pherim㌠

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pherim㌠さんの日記

(Web全体に公開)

2021年
05月13日
03:04

よみめも64 1984年と言葉の物

  

 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う



 生きているうちにあと何冊本を読めるのか
 と、考えたことのあるひとは多いと思う。
 
 過去7年ほど記録をとった結果あきらかになったのは、ほとんど読めないというリアルである。にもかかわらずバンコク宅だけで千冊近い未読本を抱えていた。日本(実家)には数千冊。すべて読み通す気で入手したのではないにしても、バカげている。

 立花隆が同じことを考えて文藝春秋を辞めたときの文章を、学生の頃に読んだ。彼の退社時の年齢を、もしかしたらぼくはすでに越えているのかもしれない。当時の自分にとって未来とは茫漠としてまるで像を結ばない何かに過ぎず、まさかこれほどに無知無読のまま、倍の歳月を重ねてしまうとは。無念の極み。
 
 というわけで、これまで毎度《よみめも》冒頭に掲げてきた三箇条の三番目「・くだらないと切り捨ててきた本こそ用心」を削除します。気晴らしに手にとることはあっても、“敢えて”の読み通す試みは控えとう。第三項目、代わりに今後何か加えるかもしれない。加えないかもしれない。


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後の読書メモ置き場です。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
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1. ミシェル・フーコー 『言葉と物』 渡辺一民 佐々木明訳 新潮社 
 
 人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらい予想できるにしても、()そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと。 454


 訳注込みの日本語訳で二段組500ページに及ぶフーコーの主著は、こうして近い将来訪れるだろう「人間の終わり」を予言し本論を閉じる。
 
 そもここでいう「人間」はその始まりが19世紀前半にしか遡らず、ルネサンス以降のよくいう近代的自我の発生さえこれに比すれば古めかしい。なるほど『監獄の誕生』(ふぃるめも60)における探求のあの論理的な執拗さも、その前段に言葉をめぐるこの思考の緻密さがあり、緻密さの果てに行き着いた「消滅」以後への模索がその基底を成すと考えるなら合点がゆく。たとえば1975年刊行の『監獄の誕生』には
 
 《感受性》へのこうした依存()には実際、一種の計算が含まれているのである。()犯罪者が内部に隠しているかもしれぬ奥底の人間性に存するのではなく、権力のみちびく諸結果の必然的な適正化に存している。この《経済的合理性》こそが、刑罰の尺度となるべきであり、それの整備された技術を定めるべきだというのである。 105(『監獄の誕生』よみめも60 https://tokinoma.pne.jp/diary/3932
 
とあるが、これより9年前1966年の著『言葉と物』における経済学への(生物学・言語と並ぶ)焦点化を前提すれば、話はよりクリアになる。というか本論部か脚注でかは忘れたけれど、『言葉と物』内には「俺の本はすべて続き物として書いてるぜ」との言があり、時系列で読むべきだったかともいまさらおもう。哲学思想書は自分の場合、哲学的に受けとるより文学として読むほうが向いているという自覚はすでにあったのだから、初めに5巻を読んで次に3巻を読むような所業は控えるべきだったのだ。整備された技術を定めるべきだというのである。

 語は、思考をその外側の面でなぞる薄膜を形成するのではない。語は思考を想起させ、思考を指し示すが、それはまず内側に向ってであり、他の表象を表象するあのすべての表象のあいだにおいてなのだ。古典主義時代の言語[ルビ:ランガージュ]は、それが顕示する任務をおびている思考にたいして、ふつう考えられているよりはるかに近いところにある。 109

 「古典主義時代」のエピステーメーを語る具材としてフーコーが持ち出すのはベラスケス『ラス・メニーナス』(侍女たち)[1656]であり、セルバンテス『ドン・キホーテ』[1605-15]の内にその破れを見いだしてゆく。

 こうして、太陽が鰐であり、神が世界を監視する眼であるという迷信が生れ、同様に、隠喩(メタフォール)を代々つたえる人々(僧侶)のあいだに秘教的な知が誕生する。さらに、言説の寓意(もっとも古い文学にあれほどしばしば見られる)が、そして、知とは類似を認識することだという錯覚が、生れるのである。 146

 世界を監視する眼。パノプティコンの空なる中心。ラス・メニーナスの俯瞰する唯一不可視の目線。『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』。「向こうにはカオダイ教というのがあって、これのご神体が目玉なんです。至純、至大、至尊なる大いなるものがお前を眺めているぞ()という、『一九八四年』のスローガンそのままなので、ギョッとなったことがあったね。」(開高健「G・オーウェルをめぐって」本稿ふぃるめも64第8項↓) ところで「カオダイ教のご神体」は一つ目のキュクロープスであって、これは人間よりも街なかの監視レンズに親しく『一九八四年』的だと実は言える。いま気づいた。

 てかね、ディストピア監視都市をドラえもんと仲間たちが戦車で滑空する藤子不二雄の原作漫画、1984年発表だったのかよ。1984年。そうだったのか。そうつながるのか個の幼き記憶にね。ガチ慄える。



 共時的連続性と通時的非連続性。
 
 『ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』の公開コロナ延期中に読み終えた『言葉と物』。所有するこの日本語版へこの2021年春捺された刻印について、いずれどこかでひとへ向け書くことはあるのだろうか。それこそが極私的には恐らく本書をめぐる経験の核心なのだけれど、今は書きかたさえわからない。どうやら藤子不二雄は神だったという、言葉にすればいまさらの。
 以下、箇条書きにて引用メモ羅列。
  
 したがって言語[ランガージュ]は、人間が築きあげたものではなく、人間が受けとったものと想像すべきだというのである。 140 (ルソー『人間不平等起源論』中の「いかなる言語[ラング]も人々のあいだの同意にもとづくものではありえない」という考えに引きつけて)

 人間が。

 キュビエ以後、類別の外部的可能性を基礎づけるのは、それのもつ知覚しえぬもの、純粋に機能的なものにおける生命なのである。秩序の大きな連続面のうえには、もはや生きることのできるものという分類階級はない。()こうして《タクシノミア》(pherim注:冒頭画像中央の四辺形図)の企ては消滅する。()こうして、自然に関する一般的学問の地盤と基礎としての、秩序の探求は消滅する。こうして、「自然」は消滅するのである。 315
 
 畳み懸ける消滅の。
 
 生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえぬということ、それこそサドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を枯渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。()
 しかし、不安な夜の諸力を担う想像上のこの動物性のあり方は、十九世紀の思考のなかで、生命の多様で同時的な諸機能とより深いところにおいてかかわっている。()たんなる存在は生命の非存在である。というのは、生命は、それゆえに十九世紀の思考において根源的価値を持つのであるが、存在の核であると同時に非存在の核だからなのだ。()つまり生命の経験は野生の存在論として機能するわけで、それは存在と非存在が諸存在すべてから分離しえぬものだと語ろうとつとめるにちがいない。 327


 不安な夜の。

 言語[ランガージュ]の水平化にたいするもっとも重要な、またもっとも思いがけない最後の代償は、文学の出現である。つまり、現にあるようなかたちでの文学のことだ。というのは、ダンテ以来、いやホメロス以来、まさしく西欧世界には、今日われわれが「文学」と呼んでいる言語の一形態が実在してきた。しかし「文学」という語は、新しい日づけを持つものであって、それはちょうど、われわれの文化のなかで、その固有の様相が「文学的」であることにほかならぬ独異な言語の分離が、最近のことであるのと同断である。つまり、十九世紀のはじめ、言語が客体としての厚みをもつにいたり、はしからはしまでひとつの知によってつらぬかれた時代に、言語は他の場所で、その誕生の謎に折りかさなり、書くという純粋行為に完全に依拠する、近よりがたい独立した形態のもとに再構成された。文学、それこそ文献学(とはいえ文学はその双生の形象である)にたいする異議申し立てであって、文学は言語を文法から話すというむきだしの力につれもどし、そこで野生の傲然たる語の存在[エートル]に出会うのだ。みずからの儀式のなかで不動化された言説[ディスクール]にたいするロマン派の反抗から、マラルメによる無力な力のなかにおける語の発見まで、十九世紀において、言語の近代的存在様態との関係における文学の機能とは何であったか、そこに読みとることができるであろう。それ以外のものは、このような本質的仕組みを基礎とした結果にすぎぬ。文学は、しだいに観念的な言説から区別され、根源的な自己完結性のなかに閉じこもる。それは、古典主義時代に文学を流通させえたすべての価値(趣味、快楽、自然さ、真実)から身をひきはなし、それ固有の空間に、遊戯としての否認を保証しうるすべてのもの(破廉恥なもの、醜いもの、不可能なもの)を誕生させる。文学は、表象の秩序に合致させられた形態としての「ジャンル」のどのような定義とも縁を切り、みずからの峻険な実在を――あらゆる他の言説と対立して――肯定する以外の法則をもたぬ、そのような言語の純然たる顕現となる。そのとき文学は、その言説がそれ固有の形式を語る以外の内容を持ちえないかのように、もはやたえざる自己反省のうちにそれ自身に回帰するほかない。つまり文学は、書く主観として自己にむかうか、文学を生みだす運動のなかで文学というものの本質を奪回しようとこころみるか、そのいずれかなのだ。こうして、そのあらゆる糸は、もっとも鋭い尖端――独異で瞬時的な、しかもともかく絶対に普遍的な――書くという単純な行為にむかって収斂する。いわゆる言葉[パロール]としての言語が認識の客体となるとき、言語は、まったく反対の様相のもとに、白紙のうえに沈黙のうちに用心ぶかく語をおく行為としてふたたび姿をあらわすのだ。そこでは言語は音声も対話者も持たない。自己以外語るべき何ものも、その存在の閃光のなかできらめく以外なすべき何ものも、持たないのである。 352-3

 野生。

 


2. 三木健 『聞書西表炭鉱』 三一書房

 西表島の炭鉱をめぐる一般書は幾つかあるけれど、西表炭鉱を知るために不可欠の必読書筆頭は紛れもなく本書といえる。それだけでも意義深い一書だが、映画『緑の牢獄』を生んだことでその価値をさらに増した感がある。炭鉱の直接関係者らのみならず、炭鉱集落の白浜へ赴任した警官や当時の子供視点から証言する住人など聞き書きの対象が多彩かつバランスも絶妙である点は殊に秀逸。

 それはそうと必読書と見込んで購入するも、数年は積ん読になりそうだなという諦念とともに風景化する本のなかに、ふとしたきっかけから読みだすものが生じる。そのきっかけが映画となる、この数年“稀によくある”ケースが本著なのだけれど、まさか西表炭坑を主題とする映画が直近で撮られるとは予想もしてなかったし、自分より歳下の台湾人青年による監督作に導かれるとか、想像しろというほうが無理である。

  『緑の牢獄』監督・黄インイクさんによるpherimツイート引用RTへのリプ:
  https://twitter.com/pherim/status/1386167471548162050


 で、自身の西表炭坑との“出会い”の前触れのみ、↑ツイートにものしてみた。実はこの出会いのあと、学生pherimはなにかに憑かれたように定期船で石垣島の図書館(一帯における中央図書館的規模)へと渡り、一日がかりで地誌コーナーを漁り、西表島森奥に眠る「近代」の暗部を察知するに至って、夕方の船で西表島へと帰り着いた。
 
  21歳時、西表島滞在ツイート(伊志嶺隆/《琉球弧の写真》展@東京都写真美術館連ツイ)
  https://twitter.com/pherim/status/1334105653921546242


 ここから先、というか時系列の記憶もすでにあやふやなのだけど、「なにかに憑かれたように」というより、憑かれていた、らしい。ということを、当時は霊感の類があると自認もしていた同行者女子には後日指摘も受けたのだけれど、端的に言えば生涯で唯一の幽霊遭遇体験がこの西表島滞在時に起きて、けれどこういうことは素の文脈で言ったり書いたりするのは「あ、そういう人なのね……」という枠組みに放り込まれることを意味するだけなので、かなり限定的な関係性のなかでしか言って来なかった。
 
 この《よみめも》を実際に読むひとというのもそれなりに「限定的」ではあれ、まぁ見方を変えてしまうひとはふつうに出るだろう。だから一応付記しておけば、これは嘘の話なのだよ文脈上、当然そう言うことになる。ただもう一つ書き付けておくなら“それ”は女性で、怪談とかホラー映画のような怖さはまったく生じず、視覚よりも触覚性が幅を占める体験だったこと。口唇的かつ内蔵的。

 三木健『聞書西表炭鉱』を読むあいだ、つねに念頭にあったこの体験記憶はしかし、言うまでもなく本著の内容と直接の関係はない。ただこうして一個の人間のうちのみに生起する連なりが固有の律動を生み、ひとつの語りとなって他の誰かのなにかを導くということもあるのかもしれないとか。たぶんそんな感じも込みでここに書き留めておく。

 次項『緑の牢獄』はその出発点を全面的に本著へ依拠したものになっていて、そもタイトルの「緑の牢獄」からして本著『聞書西表炭鉱』に登場する同一語句から採られている。映画『緑の牢獄』主人公・橋間良子さんの養父・楊添福への「聞書」も収録。まぁなんにせよ、積ん読消化の背を後押ししてくれるありがたさよ。いやそんなつまらない話で落とすのも微妙ですけど。
 
 
 

3. 黄インイク 『緑の牢獄 沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』 黒木夏兒訳 五月書房新社

  拙稿「島奥のかそけき呼び声 『緑の牢獄』」
  http://www.kirishin.com/2021/04/20/48331/

 
 本書内容への直接言及も上記拙稿でかなりしたので、基本はそちらへ譲るとして。映画ではその気配が感覚されず本書で重きを為す人物の一人として、監督らとチームを組んで西表炭鉱のリサーチにあたった「沖縄本島の日本人学生」の存在が興味深い。

 当事者性の(過剰に)叫ばれる今日、炭鉱の性質それ自体が収奪と搾取をその発端から伴う以上、これを主題とする表現作品はなんであれ誰か何某かの加害性ないし被害性が前景化されざるを得ない。もしこの日本人青年がいなかったら、台湾人監督による西表炭坑テーマの映画は勢い、監督の企図とはおよそ無関係に「被害者視点」への強い傾斜を抱えることになったろう。したがってこの意味では、この青年の存在は本書の構成上も不可欠のキャラクターとして機能しており、著者=監督・黄インイクの誠実さ卓越さはそうした配置の巧みさからも読み取られる。
 
 正直監督インタビューを申し込もうと何度か思ったし、申し込めば実現もしたように推測するけれど結局思い留まった。それは時節柄Zoomインタビューになってしまう可能性を感じたから(それ自体に取材上の不都合はなく、単に体験としてそれで初対面を終える、「話したことがある」とするのは勿体ない気がなぜかする)でもあるし、次作を含む今後の方向性が明確である以上、次の機会とするほうが吉とでる要素も多いかもと考えたゆえだけれど、そういうことを言ってるうちに諸々変容しゆく世の無常を甘くみるのも危ういので次の機会には行こうとおもう。
 なんなら八重山とか再訪しとう。




4. アフマド・サアダーウィー 『バグダードのフランケンシュタイン』 集英社

 彼はこの脇道があまりにも長く、また灯もないということに気づいた。驚くほどの闇の深さであったが、恐ろしさや怖さはなかった。長い経験から彼は、実際には知らないことであっても、知ったふりをするのに慣れていた。そしてたいていの場合、彼の見込みは正しく、最終的には帳尻が合ったのである。だから、自分が何かを語るときに、その真実を見抜いたとただ言い張っているのか、本当に見抜いているのか、彼にはもうよくわからなかった。
 彼は知っていた。あるいは、知っていると思い込んでいた。今夜、何が起きるのかを。 354


 米軍進駐下のイラクで、爆弾テロが生んだバラバラ死体から一部を拾われ完成された「フランケンシュタイン」に魂が宿り、イラク新政府上層部やCIAを巻き込んで夜ごとバグダード市中を暗闘する社会派ダークSF。
 
 とにかくバグダード生活者めぐる細部描写が生き生きとして良い。注もなく大量に視界を通り過ぎるカタカタ語の多くは意味不明でも、勢いがあるため全体として活きてくる。古物屋、不動産屋、ホテル経営者など、混乱のさなか個人の裁量で欲まみれに生き延びる切なくも醜い中年男たち。

 マフムードはサイーディーの説得と彼の実際のイデオロギーについて、正確で具体的なイメージを掴もうと試みたが、何一つ見つけ出すことができなかった。彼は空っぽの水路のようなもので、きらめくような思想や珍しい状況がそこを流れはしても、全く定まった顔のない人間であった。 383
 
 生々しくどぎつい情念かかえギラッギラに欲望ほとばしる親父たちは、個々に確とした固有名をもつ一方で、各々にバグダードの現在を象徴的に分有し、部分の集合であり名を持たないフランケンシュタインにもましてある瞬間、空虚と化す。本作に通底する怖さがあるとすればその由来は明らかに、正体不明の暗殺者ではなく顕名の親父たちが見せる顔なき顔のほうであり、言うまでもなくその虚無は癒えぬイラク戦争の傷痕に通じている。
 
 ともあれ、この数年で「中東物映画をよく観る日本人ランク」で 上位0.001%くらいにはふつうに入ってそうだけれど、中東文学には滅法疎いことに気づいた。文句なしに面白いあまり、クライマックスへの途上まで読み進んだ段階で《イスラーム映画祭》主催の藤本高之さんと会場に挨拶した際、思わず薦めてしまった。弘法に筆を薦める愚行だけれど、未読だったそうなのでぎりセーフ。としておく。
 
 空に雷鳴が轟き、ついに雨が降り出した。雨を避けて人々は家に向かって駆けだしていく。祝祭の音楽も皆の声も途絶えてしまった。雨音だけが残り、激しさを増していく。
 男はかがんで猫をやさしく撫でた。ほとんど毛が抜け落ちた老いた身体をさすってやる。男は猫と楽しそうにじゃれ続けている。まるで、親友同士のようだった。 389

 



5. 劉慈欣 『三体 Ⅱ 黒暗森林 上』 大森望 立原透耶 上原かおり 泊功訳 早川書房

 中国四千年、みたいな物言いはドラゴンボールやラーメンマンを突き抜け江戸の三国志水滸伝人気へも連なって、若干の茶化しも込みで延々言い古されてきたろうけど、当事者がこれを内面化のうえ作品へと対象化させ切る典型の一つとして、その長尺の時間軸を未来へ反転させる方向性は当然生じる。『三体』の途方も無い時空間スケールはまさにその極北で、本作の凄味はしかしそうした大風呂敷の広さではなく内実のほうにあるのだとわからせるのが「Ⅱ」の使命だし、使命を十全と成し遂げたからこその画期作なのだと把握。
 
 まぁなんか、無限に二次創作可能な奥行きありますよね。面壁者となった元ベネズエラ大統領の来し方とか、ペドロ・パスカル主演でやらんかねとふりっくす。



 考え始めたとたん、羅輯は思考がすでに進行していることに気づいて驚いた。中学のとき、国語のテストを受けるコツを教師に教わったことがある。まず最初に、テストのいちばん最後にある作文問題に目を通し、それから最初に戻って順番に解答してゆく。そうすれば、解答しているあいだに、潜在意識が作文問題を考えることができる。コンピュータのバックグラウンド処理みたいなものだ、と。いまわかった、。面壁者になった瞬間から思考がスタートしていて、停止したことは一度もなかった。ただ、すべての思考は潜在意識下で行われ、自分でもそれに気づいていなかったのだ。 284
 
  


6. 鳥井一平 『国家と移民 外国人労働者と日本の未来』 集英社新書

 この数年しばしば報道にも載りながら改善の兆候がない技能実習制度や東京拘置所まわりの騒動、「純日本的移民問題」や「純日本的外国人労働」をめぐる諸相が稀有の視点から語り通される一著。
 
 つい最近まで一応はバンコクで外国人労働者をやっていた自分からみると、日本語文脈における「外国人労働」はそのまま「ガイジン」概念の奇特さにも連なる固有の画域を有している。日本国籍をもっていようと黒人や白人は「ガイジン」だと自明視されるのに似て、《「外国人労働」が「日本人労働」と同一労働同一賃金なのは当然》という感覚を共有できる日本人は、層としては恐らく存在しない。

 それゆえ本書が冒頭で、本来は「移住労働者」と呼んだほうがいい(p14)としながら人口に膾炙した「外国人労働者」の語を使うとする点からまず共感を覚える。とはいえ末尾で、日本の奴隷労働へ抗うヒーローとして米国国務長官から表彰されるくだりが冗長気味に詳述される点は、世代の差なのか若干の権威主義的な志向性を感じなくもない。(オバマ政権時だしいいのかなという極私見)
 
  『海辺の彼女たち』 https://twitter.com/pherim/status/1386895322585001992
  
 技能実習生として来日し、北国の港町で不法就労者となるベトナム人女性3人を描く『海辺の彼女たち』へ引きつけ近日一文をものす可能性あり。


 あと大事な一点を追記しておくと、↑第3項でも言及した拙稿「島奥のかそけき呼び声 『緑の牢獄』」(http://www.kirishin.com/2021/04/20/48331/)後半で筆者pherimは下記のように述べている。
  
 近代世界が炭鉱窟の深部で目指したむき出しの生をめぐる権力構造は、むしろ情報技術の革新により、この21世紀現在さらに全面化し、地底を離れ完成へと日々近づいている。 

 本当にね、すぐに見つかってしまうから現実世界は素早くも恐ろしう。技能実習候補生から、日本の中小企業社長が「この子とこの子」と好みで選んで日本に来たらパスポートも取り上げたうえ性交を要求するみたいな本書に登場する光景も、実際はまぁありふれた事態なのだろうとは想像に難くない。バンコクでその予備軍は日常的に目にしていたからね。この再生産工程のグロテスクなる展開。
 



7. 東京今昔研究会 『東京今昔橋めぐり』 ミリオン出版

 いまは平板でありふれた車道橋の名が「たいこばし」で昔は弧状の木橋だった、みたいなケースはよくあるし、関東大震災でごつい鉄橋に入れ替わったというのも東京圏では定番だけれど、昔のほうが堅牢そうに見える橋が意外に多いのは極私的発見だった。たとえばお茶の水橋とか吾妻橋、アメリカ橋(恵比寿南橋)など。鉄鋼トラス橋のがっしりした感じは個人的にとても好きなんだけど、昔はわりと多くて要するに飽きられたんだなとも。両国橋もその一例だけれど、昔は二州橋と言ったとか、なるほどなぁ。(武州~総州→武蔵国~下総国)

 勝鬨橋の「勝鬨」って旅順戦勝祝いがきっかけとか、万世橋のたもとに残っている機械室&船着き場は地下鉄工事用だったとか、説明されて初めて由来を考えたことがなかった不思議に気づくなど。
  
 よくインフラの耐久限界みたいなことが日本経済の失速と併せ語られるけど、工法の進化とコスト計算の厳格化に美観の軽視が加わって、誰からも見向きもされない凡庸な橋に架け替わる。防潮堤の無惨に鑑みても、そういうケースは今後全国レベルで支配的な潮流になるんだろうな。殺風景化する日本。少子化でさえ明確に予言された数十年前から徹底した無策に終わった国なので、こんなものは確実に現実化してしまう。いまのうちに渡っとけ、って話ですの。
 
  


8. ジョージ・オーウェル 『動物農場: 付「G・オーウェルをめぐって」』 開高健訳 ちくま文庫

 この話を聞いたあとで、私はまた外国へいき、ある市の安宿で夜ふけに眼をさました。ぶどう酒のぽってりとして緩慢な残酔でまぶたや頬がふくらんでいて、けだるかった。『壁にナンキン虫を潰さないでください』と書いた古い紙の下に褐色の血の跡が幾条もあり、裸電球がそれを砂漠の川のように照していた。階上の部屋で流した水が図太く咽喉を鳴らしながら壁のなかを落ちていく。眼光鋭い、菊の花を育てていた老人のことを考えようとしたが、もうそこに緑いろの穴がきていて、私は安堵しつつすべりこんでいった。 175

 本編は後半の開高健によるエッセイや談話からなる4章。訳文については、村上春樹ほど特色があるのでもなく、既存訳との読み味の違いを堪能しつつ読むことはできなかった。本項で言及するのはすべて開高健による文章箇所。

 党員はときに戦争自体がでっちあげだったり、全く発生していなかったり、あるいは開戦されても、宣戦布告のそれとは全く異る目的のために開戦したのだということに気がつくが、けれど同時に、オセアニアが全世界の盟主としてかならず勝利を収めるのだという神話的な信念は微動だにしないのである。 215
 
 ベトナム戦争取材中、切り取られたベトコン隊長の首わきに置かれた紙切れには目玉の絵とともに、ベトナム語でこう書かれていたという。“Big brother watching you.”(158)
 
 向こうにはカオダイ教というのがあって、これのご神体が目玉なんです。至純、至大、至尊なる大いなるものがお前を眺めているぞ、だから生活身辺、精神生活に気をつけろ、というんですが、その目玉という連想も誘うのですが、セリフが「偉大なる兄弟がお前を眺めているぞ」という、『一九八四年』のスローガンそのままなので、ギョッとなったことがあったね。 158

 カオダイ教総本山(南ベトナム)訪問時ツイ https://twitter.com/pherim/status/439721332385665025

 あの大目玉、開高健も見に行ってたんだ。というささやかな喜び。自分の場合サイゴンの英語ガイド付き格安バスツアーでたまたま見つけた、から行ってみたに過ぎないのだけれど。以下覚え書き。

 アイヒマン裁判を傍聴しに行き、エルサレムの映画館の上の鶏小屋のような部屋で寝起きした(165)
 日本人の中国人観 by 魯迅 (172)
 『象を撃つ』評(176-7)
 
 統治は効率の問題ではありますが、同時に必要悪としてかならずなんらかの抑圧、禁制、切断をもたらさずにはいられないのですから、それを自然なるものへの叛逆、挑戦と考えれば、ヒトが二本足で地表に立ち上がって二本の手を解放した瞬間のエネルギーの解放量の膨大さは無類のものであり、以後に続く無数のスローガンによる無数の革命のどれひとつとしてこれをしのげるものはあるまいと思われます。そのときの闇のなかでの爆発がいまだに継起しつづけていて、およそ一瞬としてやむことがない。文学が政治を問うときは権力とは何かを問うことから始まりますが、同時に、常にそれは自然なるものを問う。 268




9. ジョージ・オーウェル 『動物農場』 高畠文夫訳 角川文庫

 短編『象を撃つ』所収と、開高健の随筆「24金の率直―オーウェル瞥見―」が本書の白眉。他にもオーウェル短編「絞首刑」「貧しいものの最期」収録。
 
 『象を撃つ』はいま沸騰中のミャンマーが舞台。イートン校卒でオックスフォードにもケンブリッジにも進めたろうエリート路線を外れ、英領ビルマでインド警察へ所属した体験に基づく一文。ミャンマーはもっぱら東南アジア文脈で語られがちなので、当時のビルマがイギリス領インド帝国だったことの後世=現代への影響というのは忘れられがちだが重要な観点。ベンガル分割やバングラデシュとのロヒンギャめぐる交接、ミャンマー国内での民族問題にも直に影響しておりますゆえ。
 
 『象を撃つ』を激賞する開高健の文章は前項ちくま文庫所収だったりしてややこしい。が、併せて読めば『動物農場』まわりの諸事情は概ね抑えられる観。高畠文夫解説により、味わい深い(主観性の強い)開高健の文章が客体化されるおまけつき。

 時の流行りにのり対フランコ戦線へ身を投じるも、主力の共産党閥から敬遠された結果が『動物農場』『1984年』の発生へつながるくだりは面白い。理想に燃えたけど、見えた現実は予想と違ってた、みたいな。




10. ジョージ・オーウェル 『動物農場 〔新訳版〕』 山形浩生訳 早川書房

 本文訳より、オーウェルによる『動物農場』序文案とウクライナ語版への序文訳に価値を感じる一冊。
 山形浩生訳は同時代文学ならともかく、論理的に正しくてもいわゆる文豪の枯色みたいなものを削ぐ感ある。助詞の使い分けとか些末な好みレベルの話として。

 イギリスの知識人、少なくともその大半は、ソ連に対するナショナリズム的な忠誠心を発達させて、スターリンの叡智をいささかでも疑問視するのが一種の冒瀆だと内心で感じていたのだ。ロシアでの出来事、その他の場所での出来事は、別の基準で判断されるべきだということになる。一九三六年から三八年の粛清における果てしない処刑について、生涯にわたる死刑反対論者たちが絶賛したし、インドでの飢餓は公表しても、それがウクライナで起きたら隠すのが同じく適切なことだと考えられた。そして戦前にそうだったとすれば、現在の知的雰囲気だってまちがいなくちっとも改善していない。 165
 
 前者『動物農場』序文案は、出版当時の世潮への恨みつらみ満載な皮肉が連なるなかで、ホロドモール(ウクライナ大飢饉)への言及が飛び出て「おっ」と目を引かれた。映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』は、このホロドモールの告発記事から『動物農場』を構想するオーウェルが語り手となっている。「現在の知的雰囲気だってまちがいなく」の雰囲気を空気に入れ換えれば、今日の日本におけるリベラル自認勢のコロナ大政翼賛ぶりにもそのまま通じる残念感。

  『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』 https://twitter.com/pherim/status/1293741535620558849

 後者「ウクライナ語版への序文」は、ソ連内ウクライナの出版物でなく(当然ながら発禁書)、大戦直後の占領下ドイツにあったウクライナ人難民キャンプでの刊行向けだったが、2000部が頒布されると、残り1500部をなんと米軍が回収しソ連へ引き渡したという。(196) それから数年をまたず裏でCIAが動き『動物農場』がアニメ化されたことを思えば、日本で無前提に善とされがちな文学や音楽美術など「芸術の政治的中立性」がそれ自体いかにお寒い勘違いもしくは洗脳の上に成り立っているかがわかる。頭の悪さに開き直ってどうするという話。



  アニメ『動物農場』(1954) https://twitter.com/pherim/status/1314887578772885504
  『動物農場』出資主CIAとラスト改変 https://twitter.com/pherim/status/1317465915315744768





▽コミック・絵本

α. 三部けい 『僕だけがいない街』 1-9完結 角川書店

 サイコパスによる連続殺人事件を軸とする抜き差しならないタイムリープ展開と、鋭い描線の強さの合致する本作。良い落とし所へ着地した8巻のあとに続く外伝9巻もまた読み応えあり。貧困層母子家庭の平屋住居で繰り広げられる児童虐待など痛々しいほどリアリスティックで、この作者の表現を動機づける核もどうやらこのあたりにありそうな。(1-2巻/3-4巻:よみめも19/24)
 
 旦那衆・姐御衆よりご支援の九冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




β. ONE 『モブサイコ』 1-16完結 小学館

 タイでの生活中、ニコ動を通じた作者デビュー作『ワンパンマン』アニメ版に受けた衝撃から流れでアニメ『モブサイコ』も観ていたので、前半部のあらすじは知った状態で読みだしたがふつうにマンガのほうが面白い。幽霊部へ勧誘されるとはいえ冴えない帰宅部少年という設定と動きの少ない描線の醸す奥行きのなさに対して、時折疾走する主人公の思考の抽象度が高すぎてギャップが新鮮というか、アニメ表現では難しいことをしている感。
 
 後半は記憶にないなと思いつつ読み終えたが、アニメ第2期が2019年にあったらしい。いずれまとめて観る気がする。楽しみ。

 旦那衆・姐御衆よりご支援の16冊、感謝。[→ https://amzn.to/317mELV ]




γ. 原泰久 『キングダム』 1-13 集英社

 『キングダム』なるものが流行っているらしいと意識の端には引っかかりつつ、韓流ドラマ『キングダム』との区別さえ正直ついてなかったのだけれど、先日会った古い友人が唯一ガン推ししてきた漫画が本作だったのもあり、所用で泊まった宿にたまたま本作が置いてあったのもあって読みだす。読みだしたらこれはびっくり。
 
 戦乱物ってジャンル自体が進化してるんだなとも予感する。前回よみめもで挙げた『新九郎、奔る!』や『レイリ』はゆうきまさみと岩明均って超ビッグネームのせいで気づかなかったけれど、たとえば横山光輝『三国志』あっての『蒼天航路』でその逆はあり得ないように、『蒼天航路』以後の戦乱マンガがそれ以前のことをしたところでもう読まれない。
 
 『天地を喰らう』でコケてしまった本宮ひろ志は『赤龍王』(『項羽と劉邦』下敷き)で突き抜けた感あったけれど、もしかしたらこれを今くり返されてもなという不安があったのかもしれない。余談だけれど『赤龍王』は少年ジャンプで『キングダム』はヤングジャンプなのね。エログロ度からいえば逆なあたり、現代も移りゆきますの。

 戦術描写や中華の外に住まう「山海の民」の存在感などグッとくる長所多いうえ、下調べの深度が半端ないことも何気ない一コマから窺われて読み応えある。若い時分の王騎の上官としてちょっとだけ登場する白起とか、一コマだけ描写される趙の「胡服斉射」とか。
 宿を離れてしまったのでつづきがいつ読めるか不明だけれど、いづれの楽しみまたひとつ。



 
δ. 松本直也 『怪獣8号』 1,2 集英社

 台風や地震などリアルに馴染みある自然災害と同列の現象として、怪獣が街を襲う日常世界。進撃の巨人やエヴァの「日常系」バージョンみたいなノリに、パトレイバーや呪術廻戦の隊内・教室内人間模様を絡めてかつ描線明瞭な画が無茶苦茶良い。これは今後のミリオンヒット確実だと漫画読み素人にも確信できる逸品。

 前項『キングダム』同様の宿読み作品だけれど、この2冊だけスタッフのオススメタグが付されていて、まぁそうだよね、このグレードでこの低知名度(21年4月現時点)は、奨めたくなるよねとぞ。
 
 



 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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