pherim

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pherimさんの日記

(Web全体に公開)

2021年
08月31日
23:56

よみめも66 お日さまとパレルモ

 


 ・メモは十冊ごと
 ・通読した本のみ扱う
 ・再読だいじ


 ※書評とか推薦でなく、バンコク移住後に始めた読書メモ置き場です。青灰字は主に引用部、末尾数字は引用元ページ数、()は(略)の意。よろしければご支援をお願いします。
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1. 田村隆一 『詩集 1999』 集英社

 タクシーに乗って運転手さんに墓参の帰りだと云ったら
 鎌倉から東京まで寺参りというのは珍らしいですよ
 だってさ

 それなら死んだ真似をしてやろうと
 朝食後一時間 昼食後一時間 夜は十時から朝まで八時間
 「死ぬのはいつでもいいが」と新潟小千谷の大詩人が呟いていたっけ
 「地球と別れるのは少し淋しいな」

 夢はきまって居酒屋で
 死んだ仲間にはなかなか会えない
 女性も出てこない ただ
 酔って偶然出会った酒飲みとクダをまくだけ
 宿屋にも行き所がなくなって泊ることがあるが
 その場所も宿の名前も知らないものばかり 53-5


 
 田村隆一の詩は以前、現代詩文庫を図書館で借りのち気に入って購入、手元にある。当時のよみめもタイトルに採用した「立棺」の語はその収録詩題だった。

 「よみめも48 立棺に貞く」https://tokinoma.pne.jp/diary/3162


 青年のときは
 軍国主義の合掌に耳をふさいで
 死んだふりをしていればよかったが
 老人年金をもらうようになってからは
 生きているふりをしなければならない

 八月が近づいてくると
 どうしても十五日の正午が浮んでくる
 夏至をすぎると
 人間の影がすこしずつ長くなる 57-8


 戦争の悲惨さ響き、高度経済成長の世知辛さ降り注ぐそれはどうみても戦前生まれの詩人というイメージだったから、1999年と題された20世紀末刊行の新作詩集があるという時点で新鮮だったけれど、年齢や履歴を調べる前に読み終えた。そのほうが先入観なしに味わえると考えたからだけど、以前とはずいぶんと印象が違ってやや驚く。

 冬のあいだ
 白隠の描いた達磨の
 巨大な眼 宇宙を思わせる無重力の世界で
 ぼくは浮遊しつづけた
 皮膚と骨 それに
 心という厄介なものさえなかったら
 もっと愉しく遊べただろう

 ()

 アインシュタインよ どうして
 十六歳の美少女と恋愛しなかったのだ
 彼女の陰毛の下に 核分裂と融合の
 化学方程式を薔薇の形で刺青にしておけば
 二十世紀は灰にならずにすんだのに 28-33


 そこで現代詩文庫を開いてみると、やはり言葉遣いからしてけっこう違う。それに装丁や使用される活字体の違いもブーストされ読み味の差はさらに拡大。この格差の隙間に長大なる“戦後”の気配。

 ギリシャ神話では
 アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき
 ゼウスは蟻をその住民に変えたという
 さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
 人間の世紀末
 1999 

  
 1923年生まれ。本書は1998年5月刊行で、同年8月没。昭和を丸ごと生き通した詩人の一生って、いったいどんなものなんだろう。
 

 ネパールの草原で月は東に陽は西に
 その平安にみちた光景には
 心を奪われたくせに
 「美しい断崖」にはなってくれない
 きっとぼくの眼は
 肉眼になっていないのだ
 ただ視力だけで七十年以上も地上を歩いてきたのにちがいない
 まず熱性の秘密を探ること
 腐敗性物質という肉体のおだやかな解体を知ること

 愛が生れるのはその瞬間である 9





2. カズオ・イシグロ 『クララとお日さま』 早川書房

 お日さまは親切な方です。でも、同時にとても忙しい方であるのは、わたしにもわかります。助けを求める人はジョジーのほかにも大勢いるでしょうから、いくらお日さまでも見逃すことがあるかもしれません。

 すでに読み通してから3,4ヶ月たっている。同じころ読んだ『ザリガニの鳴くところ』があまりにも良かったため、物理的にはより重厚な本作の印象が、相対的にはかなり霞む。それでも『三体』は同時期に途中で止まったことを考えれば、のめり込んだのは間違いない。

  ディーリア・オーエンズ 『ザリガニの鳴くところ』メモ:
  https://tokinoma.pne.jp/diary/4222 (よみめも65 第2項 ※長め)


 旧式とはいえ十二分に精巧なAI搭載ロボットが神的「お日さま」を“心”に抱き、一方では生身の幼女がビルドゥングスロマンの軌跡を描く様は読ませるし、21世紀初頭の今日性も当代の文学潮流も卒なく踏まえる安定感はさすがの大作家と感心もする。 けれどもやはり、第一線を退きつつある野生動物学者が、生涯をかけた含蓄を一所へ注ぎ込む『ザリガニの鳴くところ』の奇跡的な発光に比べると、『クララとお日さま』はどうにも名作狙った感が全編パない。
 
 でもなんだろう。これよりは、PS4《Detroit: Become Human》の先に予感される体験のほうに、「文学」の鮮度を予感してしまうんだよな、圧倒的に。ちょっと『クララ』は攻殻の実写版、肉襦袢着てるみたいなんだよな。変な話。
 とはいえ。

 壁や床や天井のあちこちにお日さまの光模様ができていました。光の強さもいつもとは違います。化粧台の真上には濃いオレンジ色の三角形が現れ、ボタンソファには明るい曲線が引かれ、絨毯は光り輝く縞模様に包まれています。()
 お日さまの栄養が洪水のように部屋に流れ込んできて、リックとわたしは勢いに押されてよろめき、バランスを失いそうになりました。メラニアさんは両手で顔を覆い、また「くそ太陽」と言いました。でも、もう栄養の流れを止めようとはしません。
 ()
 ジョジーの寝ているベッド全体を、お日さまが強烈なオレンジ色の半円で包み、照らしています。ベッドのいちばん近くにいた母親が、思わず顔の前に手をかざしました。 401-2


 こういうあたりは、素朴に凄い。この狂ってる感を決め処で出す技術など『ザリガニ』にはまったくない要素だし、決め処の裏には抑制があり、その基底には全体を統べる調律の巧緻がある。今回はかなりの走り読みになってしまったので、これだけサゲ気味の印象を抱いた以上、再読の機会が余計に楽しみ。としておく。




3. エマニュエル・カント 『純粋理性批判 〈3〉』 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 〈わたし〉という観念のうちには、わたし自身の存在についての意識が含まれるが、これは直観ではなく、思考する主観の自律的な活動についての知的な観念である。だからこの〈わたし〉というものには、直観による述語のような性格のもの、たとえば持続的なもののように、内的な感覚能力において時間規定にかかわるものとして役立てることのできるものは、まったくそなわっていないのである(たとえば経験的な直観で物質において確認された不可侵入性が、こうした述語の一例である)。 196

 十代の名残りでなにか妙な出逢いがあるとユングの共時性みたいなものを感得する習性が抜けないのだけれど、たとえば埼玉県立近代美術館の《ボイス+パレルモ》展(本稿第7, 8項↓)へ出かけた際、ボイス作品《私はウィークエンドなんて知らない》(冒頭画像↑ Joseph Beuys, Ich kenne kein Weekend)では当の『純粋理性批判』がオブジェ展示されていて、それが美学的審級問う『判断力批判』でない点も込みでおおう、とおもう。けれどもこういう偶然に何かをみたがる志向が非カント的態度なのも明白で、そこへゆくとフロイトとユングの折り合いの悪さの極めて矮小卑近な相似形として、『純粋理性批判』とその通読からこの自分を遠ざけてきた何ものかとの断絶を感覚する。

 この国はいわば〈島〉であり、自然によって定められた不変の境界に囲まれている。この国は〈真理の国〉であり(魅惑的な呼び名ではある)、騒ぎ立つ広い大洋に囲まれているのである。この大洋は仮象のほんらいの住みかである、多数の霧の峰が広がり、すぐに溶け去る多数の氷山が聳えているために、まるで新しい国がそこに存在しているようにみえる。そして新たな土地を発見しようとさまよいつづけている船人たちにたえず空しい希望を抱かせ、新たな冒険を求める航海へと誘い込む。船人たちはこの希望を断念することも、その希望を実現することもできずにいるのである。 221-2

 ドイツ語の原著を密林注文した。ちょっともう訳文だけで考えているほうがストレスフルになってきた。これがフランスやイタリア原著ならまずは英訳に当たろうなどするだろうけど、ドイツ語の場合そうは判断しないんだなというのも少し新鮮。先生が美人だったのもあり、ドイツ語は高校時代少し詰め込んでたりする。のちに挑んだ中国語やタイ語は端から忘れていくが、十代の刷り込みは日常唐突に蘇ったりしてなかなか強力。頼りになるかは別として。
 
 図式とは、時間が規則にしたがってアプリオリに規定されたものにほかならない。そしてこの時間規定は、カテゴリーの順序にしたがって、すべての可能な対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括にかかわるのである。 184-5

 それはそうと、“どうもカント三批判書を読み終えてからでなければ、この自分の思考は始まらないらしい”という恐れを感じだす先駆けは、前世紀末すでに訪れていたと記憶する(“この自分”は自分の一部であって全部でない、という思考は18-9歳時に始まるのだけど以前も書いたし省略)。とすればいまだまともには読み通せてさえいないこの20年はいったい何だったかなどという実存の危機はさておいて、『純理』の冒頭部に異様な興奮を覚えたのはもう6,7年前のことになる。

 その異様さは、同時期に読んだハインラインやコニー・ウィリスに匹敵する、要はSF的面白さを含有するもので、理屈だけを研ぎ澄ませた結果の妙なる艶やかさ、エロティックな熱量を本気で感じかろうじて勃起には至らなかったはずだけれどむやみに他人へ勧めたりもして、謎の力説に及ぶ男に吉村昇洋などきっと当惑しただろう。いま振り返れば己の性癖を他人へ勧めるその変態性に恥じ入るばかりだが、この中山訳第3巻で久々にその感覚が蘇る。それは超越論的とか無限に触れるくだりで、ライプニッツ的神学世界観の排斥へ向かう仕草にある瞬間、かつて超弦理論だとか量子力学的パラドックスを巡る一般書やSF小説の描写に感じた種の煌めきをみてしまう。

 スピノザは、デカルトが実体と考えた思考と広がりは、実体の属性にすぎないと考えた。
 これにたいしてライプニッツは()、実体とは主語になるが述語となることがないものであるというアリストテレスの定義にならって、実体と属性の概念を、主語と述語の概念に類比する。そして同じくアリストテレスにならって、実体とは個体的なものだと考えた。「多くの述語が同一の主語に属し、この主語がほかのいかなる主語にも属さない[すなわち述語とならない]というとき、この主語が個体的実体と呼ばれるのは正しい」と考えたのである。 412-3[中山元解説部]
 
 

 共時性、の連なりでいえば、たまたま柳美里『JR上野駅公園口』(本稿次項)が荷物にある状態でキリスト新聞編集長と先日お茶したら、柳美里取材の可能性に言及された(未確定ですよ)ので荷から本を取り出し見せたときのしこたま驚き瞳孔開く編集長の反応が忘れがたい。それともう一つ、ツイッターTLで流れてきた「カントの物自体」言及。↓
  
  岩田健太郎 “カントの「物自体」は人間(医者)には感得できないので、まじで考えるとやっかいです。”
  https://twitter.com/georgebest1969/status/143065898385809...


 これは一見して違和感が先んじた。そこで「岩田健太郎 カント 物自体」でツイ検索すると、違和感の源が明瞭化され、要は彼のいう「物自体」はカントのそれでなく、むしろカントが本書で批判的に言及するところの「ライプニッツにおける物自体」や「実体」(ライプニッツ「形而上学序説」)にずっと近い。岩田健太郎が幾度も繰り返す「カントの物自体への漸近」とか何いってんだって話だけれど、クルーズ船の暴露ツイートをした功績を以後の彼がどんな失点を稼いだところで無効化することはたぶんない、という程度には(つまり病院/大学/霞が関など各方面から彼に批判を加える医系知識人のほとんどよりも)リスペクトする一人なので、こういうムーヴはどうかな、って正直おもう。本来公開しないのが筋であるはずの超個人的なものたちが、やたらむきだしになっちゃってるでしょ。

 判断力はだから〈生まれつきの才知〉と呼ばれる特殊なものであり、それが欠けているからといって、学校で教えることのできるものではない。()
 だから医者が病理学について、裁判官が法律について、政治学者が政治について、多数の立派な規則を弁えていて、その分野では優れた教師になれるほどの人物だったとしても、[判断力に欠けている場合には]その規則を適用しようとするとすぐに躓いてしまうことがありうる。 22-3

 
 


4. 柳美里 『JR上野駅公園口』 河出書房新社

 「東北の玄関口」であったかつての上野駅を色濃く記憶する、現在の上野公園に寝起きする東北出身のホームレス老人。彼が福島浜通りの原町出身であることから、その残してきた家族をめぐる回想はかつての大鉄塔から福島原発まで東北の近代史へと接続する。
 
 本作冒頭と終幕の舞台となる上野駅1,2番線ホーム、「山手線内回り」のホームとして語られ主人公が様々に重い想念を巡らすこの場所が、極私的にも10年に及び様々な感情や思考を伴い電車を待った登下校のホームであり、本作で執拗に精細描写される上野公園の知られざる事象の数々もまたかつて日々見聞し経験していたことゆえに、適正な距離を保って読めたとは言い難い。
 
 だから正直、皇族訪問時の上野公園におけるブルーテント一時撤去をめぐる細密描写は面白すぎるけれど小説のバランスとしてどうか判断がつかないし、「高度経済成長と東北」に主題を置く回想部と上野公園描写部がうまく交わらず乖離するようにも思えてしまう。思えてしまうがその受けとめ自体をまるで客観視できない。(上野と縁薄き一般読者にどう読まれるのか見当がつかない)

 西郷像から不忍池方向へ降りた路地の古い映画館(「エロっこ映画館」p.159)が、500円で朝5時までいられるため警察のホームレス「山狩り」時はここへ避難する、という記述はほほぅと思った。そういえばずっと昔、この映画館に入ったら浮浪者がたくさんいて驚いたという話を誰かから聞いたことがある気がするけれど、こういうことだったのかもしれない。

 ともあれ。終盤突如差し込まれる孫娘のくだりは衝撃的。唐突に始まる東日本震災時の津波描写なのだけれど、リスクを背負っても犬を助けに行かない選択肢はなかったろうこの孫娘と同じようにして避難とは逆方向へ突貫した人々もあの日多くいたことはまったく想像に難くないし、そういうことを同日午後東京の丸ビル構内で空撮報道を観ていた自分はしかし想像できていなかった。波に追われている白い車を覚えてる。
 
 そういえば最近、あの空撮報道をしてその後退職した元カメラマンが、手記か何かを発表してたね。あとでみようとサイトに付箋を貼ったまま忘れていた。あとでみよう、あとで読もう。そう思ったことどもさえも、すでに処理が追いつかない。何に追われているのだろうね。
 



5. 村上春樹 『女のいない男たち』 文藝春秋

 “『神の国の子どもたちはみな踊る』や『レキシントンの幽霊』の頃に予感され、期待した方角とはだいぶ異なるけれど、これはアリ。とってもアリ。職人的に研ぎ澄まされた巧さと、表出される揺らぎの細やかさ。ただ、「まえがき」はいらなかった。らしくないのか、らしいのか。”

 とは、2014年初読時のメモ(よみめも11)全文。1ツイートにおさまるスッキリ感。しかしかなり覚えてなかったので、あまり集中して読んでなかったと思われる。バンコクに住み始めちょうど一年がたつ頃で、いろいろ気忙しかったのは覚えている。
 



6. 三中信宏 『読む・打つ・書く 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』 東京大学出版会

 以前に『系統樹曼荼羅』という本を手にとり、興味はもったもののそのままになっていた著者の新著が読書と執筆をめぐるものと知り、手にとる。今度は読んだ。『系統樹曼荼羅』以前にも幾度か名をみかけてきたけれど、荒俣宏よりは研究者寄りの理系作家というイメージをもっていたので、農水省系の国立研究機関に在籍してン十年という経歴はかなり意外。
 
 およそ外部に漏れ出ることの少ないそうした研究所の日々めぐる記述は新鮮で読み応えある。この著者の筆力なら、このパートだけ膨らませて本にしても絶対に面白い。とはいえ読む&書くめぐるハウツーこそ本書の主調ではあって、その面では終盤おもむろに登場する、いたって真っ当かつシンプルな言明が強くて良い。

 文章を「たくさん書く」ために本書が提示する心構えはとてもシンプルだ。それは徹底的な「スケジュール派(schedule-follower)」であれという一点に尽きる。著者の言うスケジュール派は【時間確保】【計画厳守】【弁解無用】の三箇条を死守する。 259
 
 たとえば本を書こうとするならば、唯一たいせつな点は「飽くことなく毎日続けること」だ。()この単純きわまりない〈整数倍の威力〉によりびっくりするほどするすると本が書けてしまうことをぜひ体験してほしい。 315

 
 弁解無用。

 読んだ本の記憶をめぐる、メアリーカラザース『記憶術の書物』からインゴルド《線》の文化人類学、カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』へと展開するくだりは熱い。以前ならメモに書き写すに足る熱量を感覚したが、今はしない。
  
  カルロ・ギンズブルグ 『歴史・レトリック・立証』
  https://tokinoma.pne.jp/diary/2972 (よみめも45 魂消る) 


 電子書籍では再現不能の、紙の書籍がもつ個体=トークンとしての価値に言及するくだりは具体的で説得的。かつサイレントフィルムの可塑性を想起させる。




7. 豊田市美術館 埼玉県立近代美術館 国立国際美術館 『ボイス+パレルモ BEUYS+PALERMO』 ‎My Book Service Inc.

 ヨーゼフ・ボイスと、33歳で夭折した異色の教え子ブリンキー・パレルモ。

  鑑賞ツイ: https://twitter.com/pherim/status/1430127573351112717

 色彩と平面に固執したパレルモこそ、核心部で己に最も近いというボイスの述懐を実作で検証。結果、社会彫刻や緑の党結成など政治性が前面化しがちなボイスの詩性浮き上がる好展示でした、の図録。

 上海なりシンガポールなりジャカルタなりを脇目に、美術館の質さえ目下没落傾向やむなしの日本だけれど、激烈コア向けな好展示をこの水準で地方の公立美術館が成立させる力は、いまだアジア唯一だなと。

 図録収録読み物は、各開催館担当学芸員の3論考+送り出しの独側2論考他。豊田市美・鈴木俊博論考がやや情緒際立ち、熱い。
 粗い物質感際立つ装丁+どっしり重量感はボイス寄り。




8. 『同時代の眼∨ ブリンキー・パレルモ』 慶應義塾大学アート・センター

 《同時代の眼 ∨「ブリンキー・パレルモ」展》として慶応三田で2015年に開催されたパレルモ展カタログ、らしい。そんな場所があることすら知らず、埼玉近美のショップで手にして前項カタログよりサイズ、内容のまとまりともにコンパクトなのが気に入り購入。
 
“ ぐるりと周囲の海に囲まれたことのない人には、世界というものも、世界と自分との関係というものも理解できるものではない。偉大にして単純な線は、風景画家としてのぼくにまったく新しい思想を与えてくれた。”
 ゲーテ「イタリア紀行」1817





9. 『グッとくる昭和ホビー (別冊グッズプレス)』  徳間書店

 トミカやガンプラ、ミニ四駆やチョロQ、ビックリマンシールにキン肉マン消しゴムなどなど懐かしのおもちゃたちの奔流に惹かれ図書館から借りだしたら、そんな期待値に応えるレベルでなく、商品単位の個別商品水準で手触りさえ蘇るギミックたち。2cm大のスーパーカー消しゴムとか、車ごとの固有名知らないまま遊んでたよ。それがズラズラと掲載され尽くしてる。マイナーゲームから姫路城・大阪城プラモまで。さらにはタミヤRCのホットショット、これはすこし悲しい思い出(わりと完成してすぐ混線から致命的な故障を起こしてしまった)

 シール裏のキャラ説明とかキン消し頁のトーナメント表とか、キャラ単位でけっこう覚えてることに驚くし。30年間1度もチューンナップしなかった記憶たちだよ、いったい何のために覚えてるんだ、とか楽しすぎるので密林にて中古購入。こうして1cmごと続々と本棚に埋もれゆく我。




10. 岡本聡子 『中国の若きエリートたちの素顔』 アルク出版

 中国本土の経済的プレゼンスが今日とは文字通り桁違いに小さかった2003年に、上海にあるCEIBS中欧国際工商学院にてMBAを修了した女性の体験記。MBAといえばビジネスエリート=欧米留学が自明であった当時において周囲の反対や心配を押し切り、近い将来の中国の圧倒を確信して上海へ向かう彼女は極めて少数派だったが、20年とたたない現在その先見性は誰の目にも明らかとなりにけり。
 
 留学生としての日常描写の半分近くが、「日本人であること」の苦闘に割かれているのが生々しい。と同時に、当時個人的にはまだうっすらとしか感じていなかった、「実は上海人のなかには日本人より洗練されている層がもう現れだしてるよな」という感覚の由来にも行き当たった感。日本の世間的には「中国人」といえばマナー悪いガラ悪いの代名詞だった頃だ。ってこれは今でもそうかもしれないが、今と18年前とで異なるのは「日本人」の情操面モラル面における致命的な劣化のほうだ。多くの人はこれに気づけないまま、いまだ日本人をなにかと特別視し、相対的に“上品”だと思いたがる。そう思いたがることそのものが何を示しているのか、と疑いをもてないところまで余裕をなくしているとすればまぁ、の。

 本書の出版は2005年で、その後の彼女がどうなったのか気になり検索。一応見つかるが以下略。
 
 バンコク会社在庫の一。




▽コミック・絵本

α. ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 7 小学館

 細川勝元と山名宗全の対立は膠着のまま両者高齢化、新九郎は京と備中の領地を往還する生活へ入り、疱瘡と赤痢の流行が宮中を襲う。この疾病流行と新型コロナがガチ被りする天才仕草はさておいても、この描写の抑制ぶりはまぁ凄い。熱い夜を過ごした那須の姫様が隣接領地のライヴァルへ嫁入りしてしまうにしても、勝元の政元への引退相続宣言にしても、十分に劇的ドラマネタにできるのに敢えてしない。しないのは『新九郎、奔る!』がそういう作品を志されてはいないからだけど、これは若い漫画家では絶対にできない身振りだろうから、そうしたあたりも込みでこの素材を選んでいるのだろう。
 
 この重層性を楽しめる、そこまでジャンルとしての漫画が深まっているという意味で、これは実際ゆうきまさみにしかできないチャレンジだし、なおジャンル全体の深化の尖頭を切っている。そこが凄い。

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β. 山田鐘人 アベツカサ 『葬送のフリーレン』 3-4  小学館

 かつての伝説的勇者PTの旅路をたどる、凸凹PTによる珍道中。
 
 いかにもRPG世界観らしい、頑固なお婆さんからのお使いクエを繰り返すことで望みの情報を手に入れるくだりが序盤にはない新鮮さ。生きるNPC要素の確信犯的投入がブーストする、実存的輪郭線の明瞭化路線。ボケちゃった老戦士の、若くして亡くした愛妻めぐる記憶復活とか、締めを描き切らないあたりが本当に良趣で唸る。この噛み応えある巧さはずっと味わっていたいやつ。

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γ. ゾルゲ市蔵 『8bit年代記』 マイクロマガジン社

 いなださんのお勧めにて、ネット上で読む。https://www.mangaz.com/book/detail/45521

 本稿第9項『グッとくる昭和ホビー』にも通じる烈しい懐かしさ。全編ゲーム史マンガかと思いきや、高校時代の映画製作パートもやたら濃く熱く面白い。まったく評価していなかった先輩の実写映画に敗北感抱く場面とか、あとから振り返ると屈託深い大人だけど子供の頃にはヒーローに見えてたアラサー兄貴とか、うーん少年期&青春だなぁって。

 けっこうな量だったけれど、この無料公開分で完結なのか、また紙版の出版社表記がこの場合妥当なのかわからじ。ネット上で一冊以上読み通すことも、今後は増えるのだろうけど。
 



δ. バージニア・リー・バートン 『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』 むらおかはなこ訳 福音館書店

 ひたすら黒くも思い出深い絵柄に惹かれ、図書館棚で目につき借り出し、なっつかし~って読み終えてから奥付をみて驚く。村岡花子訳だったのね。ひらがな表記だし別人かもと調べてしまった。こどもの頃にはわからないこととして。

 後半にでてくる新幹線みたいな「さいしんしきの きしゃ」の流線型ボディが街や森をS字に駆け抜ける絵とか、めっちゃ強烈に覚えてるんだよな。線路際と森奥の夜の昏さ。
 




 今回は以上です。こんな面白い本が、そこに関心あるならこの本どうかね、などのお薦めありましたらご教示下さると嬉しいです。よろしくです~m(_ _)m
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