・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 森山大道 『写真よさようなら』 写真評論社
中平 カミュは『不条理の世界』で、人生は生きるに価するかというのが唯一の問いであり、それは哲学が関知しうるたった一つのことであり、太陽が地球の周りを回っているか、地球が太陽の周りを回っているかなんてことは言ってみれば全くくだらない設問である、という意味のことをしきりに述べている。そして、問題は生きていることがすべてで、そのときに自分が生きていることから超えた希望などあってはいけない、とも言っている。希望というのは、自分がこう生きているその先に超越的にあるものだ。だから、希望を持ってしまうと、自分の現在をないがしろにすることになる。それは、先に言ったテーマと同じことになると思う。テーマというのも、〈私〉を超えちゃうわけでしょう。そういった超越的なものを一切排斥していくというのが、大げさに言えばぼくらがカメラを持つ唯一の立場であるし、そういう意味ではカメラはかなり有効だよね。といって、それでもって社会的発言をしようなどということではない。それは、自分が生きていることの客体化だ。
森山 それと、カメラを持つっていうことは、いつも現在にとどまらざるを得ないってことだな。仮りに希望っていってしまうと、自分を、現在を曲げてまでそいつに近づかなくちゃいけなくなるわけだ。そして逆に絶望する。
中平 希望を持った瞬間に、<現在>の一瞬一瞬のリアリティがすっとぬけてしまう。希望を持たないことがカメラの思想だ。カメラというのは全て過去でしかない。昔のことなんだ。だからそういう意味で、ぼくは写真は作品ではないとしきりに言うわけだ。
森山 全く同感だ。
中平 それは自分自身の客体化だし、それはまた疎外の形態を意味する。ぼくの人生そのものではないわけだ。ぼくの人生からぬけ出した滓みたいなものだ。それをやらない限り、ぼくは生きていけない。そこでは、〈事件〉ということと接円するはずだよね。ウォホールがすごいというのは、そういうところがあるからだろうね。ウォホールは芸術をそれに引き戻したわけでしょう。たとえば「ジャクリーヌ」。たまたまジャクリーヌを知っているのはこの時代だけにもかかわらずあのように定着させる。それ以前は「モナ・リザ」だ。「モナ・リザ」というのは定着した普遍的なものであり、それに対しては「ジャクリーヌ」であり、「マリリン・モンロー」だよね。 287
メメント・モリの嘘。この一瞬のリアリティを感受しきれないから、死によって今を支える試みのいじらしさ。ただしそこではことばが全て、嘘になる。
撮る瞬間はまだリアルだろう。
森山 いかに酒がうまかろうと、いかに子供がかわいかろうと、そのすぐウラに必ず死を想念してしまうからかなわない。だからそんな想念から、いかに少しでも開放されるスペースをつくるか、珠玉の一瞬をかくとくするか、何かオレはそのために存在しているような、生きているような気がする。
中平 そうだね。それと、〝わが身の破片性" が無限に動きつづけていく涯には、言いかえれば〝ありうべき全体" を目ざして生きていくとしても、そんなものはあり得ない。そこでしきりに想い出すことは、ケラワックの『路上』に出てくるカーロ・マーカスだとか、『イージー・ライダー』のキャプテン・アメリカだとか、メルヴィルの『白鯨』に出てくるエイハブ船長たちの流浪についてだ。キザになるが、彼らの流浪とは一体何だろうと思う。たとえば、エイハブは足をもぎとられた復讐のために白鯨を追いまわすなんて言われるけれど、この解釈は人生論的曲解の俗説にすぎなく、実は〝ありうべき全体" を目ざして流浪しているだけのことだ。それからケラワックの『路上』を初めて読んだとき、よくわかんなくて一体何だい、と思ったね。しかし、あとになってだんだんすごいと思い始めた。初めは、自動車に乗って、アメリカ中を何のために走っているのかよくわからなかった。考えてみると、それは生きているから走っているんだ。しかしそれは流浪であって徒労などではない。徒労と言ってしまったのでは人生論に切り変わってしまう。『路上』は徒労小説じゃないんだ。結果として、徒労だったのだ。
森山 その通りだ。さっきいった日常的な恐怖感だって、それが虚無とか無常とかっていうのではない。むろん徒労でもない。いずれにも属さないところを占めているだけに仕末がわるい。珠玉の瞬間のために生きつづけるほかない。
中平 ぼくはその流浪を〝ペシミズム" と言いたい。ペシミズムというのは戦闘的だから。戦闘的ペシミズムだ。ダメだと言うけど、ああほんとにダメだと思い込んだのでは普通の話になってしまう。悲観的だからこそ、戦闘的にならなければならない。
森山 フムフム……。
中平 ところでいま森山さんがアタマにきているのは何?
森山 うーん、何から何までっていうか、生活のはしばしこれすべてアタマにくるなア。むろん、その根源は権力そのものってことになるわけだが、そう言ってしまうとあまりにも抽象的に怒りが拡散しちゃうからナア。とにかく、朝から晩まで頭に来どうしだな。
中平 はしばしでアタマにくるのが本当だろうね。一番ダメなのは、抽象的にアタマにくることだ。たとえば、地球の回転速度が気にくわない、といった腹の立て方ね。それは何にもならないよ。
森山 箸がころんでも気に入らないってヤツだ。まあ、電車の中で、街中で、人と会ってとかいった実際的なこまかいことから、ちょっと抽象的だけど、世界そのもののたたずまい、つまり俺が立っているアトモスフェアの険悪さ、などといった漠とした部分。それに、あまりにもディグニティ喪失というよりほかない人間関係や社会のシカケ、すべてアタマにくる。さっきぼくは人間の存在が無残だって言ったけど、ぼく自身をふくめた人間のあまりの無残さ、卑小さ、結局これにいちばん頭にくるってことなのかな。じわじわとネ、何かしじゅう釈然としないってかたちでネ。そして必ず自分にはね返ってくる。 288-9
縁あって、「中平卓馬 対談 森山大道 8月2日山の上ホテル」を読み返す。読み返すといっても、『写真よさようなら』を開くことは過去幾度かあっても、この対談を読んだのは20年ぶりくらいのことで、起こる感興は純粋に新鮮だった。以前の受け取りはせいぜい、キップのいいおじさん二人語り、くらいだったようにも思うし、きっと上記「怒り」言及などまるで意味がわかってなかったろう。もちろん当時は受け取れて、今はその感性がなく記憶もないことだって同等かそれ以上にある可能性を否定する気はないけれど、新鮮だった。それにこれは些末な話だけれど、建物本体が閉鎖する前に「山の上ホテルでの対談」も二度経験しているから、この20年もまったく無為ではなかったのかもしれないし、読み味に影響はやはりしている。
中平 その頃、何もやることがなかったからね。ただ、一所懸命に見たね。面白かった。というのは、写真を見るということと、写真を撮るということは同じロジックだが、取捨選択するからね。今はあまり書いてないけど、写真について書くきっかけになったのは、五万枚の写真を見たということにあるような気がする。そのとき感じたことは、本来の意味のドキュメンタリーというのはなくて、いつの時代にもその時代の何かの美学のバリエーションによる繰返しでしかなかったということだ。いわゆる、一見、写実風の美学なんだ。
森山 だから、その場合本職の写真てのはひとまずさけたいな。読人しらずの、名もなき写真がいい。
中平 そうね、日露戦争期の「シベリア出兵」はいい写真だった。従軍カメラマンが撮ったものらしいけど。 299
「その時代の何かの美学のバリエーションによる繰返しでしかなかった」
「美学」は「物語」のこと、「本来のドキュメンタリー」は「くもりなき眼」のことで、そんなアシタカ中平青年を笑い飛ばすエボシ御前はいない世界で、自力でたどり着けたから、『写真よさようなら』がいまここにある。とは言える。にしても「シベリア出兵」が出てくるところ、20年前は確実に気づけてなかったろう言及のこの精度。鋭さ。ヤバさはこの跳躍の喚起にあるのであって、“ありうべき全体”を目ざす流浪もこの角度なら生きられる。
It wont be like the hydrogen bomb
when God finally shows
his Face, it will be sudden
happiness,
like when you suddenly feel
like cryin
when you first see yr infant's
face in its mother's arms.
This knowledge makes me
go "Ha ha ha" and
go "Oh boy" and
go "Whoopee"
because now I know
that old age is therefore the development of angels.
Mutilated people will float
around like mutilated leaves,
more curious than the others,
that's all
Roy Campanella will smile
& float around in Heaven
as good as John L Sullivan
The legless man no
rollerboard---
Tiny Tim will keep screaming
"God Bless Everyone"
(最後に神が顔を見せる時も
水爆のような騒ぎにはならない
ただ突然の
幸福感
母の腕の中に自分の子供の顔を
初めて見て
急に泣きたくなる
そんな感じ
そして僕は叫びたくなる
「ハハハ」とか
「やれやれ」とか
「わぉー」とか
だって老いが
発展した天使だと
分かったから
手足をもぎとられた人達が
枝からもぎとられた木の葉のように
浮いている
他の人よりちょっと珍しいだけ
天国ではロイ・カンパネラも
ジョン・L・サリバンも同じように
笑って浮かんでる
足なし男もローラーボードなし
ちびのティムは
「神はすべてを祝福したもう」と叫びつづける)
――天国『ジャック・ケルアック詩集』池澤夏樹 高橋雄一郎訳 思潮社 148-9
2. 柴崎友香 『あらゆることは今起こる』 医学書院
余談① 先日、とある文学賞の二次会で先輩の作家が受賞者の若い作家に向けて「小説の肝をつかんでいる。どういうことかというと、言葉が自分の外にあるとわかっている」とスピーチされていて、そうやんなあとしみじみ思った。自分の外にある言葉を探し続けるのだ。 194
どうみてもいま一番波に乗っている日本語小説の書き手のひとり柴崎友香のベストセラー本が、本人のADHD体験を書き下ろす一冊、しかも意外な着眼点と著者の組み合わせなど毎度変化球で注目を集める医学書院の《ケアをひらく》シリーズとあっては、それだけでともあれ手にせざるを得ない魅力を感じるのだけれど、読んだら驚いた。
「言葉が自分の外にあるとわかっている」ことが、「小説の肝をつかんでいる」ことなのだという上記引用部、194ページで登場するこの補遺部あたりから、小説創作論としても読めるというか成立している多層的な言及に変化していく。
この意味で圧巻だったのは下記、伊藤亜紗との駅のホームでの会話から発展する柴崎デビュー作言及部。
1/複数の時間、並行世界、現在の混沌
話が飛ぶ人は体内に複数の時間が流れていると思うんですよね、と伊藤亜紗さんが言ったのは武蔵境駅のホームだった。
()
伊藤さんの『どもる体』(医学書院)を読んで、吃音は言葉が出てこないのではなく多くの言葉が出ようとして引っかかっている状態だというところに、アメリカで生活したときのことを思い出した。到着してすぐよりも英語に慣れてきたと思った一か月目くらいの時期にうまく話せないと感じて、覚えたり使えるようになったりした言葉がいくつも浮かんで狭い通り道に引っかかるようにイメージしていたのだった。
そのとき伊藤さんが言った「体内に複数の時間が流れている」というイメージは、それまでに自分が感じていた感覚にとても示唆を受けるものだった。
当時私はまだADHDの診断を受けていなかったが、そのイメージで把握したり伝えられたりすることが多くあると思った。
そして、それは私の小説そのものでもある。
ある場所の過去と今。
誰かの記憶と経験。
あるできごとをめぐる複数からの視点。
デビュー作にはよくその作家の要素がすべてあると言ったりもするが、私の『きょうのできごと』(河出文庫)はある飲み会が開かれた一日を、五人の視点で、時系列ではなく前後する時間を書き、さらに一人一人の中でそれぞれの記憶が語られて、別の場所に流れる時間が進んでいく。
その後の小説でも、複数の人物の視点や、同じ人物の違う時間の視点、ある場所に起きたいろんな時代のできごとを場所や人の中に重ねるように小説に書いてきた。私はたぶんそのようにしか小説を書けない。そのようにしか書けないことが私が小説を書こうとする動機であると思う。
一人のシンプルな視点と語りでは世界の複雑さを表せないし、客観的な三人称も存在しないと思っている。世界を描くには、「ある私」を通した世界の感触を複数積み重ねるしかないし、複数積み重ねたその間から響いてくる声が小説なのだと思う。
複数の時間が並行して流れ続けていて、話が飛ぶのは、ある時間の流れから別の時間の流れに移動するということだ。 220-1
「世界を描くには、「ある私」を通した世界の感触を複数積み重ねるしかないし、複数積み重ねたその間から響いてくる声が小説なのだ」
ヒントになるどころではない。そういうことなんだと初めてわかった感じしかない。
てか、話が飛ぶ人なんだよね、これは幼い頃からそう指摘され続けてきたし、指摘された多くのときに感じているのは、「でも自分の中ではそのつながりこそ必然なんだけどな」ということで、この「自分の中」とはつまり、体内に流れている「複数の時間」のひとつを指している。指していたのであった。(迫真
「時間軸」と書いてしまうとやはりそこには目盛りが発生してしまうし、堅いしっかりした一本のものというイメージになるので、今、ここにいる私が生きて感じとっている時間とは違っていく。
『タブッキをめぐる九つの断章』(和田忠彦著、共和国)の中に、ボルヘスが『伝奇集』(岩波文庫) の中で「八岐の園」という、中国人が書いた「八岐の園」から引用している文章がある(この、 何重にも引用されていることこそ、私にとっての小説という形式の根源に思える)。
“あらゆることは人間にとって、まさしく、まさしくいま起こるのだ、と考えた。 数十世紀の時間があろうと、事件が起こるのは現在だけである。空に、陸に、海に、無数の人間 の時間があふれているけれども、現実に起こることはいっさい、このわたしの身に起こるのだ……。”
この「無数の人間の時間」は、独立して並行しているのではなく、「このわたしの身」に含まれている。 227-8
十代の終わりに引き篭もって自分の中に見いだした複数人格を九分類し、のち三人格 奥の一の四分類まで整理されたのち各々別の日記というかノートをつけ出したことは過去幾度か書いてきたけれど、要するにそれは、特定の一人格が為す受け取りとか反応によっては「現実に起こること」の「いっさい」を受け止め行動を起こすことなど不可能に感じられたからで、その総体が「このわたしの身に起こるのだ」という感覚は何だかとてもよくわかる。
著者が、お絵かきなどをしたときに褒めると泣く幼い娘に困っていると、著者の母(娘から見ると祖母)が、状況を聞き取ったうえで、「上手ね」と言われることがいやなんじゃない?と推測する。つまり「上手」という評価の枠に当てはめられるのがいやで、絵を描くのを楽しんでいるのをいっしょに喜んでほしいのではないか、と。
まず驚いたのは、「この子はどう思っているか」を考える大人って存在するんや!ということだった。
私の成長過程にあったことを振り返ってみると、大人という立場である人の考えること、あるいは世間や世の中や常識といったものが求めることに合っているかどうかだけが判断されて、 それに合わせるように求められた経験ばかりだったように思う。もしくは、私のほうがそう受け取ってきたか。 39
それはそうと、本来のというか本書が売れている主たる理由らしいADHD体験記述パートも言うまでもなく素晴らしく、上記「絵を描くのを楽しんでいるのをいっしょに喜んでほしい」幼い娘の心情言及など、思い当たりすぎて泣くかと思った。てか初読時は泣いたんじゃねとも思うけど、ほんとにね。たとえば夏休みの工作で、うまく操らないと電流が流れてランプが点灯するゲームを作ったんだけど、9月の教室でクラスの友達と遊ぶところを想像して、それが楽しみで作ったのに、金賞だけじゃなくガラスケースに展示されたあと市内の科学館的なところへ出展され市長賞か何か貰って、数ヶ月手元に返って来なかった。大人は凄いねって言うけど、ひらちゃんやつっちゃんや稲葉くんと遊びたかったんだよ。すごいな当時はハッキリとした自覚はなかったのに、30年以上たってもこの悲しみ消えてない。
今の日本の社会が要求する「普通」の枠がどんどん狭く固定的になっていって、自分の意志感覚に基づいて行動していくとそれだけで普通ではない判定をされてしまったり、「迷惑」とされてしまったりする(今の日本社会で最も手軽にマイナス評価のラベリングをする万能ワード、「迷惑」)。
「発達障害」に対する注目や関心が高まっているのは、「普通」枠の要求の過大さと抑圧の強さに比例しているんじゃないかと思う。
フィクション作品だけでその文化を推測するのは乱暴なことだけれど、発達障害がフィクションに最もよく登場するアメリカはやはり能力主義や、なんでも原因と対策で解決するはずみたいな考え方が影響していると思うし、ラテンアメリカ文学を読んでいると「この中で遅刻するとか片づけられないとか空気が読めないとかめっちゃどうでもええよな」と思う。
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授業になると全然しゃべらない同級生がいたのだけど、あるとき突然担任の先生が、「今までしゃべらないからって特別扱いをしていたのが間違っていた、今日は質問に答えるまでクラス全員帰さない」と言いだし、他の同級生たちはその子のことをわかっているのでいたたまれない気持ちで座っている中で、立たされたまま黙って涙を流していたその子の姿を、忘れることができない。
発達障害という診断名もそれに関する知識だったりなにかしらの手立ても、困っている本人のためにあって、それ以外ではない。 216-7
> ラテンアメリカ文学を読んでいると「この中で遅刻するとか片づけられないとか空気が読めないとかめっちゃどうでもええよな」と思う。
草。
そうやって日々を生きていて、なんか変でおもしろい、なんやろうこれは、と思っていたことを小説に書いたら、「何気ない日常」「なにも起こらない日常」とよく言われた。何気ないことも、なにも起こらないことも、私にとっては「日常」とはちょっと違う層にあるものなので、そうではないんやけどな、と思っていた。
ずっとそう言われるので、日常というものをどう考えているのか一度書いてみようと思って、『わたしがいなかった街で』(新潮社)という小説で少し書いた。 戦争のドキュメンタリーをなぜか見続けてしまう人の話だ。
“日常という言葉に当てはまるものがどこかにあったとして、それは穏やかとか退屈とか昨日と同じとか同じような生活とかいうところにあるものではなくて、破壊された街の瓦礫の中で道端で倒れたまま放置された死体を横目に歩いていったあの親子、ナパーム弾が降ってくる下で見上げる飛行機、ジャングルで負傷兵を運ぶ担架を持った兵士が足を滑らせて崩れ落ちる瞬間、そういうものを目撃したときに、その向こうに一瞬だけ見えそうに なる世界なんじゃないかと思う。
しかし、それは、当たり前のことがなくなったときにその大切さに気づくというような箴言とはまた別のことだ。いつも、自分がなんで他の人ではなくこの体に入っていて、今ここにいるのかと、不思議に思うというよりは、どこかでなにか間違えている気がしてしまうことのほうに関係があるのかもしれない。自分がここに存在していること自体が、夢みたいなものなんじゃないかと、感じること。
十年くらい前にチェルフィッチュの舞台を観た。英語字幕がついている回だった。セリフの中に「日常」という言葉があって、字幕には「day to day」と書かれていた。あ、それなら近いかも。 275-6
「日常」という言葉が強制する「起こらなさ」の嘘。それはそうと、この医学書院《ケアをひらく》シリーズを初めて読み入ったのは國分功一郎の中動態本あたりからだと思うけど、「シリーズの担当編集者が引退してしまう前に書き上げねば」という終盤言及がちょっと気になる。このシリーズは明らかにこれまでないことばの領域を切り拓いていて、それは一方でいま流行りの「当事者記述」へ接続するとともに、他方では学生の頃に中井久夫の著作群に感じとっていた医療の人文的側面へ光を当てる稀有な達成を続けており、この試みが萎むとすればとても惜しい。
続いてください。
3. 佐藤亜紀 『吸血鬼』 講談社
――その紙の山を退けておくれ。
マチェクは手を止めて、床に置かれた新聞の山を抱え上げる。何かが床に蠢いている。無数の 蠹魚だ。
――下ろすんじゃないよ、とヨラは命じる。
蠹魚は一斉に逃げ出しに掛かっている。ヨラは濡れたモップを取って刮ぎ集め、足で踏み潰す。 マチェクは可能な限り、じんわりと湿って異臭を放つ紙の山を体から遠離けようと努めながら顔 面蒼白になっている。新たに這い出してきた数匹は腕を這い上る。
ヨラはモップをバケツに突っ込む。生きた蠹魚と死んだ蠹魚が一面に浮かび上がる。何匹かは そのまま縁を這い上ろうとする。彼女はその数匹をさっと撫で取り、水の中で握り潰し、モップ を絞り、床を逃げ惑う生き残りを集めて踏み潰し、拭き取る。
――何をぐずぐずしてるんだい、とヨラは叱り飛ばす。 さっさと台所の竈で焼いちまいな。
マチェクは急ぎ足で長持を積み上げた玄関の間を横切り、台所に入る。寵を開けて、と叫ぶ。 29
吸血鬼ジャンルは換骨奪胎され切ってるというか、もはや血を吸われる恐怖それ自体とは別の何かがあらかじめ期待されてしまう、ということはあるのかもしれない。フランケンシュタインが『哀れなるものたち』になるように。
『すべての月の夜』 “Ilargi Guztiak” https://x.com/pherim/status/1501031246322802690
『ドラキュラZERO』 https://x.com/pherim/status/1819677248376742129
『哀れなるものたち』 https://x.com/pherim/status/1807382652531691537
少なくとも近隣では名士で通っている客が揃うにつれて、マチェクは広間が次第に薄暗くなっていくような錯覚を覚える。グライコフスキ夫人は痩せこけた体が透けて見えそうな薄物を纏っている。剥き出しの腕は肉が落ちて薄茶色く黄ばんでいる。客たちは彼女を取り巻き、老人たちは競って媚び諂う。ワルシャワ大公国の宮廷の美女に 媚び諂うように。実際、彼女はワルシャワでマリア・ヴァレフスカに仕えたことがあるらしい。同じように帝政時代の衣装を纏った老婆の一人の背中は無残に曲がっており、もう一人は視力を失っていて、肩を覆うインドの肩掛けには、小間使いの不注意で虫に食われた跡が幾筋も走っている。三人は揃って笑い声を上げる。野晒しの髑髏を冬の風が吹き抜けるような笑い声だ。派手な金糸や銀糸の縫い取りのある立て襟の燕尾服の老人たちもやって来る。肩は落ち、背中は痩せこけ、胸は腹より落ち窪んで、かつては鮮やかな緋色や群青だったであろう正装は、着せられたまま葬られて何世紀かを経たかのようだ。
そしてこれはまだ序の口だ。ほつれてそそり立った仮髪に粉を打った客がやってくるパニエで大きく膨らませた緞子のスカートを戸口に通す為に騒動が起きる。額の生え際から高々と結い上げた頭に添えられた、灰色に変色した駝鳥の羽の飾りがひらひらする。広間にはぞっとするような臭気が漂い始める。虫除けの臭いに埃と汚れの臭いが入り混じる。馴染みのある異臭もする。体を洗う習慣のない老人に染み付いた臭い、乾涸びて朽ちていく肉の臭いだ。
ミェジェイェフスキ夫人が到着したところで、マチェクの困惑は恐怖に変る。夫人の下男たちが女主人を文字通り運び込む。彼らはその、マリア・テレジアの御代に誂えたかのような衣装を着せられた木乃伊を特別に用意された安楽椅子に据え、硬直した両手を膝の上に重ねさせ、扇を持たせる。眼窩は黒く落ち窪んで、眼球の気配はどこにもない。まるで骸骨だ。小間使いがスカートを整え、渡された茶の器を口許に近付ける。すると、痩けた両頬と皺だらけの顎の間に切れ込みのように刻まれていた口が僅かに開き、妙に生々しい歯茎と舌が姿を現す。助けを求めるようにエルザの姿を探し求めると、彼女は、揃いの衣裳を着て人形のように愛らしいが何の表情もないパウロフスキの三姉妹と坐っている。
逃げなければ、とマチェクは考える。すぐにでもエルザを連れて逃げ出さなければ。こんな亡者の群れの中にいたら彼女まで墓に引きずり込まれる。その生き生きとした頬の色に、亡者たちはすぐに気が付く。だが、聖職者じみた長衣のクワルスキが客たちの中から抜け出して、窓際に寄せた机に歩み寄る。燭台の傍らには紙葉の束がある。広間が静まり返る。長椅子の肘掛けに斜 めに腰を下ろしたゲスラーがエルザの手に軽く自分の手を重ねるのが見える。
クワルスキは紙葉を捲る。喉仏がひくりと動く。発せられた声は幾らか掠れている。 116-7
怒涛の絢爛腐乱描写。これから読むひとはスルーしたほうがいいかもな引用下記。肝となる仕掛けそれ自体への言及は、この一記述のみで通過してしまう膂力たるや。
――笑い声が起こる。クワルスキは苛立ちを露わにするが、返答はない。
旦那衆は旦那衆で、百姓は百姓だこっつぁ。教えてくれさ。旦那衆が国を旦那衆のものにするのに、なんで百姓が死んだり手足もがれたりしんばんがぁて。割に合わんぬかの。俺が何考 えてるか言おうかの。余所者、っちゃ損得が自分らと違うもんのこんだ。だっきゃ誰が一番余所者だ。お前様だろがの。余所者がさんざっぱら只働きさせて、挙句に兵隊にして、他人から国をぶん捕るすけ死ね言うか。そら人の血吸ってるのと一緒らの。
ゲスラーは目顔でマチェクに止めさせようとする。――マチェクは、無理です、というように頭を振る。
――土地をやる、とクワルスキは言う。お前たちの土地だ。お前たちの土地の為だ。
んっつぁんいらねえて、と言う声はクワルスキにも聞こえるか聞こえないかくらいに低い。 275
終わり方も好き。
甥御さんは私が警告して国外に退去させれば済んだ。銃は夜中に盗み出して廃棄すればいい。手引して下されば簡単だった。ですが、それ以上に腹を立てているのは自分自身に対してです。ゲスラーは二、三歩ウツィアに近付き、まるで告白をするように口を開く。
私は失敗したんです。
あなたを止めることに、御期待に応えることに、クワルスキ氏を救うことに、他の何もかもに。多分、生まれて死ぬことにさえ。これはもう償いが付きません。となれば仕方がない。このまま生きていくしかないでしょう。
夕闇の中で殆ど見分けが付かないウツィアの顔を、ゲスラーは注視する。二人はそのまま動かない。穏やかな日暮れだ、と、暫くしてからゲスラーは呟く。
――こんな薄闇があるとは考えた事もなかった。やっと落ち着いた気がするのは不思議ですよ。
ウツィアの唇が細く息を漏らす。面紗が微かに動く。笑ったのか、溜息を吐いたのかはわからない。そうね、と彼女は言う。 もっと穏やかな闇も、私たちにはあるでしょう。 283
4. 横光利一 『春は馬車に乗って』 いとうあつき画 立東舎
あるひとから「機械」に次ぐ横光利一の名作短篇として「春は馬車に乗って」を奨められ、文庫もあったが検索でたまたま見つけた本書を繙いてみると、思いのほか良かった。絵柄(冒頭画2枚目↑)の可憐さが、しだいに憔悴しゆく夫婦の昏さを良い意味で掬い上げている。好転はしない物語だが、世界全体の華やぎが視野狭窄的な引きずり込まれを防ぎながらも、横光の創意を疎外しない慎ましさがある。
ともあれ。珠玉の短篇、というものに稀に出逢うけれど本作はたしかにそれで、「機械」はなんだかもう凄まじい膂力で押し潰されるような圧倒感があるのに対し、本作は本作だけの完成された“様式”の中で、最小限の手数に研ぎ落とされた人の手により仕上がった、吹けば飛ぶような脆さ壊れやすさを感じる逸品で、「上海」を書きながらこの両者をもつ横光の、書き手としての凄味を再確認させられた次第。
5. 『群島語 1号 《妊娠》』 自主制作
副編集長の肩書きで携わる。言うまでもなく集団作業の賜物であるのを前提として、編集長を焚き付けてから制作に半年、実質の編集作業としては4ヶ月ほどの時間をかけ、自身が主導する同人誌としては初めての一冊になったけど、テーマ設定や内容水準、300ページに及ぶ厚さからデザインに至るまで、できるほぼ限界までやり切った感はある。もちろん不足不満を細かく言い出せばキリもないが今後に活かせば良い話だし、長々と書き出す場をもつとしてもここではないため省く。
『群島語 1号 《妊娠》』他ネット販売中→: https://guntougo.booth.pm/
※販売物すべてに関わってます。
0号のよみめもでは細かく個別作へも言及したが、0号と比べ全体が自作という面も半ばあり、数ヶ月置いたところでうまく距離がとれそうにないので、今回は割愛する。意外性が強く驚かされた作品としては、中特集《読ませてプレイリスト》の板野明と磦田空、自身担当の小特集《海境異聞》の草村多摩がある。大特集《妊娠》は、一人あたりの制限字数実質2万字を埋めてきた半数の作品が、編集介入がないにも関わらずほぼダレずに読み通せる水準となったのは僥倖というしかない。覚悟なり自己検閲なりによる“篩”がはたらいた面もおそらくある。
また、書く過程に随伴する、補助する、というニュアンスで、とても良い経験になったものが他メンバーの掲載作に幾つもあり、これは編集の醍醐味でもあり貴重だった。しかし一方で明確な反省点として、今回編集部となった自身を含む四人の参加作品が、もし編集部でなければより推敲が為される余地ないし、根本から異なる、より深みのある作品が提出されていた可能性を強く感じてしまう点がある。(他の三人が同じように感じているか否かは全く別の話として) 書くために集まっているグループである以上、一部メンバーに負荷が偏るのは仕方ないこととしても、その負荷を超えたパフォーマンスを作品内でも十全と発揮できる体制こそが理想なのは自明だ。
大特集の巻頭作を下坂裕美、トリを草村多摩作品とすることを強力に主張したけれど、トリについては他メンバーとも同調度が高いのに対し、巻頭作についてはその内的必然性が共有された感が実はいまだにあまりない。正直順番なんてどうでもいいという参加者も多いのかもしれないが、このあたり例えば5年後10年後にどうみえるのか、あるいはその頃にはみな忘れて関心のもちようもないのだろうか。20年前の刊行物でもいまだ反芻する自分としては、このへんも地味に興味深い。
書く集団として、この冊子作成により一段深まるものを得たのは間違いない。それはわざわざ言語化される必要もない、というよりも個別の書く主体形成に関わる、言葉のコミュニケーション要素を削ぎ落としたより繊細で奥深い部分での浸透が多かれ少なかれ起きていて、それこそが成果であり価値なのだということはたぶん言える。たぶんの状態があと何年かつづくとしても。
6. 多和田葉子 『地球にちりばめられて』 講談社文庫
クヌート、ナヌーク、Hiruko、Susanoo。登場人物の名前がキマっていて、その取り合わせだけでもう多和田葉子世界。ナヌークの通称がテンゾで、「鮨の国のひと」と思われ日本食店で働いたりするのもなぜか多和田作品味が感じられ、良い。淡々と進行して、アップダウンとか緩急とかほんとなくて(と言われたら本人はどう答えるのだろう、いやあるんですけど、とは言いそうな)、それでも引っ張る力がある。というより、それでも引っ張るだけの空気感を醸す力、かな。
そこを研ぎ澄ませ極めたからこそ唯一の多和田葉子、なのだろうけど。
学生時に自身の企画書で渡航費を貰った幾つかの機会の一つが二度のドイツ渡航で、うち一度は報告書が財団HPに載ったのだけれど、その年のその括りでの支援対象は二人いて、もう一人が多和田葉子さんだった。行き先がドイツだったのもあり、当時から自分にとってはヤバいひとだったので、恐縮すると共に誇らしかったのを覚えているし、今回なぜかよく思い出した。旅を生きている若者が多く登場したからかもしれない。
7. 砂川文次 『ブラックボックス』 講談社
自転車メッセンジャー主人公の屈託に満ちた日々。職業描写はいろいろ新鮮。ただ仕事描写と鬱屈で引っ張る感じが、ますます若手作家のメインストリームになってく息苦しさみたいなものを感じざるを得ず、終盤の決壊とか、さいきん何度もくり返し読んだ感が凄い。そしてもし自分が似たものを書いていても、結局そうならざるを得ない感じ、そっちへ追い込まれる以外の出口を封じられる感じ。
サクマには、目の前の一つ一つは明確であるにもかかわらず、自分で選び取ったジョブを積み重ねるとゴールではなく破綻が待ち構えているのが不思議でならなかった。この疑問が解消されることは、どうもなさそうな気がしている。 148
この内面記述が、破綻収監後に課された木工の賦役労働がもたらず日々の規則性に落ち着きを見いだしたあとに為されるのもまた不穏。
8. アンナ・レンブケ 『ドーパミン中毒』 恩蔵絢子訳 新潮新書
ジェイコブは性欲を駆り立てる可能性のあるありとあらゆるものを避けてきたわけだが、その並外れた努力は今の私たちの感受性から見ると、まさに中世に暮らしているようなものである。当時罰として着せられていたチクチクする動物の毛のシャツを羽織るに等しい努力だった。
しかし彼はその新しい生き方によって束縛されていると感じるどころか、自由を感じていた。衝動的な過剰摂取から解放されて、再び他人や世界と喜びや好奇心を持って自発的に交流することができるようになったのだ。彼にはある種の威厳が感じられた。イマニュエル・カントが『道徳の形而上学』の中で書いているように「内なる法に従って生きられると認識した時、(自然の)人は自分の中にいる道徳的な人間に対する敬意を持たざるを得なくなる」のだ。
セルフ・バインディングは、自由になるための手段なのである。 161-2
「生きている!と感じることは、本当は好きじゃないんです。薬物やアルコールは好きになるための手段でした。今はもうあんなこと僕はできません。パーティーをしている人を見ると、まだ少しだけ、その人たちの得ている逃避感が羨ましくなります。この人たちにはまだ猶予があるんだと思うから。冷水はそういうこととは違って、生きていることは気持ちのいいことなんだということを思い出させてくれます」
あまりにもたくさん、あるいはあまりにも強力な形で苦痛を味わうと、衝動的で破壊的な過剰摂取に陥りやすくなる。
しかしもし、適量だけを摂るなら、「小さな痛みをもって、大きな痛みを抑え」、ホルミシス的な癒しの道を発見することになる。そうすれば“歓喜の発作”もたまに得られるのかもしれない。 230
被害者物語が多いのは、今の私たちが状況の犠牲者として自分自身を見がちで、自分の苦悩に対して補償や報酬が与えられるべきだと考えがちであるという、大きな社会的傾向を反映している。たとえ実際に何かの被害者になってしまったのだとしても、被害者意識を超えて物語が進展することがなければ、癒しを得ることは難しい。
人が癒しの物語を語るように持っていくことができたら、心理療法はよい仕事をしたといえる。自伝的物語が一つの川だとしたら、心理療法はその川を地図に載せ、必要があれば川の流れを変更させる手段である。
癒しの物語は実際の人生の出来事に則って作られるものだ。真実を探し求め、あるいは手元のデータに限りなく近づけようとすることで、自らの人生に対して真の洞察や理解を得る機会が与えられる。自分の人生を充分に見渡した上で選択することができるようにもなるのだ。 253
どうかあなたに与えられた人生に、どっぷり浸かる方法を見つけてほしい。逃げようとしていることがなんであれ、そこから逃げるのをやめ、むしろ立ち止まり、方向を変えて直視してみてほしい。
そして、そこに向かって歩いていってほしい。そうすることで世界はあなたにとって逃げる必要のない、不思議で畏敬の念を抱かせるものとして姿を現すかもしれない。逃げるどころか、世界は注意を向けるに値する存在になるかもしれない。
シーソーのいいバランスを見つけ、維持することで得られる報酬は、すぐ得られるものではないし永続するものでもない。忍耐とメンテナンスが必要とされるのだ。何が先にあるかわからなくとも前へ進んでいく意志がなければならない。この瞬間には何の影響もないように見える今日の自分の行動が、実際にはいい方向へ向かって積み上がっており、それが未来のいつかわからない時に明らかになるという信念を持てばいいのだ。本当は実践というのは毎日のものである。 312-3
シーソーの教訓
1 快楽のあくなき追求(そして苦痛からの逃避)は苦痛に導く
2 回復はそれを「断つ」ことから始まる
3 ドーパミン断ちは、脳の報酬回路をリセットする。 おかげでシンプルなものごとに喜びを見出すことができるようになる
4 セルフ・バインディングで欲求と摂取の間に文字通り壁を作ることができる。メタ認知できる余地もできる。それがドーパミン過剰の現代には必要である
5 薬でホメオスタシスを回復させることはできるが、苦痛を薬で取り去ることで私たちが失うものを覚えておくこと
6 苦痛の側にシーソーを押すことは、シーソーを快楽の側ヘリセットする
7 苦痛の依存症にならないよう気をつけること
8 徹底的な正直さは自覚をもたらし、親密な関係性を作り、「充分状態のマインド「セット」を育む
9 向社会的恥は私たちが人間という種族に属していることを思い出させる
10 世界から逃げ出すのではなく、世界の中に没入することで本当の癒しが見つかる 314
恩蔵さんは学生時代に付き合いがあった東工大生集団のひとりだけど、30代以降の書き手&翻訳者としての活動は、なるほどあの頃の彼女の突出した側面は、社会的な界面においてこういう顕れかたをしていくんだという意味でも新鮮だし学びがありますの。陰ながら今後も楽しみに&応援いたしとう。
9. 村上春樹 『女のいない男たち』 文藝春秋 [再読]
“『神の国の子どもたちはみな踊る』や『レキシントンの幽霊』の頃に予感され、期待した方角とはだいぶ異なるけれど、これはアリ。とってもアリ。職人的に研ぎ澄まされた巧さと、表出される揺らぎの細やかさ。ただ、「まえがき」はいらなかった。らしくないのか、らしいのか。”
とは、2014年初読時のメモ(よみめも11)全文。1ツイートにおさまるスッキリ感。しかしかなり覚えてなかったので、あまり集中して読んでなかったと思われる。バンコクに住み始めちょうど一年がたつ頃で、いろいろ気忙しかったのは覚えている。
10. 『日経サイエンス 2023年6月号』 日経サイエンス社
科学誌“Scientific American”の日本版で、内容の7,8割は同誌からの翻訳。
小特集《量子コンピューター 日本の初号機が稼働》を士郎正宗が推していて(↓)興味深く読む。
士郎正宗『攻殻機動隊』インタビュー https://twitter.com/pherim/status/1721102694180646949
GPTはじめAIに湧いている世間を脇目に、量子コンピュータ開発でしのぎを削る科学技術の最先端へ、日本が国としてまだ参戦できていることがすでに意外と感じられるこの感性変容よ。まだビット一桁台で世界が競っている初々しさと、しかし実践の場はほぼ絶対零度という隔絶感覚。
あと二足歩行をめぐる記事も面白かった。366万年前の類人猿の足跡に、現生人類とはまったく異なる二足歩行の痕跡を看取めるもの。足跡が色々残っていて、足の骨化石との接合からあり得る樹上&樹下生活が見えてくるっていうアツさ。
▽非通読本
0. 町屋良平 「私の労働」(『すばる』2022年4月号 集英社)
カラダは動きたがっています。けれども、同時に、動きたくないとも言っている。お仕事でも、運動でも、最初の動き出しがつらいですよね?
じっとしているカラダは動いているカラダと別々です。どっちがより「正直」か。まず、そんなことを考えてみました。
毎日リハビリに立ち向かい、辛い日々の中でもあった確かな喜び。それが僕を支えていました。けれど、じっとしている僕のカラダ。動きたくないって言ってるな。
「うんうん、わかるよ」
僕はできるだけ、やさしく語りかけました。
「けど、がんばって動いたら、違う景色が見えるんだよ」 根気強く、語りかけました。やさしくすることと、カラダを肯定することは、時にまったく違うものです。僕はそのとき、「動きたくない」と「動きたい」、両方のキツさに攻められていたとも言えるかもしれない。
けど、ある日ふと、こうも思ったのです。僕は「動かないことで動いてる」んじゃないか。
だとすると、「じっとしてることでじっとしない」ともいえる? ちょっと意味が分からないな。けど、なんか大事なことのような気がする。
(『動きたくないカラダのキモチ』)
「つぎ、一番と四番、コートに入ってくださーい」
主催に呼ばれ、私は本を閉じた。 109-110
フィクションの強度に成るべく捧げられた当事者性の安定感に私たちはお互いメロメロだ。そうした読み/書き間に欲望し、されする当事者性の共犯関係が忍び込むとき、書かれた出来事は物語に、語られた人物はキャラクターになる、その往還のどこかに私は常にいる。 122
自身も関わる書き手グループで、本作含む『私の小説』めぐる拙批評を町屋さんご本人に読んでもらう機会をもつことになり、その道程として。ガッツ。
▽コミック・絵本
α. 伊図透 『辺境で 伊図透作品集』 KADOKAWA
鉄とハイティーンズ短編集。のうち鉄要素の数編が『犬釘を撃て!』(2019年刊、よみめも90)へ発展、結実するのだけど、2016年刊の本書の当該話欄外で、「この路線で続き描きたい」とコメントしていて、偉いなGJ感しか。あと画力に比して口内の描き方が下手というかグロテスクだったのが、きちんと処理されていく様が残っているのも興味深い。
美大のデザ科生の女の子が、鋳造に目覚めちゃって周りもアシストするんだけど物理重量相手にもがく感じとか、空気感ともどもよく描けてるなぁとも。助手たちの性格的な描き分けとか。
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β. 坂口尚 『石の花』 1 KADOKAWA
第二次大戦下のユーゴスラヴィアを舞台とする、史劇なのか少年成長譚なのかはまだ読めない大河物。スロヴェニアやクロアチアの民族対立にナチスとソヴィエトが絡む様を、ゲリラ視点で描く解像度の高さが凄まじく、初刊行が1983年というのはその後の冷戦終結からユーゴ紛争への展開を振り返るほどに空恐ろしい。
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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
γ. 山田鐘人 アベツカサ 『葬送のフリーレン』 11 小学館
デンケン vs 七崩賢マハト、フリーレン vs 大魔族ソリテール、各々の戦闘描写、白熱。
「一番戦いたくないのは無名の大魔族」って名言よな。戦った人間もその周囲も全員死んでるから千年生きても無名、っていう。
δ. 南勝久 『ザ・ファブル The Secod Contact』 6-9 講談社
暗視スコープ機能をもつコンタクト&目薬キットの登場、良い。
ファブルの頭があっちと同じっていうのは予想外の面白展開で、9巻でとりま終わるこの流れの巻末で、その頭が「経験は思考から生まれる」「思考は行動から生まれる」と締めているの、カッコいいね。マザー・テレサかなと思ったけど、19C後半の英国首相ベンジャミン・ディズレーリらしい。
ε. 芥見下々 『呪術廻戦』 2-6 集英社
伏黒恵の内面描写とか、新鮮。アニメがしっかりオリジナルの芯を掴んでるの確認できつつ、削ぎ落としても良いとこをしっかり削ぎ落としてるんだけど、それはそれで読めばきちんと面白い。これはアニメ先行で正解だったな。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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