エマヌエーレ・コッチャ 『家の哲学』 松葉類 宇佐美達朗 訳 勁草書房
Emanuele Coccia “Philosophie de la maison. L'espace domestique et le bonheur” Paris, Bibliothèque Rivages, 2022
エマヌエーレ・コッチャ『家の哲学』の特異な発想を理解するには、前著『メタモルフォーゼ』(よみめも95→
https://tokinoma.pne.jp/diary/5432 )の通読がかなり利く。
というあたりを配慮しつつ、いつもよりかなり長めの読書メモをつけていく。所属する同人SNSでのやりとりから、本書は《家》テーマの執筆企画をめぐる基礎読本3書に選定された。本稿では当該企画参加者への情報提供も意図されている。
愛と近代
わたしたちはいつも家について、私的な空間であり、わたしたちを隔て、個別化する空間であると述べるが、すべての家はじつのところ、わたしたちが自分の人生と運命を他人の人生に重ねるための、物質的で精神的な技術である。おそらくそれが家の第一の機能であるからこそ、家の本性は建築にかんするものではなく、道徳にかんするものである。もう一度言うと、わたしたちの家の不十分さは、たんに建築や美学にかんするものではなく、つねになによりもまず、倫理にかんするものである。わたしたちが家に対して失望するのは、最初に出会った頃には、暗黙のうちに共有された幸福を約束してくれるのに、しばらくすると、その約束が守られなくなるからだ。反対に、わたしたちが家を想像する能力を失ったのは、二つの生が一つの同じ生を生きるための知と技術を磨くのをやめてしまったからだ。それは、わたしたちが何世紀にもわたって、愛と呼んできたものだ。家はつねに愛を、そのすべての現れ方において生きることを可能にする、空間的な公式なのだ。家とは人生を共有する物質的な計画であり、その骨組み、客観的な雰囲気、天候にほかならないわたしたちを他人と切り離せないものにする時間や気分、食事、眠気、夢である。家を考え、建てるときに、愛を考え、建てずにすませることは不可能だ。
その逆もまた真であるそれがわたしたちの家であれ、他人の家、各人の住処から離れたホテル、あるいは別荘であれ、愛というものは一つ屋根の下で育まれ、生きられ、守られ、祝福される。そこに家の際立った神秘があり、だからこそあらゆる街は複合的な慣習、重々しい法的な仕組みを介して愛を何としても奪い去ろうとする。しかし、家を作らなければ、わたしたちの代わりに「わたし」と言う渦巻きのなかに世界の一部を含みこまなければ、愛することはできない。
この完璧な方程式は、まったく自然的でもなければ普遍的でもない。おそらくここに、西洋がかつて近代と呼んだものの最も深く、根本的で、特異的な特徴がある。()わたしたちが近代的であるとすれば、それはわたしたちの自由と道徳的完成とが、愛と労働の自由のなかで測られると考えているからだ。 28-30
住み慣れた家の内部では、皮膚感覚までもが弛緩し、使い慣れた物と身体との距離もバグっておよそ物理法則から逸脱した存在感と機能をもたらすということは誰しも多かれ少なかれ実感しているだろうそのギャップを「倫理」にまで高める語り口が面白い。
前著『メタモルフォーゼ』でコッチャは家を「わたしたちが忘却していた、世界のメタモルフォーゼの傷跡にほかならない」としており、このあたりかなり更新された感ある。ちなみに「二つの生が一つの同じ生を生きるための知と技術を磨くのをやめてしまった」の「二つの生」はダブルミーニングになっていて、ここでの文脈以外の意味は「双子性」で、それがコッチャ思想のかなり核を成すことも含め後述される。これが凄いんだ。
付喪神あるいはメタモルフォーゼ
わたしたちは物の力が通過するタングステンの導線であり、わたしたちは物によって電気を点けたり消したりする。この力はどこから来るのか。わたしは、もっとだいぶ後になってこのことを理解した。娘がそのことを教えてくれた。じつは、この力はわたしたちのなかから来ているのだ。住まいの戸口をまたぐたびに物が活気づくとすれば、それは物がわたしたちの一部を獲得しているからだ。衣服や、電話しているときに番号を書き留めたり落書きしたりするメモ、絵画、わたしの娘のおもちゃは、あたかも人間とは別のかたちを与えられた主体、我であるかのように存在している。そしてそれらは、わたしたちを定住させ、わたしたちと対話する。日々、月々、年々と続いた習慣や日常的なルーティン、あるいは、物の身体とわたしたちの身体の摩擦は痕跡を残し、物に磁力を与え、物を自分の人格の一部へと変様させる。家ではすべてが主体となる。そう考えると、うまく定義ができる。いわゆる家とは、すべてが主体となる場所なのだ。ここには、隷従とは真逆のものがある。家とは物が物であることをやめる場なのだ。それは普遍的に生命を与える汎心的な機械であり、すべての物のなかに〈わたし〉が存在することを告げる機構であり、意図されないアニミズムの空間である。そしてわたしたちは、つねにそれを理解しているわけではない。 56-7
まず世界がある。天と大地から成る世界へ、垂直に柱を立て、壁を建て、天井を加える。天が二重になることで、わたしが生じる。世界も主体も一面でことばに過ぎないが、世界に存在があり、主体がない状態とは言い換えるなら、主と客、主と従、主語と述語が重なっている状態を言う。家すなわち住はこのとき従の契機を日々生まれ変わらせる、述語を生み出す器となる。
ゆえに器の内部では、他と伐り立ったわたしが成り立たず、物とわたしは一体でありつづける。どちらかがどちらかへ隷従するのではない、とはそうした在りかたを言う。ことばの構造上《わたし》は非《わたし》を必要とするように、このわたしという主体意識の成立はわたしが世界となる場を要請する。家が眠りの場となる意味もそこにあり、家の外では衣服が魂の壁となり天井となる。
服と魂
意識とは衣服のなかに存在するものであり、色、形、サイズの謝肉祭なのだ。道徳は人間固有の能力ではなく、人間が物を介してのみ獲得できる力なのだ。自己について語ることはもはや、行為、態度、性格、意志について語ることではなく、とりわけまず、わたしたちが着る物の形、性質について語ることであり、より正確には、衣服がわたしたちや他人の性格に対して及ぼしうる力能について語ることなのだ。
衣服とは、自分と物とを、身振りと道徳について同等にすることである。服はわたしたちの 自己を、わたしたちが使用し、生産し、想像し、購入し、消費する物のなかにあるものとして表象する。ここで、自己とはもはや、わたしたち自身と、わたしたちが生産し使用する物とを区別するものではなく、主体と世界、意識と物質的世界とのあいだのあいまいな焦点である。ウールのネクタイは、わたしの顔や手よりも自分の性格を表わしているように思えるし、わたしがはく靴は、わたしの肺や髪よりも本来的な仕方で、自分の自由への欲望を抱いているように思える。ファッションは、わたしたちが自分自身の身体に住まうかのように世界に住まうことができると発見することで可能となる。わたしたちはこの世界の一部とともに、解剖学とい うよりも、ある種の共同生活を築いている。それは、宇宙の精神的かつ身体的な地図を、すっかり描き直すように強いる。魂は人工物であり、わたしたちが用い、たえず入り込んでは捨て去る、可動的で無機的な身体である。わたしたちの魂は〔泥人間〕ゴーレムであり、神経の通わない身体、諸感覚器官をもたず、口を欠いて、大きくなることも話すこともできない身体の 一部である。()魂/プシュケーとは、繊細なうつろいなどではなく、無機的な身体であり、脳や感覚に依存しない身体であり、鼻の曲がり方、髪の色よりも、テーラードジャケットやズボンのなかで、より鮮やかに発見されるものなのだ。()魂は人間とそれ以外の形態の生きものとを分離するエネルギーではなく、生きものが、生きることができないすべてのものと混ざりあうことを可能にするものなのだ。魂とは、世界からわたしたちを分離する境界線ではなく、わたしたちが世界の含むあらゆる場所に入り込むことを可能にする鍵である。服は魂と同じく、人々、文化、時代、感情を分離するのではなく混淆させる役目がある。服は、諸々のアイデンティティを相互浸透させ、循環させる手段なのだ。わたしたちは、わたしたちが住まう服のおかげで、つねに他の誰かの魂を身に着けることができ、反対に、つねにまったく知らない身体を訪れる亡霊でありうるのだ。
服はわたしたちのうちで、あるいは外で、心象風景を変化させる。そのことでもまた、服は家の変異体である。服が現れる場所で、空間はたんに公的なものであることをやめる 76-8
しばしば帽子を室内でも脱ぎたがらないひとたちは恐らく、天井の重要性を余人より直感的にわきまえている。外界における魂の形成と維持は、衣服という型による抑制を通じて為されるが、頭部においてこれを行うのは頭髪であり化粧であり、帽子は決定的な威力をもつ。帽子を脱ぐ瞬間、彼らが一瞬溶けるのをあなたは見逃してはならない。なぜならあなたは現に溶けているのだから。その逆に、頭髪さえも剃るという仕方であらかじめ、外界との合一を図る仕方もある。この意味で、坊主ほどしぶといエゴの持ち主は珍しい。
双子と鏡像
わたしたちはもう一度、自分の顔をもう片方から区別し、もう片方よりはこちらの身体が自分らしいと認識し、明晰判明な思い出を記憶のなかに彫りこむことを、自分に強いる必要があった。それは、ラカンが「鏡像段階」と呼ぶものの、不可能な儀礼を行うことに少し似ていた。ラカンによれば、子どもが行動不能と食事の依存とから決定的に解放されることができるようになり、そのことで、理念的な「自我」の構築を通じて自己を強化するのは、子どもが自分自身の姿を鏡に認め、親の眼差しという権威のもとで、その姿と自分を同一化するようになるときだけである。この理念的な「自我」はまた、欲望の標準化を可能にすることになる。()わたしは自己同一化に失敗しただけでなく、母の眼差しはつまるところ、わたしの姿だけにとどまっているように自制することができないように見えた。つまり、あたかも母の眼差しが一人の姿からもう一人の姿へ移行するように強いられているかのように、そしてそのことで、わたしをもう一人の身体から切り離す境界線をそのたびごとに消去するよう強いられているかのように思われたのである。 83-4
精神分析的成人化を阻む、双子の兄弟の死がもたらした世界の穴。
著者コッチャが、量子力学における二重スリット実験のような実在感覚生きていることが窺える、本著の核心部がここから始まる。
写真から家へ
文章にすると簡単なことのように読めるが、このときは、わたしがどこにいて、二人の子どもの体のどちらのなかで歩いていたのかを娘に言うことができなかったことを思い出している。他方で、その状況は不安なもの、とても不安なものでもあった。なぜなら、わたしの兄弟はその間に亡くなっていたからだ。あの練習問題を再び行うこと、もう一度視覚的に、わたしたち二人の運命と同じくわたしたちの顔を区別することの不可能性に向きあうことで、わたしは喪の不可能性、つまり、彼の死とわたし自身の生を分離できないことに直面することになった。この写真と再会することは、トラウマの二重化として働いた。喪の困難あるいは不可能性は、感情というかたちで現れただけではなかった。わたしの目の前にある鏡像というかたちで出現したのだ。すべてを混ぜあわせる無意識的なものは、もはやわたしの精神の地下深くにあるのではなく、わたしやみんなの目の前で、白日のもと、あまりにも可視的で目をくらませるものであり、ほとんど致命的なもののようだった。そのときはじめて、わたしは気づいた。この写真が、自己意識からくるごく普通の行為によっていかに変様をもたらしたのか。わたしたちが双子であることで自己認識を妨げていた、度を越した認知的混乱のもつ意味を、この写真がいかに変様させたかに気づいたのだ。この写真はわたしの〈コギト〉、つまり「わたしはある」と述べる仕方となり、ほとんど運命づけられた、はてしない精神的な練習問題となっていたのだ。そしてとりわけ、この写真はわたしと世界との関係を規定する形式となっていたのである。
「家」はある仕方で、わたしにとってたいてい失敗する運命にある絶望的な試みの名前である。それは、幼い子どものころからこの写真がわたしに課してきた感情、態度、あり方を敷衍し、反復し、そしてとりわけラディカル化する試みである。わたしはこれについて、秘密にしておくべき特殊な嗜好なのだと、長いあいだ考えてきた。しかしこの経験に隠されたもの、見えないものはない。反対に、すべてがそこに、写真のなかに、明白に見えるものとして存在する。わたしたち兄弟のうちどちらも、自分の顔を見分け、知識と知覚とを結びつけるのに成功したことはなかった。さらにうまく言うならば、わたしたちは二人とも、そのことを知りすぎていたのだ。なぜなら問題は、わたしたちが誰かを知ることではなく、自己についての可能な二つの知、可能な二つの顔をいきなり所有する状況にあることに気づくこと、そしてそれらの二つの知のうちでどちらかを選ぶことができないことが問題だったからだ。この経験は、「わたし」と言えないことにあるのではなく、少なくとも二度言うことができることにあるのだ。これはさらにずっと奇妙で記述困難なものだ。わたしが直面したのは、自分の幼少期の思い出の消失ではなく、その仮想的な二分割なのだ。 86-8
彼つまり双子の兄弟という一個の他者「の死と自身の生を分離できないこと」を生きるコッチャの世界において、死は生と、世界は己とより太く連続し、自他の境界線は常人のかたることばよりも曖昧となり、だからこそ「練習問題」となる。己について、世界について、家について深く考えることでようやく、成人の形を保つ日々が訪れる。
このことを「喪の不可能性」と表現し、「自己についての可能な二つの知、可能な二つの顔をいきなり所有する状況」に気づく描写は、東浩紀によるデリダ論『存在論的、郵便的』におけるアウシュヴィッツをめぐる一節を想い起させる。
とすれば私たちが直面すべきは、むしろ、何故それがこのハンスでなかったのかという問いである。アウシュヴィッツについてのさまざまな記録を読めば分かるように、その選択はほとんど偶然で決まっていた。あるひとは生き残り、あるひとは生き残らなかった。ただそれだけであり、そこにはいかなる必然性もない。そこでは「あるひと」は固有名をもたない。真に恐ろしいのはおそらくはこの偶然性、伝達経路の確率的性質ではないだろうか。ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ。リオタールとボルタンスキーによる喪の作業は、固有名を絶対化することでその恐ろしさを避けている。 『存在論的、郵便的』61
アウシュヴィッツの表象不可能性をめぐっては、下記拙記事にて考察した。
浮遊する死と未生の光 《ゲルハルト・リヒター展》
https://www.kirishin.com/2023/01/25/58163/
カルト、抵抗、不可能性。 ほか《再監獄化する世界》記事群
https://www.kirishin.com/?s=%E5%86%8D%E7%9B%A3%E7%8D%84%E...
双子の宇宙
わたしたちは互いに会ったり話したりしないままで数か月過ごしていても、一瞬で一方の魂が他方の魂の延長であると感じることができる。わたしの人生の最も大きな困難とは、この親密さが、多くの人にとっては長い共通の旅路のあとに時として到来する贈り物であると受け入れることだった。この贈り物はけっして旅立ちの前にあるものではないのだ。
エロス的愛がそれと異なるものでしかないと理解することは、さらに難しかった。エロス的な行為をすることは、わたしにとってつねに、両性具有のアンドロギュノスの神話へと自分が延長されていくことだった。しかしそれはあらゆる比率から外れて多数化され、延長された神話である――あたかも自分の半身がどこにでもあり、あらゆる男女、物、出来事のなかに存在するかのようなものだった。おそらくだからこそ、わたしは誰とでも恋に落ちる表層的な情熱のかたちが問題なのではない。わたしはいつも、自分の分身の前にいるという感覚をもつのだ。どこでも、いつでも。
存在論的な次元では、この病理は、世界の教理、宇宙発生論と自己の延長とを混同してしまう危険がある全能感のせん妄である。しかし、あらゆる対象にもう一人の双子を認めることは、我有化あるいは支配の意図とは真逆のものだ。それは自分の人格を相手に投影することではなく、反対にあらゆる対象や身体を、自己についての知の源泉としようと努めることだ。「宇宙的双子性」の世界では、自己について知ろうとする行為はすべて、他者の知を介してでなければならないし、世界の知において重要なものは、自己の知にほかならない。他方で、もしすべてが双子であるならば、すべては、わたしたちの無意識なるものと同じ権利と秘密をもつ。 92-4
プラトン『饗宴』のエロスをめぐるくだりは、十代の頃なかば義務感から飛ばし読みしたきりで、にもかかわらず刷り込まれた男男、女女、男女の尻同士が結びつく戯画的な心象が強烈すぎてその後更新されてないのだけれど、そこに含蓄を読み込めるとすれば、このあたりなのだろうとはすこし思えた。かつ読み込めるからこその古典なのだろうから、いずれまとめて読みたいがそんな時がこの人生に来るのだろうか。
> 自分の人格を相手に投影することではなく、反対にあらゆる対象や身体を、自己についての知の源泉としようと努めること
人格の投影でなく、他者の知。よく吟味したい一節。
廊下の恐怖
わたしは長いあいだ、廊下を恐れていて、この恐怖を克服するのにかなり長くかかった。勇気は必要ではなかった。恐怖に対して、勇気は何の役にも立たない。欲望とその執着、力、そしてときにはその盲目さだけが役立つ。欲望だけが恐怖を無くすことができる。恐怖は、何かを欲することを妨げる力でしかない。古い著作が、わたしたちにこのことを教えている。スピノザはこう述べる。「ひとが望むものを望まず、望まないものを欲するように仕組むこの情動を、わたしたちは恐怖と呼ぶ」。
この廊下は、わたしの幼少期の欲望によって選ばれた場所、その勢力圏からつまり寝室から、わたしを切り離す。 124
廊下は、外界へと通じる通路であり、すなわちなかば開かれている点で、廊下の壁は消化器官の内壁にも近い。このとき寝室や浴室は心臓や肺となろう。コッチャの前著『メタモルフォーゼの哲学』 にこういう一節がある。
わたしたちにとっての空間は、たんに歩き回ったり、見たり、触れたりするための空間であるのではない。居住可能な空間はすべて呼吸可能な空間でなければならない。それゆえ空間はなによりまず呼吸の対象、わたしたちの肺の糧なのだ。こうした理由で、端緒となる建築的行為は壁を建造することではなく、空気を調節することである。(『メタモルフォーゼの哲学』166-7)
技術――繭を構築するわざによって自己は、変様作用の主体になると同時に、その対象や手段にもなる。技術は、生と対立したり生を外部へと延長したりするような力ではない。技術とは、生の最も内的な表現、その本来的なダイナミズムでしかない。(『メタモルフォーゼの哲学』80-1)
参考:SINIC理論 https://www.omron.com/jp/ja/about/story/detail31/index_1....
寝室と魂
夢は毎日、わたしたちを世界から消失させ、わたしたちの前から世界を消失させるが、この夢が課す不連続性には、神秘的で不安にさせるものがある。哲学は、人間がみな少なくとも人生の三分の一を睡眠にあてているという事実についてきちんと考えたことがないと、カール・レーヴィットは書いたことがある。この事実を哲学が無視してきたことは、哲学が都市的で都会的な起源をもつことと一部結びついている。
わたしたちは、性を浴室に閉じ込めるように、眠気を寝室に閉じ込める。他者の目線から隠し、護り、しっかり戸締りする。あらゆる家は根本的に、わたしたちの意識がかくも心もとないものであるからこそ、建築される。わたしたちが家を必要とするのは、この注意の消失、現前からの逃亡を保護し、到来させるためである。わたしたちは眠気によって、休息し、自分を再生することができるが、それは自我の崩壊でもある。 125-6
ベッドをほかの部屋、隠されていてアクセスできない部屋のなかで孤立させるよりも――そして、夜に生じる自我の崩壊が、非本質的なものでしかないというふりをつづけるよりもわたしたちはこの、精神の交替と置換の機構を起点に、街を再考し、再構成することを学ぶべきだ。そうすれば、街は行為と仕事というよりは、意識の喪失と目覚めの地形となる。仕事は街を捨て、つねにもっと家のなかで組み立てられる。そうすると、街はただ一つの限りない魂、目を開くごとに消失し、目覚め、皮膚を変えるのをやめない魂となる。 131
先日ある友人(というかこの場に登録してるひとだけど)に、本書の面白さを問われて概ねここへ引用&記述してきたことを口頭で伝えたら、「いかにも西洋人って感じがする」と言われ、あぁまずそこに反応するんだな、とすこし新鮮に感じた。「それはそう。タイとか南洋とかだったら、そも家に壁とかないことも多いしね」と応えたら笑ってたけれど、家の物理機能ではなく精神機能をみるコッチャの特殊思考には、その特殊性を立たせる言語的文化的基盤がまずあって、友人の指摘はこの基盤を眼差すものであり、コッチャ特殊性を言分けするならその先を言う必要がある。
それはこちらの説明がそこまで届いてないことを端的に意味するし、話しながらうまく説明できない自分に驚いてもいたことへ通じていて、ちょっと印象的な出来事だった。
あらゆる家は根本的に、わたしたちの意識がかくも心もとないものであるからこそ、建築される。
という言明こそ簡潔なる骨子。
解放
家についてのこれら二つの経験の対立は、消失するに至る。()わたしたちはみな、この魂‐世界の脚本家であり、登場人物であり、またいずれそうなるのだ。精神的形態をとるこれらの機械のおかげで、わたしたちは国家と大陸のみならず、あらゆる人間の住まいを隔てる壁と境界線を打破した。わたしたちは、あらゆる公私の対立の彼方にある、精神的な共有の場を、そして、毎秒流れを変えうる、うごめく親密さの洪水を作り上げた。精神の形態をとるこれらの機械のおかげで、家はあらゆる空間的で地理的な定義を失い、街から解放された。よりうまく言えば、家は街を内在化し、惑星規模の広がりを手に入れたのだ。このことは明らかに、ぎこちなく、しばしばグロテスクな予感のようなものを与える。しかし、これらの機械によって可能となったものはもはや無視することができない。新たな秩序で地図を描くときが来た。揺れ動く親密さの戯れという筆跡で、街や国家を超えて地球を描くときが、おそらく来たのだ。 118
攻殻機動隊のラストみたいな。
まぁでもこれ、スマホ&タブレットとSNSの普及のことを言っているので、コッチャの言語化の特徴というか過剰さ模様が、家描写以外の仕方でよく顕われている箇所とは言える。と同時に、さすがに精神溶融のツールになるほどこれらギミック&アプリに依存なんて、さすがにコッチャ自身がしてない=できてないでしょ、とも思う。もっと深い水準のことを言っている、と読むこともできるけれど、ややレトリックに走ってるようにも映る。どうかなー。おそらく来たのだ。には同感できなくもないですけど。
個別引用はここまで。あとは軽くまとめに入る。
書くという生
だからこそわたしたちは感覚器官をもっている。それらによってわたしたちは、この生をみずからに入り込ませることができる限りなくさまざまな形態をもつ、光、音、ノイズ、固さ、味、甘さとして。しかし、この生の一部は、糧を介しても、感覚器官を用いても取り込むことができない。書くことによってわたしたちは、食べたり世界を知覚したりするときに行うことを、別の方法でつづけることができる。わたしたちを取り巻くあらゆる生を生きること、そして自分のなかに入り込ませておくことができるのである。書くことは、あらゆる物と生きもののあいだに親密さを生み出す。それは誕生、食事、知覚によって構成される近しさの秩序よりも前にある。書くことは他のいかなる種とも直接的な連続性をもたない精神的連続性を生み出す。あらゆる生きものは、他者の生を生き、他者になるために互いに入り込む仕方を、たえず発明している。そしてそれら各々の生は、そのことで身体から身体へ、個から個へ、種から種へ、場所から場所へ、時間から別の時間へ移動することができる。書くことと、それによって得られるヴィジョンは、この連続性の生成であり、証拠であり、アーカイブである。それは知的なものではまったくない。それは生を、その純粋で、科学的で、可感的で、幻覚を見せる物質へと注ぎ込むことだ。インクの数滴のなかに集中した生の力は、尽きることがなく、抑えることができない。書くこととはまさしく、生がわたしたちに入り込み、不可逆的に変化させ、他所へ飛び立つために発明した策略にほかならない。書くことによって生は、けっして誰かに属することなく、永遠の放浪者でありつづけることができる。
わたしたちは書くことを欲するのと同じ理由で家を欲する。日常的経験はけっして十分ではない。世界をあるがまま知覚することでは十分ではないし、わたしたちの影を世界の表面に書き込むだけでは十分ではないのだ。わたしたちは世界の現実、わたしたちの現実から、ヴィジョンを、色、音、匂い、感情の混合物を創造する必要がある。同様に、わたしたちは〔世界に影響を与えないようにと〕どんなに小さい場所を占めたところで、手つかずの世界に住みつくことはできない。世界に住みつくことは、その構造を変様させ、惑星の書き言葉となることを前提としている。
わたしたちは、とても古い幻想によって、家とは世界の要素、家を取り巻く残りすべてのも のと同じであると想像するように促される。家のなかの何も、とりたてて他所で見られるものと異なるわけではない。石材、鋼鉄、ガラス、樹木、地球を構成している他の化学物質は、家を構成するありふれた物質にほかならない。そしてとりわけ、あらゆる家において、他所でも生きていくことのできるであろう男たち女たちが暮らしている。わたしたちは、以前にまして 都市計画と生態学にかかわる深い失敗の念に養われているがゆえに、自分の住居とそれを迎え入れる環境との連続性を強調してやまない。しかし、本当にそう言えるとすれば、家が世界と同じ物質でできているとすれば、本当に家のなかに、家の外と同じものが見いだされるとすれば、つねにどこでも同質の時間を探し出せるとすれば、壁と壁のあいだに生まれる生が、外で通用している生と同一なのであれば、わたしたちは家を必要としていないだろう。 100-2
この平らな大地へ、家を建てるということ。引力に逆らい、熱力学第二法則に逆らってエントロピーを統御する、すなわち輪郭を露わにすること。その第一の基盤となる身体感覚水準で、あらかじめ一般的な感覚成熟の機縁を奪われた《私》としての著者の眼に映る、著者だけが強烈に感受する世界の連続性と越境性。なんのコッチャ。
自らも長じては判別不能の外見をもつ双子の相手とは、未分化なサナギ状態の《私》を共有する他者であり、共有したまま相手のみが失われたこの世界はどこまでも、おそらくは《私》が終わるまで、自明の輪郭を持ち得ないこと。それがスマホやタブレットの中に地球大の家を感覚させる。だからこの言葉たちは、夢みがちな理想家のそれとも似て非なるものだとは家よう。直感的な現前するリアルとしてそれはある。そのような世界把握から発語する人物の物記した言葉が翻訳され手元へ届き、その言葉から立ち上がる仮想の双子が視て聴き触れる世界をつかのま息する土曜の午後、この列島の隅っこで。モニターの背後のカーテンは午後の陽光から受けた熱を孕み、ガラスと布を抜けた紫外線が太ももを幽かに暖める。足裏に木床の冷温。坐骨を椅子が支えて立てる。守られて居間。そのありそうもなさのたしかな感覚をいま、生きている。
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