという認識があるので、 社会がかつての神経症/精神病モデルでは語れないようなものに変わっていっていると言うと きの中心になるポイントです。

 「心の闇」が「蒸発」した社会
國分 立木さんは「抑圧=メタファー」(『露出せよと、現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社、二〇一三年 二二頁)と書かれていますね。抑圧はメタファーであり、メタファーが衰退しているということは抑圧が衰退しているということだと。
千葉 メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということですか見えていない次元の存在を前提にしている。ところが、すべてがエビデントに表に現れるならば、隠された次元が蒸発してしまうわけです。
 立木さんの本の後半では、エビデンス批判がされていますね。
國分 あの本で重要だと思ったのは「心の闇」が必要だという指摘です。例として取り上げられていたのは、一九九七年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。評論家たちは犯人の少年の「心の闇」について語った。でも、むしろ「少年は、残念ながら、心の闇 をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりと繋ぎ止めておかねばならなかったというのが立木さんの指摘でした(二七頁)。
 きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発してしまっている。
千葉 あるいは、至るところにダダ漏れになっている。かつてだったら2ちゃんねるみたいな空間に「心の闇」が一応は隔離されていたのが、いまや2ちゃんねる的言説がSNSの至るところに撒き散らされている。これは松本卓也さんが言っていたことなのですが、本来だったら無意識に書き込まれるべきことがネットに書き込まれている。
國分 なるほど。「心の闇」による隔離が弱まった結果、これまでだったら人目に触れるはずのなかったような欲望がネットに書き込まれるようになり、ネットはまるで無意識が書き込まれる場所のようになっている、と。 116-7

こうやって「心の闇」の機能を論じていると思い出すのがアレントのことです。彼女は『革命について』(ちくま学芸文庫、一九九五年)の中で、「心の特性は暗闇を必要とし、公衆の光から保護されることを必要とし、さらに、それが本来あるべきもの、すなわち公的に表示してはならない奥深い動機にとどまっていることを必要とする」と述べ、まさしく「心の闇」の機能を肯定的に論じています(一四二頁)。
 どうしてアメリカ革命とフランス革命を論じた本でアレントがそんな話をしているのかというと、これはロベスピエールに対する批判として出てくる話題なんです。ロベスピエールは社会から偽善や欺瞞を廃絶しようとした。だから人間の心に徹底的に光を当てようとするんだけれども、アレントに言わせれば、動機というものは明るみに出された途端、その背後に別の動機を潜ませているように思わせてしまう。「動機は、その本質からいって、姿を現すことによって破壊される」とアレントは言っています(同前)。つまり追及すればするほど、さらに奥に別の動機が潜んでいるのではないかと思われてしまって、結局その人間は疑惑の対象になる。「おまえは偽善者だ。反革命だ」ということになって、ギロチンにかけられることになるわけです。何でもかんでも理性の光の下に晒そうとすると全員偽善者になるので恐怖政治が起こる。これがアレントによるロベスピエール批判なんですね。
 これは実に現代的な問題だなと思うんです。思い出すのは学生たちの就活のことです。 118





10. 大平信孝 『やる気に頼らず「すぐやる人」になる37のコツ』 かんき出版

 副題は『科学的に「先延ばし」をなくす技術』。全頁めくった結果すごかったのは、全編にわたって既視感が絶えなかったこと。全頁めくった時点で少なくともこの十年では初見のはず(よみめもに残してるはずなので)にも関わらずこの事態は、およそ理由がわからない。著者の別の本を読んだこともなさそうで、以前にいくつか手にとったADHD系のビジネス啓発本と内容がほぼ重なるとすれば、それはそれで興味深い。あるいはよみめもが中断していたバンコク在住期に、バンコク店在庫から手にとっていた可能性。これはとてもある気がする。

 「本気の30分を1日2回確保する」の見開き2ページだけは新鮮だった。サラリーマンが超サイヤ人のようにメラメラオーラを出してるイラストが中央。「プロアスリートが試合に臨むときのように本気をだしきってください」とあるけど、プロの試合時って平常心こそ大事とはよく言いますね。リラックスこそ肝要ということで。
 
  

 
▽非通読本

0. 千葉雅也 『「私小説」論、あるいは、私の小説論』 (『文藝』2022年秋号所収 河出書房新社)

 終盤下記引用部へ至るまでの、逆説に逆説を重ねて論旨のエッジを際立たせる説明手法そのものが巧いなと感じました。議論の本筋とは別の話として。

むしろ、偶然的なものとしての身体を通すことでこそ、通念に対して根本的に距離を取るようなフィクション活動が起動するのです。

 小説を書く際には、まず現実をよく観察しなければならないと思います。
 現実を見ることで、社会通念から離れることができる。現実は社会通念よりも複雑で、予想外のことがたくさん起きています。それに対して、わかりやすいお話というのは、社会通念で組み立てられているものです。こういうことをされたら、人はこう反応するだろうといったことの連鎖で組み立てられているものはわかりやすく、手早く人の情動を動かして、喜ばせることもできるでしょう。
 ですが、すでに述べたように、芸術としての作品というのは目的性から脱し、それ自体であろうとするのです。そこには、現実に起きている知覚、記憶、関係性といったものの複雑さそのものに向き合おうとする、倫理性があるのです。 172



 「手放しでフィクションを組み立てようとすると、人はまず社会通念に頼ろうとしてしまう。偶然性に取り組むのは難しい課題です。」

という後半部を読んで強烈に想起されたのは、大学入学翌月の5月に受けた、鋳造実習の体験でした。たまたま現在半ば書庫/倉庫化してる実家にいるので、探してみたらありました。ブロンズです。

  鋳造実習作品(ブロンズ):画像冒頭中央↑

 他の生徒が、精巧な馬だとか幻想的な天使だとかバラの花だとかを作る中で、何を作ってもよいと言われても自分にはその「何」がないんだよな、と思いながらとりあえず粘土をこねてみる。何も思い浮かばないので伸ばしたり縮めたり畳んだり重ねたりしてみる。指を中へつっこんだり表面を撫でたりしている内に時間が来る。鋳型をつくり、溶けて煌めく銅を注ぎ込む。冷めたら割って講評の時間になる。すると彫刻科教官による評価が、その場の生徒による作品の中で最も高かったんですね。でも自分では意図してない。意図してないから、あとから思えばとんでもなく残念なミソもつけている。

 20年たって今わかったのは、あのときの「何」が(ここで千葉雅也のいう)「社会通念」だったということ。教官がその評価によって伝えたかったのは、自分の作品が優れているということではなく、他の作品がぜんぶその生徒個人の表現になってない、すべて真似事なのだということ。たしかに自分はそのとき誰かの真似はしておらず、ひたすら自分の指が生みだす形をぼんやり眺めていた。(「身体を通すことでこそ、通念に対して根本的に距離を取るようなフィクション活動が起動」した)
 
 ちなみに馬を作った彼は学者に、天使を作った彼女は学芸員に、バラを咲かせた彼は服飾デザイナーになってるのだけど、自分はいまだに指でこねつづけてる感じ。20年たっても、一度思い出すと手元の溶けた金属の熱が光線となって顔を灼く感じまでありありと蘇る。記憶って凄いですよね。
 
 


0. 町屋良平 「私の推敲」 (『文藝』2022年秋号所収 河出書房新社)

こうした甘露たる身体感覚を、推敲はそこなう。つまり、簡単に文章のリズムをととのえたり、重複する助詞副詞を抜いたり、それらしい意味や一貫性を得んとすると、作文的という以上に規範の強い小説的定型に引き寄せられていき、いかにも「小説らしい」文になるが、小説を小説らしくすることは規範の肯定になり、極論をいえば全体的なものへの服従へ向かえる。もし推敲をするならそうした全体主義的なものへの妥協、或いはそれを利用する野心や哲学、つまるところの小説的経験が要り、そこを耐え初めて小説家の推敲になる。
 この文章も (だがこの本は私がタカハシクンに向けペラペラ話したことを彼が文字に起こしたものなので、正確には文章ではない)、文法や語の運用として、正直いってだいぶおかしい。小説家の性としては、正直、直したい。だが、これは確実にそうなのだが、直しに直され熟慮された文章より絶対に初めに書いた文章のほうが、意味や熱量において伝わりやすい。それがニュアンスだとか、人によっては神秘主義的に重宝されもする「行間」、さらにそこから進めて活字と「なってしまった」文章とのあいだにある思考こそが文体なのであって、だから小説を書く人は一般に考えられているのと逆に推敲について「なぜわざわざ伝わりにくくするか?」ということを考えなければいけない。直したい気持ちを堪えて推敲を負う。そのような推敲を抱えて小説を生きる。ここまで考えてようやく、小説という 母を扶養する息子がごとき、推敲が始まる。 74

 
 
 

▽コミック・絵本

α. 松本大洋 『東京ヒゴロ』 2 小学館

 売れなくなった漫画家たちの滋味あふれる綺羅星ぶりに圧倒された1巻から、うち一部面子の深掘りへと以降した2巻にトーンダウンの印象は免れないものの、1巻のブチ上げから物語がどう引き伸ばされゆく上でのこの内容なのかというのはとても気になる。トーンダウンそのものが溜めとして活かされるぐらいのことは予想できるけど、そこはなにせ松本大洋なので。想像の斜め上も存分に期待でき大変楽しみ。
 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. 松本零士 『鉄の墓標』 小学館
 https://twitter.com/pherim/status/1665160673440169984

 《戦場まんがシリーズ②》とのこと。太平洋戦争中の兵器を主要ギミックとする短篇5篇。順に戦車、戦闘機、自動小銃、サイドカー戦闘機、の構成。

 最終話「メコンの落日」(画像冒頭右↑)、P-51編隊に旧世代機の隼編隊が急襲されて壊滅したあと、退避した生き残り2機が再襲撃された際うち1機が反転して1機を墜とす展開、調べたら史実でしかも実際の会敵空域はバンコクのドンムアン空港上空。作中では土地名が架空っぽいの一つしか出てこないけれど、ドンムアンは今LCC&国内専用みたいな位置づけで、東京2空港以外では個人的に一番馴染みあるおんぼろ空港の滑走路から、かつて日本人の戦闘機乗りが飛び立ってたと知る驚き。

 ドンムアン空港の開港はなんと1914年。タイ空軍飛行場として始まり、現役の空港としてはアジア最古との由。知らなかったぜい。

  ドンムアン夕刻着陸3分前窓景動画: https://twitter.com/pherim/status/1099911167768555521

 立見透さんより拝借の一冊、感謝。




(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)

γ. 門馬司鹿子 『満州アヘンスクワッド』 1 講談社

 それなりにある満州モノの大河を更新する予感。青幇にしても満鉄にしても描写に奥行きが感覚され、人物や建物を画で魅せる力もある。しかもアクションがちゃんと動いてみえる点でこのジャンルの巨峰・村上もとか『龍-RON-』を超えてる。漫画である以上ここは結局最重要。よくできた話というだけでは、なかなか読みつづけられないからね。

 これが歴史中国やチベットとか中東になると、細部がものすごく適当になりがちなところも、満州だとなかなかそうはいかない。紙幣や銃や窓枠とかの描写をおろそかにしない点、阿片なら阿片の植物学的背景を開陳する点、つづきが期待される。
 
 

 
δ.幸村誠 『ヴィンランド・サガ』 24 講談社

 たうたうヴィンランドへの出航近づく。ここでトールズの(男の)娘登場は、面白い今日感投入。





 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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