・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
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1. 日和聡子 『風土記』 紫陽社
下生図
下生すると、弥勒は四つ辻の石に腰をおろした。
苔むしたその石の上で半の姿勢をとると、腰に下げた煙草入れから煙草を取り出し、火打ち石を打って火を点じた。
弥勒は目を閉じてゆっくりと草をふかした。くゆる紫煙はまっすぐに空に立ちのぼり、弥勒のずっと頭上高くで急に折れ曲がって、風の奥の方へとたなびいていった。眼にはさやかに見えぬほどの、小さな色うすい夕の粒が、段段弥勒の眼前背後の空に、わずかずつしずかに混じりはじめていた。
やがて弥勒が腰を上げると、その腰にぶら下がった煙草入れに蒔いたの蜻蛉が青く光った。その濡れ色を輝かす蜻蛉のが、摺り足で歩み出す弥勒の揺れに応じて七色に変じた。それは刺すような斬るような、甘くうるおったきらめきを放ちて、あとからあとからこぼれ出づる満光を絶やさなかった。
弥勒が離れた下生の石は、祠も失せ、野ざらしのままの苔地蔵仏であった。かつての大頭は欠け落ち、大柄な頸下の体軀だけが、叢に埋もれて坐っていた。その肌は、もはやとりどりの苔黴や蔦におおわれて、かつての角もくぼみも果てた、かたちもなきが如しの朽ち石であった。
その地蔵の鳩尾のあたりを、一匹の小さな虫が通った。それは、道のない、丈高き苔叢の茂る地蔵の脇腹を横切り、腕をつたって、背中の方へとわたっていった。頸のない地蔵は終始黙ってびくともしなかった。脇では薄の穂がその肩を幾度も撫ぜていた。
池袋の女
刃渡り十七糎。
天叢雲剣の文鎮に 枕元の半紙引き寄せ 筆を取る。
〈礫降る夜の街を独り歩きまして御座ります。〉
女は半紙を筒に畳み せり出す胸の丘をさらしに巻いて
封書を谷に差し込み宿を出た。
椿が咲けば実を膨らまし
種を育みはじけるのみと。
女は頼めぬ男を断ち斬って
汗と油と血と唾とで
泥になりたる毛尨の腹と股とに赤き文をしたためた。
〈左様なら。〉
言葉続かず 重たき頭 膝枕外して肌に衣着て宿を出づ。
池袋は雨上がり
今ある濡れた大路小路を訪ねるのみでは
自ずから 路頭に迷ひ 早晩迷子とならざるを得ぬかも
然れば此の叢雲の剣を以て 新たに道を斬って切り拓かずば先はなし
さ夜ふけて宿へ帰ればうずたかく 積もりし書物の山に遭難
其処には温き胸も叢もなく 抱くは剣と筆のみで
夜露に濡るる 薄き蒲団に突っ伏して 叫びは口にさるぐつわ
嗚咽洩らさず夜明け待ち 朝日のぼれば自ずから
下山の道を見出だして 朝ごと独り 下りて行きなん
2. 藤本和子 『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』 岩波現代文庫
生きのびることの意味――はじめに
わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。アメリカ的な病ともいうべき物質主義と鬱病に、わたしたちはまだ一度も屈服したことはない。物はいくら所有したって足りない。貧困のどん底にあるような黒人たちのくらしの心を占めたのは物への欲求ではなく、何かべつのことだった。多くの黒人にとって、それは名付けようもないもの。指さして示して、ほら、これだ、ということができないもの。人びとはそれを宗教的偏見だとか、フードゥーとかヴードゥーとかいろいろにいうわけだけど。とにかく、わたしたちにはある種べつの知性を理解する能力がある。 1
戦後アメリカ社会を生き抜いてきた黒人女性らへ丹念に話を聞き、文章で記録する。語られる道行きはいずれも沸騰するような熱量と混沌に満ち、黒人で、女で、アメリカ南部に生を受けたがゆえ、と読めば理解した気になれるような容易さからは程遠い。「わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだ」。そこに覗くのは、奴隷制廃止後も持続された極度の貧困と虐待、被差別の環境下でなお子どもを産み育て、生活の知恵を伝え継ぐことで磨き上げられてきた、抵抗し生きのびる魂と胆力の現在形である。石牟礼道子やアレクシエーヴィッチにも匹敵する濃密さで読ませる、紛れもなき名著。
3. ハン・ガン 『すべての、白いものたちの』 斎藤真理子訳 河出書房新社
すべての、白いものたちの
私はあなたの目で見るだろう。白菜のいちばん奥のあかるく白いところ、いちばん大切に護られた、稚い芯葉を見るだろう。
昼の空に浮かんだ、涼やかな半月を見るだろう。
いつか氷河を見るだろう。うねり、くねり、青い影をたたえた巨大な氷を、生命だったことは一度もなく、そのためいっそう神聖な生命のように見えるそれを、仰ぎ見るだろう。白樺林の沈黙の中にあなたを見るだろう。冬の陽が入る静かな窓べで見るだろう。天井に斜めに差し込む光線に沿ってゆらめき光るほこりの粒子の中に、見るだろう。
それら白いものたち、すべての、白いものたちの中で、あなたが最後に吐き出した息を、私は私の胸に吸い込むだろう。 177-8
息
寒さが兆しはじめたある朝、唇から漏れ出る息が初めて白く凝ったら、それは私たちが 生きているという証。私たちの体が温かいという証。冷気が肺腑の闇の中に吸い込まれ、体温でぬくめられ、白い息となって吐き出される。私たちの生命が確かな形をとって、ほの白く虚空に広がっていくという奇跡。 91
雪
ぼたん雪が黒いコートの袖に止まると、特別に大きな雪の結晶は肉眼でも見ることができる。正六角形の神秘的な形が少しずつ溶けて消えるまでにかかる時間はわずか一、二秒。それを黙々と見つめる時間について、彼女は考える。
雪が降りはじめると、人々はやっていたことを止めてしばらく雪に見入る。そこがバスの中なら、しばらく顔を上げて窓の外を見つめる。音もなく、いかなる喜びも哀しみもなく、扉々として雪が舞い沈むとき、やがて数千数万の雪片が通りを黙々と埋めてゆくとき、もう見守ることをやめ、そこから顔をそらす人々がいる。 63
霜
彼女が生まれた日には雪ではなく、初霜がおりたのだが、彼女の父も娘の名前に雪の字を入れてくれた。成長するにつれて彼女は人より寒さがこたえるようになり、名前に雪の字が入っているからではと、恨んだこともある。
霜がおりた土を踏むと、半分凍った土の感触が運動靴の底を通して足の裏に感じられ、その瞬間が彼女は好きだった。まだ誰にも踏まれていない初霜は美しい塩のようだ。霜がおりはじめるころから、陽の光は少し青みを帯びてくる。人々の口から白い息が漏れてくる。木々は葉を落としてしだいに軽くなる。石や建物など固いものたちは、微妙に重くなったように見える。コートを取り出して着込んだ男たちと、女たちの後ろ姿に、何ごとかに耐えはじめるとき人々が黙々と胸にたたみこむ予感が、にじんで見える。 57
灯たち
この都市のむごく厳しい冬の中、彼女は十二月の夜を通過中だ。窓の外は月明かりもなく暗い。マンションの裏の小さな工場の建物には、保安のためか、十個あまりの電灯が夜じゅうずっと灯っている。漆黒の闇の中にぽつりぽつりと灯った電灯が作る、めいめい孤立した光の空間を、彼女は見守る。ここに来てから、いや、実はここに来る前から、彼女は熟睡できたことがない。少しのあいだ目を閉じて起き上がってみても、窓の外は今と同じく真っ暗だろう。運良く少し長く眠って目覚めることができたなら、夜明けのほの青い光が、暗闇の内側からゆっくりと沁みでてくるのを見ることになるはずだ。そのときにも、あの灯たちはまだきっぱりとした静けさの中に孤立して、白く凍りついたままでいることだろう。 109-110
宗教書にも近い、断片の集積。
ことばを読むことの一瞬一瞬が世界を編みだしていくような。つまりは書くことの。
有り難きを生きることの、在り難さを物語ること。
それから邦訳の単行本版が、モノとして少し神懸かっている。最小限に研ぎ澄まされた一閃が、単に装丁の手が込んでいるとか金がかかっているとかいう工夫のすべてを凌駕して受け手の心を捉えるような。紙質の異なる、よって色合いも薄っすらと異なる五種の白紙が使用されているという、それだけの。
思い出す。マンションの鍵が一つしかなかったので、子どもが学校から帰ってくる五時半までには必ず家に戻っていなくてはならなかった。その時間まで道を歩いては、この本のことを考えた。何か思い浮かぶと、道に立ったままで手帳に何行か書きつけたりもした。一つしかない寝室で子どもがこんこんと眠っている夜には、食卓の前に座り、または今のソファーベッドに石を敷いてうずくまり、一行ずつ書きついだ。
そうやってあの都市で、この本の一章と二章を書き、ソウルに戻ってきて三章を全部書いた。そのあと一年間、最初に戻ってゆっくりと手直しした。孤独と静けさ、そして勇気。この本が私に呼吸のように吹き込んでくれたものはそれらだった。私の生をあえて姉さん――赤ちゃん――彼女に貸してあげたいなら、何よりも生命について考えつづけなくてはならなかった。彼女にあたたかい血が流れる体を贈りたいなら、私たちがあたたかい体をえて生きているという事実を常に常に手探りし、確かめねばならなかった――そうするしかなかった。私たちの中の、割れることも汚されることもない、どうあっても損なわれることのない部分を信じなくてはならなかった――信じようと努めるしかなかった。
もしかしたら私はまだ、この本とつながっている。揺らいだり、ひびが入ったり、割れたりしそうになるたびに、私はあなたのことを、あなたに贈りたかった白いものたちのこと思う。神を信じたことがない私にとっては、ひとえにこのような瞬間を大切にすることが祈りである。 185
4. アン・ビーティ『この世界の女たち』 岩本正恵訳 河出書房新社
街灯の下の小さな明るい空間では、渦巻くすべての雪に法則があるように、ふと感じられた。時間そのものを凍らせることができるなら、雪片はレースのような金線細工になって、愛を表わすだろう。キャロルは眉をひそめた。なぜ、マットはリンゴを思い浮かべたのだろう。彼女は今、リンゴのないところにリンゴが見えた。リンゴは空中に浮かび、彼女の目の前の情景をばかげたシュールレアリスム絵画に変えていた。
雪は夜どおし降りそうだった。ブリンクリー家に向かう車のラジオでそう言っていた。 112
いまこの瞬間にもこの地上では、そこらじゅうで何気なく人々が暮らしている。街の片隅の古いアパートで、郊外の一軒家で、あるいは職場で。ひとりで、もしくは集団で。心のうちに悩みや傷を抱えず生きる大人は稀のはずだが、そんなことはおくびにも出さずにこやかに、穏やかにその日その場をやり過ごす。アン・ビーティはそうしたごく平凡な日常のひとコマを舞台に選びながら、その細やかな筆致によって表面上の穏やかさの裏側に息を潜める不安や混沌を丹念に、鮮やかにあぶり出していく。
ジェロームはボトルをじっくり見つめ、時間をかけてコルクを引き抜いた。そして、ボトルをゆっくり持ち上げて、香りを嗅いだ。続いて、白いリネンのナプキンを指にかぶせて、注ぎ口の まわりと内側を拭いた。そのとき初めて、彼女ははっきり理解した。ジェロームがこんなことをするのは、怒っているせいだ。デイルはフォークを取り、ナスをひと切れ突き刺した。 27
短篇「燃える家」は、ある夫妻の家で催されるパーティの一夜を描く。別居中の夫の浮気を妻は知っている。幼い息子が小学校へ上がったのを機に大学院へ復学した妻にも恋人がいる。夫妻の家を訪れる友人や夫の異母弟はともに夫妻の事情を承知しており、また彼らゲストが心に負う傷の存在を夫妻は知っている。時がたつにつれ様々な出来事が起こる。たとえば友人のいたずらにより台所で料理中の妻が指にケガをする。
自分の血を見るのはとても苦手だ。わたしは汗をかいている。JDのすることをそのまま受け入れる。彼は水を止め、わたしの人差し指を手で握って強く押さえる。わたしたちの手首を水が伝い落ちる。 137
いつまでも同じ状態ではいられないことを皆が知っている。夜が更けるにつれ、緊張が徐々に高まる。両親の緊張を感じとっている息子は、同級生の家に泊まりに行くと言って不在ながら、同級生の母親から「泣いて家に帰りたがっている」と電話がかかってくる。蛇口の水に流されゆく血が、皆が抱える心の痛みを映しだす。
1974年『ニューヨーカー』誌で若干26歳でのデビューを飾ったアン・ビーティは、愛とドラッグと熱狂に満ちた1969年ウッドストック・フェス直撃世代のその後を精彩に描く作家として脚光を浴び、その作品は「ビーティ世代」の語を生むほどブームとなった。本書には1979年に書かれた「燃える家」から2000年代まで短篇十作が収録される。
リチャードとリタはBMWのコンバーティブルでケラーをロサンゼルス空港に迎えに来て、スシ・レストランに連れて行った。その店では、一定の時間ごとにレーザーで壁に映像が描かれ、バングルズの「エジプシャン」に合わせて、セクシーなヒエログリフが服を着たままセックスしているようなアニメーションが点滅した。翌朝、ふたごはケラーを博物館の風刺として作られた博物館に連れて行った。まじめくさった奇怪な展示に説明がつけられていて、訪れた人の大半は、ここを本物の博物館だと信じているに違いないとケラーは思った。 162
主人公夫妻が1969年に結婚した設定として読める「白い夜」は、ともに深い喪失を抱えた二組の夫妻が四人で過ごす雪の一夜を、あたかも氷の結晶に閉じ込めたかのような端正さで描く。「ウサギの穴」では、認知症の母との会話に苦心し不仲の弟とのコミュニケーションに摩耗する女性を、弟の妻からの手紙が意外な形で救いあげる。また上司にもオーナーにも無断で売家に飾るお気に入りの器が、不動産屋で働く主人公女性のかこつ虚しさ、証券会社の夫との安定した暮らしでは満たされない心の在り処を輪郭づける短篇「ヤヌス」の巧緻には驚かされる。
今思えば、家は人に見せても恥ずかしくない状態だったはずだ。 引っ越してきたとき、彼女とフィリップは愛し合っていて、この家も愛していた。やがて愛し合わなくなると、家はふたりの思いを察して一緒に沈んでいったように感じられた。中央がへこんだ玄関の階段は、ケイトを悲しくさせた。ある晩、二階のよろい戸が落ちて、彼女とフィリップは驚きのあまり抱き合った。別れると決めたとき、どうせなら契約が切れる夏の終わりまでいることにした。ちょうどフィリップの幼い娘が泊まりに来ていて、とても楽しく過ごしていた。家は三階建てで、ふたりが顔を合わせずに過ごす広さは十分にあった。 120
こうした粒選りの短篇群の中でも、やはり表題作は際立って感じられる。初期傑作短篇「燃える家」と極めて似た構造をもち、4人の男女が過ごす一夜を舞台とする2000年作「この世界の女たち」は、しかしふとした一瞬の空気感や細部の描写がより鮮明化されている。また女性視点が複数登場する点も「燃える家」から複雑化を遂げており、本書の通読によって著者が積み重ねた二十余年におよぶ研鑽の過程をも堪能できるものとなっている。
もちろん、キャロルはその答えを知っていた。彼らを知らない人たちは、酔っぱらって寝てしまったと誤解するだろう。けれども、友人ならきっとありのままにわかるはずだ。時がたつうちに、避けがたい悲しみをやり過ごすそれぞれのやりかたを、彼らはたがいに批判しなくなった。避けがたい悲しみは、どんなときも思いがけず訪れ、心を深くえぐる。降る雪を受け入れるように、その瞬間に受け入れるしかない。外の白い夜の世界では、彼らの娘が天使のように浮かんでいるかもしれない。キャロルはその情景を、娘が宙を舞うほんのわずかなあいだ目にするだろう。それは、必要な、ささやかな調整だ。
In the White Night, June 4, 1984
白い夜に 117
5. 村上春樹 『若い読者のための短編小説案内』 文春文庫
吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、丸谷才一、長谷川四郎と短篇小説の好手ら個々に一章を割いたガイドで、本人が名うての短篇巧者でもある村上春樹が書くのだから言うまでもなく良質の小説論にもなっている。書評家や批評家によるガイドとの根本的な違いは、たとえば下記のような一節に現れる。
おかげで彼の分裂状態はより顕著になります。彼は馬が妻の寝室をノックし、「奥さん、奥さん、あけて下さい」と人間の声で語っているのを耳にします。トキ子の寝室のドアをノックし、交情を迫っているのはおそらく「馬」 という外部装置を使った「僕」自身であるはずです。主人公もそのことは漠然と認知しています。自分が「妄想装置」という大きな企みの中に置かれていることをひしひしと感じています。
「僕が他人の影だと思ったのが、僕の姿だということがあった以上、馬のあの話声は、僕に外ならないかも知れない」と彼は認識します。彼は心の底でそのような自分の分裂を感じてはいるのです。そしてそのような分裂がトキ子の「企み」によってもたらされたものであるということも。 89-90
これは小島信夫「馬」をめぐる“案内”の一部なのだけれど、読み解きがほぼそのまま村上自身の小説展開を連想させる。連想というより、多崎つくる(『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』)とか『騎士団長殺し』の「妻」への想像的強姦場面とか、この憑依形式はほぼそのままじゃないのと感じられる。なるほどそうやって展開されていくのだなと予感もされる。
いずれ再読したい。
丸谷才一『樹影譚』メモ「よみめも83 水影の向こう側」https://tokinoma.pne.jp/diary/5027
吉行淳之介「水の畔り」読了ツイ:https://twitter.com/pherim/status/1679065395637149701
小島信夫「馬」読了ツイ:https://twitter.com/pherim/status/1681968340531810304
6. 泉鏡花 『外科室・海城発電 他五篇』 岩波文庫
御者は真一文字に馬をして、雲を霞と走りければ、美人は魂身に添はず、目を閉ぢ、息を凝し、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋りつ。風は鼬々と両腋に起りて毛髪も竪ち、道はさながら河の如く、濁流脚下に奔注して、身はこれ虚空を転ぶに似たり。 22(「義血侠血」)
旧仮名遣いの本は久々だったのではじめ戸惑ったが、間もなく文体の必然として目に馴染み気づけば惹き込まれていた。
これに次ぎて白糸は無雑作にその重罪をも白状したりき。裁判長は直に訊問を中止し 即刻この日の公判を終れり。
検事代理村越欣弥は私情の眼を掩ひて具に白糸の罪状を取調べ、大恩の上に大恩を累ねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終り、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是なりとして、渠に死刑を宣告せり。
一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、遂に幽明を隔てて、永く恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕寓居の二階に自殺してけり。 83(「義血侠血」)
にしてもこのキレ、ぶった切りの爽快さはなんだろう。きっぷの良さというと江戸っぽくなってしまうけれど、たとえば小津映画で女性たちがしばしば見せる諦念/切断の素早さの、さらに烈しいものをここに感じる。
現実へ事後的にまとわりつかない精神のカタチ、とでも呼べそうな。覚悟というほど大層でもないごく自明の振る舞いとしての截然たる佇まい。
決然として握払へば、力かなはで手を放てる、咄嗟に巡査は一躍して、棄つるが如く身を投ぜり。お香はハッと絶入りぬ。あはれ八田は警官として、社会より荷へる負債を消却せむがため、あくまでその死せむことを、むしろ殺さむことを欲しつつありし悪魔を救はむとて、氷点の冷水凍る夜半に泳を知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。 後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああ果して仁なりや、しかも一人の渠が残忍苛酷にして、恕すべき老車夫を懲罰し、憐むべき母と子を厳責したりし尽瘁を、讃歎するものなきはいかん。 109(「夜行巡査」)
7. 草村多摩 『愛と七月』 自主制作
二〇二三年七月と、一九九五年七月。子を育て義理の祖父を見送る母のわたしと、母の愛を求める子のわたし。
……こんどはわたしが泣きそうになって、自分の部屋に行って鍵をかけた。
有が追いかけてきてドアを叩く。しばらくして、ドアと床の隙間から紙が差し入れられる。歩もいるようで、小声で、いま出てくるよ、と言って笑っている。その声に、深刻になっている自分が馬鹿らしくなって、笑ってしまう。わたしは出て行かない。もう出て行ってもいいかなと思うのに、どんな顔で出て行けばいいのかわからなくなっている。 5-6
昨年の冬以降、ある機縁からこのひとの短い作品を幾つも読んできたのだけれど、本作『愛と七月』にはそれら創作群の書かれる原理が最も露出しているように感じられる。いまあるこのわたしの時の移ろい、みえる世界の画域を容易には裏切らない、その筆運びの異様なほどの執着がしかしそのまま書き手の文体を生み作品群を貫く個性となっている、その原点かそれに極めて近い場所まで、本作は降り立っている。
小説でなければならない、彼女なりの根拠のある奥底。小説によって初めて生起され得る連なりの、源流のたもとで書かれている。
馬鹿らしくなって、目の前にいる彼らに向き合える気がする。油断するとステレオタイプなお母さんになろうとして、そのわたしじゃない何かの悩みに悩んでいる気がして目が回る。そうしているのはわたし自身で、そこから我に返らせてくれるのが彼らなのに、彼らのことで悩んでいると思ってしまう。
読みかけの本とノートをひらくと、有のピアノの練習をどうするか、最後のところにそう書いてあった。ピアノの練習が問題なんじゃないことはわかってる。愛を拗らせて問題がずれていく。 6
中盤では「真実の愛」の語が、現在と過去をつらぬくキータームとして会話文のなかでくり返される。これは作者本人が気づいていない可能性も感じるし些末な話といえばそうなのだけど、「しんじつのあい」は「しちがつとあい」と音的に呼応していて、ことば選びをめぐるこうした音感に優れた才能もまた、草村多摩という書き手の輪郭を周囲から浮かび上がらせる資質の一端になっている。無自覚を装い紛らせる遊び心の有無は別にしても、書けば書くほど磨かれ伐りだされゆくこれはまだ内に秘められたものだろうから、まずは今後がとても楽しみ。ゆっくり待ちたい。
著者ご本人よりご恵投いただきました、感謝。
8. Luke Crampton, Dafydd Rees, Wellesley Marsh “Bob Marley” Taschen
ボブ・マーリーの音楽人生を写真メインで概観する、Taschen社の“Music Icons”シリーズ。マーリーのドキュメンタリーやら息子が監督した伝記映画(2024年5月公開予定)やらを立て続けに観たあとで、関連の文章を書く上でも良い補完になった一作。
『ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ』デジタルリマスター
https://twitter.com/pherim/status/1762394390910357934
『ボブ・マーリー ルーツ・オブ・レジェンド』“MARLEY” https://x.com/pherim/status/1786754357205324056
『ボブ・マーリー:ONE LOVE』https://x.com/pherim/status/1788877982402281559
拙稿「信念の親指、ある信仰者の雄叫び。」https://www.kirishin.com/2024/05/15/66514/
それはそうと本著、元の英文をすべて残したまま日本語訳を挟んでいる珍しい構成。美術系に強いTaschen社に限らず、日本の出版がまだ活況だった頃のヴィジュアル本でよくみかけることだけど、国内の出版文化がもつ常識に則らない製品がよくありましたね。この本も訳者のクレジットが雑(日本語では表記自体がない)だったり。発行元はタッシェン・ジャパン株式会社、との由。
9. グレゴリー・ケズナジャット 『鴨川ランナー』 講談社
この異国体感に、驚かされた。
まったく未知の構造と外見をもつ言語に彩られた都市を歩むことの、この戸惑いと愉悦が、バンコクで体験していたそれに瓜二つすぎたことの、衝撃。そして「オマモリがアミュレットになるとき、何かが失われてしまうのではないか」という疑いまで、「それを嘘のように感じる」という直観まで。瓜二つ。
両側の歩道に揚げ物やお酒や焼き菓子を出している屋台がみっしりと並んでいる。人の流れとともにゆっくりと前進しながらきみはそれぞれの屋台に書かれた言葉を読もうとするが、一文字一文字を解釈するのに時間がかかる。教室ではきみが見た日本語は教科書の大きくてくっきりとした活字と、先生の丁寧な板書に限られていた。同じ文字にこれほどの多様性があるのは予想できなかった。
どこを見ても、きみの理解を拒む表象がある。標識といい、文字といい、イメージといい、それぞれの記号が内容にくっつくことなく、ただぼんやりときみの目の前に浮かんでいる。いきなり非識字者になったようなパニックが迫り上がってくる。しかし同時に、興奮を感じているのも確かだ。これらの表記の表面下で、きみには知らない論理が働いている。
言葉だけでなく、五感に訴えるあらゆる物事がきみの理解を逃れる。露店から漂ってくる匂いも、街を充たす喧騒のような音楽も、空気の感覚だって少し違うような気がする。長い間高熱にうなされてようやく起き上がった病人のようにたどたどしい足取りで歩きながら、眼前にある不思議に合わさらない現実をなんとか収めようとする。
今朝訪れたテンプルでも、マキノ先生がクラスのためにその光景を英語で解説してくれた。
――これはオマモリと言う。
――英語で言うとアミュレット。
――ここでは、みんなオイノリをする。
――つまり日本式のプレイヤーのこと。
本当にそうなのか。
オマモリがアミュレットになるとき、何かが失われてしまうのではないか。
きみはなぜかそれが気になって仕方がなかった。しかし先生にその話を持ち出そうとしたら、自分の思いを適切に伝える言葉を、英語でも日本語でも、持ち合わせていないことに気づいた。
経験したことのない感覚だ。地元では、きみがもつ言葉は周りの物事に常に密着していた。たとえ知識に穴があっても、その穴なるものを説明する言葉が自分にあった気がする。が、この街で見たものは母語にあった様々な境界線に抵抗する。世界を理解可能とする、はっきりとした複数の線がぼやけてきて、きみはめまいがする。
あのガイドブックを読んでみれば今夜の行事について何かが分かるかもしれない。無理やりに理解しようとする手もあるだろう。あ、これは日本風の何々とか、これは要するにワレワレのあれに相応するものだなとか、そうやって生半可の知識に信頼を置き、自分の理解を超えるものを排除したら安堵を覚えるだろう。
しかしそれを嘘のように感じる。あまり早く分かったつもりになると、何かを見失うような気がする。もう少し素直に今の経験を受け入れたい。
きみを囲い込む人集りから熱気が伝わってくる。目前に広がる黒髪の海の先を見ようとしたら数百メートル前方にまた大きな交差点があって、その先には確かに緑の兆しが見て取れる。
交差点に着くとようやく人間の波が砕け、それぞれの方向に流れていく。長いビルの谷がいきなり終わり、先に樹木が見えてくる。公園か、またはもう一つのテンプルかもしれない。しばらくその方向に進むと、そこで初めて川が現れる。 13-5
そうだよな、欧米人が日本語に感じるそれは、タイ語へ日本人が感じるそれと、相似形を描くこと。あまり考えたこともなかったそういえば。ひとだかりが、そう渋谷交差点が、立ち止まりカメラやスマホを掲げる彼らには、海に見え波に見えて物珍しいという、そのことの。
たった二週間の旅行だったけれど、再び飛行機に乗り込んで小さな故郷に帰ってくる頃にきみの中で確実に変化が起こっている。
以前は世界そのものと同一視していた、生まれ育ちの故郷がどこかみすぼらしく見えてくる。低くて古い家屋、連なる荒れ地、唯一の生命線である国道を走る錆びついた車、このすべてはこの世界のごく一部に過ぎないかもしれない。ひょっとしてそれは辺鄙な、周辺的な一部なのかもしれない。この世の中にきみの知らない言語の中で毎日を送っている人々が、きみの知らない映画を観て、きみの知らない音楽を聴き、きみの知らない本を読んでいる。旅の最大の獲得は、自分の知識がどれだけ乏しいか、自分の世界観がどれだけ狭いかという認識だった。
きみがあそこに渡るよりも早く、あそこの言葉に出会うより遥か以前に、あの街はきみと無関係に動いていた。帰ってきた今も、向こうは変わりなく動いている。当たり前のはずなのに、その事実を考えるときみの中の何かがずれるのを感じる。今まで円滑に回っていた何かが中心軸から外れてしまい、不穏な音を立てながら空走している。
あの橋の上で見た景色がふと思い浮かぶことがある。あの眺めに対比できるものは地元にはない。正しく形容する言葉すらない。きみはもう一度あの場所を訪れたくなる。そこへ行って何がしたいかよく分からないが、とにかくもう一度行くしかないような気がする。
()
きみの表現力は徐々に高まる。教科書に載っている会話例、すべて滞りなく言えるようになる。挨拶、自己紹介、道案内。それらの言葉はきみのものではない。ただ本の中に書かれた文字と、テープから流れてきた音声を、そのまま暗記し、再現しているだけだ。別の人になって、別の言葉で喋って、ただ作られた人格に流されたまま言葉を発する。きみは何となく母語で喋るときよりも、一層強くなったように感じる。まるでこの言語が鎧になってくれるようだ。
今でもカタカナで書かれたきみの名前を見ると、そこに自分のことを見出せない。そもそも最初からそこになかったのではないかという気がしてくる。そこにあったのは、もう一人の新たな自分だ。そして日に日に身につけている音と文字と会話例で、そのもう一人は着実に養われている。 17-9
そして時間がたつごと、学習が進むごと、それらは解像度を上げてゆき、輪郭が明瞭になりゆくと同時に、鮮やかさを失ってゆく。気づけばそこは、日常となっている。いつのまにか“もう一人”がこの自分という主役へ置き換わっている。にしてもこの日本語の精度はヤバいな。そこは違う。途方もなく違いすぎて畏怖さえ覚える。
にわか牧師として結婚式で働きだす後半収録の中篇「異言(タングス)」も悪くない。
直近の二人称小説ということから手にとったけど、望外の発見と興奮に溢れる体験でした。
10. 何子彦 “A for Agents” 東京都現代美術館
ホー・ツーニェン《エージェントのA》展の余韻が思いのほか深く、展示カタログを後日ネット購入する。戦時下の京都学派へ着目した展示中核の《Voice of void》は3年前に山口で観たので基本スルーするつもりだったが、けっこう見入ってしまった。そのせいでトニー・レオン作ほかに充分な時間を割けなかったのは失策。
氷河の流れ
クレバス、褶曲、砂漣、畝溝、断層、衝上断層などの氷河の可視的構造は、流れの競合する諸力を反映している。したがって、堆積した氷の塊の中に異なる速度の運動が含まれている。氷河は統合的な地質学的配置を示すどころか、高度に動的な力の場であって、それぞれのベクトルが常に運動と変容のうちにある。
未来は永続する
使用済み核燃料の最終処分が数年後に始まる。()「今後100万年の間に何度か氷河期が訪れるだろう。そうなれば地震のリスクが生じるだろう。2.5kmの氷床が形成され、地殻を数百メートル押し下げることになる。この施設はそれに耐えるように作られている」。
氷河期が終わると地殻は再び上昇する。そのとき、使用済み燃料容器を破壊する規模の地震が起こるかもしれないと彼女は付け加える。「それを防ぐため最適な場所に保管している。処分場は岩盤の亀裂のない部分にある」。
私たちはホモ・サピエンスの歴史よりも長い間持続するものを作ろうとしている。 132
《東南アジアの批評辞典》の構成が会場で気になった理由も、展示カタログを読みすこしわかった気がする。アルファベット順に集約することの、ある種の暴力性、固有名からの固有性の簒奪ムーヴが、かえってえぐり出す核心のようなもの、こそが表現の強みになっている、とでもいおうか。
しかし、ホーは虚無主義者ではない。その作品は言語の無意味性どころか、言葉の根底的な空虚さが言語を駆り立て活力を与える詩的原動力であり、新しい言葉を約束するものだということを表す。「固有名の喪失は、アリスの全冒険を通して反復される冒険である」。ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』小泉義之訳(河出書房新社、2007年)19頁。 194
ホー・ツーニェン《ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声》山口情報芸術センター鑑賞スレ:
https://x.com/pherim/status/1411302079994359808
《エージェントのA》展鑑賞ツイ:https://x.com/pherim/status/1809831922488807548
▽非通読本
0. シャーリイ・ジャクスン 「くじ」 (『くじ』 深町眞理子訳 早川書房 所収)
この短編はすごい、とどこかで読み、文庫があまりにも厚いので表題作のみ読む。平穏な田舎町の日曜日、ロットくじ会場がむやみな熱に包まれて、ついに当選者が出るに至って、という展開。なるほど、これは発表時に注目を集めるし、アメリカのど田舎の果てしなく茫漠として地獄のような窮屈さの真相に迫ってるなと。
いずれ他の短編も読みたい。いまは読書リストの優先項目が多すぎて、ちょっとそういう気になれない。(厚さが)
▽コミック・絵本
α. ショーン・タン 『アライバル』 小林美幸訳 河出書房新社
家族と離れ離れになって暮らす移民の夢と苦悩と、歳月の光景。
絵本の体裁ながら、ページを区切る一コマ一コマを注視してゆく読み味はコミックのそれに近く、しかし吹き出しはなく、実在の文字はない。ただ町景の端々に描き込まれる架空の文字からは、明瞭には意味をなさないざわめきが聞こえる。人々の表情からは、声が聴こえる。
冒頭から一貫して主としてニューヨークがモデルの作品であることはよく感じられる一方で、多くのページ、多くのコマから、その地域性や特殊性を突き抜けた普遍を感覚する。中国本土から香港へ、アフガンからテヘランへ、アフリカ北岸から欧州へ。そのイメージの広がりに驚嘆しつつも読み終えると、あとがきで作者はマレーシア系オーストラリア移民の子だと知る。
岸本佐知子訳で他にも色々出ているのを知る。これは読みたい。
β. 松本大洋 『東京ヒゴロ』 3
漫画愛を突き抜け、漫画人生愛に突き動かされた作品とでも言うべきか。“漫画を描くこと”にとり憑かれた人生の多様さとその奥行きをここまでかというほど描き分け、派手な物語展開や過剰な感情表現に頼ることなく濃密に描き切る。その抑制と、抑えられたコマの中に凝縮された熱量の、音無しの烈しさ。圧倒的な1巻の世界導入から質実に展開する2巻を経た、すべての創作者すべての世界そのものを肯定するかのようなこの大団円には心底唸らされた。
松本大洋、どこまでゆくのか。涯てしないな。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
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γ. 梨木香歩 鹿児島睦 『蛇の棲む水たまり』 ブルーシープ
馬は群れを出て 森へ入り
その森を出て 次の森に入る手前で
蛇の棲む 水たまりを見つけた
陶芸作家・鹿児島睦の焼いた動物絵の入った皿の作品群をもとに、梨木香歩が物語を創り、物語を受けラストの皿を鹿児島睦が焼くという試みが、名作を生んだ稀有で見事な成功例。
そこに潜れば蛇は龍になり、猫はライオンになり象はトリケラトプスになる水たまり。
なりたいものになれる。でもね、水たまりの外から見たら、ただの蛇さ。それが好きなんだ。龍とか、蛇とか、どうでもよくなる。でも、龍でもあり、蛇でもある、そんな感じがね、好きなんだな。
図書館でおすすめ棚に並んでた絵本が不意に気になって、閉架図書を出してもらうあいだに読みだしたら入り込んで、不覚にもおじさん涙ぐんでしまったよ。絵本いいよね絵本。
『マグネティック・ビート』"Les Magnétiques" https://twitter.com/pherim/status/1561548087759618048
δ. 毛塚了一郎 『音街レコード A面 毛塚了一郎作品集』 KADOKAWA
北海洋上の船から放送される海賊ラジオを聴く旧共産圏の少女や、インド滞在時のビートルズと地元ロック少年との対決など地球大の名作『音盤紀行』(よみめも91)に対し本作は、昭和然としたレコード屋に限定した空気感がよい。といって描かれる舞台はCDアルバムもあるから明らかに平成なんだけど、いかにも中央線沿線の駅から徒歩7分くらいのレコード屋という感じが全編で醸され、中央線沿線を生きた人間ではないにもかかわらず懐かしさを覚えてしまう。
ていうかディスクユニオンなんですけど。作者がほんとうに音楽を愛し、レコード屋を愛し、レコードをだいじにしていることが伝わる良作。
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(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
ε. よしながふみ 『大奥』 8-14 白泉社
吉宗晩年から田沼意次の台頭、そして失脚へ。蘭学医術の平戸から江戸への流入とか、この作品でなければ物語描写でみることなんてなかったろうなと。男装の平賀源内、陽気なトリックスターキャラ良すぎて凄い。
11代家斉が突如男子将軍として登場する幕切れは意外すぎて、どうしたって辻褄合わせが強引になる代替わり時にこの話運びは豪快すぎて、先を読みたくなる仕掛けとして極上すぎる。この巧さはほんとなんなのでしょう。
11巻、男子将軍家斉の鬱屈。母(父)治済の専横&暗愚へずんずん傾斜しゆく描写が凄い。権勢という欲望にとり憑かれた人間の視野狭窄の怖さ。平賀源内の「熊牧場」着想からジンナー到来への展開よす。
12巻は浅草・蔵前の天文方の描写が良い。治済死後の家斉がひたすら熊痘に固執して強権を振る舞う動機は微妙に伝わって来ない。
13巻、ぽっちゃりネアカ系はだいだい良キャラなんだけど、老中阿部正弘イイネ!終盤の黒船来航から篤姫登場へ至るうねり具合もイイ。疾病克服による急速な男社会復活の中で「有能な女が目立ってはマズい」みたいな認識が自他の別問わず発現する流れの描写はさすがのよしがなふみ御大。
14巻、慶喜は男なんだ!しかもピュア系とかボンクラじゃなくイケ好かない狡知系なの、意外性がたまらない。ここにきてさらに続きが気になってくる。すごゆ。
人々に欲望を与えるのが、作家の仕事だ。
―Marc Raymond Wilkins "The Saint of the Impossible"
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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