・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・再読だいじ
※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。雑誌は特集記事通読のみで扱う場合あり(74より)。たまに部分読みや資料目的など非通読本の引用メモを番外で扱います。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。
Amazon ウィッシュリスト:https://amzn.to/317mELV
1. ジル・クレマン 『第三風景宣言』 笠間直穂子 共和国
I
風景を産業の対象と見なすことをやめてみると、ひとは即座に――地図製作者が忘れたのか、政治家の怠慢か? 定めがたく、なんの機能ももたない、名づけることの困難な空間が多数あるのが目に入る。こうした空間は影の領域にも光の領域にも入らない。それらは周縁に位置する。林のへり、道路沿いや川沿い、耕作地の忘れられた片隅、重機が入らないところ。畑の奥まった角のような場所に点在するかたちで、ささやかな規模の地表を占める場合もあれば、フェン〔低層湿地〕、ランド 〔低木しか生えない荒野]、最近ひとの手を離れたある種の荒れ地のように、均一で広大なものもある。
こうした風景の断片は、形態の上では互いにまったく似ていない。共通点はひとつだけ――すべてが多様性の避難地を構成しているのだ。他のあらゆる場所で、多様性は追い払われている。
このことが、これらの土地をひとつの呼称のもとにまとめる正当な理由となる。わたしは〈第三風景〉を提案する。これは明白かつ主要なデータを影と光という領分に 二分したときの、分析上の第三項をなす。
第三風景は、第三身分に依拠する(第三世界ではなく)。権力も、権力への服従も表わさない空間である。
第三風景はシエース〔一七四八‐一八三六年、フランスの政治家、「第三身分とはなにか」により、仏革命に向かう世論形成に貢献した〕が一七八九年に発表した政治的小冊子を参照する。
「第三身分とはなにか?」「すべてだ」「これまでになにをなしたか?」「なにも」「なにになろうとするのか?」「なにかに」 20-3
〈第三風景〉の定めがたい性質は、いかなる人間の決定もない状態において、土地を構成する諸生物に進化がゆだねられていることに存する。
〈地球という庭〉は、地球をひとつの庭として描く。環境が有限であるという感覚により、生物圏の限界は、生命あるものの囲い地として見えてくる。
多様性とは、動物、植物、単純構造の生物(バクテリア、ウイルスなど)のうち、明確に識別可能な生きた種の数を指す。人間については、その多様性は民族的・文化的な幅の広さによるものだから、種としては単一の種にふくまれる。 14-5
II-1 原生地群および保全地は、自然空間につながる。
II-2 放棄地はあらゆる空間につながる。都市、工業、観光は、農業、林業、酪農と同程度に放棄地を生み出す。
II-3 放棄地は土地管理のあり方に従属するが、放棄地が土地整備の原理から生じるのは、通常、打ち捨てられた空間となった場合である。
II-4 あらゆる整備は放棄地を生む。 026-7
II-11 第三風景の境界は、〈地球という庭〉の境界、生物圏の限界である。 30
III
第三風景はその性質上、よそに居場所をもたない数々の種のための土地を構成する。第三風景内に姿の見えない、残余にあたる種を代表するのは、栽培植物、家畜、そして栽培と飼育に頼って生きる生きものである。
多様性の空間は三つの明瞭な出所をもつ。 原生地群、放棄地、保全地である。
原生地群は、一度も開発されたことのない空間である。これらの空間は緩やかに進化するか、あるいはまったく進化しない。そこで発達する種は、当該環境の条件にとって最適な生活水準をもつ種である(極相)。世界には原生林〔=一次林〕がまだいくつか存在しており、他の原生的な空間として高山帯の平原、極相状態のランド、ツンドラなどがある。原生地群は多様性が総じて高いにもかかわらず、様相は均一である。
放棄地は、ある活動が打ち捨てられた結果として生じる。 放棄地は二次的な風景へと自然に展開していく。二次林が放棄地に由来することはありうる。強い推進力が二次的風景を特徴づける。若い放棄地はすぐにパイオニア種を受け入れ、それらはたちまち消えて安定性の高い種が次々に取って代わり、平衡状態の獲得にいたる。二次化した風景は不均質で混沌としている。
保全地は、決定により、人間活動から守られた空間である。もろく、あるいは珍しく、豊かな多様性が危機にさらされているものと判断されるさまざまな空間。あるいはさらに、聖性を帯びた(入ることを禁じられた)空間、神々の領域。たとえばインドの山々の頂上、マダガスカルの「ファディ」〔禁忌〕、「レヤック」〔悪霊〕たちのいる バリ島の谷……。 32-3
VIII-1 第三風景は尺度をもたない。
VIII-4 第三風景を評価するための道具は、衛星から顕微鏡にまでおよぶ。 072-3
2. 町屋良平 『恋の幽霊』 朝日新聞出版
「そう。土の身体のなかにある言葉が、なんかのきっかけで外に出ちゃう。そのきっかけとか、出ちゃいかただけで、なにも整えなくてもそれは土の文体なんだよ。無理になにか装おうとしたら、土の文体はこわれちゃうの。作文のテーマの遠足にいったよーとか、感情とか、伝えたいこととか、べつになんでもいいの。ひとの言葉でもいいのよ。だれかの言葉に影響されて出てきた言葉だって、土の文体だから。ひとの言葉を借りてもべつにいい。だから翻訳家にもちゃんと文体ってあるの。というより、ぜんぶの言葉って翻訳なんだよ」
「ヘー。かっこいいかもね。「文体」って。なんか必殺技みたいで」 39
でもそんなとこもすきで。
恋にならない京がすきだった。だったらおれがころそう。おれの恋を、もう、言葉と身体の関係のなかで、翻訳家だったおばあちゃんがいってた必殺技みたいな「文体」のなかでくっついちゃったような、恋をころす。たとえばなにげなくみる風景が、恋をしたせいでキラキラしちゃって、それをだれかにつたえたい言葉が火照っていく。ありきたりな、どこにでもある言葉がまるでおれのためのあつらえ、特注のオーダーメイドみたいに似合っていく。恋の身体にくっついて。そういういちいちの特殊状態を、ぜんぶころす。
するとついでにすこしずつ死んでいく"おれ"。
でも、だれかのために死んでいくのだってわるくなかったよ。
京とあすがこっちをみている。しきはまだ寝ている。恥ずかしいよ。恋の顔でみられてる。でもおれの恋、もう死んじゃったはずなんだよ。だから、みられるべき恋の顔がもうおれのなかにない。 81
「わかったよ、でもおれは京じゃないぞ」
いや、おまえはきょうだ。
きょうのしきでおれのあすだ。
おれの捻れた文法があらわす体のたいせつだ。発熱だ。温度で混ざってるおれの溶ける文体だ。
おれはおまえがすきだ。
「今夜も、電話していい?」
しきは、すれば、といった。 91-2
笑ってそういったけど、その言葉の「あす」を「きょう」に、あるいは「わたしたち」に、かえてもぜんぜんよかった。風がひくく吹いて植物を揺らし、川のにおいが肺や胃にみちて、とおくの山肌からもどってくる緑のひかり。すごく春だ。
春の朝だ。きれいだな、混ざった気分のなかでわたしたちは、どちらがどちらにそうしたかわからないキスをして、だけどここにはわたしたち、つまりわたしとあすだけじゃなくてしきも土もいるような気がした。すわるやわらかい雑草がしきんちのベッドに繋がってる、十五時間の時を越えて? そんな想像。うれしくて、あすが「たのしいね。ホントに」といって恥ずかしそうだけど本心からそういっているのがわかる笑顔になった。
「たのしい。みんなといれてしあわせ」 114
土はいつも恥ずかしそうに破顔した。ほんとにおもしろくてたのしくて笑う直前と直後には、すこし恥じるように一拍よどむのだ。 228
だからもう、記憶と現実が分裂したようなかたちで、おもいださなくていい、語られなくて いい、"おれ"はそうおもったんだ。そうして言葉が、土の当時よくいっていた〝文体"みたいになって、すこしずつ年をとり、いっしょに生きていけばいいじゃんって、そうおもうよ。そんなふうに内声がみちていく。事故に遭って意識をうしない手術をうけていたあの数時間のブラックボックスを、いまはもういない土が代わりに語ってくれた、ふしぎな実感がある。というより、実感だけがあってなにひとつ証拠はない。
どこか離する感覚で客観的に自分のことを語り語られするような言葉はもう止めたいって、"おれ"がそうおもったんだ。
そしてそれはいまはもういない土の語りと一体化して、ようやく語れる"おれ"なんだって。"わたし"なんだって。はっきりおもう。
「うん。へんだね。けど、わかるよ。もうだれかの、"わたし"じゃない外の声で自分の記憶を語られることなんてない、そんな勇敢なきもち」
わたしは笑いながら、しかししきの言葉にふくまれるふしぎな説得力に落ちついていた。
はやく青澄にあいたい。青澄をだきしめてあげたいとおもう。
「だいじょうぶ?」
といって愛しあうことなんてない。ほんとうのところで信頼しあうことなんてできない。
「けど」
とおもう。とりあえずいまは、青澄の体温がほしい。それ以上に、わたしの体温を青澄にあげたい。
すべての恋はそのように交換する"わたし"が語る一人称なのだと。
その複数がかえってくる祝福される身体なのだと。
"わたし"はそうおもったのだ。
21
埼玉県越谷市という土地は地方から見ると都会だが、都心から見ると郊外である。しかし現実には地方でも都会でもない、空っぽの土地だ。その空虚さこそが埼玉という土地の特徴なのだ。都心ほど個でいられるわけではないが、地方ほど近隣の互助に支えられるわけでもない。徒歩では生活に物足りないが、車が必需品というほどでもない。埼玉とはちょうど自転車の土地である。また同県内どうしにおいても他の市町村に愛着がなく、たとえば越谷の住人は川越や大宮に親近感をおぼえることも敵対意識をおぼえることもない。
埼玉に育った者は土地に興味がない。土地と文化が結びつくことへの実感や執着がまったく 305-6
「おれも中目黒がいい」
「わたしはなんか、窮屈。 越谷がいちばんよ」
「そっか。わたしは出たいなー。越谷」
そして青澄が「いつか越谷を出る!」といってわらってる。ようやく、そんなふうにわらえる。青澄のこの顔がみたかった。いつだって。今年のはじめにLINEした、あのときよぎったのは青澄のこの笑顔だったと、いまでははっきりおもいだせる。だけど、あの瞬間にはそんなこと、想像もしなかったのに。まるで捏造みたいだけど、おもいだすからこそおもえることがある。
この瞬間のために生まれてきたわたし。
智尾のつないだ手のはなつ熱と、 沙里の寝る直前にはなつ熱がわたしのなかにずっとある。混ざってる。だけど、ずっとそうだった、ずっと雑駁な家族の“わたし”、そうあるべき国や社会の押しつける、抑圧的な"わたし"が混ざりあったわたしなんだなってそうおもう。
「しきと京とバイバイするのさみしいなー。ひとりになるよりずっと、家族といっしょにいることがわたしは、さみしいよ」 315
だからわたしはわたしを引いていく。きっと明日から、それはつらいことだけど、ようやくわたしは、ほんとうにわたしでおもうことをおもう。そうしたらもっと、土の声に耳を澄ますことができるんじゃないかって、いまだけはピュアに、そうおもうよ。
「じゃあ、うち泊まってく?」
おれはいった。数時間前にのんだ抗不安剤の効果が切れかけているのをかんじる。しかし、きょうはもう飲み足さない。具合がわるいままで、世界にたいし「具合がわるい」と開示する、 そのことに慣れないともう生きていけない。
だから力を貸してくれ。土。
あいたいよ。あえないなら、あいたいってずっとおもっていいんだな?
見守っていてほしい、おれの具合のわるさを。けしておまえには元気なふりなんてしてやらないぞって、土に語りかけつづけるおれ。
()
おれたちわたしたちが世界から隠れられる、ひとりで住んでいても、そんなふうに家を元気にしてやりたいと、いまはつよくおもう。そうすればしぜんとおれも、すこしは元気になれる気がした。 316-7
3. 蓮實重彦 『ショットとは何か』 講談社
「理論としての整合性があるかないかということはさして重要ではない」といっておられます。それは、具体的にはどういう意味でしょうか?
蓮實 ごくおおざっぱにいってしまいますと、いわゆる「映画理論」なるものが、いまだに映画に追いついていないからです。さらに詳細な分析をきわめれば、あるとき理論が映画に追いつくときがくるかといえば、必ずしもそうとはいえないところに映画独特の問題があるのです。それがどういうことを意味しているかを、これから説明しようと思っているのですが、それにはいくつかの理由が存在しています。
まず、映画の全貌を目にしたものなど、これまで世界には一人としていないという厳粛な事実が挙げられますが、おそらくそれが最大の理由となるでしょう。いかなる専門家であろうと誰ひとりとしてその全貌を捉えきれずにいるばかりか、その遥かな後ろ姿さえ見失いがちな映画というものは、たえず人間から遠ざかって行く。映画など、その気になりさえすればいつでも見られるはずだという人もいようかとは思いますが、総体としての映画は、優れたものであれ、凡庸なものであれ、きまって人間の視線を逃れるものであり、ときにはそれを無効にするものでさえあるのです。誰だって、自分が見ている映画より、見ていない映画の方が遥かに多いはずだと自覚しているはずです。だから、「映画理論」などたやすく成立すべくもありません。しかし、そんなことをいえば、たとえば散文のフィクションとしての「小説」だって、個人にとっては、読んだことのある作品より読んだことのない作品の方がはるかに多いのですから、「小説」に「理論」など成立しないと思う方がおられるかもしれません。しかし、「小説」と「映画」との本質的な違いについては、のちに詳しく触れることになるでしょう。いずれにせよ、映画においては、自分が何を見ていないかを意識することが、決定的な意味を持っているのです。 158-9
蓮實と聞くだけで構えてしまう映画クラスタは多いだろうけど、本著は語りおろしのうえ上記引用のような構えでかつ固有名の連打が物凄いため、良作ガイドとしても秀逸。自身鑑賞済みの作品に限って言えば、事例として挙がる映画は、悪い例という言及がないかぎりほぼほぼ傑作揃いに思える。
ゴダールはその踊りぶりを、まったくショットを割ることなく、ほとんど動かないキャメラでじっと凝視している。しかも、その途中に音楽を切って、原作小説からの抜粋や、ほかの小説からの引用を彼自身のコメントとして語っているのです。
三人は並んでステップを踏み、背をのばしてくるりと回ったり、左右の腕と足を不意にのばしたり、手を打ったりしながら、いつまでたってもその踊りをやめようとはしない。その彼らの持続的な動きのくりかえしが、画面から「はなればなれ」であることの仲間意識ともいうべきものを、過度の抒情性に行きつくことのない乾いた調子で画面に行きわたらせているのです。もうそろそろ音楽は終わりかと思われる頃、サミ・フレがまず踊るのを止めます。続いて、クロード・ブラッスールがその場を離れ、残されたアンナ・カリーナだけがその曲を踊りきることになるのですが、その姿と手足の動き、そしてからだのくねらせかたやジャンプして方向を変える一瞬の爽やかさを、じっと見つめたまま動こうとはしないキャメラの前で、彼らは演じて見せるのです。 260
そうした言葉を交わしながら、水辺に寄って振り返り、いま来た道の方にやや戻ってからまたふり返るその表情には、夕暮れの淡い明るさを正面から受けとめたり、それを背後にすることで、繊細きわまりない陰翳が推移することになります。わずかに位置を変えるだけで、二人の顔や胸もとには、湖畔の立木の影が落ちかかっては流れて行くのです。
わたくしたちがこの場面に強く惹きつけられるのは、若い男女の芸人たちの心を震わせている互いへの思いが、ここで抒情的な高まりを見せているという物語の水準においてではありません。確かに、ここで成立したかに見える共感にもかかわらず、彼らは結ばれることなく終わる仲なのですが、そうした恋愛感情の微妙な推移にもまして、暮れなずむ戸外に二人を孤立させる成瀬巳喜男の息を呑まずにはいられぬほど繊細な光線処理と、それに費やされるショットの連鎖のリズムに、誰もが驚嘆するしかないからなのです。しかも、二人を包みこむ淡い光の横溢というこの映画作家による映画そのものの定義が、呆気ないほどの単純さでいつの間にか実現されていることへの深い動揺を、誰もが覚えずにはいられないのです。ですから、ここでは、みごとなショットの連鎖に対する見る者の動揺が問われていることになるのです。
とはいえ、ここでのショットは、どれひとつとして例外的なものではありません。ただ、その瞬間に必要とされるごく普通のショットだけが、この上なく有効に連鎖している。ですから、ショットとは、このわたくしのエッセイの題名にふさわしく、その「寡黙な雄弁さ」によって、あるいは「雄弁なる寡黙さ」によって、見る者を動揺させるものだというべきときがきているのかもしれません。 268-9
この場面は成瀬巳喜男『鶴八鶴次郎』(1938年)の中盤に登場する。良かった。Youtubeで当該場面を録画しカットの上Discordに挙げる所業へ及んでしまった。ね、良ガイドなの。
[当該部動画→https://x.com/pherim/status/1842370227147034915/video/3]
4. 小川哲 『地図と拳』 集英社
「自分の命よりも、使命を優先することができたのはどうして?」
丞琳はそう質問した。教会にもキリスト教にも興味はなかったが、神父の強い意志には興味があった。彼が祖国を離れ、たった一人で生きていけるのはなぜだろう。彼はどういう心意気で生きているのだろう。
「祖国ロシアには、『キノコと名乗ったからには籠に入れ』という言葉があります。一度手をつけたら、最後までやり遂げなさい、という意味です。漢語にも同様の意味で『一不做、二不休』という言葉があります。私は自分からキノコと名乗った以上、籠に入らなければならないのです。 そういう思いで長い旅を続けてきました」
キノコと名乗ったからには籠に入れ―自分も同じだった。父である孫悟空を倒すと決めた以上、かならずやり遂げなければならない。そう考えて生きてきた。 295
石本の心に龍が棲みついたのは四年前のことだ。龍は巨大かつ凶暴で、ときおり眠りから覚め、周囲を破壊し尽くしてまた眠りについた。心の一部は、常に龍の影によって凍りついている。石本は龍に近づくことも、直視することもできない。余計な物音を立てて起こしてしまわぬよう、こっそりと周囲を歩きまわりながら生きている。
龍が現れるまでの十八年間は、秀才として過ごした。「千年に一人の秀才」という呼び名は、もともと自分のものだった。 343
明男は変わり者で有名だった。二、三秒目を瞑れば湿度や気温、風向きがわかり、数時間後の天気まで当ててしまう。新しい建築の中に入ると突如大声を出し、反響音だけで壁材や構造を理 解する。大邸宅模写の課題では、模写だけでなく、邸宅の機能的欠陥と改善案を数点指摘したようだったが、実はその設計図を書いたのが教授自身で、明男の指摘に腹を立てて「不可」の評価を与えたという。
今になって思えば、明男の存在が石本の中にあった龍の卵を孵化させたのだろう。打ちのめされた心の隙間から溶岩が流れ、その熱によって龍が誕生した。石本は自分の傷を認めたくなかった。自分が誰よりも優れているという自覚を失わないために、人生から手を抜いた。建築から目を背け、明男から目を背け、龍から目を背けた。ダンスホールに通い、遊び人として振る舞うことで精神を安定させた。断固たる意志で、明男に劣っていることを認めまいとした。
そんなときに出会ったのが中川だった。石本は明男を認めたくなかったあまり、中川を信奉するようになった。「千年に一人の秀才」という呼び名を譲り、「彼と並び立つ者はいない」と思いこんだ。中川は優秀だったが、実家の借金のせいで帝国建築の中心人物にはなれそうもなかった。 彼を認めることと、自分の自尊心を保つことは共存できた。
支那の古典、「人虎伝」によれば、自尊心の高さゆえに李徴は虎になったというが、石本の高すぎる自尊心は虎というよりも龍のようだった。ひと鳴きで雷雲を呼び、龍巻となって天空に飛翔する。喉元の逆鱗に触れると、逆上して暴れまわる。
龍から目を逸らすために始めた共産党の末端組織である「細胞」の活動は、石本の心にある種の平穏をもたらした。明男とは違う「正しい」やり方で革命を起こすことが、自分の責務だと考えるようになった。明男と自分を比較することをやめてから、ようやく龍は深い眠りについた。「細胞」のために命を燃やしている瞬間だけは、何も恐れることなく心中を見渡すことができた。
「細胞」の最初の仕事はビラ配りだった。真夜中に上野の貸し倉庫に集まった。344-5
見ているか、K。
石本は煙草によって茶色くなった壁紙を見つめた。仲間を売って逃げだしたKのことを考え、明男や中川のことを考えた。
俺は龍になった。俺はもう、自尊心にとらわれて誰かと自分を比較したりはしない。誰かに認めてもらおうと、自分の哲学に反することはしない。
水だ。水が、俺を変えた。
人間は生存のために水を必要とする。すなわち、「渇き」に耐えることはできない。
「渇き」が長時間継続すると、肉体はこの緊急事態に対処すべく全力を尽くす。全身が痺れ、意識が薄れる。水を求めるために、他の思考は完全に締め出されてしまう。こうして肉体の渇きは、精神へと伝播する。渇いた精神は、肉体の欲求を承認させるべく、人間を獣に変えるのだ。
だが、俺は龍になった。もはや俺を「渇き」によって支配することは誰にもできない。水だけではない。愛の渇き、金の渇き、名誉の渇き、それらはすべて、龍の炎によって焼き尽くされた。俺は欲求を支配した。精神と肉体の限界を超克した。
見ているか、K。
俺は誰も売らないし、何より俺自身を売らない。
「釈放だ」という声とともに宿直室の扉が開き、特高警察の男が入ってきたのは、水が渡されなくなってから四日後のことだった。 371-2
遠くの河原で支那人の子どもたちが水遊びをしているのを見ながら、石本は獣のように叫んだ。それは一種の龍の咆哮だった。心に靄をかけていた感情の一部が地平線に溶けていくような感覚を得た。俺は龍だ、と心の中で叫んだ。もう、挫けそうになることなど、あってはならない。
水遊びをしていた子どもたちが驚いた様子でこちらを見た。石本は踵を返し、何事もなかったかのように帰路に就いた。 386
以上、龍シリーズ。
中川は明るくなってようやく見つけた陰茎を握り、火のついた家屋に向かって立小便をした。
よい人間とは何か。人間に特有の「技術」とはどんなもので、その「卓越性」とはどんなものだろうか――アリストテレスは「思慮」であると考えた。「思慮」とはつまり、注意深く、ものごとを様々な側面から考えることである。他人の立場を慮ることである。
しかし自分はもはや人間ではなく、修羅なのだ。反省は新たな自己欺瞞を生むだけで、もはや自分には無用のものだ。どんな人間的な決意も、修羅である自分には意味をなさない。すべての悪を引き受ける。自分が、国家が、生き残ることだけに専念する。青年だった自分の理想が、夢が、仲間と交わした熱い議論が、Kの名が、支那の夜空に煙となって溶けていく。
いつの間にか、耳元で鳴り続けていた銃声が消えていた。すぐに睡魔が襲ってきた。暖かい炎と柔らかい光に包まれながら中川は眠りについた。珍しく夢を見た。よく覚えていないが、悲しい夢だった。 414-5
5. アレックス・ガーランド 『昏睡 コーマ』 村井智之訳 アーティストハウス
舗道には油や雨の跡が点在し、チューインガムもいたるところに落ちていた。吐き捨てられたチューインガムは歩行者に踏みつけられ、夜空に散らばる星のように路面に貼りついている。舗道の表面に手を伸ばせば、指先に砂塵の存在を感じることもできた。僕は体を起こし、てのひらについた砂の粒を見つめた。それらは汚れた雪のかけらのように、それぞれに違う形をしていた。
細部は劇的に全体と調和していた。僕のシャツは無数の糸から構成され、その糸はさらに小さい糸から構成されていた。それは頭上の雲にしても同様で、ひとつの形がべつの形へと移り変わるなか、雲のかたまりはゆっくりとした動きで空を渡っていた。アスファルトの上に落ちる雲の影が、ガラス窓に反射する光をやわらかなものにしている。開け放たれた窓からは、朧気ながらもなかの様子が見え、壁紙の模様も見てとることができた。
劇的に全体と調和する細部。徹底した細部。それがいま僕の目の前にある世界だった。僕の記憶は容易に、たいした苦もなく、そんな世界を創りだしていた。頭のなかを整理してあれこれ考える必要なんてまったくない。時間をかけてイメージを組み立てるまでもなく、四方に視線を向けるだけで鮮明な細部がそこに像を結んだ。
なのにどうしてどうしてなじみの曲が思い出せないのだろう。いくら記憶の糸をたどっても、歌詞の一部は霧に包まれたまま、完全によみがえってくることはなかった。
僕はこの無駄にして見事な細部に囲まれながらふと思った。昏睡状態から目を覚ますのは、想像していた以上に難しいことなのかもしれない。おそらく僕は、最初の段階でこれは夢なのだと理解することによって、現状を抜けだすのはたやすいことだと達観してしまったのだろう。本来なら、その過程にはもっと劇的な変化が必要となるはずなのに。人生を生きてきたと言っても、結局、僕はこれまで夢から覚めることを繰りかえしてきたにすぎない。実際、目覚めは夢のなかでも最も確実な手応えを感じられる部分でもあった。そう、最初から死が生に組み込まれているように、目覚めもまた夢のなかに組み込まれているのだ。 107-8
1996年『ビーチ』の衝撃デビュー以来、もうずっと小説も書いて映画脚本から監督へ足場を拡げてきたのかと思ってたけど、2004年の第三作『昏睡 コーマ』を最後に小説家からは足を洗っていたんだね。まぁでも、小説より映画なのはわかる。画的だし、とくにデジタル時代へ入って映画やらないわけがない感じ。
拙稿「この現実を見据える確度 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』」
https://www.kirishin.com/2024/10/03/68464/
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』“Civil War”A24製作
https://x.com/pherim/status/1835514168092643806
あと、実父が挿絵画家で、本作にも筋とマッチした版画調の挿絵が掲載されてるの、面白い。
玄関の扉はきしみ、 タイル張りの床も思ったとおりの音を立てた。廊下を満たすひんやりとして落ち着いた空気にも、どこかなじみのあるものが感じられる。背後で閉まる扉の音にしても、やはり同じような懐かしさがあった。
また、そこには微妙ではあるがべつの感覚も伴っていた。あたかも体が軽くなったかのように、床からほんの少し浮いているような感じがする。それはしばらく背負っていた重い荷物を下ろしたときの、両肩が天井へと浮きあがるような感覚に似ていた。
実際、体の内部で変化が起きているような実感もあった。それは自分という存在、それを構成する組織が、この廊下のなかでしかるべき空間を占めていないような妙な実感だった。僕は片手を上げ、じっくりとそれを観察した。ひょっとしたら肉や骨が曇りガラスのようになって、指先の向こうが見透かせるかもしれない一瞬そんな心配が頭をよぎったが、それはいつもと変わらぬ僕の手だった。しかし、自分の目で確認したあとでもどういうわけかその感覚は留まりつづけていた。いずれにしろ、いま自分は透明になっているのだと感じているのは事実だった。
そのような感覚を認識するのにかかった時間はおそらく数秒というところだろう。しかし夢の世界は秒単位、あるいは分単位で刻まれているわけではないので、ほんとうのところはわからない。僕がそれに気づいたのはしばらく時が経ったあとのことかもしれないし、それを言うなら、経過したのは時間ですらないかもしれない。それでもこの行為、生まれ育った家に戻るという行為は、実際に功を奏しているようだった。この家でなら、僕は目を覚ますことができる。
いや、すでに目を覚ましつつあるのかもしれない。 124-5
その家が夢の家であることもまたひと目でわかった。こんなふうにひどく荒廃した状態にあるのは、なにも実際にそうであったからではなく、過去のことを朧気にしか覚えていない乏しい記憶が原因に違いない。 つまり、これは象徴なのだ。ならば僕には家のなかを歩き回り、象徴としてそこにある蜘蛛の巣を払うこともできるはずだった。 121
ひょっとしてこれが自分というものなのだろうか。
()
たとえば事故で片腕を失っても、僕は僕であり続けるだろう。それは断じておまえではない、と否定する者は誰もいないだろうし、この男は以前カールだったけど片腕を失ってジョンになったとか、そんな突飛なことを言い出す者もいないだろう。
べつの事故でもう一方の腕を失ったとしても、同じことが言えるに違いない。それは両脚についても、視覚や聴覚についても同様で、たとえ口がきけなくなっても、皮膚の感覚がなくなっても、やはり僕が僕であることに変わりはない。そのようにしてひとつひとつ表面の皮を剥ぎ取っていけば、やがてたんなる意識となった自分だけが、虚無のなかに宙づりになった意識 だけがそこに残る。
しかしその意識を取り除けば、突然、僕という存在はかき消えてしまう。カールという人間は、もうそこにはいない。たとえ完全な状態で体を残したとしても、意識を取り除いてしまえ ば、僕という存在は跡形もなく消えてしまう。
つまり、夢を見ていようと目を覚ましていようと、これが僕なのだ。
夢を見ていようと、目を覚ましていようと、これが僕……これが? 153
6. 阿部和重 『シンセミア 下』 講談社文庫 [再読]
終盤のきっちりまとまっていく感が意外。20年前の初読時にはもっとカオティックなまま終焉に至った印象があって、それがそのまま阿部和重大長編群の基底イメージになった感あり、修正が迫られる。『ピストルズ』が積読と化しちゃったのもそれゆえかもだし。
にしてもこの田舎の小市民心情の細密描写はほんと凄いし、川上未映子がどう読んだのかとか聞いてみたい。ふつうに爆笑してそうだけど。あと登場人物としての「阿部和重」もひたすら面白い。このこそばゆい感じは何だろう。
7. 桜庭一樹 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』 富士見書房 角川文庫
桜庭初期作、富士見書房の2004年刊行版ではタイトル後半に「A Lollypop or A Bullet」と付記あり、角川文庫版の辻原登解説も情熱的で良い。依頼とか連載とかでなく不意に思いついて短期間で書き上げ、編集者に渡したら刊行され、低空飛行の数年を経て次第に伸び始めるという不思議な売れ方についてはあとがきに詳しい。
語り手である13歳の「あたし」と、今なら瞬時にADHDとレッテル貼りされる海野藻屑とを軸に回る物語で、「砂糖菓子の弾丸を撃つテロリスト」海野藻屑が死体となって「あたし」ことA子に発見される報道が1ページ目に置かれ、つまり読者とは全編で海の藻屑と消える運命そのものを共有する進行がまあ巧い。巧いし、だから展開への期待に依りかからない文章力の必要を2ページ目から引き受ける胆力も感じさせ、もう巧い。
8. 幽玄一人旅団 清水大輔 『異世界に一番近い場所』 PIE International
「ファンタジー系ゲーム・アニメ・ラノベのような現実の景色」の副題通りの写真集。良い。
アンコール・トムやプレアヴィヒア、九份など行ったことのある場所の写真も含まれ、撮影技術+執念の高さに感心する。インドの階段井戸とエジプトの石窟神殿がヤバい感じ。どちらも人疲れさえしなきゃほんと時間かけて周りたいところなんだけど。まぁそういう機会があったらいいなぁ、とはおもう。仕事なら仕方ないか、って色々あきらめつつノリノリになれるしね。など空想捗る効用も良写真集のうち。
9. アンデシュ・ハンセン 『スマホ脳』 久山葉子訳 新潮新書
学生時からのバイト友が、何年か前にやたら奨めてきたので今さら読む。内容は、脳の報酬系がスマホ依存となることで精神的身体的な悪影響を及ぼすという、誰もが知ってる効果をロジカルに基底づけるもので、なるほど説得力はある。まぁスマホが視界にあるだけでヒトのパフォーマンスが落ちる、みたいな実験はそれなりにヒリヒリ来るし、そういうことは友人の禅僧もずっと前から言ってたなと思いだしたし、「そう言うヒト」が社会に求められてるところはある。
そのうえ2020年末刊行で、コロナ禍真っ盛りの2021年の売上No.1というのは、需要と供給の接点にきっと極めてうまく立った事例でもあるんだろう。というあたりや、この手の平積み新書に自ら食指を伸ばすことがないのも込みで、興味深い読書体験。
奨めてくれた東工大出の金融マンには感謝だけど、彼がこの本のどこにとりわけ惹かれてあんなに奨めてきたのかは、そのうち一度聞いてみたい。
10. ナフセ 『リビルドワールドI〈上〉 誘う亡霊』 KADOKAWA
異世界転生モノでもネトゲ舞台でもない、未来テクノロジーが失われた古代と化したガチ未来SF設定を主人公は生きるのだけれど、その総体がもう絶対的にネトゲ系異世界転生モノっていう、不思議軽快ライトノベル。いやこの表現は、この軽快さがライトノベルの味だとすれば頭痛が痛いみたいな誤用になるのかも。
ともあれ、エンジェルと化す超高性能AIと、冒険したい主人公との出逢いから戦闘や町でのクエスト受領の流れは完璧にPOV型のMMOチュートリアルで、一筆書き文章で綴られる感触は自分でプレイするチュートリアルよりも熟練配信者のプレイ動画を観る感じに近い。この限りでは「だったらプレイ動画を観れば良いのでは」とも思え、こうした作品群に「読む時間」を充てるのはコストが高すぎてNot for me感が拭えないけれど、受容スタイルの多様性みたいなことは想う。そも友人に奨められた一作だしね。
既知ゲームカテゴリーがひとつ増えた実感に近い、というのがかなり精確かもしれない。
▽コミック・絵本
α. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 14 小学館
新九郎の結婚と、太田道灌の死。激動の巻だし、道灌は死ぬけど息子に“ペコちゃん瞳”が受け継がれてるの和む。たぶんこの息子がのちに新九郎→早雲とどういう形でか交わる予感。にしても畠山義就vs政長対決とか義政+奉行衆vs義尚+奉公衆の争いとか、同時並行的に幾つもレイヤーで抗争が進行する様は興味深いし、なんだか長閑にも映る。これが戦国の世だと、すべて強力一元化されゆく印象。とすれば一元化を阻む要素は何か、など気にもなる。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ https://amzn.to/317mELV ]
β. 九井諒子 『デイドリーム・アワー』 KADOKAWA
九井諒子ラクガキ本という副題が示すように、「手癖で描いた」「描いたの覚えてない」「食べたくて描いた」みたいな絵が並んでいて、どれもラクガキどころかイラストとして完成されてるのはもう才能しか感じない。
過半がダンジョン飯をめぐるものだけれど、メインストーリーに収まりきらない主要キャラたちの想像的派生画が九井諒子の脳内ではつねに無限に踊っていたのが把握される。ダンジョン飯は名作だけれど、これは天才的漫画家の多くに言えることとして、ひとつの作品にあまりに長く関わりすぎるため、「もしその作品を描いていなければ、他にどんな作品世界が展開されていただろう」みたいなことをずっと想っていたひとりでもあったから、この奔放な想像力がこれからどういう方向へ放たれるのかとても楽しみ。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
[→ https://amzn.to/317mELV ]
(▼以下はネカフェ/レンタル一気読みから)
γ. 藤本タツキ 『チェンソーマン』 5-10 集英社
爆弾娘レゼとの半エロ半殺し合い重畳。
8巻、デンジの磔刑から闇の悪魔降臨までの描写で、本作の格付けそのものが飛躍した感。
10巻にいたっては、あ、そういう漫画家だったのかと。統失的突貫力において冨樫に匹敵するのでは。
δ. 原泰久 『キングダム』 52-58 集英社
山海の民の造形が面白い。が、あとはマンネリ化が甚だしく、ここからどう挽回するのか、できるのか。楽しみ。
54巻。巻末の20000字インタビュー良い。理系から文転するも志望の映画専攻へ入れず、みたいな渋い青春期あっての開花、という流れ。
陣形や戦術描写などで魅せていた当初の展開から、だんだん人間ドラマの衝突劇になってきた巻。すでに亡き藺相如の回想は良い。
趙は首都が動かないし、三大天とかいう割にひとりは暴れるだけでもうひとりは名前すら思い出せないし、李牧さん大変すぎる。
ε. 野田サトル 『ゴールデンカムイ』 9 集英社
脱獄囚が籠もる偽アイヌ村、イイネ。(・∀・)b 幽閉した子熊が限界みっちりまで成長し時限爆弾化する木檻込みで。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
Amazon ウィッシュリスト: https://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/3J30O9O6RNE...
#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T