pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2020年
08月20日
12:46

バットマンの死

 
 
 
 正常/異常という境界線を超える最も強烈な身振り、すなわち「超越的正気(super-sanity)」。ジョーカーの知覚やその処理は「完全に自由で抑制されていない状態」にあり、それは「現代の都市や情報化社会に適した変容である」。

 本稿は、遠藤徹『バットマンの死: ポスト9・11のアメリカ社会とスーパーヒーロー』の読書メモ、および『ダークナイト』IMAXレーザーGT上映の鑑賞後記として書く。ホアキン・フェニックス版『ジョーカー』も同時に扱う。読書メモとしては十冊ごと更新する《よみめも60》[https://tokinoma.pne.jp/diary/3932]の一項目を念頭に書き出したが、長くなったため単体で切り出す、それ自体が半ば恒例化した所業。青灰字は遠藤著からの引用部、各末尾の数字は引用元ページを表す。()は(略)の意。覚え書きゆえ全体の構成や流れより各部自体に重心を置く。

 
 こうして支配的イデオロギーは、もはや空気のようなもの、当たり前のものとなる。審問には始まりも終わりもない。常にそこにあるのである。それは思考様式そのものとなる。その思考様式のなかに生まれ落ちると、もはやそこから抜け出ることはできなくなる。このことをアルチュセールは、「個人は常に―すでに主体である(Individuals are always-already subjects)」と述べている。審問される者が、次には審問者となるというかたちで、審問の概念は本質的に循環的なものである。だから、望もうと望むまいと、われわれは社会の内部に固着され、ひとたび固着された社会から自分を分離することは不可能となる。 127





 クリストファー・ノーラン3部作をメインに、原作コミックを適宜援用する点が、この『バットマン』評論を最後まで面白く読み継げる最大の誘因になった。また著者による同系列の前著↓からも、その読み応えは充分に予感できていた。 

  遠藤徹『スーパーマンの誕生: KKK・自警主義・優生学』(よみめも49):
  https://tokinoma.pne.jp/diary/3215
  
 という地点から読み終えたのは、実を言うともう1年以上も前の話で、はじめは図書館で借りたがこれは買うべきと密林輸入後ただちに大量の犬耳作成、しかし当よみめもには書かずにいた。それは言及範囲があまりにも多岐にわたり、一度の通読では未消化に感じる部分が多すぎたからだけれど、このコロナ禍による新作映画公開延期に伴う旧作上映の波で、全国規模でジブリの次に勢いを感じたのが当のクリストファー・ノーラン作品群のIMAX再上映で、とりあえず『ダークナイト』を観たら本当に凄かった。
 
  『ダークナイト』 IMAXレーザー鑑賞ツイ:
   https://twitter.com/pherim/status/1303320431818993665

  

 だから、彼はこういうのだ。「お前なしで俺に何ができるだろう。お前が俺を完成させるのだ」。この台詞は、物語への埋没を許さない。この言葉の意味を理解するために、観客は考えることを余儀なくされるからだ。物語の構造を俯瞰して捉え、そこで俎上にあげられているのが、自分たちの社会システムの人工性、仮説性であることに気づき、バットマンがその人工性、仮説性のなかの「正義」に依って立っている存在であるということ、そのことを露わにするためにジョーカーというキャラクターがここにいるのだということを理解せねばならなくなる。 117

 『ダークナイト』は、全編を通して観るだけでも恐らく3、4度目になるはずなのに、このIMAXレーザー鑑賞はまったく新鮮な体験となった。その新しさはもっぱら、ノーランがIMAX撮影にこだわった意図をこれまでは受け取り損ねてきた点による(なにしろ初見時を除けばVOD視聴だし)のだけれど、ともあれこれを機にと本書をパラパラめくりだしたら、パラパラでは済まずすっかり冷めきった浴槽に浸かりながらほぼほぼ再通読してしまったので今回はよみめも書くもん、という流れ。



 
   
 ハワード(pherim注: Jason. J. Howard)によれば、人には「ヴィジョンの瞬間(moment of vision)」がある。そこではそれぞれがもつ最も深い謎が開示され、自分が誰であるのかが明らかにされる。この瞬間を得た者は、自分の課題を『状況への介入を通して』おこなうことになる。だからブルースは、コウモリのシンボルを「自分のために」取り入れることによって、自分の不安を開示し、自分の使命のために立ち上がったわけである。
 ()すなわち、自らが死を受け入れ、死を賭して他者のために行動することで両親は報われるということに気づいたのである。()同時にそれは自己欺瞞的、あるいは冷笑的な生への抵抗でもある。 169

 
 またコロナ禍により、観かたも読みもかなり変わった。言うまでもなくこの変化は純粋に観るほう、読むほうとしての自身の姿勢変化(を促した社会の変化)を反映する。直接具体的には例えば、顔面にまつわる言及。ジョーカーは化粧によって口元の傷を強調し(「やつは顔を見せたくて仕方がないのよ」byラミレス刑事 p.165)、口元を残すバットマンに対しては『ダークナイト ライジング』の敵ボス・ベインにとって口元を覆うマスクこそがアイデンティティとなる。「素顔を隠して無名性を得た途端に、逆に無名性から離脱するというパラドックスを実演してみせるのである」(p.166) 「別のアイデンティティへの完全な移行を示すのがフルフェイスの仮面や衣装であり、同時にアイデンティティの二層が共存しているということを示すのが一部を覆う場合であると考えることができる。」(p.166)

 
 レディ・ガガもまた確固たるアイデンティティを示すことがなく、常により突飛で派手で折衷的な衣装あるいはコンセプトで楽曲を提供してきた。()ガガはこう言っている「わたしは、わたしのファンであろうがなかろうが、世界の人々が本質的にわたしを逃避の手段として使うことを望んでいるわ。わたしは王国の道化師なの。世界の外へ出るための通路なのよ。自分のアイデンティティを探すための口実よ」 240-1

 この文脈この著者にして「望んでいるわ」「道化師なの」「通路なのよ」「口実よ」と訳してしまう事態には若干頭を抱えざるを得ない(とはいえ世の映画媒体も依然そちら側ゆえ誰に非がある話でもない)が、ともかくここでさらに重要な読みの変化を一点書き留めておくなら、フーコーの“先”に拡がり得る視野を予感できる点は今回読んで感じた新しさの一つだ。
 
 アブジェクト性、内臓的恐怖という点について、ジジェクはラカンを利用して次のように説明している。
 見る主体が、既存の象徴的秩序に容易におさめることができない何かによって衝撃を受けたり、驚喜したときに、捉えて離さない情動(AFFECT)が起こる。それは「言語」によっては捉えられないもの、「言語」によって表彰された現実の向こう側にある、ザ・リアルと呼ばれるものがもたらす衝撃である。ザ・リアルは、カントの物自体(Ding-an-sich)と同様に決して人間が捉えることができないものである。だから、象徴的秩序(=言語で表現できる世界)の向こう側にあるザ・リアルの存在に触れたとき、主体は混乱する。主体はこのような言葉に還元できない体験を反撥と好奇心の入り混じった感情であるアブジェクトとして処理する。
 そして、ジジェクによれば、このような体験の究極は怪物的他者の構築となる。自分が反対しているもの、それを排除することで自分の主体性を合法化できるものを、悪しき他者に押しつけるのである。 207-8


 不気味なもの。それは不意に舞い降り、あらゆる感情を同時に惹起し、そして超えゆく。瞬時に陥る混乱のさなか、身体器官は痙攣する。冷笑。失笑。哄笑。筋肉の痙攣、横隔膜の痙攣。ホアキン・フェニックス版『ジョーカー』の現出する風景。
 
  『ジョーカー』連ツイ by pherim https://twitter.com/pherim/status/1187199233180356608

  【映画評】『ビューティフル・デイ』壊れているのは世界なのか:
   http://www.kirishin.com/2018/06/06/14944/
   ※ホアキン・フェニックス演じる主役造形においてジョーカー前継の重要作、という位置づけで書いた






 構築物であるのは社会だけではない。その社会を構成している個々人もまた作られたものでしかない。なぜなら、ミシェル・フーコーが言うように、「人間には実現されるのを待っている、安定した本質、生得的なアイデンティティなどない」からである。()また、ジュディス・バトラーが「あらゆるジェンダー化された行為は演技である」と言うように、同じことはジェンダーにもあてはまる。
 ()つまり、現代の権力は、外的な訓治をもたらすものから、絶えざる内化された制御の権力へと移行していることになる。()
 こうした状況へのもっとも効果的な対抗策は、抗議や反抗ではなく、撹乱ということになる。抗議や反抗は、「調和への幻想」を壊されたくないという「慣性的」な力、「保守」的な力を呼び覚ます。現状を維持したいという欲求を喚起し、逆に自らを縛る規則や慣習へのしがみつきを産む。だから、アンチは、結局体制を補強するための刺激剤にしかならない。二項対立というのは、そういう意味では欺瞞なのだ。 218

 
 至言。この数年タイなり香港なりで自らを渦中に置いてもきた反政府デモに比べ、日本の国会デモなりシールズなりを支える「左翼」勢への違和感は、彼らの主張の正否などでなく、その本質に「保守」性をみるところから来ていたのだと。周庭が福島香織にかつて、日本の「右」「左」に分かれる思潮展開を「バカみたいですね」とつぶやいたそうだけれど、まさにそう。この幼稚さを知識人も経営者も進んで演じる滑稽さは、おかんに実生活を依存しながら亭主関白を気取る昭和の親父心性に由来し、それはマッカーサーという母に抱かれる昭和天皇の構図に他ならず、つまり個人をそこに探したところでホログラム、ないし亡霊の集合しか見つけられない。「人間」が不在なのだ。(「人間的なものの滅亡」by アーレント) それが団塊世代の日本人たちの相貌であり、そこを支える社会構造(護送船団方式、終身雇用制云々)はすでに崩れ去ったのに、団塊Jr.以下の世代もその心性のみを快調に受け継ぎつつあるのが恐ろしい。この圏域においてSNS上などで交わされる安倍晋三の醜い表情写真はそのまま、彼ら自身の鏡像であり似姿なのだ。おぞましきことに。
 
 ジョーカーは笑顔を絶やさない。()多分にトリックスター的なところがあると同時に、絶えず笑っていることが示すように、後悔を知らず、己の行為に完全なる自信をもっている存在でもある。()自己を懐疑することのないジョーカーは、それゆえもっとも幸福な人だということになる。()彼を駆り立てているのは力への意志(p注: byニーチェ)だからである。 213-4
 
 かつ彼らに対してはこうも思う。どうしてそんなものに執着できるのかわからない、と。どうせ「構築物」が要請するなら、単なる頽落態でしかない晋三よりジョーカーを自分は採るしかない。そこには選択の余地さえ感じない。

 正常/異常という境界線を超える最も強烈な身振り、すなわち「超越的正気(super-sanity)」。ジョーカーの知覚やその処理は「完全に自由で抑制されていない状態」(p.222)にあり、それは「現代の都市や情報化社会に適した変容である」(同)。 
 脱抑制は、この世のつかのまみる夢だ。Singin' in the rain. ジョーカーが踊るのはそういうことだ。

 社会というシステムは常に矛盾をはらんでいる。その矛盾の徴候(p注: byジジェク)として現れるのがバットマンとジョーカーである。それは()規範からの逸脱と見えながら、実のところ規範の一部なのである。
 ()バットマンが正義を守るために超法規的な力を行使し、全体主義的な行動をとるがために、彼が守ろうとする民主主義そのものが不可能となるのである。()民主主義社会が矛盾を抱えている限り、二人の存在は徴候として要請され続けるということになるわけである。249-50

 
 失政は政治の本質だ。「偽物」とわかっていて、敢えて断行するのが「本物」の政治だからだ。ゆえ影の政治を欲望するバットマンは成功せず、影そのものであるジョーカーは失敗しない。





 ニーチェによれば、道徳は「善と悪という言葉から始まる」。この道徳は、支配者や貴族の道徳であり、支配者がこの道徳を作り出して定義づける。ところがジョーカーはこの支配者の位置に立つのである。 223

 『ダークナイト』で表の為政者ベントは終盤、嘘のないコイントスにより究極の政治を手に入れる。偶然性を究極態とするそれは『エンドゲーム』における君臨者サノスが振る舞う力の極小モデルであり、そこで実現される社会にはのっぺりとして矛盾がなく、表情というものがない。顔がないのである。(サノスは「力」の行使後、辺境の家庭菜園のみに君臨する。もはや社会は存在さえしない)
 
 ニーチェは『道徳の系譜学』において、支配者の道徳は、彼らの行為に沿って作られるが、奴隷の道徳判断は、行動に基づいておらず、下層階級の価値を高めてくれる高次の権力との区別や比較に基づいていると述べている。つまり、支配者は嘘をつかないが、奴隷は嘘をつくということだ。ニーチェによれば、奴隷の道徳では支配者の道徳に勝てないので、彼らは嘘をつく。欺きやスパイ行為が必要な手段となる。たとえば、「公平さ」というのは、奴隷の道徳によって定義され作り出された言葉なのである。 256-7

 『ダークナイト』の中盤、レイチェル・ドーズはウェインではなくデントを選んだ。(執事アルフレッドへ託した手紙の文言 "I'm going to marry Harvey Dent. I love him.")それは同時に、ウェイン自身の選択だった。「バットマンというもう一つの人格との共存なしには生きることができなかった」(p.191)
 
 『ダークナイト・ライジング』のラスト、そこで執事アルフレッドの視界へふと入り込む懐かしき男の影姿。それは「親の遺産にしがみついていた、資本主義社会の放蕩息子」(p.260)ウェインでも、社会が要請する「自己欺瞞のコウモリ」(p.259)としてのバットマンでもない、つまりは何者でもなくなった男の姿だ。著者・遠藤徹はそれを「幸福(=超人)たりうる一人の男」(p.260)と形容して最終章を閉じる。

 「ジョーカーは、映画の途中で外に出ていたりもする」(p.225)という指摘は面白い。それは『ダークナイト』でジョーカーがバットマンの模倣者を捕えて殺す場面を映したビデオ映像をめぐる指摘で、「そのビデオが映画の画面いっぱいになる瞬間がある。その瞬間、理論的には撮り手であるジョーカーは、映画のフレームの外に存在していることになる。それはまるで、自分は映画の中にでも外にでも自由に行き来できる、とでも言いたげな振る舞いと映る」(同)。 
 縦19m、横26mのスクリーンがそのように機能するのを、先日の池袋ではたしかに感覚していたと気づく。

 さて。何者でもなくなった男とはいったい、何者なのか。
 このリアルで。



 
夜おしまい。
#よみめも一覧: https://goo.gl/VTXr8T

コメント

2020年
08月20日
13:58

本稿、《よみめも》の一環ですので投稿設定をWeb全体公開しています。コメントいただいた場合も全体公開されます。ご用心下さいませ。

(ふぃるめも、よみめも更新分については現在、Web全体公開をデフォルトとしています。為念)

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