芥川賞受賞作を予想する、という奇行におよんでみました。
あす7月19日が、最終選考会&結果発表日です。
【第169回芥川賞受賞予想】
本命: 乗代雄介『それは誠』
(対抗、大穴は末尾に。)
【第169回芥川龍之介賞候補作】
千葉雅也 『エレクトリック』(新潮2月号) 単行本5月31日刊行 新潮社
石田夏穂 『我が手の太陽』 (群像5月号) 単行本7月13日刊行 講談社
市川沙央 『ハンチバック』 (文學界5月号) 単行本6月22日刊行 文藝春秋
児玉雨子 『##NAME##』 (文藝夏季号) 単行本7月14日刊行 河出書房新社
乗代雄介 『それは誠』 (文學界6月号) 単行本6月29日刊行 文藝春秋
企ての核心は、芥川賞候補作をすべて読んでみるという試みのほうにあります。
まず各作短評から、良かった順に。
【作品評】(括弧内はpherimが読んだ媒体。※単行本化にあたり部分修正が予想されるため)
1. 『それは誠』 乗代雄介 (文學界6月号)
「僕たちは武蔵野線に揺られながら眠りこけているところで、今こうしてる僕たちは、そこで見ている夢みたいなものだ。何もかも、夢みたいにはっきりしない。」 p.84
全編に横溢する箱庭感が良い。修学旅行時にグループで教師の目を騙し、主人公の叔父へ会いに行く筋立ての内に、ジュブナイル冒険譚や私小説的な屈託や、淡い恋や発達障害児の生きる世界描写や、武蔵野線を使った列車トリックまで入り込む。それら諸要素はいずれも、いつかどこかで読んだりみたりしたことのある懐かしさを抱かせるが、その連なりそのものに一貫した本作固有のムードが看取され、総体としてまとまりのある読み味を感覚させる。
けれども若干、導入部のガチャガチャした感じは気になる。この長さでの「涎」の描写はほんとうに有効なのかとか。
2. 『エレクトリック』 千葉雅也 (単行本 新潮社)
1995年に宇都宮に暮らす高校生の日々。中編前作『オーバーヒート』の、「ツイッター投稿をそのまま載せた態の挿入文による特有のリズムが生む短冊集成のようなガチャガチャした印象」が、同時期同都市で十代後半を過ごした著者の回想色を全面へ重ねることで抑えられた感。この意味で著者の身体記憶が具体性の供給源であるとともに、インスタグラムのフィルター機能のような役割を果たしているのが面白い。
宇都宮市街&教会散策ツイ: https://twitter.com/pherim/status/1645712701052817409
しばらく前に宇都宮市街中心部を、徒歩や路線バスで細かく移動する機会があったため、東武デパートを西の中核とし「新幹線の発射点」としてのJR宇都宮駅を東縁とする市街描写を興味深く読む。現地在住者にとってはそういう位置づけなのかという逐次言及の深度をそこに感覚したのだけど、このローカル性とは対極のギミックとして、父親がこだわる真空管アンプや妹のポラロイドカメラ、黎明期のインターネット等が登場し、あるいはエヴァンゲリオンやサリン事件などの固有名が振り撒かれる。
「エレクトリック」は、言うまでもなく電気と勃起の掛詞だが、非ローカル=全国区の読者へ通じる後者のギミックとしての電気electricのほとばしりにより、超個人的な勃起erectの萌芽を少年のうちへ感じさせる構成の技巧性とタイトルの勝利感がいかにも千葉雅也。この対照性を際立たせるため、固有名記述は全国区のものに限定した(たとえばハッテン場関連の固有名記述は登場しない)工夫は、同じ1995年の東京が前半の舞台となる燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』を想起させる。
『ボクたちはみんな大人になれなかった』: https://twitter.com/pherim/status/1678597771392335872
そして小説としてどちらが広く読まれ、楽しまれるかといえば圧倒的に『ボクたちはみんな~』で、文学性の点で『エレクトリック』が優るという評価は容易に想像されるが、その場合の「文学性」の狭さこそ極私的には興味深い。
また、たとえばJR宇都宮駅は、もっぱら東京へと向けた新幹線の発射地点としてのみ描かれる。 「東武デパート前の繁華街を通る道が湾曲して、大通りへ合流する」描写が2度くり返される。本作は総じて「東京以前」の「未遂」の十代を描く作品で、この「湾曲」もまた勃起過程のメタファーになっている。なんなら都市景を後ろ背に屹立する真空管アンプも。
『デッドライン』に比べると概して技巧が目立ち、トータルの表現性で劣る。
3. 『ハンチバック』 市川沙央 (文學界5月号)
障碍者の性描写を通じた、コロナ禍以後の今日における「精神の牢獄」としての社会への批評と、逼塞し間欠泉のように沸騰する内面記述とが凄まじく鮮烈で、「新たな『地下室の手記』が書かれたと言ってしまいたい衝動に駆りたててくる。」とする阿部和重選評に同意する。
と同時に、飽きる。性産業の現場に疎く、またそこに借材した作品をあまり読んだことがない自分の目には細部描写の逐一が斬新に感じられたし、個別特殊視点を通した鋭い社会風刺や批判は新鮮で読ませるのだが、中盤から後半へかけそうした鮮度はいきおい失われ、徐々に感覚が飽和したあと際立ってくるのは、意外性にも独創性にも欠けた主人公のツッコミ心性が半径2mの人間の弱さを抉る痛々しさばかりである。挙げ句とってつけたような最終章に、純然たる息切れ感を看取して読み終えた。
この後半の失墜ぶりに、こういうリサーチの羅列を小説に求めてないんだよなという残念感が読後全面化した話題作『82年生まれ、キム・ジヨン』も想起された。(映画版↓はとても良い)
映画『82年生まれ、キム・ジヨン』: https://twitter.com/pherim/status/1311863463916920832
4. 『我が手の太陽』 石田夏穂 (群像5月号)
熟練溶接工の逡巡。溶接や解体の現場をめぐる細部描写、具体的な工程描写がひたすら面白い。工員の煩悶をめぐる小説ながら、社会批判の視座をほぼ持たない語り口は逆に新鮮。令和だなというか、醒めた俯瞰視座の埋め込まれ感にAI共生時代の兆しを深読みできなくもない(かもしれない)。
しかし、「溶接工だけが知る火の本質」に固執するわりに、機器や化学現象に関する具体記述の深度に反して、火の描写があまりにも単調で惹かれないまま終わってしまうのは惜しい。
結果、こんなに長い必要のある作品だったかという疑問が生じる。
5. 『##NAME##』 児玉雨子 (文藝夏季号)
きちんと精読する時間がとれず。このためも手伝い、なにかに跳ね返されるような感覚が一定に維持されたまま、最後のページまでとりあえず斜め読む。「跳ね返されるような感覚」には、著者固有の筆圧や一貫した作品世界観も含まれるから、「一定に維持され」るように感じたこと自体に書き手の力量を予感はする。しかし自意識と密着したような文体のまま傍観者的な形容記述がつづくことにはどうにもいびつさを覚えたし、##NAME##の登場箇所以外の緩急の無さには冗長さが目立ち要するに間が持たない。途切れない細やかなな流れに力点のある文章でもないから、編集介入ですごく良くなりそう。
【総評】
本命:『それは誠』
対抗:『エレクトリック』『ハンチバック』
大穴:『我が手の太陽』
実際に読んでみた結果、このうちどれが芥川賞を獲るかという本企図の中核部である受賞予想については、びっくりするくらい興味が深まらなかった。『それは誠』が獲れば順当かなとは思うけど、『エレクトリック』や『ハンチバック』が獲ってもまぁそういう流れなんだなと社会的業界的な文脈を一瞬想起して終わるだろうし、そこには大した違いが予感されない。
「これが良い文学というものです」という過度に全面化された思い込みの共同体から醸される内輪の空気をひしひしと感覚し、それはかつて自分が綿矢りさや金原ひとみが登場した頃に記憶する華々しさとも、より近くは今村夏子の登場時に覚えた圧ともまったく比較にならない「小粒感」に他ならず、「純文学」「エンタメ」みたいな区分けに基づき刊行される小説群が、今日の《日本語文学》を相対的に痩せ細らせる足かせにしかなってない弊害が際立って感じられるばかりだ。一度つくってしまった縦割りの壁を廃止できず盲信する人間たちが、群がって邁進する表現などずんずん隘路へ嵌まり込むのは自明だし、そこを修正できたはずの文芸編集者に対局をみて動く余裕はすでにないから、ジャンルごと沈み込む泥舟状態は今後とうぶん止む可能性がない。
良い作品は、時代状況がどうあれ出てくるものだから、ともあれこうした泥舟のうちに煌めく小説がすくい上げられることはふつうに起こるし、期待はする。ただ芥川賞の傾向みたいなものはマジでどうでもいいんだなという思いはより深まった。獲ったことで作品が変わるわけではないし、事前に思ったほど社会と向き合う手応えは、この「候補作をすべて読む」試みから感覚されなかった。
というわけで、『それは誠』が一番楽しかったです。読んでいるあいだ、宗田理とかジュブナイル作品を読んでた中学生くらいの感覚がよみがえりました。
あと、『我が手の太陽』と『##NAME##』の単行本発刊が各々7/13&7/14なのが、芥川賞最終候補に残ったので慌てて刊行しました感にあふれて奥ゆかしい。新人賞を出した関係者たちとしてもびっくりしたのかもしれない。『我が手の太陽』、地味に形式的には一番好きなタイプだし今後が気になる。
より簡潔に言えば、《芥川賞》を中心におく新人文学賞群の存在によって、《非芥川賞》的小説が《エンタメ小説》と枠付けられる。そこで抜け落ちる表現性、文学的な楽しみは翻訳小説からしか調達されなくなる。巧拙を別にして、日本以外の東~南アジアの若手作家の作品のほうが概して広く、奥行きもあるように感じられるシンプルな理由も、おそらくこのあたりにある。
いずれにせよ、もっと読まないと見えてこないものはガチ多いぞという感覚把握、こそ最大の収穫やもしれず。
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#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T
コメント
07月19日
19:57
1: pherim㌠
> 対抗: 市川沙央『ハンチバック』
の単独受賞となった模様です。「当事者性」がもはや外せない、そういう時代が当分つづくんだなぁという素朴な感想。
07月19日
20:20
2: いなだ つつみ
本日発表でしたね
07月20日
22:59
3: そらまめ
小説を読むのがものすごく苦手なのですが、pherimさんの書評が面白いので、子を保育園に入れたらいっぱい読みたいです。
07月21日
05:43
4: pherim㌠
そらまめさんはいま読みだすと確実に効く人生を歩めるひとなので、ここに挙げてるような作品ではなく、戦中戦前の日本語小説か、海外文学から読みだすことをお勧めします。
せっかくこれまであまり読んでない更地をお持ちなら、まず同時代/地域意識から離れた表現として受けとる、そのあと同時代/地域の同世代表現を受けとる、という仕方のほうが結果として同じ作品群を読むのでも読了にともなう感性の広がりかたがたぶん異なるだろうからです。
1人目の子育ては無自覚レベルで私を様々に変えているはずなので、苦手意識をいったん忘れ手にとるのが吉かと。
07月23日
19:47
5: pherim㌠
千葉雅也発表当夜ツイートより3選。
https://twitter.com/masayachiba/status/168167683923499417...
https://twitter.com/masayachiba/status/168167962128747315...
https://twitter.com/masayachiba/status/168168470073639321...
07月23日
19:49
6: pherim㌠
『ハンチバック』については作品外の要素で叩かれすぎだしてる嫌いもあって、これはどうかなと思う。
ともあれ獲ったことで後続作も読まれる地歩も築けたわけで、他候補作との比較で見劣りする筋の評価については、今後の作品で「結果論」を引き寄せることを期待しとう。要は作家の個人史強調とかでなく、作品で圧倒すれば誰しも黙る。
→https://twitter.com/Fukuso_Sutaro/status/1681875652516122...
また豊崎由美の「何を書くかではなく、いかに書くかが問われるはずだったんじゃないの?」は、これまで単に考えたことのなかった自分としては「あ、そうだったの」という新鮮さがあった。もしこうした一般通念が界隈に受け入れられているなら、それはとても興味深いし、この界隈から生成されるものの特殊性にはみるべきものも多いのかもとか。
→https://twitter.com/toyozakishatyou/status/16823697560018...
07月23日
19:49
7: pherim㌠
「最大限に頭の悪そうな言い方をするなら、〈直木賞〉の書き方で〈芥川賞〉であればいい。」
乗代雄介が、直近の芥川賞落選の夜に更新したブログの一節だ。→
https://norishiro7.hatenablog.com/entry/2023/07/19/180000
このブログの投稿は1年半ぶりになるから、それが芥川賞発表を受けたものであることは確かだし、読めばわかるがそうと言及することなくこれは『ハンチバック』受賞への批判になっている。それもかなり有効な。
それでここからは自分の話になるけれど、自分には3人以上の会話が書けない。というか、書こうと思いついたことすらない。
携帯小説の頃からふしぎだったのは、ひたすら鉤括弧をつづける所作がプロアマ問わず子どもの頃から身についている、ないし特にこだわりなくできる人間が一定層いるということで、その後もラノベとかなろう小説(異世界転生もの)などチラ見するたびずっとふしぎだったのだけど、彼らからすれば「3人以上の会話を書くことなど想像すらできない」という事態がたぶん想像できないのではないか。これはつまり、「マンガが読めない人間がいるということを、マンガが読める人間はにわかには理解できない」のと同じで、無自覚に身につけてきた文法の有無のことを言っている。
上記引用部はこう続く。
「むしろ盲目的に〈文学的〉な人々から〈通俗的〉とわざわざ思われる小説を目指すぐらいでなければ、目的は達成できない。」
たとえば幼馴染のたっちゃんは、親が教師でキツめの教育方針をとりマンガやゲームの類を厳しく制限する家庭環境に育ったため、十代後半になっても少年ジャンプや手塚治虫のようなものは読めず、しかし『風の谷のナウシカ』の漫画版は読めていた。これはもちろん、ナウシカだけが彼にとって面白い内容をもち、手塚治虫や鳥山明がもたなかったからではない。ナウシカは映画的で壁が一面VHS棚になるほどたっちゃんの両親は大の映画好きだったからだ。
形式は内容に、常に先立つ。
そもそも3人以上の会話がリアルでも苦手で、3人以上の旅行などは「旅」ではなく移動し続ける宴ないし祭と化し、呑み会の場などでも局所的に2人の会話を無限連鎖させることでしか乗り切れない性向が、この理由をより考えにくくさせている。乗代ブログを読んで初めて、リアルの性向の奥向こうにある会話を書くことの困難へ初めて近接できた気がする。これは考えたことがなかったし興味深い。
実は乗代ブログ(の更新)の存在には、発表日19日の夜すでに気づいていた。けれど当夜飛ばし読みした際には批判部以外はあまり響かず、あとで読むリストへ入れてしまった。あとで読むリストが消化される可能性は数%もないので、これも何かの縁かと思いすこし思うところを書いてみた。
実のところ自分が取り組んでいることの本質は意識できている以上に形式的で、意味は「あれば良い」程度なのではないか。このことを乗代さんの
「口調がどうとか考える内容がどうとかは、その決定的な断絶に比べればまったく些細で表面的なことだ」
はよりクリアに言っていて、なるほど、ではこの方向でもう少し進んでみようかという気になれる。同時代の書き手とはみな「書く仲間」であり、同じ言語で書く仲間が為す表現には、当人たちが思いたがるほど決定的な差異など生じ得ない。《「誰かが書く」態度》に自覚的であることのこれは、『それは誠』における意味内容そのものだった。千葉雅也ツイートもそうだけれど、このような協働性が機能するかぎりにおいて「芥川賞」も表現的に効能を放ち、それは同時代国際的な潮流から隔絶するガラパゴス因子を「日本語の壁」の半壊後へ準備しつつも、個別の仕草とはやや異なる次元での乗り越えが企図され得ると自分の目に確認されたのは、ちょっと面白い。
07月29日
00:36
8: そらまめ
返信遅くなりましたm(_ _)m
おすすめ、すごく参考になりました!
子は来月2歳5ヶ月で、本を開いて手当たりしだい「これなんてかいてる?」と聞いてくるようになり、読むことへのパッションが眩しいです。pherim さんの書評も楽しそうで、お仕事の一環だろうから楽しいばかりではないだろうなあと思いつつ素敵だなあと読ませていただいてました。
人生に効く、確かに。いろいろありがとうございます(^。^)