・メモは十冊ごと
・通読した本のみ扱う
・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心
※バンコク移住後に始めた読書メモです。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。批評とかでなくメモ置き場です。よろしければご支援をお願いします。
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1. 『瞬く皮膚、死から発光する生』 足利市立美術館
詩集として読む。
拙稿「皮膚が映しだす宇宙、皮膚に映し返される視線。」:
http://www.kirishin.com/2020/11/01/45955/
《瞬く皮膚、死から発光する生》連ツイ:
https://twitter.com/pherim/status/1322138732602929154
本図録は、展示作品図版や巻末の担当キュレーター篠原誠司エッセイとは別に、展示を構成する8人の写真家各々へのインタビューと作家論も収録されているのだけれど、その作家論の半数を詩人たちが執筆している点も興味深い。というかメッチャ良い。展覧会カタログもまたそれ自体がひとつの表現であり作品なのだ。毎度ダラダラと主催挨拶やら抽象的な企画主旨やらが冒頭部に並び、あとには脳内の蛸壺化が完了した研究者や批評家の論説が展示作の選定をロジカルに正当化する目的でつづく、あのありがちな構成の全体はふつうにダサい。
「市民の血税を使った公共施設」の制約から一定のダサさを表面上は引き受けつつ、実態としては似て非なるものが編み上げられる。その違いが分かるひとにのみ分かるこの仕掛けはしかし、分からないひとにこそ無意識的かつ有効に作用する。そこが粋。
挙げ句こうして、粋をくどくど説明するのは野暮である。
いつの頃からか当よみめも1冊目は毎度、詩歌や詩文寄りの著作を扱うのが恒例となってきた。あらためて自己分析するに、そこには詩歌への憧れと苦手意識の共犯関係がよみとれる。放っておいても日常的に小説や思想系、時事雑学系は手にとり続けるだろうが、詩的なものは日常から遊離して、意志的に入ってゆかねば読む意味がないと感じる。重たい。億劫。そう感じることそのものへ看取される、感性上の誤謬の気配。
2. イェジー・コシンスキ 『ペインティッド・バード』 西成彦訳 松籟社
人間というのは誇るべき名前だ、と兵士は言った。ひとは自分のなかに自分なりの戦争をかかえていて、勝とうが負けようが、その戦争は自分で戦わなければならない。()
ミートカの復讐にはもうひとつの要素があった。ひとはどんなに人気があり、まわりから賞賛されようと、けっきょくは、自分自身と折り合いをつけながら生きていくものなのだ。もし自分との和解ができないなら、そして自分のイメージを守るためにほんとうはなすべきであったのになし得なかったなにかに苦しめられるようなら、その人間は「罪深い世界の上を高く滑空する不幸な悪魔、流浪のたましい」のようなものなのだ。 242-3
もちろん、逆もまた真理だ。たとえ棒で打たれたとしても、ぴんたをくらった程度の痛みしか感じなかったとき、復讐はぴんたに対するそれですませるべきだ。 252
ぼくはガス室や焼却炉に人間を送り込んでいた汽車のことを思い出した。命令を発してこうしたことの段取りをつけた連中は、おそらく、なにも知らない犠牲者に対して、同じように完全な権力を味わい、喜びを感じたことだろう。連中は何百万人もの運命を支配下におさめていた。その名前も顔も職業も知ることはなかったけれど、()命令を下しさえすればそれで終わりだった。 259
ぼくの世界は農家の納屋にある屋根裏のように小さく縮みはじめていた。ひとはいつだって、自分のことを憎み、迫害をもくろんでいる連中の罠に落ちるか、あるいは、自分を愛し、保護したがっている連中の腕に落ちるか、その瀬戸際に立たされている。 265
人間の感情や記憶や感覚は、ひとりの人間を他人から隔てている。それこそ大きなアシの群生が泥だらけの土手と本流を隔てているくらい、それは効果的なものだ。ぼくたちをとり巻いている山の頂きのように、ぼくたちは気づかれずにすませるにはあまりにも高く、天国に達するためにはあまりにも低い谷によって隔てられながら、おたがいを見つめあっている。 274
『異端の鳥』連続ツイート: https://twitter.com/pherim/status/1312611511567704064
人をすし詰めにして運ぶ貨物列車の去った線路の上に虐殺されたユダヤ人たちの亡霊を見て(121)、抜け出ることのできなくなった動物や人の幽霊を木の幹のなかに見る。
急に年をとったようにちぢこまるウサギ(267)、ソビエト社会と「コレクティーフ」と呼ばれる集団(227)
以下著者後記より。
私がそれと知っている事実と、あの亡命者たちや外交官たちのぼやけた、非現実的な世界観との間には、極端なくいちがいがあり、そのことに私はとても苦しんだ。()政治学とは違って、つまりユートピア的な未来の到来を口約束するだけの政治学とは違って、フィクションは、生を、それが真に生きられた通りに描くことができるものだとわかったのである。 279-80
以下訳者解題より。
前線に位置する隔離空間では、魔女の歯牙にかかりかけたヘンゼルとグレーテルが、一転して魔女を焼き殺す立場にまわるというようなことが日常でありえたのである。
子どもたちは、事態の無法性に憤るよりも先にそれに慣れてしまい、戦争が終わってからも、周囲での秩序回復じたいが、身近には感じられなかったりする。()アンジェイ・キヨフスキは、「子どもは人間ではない」というパスカルの言葉を題辞に引きながら、戦争サバイバーの少年たちを蝕んだ非道徳的な傾向を「ジンギスカン・コンプレックス」の名で呼んだことがある。 301-2
3. W・G・ゼーバルト 『アウステルリッツ』 鈴木仁子 訳 白水社
アウステルリッツはのちにはじめてパリに滞在したときも、ほとんど日課のように朝や夕方のひとときにどこかの大きな駅を訪れたと言う。たいていはパリの北駅や南駅で、黒く煤けたガラスのホールに蒸気機関車が入ってくるのを眺めたり、深夜、あかあかと灯をともした神秘的な寝台車が夜闇の中を静かにすべり出ていくのを、はてのない海原に船出する船を見送るように眺めたりしたものだった。駅は幸福な場所とも不幸な場所とも感じられて、そこにいると時々とてつもなく危うい、わけのわからない感情の波に引き攫われてしまうことがあった、とアウステルリッツは語った。 33
W・G・ゼーバルトの小説『アウステルリッツ』では、ユダヤ系建築史家アウステルリッツの特異な生涯が語られる。この文学作をタイトルの由来としたロズニツァの含意は深い。1960年代にアントワープ中央駅で“私”と出会ったこの建築史家は、駅や鉄道、要塞や裁判所に関する蘊蓄を縷々語りゆく。19世紀末ロシア軍が拡張に拡張を重ねたカウナスの城砦が、結局一度の出番もないままリトアニア軍やドイツ軍の手に落ち、監獄へ転用された経緯を記して本書はその終章を閉じる。監獄は「異常」な人間を隔離する。戦う相手を失った国家が統制を維持するために必要な外部として、異常者の隔離は統治の必須手段となる。
現在観光地として公開されているアウシュヴィッツやダッハウ収容所の敷地は広大だが、複数の支部を抱えた往時の規模はその比ではない。それらのなかには現在、中東からの難民やホームレスの収容施設へ転用されたものもあると聞く。観光客を集約的に観光地へと運搬する今日の鉄道網こそは、かつて効率的に人々を絶滅収容所へと送り込んだ装置そのものだ。
過去が戻り来るときの法則が私たちにわかっているとは思いません、とアウステルリッツは続けた。けれども、私は、だんだんこう思うようになったのです、時間などというものはない、あるのはたださまざまなより高い立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだと。そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の眼にとっては非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。 177
ながらく興味はあれど読みだすに至らなかった本の一冊で、博物誌的紀行文とでもいった読み味がひたすら心地良い。読みだす機縁となった映画『アウステルリッツ』公開に感謝。
拙稿「“群衆”の鮮烈、沈黙とそのリアル。」
http://www.kirishin.com/2020/11/16/46169/
セルゲイ・ロズニツァ『アウステルリッツ』
https://twitter.com/pherim/status/1327234717226205184
4. 岡田温司 『芸術と生政治 現代思想の問題圏』 平凡社
誰の視線にも曝されない世界というものは存在し得る。存在し得るのみで定義上、誰にも見ることはできない。視覚の問題。
フーコーがいみじくも指摘している、ベンサムの強迫観念とルソーのリリシズムとの隠れた結びつきは、わたしたちにとってひじょうに示唆的である。全体主義のシナリオに役立つベンサムのパノプティコン的な想像力と、民主主義社会の前提となる完璧な透明性というルソーの理想とは、同じコインの裏表として、切り離すことはできないのである。「ベンサムはルソーの相補者」である。ルソーの夢想が、あらゆる部分において、もはやあいまいな部分がないほどに見えて読むことのできる透明な社会という夢想であるとすれば、それは基本的に、ベンサムのパノプティコンにも当てはまるものだ。ルソーとベンサムとの隠れた共犯関係の帰結として、いまやわたしたちは、いたるところに設置された監視カメラに四六時中さらされるという現実を生きている。 36-7
芸術(アルス)と生政治(ビオス)とふりがなの付された本書は、学校や病院と結びつけられがちなフーコー「監獄」論を美術館博物館へと接続するもの。それは結果として限られた施設のみでなく、制度と建築の近代的連環の全般に宿命付けられた「問題」としてフーコー思想を浮かび上がらせる。
ベンサムはルソーの相補者。
多くの場合、画家の独創性と成功の軌跡を時間軸にそって網羅的に語り尽くそうとするそれらの書物は、まさしく紙の上のパノプティコンと呼ぶことができるかもしれない。
さらにいえば、この時代、伝統的なスペクタクルに代わって、万国博覧会、アーケードやデパートといった、新しいまなざしの組織=管理が華々しく登場するのも、おそらくは偶然の一致ではない。()この進歩は、国家の集団的な達成によるものとみなされるのである。このまなざしはまた、他の「非文明的」、あるいは「プリミティヴ」な社会や文化にたいして、帝国主義のレトリックを行使することになるだろう。その典型が、前にもふれたような、アジアやアフリカの人々とその村のシミュレーション「展示」であった。 39-40
視覚の問題、というよりも、視覚が問題。面白い。
つまり都市は、あらゆる世代や世紀や文明が通過するときに、新しい石を付け加えてきた歴史的モニュメントなのである。()それら塁層のおのおのは、科学者の目に、それが形成された時代における自然の現状を正確に暴き出している。
このような異種混交の産物、かくも多様な努力と目的の成果たる都市 161
しばらく前に長谷川香『近代天皇制と東京: 儀礼空間からみた都市・建築史』の出版記念トークのような企画でゲンロン生放送をやっていて、著者の長谷川さんがこのテーマで取り組んだ動機の一部が、長期中断下に陥ったキリスト新聞での拙連載にほぼ重なっていて地味にこの女性素敵だなとか思ってしまった。ゲンキン。
教会建築連載 by pherim:
http://www.kirishin.com/?s=%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%BB%BA%E7...
要は痕跡を結ぶことで都市の不可視の層を炙りだす試みなのだけれど、『近代天皇制と東京~』は7700円もして地元図書館にもないので読めません。(熱烈ご寄贈お待ちしております
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生政治から死政治への転倒は、ナチズムによるホロコーストにおいてひとつの頂点に達するものである。だが、死の判定と臓器移植、遺伝子操作と優生学思想などにおいて、わたしたちが今日直面している状況こそ、生政治と死政治の逆説的な交差にほかならない。 217
5章「鑑定と鑑識――芸術的同一性と司法的同一性」は「フロイトとモレッリ」の小見出しから始まっていて興味ある分野には違いないのだけれど、集中力のダレもあってかなぜここで論じられるのかさえボンヤリとして感じられ、終盤になって比較解剖学から観相学、「徴候」、優生学展開するに至って目覚めた瞬間終わった。いずれまた読むはず。(がこれも高く図書館借り。値段気にせず買っていける身分になりたいものだがしかし)
内部の器質的な生命は、胎児において、動物的な生命に先立って始まるが、外的生命よりも長く生きつづけるのである。アガンベンの指摘するように、この二つの生命の分離こそ、生政治の近代医学にとって戦略的な重要性をもってきたものである。とするなら、ジェリコーの描く頭部は、「外的生命」が停止してもなお作用しつづけている「内的生命」をとらえている、と見ることはできるのかもしれない。()ジェリコーはむしろ、二つの生命のあいだに分割線を引くことなどできない、と訴えているかのようだ。 229
冒頭画像3枚目、テオドール・ジェリコー《切断された首》1819。
5. 重田園江 『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』 ちくま新書
彼が描くプロテスタンティズムの教義では、ある人が救われるかどうかはあらかじめ決まっているが(預定説)、それを確実に知る方法がない(神のみぞ知る)。そこからくる焦燥のため、富という現代的なものに価値を置かないはずの厳格なプロテスタントは、救いの証しを得ようと富の獲得に邁進してしまう、しかも周囲の人をそのための道具とみなすという、きわめて殺生な状態に陥る。
()そこから派生するのは「倫理」である。 127-8
表題作から受ける概説入門書的なイメージとはやや異なり、『監獄の誕生』の熱烈愛好者によるファン語りといった側面が濃い。しかも著者は単なる哲学一本道の研究者ではなく、早稲田政経から日本開発銀行へ進んだあと東大大学院へ入りなおすという履歴の持ち主で、おそらくこの寄り道感が哲学ジャーゴンに密着しない文体の渇いた印象の出処と推測される。
この点、西洋美術を綴る金沢百枝の読み味に近いものを幾度も感じた。
フーリエとフーリエ主義者たちは、既存の価値観が政治的につくられたものにすぎず、それは誰かを利するために別の誰かを貶めていることを見抜いていたのだ。そしてそこに見られる「普遍の僭称」(本当は特殊で偶然的なものを一般的で必然的なものであると主張し、それを通用させるために政治(権力)を用いること)を反転させることで、既存の価値観が政治的な構築物であること、権力作用の結果であることを示した。 201
「普遍の僭称」、パワーワードやね。たとえば文化相対主義は言うまでもなく自文化中心主義への批判として出てきたものながら、結局それを語る論理の一元性/偏向性に無自覚となった瞬間「僭称」へ堕する。「文化多元主義」の語義矛盾。
少なくとも『監獄の誕生』執筆時のフーコーにとって、監獄とはその失敗を通じて規律化の限界が見通され、新たなタイプの統治が構築された場所ではない。むしろ規律化されざる人間を反規律へと向かわせないための装置、規律への犯行を非政治化し無力化するための場所として位置つけられているのだ。 210
なんとなく今回は参考文献など挙げずに済ませようと思ったのだけれど、どこというのではなく本書から影響を受けた拙稿が下記になります。↓
「不穏の残響、神戸の近代。」 『スパイの妻』映画評:
http://www.kirishin.com/2020/10/16/45715/
6. 西加奈子 『さくら』 小学館
飛び散った赤は、それはそれは綺麗で、迷うことのない赤で、だから僕は、ますます優しく、絶望的な気持ちになった。
本作を原作とする映画の公開にあわせ読む恒例仕草。
映画『さくら』https://twitter.com/pherim/status/1327083649116737538
近作しか読んでなかった西加奈子の初期作『さくら』、物語躍動の底に社会の暗部を敷く読み味の萌芽ぜんぶ入りに驚く。
ぜんぶ入りのため、意図しては絶対つくらないだろうムラが目立ち、編集者目線なら下手ってことになるだろうけどどうみてもそこが本作の魅力だったりする。
父さんは母さんがあんまり太ったから、あんなに燃え上がっていた恋心を忘れてしまったみたいになっていた。父さんのこけた頬は、どこかの底なし沼みたいにどろりと濁っていて、一度それをじいっと見つめると、そのまま足をすくわれそうになった。そう、父さんを見ていると、まったく不安で、何も手につかなくなった。 315
というか近作は、初期作の衝動をそのままに分岐させ各々巧緻を研ぎ澄ませる局面なのかとも。というほど読んでいるわけでもないから、今後読むのが楽しみではある。とはいえ、ムラを省いたドストエフスキーとかもう別物でかなりつまらなくなりそうだしね、一筋縄ではいきませんの。
西加奈子『まく子』(よみめも50)
https://tokinoma.pne.jp/diary/3273
『まく子』映画&原作ツイ(ふぃるめも107)
https://twitter.com/pherim/status/1105299196360310785
にしても、西加奈子作品って家族の感動物一本槍では全然ないのにずんずん商業映画化されるあたり、毒はあってこそ“適切な”覆い甲斐も生じるのかなとか。
嘘をつくときは、あんたらも、愛のある嘘をつきなさい。騙してやろうとか、そんな嘘やなしに、自分も苦しい、愛のある、嘘をつきなさいね。
7. 架神恭介 池上英洋 『仁義なき聖書美術【新約篇】』 筑摩書房
なぜか登場人物がみな広島弁893な聖書物語。ヤハウェのおっさんとかマグダラの女やくざマリアとかいちいちウケる。
「すまんの、みんな! わしゃもう行かにゃならん! 最後にあれやるど。おう、仁義!」
イエスが両拳を天に突き上げた。
「じ、仁義!」
舎弟たちも慌てて拳を振り上げた。
イエスは拳を振り上げた姿のまま、するすると天へと昇っていき、それから二度と姿を見せることはなかった。 88
こういう何需要に応えてるのか全くわからない本、メガ書店が次々生まれてた90年代とか大量にありましたよね。と出版年をみると2020年。意味不明すぎる。
ってあれだ、聖書美術の本って一応書いてあった。ハンガリーの画家フェレンツィ・カーロイ(Ferenczy Károly、ドイツ語名:Carl Freund)の『山上の垂訓』(Sermon on the Mountain, 1896)とかは初見な感じでけっこう良かった。
なぜ読む気になったのか忘れたし、どうも旧約篇のほうから読むべきだったっぽいと読後ちょっぴり後悔もしたけれど、カミも元気です。
8. 『セルゲイ・ロズニツァ《群衆》ドキュメンタリー3選 公式ガイドブック』 サニーフィルム
いわゆる映画パンフの括りによる編纂/販売物だけれど、渾身の全116頁。
まず場面写真集+関連資料集としてのグレードが極めて高く、執筆陣は沼野充義、池田嘉郎、田中純とその道の専門研究者に加え、四方田犬彦、佐々木敦、鴻英良らのエッセイが並んで多和田葉子が締めるという贅沢ぶり。
拙稿「“群衆”の鮮烈、沈黙とそのリアル。」
http://www.kirishin.com/2020/11/16/46169/
ロズニツァ3作連ツイ
https://twitter.com/pherim/status/1322013378240372736
映画パンフって、読み物としては割高感やむなしという感覚が醸成されて久しいけれど、だから売れない、売れないから質も低止まりという悪循環が。
で、そういう一般通念化した悪循環って、実物でしか変わらない。その意味でこれだけ気合いが入った内容のものが出ると、この水準を目指す後続の良き模範となり目標となる。そういうことを思いました。
てか田中純とか、藝大時代にガチリスペクトした数少ない書き手のひとりで、その後ものすごく予想外の文脈でリアルに鉢合わせしたひとなんだけど、まさか今の映画文脈でお目見えするとは意外だし、ほんと目のつけどころがシャープだなと。「アウステルリッツ」論書いてるんだね。読まねば。
あとはまぁ、なんだろうね。こうした場に呼ばれるようになったらいいなというのはある。そう感じさせてくれるものは素朴に稀有なのです。
9. 『第33回東京国際映画祭公式プログラム』 公益財団法人ユニジャパン
全150上映作の個別データ&解説を軸とする160頁本。33回目とあってさすがに練られ、見やすい構成。
以下、書き出したら東京国際映画祭体験記になった。
東京国際映画祭日乗1(東京湾景):
https://twitter.com/pherim/status/1326786561254580226
東京国際映画祭自体、これまで一般客として数作鑑賞することはあっても、実は初フル参加でいろいろ新鮮だった。とはいえコロナ特殊開催ということもあり、作品鑑賞のみで式典やレッドカーペットとかQ&Aの類いは結局すべてパスした。期間中の劇場鑑賞は三十数作品。上映全150作といっても、これは小企画物を含めた数字で、中軸となるコンペや特別招待作などは計50作品ほど。うち日本映画を外すと、8割以上は観た感じになる。もし来年の期間集中できる状態なら、この数字をもっと上げても良いかもしれない。
東京国際映画祭日乗2(ケバブ屋台):
https://twitter.com/pherim/status/1323916682662866945
第33回とあるように年数だけは重ねているこの映画祭、しかし国際的な地位はとても低い。TIFFといえば後発のトロント映画祭となるくらいに。けれど実際こうして足を運んでみると、これはこれで若手監督や映画関係者には大事な機会になり得るし、六本木のシネコンを占有して開催される意義の高さが十二分にわかった。というだけでも収穫だろう。
東京国際映画祭日乗3(初日):
https://twitter.com/pherim/status/1322474369533181954
あと、コンペ作品には若手のワールドプレミア(世界初公開)など多く含まれ、これらはまだ編集が研ぎ澄まされていない段階のものが多いのだといまさら気づいた。ふだん観ている海外作品のマスコミ試写は、各地の映画祭後に買い付けられたものだから、勢い編集過程もほぼ完成したものになるんだなとか。(稀に全国公開版でさらに変わることもある)
にしても事ここに至ってさえ、業界人にもなり切れてないこの感じは何度目かなっておもう。そうおもい、思い返されるのは9歳前後のある日曜朝の記憶だったりして、つまりは人生この繰り返しなのかもしれない。
10. 小池百合子 『ふろしきのココロ』 小学館
全頁オールカラー日英併記で、ユリコ風呂敷の良さを語る。図書館入口付近の見せ棚で目に留まり、手にとると香ばしい予感しかせず借りて朝風呂に浸かりつつ読む。
てっきり都知事の文化発信アピ企画かと思ったが、なんと2009年刊行だった。後半は綺羅星のごとき著名人らが登場するのだけれど、オリンピック準備委員会もしれっと混じっていて、しかしそれは2016年開催地立候補へ向けたもの。滝川クリステルの「お・も・て・な・し(はーと)」が2013年。で、著名芸術家らによる風呂敷デザインコーナーには、海老蔵とか熊川哲也、東儀秀樹や川井郁子にまじってきっちり佐野研二郎も入ってる。
ただのちの盗用問題からバイアスかかってみえるのかもしれないけれど、佐野のデザインはコンセプトありきで視覚的にまったく面白味のないデザイナーらしからぬ出来映えで、さもありなんという気はしてしまう。同じコンセプト優位でも福田繁雄とか佐藤可士和とかやっぱ面白いの出してくるし、佐野研二郎の場合コンセプトでカバーしてるだけに思える。東京五輪デザイン盗用事件については東浩紀が以前このケースは盗用と考えないというようなことを言っていて逆に興味をもったけれど、それはたぶん理が先に立ってデザインが組み上がるタイプのデザイナーを前提としていて、佐野研二郎がそれに当たるとは正直思えない。この点たとえば原研哉とか隈研吾などは明確に「それに当た」り、そうした資質は彼らのものすテキストにもきっちり表れる。佐野にはそれがなさげに思える。知らないだけかもしれないけれど。
盗用ということでいえば、キム・カーダシアンによるKIMONOブランドをめぐる文化盗用問題もあったけれど、こういう本が流通する様をみるにつけ、日本人なら日本文化をどう利用しても自由なのかね、とは思う。ノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんが"Mottainai"と出会った機縁は小池百合子であり、ユリコに風呂敷の長所を学んだマータイさんは帰国後世界に風呂敷の素晴らしさを説いて回った、というような一節も登場し、すげーなもうほんと豊かなのねこの世界。
▽コミック・絵本
α. ヤマシタトモコ 『違国日記』 1 祥伝社
両親が急逝して寄る辺を失った高校生女子と、ライトノベル作家であるその伯母とのふたり暮らし。いわゆる“家族”でもない、いわゆる“クィア”でもない、親友ともルームシェアとも異なる半径5mの関係性日乗。創作活動中の伯母のうちに、「ちがう国の女王」の威風をみつつ、手料理に腕をかけたりする姪の、まだ両親の死を受け入れきれない脆さを見守る伯母という距離感の、淡々と埋没できる柔らかさが良い。
旦那衆・姐御衆よりご支援の一冊、感謝。
β. 瀬野反人 『ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~』 2 KADOKAWA
2巻の後半では「冬期の濁流に渡す橋の建設」が話の主軸となる。言語様式のまるで異なる知的生物同士で、どのように知を共有し実践するかがテーマなのだけれど、まぁなんと読んだことないテイストを突き進んでくれるものだなと感心しきり。ここは漫画でしか不可能な表現の味わいがたしかに詰め込まれていて、それは言うまでもなく「言語学」が本作全体に通底する大テーマであることと深く関わる。つまり文章のみによってはあまりにも迂遠なものが、数ページのうちに軽々と達成されてゆくことの快感、とでもいえるか。
気張りすぎず、ゆるく続いてくれたらなと期待。多少ダレても全然良い。とにかく続いてほしい。
『森の奥のつり橋』連ツイ https://twitter.com/pherim/status/1336498762160586753
それとは別に、異種族間での橋の共同建設の過程は、のちにインド北東部ドキュメンタリー『森の奥のつり橋』鑑賞中強烈に想起され。
γ. 山本直樹 『レッド』 8 講談社
山中での怒涛の連続死の鏑矢が放たれる。にしても北(「オヤジさん」)の迷いのなさは何だろう。「本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」から、「敗北主義を総括しきれなかったために自ら死を選んだのだ」へ至る連なりが、実際の誰か生存者の記憶に基づくものなのか、山本直樹の創作なのか現時点では知らないのだけれど、ここで表現されているような精神形質はたしかにあり、それはとりあえず日本人が集団化すると勢いを得てより顕在化する。この意味で最も孤高であり完成された「革命戦士」を体現するかのような彼こそ、実際には最も芯に欠けたノリだけで爆走する奴にも思える。
それとはべつに、本作第一の魅力はやはりディティール再現なのだなと。あふれるフキダシ台詞の「意味」から洩れる仕草や体の描写に本気を感じるというか。洩れると書いたけれど、8巻には拘束された人間が漏らす、股間を濡らすシーンがやたらに多い。その描写に謎の力さえ感じる。これも山本直樹的フェチの一環なのか否か。
今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~
m(_ _)m
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